無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年09月04日(火) 虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修)

 しげがパソコンの壁紙を私の写真にいきなリ変えた。
 生活時間帯がすれ違いになっちゃって、寂しいのだろうけれど、自分の顔を見ながらパソコン扱うこっちの身にもなってみろってんだ。
 ……キモいぞ。
 もしかしたらしげ、定期入れにこっそり私の写真入れとくような真似してないだろうな。
 ああ、背中が痒い。
 スクリーンセイバーには「バカぁ!」なんて文字は流れてるし、いったいなにが不満なんだか。


 今日の言いそこ間違い。
 パソコンにずっと座りっぱなしの私に、しげが「何してんの?」と聞くので、返事をして、
 「じっくり湯灌かけてるんだよ」
 わはは、トフスランとビフスランだな。
 めったに言い間違いをしない私だが、たまにはある。珍しいことなのでちょっと記録しておこう。
 でも、言い間違いは無意識の願望の表れとフロイトは言っていたが、「じっくり湯灌」ってなんの願望を表してるってんだ。こんなもんでもリビドーの象徴なのかよ。
 今時、フロイト学説信じてる心理学者もそうそういないだろうがね。


 仕事に復帰して以来、職場ではいろいろと面白いことが起きているのだが、全部、私の職業がバレてしまうものばかりなので書けない。
 こっそりどこかに書いておいて、私が死ぬ間際に公開してもいいのだが、そこまでするほどのネタでもないからねえ。
 まあ、世の中にスネにキズ持ってない商売ってのもなかろうから、ちょっとくらいウチのネタバラシしたって構うまいとも思うし、内部事情を少しはリークしとかないと、どこまで図に乗るかわかんねえよな、ウチの職場ってコトもあるんだけどねえ。
 でも、どっちかっつーとウチみたいな下請けの下請けみたいなところ一つ潰したって、オオモトがしっかりしてくれないことには何も状況は変わらんのだ。
 だいたいウチは商売広げすぎなんだよ、客は年々減ってるってのに。
 需要がないんだったら、思いきって、事業をもっと縮小した方が絶対いいよな。客の数だけの問題じゃなくって、質もどんどん落ちてっからさ、思い切ってムダな顧客を切ってくってのはどうかな?
 半分でいいよ、今の。
 もちろん、リストラも断行するのだ。そうすりゃ、予算も節約できるんだけどなあ。
 え? 私がリストラされたらどうするんだって? そんときゃ更に下請けんとこ行くから平気。そっちは逆に人手が足りなくて困ってるみたいだから。
 ……私の商売知ってる人にはのけぞるようなセリフだろうな(⌒▽⌒) 。

 で、仕事は昨日から炎天下での作業だ。
 大工さんみたいな仕事してますが、私の商売は大工さんではありません。さあ、何でしょう?
 しかし、病院にずっといたせいで全然気づかなかったが、真昼ってこんなに暑かったんだなあ。ちょっと遅目だけれど、ようやく日焼けし始めた。
 かと言って、「健康美」になったってわけじゃないけどね。


 残業のせいで、帰宅したのが午後8時。
 外はもう暗い。夏も終わりなんだなあ。鳴いてるセミも、もうツクツクボウシばっかりだ。
 帰り道、いきなり鼻の穴に向かってカナブンが飛びこんできて、スポッとハマる。ビックリして「フンッ!」と鼻息でふっ飛ばしたら、そのままカナブン、どこかに飛んで行った。
 ……いや、ツクリじゃないっスよ。
 こういう珍しいこともあるのだなあ。眼に小さな虫が入る、なんてことは経験した人もいるかもしれないが、「鼻の穴にカナブン」ってのはほとんどいないのではないか。
 これぞ盲亀の浮木、優曇華の花、一生に一度あるかないかの稀有な出来事なのではないか。……ってたかがカナブンでなに盛り上がってんだろうね。 


