無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年09月30日(金) いつものビョーキが出たみたいですが/舞台『blast!(ブラスト) supported by ヒュンダイ』

 しげ、朝から体調崩す。
 いきなり朝の四時か五時に起こされて、「今日、サンパレスに行かんけん」とか言い出すので、何事が起こったかと、朦朧とした意識の中で事情を聞き質すのだが、何を言っているのか全然分からない。
 本当は、今夜しげは、福岡サンパレスで、マーチングバンド・ショー(と言うよりはドラム&ビューグルによる演奏パフォーマンス)の『blast!(ブラスト! supported by ヒュンダイ)』をよしひと嬢と見る予定だったのである。
 つい昨日までは、「明日は(夕方から舞台を見に行くから)仕事帰りに迎えに来れんけん」と楽しそうにしていたのに、いきなり「チケット譲るからあんたが行って」と言われても、私の方は当惑するばかりである。
 「どうしたん? いったい」
 「具合悪いと」
 「『今は』やろ? 夕方まで休んで、調子がよくなったらそれから出かければいいやん」
 「行っても持たんよ」
 「だからどう具合が悪いん?」
 「分からん」
 まるで埒が明かない。
 仕方がないので、チケットを譲られるが、なんだかメンタル面からちょっと怪しげな感じで、ほったらかして自分だけ舞台を見に行くのは心苦しかった。
 でももちろんチケットを無駄にするのはもったいないので、しげをほったらかして出かけることにする(外道)。
 でもね、何しろね、私ももともと行きたいことは行きたかったんだけれどもね、今月は見たい芝居が重なっててさ、ン万円もするチケットを何枚も買えるほどの余裕はなかったのよ。だからS席もあきらめて三階A席ン千円で妥協したし。

 仕事では、いきなり夕方に会議を入れられて、勤務時間内に終わるのかどうかハラハラしたが、なんとか3分押しで終了した。ちょっと走って電車に駆け込む。
 よしひと嬢からは何度かしげの容態を心配するメールが入っていたが、それまで返事する余裕もなかった。何とか電車内で待ち合わせの時間と場所を確認して、博多駅で落ち合う。女同士で楽しく盛り上がれるはずのところを、中年のみすぼらしいオヤジが乱入したようなもので。全く申し訳ない限りである。

 サンパレスの近くの定食屋で、ざるそばカツ丼(なかなか豪快なコンビネーションである)を食べる。カツの肉が安くて硬いのを卵で誤魔化そうとしている感じ。不味いとまでは言わないが、器をざるそばとカツ丼、合体させた横長長方形の弁当箱に入れて出すのはどうか。持ちにくく食べにくいことこの上ないのである。
 
 開場時間のすぐあとくらいにサンパレスに着いたが、福岡で一番大きな劇場なだけに、長蛇の列がハンパではない。ダフ屋も何人いるか分からないくらいで、「チケット買うよ」の声があちこちで連呼されている。
 指定席だから慌てる必要はないのだが、行列の最後尾にまで回ると、開演時間までまだ20分もあるというのに、間に合うかどうか不安になる。何とか10分ほどで入場できたが、パンフレットを買ってトイレに行ったら、席に着けたのが開演直前だった。
 客席は三階までの約2300席が完全に満席、立ち見も出ているようである。よしひと嬢が「凄いですね、人気あるんですね。私が知ってるくらいですから」と仰るが、これは謙遜で、舞台だけでなく、音楽、映画方面など、結構いろんな分野に幅広く目を光らせている。
 「博多駅が改装されて、シネコンが入るらしいよ」と私が言った途端に「でもシネ・リーブルは大丈夫ですよ(=潰れたりしませんよ)」なんて返してくるし、だいたい「マンガ同人誌を買い込んだ紙袋を持ってコンサートホールに乗り込んでる客」なんて、この劇場中に彼女以外にいないことはまず確実である(笑)。

 舞台は素晴らしいの一語に尽きた。
 日体大の行進パフォーマンスに似てるなあ(笑)、とか感じたのは実はそう的外れでもなくて、パンフレットの解説によれば、『ブラスト!』のルーツは軍隊の訓練行事で、それが「ドラム&ビューグル・コー」と呼ばれる集団パフォーマンスに発展したものだとか。
 ビューグルという金管楽器(トランペットに似ている軍隊ラッパ)とドラムを中心としたチームが、マスゲームのように演奏をしながらパフォーマンスを繰り広げる。言葉でその魅力を伝えるのはなかなか難しいが、三階席から見ると、ラヴェルの『ボレロ』を演奏しながら、上手のビューグルの一団と、下手のドラムの一団が、「踊りながら交錯しても全くぶつからない」その美しさが、奇跡的にすら見える。
 特に私が感嘆したのは「日米ドラムチャンバラ」とでも言うべきパフォーマンスで、目にも止まらぬ早業でドラムを連打する二人のパフォーマーが、スティックでチャンバラを繰り広げる間、少しも音を途切れさせることなく、縦横無尽に舞台を駆け回るのだ。映画『ドラムライン』の「バッテリー・バトル」を想起せられたい。これを日本の石川直(いしかわ・なおき)と、デヴィッド・コックスの名手二人が競い合うのである。面白くならないはずはない。
 全く、こんな「体育会系のコンサート」は初めてだ。なんたって、演奏中「シンバルを二度鳴らすだけ」のパフォーマーですらずっと「踊っている」。オペラグラスで確認すると、もう女性の腕も『筋肉番付』の出演者かと思えるほどに筋肉付いているし、足腰のバランスも、右足から左足、倒れて回転して起き上がってというムチャクチャな重心移動でも崩れることが全くない。しかもそれが全て「楽器を演奏しながら」なのだ! もう客席は一極終わるたびに驚嘆と感激の大拍手である。
 詳述していくとキリがなくなるので、あとは演目だけを紹介しておきたいと思う。

 ボレロ
 カラー・ホイール
 スプリット・コンプリメンタリーズ
 エヴリバディ・ラブズ・ザ・ブルース
 ロズ
 シンプル・ギフト/アパラチアの春
 バッテリー・バトル
 メディア
 カラー・ホイール・トゥー
 クラプキ巡査
 レモンテック
 タンジェリンアマデッジ
 ランド・オブ・メイク・ビリーヴ
 スピリチュアル・オブ・ディ・アース
 マリンバ・スピリチュアル/アース・ビート
 マラゲーニャ

 有名曲ばかりを並べる媚びたラインナップではないことにご注目いただきたい。ありきたりのコンサートだと、必ずディズニーとかが混じるもんね。
 しかしラヴェルの『ボレロ』は、映画『ネオ・ファンタジア』と言い、『愛と哀しみのボレロ』と言い、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』と言い、「映像」と実に合うことである。

 感動と興奮の二時間が、あっという間に過ぎる。
 冗談ではなく、本当に時間が過ぎるのが短く感じられたのだ。相対性理論は正しいと実感(笑)。これだけいろいろ書いても、全然『ブラスト!』の面真の白さは伝え切れてはいないので、興味を持たれた方はぜひ、DVDででもその魅力を味わっていただきたいものだと思う。それにまた来年も来日するそうですよ。

 コンサート、ライブ系ももっともっと見に行きたいんだけれど、金は無尽蔵には続かないのである。よしひと嬢も「どうしてもライブが中心になっちゃいますね」と言われていたが、私の場合、ライブを中心にするとそれこそ際限がなくなるくらい好きな歌手が多いので、歯止めが利かなくなるのは目に見えているのである。
 ああ、でも『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の福岡ライブは見に行っときゃよかったと今でも後悔している。コンパイ・セグンドも今は亡い。

 帰宅すると、しげ、見た目はそんなに体調が悪くなさそう。
 ほか弁を土産に買って帰ったので、機嫌はすこぶるよろしい。これならちょっとだけ無理をすれば舞台を見にも行けたんじゃないかと思ったが、まさか私に舞台を見せたいがためにわざと仮病を使ったんじゃなかろうな。


 「金曜ロードショー」で『スネーク・アイズ』を見る。
 昔、見たけど、久しぶりに見ると結構ディテールを忘れていた。この映画あたりから、ゲイリー・シニーズの本格的なファンになり始めた。シャープな悪役が一番冴えているが、吹き替えで見るとちょっと「甘く」なっている気がする。寺杣昌紀さんの声、嫌いじゃないんだけれどねえ。


 テレビのニュース画面に、「阪神優勝で大暴動」の文字が躍っている。
 また大阪のど阿呆どもが、と、大阪とゴッサムシティには住みたくないものだとつくづく思うが、二年前に比べればあれでも随分おとなしくなったらしい。
戎橋の飛び込みも、5300人から62人に減ったとか。もっとも、これは橋の周囲に3メートルの高さのフェンスができたおかげも大きいようだ。それでもそのフェンスによじ登り、あえて飛び込もうってやつもいるのだから(まあ野球場でもフェンスに飛びつくやつはいるしなあ)、こりゃもう、仮に落ちて死んだとしても同情は全くできないのである。
 どこでも馬鹿はいるものだで終わればそれまでだが、何がそんなに嬉しいのか、ここまでヒートアップするのは大阪くらいのものだろう。馬鹿やるにしても限度があるというもので、暴動まで起こしてちゃそりゃただの犯罪者の群れだ。二年前から言っていることだが、人道的立場から言えば、人死にも出るし(飛び込んだやつだけとは限らない)、阪神の優勝は何としても阻止しなければいけないのである。止めたって止まらねえやつらが(つまりはヤクザと同じ)のさばるんだもの、日本シリーズで勝たせたりしちゃいけないよ。
 あるいは逆に、「馬鹿なんていくら死んでも構わない。世の中から馬鹿を駆逐しよう」という発想に立つなら、もっとフェンスを高く、10メートルくらいにして、飛び込んだやつは確実に死ぬくらいにしたらいいんじゃないかと思うが、大阪警察もそこまでは踏み切れないようで、まだまだ甘いのである。
 でも、たかが野球で暴動が起こる。トバクが横行し、選手の不祥事は相次ぐ。たかがサッカーなのに、国際紛争すら起こりかねない。いい加減で「スポーツは健全な精神を育成する」という錯覚を持つのは止めにしないかと本気で思う。話は全く逆で、健全なやつがスポーツをすれば健全になるし、不健全なやつがスポーツをすれば不健全なやつになるってことなのだ。
 オタク話にスライドさせれば、作品は面白いけど、その周囲で何やかやと毀誉褒貶喧しいファン連中は鬱陶しい、というのと同じ理屈ね。あそこで飛び込む連中はメンタル面ではキモオタ連中と全く変わっちゃいないんだから、もっと罵倒してやらないと自分たちがどれだけ公序良俗に反する気色悪い行為を世間に巻き散らかしているか、自覚できないのだ。「まあお祭りだから」みたいな軽い気持ちで許してやったりしてたらどこまで増長するか、分からないよ。あれで「人に迷惑はかけていない」つもりでいるんだから。


 「イッセー尾形のホームページ」に、ようやく北九州小倉ワークショップのレポートが掲載され始める。
 今日の段階ではまだ初日と二日目だけだけれども、私が参加できなかった昼の部の内容も垣間見えて面白い。
 「他人の歩き方を真似させる練習」なんてのは夜の部ではやっていない。「面白いことに、今回は『見本』となった参加者の歩き方の細かい特長を真似ようとしながらも、一番目立つ『首の角度』に注目する人は殆どいなかった」とあるが、この「見本」の二、三人の中にはしげもいたと思われる。重心が不安定で、「開いた足で常にブレーキをかけながら歩く」というかなりしんどい歩き方をしているのだが(おかげで何もないところでやたらコケる)、本人はいくら注意してもいっこうに改めようとしない。見た目が殆どペンギンかチャップリンなので、もしかしたらあれで「可愛く見られたい」とでも思っているのかもしれない。
 「首の角度に注目する人がいない」というのはなるほど面白い。本番の舞台でも「ハトって首動かさんと歩けんのやろか」というギャグを飛ばしていた方がいたが、人間も実は首でバランスを取って歩いている。そこに注目が集まりにくいということは、そこが人間にとって無意識的に「触れてほしくない」ウィークポイントであるからだろう。
 人は、演技をするとなると、意識していなくても「カッコよく見せよう」と振る舞ってしまいたがるものだが、脊髄から首にかけての「動き」は見た目のカッコよさよりも「身を守る」ことの方がどうしても優先されてしまう。バランスが不安定な人は妙に首を傾げたりしているし、足元が不安なら猫背になってうつむく。颯爽と歩いているように見える人も実はそれが本人にとっては一番重心を安定させる位置であったりするのだ。人によってそのクセはかなり顕著である。
 人はたいてい、子供のころに親や先生から「もっと背筋を伸ばして前を向いてまっすぐ歩きなさい」などと言われて歩き方を矯正させられようとした経験を持っている。ところがこれがなかなかうまくいかない。敵から身を守るためには堂々としていた方がいいと分かっちゃいるんだけれども、つい「及び腰」になってしまうようなもので、自分の身体のクセの方が優先されてしまうのである。
 だから、たとえ「他人の真似」であろうとも、心優しき人々は相手のウィークポイントを真似することを無意識的に回避してしまうのだろう。極端な例えではあるが、「身障者の真似をしなさい」と言われてためらうようなものだ。世の中には他人の形態模写が異様にうまい人とどうしてもうまく真似できない人とがいるが、これは技術的な問題ではなく、そういった心理的な問題があるからではないだろうか。他人の癖を真似ることに抵抗感を感じないのは、その意味では他人の心にズケズケと入り込むことのできるヒドい人間なのである(笑)。
 私も人からたまに「演技がお上手ですね」とか「立て板に水のように喋れますね」とか言われて誉められることがあるのだが、そういうときの私はかなり人の心を慮らない悪辣かつ残酷な人間になっているのである(気持ちがですよ、気持ちが)。そういう私を見慣れている人は「私は実は人見知りで無口で人付き合いも下手なんですよ」と言うと、絶対嘘をついていると決め付けてくるのだ。いくら説明しても信じてはもらえないというのはいささか困りはするのだが、まあ「どっちが本当の自分」という区別はないというか、全ての人間の言動は演技であるので、結局はどう受け取っていただいても構わないってことになろうか。一応、悪辣になっても他人を陥れるようなマネはしないし、善人のように見えて宗教に勧誘したりもしないのでご安心を。多分、私は、他人が思っているよりはフツーの人である。
 例えば、私のもう一つのブログ日記では、私のキャラはすっかり「ポエマー」(本当の英語は「poet」だよ。念のため。)になっているのだが、こちらの無責任日記に慣れている人が読めば「このウソツキ野郎」と思われるかもしれない。どっちがホントでもどっちがウソでもないので、まああまり頭を悩まさずに見ていただきたいのである。 
 ワークショップの話に戻すが、四日目には私たちの引っ込み思案な芝居振りに森田監督は泣いた、という話だったが、レポートを読む限りでは、初日二日目はまだそんなに心配はしていらっしゃらなかったようだ。思い返すだに、自分のカンの悪さと努力不足が身に染みることである。

2004年09月30日(木) 男が男に恋をする。まあ、自由だけどよ/DVD『鋼の錬金術師』9巻
2003年09月30日(火) 映画の栄華/『ロン先生の虫眼鏡』1巻(光瀬龍・加藤唯史)
2002年09月30日(月) 今時の格闘オタク/アニメ『天地無用! GXP』第1話/『Heaven?』4巻(佐々木倫子)ほか
2001年09月30日(日) 新人さんの名前は?/『不幸な子供』(エドワード・ゴーリー)ほか
2000年09月30日(土) 邪馬台国と背後霊と泥繋がりと/映画『モンティパイソン 人生狂騒曲』ほか


2005年09月29日(木) メモ書き更新

 北九州連続監禁殺人の新聞記事。
 松永太、緒方純子両被告の死刑判決の詳細を読む。動機の短絡さに暗澹たる気分になる。
 大阪寝屋川中央小3人殺傷事件の初公判で、犯人の17歳少年が殺意を否認。狂人が野放しになる現実に暗澹たる気持ちになる。

 敗戦直後の昭和天皇の苦悩を描いた、イッセー尾形、桃井かおり主演、アレクサンドル・ソクーロフ監督作品『太陽』の日本公開が決定。
 めでたい。右翼の妨害やテロがないことを切に願う。

 テレビで『世界の中心で、愛をさけぶ』
 『月刊ガンダムエース』11月号(角川書店)。
 『ぼくらが大好きだった 特撮ヒーローBESTマガジン』vol.1(講談社)。
 マンガ、大和田秀樹『機動戦士ガンダムさん』さいしょの巻(角川書店)。
 竹本泉『よみきりもの』9巻(エンターブレイン)。

 北九州芸術劇場から、チケットクラブの会員カードが届く。

 ワークショップの参加者の方から、住所録を送っていただく。「友達の輪」というのもこのトシではいささか気恥ずかしいが、嬉しい。
 逆に、理由も分からず、別の参加者の方から日記の閲覧を拒絶される。やっぱりいろいろ個人の事情があるのかなあ。

 夜中に、しげがまた「モスバーガー食べたい」と言い出して外出。太りたいのかな、しげは。 

2004年09月29日(水) 保険屋の勧誘を断わるには/久米田康治『勝手に改蔵 SPECIAL SELECTION』
2003年09月29日(月) 痛痒な腰痛/『だめんず・うぉ〜か〜』5巻(倉田真由美)
2002年09月29日(日) やっぱり被害に合うのはしげ。/アニメ『サイボーグ009・地上より永遠に』/DVD『マジンカイザー』第7巻最終話ほか
2001年09月29日(土) 郵便ポストが赤いのも/『エクセル▽サーガ』8巻(六道神士)ほか
2000年09月29日(金) Sashimiと震災の真実とバーブラと/『爺さんと僕の事件帖』2巻(しかくの)ほか


2005年09月28日(水) メモ書き更新

 職場でトラブル。
 頭でっかちなヤツラが多いとみんな苦労するねえ。派閥には近寄るまい。

 「東那珂食堂」で夕食。
 しげ、オムレツを取って更に玉子焼きを取る。卵に魅入られたか。

 映画『魁!! クロマティ高校』。ヘンな映画。

 『月間IKKI』11月号。『月館の殺人』、ますます佳境。
 モーリス・ルブラン『カリオストロ伯爵夫人』(ハヤカワ文庫)。
 マンガ、村枝賢一『仮面ライダーSPIRITS』8巻(講談社)。

 アマゾンに注文していたCDが届く。松井須磨子の『カチューシャの歌』。そのヘタクソさ加減にしげも驚く。第一号女優なんてこんなもんよ。

 永井豪が手塚治虫の『ブラック・ジャック』をリメイクしたいとかほざいているとか。他人の作品を頂かないと作品が描けないなんて、才能が枯渇したことを自ら表明してるようなもんじゃないか。

 『プルミエール』を見てたら、三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』が、生瀬勝久、筒井道隆、石田ゆり子、温水洋一、山寺宏一ほかの豪華キャストで再演とか。見たいけど、上京する金が今はないのだ(涙)。

2004年09月28日(火) 立てよ鉄人!/DVD『サムライ7』第1巻
2003年09月28日(日) 女優に有情/舞台中継『赤鬼 RED DEMON』/『砲神エグザクソン』6巻(園田健一)ほか
2002年09月28日(土) こんぴーたなんて使えません/『まいっちんぐマチコ先生』1・2巻(えびはら武司)/DVDBOX『電人ザボーガー』
2001年09月28日(金) さらば長嶋/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 始動編』掘検憤舵良和)ほか
2000年09月28日(木) 百鬼夜行とヤオイSFとデクノボーと/『イミューン ぼくたちの敵』(青木和)ほか


2005年09月27日(火) メモ書き更新

 『イッセー尾形とフツーの人々』で共演した方から、ほかの共演者の方の連絡先が分からないかという問い合わせあるも答えられず。

 父に送ればせの誕生日プレゼント贈る。
 天ぷら屋で食事。テレビでも紹介されたことのある店だが、味が思いっきり落ちている。不味い。でも飯を食わない親父の分も繰ったので、腹は苦しい。

 赤坂のガストで、今度の芝居について、「改フリ」の堤さん、富田さんと会食。参加予定者のOさんとも初めて会う。声をかけた男性が全員出てくだされば一応キャストは揃う参段。

 『火曜サスペンス劇場』最終回『事件記者・三上雄太(3)火サス25年の歴史に幕ラストにふさわしい涙の本格人間サスペンス刑事の娘の禁断の恋が招く殺意の十字架! 犯人逃走援助懲戒免職』。
 さすが火サス。タイトル書くだけで「メモ書き更新」にならない(笑)。
 先週の『刑事鬼貫八郎』の最終回を録り損ねたのは痛恨。

 マンガ、赤塚不二夫傑作宣 悗そ松くん』。
 島本和彦『アニメ店長』2巻。
 金田一蓮十郎『ハレグゥ』4巻。

2004年09月27日(月) 波瀾万丈……だったかもしれない一日/DVD『北九州モノレール』
2003年09月27日(土) のべつ差別/アニメ『妖獣都市』/『仮面ライダーSPIRITS』5巻(石ノ森章太郎・村枝賢一)
2002年09月27日(金) トンデモさんがいっぱい/オペレッタ『マリツァ伯爵夫人』
2001年09月27日(木) 「檸檬」って書ける?/『BLACK JACK ILLUSTRATION MUSEUM』(手塚治虫)ほか
2000年09月27日(水) とろける膵臓と行きずりの恋と膝小僧と/『おもいでエマノン』(梶尾真治)


2005年09月26日(月) メモ書き更新

 しげの深夜徘徊につき合わされる。
 体調崩して仕事休み。病院でやたら薬貰う。
 一日、寝て過ごす。

 ワークショップの打ち上げ、盛会の由。重畳哉。


 マンガ、久米田康治『さよなら絶望先生』第一集(講談社)。
 竹本泉『かわいいや』(芳文社)。 

2004年09月26日(日) To be or not....../竹本泉『トランジスタにヴィーナス』7巻
2003年09月26日(金) 真剣に死刑/『ワイド版 風雲児たち』16巻(みなもと太郎)/『サトラレ』5巻(佐藤マコト)
2002年09月26日(木) 鮎川哲也、死去/『手塚治虫の奇妙な資料』(野口文雄)ほか
2001年09月26日(水) 彼岸の人/ドラマ『ブラック・ジャック掘戞拭悒疋鵐ホーテのロンドン』(鴻上尚史)ほか
2000年09月26日(火) 泊まりの仕事で本も読めねえ


2005年09月25日(日) メモ書き更新

 『仮面ライダー響鬼』三十三之巻「装甲(まと)う刃」。
 布施はヘタ。公式ページがアクセス超過で閲覧できない。この騒動、オタク大賞にノミネートされるかな。

 台本は結局半分しか仕上がらず。
 書いても書いても終わらないのでいささか疲れる。
 でも赤煉瓦での会合はドタキャン続出でキャストが誰も集まらないというテイタラク。みんな、やる気あるのか?

 21日の日記、メモ書きだけしといた分を書き直す。

 ルクルで映画『ルパン』。
 若き日のアルセーヌ・ルパンだからあまりスマートじゃないが、かなり原作に忠実。でもある点で大きなどんでん返しあり。ルパンファンは必見。

 マンガ、小林尽『スクールランブル』10巻(講談社)。
 秋乃茉莉『新ペットショップオブホラーズ』2巻(朝日ソノラマ)。

2004年09月25日(土) だから鬱になってるヨユーなんてないんだって/『鋼の錬金術師 シナリオブック vol.1』
2003年09月25日(木) 文化の分化/『浪花少年探偵団』(東野圭吾・沖本秀子)/『探偵学園Q』12巻(天樹征丸・さとうふみや)
2002年09月25日(水) まあ、冷静な人間なんていないんだけど/『小説ウルトラマン』(金城哲夫)ほか
2001年09月25日(火) リアル・ホームズ/『トンデモ本の世界R』(と学会)/『けだものカンパニー』3巻(唐沢なをき)
2000年09月25日(月) 日記のネタはどこにでも/ビデオ『労働戦士ハタラッカー』ほか


2005年09月24日(土) メモ書き更新

 円谷英二の一の弟子、有川貞昌氏が死去。享年80。

 出張。相方と会えず。つか、私が行く必然性なかった。

 またまた台本書き。話がどんどん膨らんで長くなるばかり。終わらねえよう。
 ブログ日記始める。キャラ変えて。覗きたい人はメールくれるように。 

 ドラマ『金田一少年の事件簿 吸血鬼伝説殺人事件』。原作がアレだからな。
 でも美幸役の上野樹里はヨイ。

 読んだ本、江戸川乱歩全集『ぺてん師と空気男』(光文社文庫)。
 マンガ、原秀則『電車男 〜ネット発、各駅停車のラブ・ストーリー〜』3巻(完結/小学館)。
 あだち充『クロス・ゲーム』1巻(小学館)。
 香川まさひと・あおきてつお『島根の弁護士』3巻(集英社)。

 劇団ダンダンブエノの公演『礎』の放映日が決定。
 NHKBS2で、10月23日(日)深夜24:55〜26:42。
 私としげが客席でまず確実に映っているので、探してみよう(笑)。


 

2004年09月24日(金) 週末だけど週末じゃない/『なんてっ探偵アイドル』18巻(完結)
2003年09月24日(水) クノイチのミノウチ/『新天地無用!魎皇鬼』5巻(奥田ひとし)/『全日本妹選手権!!』5巻(堂高しげる)ほか
2002年09月24日(火) チチに弱い男ばかりじゃねーぞ/『アフター0 著者再編集版』3・4巻(岡崎二郎)ほか
2001年09月24日(月) 荒らしを起こして♪/DVD『マジンカイザー』1巻/『KUNIE』1巻(ゆうきまさみ)ほか
2000年09月24日(日) ○○と○○はどちらが臭いか…汚ねえな/『いつも美空』1巻(あだち充)ほか


2005年09月23日(金) 次回公演、始動・・・かな?/DVD『トニー滝谷』

 三連休の第一日。
 まとまって台本を書けるのが今日明日くらいしかないので、ひたすらパソコンに向かう。いつもなら、現実に芝居を打てるまではタイトルも中身も伏せておくのだが、今回はいささか勝手が違う。何たってp.p.p.劇団メンバーが殆ど出演しないという、前代未聞な事態に陥っているのだ。
 全くみんながみんな「裏方しかしたくない」なんて劇団があるものか、というよりはよくここまでこんな劇団が持ってたもんだと思うのだが、やる気のなさをいちいちあげつらったって仕方がないのである。「ショー・マスト・ゴー・オン」であって、一度立てた企画をそんなに簡単に流すわけにはいかない。だいたい製作のしげ自体、やる気があるのかないのか分からず、いつものごとく頼りない限りであるのは、キャスト募集を本気でやってる気配がないからだ。知り合いに声かける程度で人がそんなに集まってたまるか。
 しようがないので、執筆中の脚本の一端はここでご紹介することにしたい。ご興味のある方は男女を問わず、私なり、劇団ホームページなりにご連絡を入れていただけると嬉しいのである。

 タイトルは『デモクラシーの拾弐人』(仮題)。
 レジナルド・ローズの戯曲『十二人の怒れる男』はご存知の方も多いだろうが、日本では馴染みのない「陪審員劇」の傑作である。これを日本に持ってきたのが筒井康隆の『十二人の浮かれる男』や三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』であり、つまり和風「陪審員もの」は一つのジャンルとして成り立っていると言っていい。
 これを大正デモクラシーの時代を舞台として、博多・中洲にある明治時代の建造物を残した「赤煉瓦文学館」をそのまま劇場として利用して芝居を打とう、という発想をしげが思いついたのが企画の始まりなのである。
 舞台美術に関しては何しろ「本物」である。これくらい臨場感のある舞台はない。あとは台本の出来とキャスト次第、ということなのだが、いかんせん、p.p.p.の連中が殆どびびっちゃったおかげで、未だにキャストが全員決まらない。このままでは私まで出演しなければならない事態に陥りそうな気配なのだ。
 もちろん台本ではこの基本設定以外にも様々な「仕掛け」を施している。現段階ではさすがにそこまで公開するわけにはいかないのだが、上手く仕上がればこれはもう間違いなく面白くなると断言できる。しかし、役者が集まらなければ全ては机上の空論に過ぎなくなるのだ。
 福岡近辺にお住まいの方で、芝居に興味があって、土・日に比較的自由に動けて、来年三月ごろに暇を持て余している方なら、男女・年齢・経験を問わず誰でも結構です。一緒に舞台を作りましょう。
 脚本は鋭意執筆中です(笑)。

 台本ばかり根を詰めて書いていると、やはり息切れがしてくるので、時々ネットで先日の舞台、『イッセー尾形とフツーの人々』の感想を探してみる。
 新宮版は評判が悪いものが多い。「所詮はシロウトの演技」との感想が目に付く。
 それに反して、小倉版は意外なくらいに評判がよい。「シロウトとは思えない」なんて望外な好評すらあるほどである。
 同じようにシロウト参加のワークショップであるのに、この差はいったい何なのだろうか?
 一つヒントになるのは、小倉ワークショップに、新宮の人たちが参加して、ちょっとしたスケッチを演じて見せた時のことが参考になると思う。四日目、公演直前のことであるが、既に舞台装置が設置されて、最後のツメの演技が披露されていたときのことである。新宮での経験がきっかけになってお芝居に「目覚めた」のだろう、中年のお二人が小倉でも、と舞台に上がって「会話」を始めたのだが、これが全然面白くなかったのである。
 それまで、私たちは森田さんから「会話をするな」と厳命されていた。「会話をすれば途端に芝居が安っぽくなる」と。「日常、親子が、夫婦が相手の言葉をちゃんと聞いてるかい?」そう仰って、「受け答えをするな、関係ないことを喋れ」と言われ続けていたのである。おかげで、「問題のあるカップル」は、女が「お金返して」と言い続けるのに対して、男の方は「今日さ、婆ちゃんちに行ったんだけどさ」と無関係な話を延々とし続けることになっていたのである。ここで「火曜日には返すから」なんて言っちゃ、そこには「何もなくなる」と森田さんは仰るのだ。「関係ない話をし続けるから、お客さんは二人の間に『何か』を感じるんだよ、想像するんだよ」と仰っていたのである。 新宮の二人の会話は、まさに「何にもない」会話だった。小倉で指示していたのとは違って、新宮では「会話」を許可していたのだろうか?
 森田さんは、恐らくはワークショップを開いた街ごとに演出を変えている。新宮では「会話を行っても演劇が成り立つ」と判断したのかもしれない。となれば、小倉では「会話を成立させられない」と考えたということなのだろうか。小倉近辺の人間は常に心に隠し事やわだかまりを持ち、他人の言葉を聞かず、自己主張ばかりをし、その癖自分の気持ちを察してほしいと甘えているヤツラばかりだと考えたということなのだろうか。
 仮にそうだとしても、出来上がった芝居は、小倉の方が断然面白かったと私は思う。飛び入りの新宮のお二人さんは、「小倉の芝居には合わないから」ということで、結局出演はできなかった。やり取りの間はよかったけれども、会話がどう発展して行くのか、「その先を見たい」という気にはさせられなかった。小倉では、芝居の上手な人であっても会話は禁止されていた。許されていたのは「相手に切り込む」ことだけである。シロウトの芝居が少しでも見るに耐えるものになっていたとすれば、森田さんが新宮と小倉とでは演出を変えたことに理由があるように思う。

 そんなことを考えていたら、過去のワークショップ関係の日記も説明不足で言葉足らずな部分が多いように感じられて、いろいろ付け足すことになった。
 アップした直後に読まれた方は、何行かずつではあるけれども、加筆した部分がありますのでオヒマがあればご参照ください

 しげがマトモな食事を作らないので、だんだん気分が落ち込んでくる。スーパーで「エビマヨネーズの素」があったので、「これを買おうか?」と聞いたら、しげは「作ってくれると?」と目をきらきら輝かせて即答した。
 私は別段、「家事は女がするもの」なんて考えちゃいないが、何か美味しい料理を食べようかと考えた時に、「私に作ってもらえるもの」と思い込むしげのその根性が嫌いだ。こいつには相手に「美味しいものを食べさせてあげたい」という心遣いが根っから欠けているのである。
 私もせっかくの食材をインリン・オブ・ジョイトイのように無駄にしてほしくはないから、結局は「ああいいよ」とこたえることになるのだが、こういうことを引き受けていくと、うちの家事は全て私がしなければならなくなるのである。冗談じゃなくて、体調崩して仕事休むこともあるんだから、料理と洗濯と食事は必ず毎日してくれ。もう何十回その約束をしたか分からないが、約束した直後から、その約束は反古にされ続けているのである。
 だから、身が持たないんだってば。

 一日ゆっくり過ごして、映画を見たり本を読んだり。と言っても外出する余裕はないので映画はもっぱらケーブルテレビ。感想は全部書いてる余裕がないので簡単に。
 CS日本映画専門チャンネルで映画『帝銀事件 死刑囚』。
平沢貞通役の信欣三は好きな役者さんで、どの映画でもあまりに自然な演技をされるものだから『砂の器』で言語学者を演じていた時には本職の人を連れてきたんじゃないかと思ったくらいである。この映画でも、裁判で「警察に自白を強要された」と証言するあたりが、淡々と悲壮感が感じられない喋り方をするものだから、かえって「裁判的」でリアルなんである。
 続けて『社長道中記』『続社長道中記』。社長シリーズでも、こんな風に正続編になっているものは多いが、でもやっぱり筋立ての区別は付かないのである(笑)。これも見たことがあるのかないのか分からない。数年後にはやっぱり見たことがあるのかないのか分からなくなっているだろう。
 『ドラえもん』、主題歌が変わるとか言ってたけど、まだ女子十二楽坊のままだった。
 続けて『クレヨンしんちゃん』を流し見。もう感想書く余裕がない(笑)。


