無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年09月22日(水) イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻

 こないだの練習以来、しげが「ショック」を受けている。
 日記で、「夜通し、カトウ君と芝居やゲームや恋愛話を熱く語っていた」と書いたのだが、実際には私は寝ていたので、ホントはどんな会話をしたかまでは知らないのである。どうせそんな話しかしちゃいないだろう、とあてずっぽうで書いたのだが、あとで聞いてみると、ホントに芝居とゲームと恋愛の話しかしなかったとか。寝ろよ(~_~;)。
 その「恋愛話」の中でまあ、御互いの恋愛観やらを語り合ったそうなのだが、そこでカトウ君、しげのことを「しげさんのことは人としてはともかく、恋愛対象としてはキライです」と言ったというのである。
 そりゃ、傍若無人、無知蒙昧、狷介孤高なしげのことを恋愛対象として見る人間がこの世にあろうとは思えない(人としても評価はしがたい)。ごく当たり前の感想なので、今更いったい何がショックなのかと聞いてみたのだが、「別に自分からコクる気もない相手にいきなり『キライ』って言われるんだもん」とフクレているのである。
 なんか、島本和彦の『炎の転校生』で、戦闘フォーが滝沢昇に「ぼくには好きな人がいるんだあ!」と言われて「別に好きでもなかったのにショックだわ」とか言ってたの思い出したな(^o^)。
 戦闘フォーの場合はカワイイ子ばっかなので、ショックを受けるのも順当と思えるが、しげの場合は「鏡を見ろ」である。いや、面相だけの問題ではなく、性根の問題である。「恋愛感情」ってのは、相手に対して「憧憬」と「独占欲」が同レベルで存在していないと成立しないものであるが、しげのどこにも憧れるような部分はないし(あれだけ自分に無責任に生きられる点は羨ましいと思うが)、アレを独占して何か特することがあるのか。見返りもないのにわざわざ重い荷物を背負いこむ馬鹿はいない。嫌われるのがごく普通の人間の反応であろう。
 それに、恋愛感情なんてのは、本来、人と人とを結び付ける要素としては、殆どその効力を発揮しないものである。世の中には恋愛原理主義者が腐るほどいるが、全然その本質に気付かずに離合集散というか、惚れた切れたを繰り返しているのは全くご苦労なことである。一生、ユメを見てたい気持ちも分からんではないが、ユメの中にしかいないというのもちょっとどうだろうか。
 しげにもこの「ユメ」見る部分は多分にあって、だからこそ「ショック」も受けたのだろうけれど、これまで自分の中に「憧れられる」ものとか、「独占したくなる」ものを作りあげ磨いていく努力をなんか一つでもしてきたのか、と言いたい。人として女として自分を磨くことも全くしていないのに、惚れられるだけのことはありたいと望むというのは、世間一般では「おこがましい」と評されることなのである。
 私の場合、なんでしげとくっついてるかっていうと、何度も書いたことではあるが、恋愛感情とかではなくて、これが「縁」だからだ。抽象的でよく分からん、ということであれば、しげといることが「人生の仕事」だと認識しているのだ、ということでご理解いたただきたい。いやさ、「仕事」じゃなきゃ、普通、あんな人間の屑と一緒にゃいませんて。こういうことを言うと、しげは「愛がないの!?」って怒るのだが、ない袖は振れない。それがイヤなら初めから私と違って「マイ、ハニー!」とか言って毎日抱きしめてくれるような恋愛至上主義者を相手にすればよいのである。私のような冷血漢と結婚した時点で、甘い生活を期待するのはやめてもらわなきゃ。


 昨日に引き続き、トンガリさんは休み。うわあ、ホントに五連休にしやがったなあ。出勤してんの、平均したら週に三日くらいじゃないのか。どうしてそんなに休めるんだか、それこそトンガリさんの口癖じゃないが、「分かりません」。仕事はどんどん滞ってきているのだが、こうなったらもうトコトン出てこないでほしいなあ。中途半端に出てこられたら、またしたくもない口論をしなきゃならなくなるし。
 同僚とトンガリさんのことを話していたのだが、「結局、これって上司の『管理不行届き』じゃないのか」と憤慨される。そりゃまあ当然の怒りなのだけれども、おエライさんたちが実情を知っていて何の対処もしないというのは別に今に始まったことではない。例のホモオタさんだって、閑職に回されているとは言え、クビになっているわけではないのだ。他にも不祥事を起こした人間はいくらでもいるが、かなりこりゃ問題なんじゃないのか、と思われるケースであっても、さしたるお咎めナシ、という場合も多い。
 おエライさんたちは、ともかく外面と言うか、世間体を取り繕うことばかりを優先するので、ヘタに問題のある者をクビにしてしまえば、そもそもそういう困ったちゃんたちを雇った自分たちの責任問題になってくるのである。それを避けたいがために「ことは穏便に」という方向に行くのだろうが、問題を放置しといて、それが危機的状況になった場合、どうしたらいいかってことまでは考えようとしないのだ。……だからその問題の収集に東奔西走させられてるのが我々したっぱなんだってばよ。全く、すげ替えたいクビはほかにもあることである。