 コンビニに寄って、今週の少年ジャンプ『ヒカルの碁』を立ち読み。
 先週、読み損ねていたので、ヒカルの佐為探しの旅はどうなったのかと思ってたのだが、今週号を読む限り、結局見つからないままだったらしい。
 ヒカルはすっかり囲碁への情熱を無くし、アキラが尋ねて来ても逃げるばかり。……見事に「力石なき後のジョー」になっちゃってるなあ。
 ここまで物語を引いてるってことは、早期の連載完結はまずないのだろうけれど、だとするとこれからもなんとかヒカルに囲碁を続けさせなきゃならないわけだ。
 それこそ『あしたのジョー』パターンで行くならきっかけはたいてい「強力なライバル」の出現ってんだろうけれど、それも芸のない話だなあ。
 やたら陽気でラテンな碁打ちとか、傭兵経験があって、地獄を見てきた碁打ちとか、ジャングルで育てられた野性の碁打ちとか(^o^)、そんなんが出てきたら笑うけど。
 今週号のラストでいかにもな感じで伊角さんが再登場したけど、ヒカルを碁の世界に引き戻すキャラとしてはちょっと弱いんじゃないか。でもアキラはまだ成長しきれてないしなあ。
 もうこうなったら本因坊秀策を転生させるしかないんじゃないか。


 唐沢俊一さんの「裏モノ日記」に、「公開日記」についての記述があった。
 以前、私もこの日記に書いたことだが、この「公開日記」という形式に、こんなに書きがいを覚えることになろうとは我ながら予想もしなかったことなのだ。
 「自分の日記を人に見せびらかすなんて、自己顕示欲の表れじゃないか」としたり顔に批判する人はいるが、そんなことは指摘されるまでのことでもない。
 ……書き手自身が一番よくわかっとるわい( ̄へ ̄)。
 自意識の塊みたいなやつだからこそ、自分の悪筆がガマンできずに、若いころは日記を書き続けられなかったんだい。

 実際、現代のようにネット環境が予め用意されていて、かつ自筆で書く必要がない、という条件が揃っていなかったら、私自身、1年以上も日記を続けていられていたかどうか、わからない。
 入院中、久しぶりに自筆で日記を書いていると、昔の羞恥心がまざまざと蘇えってきて、自分のヘタクソな字を見るのがとことん苦痛になってしまった。初めのころはそれでもノートに何ページも書いていたものが、退院間近の最後の数日なんか、メモ書き程度しかできなくなってしまったのである。
 「ああ、もしこれが全部自筆のままで残るんだったら、途中でやめちゃってたろうなあ」とつくづく思った。
 作家の高村薫さんも「ワープロなかりせば」と何かのエッセイに書いていたから、これは悪筆にコンプレックスを抱くものの共通の感覚なのだろう。

 他の方々の日記を覗いてみても、「投票してくださいね」と書かれてあるものが多いのは、やはり「自分の書いているものを面白がっている人がいてほしい」という願望の現れであろう。
 その気持ちはわかるのだが、読者にそんな期待をしてしまうのは、日記を書く上ではやはりマイナスになってしまうのではないか。
 ……ちょっと説明がややこしくなるが、「読者とのつながり」を必要以上に強くしようとすることは、畢竟、せっかく作り上げた「書き手」としての自分の存在を危うくし、「生の自分」を曝け出してしまうことになりかねないのではなかろうか。
 何度となくこの日記に書いていることだが、この日記での私は、現実の私とは微妙に人格が異なっている。別にこれはウソをついているということではなくて、「日記を書き続けるための人格」を仮構しているのである。
 例えば、素顔の私は、さびしんぼうで傷つきやすい繊細な感受性の持ち主なのだが(コラ、そこで笑ってるのは誰だ)、もちろん、そんなヤワな神経で日記を書き続けられるはずもないので、この日記上においては、ゴーマンかつ無責任な人格に自分自身を設定している。
 パソコン通信どころか、『あしながおじさん』や『ポケット一杯の幸福』の昔から、手紙など顔が見えない間柄では、自分の姿形や性別、立場などを偽ることはある意味ごく自然に行われていたのだ。
 男なのに女のフリ、またその逆もあり。みなさんは私のことを今までの文章からオタクな中年オヤジだと思ってるかもしれないが、もしかしたらそんなのは全部ウソで、可憐な女子高生かもしれないのだぞ。
 ……って、誰が信じるかい。
 ξ^▽〆 おーっほっほっほっ。