 DVD『トニー滝谷』。
 見に行きたくて行き損ねた映画は多いが、これはもう本当に劇場に見に行きたかった。昨日の日記では「トニー滝谷って名前はトニー谷から取ったんだろう」なんて書いたが、パンフレットによれば、原作者の村上春樹がハワイで見たTシャツに本当に「TONY TAKITANI」というロゴが書いてあったそうである。

 あまり面白みのない無機質的なイラストを描く中年男のトニー滝谷が、若い女性に恋をして結婚する。ところが彼女はいい奥さんではあったが、買い物依存症で、連日のようにブランド物の衣服を買わなければ気がすまない性格だった。「少し買い物を控えないか」とトニーに言われた翌日、彼女は交通事故で死ぬ。
 寂しさを紛らわそうと、トニーは一人の女性を秘書に雇い、彼女に「制服として妻の服を着てくれないか」と頼む。しかし彼女は、妻の遺した膨大な服を前に泣き崩れてしまう。
 その後、トニーは父を失い、そして再び孤独になった。
 これは、それだけの物語である。

 この映画の魅力は、特典ディスクの方で市川準監督やトニー役のイッセー尾形さんが詳らかに語っているので、何かを付け加えるのは蛇足でしかないのだが、原作の現実の中に潜む歪んだ人間の心理が、市川監督の静謐な語りで、リアルとも非リアルとも断定しがたい奇妙な味を醸し出し、一種心理ホラーのような様相すら生み出していると思う。
 「トニー滝谷の本名は、本当にトニー滝谷と言った」。
 ナレーションがナレーションとしてのみ語られるのであれば、それはただ映像に付けられた「解説」でしかない。ところがそのナレーションはしばしば唐突に、登場人物たちの口を借りて語られる。演劇ではよく行われる手法であるが、映画でこれを行うと、それまでリアルであった映像が途端に一つの「象徴画」と化すのだ。
 「象徴」とは即ち、映画の中だけだった物語が、我々観客の心の中に投げ出される瞬間である。我々はそれが「セリフ」ではないことを知っている。本当に人間は、脈絡もなく「ナレーションを語る」ことなどはないからだ。だからそのとき、その「セリフならざるセリフ」の意味が何なのかを考えざるをえない。そして、全ての言葉の陰に、人間が宿命的に持っている「孤独」があることに気づくのである。
 人はみな、孤独から孤独に帰るだけだ。映画の中のイッセーさんは、本当に爽やかで幸せな表情と、暗く沈鬱な表情との間を揺らめき続けるが、その表情すらも一つの「象徴」として、我々の心に問い掛けを続けている。あなたは本当の孤独に耐えることができるのですか? と。
 文学と映画の、一つの美しい結合がここにはある。



 読んだ本、夏目房之介『おじさん入門』(イースト・プレス)。
 このエッセイ集を読むまで全然知らなかったのだが、夏目房之介さんは昨年、離婚されていたのだった。三十年連れ添った相方との「熟年離婚」というやつだが、どんなに平穏に見える家庭であっても、そこには当人たちにとっては他人には計り知れない悩みや苦労があるわけで、それをそんな決まりきった陳腐な惹句で括られてしまうことを思うと、何とも悲しくて仕方がない。
 離婚の理由についてはあまり詳しくは書かれていないのだが、それこそ詮索したところで仕方のないことだろう。そういうことは後世の「夏目房之介研究家」がやってくれることで、フツーの読者をそれを待つか、あるいは待たなくったっていいのである。。夏目さんは短く「僕の不実や互いのあつれき」と書くだけであるが、それで充分だろう。
 タイトルの『おじさん入門』というのは、そんな出来事も含めて、「人生を知ろうよ」ってことなんだと思う。そのためには自分がどれだけものを知らなかったのかを知ろうとしなきゃならない。つか、自分に「分かってること」なんて殆どないってことに気が付かなきゃならないのだ。
 夏目さんは、長年、奥さんが「料理が好き」なんだと思い込んでいた。それが、別れる少し前に、奥さんから「義務感だけで作っていた」と告白されることになる。けれど、奥さんはそのことに気付いても、ずっと料理を作り続けたのである。それがなぜかは奥さんにも夏目さんにも言葉では説明できない。それが「人生の機微」というやつだと夏目さんは言う。
 人は確かに、人生(自分のも他人のも)に対して釈然としないものを感じることは多いし、納得できる理由を求めようとはする。けれど答えなんて得られるわけではないのだ。得られたと思えたとしても、客観的にはただの錯覚であることも多い。人と人とが、親子が、恋人同士が、友達同士が、仲間が、なぜお互いに付きあっていられるかは、常に「理屈を越えたところ」にその理由があるのである。逆にそこに理由を求めようとすれば、かえって間柄が崩壊してしまうこともある。「こいつのことなら俺が一番よく分かっている」、そんな風に「理解」してしまった時から、崩壊は始まると言っていいだろう。


 本の感想からちょっと離れて。
 私としげはよく離婚話をする。離婚を言い出すのはいつもしげだ。
 「離婚しようか」
 「いいよ、離婚届持っておいで」
 「で、次の日結婚しよう」
 「だったら書類のムダじゃんか」
 多分、私もしげも、この時「離婚しよう」と言いあっている時は本気でそう思って口にしているのだ。別れたあと、二人がどんな気持ちになるか、それもリアルに想像して、それでも「別れた方がいいかもしれない」と考えてそう言う。
 一緒にいても辛いばかりで、けれども別れたらどんなに寂しいか分からない。理屈の天秤でどちらがいいのか測れることではない。だからとりあえず私としげは一緒にいるのだろう。
 先は見えないけれど、お楽しみである。
 QUE SERA SERA。


 マンガ、森永あい『僕と彼女の×××(ペケ3つ)』3巻(MagGARDEN)。
 連続ムービードラマが10月から劇場公開だそうな。
 『転校生(オレがあいつであいつがオレで)』ほか、数多く作られてきた、「男女入れ替わりもの」の中ではこのマンガが一番カゲキなギャグを展開してるんじゃないかと思うが(いや、直接的にやらしー描写はないけどね、なんか登場人物たちの心の揺れ具合が何ともね)、実写化しちゃうとギャグがギャグとして機能するかどうか、ちょっと心配。桃井さんの役は『妖怪大戦争』の川姫の高橋真唯。女っぽい男と男っぽい女の入れ替わり劇だから、大半は「女らしく」演じてりゃいいんだけど、キモは本当は乱暴者な地の性格を演じきれるかどうかにかかってるんで、果たしてフトモモ見せる程度の演技力で演じきれるものかどうか。
 っつっても、福岡まで映画が来てくれないことには、見ることだってできないんだけれどもね。
 マンガの方は今巻でついに入れ替わりの事実が千本木にバレて、菜々子(中身はあきら)の貞操が危機に合うというヤバイ展開。まあ、身体がオンナなら、心はオトコでも平気なのかという、なかなか難しい問題がここには提示されているわけであるが、心が女でも身体はオトコなやつを相手にしたくはないのがノーマルなオトコだとするなら、これはまあギリギリセーフなのかとも思えるのである。でも、仮に私の女房の身体の中に親友の男の心が入ったら、やっぱりナニはできないがなあ。どうしたってナカミがよがる様子を想像しちゃうし。
 この手の入れ替わりモノは最後には元に戻るのがセオリーなんだけれども、このマンガばかりはそうならないような雰囲気もあるので、ハラハラして目が離せない。原作が完結しなけりゃ、映画の方だって元には戻らない理屈なんで、さあ果たしてどんなラストを迎えるのか、興味津々である。


 二ノ宮知子『のだめカンターピレ』13巻(講談社)。
よしひとさんちで見せてもらってたのをようやく購入。パリ編は番外編みたいな扱いかと思っていたのだけれども、千秋ものだめもちゃんとパリに馴染んできていて、二人の仲もどうやら進展しそうな気配である。ラブコメだったのかこのマンガ(笑)。
 二ノ宮さんが折り返しのソデ書きに「今回とっても好きなキャラがいます」と書いているが、さて誰だろうか。素直に考えると千秋が常任指揮者になることになったルー・マルレ・オケのコンサートマスターで、横暴・傲慢を絵に描いたようなトマ・シモン氏じゃないかと思えるのだが、多分、そんな素直なキャラじゃないんだろうな。
 となると、千秋をワナにはめたとも言えるデプリースト音楽監督か、「会員なんか辞めてやる!」のロランのおばあちゃんか、「チェレスタは千秋が弾くってどう?」のテオあたりが候補かなとも思うが、私は十中八九、「留学生のニッサン・トヨタ(仮名)」くんだと思う(笑)。あ、これ、分かんない人のために一応書いとけば、マルレ・オケがどんなところか偵察するために千秋やった変装だからね。
 ともかく、連続するトラブルのおかげで、逆に千秋とのだめの初共演が見られそうな気配である。次巻に期待。

2004年09月23日(木) クレーマーになんかなりたかないが。/『暗号名はBF』3巻
2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか
2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか
2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』
2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか


2005年09月22日(木) 何かを得た後で/『怪盗紳士ルパン』(モーリス・ルブラン)

 『イッセー尾形とフツーの人々』出演の興奮、未だ覚めやらぬ毎日を過ごしているところに、ワークショップ参加者の方から「今度『打ち上げ』をやりますので参加しませんか?」のお誘いメールがある。
 みなさん、あれだけ森田さん、イッセーさんにダメ出しされていたというのに、懲りてないんだなあと、もちろんこれは嬉しく感じている。
 「ともかく舞台に立ちなさい。それを経験することが大事なんだよ」と森田さんは繰り返し仰っていた。もちろん、出演者のそれぞれの演技には上手下手はあるし、見栄えのする人、見栄えのしない人、様々である。けれどもそんな違いを一切モノともせず、これまで演技経験など殆どない人々が果敢に舞台に挑戦していた。シロウトの怖いもの知らずと言われればそれまでだが、森田さんたちと一緒に付いて来たこのワークショップの企画者の方が、二日目の反省会の席で「みなさんが舞台に立っているということ自体がものすごいことです」と仰っていたことが、今も耳に残っている。ともかく他の会場と違って、今回ほど舞台が「形にならず」、森田さんが悪戦苦闘した舞台もなかったということである。「キャストのナマ声による効果音」のアイデアも、森田監督の苦肉の策だった。
 私なんぞは容姿には全く自信がないし、キャラクターとしての華もないと思っているので、公演が終わったあとでも、皆さんの足を引っ張っちゃってたろうなあと忸怩たる思いを感じている。けれどもそれは一緒に出演したフツーの人々みなさんが抱いていることだろう。前のスケッチの出演者が素晴らしい演技を見せる。その後では誰もが臆するのが当然だろう。いや、あのイッセーさんと同じ舞台に立って、そのイッセーさんに平然とツッコミを入れる我々というのはいったいナニモノなのだろうか。シロウトという立場を越えた「何か」がそこにあったとしか私には思えない。
 森田さんは「一人一人が責任を引き受けて舞台に立ったことが素晴らしいことだったんだよ」と仰っていたが、多分、出演者はそんな「責任重大」というプレッシャーすら考えずに(というよりは忘れて)、あの舞台に立ったのだ。だって立たなきゃなんないんだもん、仕方がないだろう(笑)。
 恐らく、この「北九州編」の人たちは、同じ舞台を共有した仲間というよりは、森田さんたちと、そしてお客さんを相手に戦った「戦友」のような感覚を持ったのではなかろうか。

 そういう次第だから、お誘いにはぜひとも乗りたかったのだが、当日は既に仕事関係の出張の予定が入ってしまっていた。集まりは夜ということだったから、当日のスケジュール次第では参加できる可能性もないわけではなかったのだが、何しろ北九州まで出張って行かねばならないのである。確約はとてもできないので、涙を飲んでお断りのメールを送った。残念無念である。


 仕事帰り、夕食は「パピヨンプラザ」の「ロイヤルホスト」で。
ロイヤルの会員になっている関係で、ちょうどしげの誕生祝いの20%割引ハガキが届いていたので、ちょっと遅れはしたが、バースデイ・パーティーである。こういうとき、「海の見えるレストラン」とか「ホテルのラウンジ」とかを予約できずにファミレスで誤魔化しちゃうところが庶民である。
 でもファミレスファミレスって言うけどさ、昭和30年代はデパートのレストランだって大衆にとっては「月に一度の大贅沢」だったんだからね。あの当時にロイヤルホストが存在していたら、間違いなく「高級レストラン」だと認識されてたに違いないんである。いや、今だって、「ロイヤルで食事するのは月に一度程度」って家庭は結構あると思うんだが。
 なんでこんなこと言ってるかっていうとさ、私がしげに「ちょうどバースデイ・パーティーになってよかったね」って言ったら、「これが?」って不満そうな顔をしたからなのだ。だからこいつは貧乏な生活が長かったくせに、なんで「足るを知る」ってことが感得できないかね。しげの一番イヤなところは、我慢することを「苦痛」としか捉えられないところである。カウンセラーの先生が「いいところは誉めてあげてください」と仰ることが理解できないわけではないのだが、メシ奢ってもらって「ありがとう」の一言も言えないやつのどこをどう誉めりゃいいのか。
「家事するから仕事辞めてもいい?」と、これまで何度騙されたか分からんセリフをまた信じてやって、それでまた家事しなくなったから仕方なく外食の日々を送っているのである。しかもその食事を作っていた時期だって、自分は自分の作ったオカズを食わずに、コンビニ弁当ばかり食っていた。そのせいでしげはこの数ヶ月で激太りしてしまっている。運動したって追っつきゃしないのだ。
 こうなるとまた給料を渡すのを止めなきゃならなくなるが、そこまで追いつめないと仕事も家事もしないと言うのもこれまでの繰り返しである。せっかくの誕生祝いの席で、しげの「未成長」をまた確認しなきゃ何ないというのは、何とも寂しいことである。

 「ヤマダ電器」でナマDVDをまとめ買い。
もう一つ、映画館で見損なっていたDVD『トニー滝谷』も出たばかりだったので購入。特別版で、メイキングと感得、キャストのインタビュー付きの二枚組。
 原作者の村上春樹はこの奇妙な主人公の名前をまず間違いなく「トニー谷」から取ったと思しいが、そのあたりについてきちんと論考した(あるいは村上春樹にインタビューした)文章って、あるんだろうか。文芸批評が死んじゃってるのも、“庶民なら誰でも気付く”そういう着目点をあえて無視するスノビズムにあったと思うんだけどね。


 帰宅して『電車男』の最終回を見る。
 今にして思えば、映画版や舞台版が「電車男」役にイケメン俳優を配役したのは正解だったかな、と思う。別にいちいち「元ネタ」とやらを詮索しないまでも、これは「美女と野獣」バターンのドラマの現代化なのであり、だから「君はあの美女に比べると醜いけれども本当はいいヤツなんだよ」と言ってあげられる要素が「野獣」側にないと、そもそも成立しない物語なのである。で、主役がイケメンであれば、たとえアキバ系のファッションに身を包んでいようが、女の子たちは「素材はいいんだから、勇気とファッションだけ何とかすりゃいいじゃん」と感情移入しやすいというわけなのだね。
 だから、テレビ版が伊藤淳史を主役に持ってきたというのは、これは女の子ファンよりも男の子ファンの方をターゲットにすることの方を選んだんだろうなと思っていたのだが(伊東美咲をエルメスにってのも、今なら中谷美紀よりもオタクな男どもには「萌え度」が高いだろうという製作の判断があったからじゃないかな)、まあまあ女の子ファンも付いてはいたようである。でもそうなると「伊藤淳史でもいいのなら」と勘違いするキモオタ男が増えそうで、幻想に惑わされた鬱陶しい連中がまたまた蔓延しそうな気もして何かいやだ。
 主人公が主人公らしくなくて、ネットの住人たちの方が実は物語を牽引・誘導していく主役である、という構図は面白くはあったが、つまりはそういう「手助け」がなければ主人公が一人では行動できないおよそドラマの主人公としては不向きなタイプであったことは事実なのである。だから通常の「感動のシステム」を考えた場合、たいした努力もしていない、やたらウジウジする腑抜けたやつを中心に据えたドラマに感動できるってのは通常ならありえないわけで、この程度の「努力のハードルの低い物語」に涙できる連中がいるってことは、それだけみんなが「楽に生きて、でも優しくはしてほしい」なんて甘え腐った考え方を基本に置いてるからじゅないかという気がしてならないのである。
 つか、私の身の回りでは感動してるやつについぞお目にかかってはいないのだが、どこかにいるのか? 『電車男』に涙したなん情けないやつ。
 まあこの「電車男」が実在するのかしないのかという「真贋論争」には興味がないが、この物語の流れが「作りものっぽい」のは事実で、それを言えば『セカチュー』も『イマアイ』も、「こんな安っぽいドラマで涙できるなんて、今の若手連中は何てオキラクになってしまったんだ」って点では『電車男』と話は共通している。せめてさあ、「オタクがなぜ気持ち悪いのか、けれどそのことを自覚しつつもなぜこのオタクに惹かれてしまうのか」という視点がなきゃ、ドラマとしては成立しないんじゃないかと思うが、結局映画版もテレビ版も、そこんとこには突っ込まなかったからね。しずかちゃんがのび太のことをなぜ好きになるのか分からないように(笑)、「エルメスは天然だからオタクでも平気」とでも考えない限り納得ができないのである。
 だからそのへんのキモオタ諸君、「自分にもいつかはエルメスみたいな人が」なんて幻想は絶対に抱かないようにね。君は一生、女性と縁はありません。そう覚悟しなさいよ。そこからしか実は道は開けてはいかないんだから。


 読んだ本、モーリス・ルブラン『怪盗紳士ルパン』(ハヤカワ文庫)。
 映画『ルパン』の公開に合わせた新訳である。しかもハヤカワミステリ文庫初収録。30代、40代のルパンファンの多くは、ポプラ社版の南洋一郎訳『怪盗ルパン全集』でこのシリーズに親しんでいたと思うが、正直な話、あのシリーズはモーリス・ルブランの原作に依拠した「翻案」と言った方がよくて、のちに偕成社から出された完訳シリーズと比べると、まるで別物というしかないものだった。
 ポプラ社版の中には、ボアロー&ナルスジャックによる続編シリーズや、南洋一郎が勝手に書いた『ピラミッドの秘密』なんてのまであって、そのくせ、ルブラン最後の長編『ルパン最後の事件(アルセーヌ・ルパンの数十億)』は収録されていないという、ルパンを知らない若いファンにその世界を味わってもらうには甚だ不出来な代物であった。じゃあ偕成社版の方がいいかと言うと、へんに装丁に凝ったものだから、いささか「かさばる」印象があるのである。新潮文庫は既に訳が古臭くなってしまっているし、やはり全シリーズを収録してはいない。文庫で入手しやすいシリーズが出ないものかなと思い続けていたのだが、ようやくハヤカワが重い腰を上げてくれたというわけだ。
 『ルパン』シリーズの真髄を味わうには、同時発売の『カリオストロ伯爵夫人』よりも、こちらの最初期の短編週の方が初心者には適当だと思う。今回読み直してみて、そのトリックが後の他作家によってパクリにパクられているにもかかわらず、叙述の妙によって、いささかも古びていないことに驚いたのである。
 ああ、トリックバラすことになるので書けないんだけれども、この「ルパン」シリーズも、トリックとして優れているのは、作品中のルパンが仕掛けるトリックの方じゃなくて、モーリス・ルブランの「筆」なんだよなあ。それを忘れて中身だけパクっても、「ルパン」シリーズの真髄は決して味わえないんである。

 
 マンガ、とり・みき『クルクルくりん』1巻(ハヤカワ文庫)。
 ハヤカワ文庫のSFマンガ復刊シリーズ、『るんるんカンパニー』より先にこっちが出た。まあ、売れ線考えたら当然そうなるのかもしれないけれど、そのワリには表紙の描き下ろしくりんが全然可愛くないのはどうしたものかね。
 まあ、私が『くりん』を買うのもこれで三度目なわけで、その三種類を全部比較できることにもなるのだが、基本的に原稿自体は2度目の刊行のときに「あまりにも下手な絵を描き直した」ものを踏襲している。どうやら「3度目の描き直し」はやらなかったようだ。これ、やりだすと際限がなくなっちゃうからね。同時に2度目のときにやった「現代だと分からなくなっているギャグ解説」はすべて削除して新作イラストに変更。これも解説したこと自体がもう次の世代には分からなくなるという悪循環に陥るので止めたんだろう。若い人にはもう分かんないところは勝手に想像しちゃってください、ということである。これもキリがないしね。
 だいたい、最初のコミックス化のときに、とりさんは「ある大学で学生たちに話を聞いたら、ネタが分からないものがあると言われた」と書いているのである。ちなみに、その大学というのは私が在学していた大学のことで、その「学生たち」の中には私もいた(笑)。
 実はそのとき、この『クルクルくりん』についても私はとりさんに質問をしていて、「どうして『くりん』のドラマは岩井小百合を主演にしたのか」、その理由についても聞きだしているのであるが、もう今更そんなドラマがあったことも覚えている人は少なかろうから、詳述はしない。つか、ビデオテープも残ってないんじゃないのかな。「ポッピン・ショッキン・ドッキン、クルクルマジカルレイディー、私はー、ウワサのー、パラレルガールー♪」って主題歌と高田純次のジェームス吉田だけは好きだったんだが(この番組あたりから高田純次は売り出していったのだよ)。
 まあ、今の若い人によく分からないネタはあろうが、SFコメディマンガとしてこれだけ面白いマンガもそうはない。理想の女性型アンドロイドを作るために、あらゆる女性の性格パターンをインプットされたコンピュータが、爆発事故で破壊されそうになった自らのデータを「転送」する先として選んだのが、生身の人間だった「くりん」の脳だった、というのは、とりさんが卑下するほどハードSFファンに嫌われるような設定ではなかったと思うぞ。


 赤塚不二夫『おそ松くん』22巻(完結/竹書房文庫)。
 「完全版シリーズ」と謳っていながら、少年キング版『おそ松くん』90話のうち、わずか14話しか収録していない。何か理由があるのかな。もう1巻余計に出しても売れないだろうと判断されたとか。一応、この最終巻にあの名作『チビ太の金庫破り』が収録されているおかげでいかにも最終巻って雰囲気というか味わいはあるのだが。
 いやね、赤塚さん、『おそ松くん』の最後あたりはかなり「投げて」描いてるので、これが入っていると入っていないとでは、印象としてはかなり落差が生まれてしまうのだ。だって、最終回なんて、イヤミが赤塚不二夫のケツに踏まれて、「もうマンガには出てやらないざんす!」と怒っちゃったんで連載も終わり、なんていい加減なラストなんである。
 もっとも、赤塚不二夫のギャグマンガの最終回はほとんど全て尻切れトンボなんだけどね。『天才バカボン』なんて、最後に水戸黄門が出てきて「コウモンが出てきたらこのマンガもオシマイなのだ」というつまんないシャレで終わりなのである。
 巻末収録のオマケマンガ、『オハゲのKK太郎』は藤子不二雄との合作(Qちゃんしか出てこないから、作画には藤本さんしか携わっていないだろう)。Qちゃんとチビ太が「どっちが偉いか」を競うだけの他愛ない話で、特に取り立てて面白いマンガでもない。珍しさだけのものだけど、ファンには「へええ」ってことになるんだろう。セリフと絵がうまく合ってないコマがあるのは合作のための不手際なのか、編集が後でセリフを改定でもしたのか。今となっては誰に確かめようもないことである。

2004年09月22日(水) イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻
2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)
2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか


2005年09月21日(水) 古希の憂鬱/『昭和の東京 平成の東京』(小林信彦)

 博多駅の「紀伊国屋」と「GAMERS」で本を買い込む。
 先週までずっと森田雄三さんとイッセー尾形さんのワークショップ&公演で、本を読む余裕があまりなかったので、いつもより多めに買うことになった。
 『のだめカンタービレ』の新刊13巻などは、よしひと嬢のお宅で読ませていただいていたのだが、やはり自分で買って持っていないと落ち着かないのである。これは首尾よく入手できたのだが、同じく、よしひと嬢宅で読んで極悪非道冥府魔道なオタクの実像を活写して思いっきり笑わせてもらったよしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』2巻の方は、どうやら売り切れてしまっていたようでどこにも見当たらない。
 よしながさんのマンガは、基本的には腐女子仕様だから、東京の高岡書店あたりなら大人気だろうけれども、福岡のようなオタクがオタクとして確立してない田舎ではそんなに売れ行きがいいとも思えない。多分、もともと入荷部数が少なかったのだろう。つかさー、「GAMERS」の店員、「もともと取り扱っておりません」なんて言いやがったぞ。オタクのメッカとしての自覚はないのか(別にメッカにならなくてもいいが)。やっぱりこの手のマンガは「とらのあな」に行かなきゃダメなのかね(注・今回はBLモノではありません。匂いはちょっとあるが)。
 十年ほど前に比べれは、大型書店が増えて本は手に入りやすくなったが、反面、近所の小さな個人経営の本屋が潰れていって、売れ残りの本をそこで探すことができなくなったのはかなり痛手なのである。前にも日記に書いたかもしれんが、貸し本屋時代からの付き合いのあった近所の本屋が消えたのは本当に悲しかった。コンビニじゃダメなんだよう。


 明日が父の70の誕生日なので、仕事帰りに父を誘ってしげと三人で食事をする。
場所は近所の「かに甲羅」。近所にあるからと言って、しょっちゅう行きゃしない店である。かにの刺身にかにの天ぷら、かにの吸い物にかに釜飯と、かに尽くしである。膳のほかにかにのチリソースまで頼む。父が粗食で(酒は飲むが)自分は控えて私やしげに「どんどん食べり」と勧めるものだから、私もしげも充分以上に腹がくちた。これだから私もしげも痩せないのである。
 父は誕生日を祝ってもらえて上機嫌なのだが、口を突いて出るのはまた姉の悪口である。今日も食事に誘われたのを、私らとの食事を口実に断ったとか。
 姉に含むところのない私は「姉ちゃんも一緒に誘えばよかったのに」と言うが、父は頑として首を縦には振らない。年を取ると、こういうところだけはどんどん意固地になるのである。「姉ちゃんがつんだお客さんが、また俺につみ直してもらいに来るったい。おれがおらんごとなったら、店は続かんよ。それが姉ちゃんには分からんけん、困っとうったい」。
 頑固親父が君臨して新しいお客さんを開拓できずにいたことも痛手だと思うんだけれども、何かもう、何を言っても通じない。姉ちゃん、いつまで持つかなあ。
 で、喋ることはもう会うたびに同じことの繰り返しだ。「こないだ近所の敬老会から誘われて飲みに行ったったい。もう70やけんな」と、笑って言うのだが、その話を聞かされるのはもうこれで四度目なのであった。


 久々に『トリビアの泉』を見る。と言っても偶然チャンネルが合っただけ。
 番組が始まったころは腹を立てながらも毎週追いかけて見ていたものだったが、演出のつまんなさに閉口して、もう随分前から積極的に見ようって気がなくなってしまっているのだ。私も大概馬鹿馬鹿しいだけのギャグであっても嫌いにゃならないんだが、つまんないだけのギャグにはちょっと付いて行けないのである。
 今回は『アルプスの少女ハイジ』ネタが二本続いて、アルムおじいさんの過去がどうのこうのという、ネタ自体もつまらないが、演出もわざとらしくて笑えないもの。ゲンナリして、もう何がどうつまらないか詳述するのもツラいくらいだ。そんな「常識」がなんで「へぇ」のネタになるのだ。
 いや、ネタが薄いことを今更あげつらったところで仕方がない。スタジオで「へぇへぇ」と暢気にボタン押してる連中が『ハイジ』のアニメをまともに見たことがなければ、原作を読んだこともないやつらだということについても怒りはすまい。「常識」とか「素養」なんて言葉はとうにこの国では無意味に成り果ててしまっているからだ。
 けれどそれでもどうにも情けないのは、「どうせ視聴者は馬鹿なんだからこの程度のネタと演出で充分」という番組作りを、たいていの視聴者が無批判に享受している現実である。知識とか素養ってのは、そのバックボーンに複雑に絡み合った膨大な大系があるもので、それを我々は普段は自覚してはいないけれども、日常のちょっとした場面で、ひょんなことからその繋がり合っているものがひょいと顔を出してくることがある。知識を売りものにするのなら、そういう部分にこそ着目しなきゃならないのだが、それが『トリビア』にはないのである。
 既に巷では「へぇ」を口にすること自体、恥ずかしい行為に成り果ててしまっているんだけど、まだ続くんかね、これ。


 今日読んだ本、小林信彦『昭和の東京 平成の東京』(ちくま文庫)。
 1964年から2002年までの「東京」をキーワードにしたエッセイを集めた本の文庫化。
 「東京」に思い入れがない(大学時代の四年間しか住んだことがない)地方人がこういう土着エッセイを読んで面白いかというと、これが実に面白いのである。
一つには、私が博多の「職人」の家に育ったということがあると思う。小林さんが活写する「東京の職人」像、「土着の人間は実にていねいな口調」というのは、「博多の職人」にもそのまま当てはまるのである。物腰の柔らかさが、東西を問わずの「職人」の共通項なのだろうかと思ってしまった。
 「博多弁」と聞くと、江戸っ子の「べらんめえ」以上に乱暴で、始終喧嘩を売っているように聞こえる、というのが世間のイメージであるようだが、私の記憶する限り、祖父や祖母の使う博多弁は実にきれいなものであった。孫が遊びに来ても「よう来んしゃったね」と、必ず敬語を使う。子供に対しても敬語を使うことを忘れないのが博多の「職人」の文化だったのである。「よく」「長く」「若く」などの形容詞の連用形が古文よろしく拗音に変化して「よう」「なごう」「わこう」と柔らかくなるから、耳にも聞こえよい。差別的な物言いになるので控えるが、現実に「汚い博多弁」を使っているのは、一部地域の博多人なのである。
 「下町人情」についても、東京と博多とでは共通点が多い。「人情」などと言うと、どうしたって我々は映画のイメージが優先してしまうから、東京の場合、それは中村錦之助の「一心太助」とか、渥美清の「寅さん」が脳裏に浮かんでしまう。けれど、もちろんそれが虚像に過ぎないことを、小林さんは自分の「実体験」から照射していく。「下町の人というのは、自分の感情をかくすものです」と書かれているが、「ああ、爺ちゃんも婆ちゃんもそんな感じだったよなあ」と納得してしまうのである。
 小林さんの経験は小林さんの個人的な経験でしかなく、これをもって「下町」のイメージを規定してしまうのはどうか、という意見もあるとは思う。私の「博多っ子」のイメージだって、煎じ詰めれば「ウチの近所はそうだった」ということであって、普通のサラリーマンの家庭の博多っ子が私と同様の感覚を持っているとは考えにくい。けれど、「下町」が一般的なイメージとしても「職人と商人の町」であり、博多もまたかつては「そうであった」ことを考えると、その視点から街を見てきた小林さんの視点に一定の根拠があることは決して否定できることではないと思うのだ。
 東京もこの50年の間に変貌し、博多もまた変わった。博多もまた「職人と商人の町」ではなくなった。私の博多人のイメージもまた過去の郷愁に彩られたものでしかなくなってしまっているが、だからと言って、「今の博多が正しい」と過去を何も知らない若造に抜け抜けと言わせておくほど、過去は歴史になっちゃいないのである。なくなったものを元に戻せと言いたいのではない。「一度お前たちが無くしてもう元に戻らないものは、こんなものだったんだよ」ということを知った上でないと、「自分もまたいつか何かを失う」事実を現代人が受け入れられなくなると思うのである。
 その喪失感を覚悟することができなければ、人は簡単に「幻想の世界」にさまよい出てしまうことになるのだが、そういった事件、最近はやたら増えちゃいないかね。


 マンガ、夏目義徳『クロザクロ』5巻(小学館)。
 面白くなって来てるんでしょうか、このマンガ。表紙イラストは毎回凄くいいんだけど、本編のモノクロマンガになると、一気に絵に華がなくなっちゃうんだよね。
 いや、話そのものも『寄生獣』の安易なパクリっぽくなってきて(ザクロがミギーなわけだな)、やっぱり「対決モノ」にシフトしていっちゃって、「乗っ取るもの」と「乗っ取られるもの」のコミュニケーションのズレの面白さがなくなってきてしまった。ザクロの真の姿が「青年」というのも興醒め。子供の姿だからこそ、その冷徹さが際立つのに。
 なんだかだんだん『トガリ』の二の舞臭くなりつつあるように思えてならないんだけど。


 マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』10巻(小学館)。
 話がちょっとモタモタしてきたかなあ。キャラクターが増えすぎて、うまくまとめられなくなってきてるような、全体的に印象が薄くなっちゃってる。だいたい、主役のバーディーがここんとこ失点続きで、カッコよくない。今巻でも、千明の奪還に完全に失敗してしまっている。ゴメスに預けといた方がなんぼかマシって、その通りじゃん。主人公なんだからさ、もうちょっとアタマ使った活躍させてほしいよなあ。
 つとむの姉ちゃんのはづみがどうも獣人化計画に巻き込まれそうなんだけれども、これも前巻あたりから延々引いてて、ちょっと飽きが来ているのである。この姉ちゃんに魅力があれば、まだハラハラドキドキもしようってものなんだけれども、フツー過ぎて、緊迫感が出ないんだよね。総じて最近のゆうきさんの描くキャラはデザインはいいんだけれども、内面的には底が浅くてイマイチ立ってない。私ゃもう、このマンガはゴメスが好きで読み続けてるようなもんだ。オジサンがオジサンに萌えてどうするよ(苦笑)。

 「萌え」で思い出したが、昨日、電車に乗っていたら、男子高校生一人と女子高校生二人が乗り込んできて、こんな会話をしていた。
 女子1「あんたさあ、メイドカフェとか興味あるやろ。オタクやし」
 男子「何それ? メイド……何?」
 女子2「メイドカフェ。天神にあるっちゃろ? 行ってみたくない?」
 男子「よう分からん」
 女子1・2「(唱和して、両手を男子に向かってヒラヒラさせながら)萌え〜、萌え〜」
 男の子は剣道の市内を持っていたから基本的にはスポーツ少年なのだろうが、こういう男の子にもオタク菌は蔓延しつつあるようである。
 つか、電車の中で「オーレ、オーレ」みたいな口調で「萌え〜、萌え〜」とやらかす女子高生が存在するような時代になるとは、オジサンちょっとビックリしちゃったよ。

2004年09月21日(火) マーシーって愛称もなんか好きになれなかったが/DVD『Re:キューティーハニー』天の巻
2003年09月21日(日) 劇団の激談/『美女で野獣』3巻(イダタツヒコ)/『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(山田風太郎・せがわまさき)
2002年09月21日(土) 世界の王/『パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産』(安田均・山本弘)/『パンゲアの娘 KUNIE』5巻(ゆうきまさみ)
2001年09月21日(金) 子供のころは本屋さんになりたかったのさ/『多重人格探偵サイコ』7巻(大塚英志・田島昭宇)ほか
2000年09月21日(木) 笑顔とブレゼントとオタアミと


2005年09月20日(火) 森田さんとイッセーさんのワークショップ余燼/舞台『ドレッサー』

 日記の更新はしないつもりだったけれども、いくつかの「出会い」があったので、簡単に。
 昨日の今日だと言うのに、またまた仕事帰りにしげと「リバーウォーク北九州芸術劇場・大劇場」まで舞台『ドレッサー』を見に行く。舞台劇の映画化で、アルバート・フィニー主演で映画化もされたこともあるバックステージものだ。「リア王」を演じる座長役が平幹二朗、ドレッサー役が西村雅彦、「コーディリア」を演じる座長の妻役が松田美由紀。
 平幹二朗の演技はまさに磐石なのだが、やっぱり西村雅彦が台詞を覚えて言うので手一杯のシロウト演技で見るに耐えない。平さん相手に緊張したのか、何をどう演技しているのかも自分では見えていない様子だ。完全に自分の役どころを間違えていると言っていい。おかげで戯曲の面白さ自体が半減してしまっているので、これはもう平さんの演技を楽しみに行くだけの意味しかなかろう。

 客席に座っていたら、肩をポンと叩かれたので、誰かと思えば、昨日までワークショップでご一緒していた若い女性の方であった。オバサン声と言うか、ちびまる子ちゃん声のOLを演じられて、昨日の交流会では「こんな声を出したのは中学以来です」と仰っていた方である。
 「昨日ははぐれてしまって一緒に写真を撮れなかったので、ぜひ」と頼まれて、観劇のあと、しげと私と、それぞれその方とツーショットで写真を撮る。ワークショップの間中、私は皆さんの足を引っ張っているなあと感じていたので、こんな風に声をかけていただけたことがとても嬉しい。
 「もう公演はないのに、つい、『今度はこんなセリフを言ってやろう』とか考えてませんか?」と聞くと、「そうですね。また舞台に立ちたいです」と仰る。あれだけ森田雄三さんに怒鳴られまくったというのに、みんな「懲りて」いないのだ。演劇の魔力に取り憑かれたと言った方がいいだろうか。
 「来年またお会いできたらいいですね」とお話しして別れる。実現するかどうか分からないけれども、あれは、参加者のみんながそんな風に思えるような、素敵な舞台だったのである。うちの劇団の舞台がそんな風にならないのは、やっぱり「たいして芝居に興味もないのにつきあいやらで参加している」連中ばっかりだからだろうな(涙)。

 帰宅してネットを開いてみると、掲示板にやはり公演でしげと同じシーンに出演されていた方からの書き込みがあって、返事を書く。そんなことをしていたら、昨日までの興奮がまた心の中に蘇ってくる。職業も年齢も立場も全く異なる人々ばかりだったが、かけがえのない「出会い」がそこには生まれていたと思う。「何かを共有した」そういう「絆」のようなものがなければ、こうして声をかけてきては下さらないだろう。
 森田さんやイッセーさんが、どシロウト相手に自らの寿命を確実に縮めているに違いない(苦笑)こんな企画を、なぜ続けているのか、実はずっと疑問であったのだが、その理由はまさにこのワークショップの「あとの出会い」にまで森田さんたちが目を届かせていたからなのではなかろうか。ともかくこの一週間で、森田さんの、イッセーさんの人間洞察力には圧倒されてきた。「演劇」にはそれが何より必要なのである。
 私がワークショップで適当な知識を披露していた時(もちろん「そういう演技」をしていただけで、ウソをつこうとしてついていたわけではない)、回りの人たちはそれをみんな本気にしていたのに、森田さんだけは「デタラメもそれだけ続けば立派だよな」と笑って仰っていた。何という慧眼であろう。 
 昔、森田さんやイッセーさんのスタッフだったけれども、仲違いしてプロの評論家になられた方を私も知っているが、その方と森田さんが「合わなかった」のも、森田さんのワークショップを受けたあとでは充分に納得できるのである。森田さんから見れば、あの人は「かわいそうな人」でしかないだろう。底の浅さを知識で糊塗しようとしても、見抜く人には見抜かれてしまうものなのである。

2004年09月20日(月) 爆睡の一日/『名探偵コナン特別編』22巻
2003年09月20日(土) 優柔な憂愁/『よみきりもの』5巻(竹本泉)
2002年09月20日(金) ついに発売! アレとアレ(^o^)/映画『インソムニア』ほか
2001年09月20日(木) ま、映画さえ見られりゃいいんだけどね/『夜刀の神つかい』4巻(奥瀬サキ・志水アキ)
2000年09月20日(水) 頭痛と頭痛と頭痛と……/ムック『山下清のすべて』


2005年09月19日(月) 自分が出演したから言うわけじゃないが/舞台『イッセー尾形とフツーの人々 北九州編』最終日

 四日間のワークショップ、三日間の公演と、一週間に渡る『イッセー尾形とフツーの人々』の日々が終わった。
 この間のエピソードを綴っていけばそりゃもう面白いことの連続であるのだが、そんなん全部書ききれるはずがない。レポートを一日刻みで書くことなんか、私ゃもう放棄したぞ。それに、今回の公演は本名での参加なので、あまり具体的に書いちゃうと参加者の誰が私であるか、知人以外にもバレちゃうのである。だから詳しいことはそのうち詳しいレポートがアップされるであろう「イッセー尾形のホームページ」をご参照いただきたい。もしかして写真がアップされていても、「藤原敬之ってこいつかな」とか類推しないでいただけると助かります(笑)。
 総括的に書くなら、今回のワークショップは、演劇を本格的に学ぼうという人のためのものではないにも関わらず、最も演劇的であったという点で刺激的だった。発声練習もなければ肉体訓練もない。森田さんは演技指導すらしない。参加者が「ここはこうすればいいんですか?」と聞けば「知らねえよ!」と怒鳴り、質問を禁止する。
 あったのは、私たちの考えてきた演技に対して、森田さんが延々と発し続ける「面白くない!」「それは違う!」「受け答えをするな!」「喋り続けろ!」というダメ出しだけである。「こんな感情で演技してみて」なんて決して言わない。「こう動けば、観客はこう想像する」という指摘の意味を考えた役者だけが選抜されていく。参加者の中には、「これはいったい何のためのワークショップなのか?」と疑問を抱いたまま去って行った人もいた。森田さんは「それがフツーの人なの。残った人がヘンなの」と笑って仰っていたが、果たして本当にそうだろうか?
 森田さんは、ドラマとは名ばかりで、ただの「説明」に堕しているテレビドラマが大嫌いだ。そんなものに関わりたくないからイッセー尾形さんとだけ組んで、これまで一人芝居を作ってきた。そこには「観客の想像力を信じよう」という確固たる信念がある。「こういうセリフを書かないと視聴者や観客は分からないだろう」なんて、人を馬鹿にした発想は取らない。観客をそのようにして「信じる」のならば、当然、役者に対してもそれが「要求される」のである。たとえシロウトであったとしてもだ。「想像力のない人間」に、役者は務まらない。いや、社会生活においてもそんな人間にどうして人間としての価値があると言えるだろう? 人間を信じるならば、人間の想像力も信じるしかないのだ。
 だからこのワークショップは、単に演劇のためのワークショップには留まらなかった。舞台に立つという経験を経て、日常に帰り、「困難にぶち当たったとき、とっさの判断をいかにするか」、そのための訓練として機能していたのである。ダメ出しされ続けて、どうしていいやら分からなくなって、困ったところから初めて「芝居」が生まれる。「ただのアドリブじゃん」なんて軽く考えるのは適切ではない。人生はアドリブでしか成り立っていないと言ってもよい。人生とは劇場であり、まさにこの一週間は、「人生のシミュレーション」としての意味を持っていたのだと断言できる。
 で、公演を終了して、自分に芝居ができたかどうかということになるとこれがまたはなはだ心許ないのであるが、少なくともシロウトの私たちに本気でぶつかってきて下さった森田さんに対して、ケツまくって逃げるようなマネはしなかったと思うのである。
 全く、ケツまくってばかりのうちの劇団の連中にこそ、こういうワークショップが必要だと思うんだが、私程度の人間からも逃げてたんじゃ、どうしようもないんだよな。

 今日は昨日より受けがよかった。昨日一昨日はガヤの一人でしかなかったが、今日はイッセーさんともちょっとだけ絡んでもらえた。これは嬉しかった。
 私だけではなく、殆ど全てのキャストがネタを変え、果敢に最後の舞台を勤め上げようと挑戦を試みていた。
 公演後に、ワークショップ見学者も含めた全キャストで、イッセーさん、森田さんとの交流会がロビーで行われたが、開口一番、森田さんが、「最後の舞台が一番手応えがあったでしょう。シロウトの演技でもお客さんは見てくれるんですよ」と仰ったのが印象的であった。三回公演は北九州編だけである。そして一回ごとにお客さんの反応が如実に違う。「次こそは」という思いが、出演者たちの「自由度」を増していったように思う。
 一人一人の挨拶も、全部を紹介したいくらいにそういった思いが伝わってくる。イッセーさんが「心を病んでないのは詩吟のセンセイ(出演者のおばちゃん)一人だけだということが分かりました」と冗談めかして仰ったほどに、みんな、それぞれに問題を抱えている人ばかりだった。みんな、自分の「何かを変えたい」と思ってここに集まり、そして「自分を変えられるのは自分だけだ」ということに気付いて旅立っていくのだ。
 私もこれまで演出家、役者さんのいくつものワークショップや講演に出席してきたが、こんな「身のある」ワークショプに参加できたことはこれまでにない。誇張ではなく、「至福の時間」が過ごせたと思う。
 私としげの挨拶では(交流会まで、お互いの名前や立場を語ることは禁止されていたのである)、私の本職にドヨメキが起き、しげが「妻です」と言った途端にもっと大きな(多分今日一番の)ドヨメキが起きた。多分、たいていの人が「親子」だと思っていたのだろう。まあ、いいけどさ(苦笑)。


 公演中はもう食事から何まで、よしひと嬢のお宅でお世話になった。本当に涙を流してしまい、みっともないところをお見せしてしまったことは真に申し訳ないと思っています。二日目、お母さんと一緒に見に来てくれて嬉しかったです。楽日に見に来てくれた下村嬢にも感謝。お会いできなくて申し訳ない。
 そして、こんな零細サイトの日記なんて読んでないだろうけれども、公演で一緒に舞台に登った「仲間たち」一人一人に感謝を。心を病んでる人たちばかりだったけれども(笑)、そういう人たちが集まって、一つの「街」を作れたことそのものが素晴らしいと思います。そしてもちろん、イッセー尾形さん、森田雄三さん、スタッフの人たちに、心よりの愛を込めて。「イッセー尾形と共演したんだ」なんて人に言って得意になったりするような情けないマネだけはしないようにしようと決心しています。一月の公演も、絶対見に行きますので。

 さて、そろそろ本気で次の芝居の脚本を書きあげないといけないので、来週アタマくらいまで日記を書くのを中断します。この三日間ほども、更新できないよって書いといたのに、150人以上、お客さんが来てくれてるんだけど、まあこれは殆ど通りすがりさんなんだろうな(笑)。全く、何のキーワードで来てるんだか。

2004年09月19日(日) 大掃除大パーティ/『かりん』2・3巻
2003年09月19日(金) 回想の妻/『にっちもさっちも 人生は五十一から』(小林信彦)
2002年09月19日(木) 騒ぎどころが違うぜ/『仮面ライダー龍騎 13RYDERS』/映画『恐怖の火星探検』/『ロケットマン』3巻(加藤元浩)
2001年09月19日(水) ヤンキーたちの好きな戦争/『日露戦争物語』1巻(江川達也)/『探偵学園Q』1巻(さとうふみや)
2000年09月19日(火) 塩浦さん、今度はご夫妻で遊びに来てね


2005年09月18日(日) 舞台『イッセー尾形とフツーの人々 北九州編』第二日目

 集合は11時と昨日と同じだが、今日の公演は昼公演なので、リハーサルを行う余裕はない。所用で出演できないキャストが増えて、新しくコンビを組んだチームを舞台に上げて、森田さんのダメ出しが入る。つか殆ど檄を飛ばしているようなものだ。
 出来のよかったスケッチを中心に全体構成を考えていたのに、その肝心の主要キャストが今日は欠席ということで、森田さんも愚痴と檄が同時に口から出る。
 「新宮の時も、一日目出てた役者が急に二日目来なかったんだよ。それも一言の連絡もなく」
 けれどそれは愚痴ではあっても弱音ではない。再びギリギリまで詰められていく森田演出。激昂して椅子を叩き、手が痺れて再び演出をイッセーさんに交代するのも昨日と同じ。イッセーさんも「ここまでかな」と、諦めたような声が漏れる。
 これがちょっと私の癇に障った。イッセーさんの心情としては、ついそんなことを言いたくなる気持ちもよく分かる。所詮、我々はただのシロウトだ。そのシロウトがたった四日間でどこまで「完成」の域に達することができるというのだろう。「ここまでしかできない」ことは当たり前であるし、それを承知でシロウトに門戸開放したのは他ならぬ森田さんとイッセーさんではないか。
 「ここまで」と言われた人は私ではない。そう言われた人も、そんな言葉くらい跳ね除けて舞台に立ってもらうくらいの気概はなければ困る。それでもこの時、私は何となくむかっ腹を立てていた。
 でもそれで吹っ切れた。

 二日目の幕が上がった。
 冒頭シーン。倒れている中年女性と泣いている女の子。呆然としているサラリーマン風のイッセーさん。それは昨日と全く同じ風景だ。
 けれど、集まった七十人の態度が違う。昨日より、誰もがイッセーさんを「憎んで」いる。ツッコミが昨日よりも激しい。イッセーさんの狼狽振りも昨日より弥増した。
 あとで、公演終了後の挨拶で、反省会の席で、イッセーさんは仰った。「たった一日で芝居がこんなに膨らむものなのか」「一番イヤなタイミングで、一番イヤな言葉を投げかけてくる。舞台を降りたあと、掌に汗がにじんでました」と。
 多分、その一番イヤなセリフをイッセーさんに投げつけたのは私だ。

 今日、私は、昨日受けなかったネタをしきり直した。笑いが起きる。けれど反省会で森田監督は「これから先が芝居なんです」と仰った。その通りである。私はまだスタートラインに立って、構えてみただけなのだ。

 今日の公演はよしひと嬢とお母さんが見に来てくれた。一緒に食事をしながら、今日の芝居の感想を聞く。よしひと嬢は「楽しかったですよ。意味が分かんないところもありましたが」との感想。
 演技下手で意味不明になったシーンももあったようだけれど、その「わかんなさ」が我々シロウトの演技を上手く誤魔化してくれていることなのである。          

2004年09月18日(土) アナリストたちの誤算/『毎日かあさん カニ母編』
2003年09月18日(木) めんどくさいのは私も好かんけど/『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(大塚英志)
2002年09月18日(水) 復讐するは誰にある?/映画『恐怖のワニ人間』/『Q.E.D. 証明終了』13巻(加藤元浩)
2001年09月18日(火) 声だけ美少女/『スタジアム 虹の事件簿』(青井夏海)ほか
2000年09月18日(月) ゴキブリと音痴娘と構造記憶と/『僕らは虚空に夜を視る』(上遠野浩平)ほか


2005年09月17日(土) 舞台『イッセー尾形とフツーの人々 北九州編』第一日目

 本当に初日が来てしまった。
 よしひと嬢のお母さんに「頑張っておいで」と激励されて、小倉に出発。直行バスは8時42分発。これを過ぎると11時まで一本もないので(これが若松半島というやつである)、ちと早いがこれで行くしかない。
 「リバーウォーク」には9時半に着く。リハーサルは11時からなので、北九州芸術劇場は、まだ開場もしていない。しばらく小倉城堀端の一階テラスのテーブルで、しげと二人、もう一度1時間ほど朝寝。
 10時半に一番乗りで入場、ややあってやってきた相方と少し打ち合わせをする。
 森田さんは時間ぴったりに登場、通し稽古の前に、一つ一つのスケッチにダメ出しをしていく。開演ギリギリまで粘るその姿勢には脱帽。私も当然、ダメ出しを食らう。森田さん、さすがに四時間近くぶっ通しで声を張り上げ椅子を叩いてきたので、疲れ果ててしまったのだろう、「イッセーさん、後、頼むよ」と言って、いったん裏手に引っ込む。
 突然の「監督交代劇」であるが、おかげで私も直接、イッセーさんのご指導を受けることができた。イッセーさんの指導は森田さんのような「たくらみ」はなくてストレートだが、やはり面白くないものには面白くないとスバリと仰る。森田さんに比べて怖くないということは決してない。みんな、心臓のドキドキは治まる様子がない。
 一時間ほど休憩して、森田監督が復帰。出掃けと、それぞれのシーンに合わせた効果音を出演者の声で表現する演出が示される。こういったアイデアの一つ一つに森田さんの非凡が光る。我々出演者は、やはり森田さんの演出がなければただの学芸会の集団でしかないことを痛感する。

 そして、幕が上がる。舞台にひしめき合う七十人の我々。
 観客の間に「おおおお!」とどよめきが走る。森田監督が「最初にお客さんを『こんなにたくさんの人が』とビックリさせたい」と仰ったことが見事に効を奏していた。

 一日目の私の芝居はハッキリ言って大失敗だった。緊張のあまり、わめくことしかできていない。お客さんの反応も当然何もない。公演終了後、出演者一人一人に森田さんは明日へのダメ出しをするが、私にはもう何も言葉がなかった。何もないことが何よりも雄弁である。これで奮起しなければ、私はシロウトである以前にただのバカである。
 今日は舞台では遊べなかった。明日は遊ぼう。そう決意する。  

2004年09月17日(金) 爆発120%!/『カミヤドリ』1巻
2003年09月17日(水) そう言や久しぶりのカラオケだったな/『雑多なアルファベット』(エドワード・ゴーリー)
2002年09月17日(火) 放生会の掘り出し物/『博多の心』(朝日新聞福岡総局)/『魁!! クロマティ高校』5巻(野中英次)
2001年09月17日(月) 祝日には旗を。私は出さんが/『クラダルマ』1・2巻(柴田昌弘)ほか
2000年09月17日(日) クウガと絶叫としゃぶしゃぶと/『少年探偵虹北恭助の冒険』(はやみねかおる)ほか


2005年09月16日(金) ガクガクブルブル/ワークショップ『演出家・森田さんの「イッセー尾形ができるまで」』Part4

 ワークショップ四日目、最終日。
 初めて、オープニングシーンの演出と、全体構成が決まる。昨日まで舞台にはなにも設置されていなかったが、ようやく平台と白い壁が背景に立てられる。ここがどことも見立てられる装置だ。
 森田さんの「出たい人は出るように」との指示で、出演者の半分ほどが舞台上の平台に上る。私もしげも上り、これで一応、イッセーさんと「共演」できるようになった。
 イッセーさんは、スケッチのところどころに勝手に出演する「東京から出張してきたサラリーマン(なんだけど、どうやら怪しい仕事関係らしい)」という役どころ。オープニングでは、事故に遭って倒れている女の人の第一発見者だけれども、「小倉以外の住人」ということで犯人にされかかる。もちろんこのアイデアは森田雄三さんで、小倉の排他性をそのまんま舞台に移した皮肉な演出である。イッセーさんは最後には群衆の前で土下座して謝ることになる。
 「人が土下座するって大変なことなんだよ」と森田さんは仰るが、つまり部外者をそうさせてしまうのが「小倉の街」だと喝破しているのだ。小倉の人々を「デリケートで控えめ」とか言いながら、舞台ではしっかりその残酷さも描いてしまうわけだ。食えない方である。
 私は自分の出演シーンはこれだけだと思っていたのだが、いきなりあるシーンに出演するように言われて、即興で演じることになった。一応オーケーが出たので、三日間の出演が決まる。てっきり好きな日に一日だけ出演すればよいのだと思いこんでいたのに、何ということであろう。もちろん嬉しいことは嬉しいのだが、何百人単位の観客の前で芝居をした経験など、高校時代の予餞会以来である。私なんぞに勤まるのだろうか、途中でやっぱり降ろされるんじゃないかという不安の方が弥増すのであった。
 明日はいよいよ初日である。

 夜はよしひと嬢のお母さんにご馳走攻めになる。普通の惣菜、普通のおかずなのだが、しげには天地がひっくり返っても作れない「おふくろの味」。感激以外のなにものでもない。  

2004年09月16日(木) 小田部通麿氏ご逝去/あさりよしとお『まんがサイエンス宗
2003年09月16日(火) 狂熱の一夜/映画『南の島に雪が降る』/『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(山科けいすけ)
2001年09月16日(日) オタクの輪ッ!……古い(^_^;)/『(週)少年アカツカ/おまわりさんを追いかけろ!号』(赤塚不二夫)ほか
2000年09月16日(土) 電波とスケルトンと二人乗りと/アニメ『バットマン マスク・オブ・ファンタズム』


2005年09月15日(木) ソワソワアセアセ/ワークショップ『演出家・森田さんの「イッセー尾形ができるまで」』Part3

 しげの××歳の誕生日。
 12時になった直後にお祝いメールを入れたのだが、しげはくたびれ果ててよしひと嬢のウチで即寝しちゃって多らしい。張り合いのないことである。

 森田雄三さんのワークショップ、三日目。
 少しずつ顔見知りができてくるが、それが馴れ合いみたいな雰囲気を作ってしまつている印象で、やや停滞気味。森田さんもイッセーさんもややピリピリしている感じである。
 「これまで自分が培ってきたノウハウが役に立たない」と、弱音とも聞こえる言葉を口にするが、同時に「楽しくて仕方がない」とも仰る。困ってるんだかそうでないんだか、よく分からない感じだ。今日初めて知ったのだが、前回までの公演はお金を取っていなかったとか。今回初めて「商品」として公演を打つわけで、そのためにも「芝居」として成立させることに腐心されているようである(自分が出演するかも知れないのに他人事のように書いているのは、自分の役回りを悟られないためであるので悪しからず)。
 今日は、いきなり「小倉の町」を具体的にイメージさせて舞台を作る。いくつもの場所が次々に変化していくスケッチ風の構成を考えていらっしゃるようである。ただ、参加者が必ずしも小倉の住人ばかりではなく、世代も性別も分かれているために、全員が共通してイメージできる場所というものがない。参加者もまだまだ「自分がやりたいこと」を作りきれずに、森田さんの演出を「待って」いるところがあって、もうひとつハジケない。
 椅子をベンチに見立てて、そこに二人の人物を座らせて会話をさせる。そこに他の参加者が様々な「風景の音」を口真似でかぶせさせる。「主役は音のほうだ。演技をするな」と、シロウト演技に陥ることを規制する。けれどそれがかえって出演者を萎縮させることになる。それを見て、「小倉の人たちはデリケートだ」と仰ったあとで、前述の「ノウハウが」の発言に繋がるのである。イッセーさんも「もっと自由になれるはず」と、ハッパをかける。
 ついに明日はいつもより早く「11時集合」と言われる。昼の部の人は三時間も早く出ることになるが、夜の部の人もできるだけ早く来るようにとのこと。つまり、森田さんはぶっ続け11時間、練習しようと言うのだ。しげは「逃げ帰りたい」とか言うが、冗談じゃない。こちらは昼の部から参加できないことが悔しくてたまらんのだ。
 今日は、昼の部で、あまりに森田さんのツッコミが厳しくて、泣いて帰った女の子がいたらしい(15歳だったそうだが、学校はどうしたんだろうか)。みんなシロウトだけど、言われるままに動くだけの学芸会ではないのである。自分にもそんな甘えがないかどうか、他山の石としたい。

 今日はしげも、明日の午前中は通院しなければならないので、一時帰宅。けれど今日も練習時間が30分も超過して、おかげで、快速に乗り損ねて鈍行で帰ることになつた。当然バスはないので、竹下から歩いて帰る。しげが「足が痛い」とうるさい。ようやく家に帰りついたのが午後1時だが、そのあともベランダの倉庫の荷物を片付けなければならないので、ひと騒動。
 明日からは私もよしひと嬢のお宅にお邪魔することになるのでその準備もしなければならない。よくこれだけ動いて、倒れないものだと自分でも感心するが、多分興奮して脳内麻薬が出っぱなしなのであろう。

 そういうわけで、多分、舞台に出演することになれば明日から19日まで帰ってきません。その間、日記の更新がまたストップしますがご勘弁ください。私のナマの姿が見たいと仰る奇特な方がいらっしゃいましたら、17日から19日まで、北九州芸術劇場にいます。どうぞお気軽にご観劇を。

 ああ、それにしても時間がなくていつもより短くしか書けないから、安達祐実のできちゃった結婚やロバート・ワイズ監督の死去についても触れられない。触れなきゃならんこともないってことも分かっちゃいますが。
  

2004年09月15日(水) みんなゴミの山に踏みこむ覚悟はあるのか/『武装錬金』4巻
2003年09月15日(月) 西手新九郎は「心の遊び」に留めておこうね/『アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(安彦良和)
2001年09月15日(土) オタクなばーすでぃ/映画?『スペースカッタ2001』in「山口きらら博」ほか
2000年09月15日(金) ネパールとサウスパークとおだてブタと/『ブタもおだてりゃ木にのぼる』(笹川ひろし)ほか


2005年09月14日(水) ワクワクドキドキ/ワークショップ『演出家・森田さんの「イッセー尾形ができるまで」』Part2

 森田雄三さんのワークショップ、二日目。
 小倉に着いてしげに連絡を入れるが、全く応答がない。昼の部の練習が30分以上、長引いていたのだ。しげは昨日よりは怖さが取れたよう。

 森田さんの参加者への指示、昨日より辛辣さを増す。いろんな「人」を演じさせる。上手い人あれば下手な人あるのは当然だが、「上手下手は関係ないよ。イメージを作ること、空気を作ることね」といちいちダメ出しをされていく。新宮公演では三日間で舞台に立たせたのだが、北九州では四日間でやれるので、より念入りに、ということであるようだ。
 イッセーさんの「小倉は『いちゃもんと小競り合いの文化』」という言葉を受けて、参加者に「なーんそれ」を頭に付けて喋ってみる、という課題などが出される。ご当地ごとにこういうことをやっているらしい。森田さんが「新宮じゃみんな「くさくさくさくさ」言っててさ」と仰るのがおかしい。
 円陣を組むのを早めにやめて、舞台に椅子を置いて何人か組で立たせてみるが、参加者が途端に「小芝居」を始めるようになってつまんなくなる。「円陣でやってた時のことを思い出して」と指示が出されるが、「芝居」をすることを禁じられてしまったみんなはなかなかうまくいかない。森田さんは「学芸会」を作るつもりはないのだ。今更ながらに「真剣」なのだということを実感して緊張する。
 明日はまた円陣に戻してやり直すと言う。さあ、この森田丸はどこへ向かって航海しているのか。

 夜の部も20分超過したが、今日はなんとか電車・バスに間に合う。でも、ぶっくたびれてたのでは帰宅して洗濯したら途端にバタンキュー。だもんで、日記はこの程度しか書けない。あしからず。 

2004年09月14日(火) 「宅間守」という“役者”の死/『ああっ女神さまっ』29巻ほか
2003年09月14日(日) タイトルを付ける元気もね〜や(;´_`;)。
2001年09月14日(金) カリメンしげ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』1巻(森雅裕・有栖川るい)
2000年09月14日(木) 通院と残暑と誕生日プレゼントと/『世紀末アニメ熱論』(氷川竜介)ほか


2005年09月13日(火) 15万ヒット大御礼/ワークショップ『演出家・森田さんの「イッセー尾形ができるまで」』Part1

 カウンターが調子よく回って、ついに15万ヒットとなりましたが、今回、キリ番当選の倍率を三倍(笑)にしたのに、やっぱり連絡はありません。通りすがりさんが多いのにも困ったもんです。
 それだけキーワード検索に引っかかる単語が多いってことなんでしょうが、中にはサンプルの文章読んだだけで「君の欲しい情報なんてウチにはないってことが分からないのかい?」って言いたくなるような検索をかけてくる人もいて、15万ヒットと言っても、有頂天になっちゃいけないなあと自戒しているところです。私の気が付かないうちにこの日記をお気に入り登録してくださっていたり、ブックマークをしてくださっている方もかなりいらっしゃるのですが、いちいちお礼を申し上げに伺ったりはしておりませんが(それもかえってご迷惑でしょうし)、感謝しております。得手勝手な駄文ばかり書きつけているサイトですが、今後ともよろしくゴヒイキのほどをお願い申し上げます。


 今日から、北九州芸術劇場で、『演出家・森田さんの「イッセー尾形ができるまで」』が開かれるので、これに参加するために職場を一時間、有給取って出かける。
 しげは昼から小倉に出かけているので、小倉に着いた時点で連絡を入れて、リバーウォークで合流。お好み焼き屋でヤキソバを食べながら、「昼の部はどうだった?」と聞いても、詳しいことを教えてくれない。実際に参加してみてのオタノシミ、ということだそうだ。
 開始20分前に中劇場で受付。名札を貰って、写真を撮られる。森田さんほかスタッフが顔を覚えるための写真だそうだ。しげが「犯罪者みたいでしょ?」とイヤな例えを言うが、実際、そんな感じである。係の女性の方、名札が光で反射してうまく撮れなかったらしく、三回も撮り直される。
 ふと名札の山に目をやると、こないだ「応募しませんでした」と言っていた下村嬢の名札がある。さてはアンケートに答えなくても、メールを送れば登録した形になっていたのかと、慌ててしげから下村嬢に連絡を入れさせる。ところがてっきり落ちたと思い込んでいた彼女は、ヤケでオカネを使い果たしていて、参加費が払えなかった。もったいない話である。
 ホールの客席でしばし待機。ややあって、車椅子に乗られた森田雄三さん、スラリと長い足がカッコいいイッセー尾形さんが舞台に現れ、参加者が舞台上にいざなわれる。車座になったクッションに、森田さんを中央に50人ほどがグルリと取り囲む。北九州でのワークショップはこれが三年目で、どうやら常連さんもいらっしゃるらしい。小学生くらいの女の子や70歳くらいのご老人に森田さんが声をかける。私は参加するのは初めてなので、否が応にも心臓が高鳴る。しげは昼の部に参加しているので、今回は後方の椅子に座って見学である。
 殆どたいした説明もなく、森田さんは一人の学生っぽいメガネの男性に「何か喋って」と言う。当惑して「自己紹介ですか?」と答える男性に、「ダメ」とニベもない森田さん。次のマスクをつけた女性もロクに喋れない。いきなりの問いかけで、まだ「演劇を作る」ことの意味、「演劇のために何をどう考えるか」などに頭を巡らせる余裕がないのだ。
 輪を追いながら、森田さんは「じゃあ、今度は『名詞』を言ってみて」と指示を変える。少し、発言しやすくなるが、普通の名詞では森田さんは「つまらない」と言う。ちょっと変わった名詞を挙げると、「凝ってきたね」と嬉しそうにする。
ここで私がどんな答えを挙げたか書いておきたいところだが、NHKが入っていたので、もしかしたらこれはテレビ放送されるかもしれない。今回は本名での参加でもあり、顔バレはちとマズイので、以下も私が何をしたかは一切書かないことにする。肝心なところが大雑把な文章になってしまうが、そういう事情なので諒とせられたい。
 一通り「名詞」を言わせ終わったところで、今度は簡単な「会話」を回していく。「相手を困らせるような質問をして」という指示。聞かれたことには基本的に「イエス」と答える気持ちで話を回さなければ行けない。けれど、単純な名詞を思いつくよりも、こちらの方が言いやすい。
 次に、「偉そうにしている人、生意気な人」の名前を挙げて、その人のイメージを思い出して声を出してみることを要求される。
 「この『思い出す』ということが大事なんですよ」と仰る森田さん。ちょっと喋って黙ってしまう人には「続けて」「間を置いて別の言葉を」と次々に指示が飛ぶ。当然、言葉に詰まってしまう人もいるのだが、「困ったところから続けるのが大事なんですよ。もう分かった人もいると思いますが、これは『とっさの時の返事の仕方の訓練』なんです」ということだそうだ。
 さらには、「へりくだった人」「バカをあえて演じている人」の言葉を要求され、最後はそれぞれの役柄を組み合わせて、椅子に向かい合わせてアドリブでやりとりをさせる。
 「『会話』はしないようにね。それをすると下手に見えるから」。この指摘には正直、驚いた。今、私たちが演じているのは、私たちよりもちょっとだけヘンな人である。そういう人は、「いばりたい」「へりくだりたい」「バカと見られたい」、それだけの人である。けれど、そういう人の方が我々よりも面白いのだ。なるほど、「他人の言うことを聞かない」人の方が、舞台の上ではキャラクターがハッキリするのだ。目からウロコの気持ちであった。
 今日はここまでであったが、参加している最中、こんなにドキドキワクワクするとは思わなかった。上手下手はあろうが、自分は演劇が好きなんだ。今更ながらにそれを実感した三時間だった。逆にしげは、すっかり怖くなってしまっている。
 「自分で舞台を作る時は怖くないのに、人のところに飛び込むとどうして怖いんだろう?」
「俺も怖いよ。そうは見えない?」
「うん」
 「人が怖くない人間なんていないよ。とっさのときどうしたらいいのか分からないから訓練するって、お前にぴったりの演劇じゃん。やってみなよ」
 しげはそれでもまだグジグジとしていたが、私は、森田さんの演出で、しげがどんな演技をするのか、見てみたいのである。