 でも、冗談ではなく、私のことを「本当は女の人じゃないですか?」なんて聞いてきた人も過去にはいたのよ。全く、「なして?」と疑問符が頭の上を飛び交っちゃいますよねえ。
 しげに至っては私のこの日記を読んで、「この人、自分に『しげ』っていう奥さんがいるって妄想にとりつかれてる人みたいね」なんて言いやがるし。
 じゃあ、そう言ってるお前は何なんだよ。『粗忽長屋』の熊公か。
 ……そう言えば、AIQのエロの冒険者さんも、以前、某ちゃんねるで、女性と間違えられていたなあ(^.^)。
 こうやって日記を書いているということは、ある程度は自分の実像を錯覚されてもしかたがないと覚悟せねばならないのだろうが、どうして「私は男だ」と全身で表現してるような文章書いてるつもりなのに「女だ」と思われちゃうかな。
 もっとも、それで腹が立ったわけじゃないけど。あまり男がどうだ女がどうだなんてことに拘りたくはないんだよね。別にネカマになるつもりはないんで、自分のことを「男だ」って言ってるだけであってさ。
 でも、私のことを女だと思いたがる人については別に否定はしません。想像は読者の自由であります。

 「日記が続かない」現象が起きてしまうのは、まさしく、実像としての自分と、日記上に表された虚構としての自分、更には読者との人間関係をうまくコントロールできなくなった結果なのじゃないかと思う。
 そのことを唐沢さん自身、「日記上の自分」を「世の中とのしがらみで言いたいことも言わず、思ってもいないことを言う、その世間的存在としての自分の声が本当の声なのではないか」と書いた上で、以下のように説明していた。 
 「公開日記を書くという作業は、その、本音と世間との距離や位置関係を、自分で確認する行為でもある。よく、公開日記が途中で中断されたまま残骸のように放置されているサイトがあるが、あれはそういう距離をうまくとれずにしまった結果だろう」
 まあ、書き手が自分のことを「こんな風に思ってもらいたい」ってのはゴーマンだってことなんだよな。


 夜、なんとなく物寂しくなって、外出。
 しげと自転車で「ブックセンターほんだ」まで。
 夜中、自転車に乗るのは夜目の効かない私にとってはちょっと危なっかしい行為なので、本当は避けたいところなのだが、買い損なってる新刊もあるので、探しに行くことにしたのだ。
 行き道、突然しげが変なことを聞いてくる。
 「……歌舞伎町で火事があったよねえ。こないだから気になってるんだけど」
 「……何が?」
 「東京のこうたろうさん、火事に巻き込まれてないかなあ」
 思わずコケそうになる私。
 「住んでるところが違うじゃんかよ」
 「でも、台風が来てたときも、ちょうど書き込みとかなかったでしょ? 何か事故にあってないかなあって」
 ……バカだよなあ。
 その伝で行くなら、仮に私がハワイ旅行したとして、ロサンゼルスで地震が起きたら、津波で沈んでないかって心配しそうだよな。

 本を買ったあと、ロイヤルホストで食事。
 カロリーが高いものばかりだが、ステーキが意外と低く、500kcal程度しかない。今日は一日、仕事に追われて朝も昼も食えなかったので、思いきって頼む。
 いちいちカロリー気にしながら食べるのっての、どうにも侘しいなあ。
 こういうのがかえってストレスになりゃしないかと気になるぞ。


 米沢嘉博監修『コミケット叢書―02 マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(青林工藝社・1050円)。
 2000年2月と11月、2回に分けて行われた著作権に関するシンポジウムを収録、解説したもの。
 パネラーは、第1回がいしかわじゅん、高河ゆん、高取英、竹熊健太郎、とり・みき、夏目房之介、村上知彦、と、マンガ家・評論家中心。なかなか錚々たるメンバーだけれど、夏目さんの「引用」についての話を除けば、他の人たちの意見は感想の域を出ていない。「何がパロディで何がパロディでないか」というのは主観の問題なので、「法律上、どのように考えたらいいか」という視点で見た場合、あまり意味はないのだ。
 以前から思っちゃいたが、いしかわじゅんと高河ゆんが、パアの両極だってことはよくわかったな(^.^)。
 それに比べて、第2回は飯田圭、石井裕一郎、牧野二郎の法律家三氏に、マンガ家のみなもと太郎が疑問を呈する、という形式を取っていて、こちらはなかなか楽しめた。
 感想を書き出したらキリがないが、一つ言えることは、これから同人誌を作ろうって人も、今現在作っている人も、いや、「創作」に携わっている人は、絶対に、この本(特に第2回)を読んでおく必要があるってことだ。