 小倉駅から電車に乗って、しげとは戸畑で別れる。しげはそのまま若松まで行って、よしひと嬢の家に泊めてもらうのである。私は、博多駅からバスに乗り換える予定であったが、最終バスに一分の差で間に合わなかった。仕方なく、家まで50分の道のりを歩いて帰る。帰宅して風呂に洗濯。久しぶりの独身の夜であるが、当然、家事は全部、私が一人でやらねばならないのであった。

2004年09月13日(月) 『スウィングガールズ』&『ヴィレッジ』を見た日。……ああそうそう、それから妻の誕生日(^o^)。
2003年09月13日(土) 言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』
2001年09月13日(木) コロニー落としの報復は/『ヘブン』『ヘブン2』(遠藤淑子)ほか
2000年09月13日(水) シゲオと誕生プレゼントと009と/『遊びをせんとや生まれけむ』(石ノ森章太郎)


2005年09月12日(月) 選挙ひとまとめ/『二十面相の娘』5巻(小原愼司)

 狂乱の選挙から一夜が開けても、ニュースは選挙のものばかり。
結果はもう皆さんご存知の通り、自民党の歴史的圧勝。

 投票率67.24%
 自民党296 公明党31 民主党113 共産党9 社民党7 国民新党4 新党日本1 諸派1 無所属18

 しげなんぞは「選挙ばかりで見るものない」とつまらなそうである。いつもいつも思いはするのだが、選挙の最中、ほかのニュースは消えてなくなってるのかね?
世間では、自民党が勝つと予測していた人でも「ここまで大勝するとは思わなかった」とか言ってるけど、そうかね?確かもっと議席取ってたときあるぞと思って調べてみたら、1986年、中曽根康弘政権時の、第38回衆議院議員総選挙、いわゆる「死んだふり解散」の時に304議席を獲得している。ああ、みなもと太郎が『風雲児たち』で松平定信を語ってるあたりで「300議席大勝利」とパロったときだ(マンガとかに絡めないと、昔のことも思いだせんのか)。もっとも、あの時は衆参同日選挙に持ち込んで与党有利を演出した結果だったが、今回は様相が違う。自民分裂で「民主有利」の声も囁かれていたのだから、小泉首相のイメージ戦略が効を奏した結果だと言える。実際、あれだけ庶民に「分かりやすい」選挙を展開させた首相も滅多にない。イヤな言い方をすれば、「大衆のレベルを熟知していた」んだけどね。
 正直、私は選挙に関しては、1980年、大平正芳首相が選挙期間中に急逝した第36回衆議院議員総選挙の時以来、興味をなくしている。自民党はあの時「弔い合戦」を標榜したが、その日本人の心情に訴えるイメージで、やはり選挙前には自民党不利の予想が大半を占めていたにもかかわらず、286議席獲得という大勝利を得た。この国の人間の大半は、結局は政治を「イメージ」でしか理解できず、その政策内容を冷静かつ客観的に見て判断するなんてことはしないのだなと実感した。それ以来、この感触は変わっていない。私が「今度の選挙はどの党がどの程度票を伸ばす」という予測すると、それは殆ど近似値で当たるのである。福岡に関しては、どの地区の誰が大勝するか僅差で勝つかまで、ほぼ的中してしまう。「一票の価値」なんて、私にとってはないに等しい。こんなんで選挙に興味を持てという方がムリだ。
 昨日、よしひと嬢とお喋りしてたときにも「自民党が勝つよ」と言い切っていたのだが、予想通りである(選挙の後ならいくらでも大きな口が叩けるじゃんと言う人もいるだろうから、結果前にちゃんと公言してたことを表明しておく)。小泉首相は争点を「郵政民営化」一本に絞った。“それが何を意味しているか”はたいして関係がない。「余計なもんに税金使うの止めようよ」程度で充分、というより、“それ以上の難しいことは大半の国民には理解できない”あるいは“考える気がない”のである。何か大衆を馬鹿にしているのか、とまた文句付ける人も出そうだが、同じ「大衆」の一人として明言しておく。日々の生活に追われてりゃ、“政治に関心を持って勉強する暇なんてない”のが普通なのだ。各党の政見放送は毎回必ず全部見てるって大人、この日本にどれだけいるってんだ。
 私は違うぞ、ちゃんと各党の政治理念や公約や実効力を全て分析しているぞと仰るあなた、あなたは実はこの国では「少数派」なのですよ(笑)。
 「刺客」というカッコイイイメージも存分に機能した。いくら他党が「やり方が汚い」と反駁しようが意味はない。もともと造反組には「裏切り者」というマイナスのイメージがあるのだから、「貴様らどの口でそれが言えるか」ってなもんである。あれで、各地の代表は、全て「小泉代理」のイメージを浸透させることになった。大衆は自民党に投票したのではない。「小泉純一郎」に投票したのである。造反組や社民党が彼を「ヒトラー」になぞらえたのはある意味正しい。それは「イメージ戦略」を最大限に利用したという点においてである。逆にバカなのは別に虐殺を行ったわけでもない小泉首相を「ヒトラー」と呼んでかえってイメージを落とした造反組である。亀井静香の苦戦はホリエモン以外が対立候補であってもある程度はあっただろう。それでも小泉陣営においては亀井静香の地盤を揺るがし覆すことは無理だと判断していたと思われる。ホリエモン自身が希望していたとは言え、彼の起用は「あわよくば」でしかない。このあたりの「読み」も小泉首相の、「大衆のイメージを“どこまで利用するか”」という細やかさを感じさせる。
 まあ私はこの国の未来がどうなろうとどうでもいいので(←こういう言い方をすると立腹する人もいるのだが、身近にいる政治かぶれのプロパガンダ野郎にはいい加減でウンザリしているのよ)、増税があろうがテロがあろうが、そりゃ信任したもんの責任なので、知ったこっちゃない。
 選挙の結果で私の興味を引くのは、東京地区で自民党の名簿候補者が足りなくなって、落選していた社民党の保坂展人が当選したりとか、そういう小ネタだったりする。南関東では、選挙カーを確保するために「名前貸し」しただけの浮島敏男まで当選。そんな人を議員にしちゃっていいのか。辻本清美(比例での当選だってのに、どうして実力で当選できたかのように喜べるのかワカラン)の当選と言い、比例代表制って、やっぱりおかしいと思うんだけどな。
 

 マジで生活費が足りなくなってきたので、父に無心に行く。
 全く恥曝しなことであるが、日ごろ偉そうなことを日記に書きつらねてはいても、内実はしげも私も生活無能力者である。テメエのことを棚に上げて世の中がどうのこうのと好き勝手なことをほざいているやつなので、いちいちもっともだとか感心なんかしないように。エラぶってるわけではなくて、馬鹿だから物怖じしていないだけなのである。だから腹を立てて文句付けていただくぐらいでちょうどよいと考えている。
 もちろん、遊行費は生活費とは別にちゃんとあるので、無心というよりはタカリなのであった。人間のクズだな。
殆ど舌先三寸で親をだまくらかして(もちろん親父はあえて騙されてやっているのだが)、ついでに「ジョイフル」で飯まで奢らせる。父、選挙結果ら不満らしく、自民党圧勝でバランスが取れなくなったとブツブツ。日本人は結局、自民党しか支持しない、有権者がバカなんだと断じている。しかしならば父が反自民党なのかというと、必ずしもそうではないからややこしい。
 「こないだアンケートがあったったい」
 「それで?」
 「『小泉政権を支持しますか?』って聞かれたから、○○○って答えた」
 「ふーん」
 「『どこの政党を支持しますか?』って聞かれたから、××党って答えた 」
 「……?」
 「で、『どの党に投票しますか?』って聞かれたから、△△党って答えた」
 「全部バラバラやん!」
 「オレはオレなりに考えてやりようっちゃけん、これでよかと」
 要するに、世間のバランス感覚のなさが父には腹立たしいのだ。選挙に行く人間だって、日ごろ政治に関心があるわけではなくて、イメージに左右されただけの、実質的には「無関心派」であることは一目瞭然である。組織票を平然と投票できる人間、政策を知りもせずに有名人だからという理由だけで投票する人間、そんなやつらがひしめき合ってるのは父には「狂っている」としか見えないのだろう。父のやり方がムチャクチャであることは事実なのだが、これが博多人らしい「反骨」というものなのだ。リクツではないのだ。 


 マンガ、小原愼司『二十面相の娘』5巻(メディアファクトリー)。
 『白髪の魔人』編が終了。俳優・田宮清次の顔を持つ白髪の魔人。二十面相との過去の因縁がついに明かされるが、その正体が“そういう人”であったとはなかなか意外な結末だ。
 ネタバレしないで感想を述べることがムチャクチャ難しいのだが、白髪の魔人が二十面相に対してなぜあれほどまでに執着し敵対し、その手から全てのものを奪おうとしていたのか、“そういうことであるなら”充分に納得できるのである。魔人が「人形」に拘り続けた理由もまた、同じ理由であったと考えられる。
 しかし、その理由がかなり特異であるために、さてこれが原典の『二十面相』の世界観とどの程度リンクするものかどうか、若干の疑問は残る。乱歩世界の夢幻境の一つとして考えることも不可能ではないのだが、「そちらの方向に進むのはどうかな?」とちょっと考えさせられてしまうのである。
 ネタバレを避けると、こんな書き方にしかならないので、何のこっちゃよく分からないとは思うけれども、ご容赦いただきたい。

2004年09月12日(日) スタジオジブリ、金のオゼッラ賞
2003年09月12日(金) 誉められ下手な話/『ガウガウわー太』7巻(梅川和実)
2001年09月12日(水) 誰かあの飛行機に「テロチルス」と仇名をつけたやつはいないか(^_^;)/『あずまんが大王』3巻(あずまきよひこ)
2000年09月12日(火) 打ち身とワンピースの続きと/『ONE PIECE』6〜15巻(尾田栄一郎)


2005年09月11日(日) ヒビキ狂想曲/舞台『ラーメンズ・プレゼンツ GOLDEN BALLS LIVE』

 掲示板にも書いたけれど、この日記の15万ヒットが近づいています。毎日200人近くいらっしゃっているのであろう通りすがりさんたちと、50人いるかいないかくらいの数少ない常連のみなさま方、毎度ありがとうございます。今回、前後賞も考えておりますので、カウンターにご注意頂いて、「あっ、キリ番だ!」とお気づきの方は、通りすがりさんでも構いません、メールにてお知らせください。水野晴郎さんサイン入り『シベ超5』パンフやキティちゃんご当地ハンドタオルなどをプレゼントいたします。まあ、報告がない可能性の方が高いので、常連さんは様子見て頑張ってクリックしてみてください(笑)。

 昨日のハカセの結婚式の記述について、「カクテルドレスの色がブルー」と書いたけれども、ハカセから「写真で見るとブルーに見えるけれども、薄紫なんですよ」と訂正のメールがありました。ということなので、昨日の記述は「薄紫」と読み替えといてください。
 以上のように、私の視力では色の濃い薄いの区別があまり付かないので、しょっちゅうこういう間違いはしでかしてしまうが、ご寛恕いただきたいのである。


 『仮面ライダー響鬼』三十一之巻 「超える父」。
 まーねー、本音言っちゃえば「作品外のゴタゴタはどうでもいい」ってのがスタンスなんだけれど、一応、あっちこっちのサイトとか覗いて、今回の騒動の概略だけは見とくことにする。でも先週と状況は変わらないね(笑)。
 「明日夢君の父」問題、死別じゃなくて離婚してたんだな。設定にはそう書いてあったみたいだけど、本編中で触れられることはなかったから、これも「唐突感」は否めない。でも、桐矢君がヒビキに亡き父の姿を見出し、明日夢君に向かって「君はなぜお父さんに会いにいかないんだ?」と詰め寄った(全く余計なお世話をするやつだ)ことをきっかけにして、ヒビキの助言もあって明日夢君も「お父さんに会ってみよう」と決意する、という流れ自体は別におかしくはないのである。会いに行ったはいいものの、肝心の父ちゃんは日曜出勤していて、会社に行ったら現場に出向していて、現場に行ったら急に倒れて入院していて、病院に行ったらもう回復して家族でレストランに行って(バイタリティーありすぎだよ父ちゃん)、というムリヤリな展開にもやっぱり反発を抱くファンはいるみたいだが、「誇れる父」を描きながら、かつ、明日夢君自身が「父を超える」決意をさせる手段としては、十全ではないにしてもダメ出しするほど悪くはない。犬小屋を作ろうとする心理なんか、明日夢君なら充分自然だろう。帰りのタクシーの中での明日夢君と母ちゃんの会話も、定番の「私が惚れた人だから」はまあ照れるが、いい雰囲気は出している。このへんにまで文句を付けるとすれば、そりゃやっぱり過剰反応だよ。
 結局、従来のヒビキファンの反発の殆どは「テコ入れ」キャラである桐矢君に集中してるんだね。実際、ラストの「ヒビキ、お前はいずれオレのものになる」なんて、何が言いたいんだか意味不明だ。多分、こいつがこれから先、魔化魍側に取り込まれていくことになるって伏線なんだろうけれども、今の段階でそれらしいセリフを吐かせるのは矛盾であり、先走りに過ぎる。このあたりの吟味の甘さが井上敏樹の「雑さ」であるのは事実なんだが、同時に、いかにも「あと二十話でシリーズを完結させねばならない」突貫工事ぶりを露呈しているとも言えるのだ。ファンの中には『龍騎』のラストの超どんでん返しの再現を不安視している人も多いようだが、あれは「ライダーバトル」という設定があったからありえた結末なんで、『響鬼』のように「途中引継ぎ」という不測の事態と単純比較なんかできないんである。
 白倉伸一郎プロデューサーのブログでは、今回の騒動を知った上でわざと「釣られて」、「重態で捨てられた子供を引き取った」と形容している。29話まで、展開が遅々として進まなかったのは事実なのだから、「重態」と言われても仕方のない面はあるし、「捨て子」の比喩が正しいのであれば、現場放棄をしたのは前スタッフの方かもしれないという可能性もある。もちろんこれは「引き継いだ側の論理」で書かれている文章だから、全面的に信用するわけにはいかない。「真実」はもうしばらくしないと明かされることはないだろうが、そのときでないと、この騒動の評価は定まりようがないと思う。
 今日もヒビキさんは「きびだんご紅」というしょーもないギャグを飛ばしてくれて、団子詰めをチマチマやってる様子を日奈佳に「不器用」と容赦なく断定されてしまうという、ヒーローっぽくない情けない姿を見せている。こんな些細なシークエンスまで、ファンの反発を買っているのは、やっぱり「袈裟まで憎い」レベルまで落ちてるよとしか言いようがないのである。確かに私も『アギト』のころはこの手の井上敏樹の寒いギャグはいちいち癇に障って仕方がなかったのだが、『響鬼』の中だとヒビキのキャラクターから考えて、決して不自然な印象はないと思うんだがねえ。


 昼、メルパルクホール福岡で、ラーメンズ・プレゼンツ『GOLDEN BALLS LIVE』。
 早めに現地に着いたので、近所を散歩、「九州エネルギー館」を覗いたあと、会場に入る。お客さんは殆どが女性。演劇ファンというよりはラーメンズへのアイドル人気なんだろうなあ。隣の席の女性が、観劇中、片桐仁を見て感極まったと言うように「素敵……」と呟いていたのが芝居以上に印象的だった。
 タイトルは、ラーメンズの二人に、野間口徹、西田征史、久ヶ沢徹の三人を加えて「GOLDEN BALLS」というユニットを結成した、という体裁だけれども、直訳すれば「金玉は生きている」である。いいふざけ方だ(笑)。
 様々なスケッチを映像を間に挟んで進めていく形式や、シュールなギャグからシチュエーションコメディまでありとあらゆるギャグをぶち込んで行こうとする姿勢は、モンティ・パイソン、シティボーイズの流れにあるが、ラーメンズの強みは、若くて体技にキレがあることがそれぞれのギャグをよりシャープにしている点にある。今回の舞台もそれは充分に発揮されているのだが、ちょっと残念だったのは全員、なぜかトチリが多くて、芝居の流れが止まることが多かったことだ。小林賢太郎が「今日は全員がそれぞれに傷つく日だ」と自嘲的にギャグを飛ばしていたが、一応、会場は笑ってくれてはいたけれども、役者としては反省しなければならないことは言うまでもない。
 けれども、『アリス』でも感じたことなのだが、そのギャグのアイデアの豊富さには正直、驚かされているのである。しかもそれが体技を生かした「舞台」でしか表現できないものが多いことに、感服している。例えば、冒頭のパントマイム勝負のスケッチ、五人がずらりと並んで、畑から野菜を引き抜くマイムを演じる。「ダイコン」「ニンジン」……と来て、それまではみんな同じパフォーマンスだったのが、最後に小林賢太郎が「ゴボウ」と言って、一人だけ“長く”野菜を引き抜く。これだけのことなのに笑いが起きるのである。ちょっとした違和感を笑いに結びつけるセンス、簡単なようで、自分で演じてみればこれがどれだけ困難なことか分かる。ちょっと動きに余計な「タメ」が入っただけで観客は笑わなくなるのだ。
 当然、全部のギャグは紹介しきれないが、いくつか、私が好きなスケッチを。
 「愚問道」を極めようとする五人。師範代(片桐仁)に向かって、四人が、「愚問」を投げつける。「魔女の宅急便が出てくる映画はなんだ!」。切り返す師範代「魔女の宅急便!」……確かに愚問だ(笑)。
 「人生のチャンスを掴もう」と、旅を続ける若者(西田征史)。そこに現れた樵の二人(小林・久ヶ沢)は「これが『チャンス』だ」と言って、山椒魚みたいなヘンな生き物を見せる。「チャンス」とはそのドーブツの名前なのだった。実はほかにも「ビッグチャンス」「ダブルチャンス」「宇宙チャンス」などもいたのである。
 「ヨーガ」の師(片桐仁)が、楽天の通販で買ったでっかい「ゴールデンボール」(つか、でっかい落花生型のビニールボール)を使って、「寿司」とか「ぷよぷよ」の携帯模写を見せる。そこに小林賢太郎の解説ナレーションがかかるのだが、片桐が足を前で組んだポーズを取ったときに、「『素顔のままで』……思い出してー、思い出してー」と言ったのには笑った。
 「新米コックたち」が、初めて厨房を任される。ところが、彼らは食材に「紙粘土」を使おうとしたり、デタラメの限りを尽くす。そのたびにコック長(久ヶ沢)は「ちょっと待てえ!」と止めるのだが、事態はエスカレートするばかり。久ヶ沢徹のこの発声が冷静かつ権威敵であろうとしながらも焦る心理が見事に表されていて、爆笑を呼ぶ。このスケッチが今回、一番気に入った。
 先述した通り、トチリが多かったのは残念だけれども、間違いなくラーメンズの二人は現代コメディアンの最前線を走っている。
 

 夕方、よしひと嬢から電話。
 今度のしげのお泊まりについての打ち合わせの電話だったのだが、「ちょうど博多に来てるんですが、お食事でも一緒にしませんか?」と誘われて、「ビッグボーイ」で食事。職場の愚痴などを聞く(笑)。
 「今日はイベントが凄かったみたいですよ」と言うので、「選挙?」と聞き返したら、「いえ、コミケが」と返される。そりゃ「イベント」って言われればそうだよな。世間には、「選挙には本当に興味がなくて」という発言には眉を顰めて、国政にモノ言う権利をなくしてるぞと非難する人もいるだろうが、そんなの覚悟の上なんだから、文句を付けられる筋合いはない。オタクはオタク道のみを邁進するものなんである。
 「忙しくて最近はアニメも映画も見ていないんですよ」と言いながら、「毎週見てるのは『NARUTO』に『アイシールド』に……」言い出すので、心の中で「見てるじゃん」と突っ込む。
 要するに、一度体の中に流れたオタクの血というものは消えないということであるが、よしひと嬢と他の腐女子の違いは、自分のイタさを自覚しているかしていないかだろう。人間、みんなイタイものは持ってんだから、そこから目を背けてちゃ、ひとりよがりにもなろうってものである。

 よしひと嬢を博多駅にお送りして、帰宅、録画しておいた『グレートマザー物語』を見る。今日は『響鬼』の細川茂樹さんのご家族の紹介。なかなかモーレツなお母さんで、「茂樹はうちの皇太子」と公言するのはちと恥ずかしいが、まあ、それくらいの気概がないと、個性的な役者さんってのは育たないもんかもね。
 細川さんが教師志望だったのが、教育実習のときに「ネクタイに高級なものを使うな」なんて下らない難癖をつけた担当教員のせいで断念せざるをえなかったというエピソードには腹立ちを感じた。形しか見ねえバカ教師はもう、昔も今もあとを絶たないんである。でもそのおかげで我々はヒビキの勇姿を見られているんだから、今回ばかりは人見る力のないバカ教師に感謝すべきかね。
 細川さんが作ったカレー、旨そうだったな。男は一人暮らしをすると、カレーだけは作るのが上手くなるのである(笑)。 


 第62回ヴェネチア映画祭で宮崎駿監督に栄誉金獅子賞が送られた。って前々から決まってたことだけどね。この手の「栄誉賞」ってのは「功労賞」ってことで、映画祭の審査委員だって完璧じゃないから、世紀の大傑作に受賞させることを「見逃す」ことだってあるのである。その「罪滅ぼし」的な意味合いが強いので、要するに映画祭が絶対の権威だなんて思っちゃいけないということを映画祭自らが表明しているようなものなのである。でもこれで宮崎監督があと1、2本くらいは映画を作ってやろうって気持ちになってくれると嬉しい。でも次は『ハウル』のときのこと反省して、ちゃんと脚本書いてから映画作ろうな(笑)。
 受賞で機を一にしたわけでもないだろうが、DVD『ハウルの動く城』と『ジブリがいっぱいSPECIALショートショート』が11月16日に発売される。後者の内容は以下の通り。

1、そらいろのたね
2、なんだろう(Aタイプ〜Eタイプ/CGオープニングバージョン)
3、On Your Mark(CHAGE&ASKA プロモーションフィルム)
4、「スタジオジブリ原画展」TVスポット
5、「火垂るの墓」金曜ロードショー放送告知スポット
6、「金曜ロードショー」オープニング映像
7、「金曜ロードショー」オープニング映像
8、オンラインショッピングモール「SHOP-ONE」告知スポット
9、アサヒ飲料「旨茶」CM(渋谷編/会議編)
10、LAWSON「三鷹の森ジブリ美術館」チケット販売告知スポット(Aタイプ〜Cタイプ)
11、LAWSON「千と千尋の神隠し」DVD販売告知スポット
12、ハウス食品「猫の恩返し」キャンペーンCM(Aタイプ〜Cタイプ)
13、りそな銀行 企業CM(Aタイプ〜Cタイプ)
14、ハウス食品「おうちで食べよう。」シリーズCM夏バージョン(ままごと編/おつかい編/路地裏編/宣伝カー編/ままごと編30秒)
15、ハウス食品「おうちで食べよう。」シリーズCM冬バージョン(ソリ遊び編/道草編/ソリ遊び編30秒)
16、KNBユメデジPRスポット(はじまるよ えらいこっちゃ編/テレビ新世界編/新世界遊泳編)
17、読売新聞社 企業CM瓦版編(15秒/30秒)
18、読売新聞社 企業CMどれどれ引越し編(Aタイプ15秒/30秒/Bタイプ)
19、どれどれの唄
20、ポータブル空港
21、space station No.9
22、スタジオジブリ最新作(『空飛ぶ都市計画』のことかな?)

 「ジブリ美術館」で上映されてた映画はやはり収録されないようだ。けれど、『ナウシカ』以降では、宮崎駿監督の最高傑作である『On Your Mark』が収録されているので、これは絶対に買いである。宮崎監督が売れすぎちゃって嫌いになった方も、「天使を救い出す二人の警官の物語」であるこれだけは眉間ならばぜひ見ていただきたいのである。チャゲ&飛鳥の歌が邪魔って大欠点はあるんだが(笑)。

2004年09月11日(土) 911の陰謀
2003年09月11日(木) アニメの世界は広いんだぞ/『Heaven?―ご苦楽レストラン』6巻(完結/佐々木倫子)
2001年09月11日(火) 地球が静止した夜/『ななか6/17』3巻(八神健)
2000年09月11日(月) ミステリとワンピースと/『ONE PIECE』1〜5巻(尾田栄一郎)


2005年09月10日(土) ハカセ結婚!/『ユート』2巻(ほったゆみ・河野慶)

 グータロウ君が、日記でここんとこのカトウ君と私の諍いについて苦言を呈している。
「たかがネットでのテレビに関する意見の食い違いから始まった話が、ここまでゴテルということは、今までの二人の間に(第三者、特に会ったことも無いような人間には想像もつかないような)相当な因縁があるのだろう」
 もちろんこれは「皮肉」であって、「そうでなきゃてめえらただのバカだぞ」いう謂いなのであるが、この「因縁」というやつがまあ、話せば長くなるのだが、実は全くないのである。
 いや、ないと思っているのは私だけで、どうやらカトウ君の方にはあるらしいのだけれども、「あるらしい」ということがウワサで伝わってくるばかりで、カトウ君が直接私に何か含むところがあるのかどうか語ってくれたことは一切ない。おかげで、本当にあるのかないのか、確認できないでいたのだ。
 かと言って、こちらから「文句があるなら言うてみい!」と言うのもそれこそ「インネン」である。しょうがないんでそのまんま放置していたのだが、それでも彼はことあるごとに日記にチラチラとそれらしい不満や愚痴みたいなものを書き連ねていた。そのウジウジしている態度にいい加減飽き飽きしていたので、こちらの『響鬼』30話感想にカトウ君が絡んできたのを機に、じゃあまあ、いっちょトコトン突っ込んでやろう、とやってみたのである。「どっちもどっちでお互いイタいオタクじゃねえか」とグータロウ君が思ったのも当然である。わざとイタくしたんだから。
 カトウ君のブログに、状況が何も分かっていないあほな第三者が乱入したりしたおかげで(だいたい、仕掛けてきたのはカトウ君の方が先なのに、どうして私の方が論点ズラシてるなんて言えるのかワケ分からん)、彼はまた「逃げ」を打っちゃって、結局どんな「因縁」を彼が感じていたのか、分からずじまいだったわけだが、ここまでハッキリ言えないというのであれば、どうせ大したことはないのであろう。グータロウ君の「皮肉」は、まさしく的を射ていたと思われる。
 カトウ君が、面識のないグータロウ君にまでメールを送っていたというのには実際、呆れた。自分で考えるアタマを持ってないと言うか、どこまで軟弱なのであろう。ここにセイラさんがいたら頬を平手打ちされているところである。何が不満なのかは判らないが、カトウ君の正体は知れたので、「好きにやっちゃってくれ」というのは、全くその通りだと思う。
 ああ、それからグータロウ君、「フジワラに対して平気で暴言はくし、陰で悪口も言うけど」って、陰口言ってたんかい(笑)。おりゃー、正面切って君の悪口は言うけど、陰口は叩いたことないぞ。


 『ウルトラマンマックス』第11話「バラージの預言」磁力怪獣アントラー登場。
金子修介が、監督及び特技監督も兼任の一本。一応、『ウルトラマン』の『バラージの青い石』のリメイクではあるが、監督が金子さんでゲスト女優が藤谷文子なんで、なんとなく『ガメラ 大怪獣空中決戦』を30分番組にまとめたって雰囲気もある。古代の伝説の復活って点でもそうだしね。
 逆に、『ウルトラマン』の方が『ガメラ』よりも制作年代は古いのだから、『ガメラ』はそれまでの様々な「伝説怪獣モノ」の集大成だったとも言える。やっぱルーツはクトゥルーあたりになるんかな。
 それはそれとして、金子監督の登板となると、ちょっとは期待したくなるのだが、オハナシとしては全くの定番で、怪獣の復活、伝説の解明、学会から追放された科学者の娘、遺された秘宝が怪獣を倒す決定打となる、など、悪いとまでは言わないが、あまりにも既視感が強い展開が続くので、改めて面白く見られるほどではない。もちろん、初めて見る子供たちにとってはこれで充分面白くはあるのだろうが。
 いつもいつもロボット演技の満島ゆかり、磁気嵐で調子がおかしくなってドモったりするのがおかしいが、東京が麻痺状態になるのは仕方がないとしても科学の粋を集めているはずのUDFくらいは、もうちょっと持ってくれてもいいんじゃないかって気はする。まあ、一番の矛盾と言えば、古代都市バラージを滅ぼしたアントラーが、どうして日本に現れたのか、説明が一切ないことなのだが、このあたりは予算の関係で、古代都市バラージを視覚化できなかったってこともあるのかもしれない。何か今回、ミニチュアがいつにも増してチャチに見えたのは気のせいか? アントラー、一部人形だったし。もっとも、オリジナル版『バラージの青い石』のバラージのセットだって、『ウルトラマン』のために作られたものではなく、映画『奇巌城の冒険』のセットを流用したものだったのだから、昔も今も、特撮とオカネの問題とはままならぬ関係にあるんだねえ。
 でも定番の脚本であっても、役者がよけりゃ、もうちょっとワクワクできたんじゃないかと思うのだけれど、藤谷文子はなあ、『ガメラ』のころからたいして演技力、上がってないからなあ。もちっとタメのある演技のできる人の方が、あの役には合ってたと思うんだけれど、多分、金子監督の「人脈」でのキャスティングなんだろうね。チョイ役ならともかく、ヒロインに使うのはどうかと思うぞ。
 しかし、アントラーに向かってDASHのメンバーが「このクワガタ野郎め!」「違うよあれはアリジゴクだよ!」と間の抜けた会話をしたかと思うと、字幕で「ANT LION」英語解説が入るのはギャグのつもりなんだろうか? なんか外してるような気がするけどなあ。 
 

 今日は、ついに穂稀嬢(ハカセ)の結婚式である。思えば遠くへ来たもんだ(笑)。
 実は披露宴でppメンバーで歌を歌わなきゃならない仕儀となっているので、午前中に、ちょいと練習しておこうと、早めに出発、車で鴉丸嬢を迎えに行く。其ノ他君も一緒に来られたらよかったのだが、あいにくと仕事で熊本である。本当に、どうして其ノ他君は来られなかったのだと、一同、臍を噛んで悔しがることになるのだが、それはもうちょっとあとで。
 会場の全日空ホテルに到着したのが11時。待ち合わせは博多駅でということだったのだが、もう現地に着いてしまったので、カトウ君に連絡して、直接こちらまで来てもらう。
 ホテルのロビーの椅子に座って待っていると、カトウ君がやってくる。手を上げて挨拶すると、向こうも一礼はするが、円を描くように遠巻きに私としげを迂回して、鴉丸嬢の座っている椅子の向こうに回ってしゃがむ。なんか、子犬が怖がって飼い主の陰に隠れようとしたみたいで、おかしい。なんでそんなにビビるかなあ(笑)。
 ルーズリーフに歌詞を書いたもの(生まれて初めて作ったカンペ)を配って、歌うパートを決めて、軽く合わせてみる。場所がロビーだから大声では歌えない。カラオケはしげが携帯にダウンロードしたものを使って、音程を合わせてみる。場合によっては駐車場かどこか、大声が出せる場所に行かなきゃならないかと思っていたがまあ何とかなりそうなので、あとはぶっつけで行こう、ということになる。
 会場は二階の「万葉の間」。披露宴までにはまだ40分ほど間があったが、覗いてみると、もう、桜雅嬢が来ていた。しげから「ダイエットしてるよ」と聞いてはいたが、本当にスッキリしていて見違えるようである。しばらくお喋りするが、せっかくみんなドレスアップしてるのに、しげが「みんなでこれからご出勤?」とか言うので雰囲気ぶち壊し(もちろん出勤先は中洲である)。
 会場前のロビーに「新婦のドレスが何色か当ててください」というカードがあったので、カトウ君と二人で書いて出す。しげと鴉丸嬢は参加せず、「男の子ってこういうのが好きねえ」と珍しい動物でも見るような目で私たちを見るが、せっかくのイベントなのに無視するのもどうかって思うけどねえ。私は一番右側のカードを選んだ。私は視力が弱いので、ほかのは全部ブルーに見えたが、それだけピンクだったからだ。しかし、係員さんのアナウンスがないので、誰もこのカードに書き込もうとしてない。あまりイベントとして機能してないっつーか、どうして段取り悪いかね(結局、ハカセのドレスはブルーだったのだが、どのブルーだったかは私には分からん。私もカトウ君も外れた)。
 会場に移って、いよいよ披露宴の時間。パッヘルベルのカノンに乗せて、新郎新婦の登場。未だにこの曲聞くと『エヴァ』だなあと思ってしまうが、あまり幸せそうなシーンでは流れてなかった気がするな(笑)。ハカセはもう、うちの誰ぞが言っていたが、「普段の三倍増し」の美しさである。よくぞ化けた(笑)。いや、もちろん素地がいいから化粧映えするという意味である。
 ご新郎は、今回初めて拝見したが、見た目誠実で実直そうな、顔立ちがちょっと俳優の小木茂光か坂田聡に似ていらっしゃる方であった。ハカセより14歳年上ということであるが、二人並んでいると既になんともいえない密なアトモスフィアが漂っていて、結構お似合いに見える。新郎の関係者がスピーチに立つたびに、「こんな若いムスメを」だの「とんでもない魚を釣り上げて」だの、誉めるというより「憎いよコノー」ってな感じで露骨に羨ましがってるものばかりだつたのがおかしい。
 プロフィール紹介、乾杯のあとで会食。和・洋・中、好きな食事が選べたので、私は和食、しげは洋食を選んでいた。カトウ君は洋食、鴉丸嬢は和食である。カトウ君、テーブルマナーに自信がないらしく、「しげさん、先に食べてみせてくださいよ」と頼むが、頼む相手を間違えている。「ナイフとフォークは、内側から取るの」とか言うので、「ウソつくな」とたしなめる。でも、食事の間中、カトウ君はチラチラとしげの所作を気にしていたようだ。多少、仕草がヘンでも、別に構わないと思うけどなあ。けど、ボーイさんがパンを持ってきたときに、両手に一個ずつパンを持って、どの皿に置いたらいいか分からず、キョトキョトしてた様子はおかしかった。
 お色直しのあと、いよいよカラオケタイムである。最初は新郎の同僚の皆さんがSMAPの『らいおんハート』を歌う。「新郎も一緒に歌ってください」と誘われたので、新郎が席を外すと、すかさずほかのご同僚さんがたがハナヨメの隣に殺到してツーショツトを取りまくるという「仕込み」。いやー素晴らしいなあ、生きてるうちにハカセがこんなにモテてる様子を見られるとは! みんな、「若いムスメ」ってことで幻想見すぎてるぞ♪
 次が桜雅嬢とお友達がKiroro の『未来へ』、そして三番手にしてトリが我々の、“チェリッシュの『てんとう虫のサンバ』”である。
 ハイ、そこのキミ、あまりのあざとさに笑ったりしないように。四人が共通で歌えそうな結婚式用の歌って、それしか思いつかなかったなんだよ。ちょうど『エヴァ』繋がりでいいじゃないか。
 歌うだけかと思ったら、司会の女性から、いきなり「代表の藤原さんから挨拶を」と言われる。確かに事前の打ち合わせでは、MCは「適当にお願いします」と言ってはいたのだが、まさかフラレるとはなあ。「劇団で新婦はどのような活動を?」と聞かれたので、思わず「主演女優を」と言ってしまう。確かにハカセは出演経験あるんだけど、厳密には「三人主演のうちの一人」なんで、いささか誇張があるのである。でも、めでたい席だから、それくらいのアピールはあってもいいやな。ハカセに「舞台のビデオはもう見せましたか?」と聞いたら、うつむき加減に首を横に振ったので、「旦那さんより先に花嫁さんのセクシーな姿を見てしまってすみません」とか言ってしまう。これも本当はセクシーというよりもちょっと蓮っ葉な役だったんで、やや言葉に工夫をしているのである。まあいずれ旦那さんにもしっかり見てもらえば真実は現れるであろう。もっともハカセが見せる気になるかどうかは疑問ではあるが。
 歌はまあ、なんとかトチらずにみんな歌えた。直前に同じテーブルに着いていたハカセのお友達に「出だしのところ、新郎新婦の名前に置き換えたらいいですよ」と言われたので、そこのパートを歌う手筈になっていた鴉丸嬢が、ものすごく眉間に皺を寄せて、口をトンガラセていたのが印象的ではあったが(笑)。
 最後に、花嫁がブーケを手渡すというので、会場の独身女性が全員、集められる。当然、鴉丸嬢も呼ばれるわけであるが、カトウ君が「オレも独身なのに」という顔をしていたのがおかしい。普通、こういうのに呼ばれるのは女性だけだろう。
 リボンが九本用意されて、そのうちの一本がブーケに結びついているという、縁日のクジみたいな趣向。鴉丸嬢に当たったら面白いなあと思っていたら、本当に当たった(笑)。鴉丸嬢の名前が呼ばれたとたん、私は大笑いし、カトウ君は口をあんぐり開けていたが、ここに其ノ他君が来ていたらどれだけ面白かったことであろうと、不在をつくづく残念に思うのであった。テーブルに戻ってきた鴉丸嬢、「出来レースみたい」と自分も大笑い。「これは私に『芸人として生きろ』ってことか? そうなのか?」といささか興奮気味。あとで聞いたのだが、ハカセ、このとき鴉丸嬢に「其ノ他さんと絶対幸せになってくださいね!」と連呼してたそうだ。確かにこんなに「劇的」だと、これは本当に「さっさと籍入れちまえ」というご託宣なのかもしれない。
 披露宴も滞りなくすんで、会場を出る。新郎新婦とそれぞれのご両親が並んでお見送りしてくれるが、ハカセのお父さんが特に一人一人に熱烈に握手をされていた。そこまで感謝して頂かなくても、とかえって恐縮してしまったほどである。よっぽど嬉しかったんだろうなあ。
 新婚旅行とかは未定だそうだが、さっさとどこか行き先決めて、ハネムーンベイビーでも作っちゃいなさい。改めてハカセ、結婚おめでとう。

 ホテルを出て、博多駅に移動。カトウ君とはここで別れる。どこかで飲み物でも飲みながらおしゃべりでも、と予定していたのだが、夜勤明けで眠かったらしく、目がもう、泳いでいたのである。酒もかなり入っていたから、殆ど酩酊状態である。無事に帰れたのかなあ、あれで。
 残り三人で、「紀伊國屋」「GAMERS」を回って、パピヨンプラザの「ロイヤルホスト」でドリンクバー。カトウ君、いったい私と話をしたかったのかしたくなかったのか、ワケわかんないねーなどと話す。こっちは何にもわだかまりはないから、話を切り出さなきゃならない理由もない。やっぱり言いたいことがあるんだかないんだか分からないままなのである。
 このあとしげと鴉丸嬢は、ラクーンドッグさんの芝居を見に行くので、家まで私を送ってもらって、そこで別れる。どうして私も付いて行かなかったかというと、そろそろ体力が限界に近くなっていたからであった。

 前にも日記に書いた通り、私は結婚式にトラウマがあるので、そこにいるだけで気分が悪くなってしまう。今日は席についたときからずっと、痙攣が起きていて、少し吐き気もしていた。間が悪いことに、ボーイさんがウーロン茶と間違えてウーロンハイを持ってきて、それをうっかり気付かずに飲んでしまったために、頭痛も激しくなった。それで歌まで歌ったのだから、よくやったもんだと自分でも感心するが、いつまでも無理が利くわけもない。部屋に戻った途端、トイレに駆け込むことになったのだが、気分がようやく回復したのは、そのあとひと寝入りしたあとだった。
 めでたいけれども、ちょっとばかし疲れる一日であった。


 ほったゆみ原作・河野慶漫画『ユート』2巻(集英社)。
 ジャンプ本誌では、もう打ち切られて二ヶ月ほどが経っているので、こんなマンガがあったことを忘れてしまっている読者も多いか。まとめて読むと分かるが、これ、ストーリーは決してつまらないなんてことはない。
 お父さんの転勤で、北海道から東京に引っ越してきたユート。スピードスケートを東京でも、と意気込んでいたけれども、東京には北海道のような屋外スケートリンクはない(当然だ)。それでもどうしてもスケートをやりたいユートは、万能スポーツ少年の吾川幸太と、スピードスケートの出来るリンクを探し回る。そしてようやく、スピードスケートを教えてくれるクラブを見つけるのだが、そこは同じスピードスケートでも、ロングトラックではなく、ショートトラックを教えるところだった……。
 逆境、それでも諦められぬ夢、ライバルの登場、新しい仲間たち、新たな対決など、ほったさんのドラマ構成力は『ヒカルの碁』のころから決してレベルダウンはしていない。じゃあなんで『ユート』がヒットしななかったかっていうと、やっぱり作画の魅力のなさしかないんである。面白いことに、『ユート』のコマ割り、画面構成の仕方は、『ヒカルの碁』と全く同じなのだ。ああそうか、ネームまではほったさんがやってたんだなあ、と思い出して、そうなるとこれはもう純粋にマンガ家の「キャラクターデザイン」「表情・演技の付け方」がこのマンガをつまんなくしている原因だと断定できる。
 実際、ユートと吾川の、肝心の主役二人の描き分けが、髪のトーン以外にたいした特徴がないなんてのは致命的である。特にうまくないのは「口の表情」で、パターンが少なく、キャラクターたちはしょっちゅう口が空きっぱなしである。ボケとんかい、こいつらってなもんである。『デスノート』やってるから仕方がないとしても、小畑さんと組んでりゃ、こんなに「華のない」マンガにはならなかったろうになあと、残念で仕方がない。ジャンプ読者も、堪え性がないから、つまんないと思ったらすぐに見捨てるけれども、だったら掲載し変えてでも続けてほしかったなあ。こんなに少年マンガの王道を行くような原作書ける人なんて、めったにいないのに。

2004年09月10日(金) ヤクザな金田一
2003年09月10日(水) 祭りの終わり/『ヒカルの碁』23巻(完結/ほったゆみ・小畑健)
2001年09月10日(月) 憎まれっ子世に……/『RED SHADOW 赤影』(加倉井ミサイル)ほか
2000年09月10日(日) 睡魔と戦いつつこれを書いてます/『星降り山荘の殺人』(倉知淳)


2005年09月09日(金) 自分で書いてても鬱陶しいわ/『宗像教授異考録』第一集(星野之宣)

 さて、ppのメンバーを震撼させているかあるいは無視されているか(つか、無視するよな)のカトウ君のプログでの私とカトウ君のバトルであるが、もうどんどん泥仕合と化して来ている。そうなんなきゃいいがなあと思いつつ、なったらなったでしゃあねえやなと覚悟を決めて、始めたものの、ワケも分かってない第三者まで参入してきて、どこまで続くか、見当も付かない感じだ。
 それでも私はカトウ君のことを身内だと思って接してきたし、だからこそ個人攻撃じゃないかと言われようが一切、容赦をしなかった。本気で相手と意見を戦わせようとすれば、その人格にまで立ち入ることを避けられるものではない。私はこれまでにも、しげにも、よしひと嬢にも、鴉丸嬢にも、余計なことばかり口にしてきている。彼女たちがそれで腹を立てたことも何度もあると思うが、かといって、私が思っていることを黙っていれば、カンのいい彼女たちのことだから(しげ除く)、私が何か言いたげだけれども、それを口にせずに何か鬱積した思いを抱いていることをすぐに察知してしまうことだろう。そのほうがよっぽど気持ちが悪いし、彼女たちに対して不誠実である。だから、嫌われることを覚悟でモノを言っている。好かれたいとか、あなたのためを思ってなんておためごかしではない。
 もちろん、カトウ君に対しても、彼が怒って絶縁状を突きつけて来たとしても、私は蕭然としてそれを受け入れる覚悟でいたのである。たかがテレビ番組くらいのことで、ではあるが、人間、どんな些細なことで諍いが起こるかは分からない。私は、自分の書く文章、一字一句について、どんな批判を受ける覚悟もしているのだ。それなのに、カトウ君にはいったい自分の言動にどれだけの覚悟があるのか甚だ心許ない。へらへらして姑息な逃げをすぐに打つが、それがどれだけ相手に対して失礼か。私がカトウ君を一人前の大人として(以前から幼稚な言動はやたら多かったが、会話するためには、大人として遇するのが礼儀である)会話していたのが馬鹿みたいである。こっちの日記でもちらちらと感想を書いてはいても、主にカトウ君のブログにコメントを付け続けたのは、最終的な裁量権をカトウ君に預けるためだったのに。
 今日になって、カトウ君から、「リンクを外してくれ」と言ってきた。そこまでは、「ああ来たか」だったのだが、その次が呆れた。「でもプライベートではお付き合いを続けたいと思います」。
 なんじゃそりゃあ?! お前は俺に対して腹を立てたんじゃなかったのか? 俺の言うことに納得がいかないんじゃなかったのか? 何だその中途半端な覚悟のなさは!
 カトウ君が「リンクを外す」と言った理由は、私がある腐女子さんのサイトのURLを、「君のイタさって、ここんとこのサイト並だよ?」ということを示すために貼ったからである。これが彼の正義感に反応したわけだが、言うに事欠いて、「絶対に自分は間違ってない」である。
 余談になるが、私はホモオタさんの件で、法務局を訪ねたことがある。そのとき、インターネットの差別書き込みなどの問題について、様々なレクチャーを受けた。そのときに担当官の方から念を押されたことは、たとえどんなに差別的と見られるような書き込みがあっても、簡単に削除などができるものではない、ということである。法務局が削除要請をするものには厳密な基準があり、検討に検討を重ねた上で、ようやく管理人に対して要請が行われる。それとても、「強制力」はないのだ。名誉毀損によって訴えられる例は、ごく少数なのである。これがどういうことなのかはご理解いただけるだろう、何よりも最大限に保障されなければならないのは、「表現の自由」なのである。私もこれまで、しょっちゅうこの日記のリンクをあっちこっちに貼られて晒されたりしているが、たとえそこでどんなに批判的に扱われても、これも「引用」の範囲内で許されていることであるから、腹を立てたことなどはない。どんなシロウトの日記だろうと、表に晒した以上は、批判の対象になることは避けられない。それがいやなら、とっととネットから去るしかなかろう。法的にも何の問題もないし、削除も含めて書き込みをどう扱うかの裁量もカトウ君に任せている。それでカトウ君に何の正義があるというのか。リンク貼りに何か異常なものを感じているのは、カトウ君の常識の方が異常なのである。自分のちっぽけな正義感が、もっと大きな、「人間の表現の自由」を犯していることに気付いていない。私に非があるとすれば、せいぜい「下品なことをした」程度であるが、彼がここを先途と「これだけは自分が間違っていない」と主張するのは、他に自分がすがれる論理を持たないからであるし、その行為は私以上に下品である。根拠のないプライドだけは高いので、潔く振る舞えず、やたら噛みついてくるのだが、そんなことをすればするほどカトウ君の異常さは目立つことになる。もし私のこの論理がおかしいというのなら、「法的に何の問題もない」という点を覆してみせなさい。と言うか、してみせろ。それが、「正義」を振りかざしたカトウ君の義務だ。「法の話なんかしてません」とか、また逃げを打たずに。
 私とカトウ君のバトルが、個人攻撃に移ってしまうのは、彼が一見、作品のことについて語っているように見えて、その実、「この作品を好きな自分を理解してほしい」オーラを発することになっているからである。彼が「主観」「主観」と口にするのはこのためで、結局、彼には自分の思い込みしかない。そりゃ、「人の話を聞けよ」と言いたくもなる。
 彼は「ネット上での考えには相違があるので、リンクを外したい」というが、この論理も意味不明である。私の掲示板に来られる方で、ネット上のルールについて、私と意見を異にする人はいくらでもいるが、そのことで掲示板に書き込むことを禁止したり、相互リンクを外したりする理由にはならない。そんなことをすれば、日本人の大半を閉め出さねばならなくなる。先ほども述べた通り、法に抵触しない以上、「誰もがレスを付けることのできる」ブログや掲示板への意見は、最大限尊重されなければならないからだ。それこそ、『響鬼』のブログの管理人が、批判書き込みも一切削除しないように。ヒステリーを起こしている管理人の運営するサイトでは、たいした批判文でもない書き込みでも、管理人の逆鱗に触れただけで削除の嵐になってしまう。カトウ君はその「危険領域」に片足を突っ込んでしまっているのだ。
つかねー、「絶対に俺は間違ってない」なんてモノイイ、マトモな人間は絶対に言わないよ。これもどうせカトウ君は「そんなつもりでは言ってない」とか卑怯なことを言い出すかもしれないから、だったら「この件だけは自分にも何がしかの根拠はあると思っています」と言い直せ、と言っておこう(そういうつもりで言っているのだと好意的に解釈してである)。それでもって、もっと明確な、主観ではない根拠を示せればいいのだけれど、結局彼は何も示さないもんな。
 この手の初歩的な言葉遣いもままならなくて、言ってることが前と後とで矛盾しまくっているから、言葉をそのままに受け取っていいのか、裏に何か別の意味があるのか、判別がつかず、どこにどうコメントを付ければいいのか、分からないのである。
 文章が下手なら下手で、どんなに努力しても自分の意志が伝わらないこともあるのだということは覚悟して、いちいち弁解しないくらいの潔さがあればいいものの、口では「自業自得です」などと言いつつ、余計な一言をいつも付け加えて、事態をまた紛糾させてしまう。そこが卑劣だ。「自分は意見の押し付けなどしていない」などという主張が、全くの「ウソ」であると理解できないのであれば(だから「主観」という言葉を使えば、そうなるんだよ)、リンク外しでもなんでもすればよい。ただ、ここまで一見柔らかな口調で、内実ただの押し付けをやらかした以上は、それを要求することは私に対して「縁を切ります」と主張しているのと同じ意味だと解釈する。これも「そんなつもりはない」などと逃げるな。「そう受け取られるよ」と言っているのに、あえてそれを行いたいというのであれば、実質的に絶縁宣言をしているのと同じことだ。全く、こうまで「こんな風に取られる言動を取るな」と言ってるのにそれを取り続けるやつも珍しい。
 まあ、「言葉の不自由なやつを苛めたってしようがないじゃん」とお諌めたい方もいらっしゃるかもしれないが(カトウ君相手だとそれも少ないかもしれないが)、これまでカトウ君が私に対して堂々とモノを言わずに陰口ばかり叩きまくっていたことは知っているので、そんなやつが「正義」を振りかざしてきたので、「ふざけるな、何様のつもりだ」とカマしてやっているのである。さあ、カトウ君がどう出るか、人に責任を押し付けずに、自分の意志で「あなたとは付き合えません」と言えるのであれば、少しは見直してやれるのだが。
 どうせまた、あっちこっちにメールしまくって愚痴だの陰口だの叩きまくることしかできんだろうな。


 夜、よしひと嬢から電話。
 しげの今度の泊まりについての打ち合わせであるが、肝心のしげが、明日のハカセとの結婚式に備えて、早寝してしまっていたので、後日、本人から連絡させるようにすると話す。
 カトウ君との一件についても少し話すが、「(カトウ君を)心配してる?」と聞いたら、「いや別に」とニベもない。「『このバーカ』と伝えといてください」と言うので、日記に書くことも承諾を貰ってこうして書く。これがまあ、カトウ君のこれまでの「蓄積」の結論なのである。

 と思っていたらまたカトウ君からメール。
 「縁を切りたきゃ切っていいですよ」。
 ……しばし呆然。
 世の中には何言っても通じないやつはいるものだし、通じないだろうなとは思っていたけれども、なんかこんなに「典型的」だと、カトウ君に考える力があるのかどうかすら疑わしくなってくるな。怒涛のように「あほ」と返事のメールを送ったが、心の底から反省して冷静になろうと努力しているカトウ君のことだから、きっとご笑納いただけることだろう(笑)。

 と言ってるすきに、今度は下村嬢から直接電話。今晩は千客万来である。やっぱりカトウ君の件で、心配して電話をくれたのであった。
 いろいろあって下村嬢も疎遠になっているけれども、彼女は私がいかに悪辣な人間かを知っているから、カトウ君のことを心配しているのである。「だって、彼は乙女だから」。言葉は柔らかいが、まあ、アレだってことだね(笑)。
 しかし、そんな比喩をされるとまるで私がいたいけな少女を拉致蹂躙して入るみたいである。カトウ君の外見は乙女とは程遠いんだけどなあ。
 「なんとかならないんですか?」
 「どうなるかねえ。別にどうなったって構わないとみんな思ってると思うけど」
 「……カトウさんがかわいそうになってきました」
 心配されてるけれども諦めもされているわけで、心配するだけ無駄な労力を使うことになるとは衆目の一致するところであろう。

 で、これで終わりかと思ったら、またメール。
 ああ、今度はハカセからだった! 何かホッとしてしまったが、昨日の日記を読んで、「ご祝儀少なくてもいいですよ。生活大事にしてください」という心遣いだったのである。まあ、こうなることは分かっていたのだが、昨日も書いた通り、恥曝しを覚悟して日記を書いているので、ゲルピンを隠しておくことなどできないのである。
 ハカセハカセ、今んとこ、ガスは止められてないからまだ大丈夫です(笑)。


 マンガ、星野之宣『宗像教授異考録』第一集(小学館)。
 いったん連載終了した作品が再開されることは決して珍しいことではないが、『サルまん』の「パート2ものは当たらない」法則は、本作に関しては杞憂だろう。星野ファンの(もしかしたら、高橋英樹ファンもいるかな)ほとんどが、民俗学の泰斗、歴史上の様々な謎について「異説」を唱え続ける宗像伝奇(むなかた・ただくす)の再登場を待ち望んでいたのである。
前作『宗像教授伝奇考』では、当初、宗像教授が伝説の巨人に遭遇するなど、SF色が濃かったものが、後半になればなるほど、かなり本気で歴史の謎に踏み込んで行くことになり、ミステリーとしての特色を強めていくことになる。今回も、遮光器土偶、山本勘助、聖徳太子、インド原始仏教の謎が、宗像教授のフィールドワークによって解かれていく。しかし、やはり本作のベースはSFであって、ミステリーであれば読者が憤然とするだろう宗像教授の「幻視」によって、解答が提示されることも多い。
 しかし、その解決の瞬間 ―― ネタバラシになることを避けるなら、ある人物が遮光器土偶を手にして呟く言葉 ―― のシーンを見たときに、たとえそれが「幻視」であろうと、それが土偶の真実であったに違いないと感じさせる説得力がある。もちろんそれは、星野さんの画力、構成力があればこそだ。
今巻では、『神南火』の主人公、忌部神奈も登場し、宗像と推理バトルを繰り広げる。ファンサービスとして嬉しい趣向であるが、バトルの題材となった聖徳太子の謎が、ほかのエピソードに比べてややインパクトに欠けるのが残念であった。

2004年09月09日(木) ホモでオタクな“あの”ストーカー
2003年09月09日(火) で、『CASSHERN』に樋口可南子はホログラフィーで出るのか?/『鉄腕バーディ』2巻(ゆうきまさみ)
2001年09月09日(日) 見え透いたウソにすがるココロは/DVD『ウルトラマンティガ THE FINAL ODESSEY』
2000年09月09日(土) なんでこんなにバカなのか


2005年09月08日(木) なーいないない金がない/『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(横山光輝・長谷川裕一/完結)

 タイトルは『ないない音頭』(by熊倉一雄)から。全く、こんな名曲がいつまで経ってもカラオケに入らないとは、世のオタクはちゃんとリクエストしているのだろうか。
 しげの日記にも書いている通り、今月はかなり財政がピンチなのである。
 もちろん、アソビにばかりカネを使っているからそうなるので、言い訳なんかできないし、同情されることではない。
 でも、我々とて一応モノは考えているので、本を買うにしても映画を見るにしても、ある程度は計算していて、予算オーバーにはならないように気をつけていたのである。見たい映画も涙を飲んでテレビ放送を待つようにして、今月はかなり控えている。
 だから、しげが「金がない」というのがどうにも解せなかった。まだ充分余裕があるはずだったので、「どうしてだ?」と問いただしてみた。
 「車検があるの忘れてたんで、それで予定が狂ったんよ」
 「日ごろから人に無駄遣いするなとか言ってるくせに、なんだよ、それは」
 「じゃ、あんたは金あると?」
 「ないよ」
 「なんで?!」
 「定期が今月で切れるの忘れてた。昨日買ったから、もう金がない」
 「あんたも無計画やん!」   
 まあ、バカ夫婦ここにありである。この日記は我々の恥もセキララに書くと決めているので、ご紹介した次第であるが、恥曝しはまだこれでは終わらない。
 しげがおもむろにこう言った。
 「ねえ……」
 「なんだ?」
 「ハカセの結婚式のご祝儀、減らさない?」
 ……ごめん、ハカセ。フクロが薄いけど、お祝いより自分たちの生活の方が大事だ。  


 各地に甚大な被害をもたらした台風14号、ようやくオホーツク海へ抜けて温帯低気圧に変わった。現段階での死者は20人、行方不明者は7人。自然災害だから諦めなきゃならない面があるにしろ、「事前に来ることが分かっている」のに、どうしていつもいつも犠牲者が出てしまうのか、どうにも歯がゆく、納得ができない。
 特にやりきれないのは、山口県岩国市の山陽自動車道の「のり面」が崩れた事故だ。新聞写真を見てその規模の大きさに驚いたのだが、長さ50メートル、幅15メートル以上にわたる盛り土で建設された高速道路ののり面が、上り線の路面ごと崩れ落ちたのである。この事故で、崖の下にあった家ごと三人が生き埋めになり、二人が遺体で発見された。開通後13年を経て、盛り土も充分安定していたのに、この始末である。耐震建築などもそうだが、どんなに人間が知恵を振り絞って自然に対抗する手段を考えても、それ以上の強大なパワーを持った自然が押し寄せてくれば、ひとたまりもないのである。
 日本の台風よりもはるかに被害甚大なアメリカのハリケーン「カトリーナ」であるが、こちらのニュースはいっこうに私の心に染みてこない。対岸の火事だからと言えばそれまでなのだが、救援の遅れやら略奪やら被害者の見殺しやらの殺伐としたニュースを立て続けに聞いていると、同情よりも先に「結局、あの国はそういう国である」と、国そのものに対する反感の方が先に立ってしまうのである。老人ホームの人たちを見殺しにして係員が全員逃げたって、そりゃなんだよ。ここまで無慈悲な事件はさすがに日本じゃ起こらないと思う(思いたい)。
 日本の治安だって、アメリカ並になってるじゃないかという意見もあるようだが、まだまだそこまでのことはないし、これからだってあそこまで悪くはなるまいと考えるのは楽観的に過ぎるだろうか。


 グータロウ君が、またヒビキ30話について、日記で絡んできた。
 あっ、この野郎、個人攻撃に走りやがったな。そうだよオレは「何様」だよ(笑)。
 って威張るつもりはないんだけれど、再々反論する意味はなくなっちゃったようなので、これだけ言って終わりにしとこう。「脚本の話しかしてないのに」っていうけどさあ、こっちは「脚本の話だけするんじゃねえ。それが、見方が『狭い』ってことなんだよ」って言ってるんだから、そこで「俺たちはあえて狭い見方をしてるんだ!」なんて卑屈に威張るんじゃねーやな。イタいオタクを演じられるってことは、即ち自分がイタいオタクだからだ。
 もともと、「ありゃヘンな脚本だったよなあ」って意見じゃ一致してるんだから、絡んでくる必要なんてないのに、勝手に私が「井上脚本を擁護している」なんて思いこんだ時点で大勘違いなんである。だから、「困ったなあ」と書いたのに、全く、鈍感もここまで来ると罪である。
 カトウ君はカトウ君で、自分の主張は全部「主観」と逃げを打って(これがどれだけ人を馬鹿にしてるかってことに気が付いてるのか?)、しかも「けんちんさんがあまりにも『井上氏の響鬼以外の活動』を引き合いに出してくるからです」とかデタラメ書きやがるし。そりゃ先にカトウ君がやったことだってーの。「響鬼以外の活動」を想定してなきゃ、どうして「井上脚本だめだ」と口にできるかね? 自分の言葉が何を意味してるかまるで理解しちゃいない。「リンク貼るな」なんて妙な正義感まで発揮するし、「何かにハマることでモノが見えなくなっている」典型だ。
 カトウ君が私にぶつけてきた言葉は、全部カトウ君自身に帰せられるものであって、結局カトウ君は「自分はこんなにイタイやつ」だってことを告白しているに等しい。彼が名指ししている「けいちんさん」というのは私のことではなくて、彼の妄想の中にだけいる存在しない私なのである。全く、鏡に向かって文句ぶつけてどうするかね。
 カトウ君のおしゃべりを聞いていると、「ああ、この子はずっとこうやって一人相撲ばかり取ってきたんだなあ」とそぞろ寂しい気分にさせられてしまうが、まあ、オタクが辿る道はだいたいこうしたものなのである。
 グータロウ君も、カトウ君も、一応『響鬼』を愛しちゃいるんだろうけれども、押し付けがましい愛は(押しつけてないと口にするのが一番押し付けがましいのである)大きなお世話でしかなく、相手からは鬱陶しく感じられるだけであろう。まあ、番組は番組で、ファン同士の諍いなどどこ吹く風とばかりに超然とそこにあるばかりだろうがね。

 しげが、「グータロウさんとケンカするの?」とハラハラしているが、おたがい四十を越してそんな体力気力はとうに尽きてるんで、このへんで「もういいよ」に流れるよ。それでも何かしらシコリが残るんじゃないかと心配しているようなのだが、たかがテレビ番組のことでそんなことになるほど私はバカではない。向こうはどうか知らんが(笑)。
 我々はもう、大切なこともそうでないことも、たいていのことは一晩寝れば忘れるようにできているので、しげの心配は杞憂だろう。老人力じゃないが、過去のことに拘らなくなるってことを、年取ることのプラス面だと考えるようにしよう。それってつまりは自然にオタクではなくなってしまうってことだがね。


 マンガ、横山光輝原作・長谷川裕一漫画『鉄人28号 皇帝の紋章』3巻(完結/講談社)。
 発売されて随分時間が経ってるんだけれども、ようやく入手。ネット注文もできない品切れ状態だったんだけれども、手に入れてみれば初版だよ、これ。売れ残ってたわけじゃなくて、いったん返本されたのがまた書店注文で取り寄せられたようだから、売れてるんだか売れてないんだかよく分からないのである。部数あまり出してないことは間違いないな。くそ。
 ギャロン、ギルバート、ケリー、そして最後の敵はやっぱりロビー。紋章を巡る戦い自体は第九話でいったん終わり、フランケン博士は劇的な(本当に劇的な!)退場を見せ、博士の「遺産」はアリスに受け継がれる。しかしそれは物語の終わりではない。
 アリスが背負わされた「運命」の決着、そして“意志を持つロボット”ロビーの語る「ロボット戦争」の真実。エピソードが連続していた前巻までと違って、やや散発的な印象になってしまったが、これぞ「正しいロボットマンガ」という印象は揺るがない。
 『鉄人28号』の物語が、今、なぜ語られなければならないか、その答えは、今は亡き金田博士の言葉に集約されている。

 〉「戦争が終わったって、それで全部が終わりじゃないじゃろう? 人間は、その先だってずっと生きていく。その時、こいつ(鉄人)の力は役に立つじゃろう。だからわしが造っとるのは“でっかい人”なんじゃよ。人間なら、その手に銃を持つこともあるじゃろう。だが、それを鍬や鋤に持ち替えることも……。花を持つことだってできる。こいつに今、何かを持たせちゃいかんよ」

 なんか「魂の言葉」を聞かされたって気になるなあ。この思想が、現代の、様々なロボット開発に繋がっているのだと言えるね。私ゃ「癒し系ロボット」なんて何なんだよって感想を持ってはいたんだが、そうだよな、「全ての科学技術は容易に戦争に結びつく」という思想を否定するんであれば、「犬型ロボット」だって許せちゃうのである。
 もちろん、マンガは思想を語る道具じゃない。しかし、マンガから思想は自然に表れる。ロボットマンガは純粋にエンタテインメントであることが私にとっては理想なのだが、物語を支える思想が右だの左だのといった狭苦しいものでなくて、ただひたすら人類の未来を信じるものであるなら、物語は決して破綻しないのだ。
 同じようなコンセプトで始められていながら、少年探偵どころか辛気臭いとっちゃん坊やになり下がった正太郎が愚痴を言うばかりの今川泰宏監督アニメ版は、横山光輝の名前を冠するに値しない糞アニメであった。横山さんの衣鉢を継ぐ『鉄人』は、ここにある。