 マンガのパロディ描いたり、ヤオイ本出したりしてる人は、「著作権」って聞くと、すぐにオリジナルのほうの著作権のことばかり考えて、自分たちの作品にだって著作権があるんだってことを忘れてしまいがちだ。
 なんとなく「それは著作権に引っかかるから」なんて言葉をよく聞くから、これは描いちゃマズイんじゃないか、とか、ここまで描くとさすがにヤバイ、とか、ついそんな消極的な発想で筆が鈍ることが往々にしてあるけれど、でも、現実に日本で「パロディ」が裁判沙汰にまで発展したのは、いわゆる「マッド・アマノ」裁判一例しかないのである。
 ……この件もかなり有名なのに、若い人は全然知らないんだよなあ。自分の半分しか生きてない人でも、話してるとこいつ、私の十分の一か百分の一しか生きてねーんじゃないかって思うことあるぜ。

 マッド・アマノってのは人名だ。既成の写真をコラージュして、数々のパロディ写真を作ってきたのだが、そのうちの一つ、白川さんという写真家が撮った雪山の写真の上にでっかいタイヤと轍の写真を合成して、自然の雪山がいかに人間に蹂躙されているかを揶揄する作品に仕上げた。
 それが結局はオリジナルの写真の著作権を侵害していることになる、と判決が下されたのである。

 この判決自体、なんでやねん、と私などは怒りを覚えるが、百歩譲って、仮にこの判決を妥当なものだと考えたとしても、それで全てのパロディ、批評が禁止されたとまで敷衍することはできない。
 なのに、我々はつい「サザエさんの性生活」を描いたら、「長谷川町子記念館」から訴えられるんじゃないか、とビクビクしてしまうのである。批評のための引用なら許諾はいらない。実はこれ、法律でちゃんと認められているのである。
 確かに、誹謗、中傷、営業妨害目的のオリジナルの改竄は戒められるべきだろう。しかし、例えば、ある作品のパロディ本を描いたとして、それが誹謗の範疇に入るのか、批評の域に達しているのか、今書いた通り、その判例は「マッド・アマノ」裁判しかないのだ。
 現実には、裁判に至る前にパロディを描いた方が謝ったり、示談に持って行ったりして、初めから「負け」ている。
 それでほんとうにいいのか? という疑念が、第2回のシンポでは、法律家の方から出されているのだ。
 「自信を持っているのならやってほしい。やってから(弁護士のところに)相談に来い」と、牧野さんは発言しているのだよ。

 私個人はヤオイ本なんて全部クズと思っているが、だから「禁止せよ」「絶版にせよ」「もう描くな」なんてことを言うつもりは毛頭ない。たとえどんなにヒドイ内容のものであっても、批判の対象にこそなれ、出版差し止めなどを要求していいものではない。それが「言論の自由」ということだ。
 その点で行けば、小林よしのりの『脱ゴーマニズム宣言』出版差し止め裁判は、小林さんにとっては自分で自分の首を絞めるも同然の訴訟だったと思う。……『新ゴーマニズム』の中でいろいろ言い訳してるけどねえ、結局、「引用する場合、もとの絵や文を改竄してはならない」点において出版が差し止められたんであって、『脱』が批評本であることは認められたのだから、『脱』の作者の上杉聡さんが改訂版を出せば、小林さんはもう何も言うことはできないのである。
 同人誌作家たちも、自分のことを仮にも「作家」であると自覚しているのならば、こういうシンポジウムに積極的に参加するくらいの気概を見せてほしいものだ。主宰の米沢さんが嘆いていたのは、一番参加して欲しかったパロディ同人誌の作り手たちがみんなこのシンポに対して及び腰だったということなんだぞ。
 ヤオイ本の作者たちがそのオリジナル作品を愛してるなんてのは、ウソだなあ、とつくづく思う。彼女たちが愛してるのは自分だけなのだ。
 ……これ、「中傷」じゃなくて、「批判」だからね。

2000年09月04日(月) また一つ悪いウワサが……?/『マンガ夜話vol.9 陰陽師・ガラスの仮面』



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