 しかし、個人的に一番のツボだったのは、敷島博士と大塚署長の次の会話だったりする。

 〉敷島「正太郎は私の娘のマキと結婚させるのだ!」
 〉大塚「あんた娘いないでしょうがっ!」
 〉敷島「え? あれ? でも正太郎くんは将来有名なロボット学者と結婚するって決まってるから」
 〉大塚「何 混乱しとるんですか?! あんたは?」

 『鉄人』アニメ化の歴史がいかに黒歴史であったかを象徴するような会話だね(笑)。

2004年09月08日(水) 入院顛末4・絶食したのに太るフシギ
2003年09月08日(月) ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)
2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか
2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか


2005年09月07日(水) 無責任賛歌事始/『エマ』6巻(森薫)

 台風、午前二時ごろまで吹き荒れる。
 これだけ長い間九州に居座ったってのも、生まれてこの方、経験したことがないが、なんでもいつもは台風を東へ押し流す上空の偏西風が、今回はピタッと止んでいて、それでゆったりゆったりと進んでたってことのようだ。
おかげで、ずっとマンションの部屋に閉じ込められた格好になってしまったが、こうなると落ちつかないのがしげである。そもそも食料の買い置きをしていなかったので(しとけよと言ったのにまたしげがサボったのである)、食うものがない。それで、夜中にいきなり「買い物に行く」と言い出すのだ。外はもう、ビュンビュン風が吹いているし、看板の一つや二つは飛んでそうな気配である。とても外に出せる状況ではないのだが、放っとくとしげは嵐の中に喜んで飛び出していきかねないのである。なんでそんなことをしたがるのか理解の範疇外なのだが、『八月の狂詩曲』の婆ちゃんのように何か止むに止まれぬものに駆り立てられてしまうのだろう。要するにやっぱりイカレているのである。
 だもんで、しげが起きている間中、こっちもずっとしげを見張っているしかなかった。午前三時を過ぎてようやく寝てくれたが、外を覗くと、さっきまでの雨風がウソのようにピタッと止んでいる。これなら仮にしげが置きだして買い物に出かけても大丈夫かと、ようやく寝た。でも結局、今朝は二時間しか寝ていないのである。こんなことがしょっちゅうあったら、体力持たんぞ。もう今年は台風来んでくれ。


 またもやマンガの実写映画化であるが、今度は一色まことの『花田少年史』だって。
 うーん、あまり意外性がないと言うか、ごく普通に実写になりそうと言うか、ということは原作って、絵柄の面白さはあるけれど、アイデアやストーリーは漫画特有のものじゃなかったってことだな。人気のあったマンガだとは思うけれど、何かキャッチーなものに欠ける気がする。もっともそれは「オタク的には」ということで、世間一般へのアピール度は高いのかもしれない。
 主人公の花田一路は当然子役で、須賀健太君と言うそうだ。何か聞いたことある名前だなあと思ったら、『ゴジラ FINAL WARS』で泉谷しげるの孫を演じてたあの子だわ。一路にしてはちょっと線が弱くないかなあ……って、子役の品定めまでしなくてもいい気はするが。
 でも、母ちゃんが篠原涼子で、父ちゃんが西村雅彦って聞くと、どうにもマンガのイメージと違いすぎていて、ああ、やっぱりスタッフは「原作がマンガだ」ということを気にせず映画化するんだなあと思って、ちょっと寂しくなった。一昔前だったらああいうバイタリティー溢れる日本のお母ちゃんは、藤田弓子とか京塚昌子とか市原悦子とか清川虹子とか丹下キヨ子が演じてたようなキャラである。それを篠原涼子とはねえ。それともデ・ニーロばりに太らすのか。西村雅彦も全然キャラが弱すぎるけれども、スタッフは本気でこの映画をヒットさせようって考えてるのかどうか、よく分からないキャスティングである。
 ストーリーは、「オバケの見える能力を持ってしまった一路の前に、おまえの父ちゃんは人殺しで、自分が実の父だと言うオバケの沢井(北村一輝)が現れ、真実を求めて一路は冒険に出る」というものになるらしい。そんなエピソード、原作にあったっけ? とどうにも思い出せないのだが、これがオリジナル・ストーリーだとしたら、本当に原作の設定だけを借りた、「別物」として、割り切って見るしかない、と覚悟するしかなさそうである。
 製作サイドは「和製ハリー・ポッターを目指す」と息巻いてるみたいだけど、それ、作品が全然違うでしょ(苦笑)。


 何だか最近、映画の興行収入を気にすることが多くなっているけれども、これってやっぱり昨年あたりから「オタク仕様」な映画が増えてきたせいかな。それが必ずしもムーブメントとして定着している印象がないのは、残念なんだけれども。
 先週の一位はこれはもう、予想通りの『NANA』の快進撃なのだけれども、初日・2日目の成績だけで動員約39万6000人、興収5億3600万円と、『世界の中心で、愛をさけぶ』並の好スタートだそうな。『セカチュー』がカップル中心に幅広い層に受けていたのに比べて、『NANA』は殆どの客が女子中高生だから、狭いターゲットをよくぞ動員したものだと感心する。しかも彼女たちの殆どがオタクじゃないのだ! 私のような中年男は、子供映画を見に行くよりも足を運びにくい。劇場に一歩足を踏み入れた途端に女子中高生の冷たい視線に晒されるかと思うと……。私がM男くんだったらそれもまた甘美な味わいなのかもしれないが、やっぱそっちの特性は私にはないようだ(笑)。これなら三ヶ月から半年くらいは上映しそうだから、人けのないレイトショーで見に行くことにしよう。
さて、不安と期待の『仮面ライダーヒビキと7人の戦鬼』であるが、『室井慎次』に継いで3位の登場は素晴らしすぎる成績である。動員が23万8000人、興収2億7700万円で、昨年の『剣(ブレイド)』よりも二割増しの好スタート。これで二週目以降も客足が落ちなければ、最終的に12億円くらいのヒットにはなりそうだ。『ハガレン』と違って、オタクや腐女子以外にも親子連れの客を見込めるから、達成不可能な数字ではないと思う。それにそういうフツーの家族は、ネットで『響鬼』が叩かれてる状況なんか知らないだろうしな(笑)。
 それにしても『響鬼劇場版』公式サイトのコメント欄はまた大変なことになっている。「30話の乱」と言ってもいいんじゃないかってくらいに荒れまくってるが、「30話にあまりに腹が立ったから、映画は見ません」とか「もう子供に『響鬼』は見せません」とか「DVDは29話までしか買いません」とか、そんなことを表明してどうするの?という常軌を逸したコメントが続出している。こんな連中の肩を持とうってんだから(持つつもりはないんだろうが、結果的に賛同を示しているのと同じことになっちゃってるよう)、グータロウ君もカトウ君も全くわからんちんなことだが、まあ、「惚れたが因果」だから仕方ない。でも、オタクにはあまり熱くなったりムキになったりしないで、一歩引いてモノを見る視点も必要だよ、ホント。


 ここんところ、また少しずつ「エンピツ」のアクセスランキングが上がってきていて、50位前後に位置している。毎日、300人近くの人が覗きにいらっしゃっている勘定だ。もっとも、最近は「積木くずし」関連の検索で来られる人が何十人もいらっしゃるから、実質しょっちゅう来られている方は、100人くらいのものであろう。「友達100人できちゃった」ってとこだろうか(笑)。でもそろそろパソコンの向こうのお客さんの顔が「見えなく」なってきてはいるのだ。
 五年前の日記を読み返したりしていると、「今日は20人もお客さんがいらっしゃった」とか書いている。私にイメージできるのはこの程度の人数で、まあそれくらいなら、こんなシロウトが好き勝手書いてるだけのサイトを覗いてやろうなんて奇特な人もあろうなと納得できなくもないのである。
 時々、更新が遅れたときに、見知らぬ方から激励のメールが届いたりして、勇気付けられたりすることがある。私自身は書いてる内容に対してどんな批判や反論をされても構わないと思っているのだが、思いもよらず、賛同を示されるとかえって恐縮してしまう。
 いったい私の書く文章の内容にどれだけ説得力があるのだろうか? 自分ではできるだけ客観的かつ冷静に努めているつもりではあるのだが、世間サマを見渡してみれば、「私は冷静です」と言ってる人間が本当に冷静だったタメシがない。鏡に映さない限り、自分自身の姿が一番見えない、というのはどんな知恵者と言われる人であってもその通りである。いや、「知恵者」なんてものは存在しない。当たり前の話であるが、人間はラプラスの悪魔にはなれないのだ。全ての人間は等しく愚か者である。この事実を認識できずに「全てを見通し真実を語れる」などと公言すれば、それはただの傲慢でしかない。
 しかし、たとえいかに自分の知識が浅薄で、判断力も洞察力もなかろうと、ない知恵を絞り、その時々でモノを考え行動していくのも自分しかありえない。人は「愚かでしかありえないから」、自分が言ったこと、行ったことで誰かを傷つけ、怒らせ、泣かせてしまうことから逃げられはしないのだ。だからまあ、「無責任賛歌」という日記タイトルの由来ということになるのであるが、これは「責任放棄して好き勝手やる」という意味ではなく、人間が等しく愚かであるならば、そもそも「責任を取る」なんてことはできない、という現実を冷徹に見つめよう、ということである。
 ほんの些細な言葉が、人を傷つけ、死に至らしめることすら世の中にはある。しかし、その責任を誰に帰属させられるだろうか。ある総理の「黙殺する」の一言が何十万の人間を殺すきっかけになったことがあった。しかし、それを「総理の責任」と追及することができるか。そのときの総理が誰であっても、その時点ではそう言わざるを得なかったのではないか。責任の取れない一言である。しかしもしその総理が「責任」を感じていたとしたら、世間の轟々たる非難をただ一身に受け止めひたすら耐えるしかなかったであろう。
 人間は等しく、自らの言動については「無責任」を「覚悟」するしかないのである。しかし世間は、責任の所在を「自分以外の誰かかどこか」に求めることに汲々としている。自分には責任感があると堂々と標榜している。そのほうが楽だからだ。自らの愚かさに目をつぶっていられるからだ。他人を見下して悦に入っていられるからだ。そんなウソツキの卑劣漢は、そこにも、あそこにもいる。
 だから、私の「自らの愚かさを自覚し、無責任を覚悟する」などという意見は少数意見でしかないと思う。だから、この日記の賛同者が百人も二百人もいる、ということがどうにも実感できない。自分をもっと見つめたい、なんて考えている人間に出会うことなど、現実には極めて稀だからだ。ネットの向こうにはそれだけの覚悟をしている人たちがそんなにたくさんいるということなのだろうか? 
 もちろん常連の方がみな「覚悟している人たち」であると断定することはできない。私は日ごろから日記の中で、「覚悟のないやつ」は徹底的に揶揄し罵倒しこき下ろしている。生半可な気持ちで読んでいたら、そいつらは、「これはオレのことを馬鹿にしているのか」と確実に不快になることだろう。私はそんなやつらを燻し出すためにあえてフレーミングを行っている。だからいったんは「楽しく読ませていただいています」というメールをくれた人でも、次第にキツい口調のメールをくれるようになり、疎遠になってしまうことはよくある。
 だからまあ、お客さんはどんどん減って行って仕方がないと、そのことも「覚悟」しているのに、現実にはこの五年間で、少しずつ、少しずつ、増えて行っている。いったいどういう気持ちで私の文章を読んでいるのだろう? 
 私は特にオタクや腐女子を罵倒している。もちろん、彼ら彼女らが「自分を見ようとしない」人種の最たるものだからだ。そして私が彼らを非難できるのも、紛れもなく私自身の中に、私が非難する「オタクのダークサイド」が確実に存在しているからである。
 「批判」が単純に「他人を馬鹿にし、見下す」行為だと勘違いしている人間は多い。しかし、ある言動が「愚か」であるかどうかを判断するためには、「そういう愚かさ」が自分の中にも存在していないとできることではないのだ。人が誰かを非難するのは、すべからくそこに「自分自身」を見ているのである。まあ、親が子の失敗を叱る時に、「同じ失敗を自分も過去にやらかしている」のと同じ理屈だ。
 ハッキリ言っちゃえば、私は自分自身も含めて、全人類が大馬鹿野郎のコンコンチキであると「平等かつ公平に」決め付けているので、私の罵倒から逃れられる人間はいないのである。だからまあ、私の文章を読んで、少しも不快にもならず怒りもせず、という人が常連さんの中にいらっしゃるとすれば、それはもう天使のような心の広いお方か、超鈍感か、はたまた罵倒されて喜ぶMさんのいずれかではないかとしか私には思えないのだが、あなたは、どのタイプでいらっしゃいますか?


 マンガ、森薫『エマ』6巻(エンターブレイン)。
 第一巻のころは、ほのぼのメイドさんものかと思っていたのが、何かもうものすごい大河恋愛大ロマンになりそうな気配の第六巻だけれども、アニメはたった12話ではとてもそこまでは行かなかったようだ(DVDで買ってるから、まだ最終回までは見てないのである)。しかし、原作がまたある程度進んだら、再アニメ化してほしいね。もう話はどんどん凄いことになってるから。
 エレノアとの婚約を解消し、エマとの結婚を決意するウィリアム。しかし、エレノアの父・キャンベル子爵は、ウィリアムの父・リチャードからの手紙を読んで、「陰謀」を巡らし始める。エマは、ウィリアムの名前を騙った手紙におびき寄せられ、拉致されてアメリカ行きの船に乗せられようとする……。
 何かもうここまで来ると、少女マンガの三大ロマンは『ベルサイユのバラ』『キャンディ・キャンディ』、そして『エマ』だと言いたくなるくらいの怒涛の展開。
 前巻から登場のキャンベル子爵、貴族主義の塊のような人物で、本当はウイリアムのジョーンズ家のことも「成り上がり者」と嫌悪しているくせに、なぜか娘との結婚話は強硬に実現させようとしている。そのハラがまだいっこうに見えないので、いささか不気味である。こういう紳士然とした悪役、『三銃士』のリシュリュー卿かドラキュラ伯爵かってもので、私の好みにドンピシャなのだ。もう、『エマ』が実写化されるんだったら、ぜひクリストファー・リーに演じてもらいたいってくらいなもので(キャンベル子爵はそこまでトシヨリじゃないけど)。こいつは自分が貴族だから、何をやっても許されると思っている。裏でエマを誘拐させといて、サロンで「近頃何か変わったことでも?」と問われて、「ないですね。退屈なものです」と無表情で言い切るこの冷たさ! こいつ、本当に「退屈」してるんだよ! エマのことなんて、歯牙にもかけてやしないのだ。ああ、やなやつやなやつやなやつ。
 権謀術数はお手のモノってな子爵にかかっては、ウィリアム坊ちゃんなどはとても立ち打ちできそうにないのだが、ラストのリチャード父ちゃんとの怒涛のような(この形容詞がどうしても多くなっちゃうな)応酬に、ちょっと「イケるかな?」と思い直した。
 ヒーローは常に逆境に立ち向かう。そして、その逆境に打ち勝つことができるのなら、ウィリアムとエマは絶対に幸せにならなければならない。ヒーローとヒロインもそうなろうとしているし、読者もそれを望んでいるし、当然作者もハッピーエンドを目指して、そこに至るまではこれでもかこれでもかという困苦と愛憎の物語を展開させてくれることだろう。
 その三者がみな幸せになるのが「ロマン」というものの正体なのだ。二人は決してロミオとジュリエットにはならないのである。

2004年09月07日(火) 入院顛末3・徒労
2003年09月07日(日) 「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか
2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか


2005年09月06日(火) ぴゅーぴゅーざーざー/『サマー/タイム/トラベラー1・2』(新城カズマ)

 台風直撃。電車が動いてないので出勤はムリ。
 朝、最寄り駅まで一応、行きはしたのだが、そこまででも突風と雨に煽られて、歩くのもちょっと怖い。どこぞの看板がいつ飛んできてぶち当たってもおかしくない状況である。
 職場に電話連絡をして今日は休む。週の合間に休めるのは嬉しいのだが、仕事が滞るので明日がちと大変なことになりそうだ。
 終日、寝るか本読むかCSで映画見るかして過ごす。台本はやっぱり遅々として進まない。しげの「いいよね巨匠は」の声がキツい(涙)。

 夜、よしひと嬢のお宅に電話。
 今度の森田雄三さんのワークショップが北九州であるので、しげを泊めてもらえないかお願いするためである。さすがに三日間、通いで北九州に行くのはちょっとキツイしねえ(私は仕事があるのでそうせざるを得ないんだが)。
 電話口によしひと嬢のお母さんが出られたので、事情を説明したのだが、快諾していただけたので安心。
 だいたい、こういうのはしげ本人に関わることなんだから、自分でやりゃあいいのだが(電話だけでなく、よしひと嬢へのメールまで全部私に代行させているのである)、メイワクな「おねがいごと」なんかして、よしひと嬢やご家族に嫌われやしないかと疑心暗鬼にとりつかれているのである。
 しげは、自分の好きな人に対してはこの「嫌われたくない」モードにスイッチが切り替わってしまうので、かえって疎遠になったり「どうせいつか嫌われてしまうなら!」と迷惑な言動を取ってしまうという悪い癖がある。
 おかげで私なんか、この十年以上、毎日毎日、私がしげのことを嫌ってないかどうか、私を怒らせるような失敗をわざとやったりして「試されて」いるのだが、私の体力が持つのもあとたいして時間はなかろうから、いい加減でそんなアホなまねは止めてほしいのである。
 まあ、止められないから病気なんだろうけど、それで私が早死にして困るのはしげなんだと思うんだけどなあ。


 『仮面ライダー響鬼』の脚本交代について「まあ、アレもアリなんじゃない?」と書いたら、グータロウ君が日記で「いや、ナシだ!」と反論してきた(笑)。正直な話、ちょっと困っちゃったのであるが、「アリだよ」とハッキリ書いちゃった手前、再反論をしなきゃなるまい。
 と言っても、別に30話が傑作だなんて「弁護」したいわけではもちろんなくて、私が言いたいのは「テコ入れなんてよくあることなんだから、過剰反応して自分を見失わないようにね」ということなんである。『響鬼劇場版』公式ホームページのコメント欄を見てご覧よ。劇場版のサイトなのに、30話批判の「荒らし」が大挙して押し寄せてるから。「今までのヒビキを返して!」なんて書き込みのうすら寒さはどうだ。作品を私物化しようとするファンの典型じゃないか(まあ、肯定派も否定派もどっちもイタいんだが)。
 自分の好きな作品が台無しにされた悲しみはそりゃ分からんでもない。
 『ウルトラQ』がトワイライトゾーン路線から怪獣路線に変更されたりな(まあアレは放映前の変更だから視聴者は気が付かなかったんだが)、『どろろ』が『どろろと百鬼丸』になったりな、『マイティジャック』が『戦え!マイティジャック』になったりな、『シルバー仮面』がジャイアントになっちゃったりな、『ルパン三世(旧)』の宮崎駿化とかな、いやもう、『ヤマト』『ガンダム』『ゴジラ』の「続編」というやつもどれだけ我々のアタマを悩ませてくれちゃったことか。
 オレたちゃそんなトホホな目にイヤんなるほど遭遇してきてるんだけれど、同時にそれはそうなっちゃうだけの仕方のない状況(必ずしもオトナの事情ばかりではない)もあったんだってことを学習もしてきたんであって。
 けれど、荒らし連中は「自分が正しい」と思い込んだ「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」の群れだから、恨み骨髄になっちゃってて、ヒステリックに泣き騒ぎ脅すことしかできなくなってしまってる。いくら路線変更が悲しくっても、そんなアホどもと歩調を合わせちゃいかんよ。2ちゃんねるは覗いてないけど、状況は多分、もっとひどいだろう。山本弘さんとこの掲示板はどうなってるかな(笑)。
 みんな、何を勘違いしてるかって、そもそも29話までだって『響鬼』には「絶対崩してほしくないドラマ全体の匂いやバランス」なんてものは無いじゃん、ってことなんで。「いきなりミュージカル」で始まって、「魔化魍」に「ディスクアニマル」に「音撃戦士」に「猛士」に「鬼は名字と名前のイニシャルが同じ(ってことは桐矢君も鬼候補か)」に「葛飾柴又の甘味屋の下條のおやっさん」に「擬似寅さんと満の関係(と思ってたらいつの間にかヤオイ)」にと、こんなデタラメな話のどこに「世界観」なんてもんがあるかい。いくら平成版『仮面ライダー』が旧版からのイメージの脱却を狙ってるからと言っても、やりすぎだろうって反発はあって当然なんだが、それがさほど言われなかったのは、これはもう「ライダーファン」から「あきらめられてる」面もあったからなんだよ。
 だから『響鬼』は同じ石森原作でも『ゴレンジャーごっこ』か『ちゃんちきガッパ』だと思って見るしかないなあ、だから「なんでもあり」なんだよなあと思ってたんで、それが百も承知なら、「崩してほしくない世界観」なんてものを自分勝手に脳内補完しちゃいけないよ。昨日の日記にも書いたが、安易に「こんなの(オレの)ヒビキじゃない」なんて言うのは現場の役者さんたちに対して失礼だ。せいぜい、「桐矢のキャラ、何もあそこまでマンガにしなくてもよかったんじゃないか」くらいに留めておいたほうがいい。でないと「荒らしさん」と同じ穴の狢だ。
 ああ、それから送ればせながら、誕生日おめでとう。また一つ先を越されてしまった。ちなみに今日は永井豪の60歳の誕生日だ(笑)。


 新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー1』・『同2』(ハヤカワ文庫)。
 作者の新城カズマさん、生年不詳の架空言語設計家さんだそうである。でも、小説の中身を読んでくと、SFに対する言及の様子から見て、まあ三十代以上ってことはまず間違いないなってところである。四十代越えてるかもね。
 二巻に渡る長めの長編だけれども、粗筋だけを紹介すれば、ある日、時間跳躍の能力を手に入れた何の変哲もない少女が、「ここではないどこかへ」行きたくて、友達も家族も、街も置いて、未来に向かって駆け去っていく、それだけの話である。それがなんでこんなに長い話になっちゃってるかって言うと、あいまに登場人物たちの「SF談義」とかが延々と書き続けられてるからなんだね。普通の小説ファンにはまず付いてこれないだろうことは間違いない。もちろんこれは作者の確信犯的なシワザであって、つまりこれは、「SFファンのSFファンによるSFファンのためのSF」であることを高らかに謳ってるんである。
 そのエッセンスを説明することはなかなか難しいんだけれども、例えば物語の語り手の卓人が、友人のコージンと初めて出会うときの会話を見ていただきたい。

 ある本を読んでる卓人に、コージンが声をかける。
 〉「『伝奇集』かよ。面白れえのか。それ」
 〉「まあね。『円環の廃墟』とか」
 〉「ふん。わかってねえのな。『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』だぜ。一番は」
 読んだ瞬間、背中がゾクッとした人は私のお仲間である(笑)。でもって、もし私が彼らと同じ高校生で、彼らの会話に参入できるのなら、「ルイへ・ボルヘスはなぜ英語で小説を書くことをせずに、母国語のスペイン語に回帰したのか」とか、どこぞの本から受け売りで仕入れた知識で論争を吹っかけたことだろう(若いときはこういう青臭いことをしてもいいのである)。

 「SFとは何か」って論争は、我々の世代が学生のころにはそれこそ毎日のようにやっていた。世界の全ての問題に優先することだと思っていたと言っても過言ではない。けれど、SFが死滅してしまった現在では大学のサークルですらあまり語られていないのではないかという気がする。だからそれだけでもこの小説は懐かしい。作者が同世代じゃないかと考えるのはそのあたりにも理由がある。
 けれども、この小説がさらに「懐かしい」のは、「SFとは何か」だけではなく、「SFがなぜ好きか」って我々の思いを、この小説が持っている雰囲気全てで表現しているからである。しかし、その懐かしさにはそれだけでは終わらない、何とも言いようのない切なさも伴っている。

 主人公の住む「辺里(ほとり)」という町。何とも皮肉なネーミングだが、東京郊外の、何の特徴もない、それこそ「ジャスコ」があることで繁盛しているように住民が思っているような逼塞した町である。でも、日本中にこんな町はありふれている。平凡で無個性な人間が日々時間を浪費するためだけにある町なら、「SFが好き」で現実のつまらなさをイヤというほど感じている、普通の人よりも「ちょっとだけ賢い」若者なら、そこから出たい、「ここではないどこかへ行きたい」と思うのは自然なことだろう。しかし、そういう若者に現実に機会が与えられることなんてない。
 本編での“時を駆ける少女”悠宇(「悠久の宇宙」とはまた素晴らしいネーミングだ)は、何の特徴もない、100人人間がいれば、その中に埋没してしまって全く目立たないような少女である。ところが、そんな少女にタイム・リープ能力が授けられたのだ。そして、彼女は誰も見ることができない未来に向かって旅立って行く。彼女の能力は、「未来に向かってしか発動しない」。そして、卓人たちは彼女に見事に「置いていかれる」のだ。
 即ちこの物語は、「時を駆ける少女」の物語である反面、「置いていかれた我々」の物語でもあるのだ。卓人たちは、確かに没個性な人間たちから見ればちょっとは「賢い」のだろう。ただ時代に流されることを潔しとせず、現代を凝視し未来を展望した。「SFが好き」ということは、即ち自分たちがそういう「目」を盛っているということを意味していた。その目があれば、いつかこの町を出て、自分たちの「本当の未来」を築けると信じていられた。「ここではないどこかへ」行けると思いこんでいた。SFは「未来」の象徴であり、自分たちは「未来の子」であるという自負があった。
 しかし、全ては我々の幻想である。
 SFは今や死に絶え、時代を語るタームとして機能しなくなってしまった。平凡と無個性は、結局は我々にまとわりつき、若さと、夢と、ほんの少しの賢さすら奪っていった。我々には現実を変えることも、未来を築くこともできない、そんな力などもともとないのだということに気づかされてしまったのである。「オタクエリート論」など、何の意味があろう。これは「オタクが置いていかれた」物語なのだ。悠宇が、時間跳躍能力がなければ「平凡な少女」として設定されている皮肉を、我々は噛み締めて読まねばならない。
 卓人は、我々かつての「SFファン」の象徴である。そして、今も我々は「悠宇」から「置いて行かれ続けている」。それが切ない。それが寂しい。ラストの、怒涛のような「未来予測」は、それが当たろうと外れようと、未来が現在の地続きでしかないことを表している。本当に未来に夢を見るためには、悠宇のように「未来に飛び続けるしかない」のだ。それができない我々「凡人」は、ただ「時に置いて行かれる」ことしかできないのである。


 マンガ、大場つぐみ原作・小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』8巻(集英社)。
 第二部に入って、ちょっと人気が落ちちゃってるんじゃないかと心配ではあるが、まとめて読んでみるとまだまだ面白い。けれども、対立するライト、ニア、メロの三つ巴の戦いが、これまでのライト対Lの物語よりもインパクトが弱くなっているのは事実である。
 まず第一に、この三者のキャラクターとしての書き分けが明確でなくなっている。「知恵比べ」の難しさは、どちらも同程度の「知恵」を有していると、思考の過程がどうしても似通ってしまうために、キャラクターの内面の差異を付けづらくなってしまう点にある。だからまあ、頑張ってニアには玩具に拘る幼児性を、メロには残虐さを付与しているわけであるが、かえって「取って付けた」感を生み出してしまつている。
 さらに問題となるのは、肝心の主人公であるライトに感情移入がしづらくなっていることだ。デスノートによって犯罪者を罰する。そこには法治国家としては許されないが、庶民感情としては納得できる「正義」があった。しかし今のライトは、理想社会を築くと言いながら、実際には自分に逆らうものを粛清しようとするだけの、「独裁者スイッチを握ったのび太」状態になってしまっている。純粋な悪ならばそれはそれで魅力は生じるのだが、ただの「勘違い野郎」に成り下がっているライトには、以前の魅力が殆ど感じられない。
 このままの流れで行けば、最終的に勝利を得るのはニアになりそうな気配であるが、ここはもうちょっとライトに踏ん張ってほしいところである。それとメロをただの「噛ませ犬」に終わらせないようにしてほしいと思う。この三者の中で一番人気がないのは多分メロなんじゃないかと思うが、今んとこキャラとして一番立ってるのはこいつなんだからね(笑)。

2004年09月06日(月) 入院顛末2・ブラッククイーン?
2003年09月06日(土) 学校が守っているものは何か/『死神探偵と幽霊学園』第1巻(斎藤岬)
2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか
2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)


2005年09月05日(月) 切れる信者/『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」

 台風14号が接近していて、昼あたりからずっと雨。
 今年は台風が殆ど九州を避けてるなあと思っていたのだが、来るときゃ来るでまた特大のが来やがった。中心はまだ奄美大島のあたりだっていうのに、暴風圏がバカでかくて、何と東京に集中豪雨まで降らせているのである。
 油断して、傘を持って行かなかったので、帰りはかなり降られた。しげに「タオル用意してよ」と頼んで迎えに来てもらう。
 「レッドキャベツ」で水を汲んで、「マクドナルド」で秋限定発売の「月見バーガー」を食べる。何度か日記にも書いたが、日本中でしげほど月見バーガーを愛している女はいないのではないかと思う。ともかく発売されるたびにテレビCMを見て、「月見バーガー食べに行くよ!」とうるさいのだが、いったん食べたあとでCMが流れると、今度は「もう食べたよ!」と突っ込むのである。なぜそこまで執着するのかよく理解できないのであるが、これも「女のウラの顔」というやつであろうか。思いっきり表に出てる気がするが。
 そのあと帰宅したあとも食欲魔人なしげは「オムライス作って作って作って」とうるさい。ケチャップが切れていたので、ソフトスパゲティに付いてた粉末トマトルーの余りを使って、まあ、チキンライスと言うか、「鶏肉混ぜご飯」を作る。卵の薄皮でライスをくるむなんて高等技術は私にはないので、厚皮の卵をご飯の上に乗せるだけだ。それでもしげは気に入ったようで、二人前くらい盛ってやったチキンライスを一粒残さず平らげる。今更ながらに思うことは、しげの人生の八割は、食うことへの情熱に支えられているのである。脳の隙間にまで焼肉とかが詰まってるんじゃねえか。


 テレビ&劇場版『響鬼』のショックは各方面に多大な影響を及ぼしているようで、あっちこっちのサイトで、ヒステリックな書き込みが続出している。
 いくつか、その痛さぶりを引用して笑い飛ばしてやろうかとも思うのだが、万が一そいつらにここが見つかるとまた面倒な事態になってしまいかねない。たとえ「引用」が公的に認められている権利であっても、そういうキレてる連中は、まず間違いなく自分がからかわれていると分かると、「よくも人のことを馬鹿にしてくれたわね、きいいいい」と髪振り乱して粘着してくるのである。
 だから、ごくかいつまんでそいつらがいかに馬鹿かということだけ指摘しておこうと思うが、馬鹿が何に文句を付けているかというと、一に時代考証、二にご都合主義なんである。
 時代考証については、そもそも『響鬼』にマジメな時代考証を求めること事態、ナンセンスであるということを昨日の日記にも書いた。あるサイトでは、「タケシが組織されたのが戦国時代なら、どうやって古代の土蜘蛛の資料があるんだ」なんてツッコミを入れていたが、単に古文書を集めただけだろうに。「井上敏樹憎し」菌が脳内に蔓延していて神経がイカレているから、もう何でもデタラメにしか見えなくなっているのである。
 物語のご都合主義を非難するのも、時と場合によっては的外れであるということを考えなければならない。ご都合主義がなければ成立しないドラマにご都合主義だと文句を付けるのはロミオに向かって「どうしてあなたはロミオなの?」と問いかけるようなものじゃないか。確かに劇場版の脚本は陳腐で安っぽいが、もともと信者がこれまで『響鬼』を過剰に持ち上げすぎたことが、反作用的に「よくもないが貶すほどのこともない」脚本を「最低」なもののように錯覚させているのである。テレビシリーズだって「ご都合主義」の塊で、基本的にはB級作品だ。B級作品はB級作品として楽しむのが妥当なのに、それをA級であるかのように思いこむから目が曇る。
 「危険が迫ったときに限ってヒーローが助けに来る」というヒーローものの定番だって、腹を立てる人は「都合がよすぎる」と言って怒るものだ。まるで物語の体をなしていない映画『デビルマン』に比べれば『響鬼』劇場版は立派なものである。……(まだ『デビルマン』ショックは尾を引いているのである)。

 前回のテレビ版第30話についても、もう一言付け加えておこうと思うが、脚本の落差の激しさに過剰反応するのは、結果として役者さんたちの演技や監督の演出などを貶めることになるってことに半可通なオタクや腐女子はいい加減で気づいた方がいいと思う。
 こんな芝居の基本を今更語るのはこっ恥ずかしいのだが、脚本はあくまで「土台」なのであって、それを「映画」に昇華させているのは役者の演技であり監督の演出であり、その他もろもろのスタッフの努力、音楽に編集である。私は、あれだけ雑な脚本が、結果としてちゃんと「響鬼」になっていたことに驚いたのだ。
 たとえば、これまで殆ど行われなかった「楽屋落ち」、あの頭を抱えたくなった「昨日から映画が」のセリフであるが、あれがちゃんと「ヒビキのセリフとして聞こえている」ことに気付いたファンがどれだけいるのだろう。書かれたセリフはふざけているが、発声されたセリフはふざけていないのだ。あれが「演技力」というものである。
 ヒビキはヒビキだったし、明日夢君は明日夢君だった。土台がぐらついていたにもかかわらず、『響鬼』が『響鬼』であって、決して「モドキではなかった」ことは賞賛されていいくらいである。つか、「ヒビキファン」を名乗るんなら、もっと役者さん、監督さんたちを信頼しろってば。これはいくらなんでもおかしい、と思ったら、現場で脚本変えるくらいのことは、あの人たちならするぜ。つか、断言するが、まず確実に30話は役者さんたちによってセリフが「『響鬼』らしく」変えられている。初登場の桐矢は井上敏樹っぽいのだが、ほかのキャラはそれまで自分たちが培ってきたキャラに合わせて、セリフを仕立て直していると思しい。細川さんを始め、『響鬼』の役者さんたち、みんなそういう人たちだってことに、これまで付き合ってきて気付かないかなあ? その努力があったからこそ、30話は、まだ充分「響鬼」の世界観の範疇にある話になってるんである(勘違いするやつがいると困るから念のため付け加えておくが、私ゃ別に脚本がダメでも構わないなんて言いたいわけじゃないからね)。
 だからさあ、オタクがよう、思い込みばかりが先行して、個々の作品に適した批評ができなくなるとさあ、せっかく市民権を得かけたってえのに、また「ただのバカないしは変態」というレッテルが貼られることになるんで、迷惑なんだよ。

 昨日、書き忘れてたけど、秋山奈々の父親役で、小倉一郎がカメオ出演していたんだけれど、これが字幕にもパンフレットにも全く名前が出てこない。映画でこういう「サプライズ出演」ってやつが行われるのって、決して珍しくはないんだが、字幕に名前も乗せないってのは、理由がよく分からないのである。急遽出演が決まって、タイトルロールに間に合わなかったとか、そういうことなのかな?


 北九州芸術劇場から、今月13日から四日間行われる、演出家・森田雄三さんのワークショップ「イッセー尾形のつくり方」の案内が届く。これで「正式参加」が決まったわけだが、ここに至るまでには、ちょっとした紆余曲折があった。
 三ヶ月ほど前だったろうか、私としげは、参加者応募が始まってすぐにメールを送って、いったんは受け付けてもらっていた。ところが、先月になって、「参加希望者多数のため、選考を行います」という封書が届いたのだ。予定もしっかり空けておいたのに、なんちゅうこっちゃとは思ったが、人数に制限があるのなら仕方がない、選考基準はなんじゃらほい、と思って手紙を読んでみると、「あなたがワークショップの参加者に質問してみたいことを書いてください」とのこと。同じ参加者に対して、という形式ではあるが、つまりは、参加者が「どういう気持ちでこのワークショップに参加したいのか」、自分自身に問いかけてみよう、ということなのだろう。
 そういう次第で、私は、「日ごろ、芝居がかった仕草をしちゃったという経験はないか」とか「身近な人の仕草を真似できるか」とか「芝居をすることが自分の日常のどういう役に立つと思うか」とか「こんなやつと芝居をしたい、こんなやつとは芝居をしたくないというのはどんな相手か?」「でもイヤなやつと芝居をしなければならないとしたら、どうするか?」とか、オーソドックスな質問をいくつか書いて送った。その返事が今日ようやく来たのである。
 どうやら参加してよい、とのことらしいのでホッとしたのだが、森田さんの手紙を読んで、いささか眉を顰めることになった。森田さん、かなり「困って」いるようなのである。
 というのが、集まってきたアンケートが、「ドラえもんの道具は何が欲しいか?」「世界を相手に何を叫ぶか?」「死ぬ前に食べたいものは?」「ブラックホールの先には何があると思いますか?」など、演劇とは何の関係もないものばかりだったというのである。森田さんには「なぜこの質問が、このワークショップで必要なのか」不可解で仕方がなかったと仰っているが、そりゃ私だってそう思う。本人たちは奇を衒って目立とうとしているのかもしれないが、下手の考え休むに似たりで、逆にみんな没個性な質問ばかりになってしまったということだ。世の中、十把一絡げのオタクのくせに「自分は個性的だ」と思ってるやつとかも多いし、こういう手合いと一緒にワークショップをするのかと思うと、ちょっと暗い気分になる。
 最近の若い連中の中には、こちらがある質問を投げかけても、「なぜその質問が発せられたのか」、状況を把握できないアホンダラがやたら増えてきているが、いやしくも「自己表現」を目指す演劇関係者にこういうコミュニケーション不全なやつらがいっぱいいるというのはどうしたことなのだろう。いや、コミュニケーション不全だから演劇をしたがるのだろうか。
 森田さんが困ったのは、「そういう人たち」を落としていけば、今度は参加者がいなくなってしまうということだったのだろう。自分とこのスタッフにも四国四県が言えなかったり、夏目漱石がどういう人か知らなかったりする「バカを気取った」「アンチ優等生を誇る」人たちがいて、「そんな彼らがイッセー尾形の芝居を支えている」と納得した上で、「あれこれ考えるより、顔を合わすのが一番なんでしょう」「失敗したって、笑われるだけなんだから、いい思い出になるじゃありませんか」「お会いできるのを楽しみにしています」と手紙を結んでいる。
 この日記読んでる人の中にも「バカを気取った人」はいるだろうから、あえて解説するけどね、これ、そういう人たちに対して「あんたがたがワークショップに参加しても失敗して恥かくだけだよ」「目立とうと思ってこんな質問送りつけてくるくらいだからプライドだけは高いみたいだけれど、恥かいてもいいの?」と、暗に「あんたらには来てほしくない」ってことを示唆しているのである。
 かましてくれるなあ、森田さん、と思ったが、この「皮肉」がその「バカを気取った人」「アンチ優等生を誇る人」たちに果たして通じるものかどうか。いや、通じないと思いつつ、もう森田さんは腹を括っているのだろう。となれば、こちらも「やだなあ、そんな人たちと一緒になるのは」なんて言ってはいられない。どんな芝居を作ることになるのかわからないけれども、私も腹を括るしかないなと思うのである。

 今度のワークショップには、下村嬢も参加すると言ってたので、首尾はどうかと電話をかけてみたのだが、「うっかり忘れて」アンケートを送らなかったとのこと。思わず「何やってんだよ!」と口を突いて出てしまったが、何とももったいない話である。せめて公演本番は見に来なよ。
 森田さんの手紙のことを紹介すると、「そういう人たちに限って、自分たちはすごくよくやってるって思ってるんですよ」と仰る。確かに、演劇関係者にしろ、オタクにしろ腐女子にしろ、「当たり前」や「普通」ができない人ってのが「悪目立ち」しているのである。
 ほかにもいろいろ雑談をしたのだが、「最近、よく、人から『オタク』だって言われるんですよ。けいしーさん見てるととても自分がオタクだなんて思えないのに」と言うので、「別にオレも自分がオタクだなんて思ったことはないよ」と答えたら、「けいしーさんはオタクですよ! 絶対!」と、目の前にいたら力瘤作ってたんじゃないかってくらいの勢いで力説されてしまう。「オタクって言えるほど濃くないよ、オレは」と言って笑ったが、これ、謙遜じゃなくて実感なんだけどね。ただ、人が私のことをどう呼ぶかは気にしないんで、あえて「オタクじゃない」と力説するつもりはないんである。
 下村嬢、前々回の『響鬼』29話(ヒビキと明日夢君キャンプ編ね)を見たそうで、「あれってヤオイでしょ! どういう視聴者を狙ってるんですか!」と興奮している(笑)。「いや、だからそういう視聴者層でしょう」。ずっと『響鬼』を見続けてるとあれを「感動もの」と思っちゃうけど、ドラマの枠組み自体がそもそもヘンなんだから、やっぱり初めて見る人にはアレはアレだとしか捉えられないわな。アレ好きなお客さんは、劇場版でタンデムしてヒビキにしっかり抱き付いてる明日夢君とか見たらもう萌え萌えーになっちゃうであろう。
 だから「ヤオイ編」までやっちゃった番組が、その先どう転ぼうと「想定の範囲内」なんだよね(笑)。


 CSチャンネルNECOで『コメットさん』第一話「星から来たお手伝い」。
 大場久美子のでも前田亜季のでもない、九重祐三子の『コメットさん』である。いやー、懐かしい! 1967年製作だよ。オレ、これの本放送、幼稚園時代に見てたんだな。
 白黒作品だから再放送だって殆どなかったし、マトモに見たのって何年ぶりだろう。1970年、大阪万博に行ったとき、泊まったホテルで、朝、テレビで再放送してたのを見たのが最後だから、35年ぶりだ。テレビ放送はカラーが当たり前の時代になると、白黒作品はほぼ「封印」されることになる。1970年がいろんな意味で時代の「節目」だというのは、こんなところにも現れている。
 で、久方ぶりの再会なのだが、これがまた、とんでもないドラマ展開であった。オープニングアニメだけはしょっちゅう「なつかし番組特集」なんかで放映されていたから、「コメットさんがイタズラ好きで地球に『追放』されていた」ということは覚えていた(このへん、モデルは『竹取物語』の「かぐや姫」ね)。
 だから当然、コメットさんは魔法を使うことを先生から禁じられているのだが、地球に着いてからもコメットさん、全く反省せずに魔法を使いまくりなのである。行き場がなくて学校に不法侵入したまではまあ事情を知らないから仕方がないとしても、食ってかかってきた先生を魔法でプールに叩きこむとは、イマドキならばともかく、シトヤカな女性の方がまだまだ「女らしい」と思われていた時代背景を考えると、かなり乱暴である。うわあ、こんなに傍若無人なキャラだったかなあと、何分、記憶ははるか彼方のことなので、首を傾げるしかない。
 考えてみれば、日本の魔法使いものに多大な影響を与えた『奥さまは魔女』のサマンサは、セクシーな美女でしかも基本的にはダーリンを立てる「妻の鑑」的なキャラである。それとの差異を計ろうと思えば、コメットさんがボーイッシュでトラブルメーカーに設定されたのも当然のことだったのだろう。おかげで、もう始めて見るような新鮮さで、目が画面に釘付けにされてしまった。
 圧巻だったのは、コメットさんが既知外と間違われて、警察の折の中に叩きこまれたり精神病院の檻の中に閉じ込められてしまうシークエンス。檻の囚人たちの前で主題歌に合わせて踊ったりもするぞ、おお、ジェイルハウスロック!(ロックじゃないけど) 一部屋に何人もの患者が押し込められている状況も今では考えられないが、コメットさんに向かって患者の一人が声を描けるシーンがものすごい。「あなた星から来たんでしょ?」「ええ、分かるんですか?」「私も冥王星から来たのよ」
 今、テレビでこんな脚本を書いたら、脚本家生命絶たれちゃうだろうなあ。脚本家は佐々木守だ(笑)。やたらキケンな脚本ばかり書いてるのかと疑われそうだが、昔はみんなサベツとか気にせずに自由に書いていたのである。もっとももっと自由な時代だったら、サブタイトルは「星から来た女中さん」になっていただろう。
 トリビア的な見所はほかにもいろいろあって、主題歌の作詞が寺山修司で作曲が湯浅譲二であるとか、アニメ担当は長浜忠夫演出・芝山努作画であるとか、若い人には「へええ」どころか「誰それ?」な人たちであるのだが、もうとんでもなく豪華なスタッフなのである。いちいち説明しないから、どんな人たちかは自分で調べなさい。
 ゲストの校長先生役は往年の松竹のバイプレイヤー・斎藤達雄。あまり演技のうまい役者さんじゃないんだけど、いつも気難しい顔をしているわりにはどこか間延びしていて飄々とした味があるんだよね。かと思えば、陰険な悪役を演じることもある。片岡千恵蔵版『獄門島』で了念和尚を演じていたのがこの人。
 あと先生役の人は東光生だが、アテレコしてるのは近石真介さんだと思う。こういう声優さんの記録が全然残ってないのはやっぱり問題だよなあ。

2004年09月05日(日) 入院顛末・その1
2003年09月05日(金) 土の下には虫くらいいます/映画『からっ風野郎』/『地震列島』
2001年09月05日(水) 中華幻想/『仙人の壷』(南伸坊)ほか
2000年09月05日(火) 日向ぼっこしてるヒマに本が読みたい/ムック『アニメスタイル』2号ほか


2005年09月04日(日) ヒビキヒビキヒビキ/『劇場版 仮面ライダーヒビキ(響鬼)と7人の戦鬼』

 『仮面ライダー響鬼』三十之巻「鍛える予感」。
 久方ぶりの井上敏樹脚本ということで、世間のオタクがこぞって不安感を表明していたが、見てみて、これまでのまったりした雰囲気とのあまりの変わりように驚きである。「こんなのヒビキじゃない!」って驚愕・呆然・絶叫・失神・失禁したオタクは全国で推定57,463人はいると思われる。早速カトウ君も過剰反応してた(笑)。あっちこっちのオタクサイトも、今日明日はさぞや喧しいことであろう。
 私は井上敏樹にはそんなに反感は持ってなくて、『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』のころからどっちかっって言うと「自分の勝手な思い入れだけで脚本書いてるみたいだけど、ああいうのもアリでいいんじゃない?」というスタンスだったので、今回も違和感はあったが、別に怒るほどのことはない。
 まあねー、確かに新登場の桐矢京介(中村優一)って、金持ちで語学はできるわマンガは上手いわ(でも少女マンガ)、でもマザコンで運痴という弱点もあってって、まるで面堂終太郎みたいなやつで、こんな「いかにも」なキャラを脈絡もなく投入してくりゃ、ヒビキファンの反発・非難・憤慨・怨嗟・呪詛は必至だろう。
 けれども、明日夢くんがヒビキの弟子になるためには、もちっと「後押し」してくれるキャラが必要になる。もちろん、これまでにも何度かそういう機会はあったものの、「たとえ鬼の弟子にならなくても、明日夢君が自分の道を一歩一歩進んで行くことを見守る」という立場をヒビキが取ったことによって、基本的には明日夢君は弟子になる必然性が失われてしまった。作品カラーもそのおかげでより「まったり感」が強まることになっている、というよりは、もうこれで「いつ最終回になっても構わない」状況ができあがってしまったのだ。まだ2クールも残っているというのに。
 即ち『響鬼』はメインライターたちが意図したのかどうかは分からないが、「最終回用の台詞」をヒビキに語らせてしまったために、ドラマを放棄する結果になってしまっているのである。もしこれがメインライターたちの「失敗」であるとすれば、いささか強引な手段に出てでも、これまでの路線を壊す必然性が生じる。その意味では、井上敏樹の参入は決して間違いだとは言いきれない。あいつ以外に「終わっちゃった物語を再開させる」なんて力業&泥被りのできるやつがおるかいな。「『ヤマト』の続編作れ」と言われたようなもんだ。
 明日夢君は前話までで、「自分の道」を確定させてしまっている。これを「崩す」ためには、「君って、つまらないやつだな」と決め付けるキャラが必要になったということである。生半可なキャラでは、ヒビキの薫陶を得た明日夢君の心は揺るがない。リアルに明日夢君の心を「崩す」のなら、「ヒビキよりも大人」なキャラを投入し、説得力のあるセリフを吐かせなければならなくなるが、それはヒビキを「小粒」に見せ、ヒビキと明日夢君の関係そのものを破壊しかねないのでできることではない。桐矢君のような、あくまで「明日夢君のライバル」に位置する人物が必要になるのである。
 まあ、あんなエキセントリックなキャラの導入で明日夢君を動揺させるのは、強引過ぎて決して最善の策とは言えないのだが、仕方のない面はあったのだ。そもそも話を終わらせちゃった大石真司がよくないとも言えるのだし。
 早い話が、「展開がどうにもモタモタしてるから、一気に行っちゃってくれ」という要請が、テレビ局か石森プロかから、東映スタッフに対してあったのではないかということなのだ。だって、そうとでも考えないと、いくらこれまで『ライダー』シリーズでの実績があるとは言え、2クール過ぎていきなりメインライター以外の脚本家をぶち込んでくる謂れがない。要するにテコ入れである。
 穿った見方だが、もしかしたら大石真司は、井上敏樹の参入を知って、あえて29話までで「最終回」を書いてしまったのだろうか。ウラ事情は全く分からないので、このあたりのことは憶測でしかないのだが。
 『響鬼』、結構人気出てると思ってたんだけど、視聴率あんましよくないんかな。『NEWTYPE』が月間視聴率を掲載しなくなったんで、そのへんのところがどうもよく分からんのだ。
 今回のエピソードに対してオタクが反発する気持ちは分からんでもないのだが、突拍子もない展開という意味では、第一話を初めて見たときと、印象はたいして変わらないのである。「音撃戦士」の設定に視聴者が慣れてしまったために、ここしばらくは「まったり」と感じてしまっているのだが、相変わらずこれは「ヘンな」ドラマだ。そのヘンな話にうまく乗せられて油断している心の間隙に、リアルな人生の指針がぽこっと嵌め込まれていく。だから感動が生まれる。そこが面白い。
 オタクはすぐに冷静さを失うから困ったものなのだが、もともと「こんなの『仮面ライダー』じゃない」シリーズの中で、更に「鬼っ子」である『響鬼』について、また「こんなの『響鬼』じゃない」と騒ぐことが、あまり意味のあることのようには思えない。どうやらこれで「明日夢君弟子入り路線」が引かれそうな感じだから、あまり文句付けずに今後の展開を見守るのがいいんとちゃうかね。
 ああ、でもヒビキが「昨日から始まった面白い映画」の宣伝をしてたのはふざけすぎ(笑)。 


 台本を書こうと机に向かうが、遅々として進まず。
 気分転換にテレビを見たりDVDを見たり。『アッコにおまかせ』の総集編など。
 こういうバラエティ番組に出たときのゲストって、どうしてイヤなやつにしか見えないのかね。もしかしたらもとからイヤなやつなのかもしれないけれど。

 G2プロデュースからDVDが届いたので、『おじいちゃんの夏』2002年初演版を見る。青山円形劇場での収録なので、北九州芸術劇場での再演のときのように、幽霊を舞台上に台移動で見せる手段は使えないので、幽霊はみんな歩いてくる(笑)。 
 学歴自慢のギャグで、北九州版では「西南学院大学」と「東大」のどっちが上か、という比較であったが、東京版では「青山学院大学」と「東大」になっている。要するに「青学青学と威張るじゃないよ、東大出には敵いやせぬ」というギャグなのだが、北九州でこのギャグがあまり利かなかったのは無理からぬ話である。「西南」って、決して悪い大学じゃないが、かと言って威張れるほどの大学でもないし、東大と比較して笑うには中途半端なんである。それに福岡ならともかく北九州じゃ地元とは言えないし。「北九大」か「九大」にした方がよかったと思うが、こっちの事情に詳しいスタッフがいなかったんだろう。
 キャストは初演版なので一部が変わってはいるが、筋に違いはない。笑いがイマイチ取れていない点も共通している。そういうところは再演版で改定しといてほしかったなあ。


 何気なく『平成教育予備校』を見てたんだけど、ゲストが『容疑者室井慎次』の柳葉敏郎、佐野史郎、八嶋智人。これがまた、みんなからきし問題が解けない。柳葉敏郎がましなくらいで、意外なことに佐野史郎がてんでダメである。
 けれどこれは、別に佐野史郎が馬鹿だってわけではなくて、やはり「スタジオで解く」緊張感が焦りを誘発しているせいだろう。「一分以内に解け」というのはかなりのプレッシャーである。
 入試問題なんてのは、中学レベルならどんな進学校であっても、落ちついてさえいれば、誰にでも解ける。例えば、今日出た国語の問題で、「上と下の漢字を入れ替えると意味が変わる二文字」、ということで、「生まれ持った能力」「つつましくすること」というヒントがそれぞれに出されるのだが、答えは「素質」と「質素」である。この二つの漢字を知らない大人は多分殆どいないだろうが、いざ解答させようとするとなぜか思いつかなくなってしまうのである。だから実際、入試ってのは知識よりも「度胸」の方が必要になってくるのだ。
 威張るわけではないが、この手のクイズ番組は、私はたいてい満点を取る(だって、所詮は中学入試の問題だからね)。今回も全問正解したのだが、多分、スタジオで解答させたら、一、二問は間違えていただろう。それくらい、「入試」などのプレッシャーは大きいのである。


 夜、キャナルシティのAMCで『魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』&『劇場版 仮面ライダーヒビキ(響鬼)と7人の戦鬼』。
 レイトショーを選んだので、劇場内に親子連れは一、二組しかいない。つか、こんな夜に小学生を連れてくるな馬鹿親。後はカップルが私たちも入れて二、三組、それ以外の数十人は全員、見てすぐに分かるオタクである。男五人くらいで来てるやつもいた。しかもみんなメガネ。彼女作れよお前ら(涙)。

 『マジレンジャー』の方は、もう見所は「魁と山崎さんのおっかけっこ」と、「曽我町子」に尽きる。
 『スターウォーズ』の「草むらゴロゴロ」は許せないのに、『マジレンジャー』なら許せてしまうのは、やはりドラマのレベルが格段にこっちの方が上だからであろう(笑)。ついでに言えば、殺陣も段違いにいいしな。ライトセーバーなんて結局、最後までただの光る棒をフラフラ振り回してるだけだったじゃねえかよ。カット割りもジョージ・ルーカスは戦隊シリーズを見て研究すべきだ。断言するが、アクション・シーンでのスピード感、スローモーションの適切な使い方、戦隊シリーズは黒澤明、サム・ペキンパー並に上手いんだぞ。
 曽我町子は「天空大聖者マジエル」の役であるが、事前に出演するなんて情報、一切知らなかったのに、リンが「マジエル様に報告しなければ」と言った途端に「曽我町子かな?」とカンが働いて当たってしまった。一瞬、「オレってエスパー?」とか思ったが、考えてみれば、「魔法モノ」で「大ボス(今回は善玉だけど)」と来れば、曽我さんを連想しても全然おかしくないのである。アバクラタラリンクラクラマカシン。

 『ヒビキ』は劇場版もやっぱり井上敏樹脚本であるが、これも「戦国もの」ということで、半可通なオタクがあっちこっちのサイトで「時代考証がなっとらん!」と馬鹿な文句を付けまくっていた。
 ……だから『ヒビキ』に時代考証を求めてどうするよ。もともと「鬼」の設定自体が時代考証無視してるだろうが。各地の鬼が野球チームになぞらえてあったからってそれがどうした。「実は世間では知られていなかったが、名古屋には戦国以前から金のシャチホコ伝説があったんだろう」と突っ込んで笑ってやればいいじゃんか。少なくとも怒ることはないんだが、『ヒビキ』ファンも、『ハガレン』ファンと同じく、腐女子化しているから、とうに常軌を逸してしまっているのである。
 ついでに言っておけば、「博多」の場合、この地名は平野が鳥の羽のように広がっているから「羽形」と言ったのが語源であるという説がある。やや牽強付会な点はあるが、博多の土地が古代から南側の山の上から見て「鳥の羽の形」だと認識されていたのは事実だ。博多に「ダイエーホークス(現ソフトバンク)」が来たのは全くの「偶然」であるが、少なくとも「ハバタキ」は伝説の博多の鬼として全く違和感がない。こういう符合もあるんだから、あまり時代考証を四の五の言うもんじゃないんだよ。井上脚本ってだけで、批判のための批判をしてるとしか、一般人には見られないよ。「これだからオタクは」とまた言われたいんかね。

 そういうどうでもいい難癖を気にせずに見れば、これは見所満載の映画である。もちろん、マトモな映画を期待して見るんじゃなくて、「ヘン」なところを楽しむためのものだ。

 最初は物語の舞台はまだ現代。明日夢君が既にヒビキの弟子になっているのにまずビックリ。多分、テレビシリーズの後日談、という設定なのだろう。これまで戦ってきた魔化魍の中でも最大級と言える「オロチ」との戦いで、ヒビキは傷つき、病院に運ばれる。自分の無力を恥じた明日夢君、オロチの攻略法はないものかと古文書を紐解く。そこに「明日夢」の文字を見つけ、自分と同じ名前を持つ少年が戦国時代にもいたことを知り、その符合に明日夢は驚く。ここから物語は、「オロチ退治に関わった七人の戦鬼」の物語にスライドしていくのだ。
 ご覧の通り、物語の設定自体が「偶然の一致」から始まっているのである。時代考証を云々することがいかに下らないかがこの点でも分かる。まあ、ツッコミを入れるとすれば、「オロチのいけにえにされる村の娘を守るために、七人の鬼を集める」という設定が、「『日本誕生』+『七人の侍』かよ」とありふれすぎている点であるが、これも集まってくる鬼たちのユニークさ、おかしさに、まるで気にならなくなる。
 いちいち全員は紹介してられないが、私がツボにハマッたのは、なぜか鬼のくせに戦国大名になってしまっているイブキ。オロチ退治に誘われた途端に「殿様飽きた」とまた普通の鬼に戻ってしまういい加減さとか、鬼ってこの時代サベツされてるはずなのにどうして殿様になれたんだよとか、そういう不自然さにも増して、異様に長いチョンマゲに脱帽である。しりあがり寿かい。腰元相手に「鬼さんこちら」をしてくれるのもいいんだよなあ。これぞ時代劇の醍醐味(って、有名なのは殿様よりも大石内蔵助の方だが)。

 これ以上、中身を書くとネタバレ過ぎるから控えるけれども、このあとも「なんでそうなるの?」「そりゃないだろ」ないい加減でご都合主義で中途半端でトホホな展開が怒涛のごとく観客を翻弄するのである。それを「つまらない」と言うなら、テレビの『響鬼』本編だって「下らない」と言わなければ平仄が合うまい。テレビと違って一切の感動要素がない分、テンポは実にいい。井上脚本が基本的に薄っぺらなドラマしか書けないことは認めるが、そもそも『響鬼』に感動が必要なのか?
 要するにこの話、「七人の鬼がよってたかって安倍麻美をボコる話」だと思って楽しめばいいのだ。安倍麻美嫌いは溜飲を下げなさい。

 それでも納得できない『ヒビキ』信者には、当初、時代劇化に反対したというヒビキ役の細川茂樹さんがパンフで述べているこの言葉をお贈りしよう。「時代劇というより、時代を巻き戻したファンタジーというものだったので納得できたんです」。要するに「何でもあり」なのよ、『ヒビキ』の世界は。ディテールに文句付けるやつは野暮。

 まあ、不満と言えば私のゴヒイキである神戸みゆきさんと秋山奈々ちゃんの出番が少ないことであるが、『ハガレン』ファンみたいに「何でマスタング大佐の出番が少ないの!」とヒス起こすような、みっともないマネはしません。出番が少なくても二人は超絶的に可愛いからいいのだ。特に奈々ちゃんのテレビシリーズ以上の健気さ、可憐さは必見。ああ、白無垢が白無垢が(笑)。

2004年09月04日(土) 血の海の涙
2003年09月04日(木) また誤読する人はいるかもしれないが/『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(口福倶楽部代表ヤマトモ)
2001年09月04日(火) 虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修)
2000年09月04日(月) また一つ悪いウワサが……?/『マンガ夜話vol.9 陰陽師・ガラスの仮面』


2005年09月03日(土) 復活のまつもと泉/DVD『クモ男の復讐』

 映画『ノロイ』があまりにも面白かったので(冗談が嫌いな方にはお勧めしませんが)、関連サイトをあっちこっち回ってみる。
 映画本編は登場人物もみんな「実在」ということになっているので、字幕に出てくるスタッフ名もカメラマンの「宮島なんたら」と構成監督の「小林雅文」だけである。松本まりかや高樹マリア、アンガールズ、飯島愛、荒俣宏、ダンカンといった実在人物のあいまに堂々と架空の「矢野加奈(超能力少女)」とか「堀光男(霊能力者)」という名前を紛れ込ませているから、スタッフもなかなか性質(たち)が悪い(笑)。
 もちろん、野暮なやからはいくらでもいて、「この人は○○○○という名前の役者さんだよ」と「真実」をバラしてしまっているのだが、言われてみゃ、あの映画に出てたあの人だったなあと納得はするのだが、あえて詮索するほどのことはあるまい。
 洋画の場合、役者やスタッフの名前は権利上、明記されなければならなくなっているから、「ノロイ」のような「イタズラ」はしにくい状況にあるが(この二十年ほどでラストのタイトルロールがやたら長くなっているのはそのためである)、日本はそのあたりのことがまだ曖昧なままなのだろう、まだもうしばらくは「小林雅文」は「小林雅文」のままでいられそうである。それでもいつかは削除されなければなるまいから、「小林雅文公式ホームページ」などのサイトを見ておくのは今しかチャンスはない。
 小林雅文の日記などは2002年から2004年まで、三年分がアップされているのだが、一日一日の日記の分量はそれほど多くはなく、飛び飛びの更新なので読み通すのにそんなに困難はない。単に日々の出来事を書いているだけではなくて、「怪奇実話作家」としての小林雅文のスタンスなどもコラム的に書かれてある。
 「『分からない』イコール『あると信じる』ではない。『分からない』から『あるかどうか知りたい』のだ」なんて記述もあるが、「小林雅文」を客観的かつ冷静な人物として仕立てようという判断が見て取れる。事件の取材者が霊能とか呪いなんてものを盲信するようなキャラクターであったら、物語が薄っぺらになってしまう。全編アンガールズにレポーターはさせられないってことだね(笑)。霊能の全くない一般人として設定したのも成功の要因だったなと思える。
 テレビの『超能力捜査官』特番に対する批判などもなかなかのものだ。「行方不明の人物の消息を複数の超能力者が透視して、『すでに死んでいる』『まだ生きている』などと公の場で発言してしまうことだ。(中略)生死に関する透視結果を公の場で、とくにご家族に対しては知らせるべきではないだろう」なんて「常識的な判断」をしているあたり、「小林雅文」が上っ面のキャラではなくてまさしくその「人柄」までもが設定されていることに舌を巻く。これは即ち演劇における「裏の履歴書」というやつだ。「小林」の役者さん、こんなのまで読まされて役作りさせられたんだろうなあ。
 川口浩が生涯「あの探検はヤラセだった」と口にしなかったように(インタビューで突っ込まれても「私は信念を持って探検しています」と言い張っていた)、小林雅文もまた、映画公開がすむまではその正体を一応は隠し続けるのだろう。役者さんやスタッフが納得してくれるのなら、このまま隠し続けてもいいと思うが。昨日の私の日記にも書いた通り、こういうオアソビは分かってるやつには分かっているのだから、わざわざスタッフの方からネタバラシされるのは野暮というものなのである。
 日記の中で面白かったのは、現実の事件とリンクしている記述で、映画中でも紹介されていた、「新宿ロフトプラスワン」での「怪奇実話ナイト」、2003年の11月26日に行われたという設定になっていて、なんと日記にはロフトプラスワンのホームページにリンクまでされているのだが、実際にそこに行ってみると、当日行われていた本当のイベントは、『さかもと聖保presentsダイエットライブ!!』である(笑)。まあ、痩せる思いをする(するだけで実際には痩せない)っていう点で共通点はあるのかな。
 全く、なかなか実力のあるライターさんが作られているのだなあと感心することだ。もしかしたら白石監督自らの手になるものかもしれない。確かに、新聞も週刊誌も読まずテレビも見ず、世間の一般的なニュースに関心がなくて、ネットだけで情報を仕入れているような人間なら、このホームページとかをざっと見て、「小林さんって、今行方不明になってるんだ! 心配だなあ」なんて騙されてしまうこともありえるかも。いや、かもじゃなくて、現実にやたらいるのがなんて言ったらいいのかなんだけれど。


 かつて『少年ジャンプ』に『きまぐれオレンジ★ロード』を連載していたまつもと泉さん、そのあとも何度か小さな連載はあったものの、プッツリと音沙汰がなくなってしまっていて、すっかり「消えたマンガ家」になってしまっていた。
 実はまつもとさんは「脳脊髄液減少症」という難病に罹っていて、六年間の闘病生活を続けられていたのである。この病気は、「脳と脊髄の周囲を循環している脳脊髄液が漏れて脳の位置が下がり、頭痛やめまいなどの症状が出る」病気で、治療法は「患者本人の血液を注射し、血液凝固で髄液が漏れた場所をふさぐ」という、聞いただけでイタくなるようなことをしなければならないとのことだ。
 まつもとさんは今もまだ治療中だが、体調は半分程度、回復したとのこと。これを受けて、新連載マンガも来年スタートを目指し、さらには自身の闘病生活もマンガにして出版する準備を進めているそうだ。あまり世間に知られていない病気であるために(まつもとさん自身も、自分の病気が何なのか分からずに40回以上も転院している)、原因が分からないままに長年苦しんでいる患者が世界中に大勢いるはずだという。まつもとさんは、「失意のまま死んでいった人もいるだろう。漫画の力でこの病気のことを伝えたい」と製作意図を語っている。
 マンガ家が連載を休載したとき、「作者病気のため」と断りが出るものの殆どが「ただの原稿落とし」で、本当に病気だったわけではない、というのは常識のようになっている。しかし、現実に本当に病気で描けなくなってしまっている人も多いと思う。何と言ってもマンガ家は過酷な職業だ。体力気力、ともになければやっていけるものではない。しかし、若いうちならばともかく、年を取ってくれば当然、それまでのムリが体に影響を与えていくようになる。まつもとさんの場合も、医者の話によれば「強い力で指圧を受けたことや、不眠不休による過労が続いたことで一気に悪化したのでは」ということだ。
 いったん、戦列を離脱したマンガ家に対する出版社の扱いは冷たいことが多い。まつもとさんがこうして復活の目途が立ったというのは、これまで描かれてきたマンガに本当に魅力があったこと、そして、流行に流されずに復活を待ち望んでいたファンがいたからこそだと思う。
 『きまぐれオレンジ★ロード』をお読みになった方ならばお分かりだろうが、第一巻と最終巻とでは絵柄が全く別人のものと言っていいほどに違う。連載中に作画技術が向上することによって絵柄が変化することはよくあることだが、ここまでの上達ぶりはちょっと普通ではない。まつもとさんがどれだけ「努力家」であったかが、絵柄から伺える。正直な話、『オレンジ★ロード』は、当初の超能力ドタバタものが次第にラブコメから深刻な三角関係ドラマに移行していったのが読んでいて辛かったのであるが(当時は私もまだまだ青春野郎だったしなあ)、それだけまつもとさん自身が人間としての心の深みを増していったのだと言える。
 病気を克服したまつもとさんがどんなマンガを描かれるのか、楽しみにしたい。


 夜、テレビで『積木くずし 真相』の後編。
 昨日の前編は見損ねたけど、後編だけ見ても筋は充分に分かるんで問題なし。
うちの日記、昨日から「積木くずし」とか「穂積由香里」とかのキーワードで検索してくるお客さんがかなりいたんだけど、たいして情報があるわけじゃないのにマメな人もいるものである。
 安達祐美は予想通り十代でも充分通じたが三十代は全然ムリであった。親子であることを強調するために館ひろしを必要以上に老けさせているように見えたが、ちょっとした表情が穂積隆信さんに似て見えて、ああ、この役者さん、こんなにいい味を出せる人だったんだなあと、『あぶ刑事』の印象しかなかった私は自分の見る目の無さを恥じた。
 ただドラマはもう脚本も演出も凡百のテレビ同様、過剰に過ぎていて、朋美(由香里さんは劇中ではそういう名前になっている)の死ぬ間際に「神様、もう少し時間を……」なんて陳腐なセリフを言わせるのはどうかと思う。朋美が残した手紙を読んで、信悟が海の中に駆けて行って泣き崩れるというのはもうお笑いでしかない。手紙濡れるぞ、波で(ってもう濡れてた。娘を最後まで大事にしない親である)。
 実話の映像化は本当に難しいけどね、ここまでわざとらしく演出しなきゃ視聴者には登場人物たちの悲しみが分からないと製作者たちが思ってるのであれば、かなり客を舐めた話である。もっとも、舐められても仕方がないくらい鈍感な客が増えたってこともあるんだろうけれども。


 DVD『クモ男の復讐』。
 『クリーチャーズ・フィーチャーズ』(怪物映画)シリーズの一本として、以前ボックス発売されていたものがバラで販売されることになったので、しげが大ファンなダン・エイクロイドが出演している一本を購入。
 原タイトルが「Earth vs. the Spider」(地球対蜘蛛)といやに大げさだけれども、これはこの映画が1958年の同タイトルの映画『吸血原子蜘蛛』のリメイクだから。更に言えば、その二年前の1956年に公開されたUFO映画『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』の原タイトルが「Earth vs. The Flying Saucers」なので、この映画のヒットに便乗するかのように「タイトルだけはスケールを大きくした」ことが見え見えの、なんともオサムイ映画である。……と思ったら、これ、映画じゃなくてテレフィーチャーなんだね。『クリーチャーズ・フィーチャーズ』の他の作品のタイトルがまた、『人食い人魚伝説』『怪奇異星物体』『獣人繁殖』『魔界覇王』とB級テイスト溢れるものばかりで、まあ最初からマトモな映画を期待しちゃいけないのである。
 2001年製作、という時期を考えれば、サム・ライミ版『スパイダーマン』の便乗企画であることは明白であるのだが、『ターミネーター』や『ジュラシック・パーク』の特撮を担当したスタン・ウィンストンが製作にも絡んでいるから、往年のB級特撮映画を自分の手でリニューアルしてみたかったということもあるんだろう。何しろオリジナル版の「巨大蜘蛛」は、実際の蜘蛛を拡大撮影したものを合成しただけである。今回は、特殊メイク、アニマトロニクスを駆使して、実に気色の悪い「蜘蛛男」を造形してみせている。背中からバリッと服を破って生えてくる三本ずつ対の足(あれ? 元の手足と合わせると10本足になっちゃうぞ?)が生えてくるところなんか、うねうねとなかなかの迫力で、蜘蛛嫌いのよしひとさんが見たら卒倒するだろうと思われるほどのリアルさだ。
 臆病者でアメコミオタクの警備員クェンティン(デヴォン・ガマーソール)が、スーパーヒーローになろうとして、自分が警備していた研究所で開発していたスーパー蜘蛛のエキスを自らの腕に注入したところ、ただの人喰い蜘蛛に変身してしまい退治されてしまうという、なんかもう、本家『スパイダーマン』をからかったような内容だけれども、「ホラー映画」「クリーチャー映画」の系列としては、この結末は正しい。
 けれども、いくら自分の臆病さに我慢がならなくなったからと言って(そのために同僚を強盗に殺されてしまっている)、クェンティンがいきなり蜘蛛のエキスを腕に注入するってのもムチャな話だし(つか、殺人現場に監視も置かねえで警察は何やってるんだか)、自分が蜘蛛に変わっていくのに病院にも行かずに部屋に閉じこもりっきりってのも理解しがたい。もちろん、ドラマとしては蜘蛛に変わってくれなきゃ困るわけで、治療なんてさせられないわけだが、もう少し何とかならないもんだつたかなあというのがB級のB級たるゆえんであろうか。
 それよりも、事件を負う刑事グリロ(ダン・エイクロイド)とその妻(テレサ・ラッセル)、その浮気相手の警官(クリストファー・カズンズ)との三角関係が描かれるのが、本筋とは何の関係もなく、ドラマの邪魔にしかなっていなくて、これが一応、この映画のタイトルロール上の「主役」である「ダン・エイクロイドの出番を作る」ためだけに作られた設定だというのがバレバレで、もちっと脚本を考えろよ、と言いたくなる。臆病者のクモ男を、妻に裏切られた臆病者の刑事が追う、という図式にしたかったんだろうけれども、たいして効果がないんだよねえ。
 しみじみと思うことは、『マリリンとアインシュタイン』でむちゃくちゃ美しかったテレサ・ラッセルが、もうこんなに老けてしまったという悲しい事実である(っつっても、もう二十年経っちゃって50の坂に届こうかって歳になってるんだが)。酔っ払ってばかりの演技で、こんな役でわざわざテレサ・ラッセルを使わなくてもいいだろうと、悪態の一つもついてやりたくなる。フィルモグラフィーを見てもろくな映画に出てないし、役柄に恵まれないと女優さんは老けるのも早いのかねえ。

2004年09月03日(金) 悲しい知らせ
2003年09月03日(水) 不明を恥じるハナシ/『ビートのディシプリン』SIDE2(上遠野浩平)
2001年09月03日(月) 変わるわよ♪ ……何がだよ/アニメ『こみっくパーティー』第1話ほか
2000年09月03日(日) 警察も役所/『ら抜きの殺意』(永井愛)ほか


2005年09月02日(金) 負けるな小林雅文!/映画『ノロイ』

 たまに行われる「日本人の宗教観」に関する意識調査、先月初旬に読売新聞が行った結果が、今朝発表になった。
 別におかしな結果が出たわけではなく、「何か宗教を信じているか」との質問に対し、「信じている」が23%、「信じていない」は75%。「宗教は大切であると思うか」という問いには、「大切」が35%、「そうは思わない」60%。つまりは「日本人の四人のうち三人は宗教を信じていない」という結果が出たことになる。
 養老孟司さんは、盆や正月の習慣が消えていないことを挙げて、「日本人に宗教観がないわけではない」と説明されてはいるが、少なくとも欧米の考える宗教とは全く性質を異にしていることは間違いのないところだろう。よく「国際社会において、無宗教であると表明することは神をも恐れぬ危険人物と見なされる」と問題視されることから、仕方なく「Shintoist」「Buddhist」と名乗れと言われてはいるが、現実に純粋な神道家や仏教徒など、日本人には殆どいない。神道も仏教も、我々にとっては「箸と茶碗で飯を食う」のと同等の、ただの「習俗」だからである。
 習俗が宗教だとは言えないのは絶対性を持たないからである。キリスト教徒が神を冒涜すれば、これはもう、悪魔の所業であって、「天罰」が下されることを覚悟せねばならない事態である。仮に「そんなことあるもんか」と思っていても、一抹の不安は残る。それが「宗教心」というものだ。しかし、宗教が習俗化した場合、そのような神の絶対性は殆ど有形無実のものとなる。「腹出して寝てるとカミナリ様がヘソ持ってっちゃうぞ」と言われても、本気でヘソを取られると思っている日本人は誰もいない。けれどもやはり親から子へ、子から孫へとその言い伝えだけは受け継がれていくのである。これが「習俗」というものだ。だから、霊魂なんて存在しないと思っていても墓参りができるのである。
 日本人には習俗はあっても宗教観はない。これは国際社会にあってはとても理解しがたいことだろう。仏教徒だとかウソをついて見せたところで、そんなのはすぐに化けの皮が剥がれる。「日本人であること自体が神を冒涜している」のである。だから、日本人がどうあがいたところで、真の意味で国際化することなんてありえない。世界が「宗教を持つこと自体が罪悪である」と認識しない限りは。
 そんなことは不可能だって? それはそうだ。けれど、それがやれなきゃ、日本はいずれ「悪魔の国」の烙印を押されかねないのだ。そしてそのためには日本人がもう一つ、克服しなければならない課題がある。
 調査では、「神や仏にすがりたいと思ったことがある」人が54%に達していて、「ない」の44%を上回っている。宗教を「信じていない」人の中でも、「すがりたい」人のパーセンテージは47%だった。神様なんていないことを知っているから、自分の力ではどうにもならないような事態に直面したときに、かえって「神様がいたなら」と思ってしまう。これは、日本人の心がいかに脆弱であるかということを如実に示している。
 日本人は弱い。そりゃもう、世界で一番軟弱な民族だと言い切ってもいいくらいだ。日本人の美徳として、謙虚さとか、奥ゆかしさとかが称えられることは多いけれども、そういうのは実は「宗教」という精神的な支柱が欠落しているために起きる「臆病さ」でしかない。苦しいときに頼まれてしまうその「神」とは、実は西洋の絶対的な存在ではなくて、ただの習俗としての神でしかないのだ。
 だから、日本人は本気で「強く」なろうとするのなら、たとえどんなに苦しい目にあっても、「神頼みだけはしない」くらいの精神力を持たなきゃならないのである。 ……ムリかな、やっぱ。

 
 しばらく書くことはないかなと思ってた、高校野球の不祥事の問題。
 今度はお膝元の福岡ですよ(涙)。
 甲子園代表の常連で、今年の夏も出場した柳川高校の野球部員二年生が、一年生部員に対して練習態度が悪いとの理由で、箒の柄で殴ったりしてけがを負わせたとのこと。高野連は柳川校の対外試合を禁止する臨時措置を決め、この結果、来春の選抜大会につながる秋季福岡大会には出場できなくなった。
 事件が起きたのが先月の末、数回に渡ってだと言うから、高野連の通達はまたまた無視された形になる。もう断定しちゃって構わないと思うが、野球やってるやつなんて頭ノーテンパーの猿ばっかなんじゃないか(昔、そんなこと言ってた野球選手がいたなあ)。
 ちょっと世間の注目を浴びてチヤホヤされただけのことで、自分たちがやってることがたかか高校の部活動に過ぎないという事実を忘れてしまい、何をやったって構わない立場にいると思いあがってしまっているのである。でなきゃ、こいつら、「喉元過ぎる」のがあまりにも早すぎるだろう。暴力振るっても「バレるわきゃない」くらいに舐めてたんではないか。記事には出ていないが、被害者に脅しをかけてた可能性だってある。そのメンタリティは殆ど「犯罪者」に近い。
 これだけ事件が続発しても、まだ野球部員たちに対して同情的な意見を述べたがる能天気な連中は多いだろうが、これが「一部の不心得者」の仕業などではないということに、いい加減で気付いたらどうなんだろうね。教育効果のない部活動なんか存続させる意味がどこにある。だから一回、甲子園大会を中止させるくらいの大鉈を振るわなきゃ、この陰湿な体質は絶対に治らないって。
 こうなるともう、野球ファンでも高校野球ファンでもない外野としては、「次はどこの学校の不祥事が発覚するかな」って陰険な見方をしたくなるね。それでまた野球トバクができたりしてな。
 そこのピュアなお方、もしあなたがまだ「健全な青春の汗と涙」なんてものを高校球児に見出そうとしてるんだったら、それって全くの幻想なんですからね。あいつら有名になって女とヤルことしか考えてないやつが大半なんだから。


 夕方、父の店に出向いて、姉にしげの髪を摘んでもらう。
 もうかなり伸びてきていて、いかにも鬱陶しそうだったし、ハカセの結婚式にも出なければならないから、「バッサリ切ってもらったらと言ったのだが、父も姉も「結婚式に短い髪じゃいかん」と言うのである。どういう理屈だかよく分からないのだが、結局、前髪、後ろ髪を切りそろえる程度にしておいた。それでも少しは明るい雰囲気になる。

 父を誘って、志免の「ウエスト」で焼肉。父のマンションの近所だけれど、父は今まで入ったことがなかったそうだ。適当に注文したら、なぜか注文した倍くらいの量の肉が並べられて驚く。ウェイターさんが入力ミスしたんだろうと思うが、今更戻せとも言いにくいので、ひたすら三人で食べる。糖尿二人に肝機能障害一人で焼肉食いまくるというのも困った図式なのだが、たまにはこういうことがあるのもしようがない。


 夜、ダイヤモンドシティのワーナーマイカル福岡ルクルで映画『ノロイ』。
 この「ノロイ」という発音を私はつい「“ノ”ロイ」と「ノ」にアクセントを付けて発音してしまうのだが、これはもちろん『ガンバの冒険』に出てくる大イタチ「ノロイ」の影響である。カタカナで書かれちゃうととどうしてもねえ。チケットを買う窓口では気をつけて「ノ“ロイ”」と言ったのだが、そしたら受付のねーちゃんが「『“ノ”ロイ』ですね」と返事をしたので驚いた。別にこの子が『ガンバ』のファンだとは思えないのだが。
 公開劇場数が少ないので、興行収入の上位に食い込んではきていないのだが、低予算映画としては、充分ヒットしているらしい。事前情報をあまり仕入れずに見に行ったのだが、『六番目の小夜子』の松本まりかが本人役で出演(つかほぼ主演)していたので驚いた。声が鼻声で癖があるけど、使いようによっては伸びると思っていたので、ちゃんと活躍してたのが嬉しい。

 物語は「怪奇実話作家の小林雅文」が謎の失踪を遂げ、残されたビデオテープに衝撃的な映像が残されていたという仕立てになっている。要するに『ブレアウィッチ・プロジェクト』の線なのだが、お話の中心に「小林雅文」という何ともバイタリティー溢れる、そしていささか向こう見ずというよりはかなり抜けたキャラクターを設定したおかげで、全編爆笑に継ぐ爆笑の「川口浩探検隊」風のトンデモ番組に仕上がっていた。
 もちろん、「小林」も最初の取材はまだまだおとなしめである。とある主婦からの「隣の家からいないはずの赤ん坊の泣き声が聞こえる」という投書で、「小林」は件の家を訪ねるのだが、その家に住む女・石井潤子は、「なんでそんな言い方ができるんだよ!」と意味不明なことをわめき散らすばかりである。このときは「小林」はあっさりと引き下がるのだが、この時のビデオテープに、奇妙なノイズが収録されていたことから、「小林」は不屈の闘志を持って事件の解明に取り組んで行くことになるのだ。石井潤子はこの直後にいずこかへ引っ越し、なんと取材した主婦と娘さんが事故で亡くなってしまうのだが、普通のレポーターならこの時点で怖がって取材を諦めるところだ。ところが我らが「小林雅文」は決してくじけない。
 全く事件とは関係ないと思われた超能力少女が透視した奇妙な顔の映像、心霊番組に出演した「霊能力者」の呟いた謎の言葉、アンガールズと松本まりかが心霊スポットを取材したときに映っていた白い子供のような影。一つ一つの現象が絡み合って、大きな幹を作り上げていく様子を「小林雅文」は臆することなく追っていく。「小林」の行くところ、呪殺されたとしか思えない死体が山積みされていくが、「小林」はあたかも“自分にだけは呪いがかからないと確信しているかのように”取材を続けていく。不法侵入も平気の平左、向かうところ敵なしである。いったいその自信はどこからくるんだ「小林」! つか、取材する前に警察にちゃんと通報しろ! お前は名探偵コナンか!
 「危険から守るため」と称して松本まりかを自宅にかくまったりしてるが、プロダクションとマネージャーがよくそんなこと許したものだ。まさか黙って匿った? もしそうなら「小林」が誘拐犯である。
「小林」はようやく全ての謎を解く「禍具魂(かぐたば)」という言葉にたどり着いて、かつてダムの底に沈んだ「下鹿毛村」で行われていたという「鬼祭(きまつり)」の存在を知る。そしてその祭りで最後に巫女を務めていたのが石井潤子だったのだ……。
 「小林」(及びカメラマン)の何が立派かと言って、たとえどんなに自分に危険が迫ったときであっても、決してビデオカメラから手を放さないことである。おかげで決定的瞬間の映像がどれだけ撮れたことか。超能力少女がポルターガイスト現象を起こしたときなんか、よくぞその瞬間に居合わせたものだと、その運のよさには拍手を送ってあげたいほどだ。ついうっかり、カメラを落としてしまったときでさえ、カメラは「絶好の角度で」「絶妙の位置に」落ちて、やはり決定的な瞬間を撮り逃さない。
 きっと「かぐたば」さんは自分を撮ってくれる人が現れるのをずっと待っていたのであろう。だから最後まで「記録者」である「小林」は殺されることがないのだ。……私を見て! 私を撮って! ってなもんですかね。おちゃめさんね、カグタバっちって。

 もちろんこの「映画」は、ドキュメンタリータッチを装ってはいるが、全てフィクションである。
 当然そのことを知った上で、「らしさ」と「わざとらしさ」の「あわい」を楽しむためのもので、パンフレットにも書いてあったことだが、「モンドフィルム」の流れにあるものである。
 スタッフは実に凝り性で、「小林雅文」が実在していてもう何年も前から活動していたかのようにホームページを立ち上げ、架空の出版社まで存在しているかのように見せかけている。もちろん、内容をよく読めば「これはフェイクですよ」という印はちゃんと示されているので、そこに突っ込む楽しみがちゃんと提供されている。
 映画本編も、たとえ事前情報を全く知らない人が見ても三分でこれは「本物らしく見せかけたフィクション」であることがちゃんと分かるように仕立てられている。ドキュメンタリーならモザイクかけるはずのところに一切そういうのがないもんな。だからこれは決して「ホラー映画」などではなくて、「ホラー映画仕立てのお笑い番組」なのである。

 だからまあ、私は、まさかこの映画を見て、「このお話は本当にあったことなのかどうか?」なんて迷って怖がる手合いが存在しようとは思いもよらなかったのだ。
 ところが帰宅して、カトウ君の日記に『ノロイ』について書いてたのを読んでみて、「これはウソんこですからね!」と力説していたので、あれれ? と首を捻ってしまった。カトウ君は「ネタバレ」になることを気にしていたようだが、『ノロイ』がヤラセ番組であることはネタバレでもなんでもなくて、観客の常識である。どこの世界に「川口浩探検隊」が本当だと信じているやつがおるか。オアソビなんだから、監督や出演者や製作会社が宣伝上、嘘ですよと言えないのは当然のことである。これは映像を見ながら「がんばれ小林雅文! 負けるな小林雅文!」とエールを送りながら見る映画なのである。

 「小林雅文が〜廃墟に入る〜♪
 飴で作った蜘蛛の巣や〜、おもちゃの鳩の死骸だらけの〜、廃墟に入る〜♪
 廃墟の中には〜、首吊り死体がある〜♪
 どう見ても重心が〜、肩の方にズレている〜、首吊り死体がある〜♪
 死体の向こうには〜、誘拐された子供たちがいる〜、何ヶ月も風呂に入っていなくて〜、飯もろくに食ってないはずなのに〜、妙にツヤツヤとしてメイクまでしている子供がいる〜♪
 行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、行け〜行け〜、コバヤシマサフミ、どんと、行けー♪」

 もしかしたら、世間には、この程度のオアソビも理解できない連中が意外と多いのか? と不安になった。
 でもってネットを調べてみたら、さすがに完全に信じ込んだ例はそうそう見当たらなかったが、「半信半疑さん」は結構いらっしゃる。「半疑」だってするこたないだろう、アンガールズも「オクラ映像を勝手に使われた」とかわざとらしく騒いでいるけれども、それも「仕込み」だよ、とネットを散策しながらそんな意見にぶち当たるたびに突っ込み入れながらタメイキをつくハメになってしまった。
 中には、ウソだと分かったあとで、「こんな人を騙すような映画の売り方をするなんて許せない」なんてマジメに怒ってらっしゃる方もかなりいらっしゃる。だから「本当らしく」見せかけてはいるけれども「ちゃんと嘘だ」と分かるように仕立ててるんだから、これは「騙し」でも何でもないの。本気で騙されるやつの読解力があまりにも足りないだけの話だ。だいたいこれが実話の取材だったら、こんな事件がほかでニュースになっていないことの方がおかしいだろう。
 そんなこんなで、この映画の「Yahoo」掲示板での評判はかなり悪いのだが、やっぱり「映画の見方も分からない」手合いがもう世間にはうじゃうじゃいるってことなんである。文化の継承ってのはこんなにも難しいことだったんだなあと再度タメイキ。

 『ノロイ』のパンフレットを見て知ったのだが、諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズの一編、『生命の木』が、『キダン(奇談)』と題して映画化とか。またもやマンガの実写映像化であるが、一番期待しちゃうのはこれになりそうだなあ。原作、ムチャクチャ好きだし。
 稗田礼二郎は前作『妖怪ハンター ヒルコ』の沢田研二に代わって、阿部寛とか。また『トリック』演技をされてもちょっと困るが、できればスタイルは原作通りにしてほしいね。
 映画化に合わせて諸星さんがまた原作シリーズを再開してくれると嬉しいな。そのときはきっと「稗田先生って阿部寛に似てるわね」という台詞が出てくるのであろう。
 キャッチフレーズはぜひ「おらといっしょにぱらいそさ行くだ!」にしてほしい(笑)

2004年09月02日(木) 孤独な狂気の果てには
2003年09月02日(火) 頼むから朝だけは送ってくれ/映画『大学の若大将』/『ハレグゥ』1巻&『アストロベリー』1巻(金田一蓮十郎)ほか
2001年09月02日(日) 風が痛いから?/『新天地無用! 魎皇鬼』1巻(奥田ひとし)ほか
2000年09月02日(土) 山本正之・あ・ごーごー


2005年09月01日(木) シメキリギリギリ/映画『奥さまは魔女』

 今度の舞台の脚本、しげから言い渡されていたシメキリは昨日だったのだが、まだ殆ど進んでいない。調べものがかなりあって、あれこれ本ばかり読んでるんで進まないのだが、まあそんなのは言い訳である。
 「書き上がんないなら中止するよ!」のしげの怒声に、「一週間待って」と頭を下げる。毎度毎度、シメキリ過ぎなきゃエンジン掛からないのは自分でも困ったものだとは思うけれども、煮詰まったところから絞りカスのようにして出て来るアイデアほどいいものだったりするものなので、もうチョイ、忍耐して暖かく見つめておいていただきたいのである。


 「クールビズ」の浸透度が大企業の八割以上を占めたとか。
 うちの職場も一応は大企業と言えなくもないので、この夏ずっと、あっちこっちの壁に「9月30日まではノーネクタイ、ノースーツで」と貼り紙がしてあったのだが、何分これまでは全く逆に「必ずスーツにネクタイを」だったので、この180度の大転換にはみんないささかならず戸惑ったのである。私も言われて一週間くらいは切り替えていいものかどうか迷ってしまった。「罠ではないのか」とか、疑心暗鬼になってしまったのである(被害妄想みたいだが、騙し打ちや裏切りはうちの業界では日常茶飯事である)。
 その結果、職場内は、従来通りの夏でもスーツにネクタイでビシッとした人がいるかと思えば、開襟シャツにノーネクタイのラフな人までいるという、よく言えば各人の考え方が一目瞭然で個性的な、悪く言えば統一感のない状態になってしまった。たかが衣服のことなんだけれども、これで「派閥」関係が部外者にすら見えるようになったってのが大笑い。「ああ、ここんとこ、内紛が激しいんだな」ってバレちゃってるのね。
 まあ、私もすぐにネクタイを外せなかったのは、「即外し」の連中と同じ穴の狢だと思われるのがちょっとヤだったんである。かなり全体に広がってくれたおかげでこちらもようやく外せたんだけれども。
 でまあ、次の課題は、一応9月30日までノーネクタイでいいってことにはなってるんだけれども、その「どれくらい前の段階で」ネクタイに戻すか、そのタイミングなのである。
 あー、大企業ってこんなつまんねえことにも気を遣わなきゃなんねえから腹立つ。給料高くねえのに。


 しげの好きな役者さん、劇団ダンダンブエノを主宰されている近藤芳正さんが、NTTのフレッツ光・プレミアムのCMに出演している。「近藤芳正って誰?」と思われる方もいらっしゃるだろうが、長澤“小美人の片割れ(南ちゃんなんて言ってやるもんか)”まさみを相手に、光ブロードバンドの宣伝マンを演じている、ぺたっとした顔にちょんちょんちょんと目鼻がくっついた印象のあるあのオジサンである(歳は私より一つ上の43歳)。
 しげはこれまで、「好きな役者さんは?」と聞かれたときに「近藤芳正さんとか」と答えると決まって「誰それ?」と返されてしまっていた。『ウォーターボーイズ』や『世界の中心で、愛をさけぶ』とか超有名な映画にも出演していらっしゃるのだが、これがまた、「ほら、あの真鍋かおりの旦那さんを演じた」とか「『セカチュー』で先生役やってた」とか言って説明しても、見てる人ですら覚えてはいらっしゃらないのだ。一番出番が多い映画って言ったらやっぱり三谷幸喜の『ラヂオの時間』の鈴木京香の旦那さん役になるのかなあ。……なんか、気弱な旦那さんって役柄が多いね。
 でも、東京サンシャインボーイズに客演されていた時代から、誠実で善良な人間を演じたかと思えば、いい加減で人を煙に巻く傲慢な人間、ひがみ根性丸出しの卑屈な人間など、幅広い役をずっとこなされていた方で、読売演劇大賞を受賞した舞台版『笑の大学』では脚本家・椿一を演じ、三谷幸喜さんにとっては盟友と言ってよいほどなのだが、それでもまだまだ一般的な知名度は決して高くはない。
 このCMでブレイクするかどうかは分からないけれども、「ホラ、長澤まさみと一緒に出てる」と言えば少しは通りがよくなったかもしれない。三谷さんの新作映画『THE有頂天ホテル』にも当然出演するので、ご注目いただきたい。

 
 毎月一日の映画の日なので、しげと待ち合わせてキャナルシティで映画『奥さまは魔女』。
 先にフードコートで軽くヤキソバを食って、福家書店で何冊か本を買ったあと、映画館に向かう。
 先週の興行収入が三位と言うから、そんなにヒットしてるんか、席は空いてるんかいな、とちょっと心配していたが、入場してみるとそこそこの入りで、混んでいるというほどでもなかった。たいていの客は『室井慎次』の方に行ってるんだろう。どっちもお客さんの評判はあまり芳しくないらしいが、『奥さま』の場合、リメイクものだってことで既にハンデがあるのである。多少は大目に見てやろうかって気分で見たおかげで、腹が立つとまでには至らなかったが、確かにもちっと工夫がほしかったな、という印象ではある。
 基本設定は「この手があったか!」と膝を打ちたくなるくらい、いいアイデアだと思うんである。普通に『奥様は魔女』をリメイクするんじゃなくて、「『奥様は魔女』をリメイクしようとしたら、ホンモノの魔女をキャスティングしちゃった!」という意外性。つまり、劇中劇のドラマと、そのバックステージが二重に楽しめるという、まあよくある手法ではあるんだが、「リメイクもので」これをやったってのはあまり例がない。
 それもサマンサ役がまた、シティボーイズの皆様方も憧れの(っつってもきたろうさんと斉木さんだが)演技派、ニコール・キッドマンだというのだから、ちょっとこれは期待したくもなるじゃないのよ。
 ところがねえ、これがなかなか面白い方向に転がっていかないんですよ。まず、主演のニコールにどうしても愛嬌が足りないのがドラマを今ひとつハジけさせてくれない。唯一無二のサマンサ、エリザベス・モンゴメリーと比べるのは気の毒ではあるのだが、ニコールがどんなに表情を豊かにしようとしても、「キョトンとした顔」「しかめっ面」「ツンとした顔」「慌てふためく顔」「ホッとした顔」、その一つ一つがエリザベスに比べて魅力に欠ける。
 いや、そもそもサマンサがそんな顔をするのは彼女の回りに様々なトラブルが生じるせいなのだが、今回、ニコール演じるイザベルは、ほとんどトラブルというほどのトラブルには見舞われない。たとえバックステージものだとしても、「トラブルのない『奥さまは魔女』」など、リメイクの価値があると言えるだろうか?
 イザベルの父、ナイジェルを演じるのはマイケル・ケインである。サマンサの父親、モリースが、人間との結婚に激怒してダーリンを散々な目に合わせたことを思い出せる往年のファンならば、このナイジェルが、イザベルを口説いたジャックに何らかの鉄槌を下すんじゃないかと期待するだろう。ところがナイジェル、エンドラ役のアイリス(シャーリー・マクレーン!)に惚れちゃってイザベルのことなんか気にもかけなくなってしまう。……何のために出てきたんだこのオヤジ、っつーか、役者の使い方間違ってるよ!
 ナイジェルの代わりとばかりに、オリジナル版でもボケた魔法で人気のあったクララおばさんがジャックに呪いをかけるのだが、これが効き過ぎて、ジャックがイザベルにぞっこんになっちゃうというのも、「クララおばさんにしては」地味な失敗である。どうしてジャックを犬にするかワニにするか皇帝ペンギンするかくらいのことをしなかったのかね。魔法の面白さがまるで伝わってこないのである。
 ジャック役のウィル・フェレルも熱演はしているのだが、もともと落ち目のスター役者という設定で、普段からハイテンションで過剰な行動を取っているから、魔法にかけられて急にロマンス野郎に変身したりしても、たいしてその落差の面白さが出ないのである。普段はマジメなサラリーマンが奇妙な行動を取ったりするからおかしいのに、ダーリン役の人間を元からエキセントリックなキャラに設定してどうする。監督も役者も、ギャグのコツってものがまるで理解できていないのだ。
 人物設定の分かりにくさも随所でドラマを停滞させてしまう。オリジナル『奥さまは魔女』はこの映画の中でもあくまでドラマだから、サマンサやダーリンは当然、架空の人物である。ところがクララおばさんやアーサーおじさん、隣のグラディスさんとかはこの映画の中でも実在人物なのだ! これはどう考えればいいんだろうかね?(多分、監督は何も考えていない)  
 も一つ文句を付けると、あまりに原語と違ってしまっている戸田奈津子の翻訳。シットコムを「テレビショー」と訳すのはあんまりだ。撮影中に、観客席が映し出されるから勘違いしたんだろうけれども、あれが「笑い屋さん」でサクラだってこと、彼女は知らないんだろうか? 単にボケてきただけかもって気もする。劇中で引き合いに出された『かわいい魔女ジニー』を「宇宙飛行士の出るやつ」なんてテキトーに訳してるのも何なんだか(ちゃんと「ジニー」と発音してるのに!)。ほかにも意味がよく分からない訳が目白押しで、この映画がつまんなく感じた最大の原因は字幕にあるかもしれない(吹替版はオリジナルを担当した北浜晴子、中村正諸氏がご出演とのこと。こっちを見ればよかったかなあ)。
 シャーリー・マクレーンが時々、オリジナル・エンドラを演じたアグネス・ムーアヘッドに似て見えるあたりがせめてものこの映画のよさだと言えるだろうか。

2004年09月01日(水) 『華氏911』余燼
2003年09月01日(月) 「じゃないですか」って言ってる人が多いじゃないですか/映画『用心棒』/『呪恩2』(清水崇・MEIMU)ほか
2001年09月01日(土) 加藤夏季補完計画(笑)/『スペオペ宙学』(永井豪)ほか
2000年09月01日(金) 食って寝るだけの毎日も今日まで/ドラマ『横溝正史シリーズ・本陣殺人事件』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)