 ひと月くらい歯医者に行きそびれていたが、そろそろ何とかならんかと仕事帰りに寄ってみる。前にしてたツメモノを詰めて、また新しく詰め替えて終わりなのだが、そのあとどうするかはやっぱり説明なし。この先延々と詰め替えだけをしていくのかなあ。差し歯とかなんかする予定はないのだろうか。いつも治療が終わって、先生はすぐに引っ込んでしまうので、そのあたりのことを聞くタイミングを逃がしてしまうのである。


 今日読んだ本、山田風太郎忍法帖短編全集4『くノ一死ににゆく』。
 山田風太郎の描く女忍者はみな切なげである。忍者に与えられた使命は常に苛酷なものだが、それがくの一の場合は、男以上に失うもの、犠牲にしなければならないものが大きいからだろう。さらに哀れを誘うのは、くの一が命を賭して使命を果たしたからと言って、それで何かが報われたかと言えば、何もないことである。作者は最後の最後で意地の悪い「冗談」を仕掛けたりもする。さながらこの世界自体が壮大な「冗談」であるかのように。

 読んだマンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』10巻。
 パリ編のスタートだけれど、のだめはやっぱりのだめ。留学したのにアニフェス行ってどーするかね(しかしフランスのオタクって「サザエさん」のコスプレとかするんだろうか〔p.117〕)。これまでライバルらしいライバルがいなかった千秋の前に現れたモテモテ男(死語)のジャン。物語としては、これで一応、盛り上がってきちゃいるんだけど、本当のライバルは小心者なんだか大物なんだかよく分らない片平さんではなかろうか(^o^)。

 天樹征丸原作、さとうふみや漫画『探偵学園Q』17巻。
 さとうさんの絵、最近とみにナヨッとしてきてないかな。リュウはともかく、キュウまで絵によっては女の子に見えるぞ。トリックのチャチさはもう今更。付録に立体視カードなんかつけるのも全然意味がない。つか、カード付けてる時点で、この作者、自分からトリックをバラしてるじゃん(いくらチャチとは言え)。じゃあ、読者だってミステリーのマナーを破って、トリックを言いふらしちゃってもいいのか?


 昨日買ったDVD『イノセンス』リミテッドエディションを見る。
 特典映像の押井守×鈴木敏夫対談は、相変わらずの押井節が聞けて(ちゃんと宮崎駿へのワルクチも満載♪)、ヘタすりゃ本編よりも楽しかったりする。
 押井監督の映画について、よく「人間の情感が存在していない」という批判がされることがある。それこそ「アンチ押井派」は金科玉条のようにこれを繰り返すのだけれども、もともと「そんなものを描くつもりはない」ことを今回の対談でも監督は強調している。「そんな人間の感情とか、一部のものではなくて人間の存在全体を描こうとなぜしないのか」と監督は憤慨しているのである。でも、なぜったってねえ、そりゃ大半の人間が、自己の「感情」を肯定することによって「癒されたい」と思っているからでしょうよ。感情に流されるの、みんな好きだからねえ。
 それは実は「愚か」であることと同義語なんだけれども、これは「愚かでなければ生きていくのがツライ」という判断に基づく「世間知」でもあるのである。だって「アタマがいい」ということは無理解も忘却も責任回避もヒキコモリも人生に希望を持つことすら許されないということなのであるから。
 逃げ場のない人生、希望のない人生を送りたいなどと誰が思うだろう。「アタマのいい生き方」というのは、実は「絶望」を前提として、「存在が存在していることの意味など、この宇宙のどこにも存在していないことを明確に自覚して生きる」ということなのだ。しかし、仮にそんな生き方を選べば、神ならぬ人ごときが導き出せる解答は結局「絶望」に落ちついてしまう。たとえ愚かと言われようが、この世にある者で「生きたい」という感情に忠実であらざる者は滅多にいない。生きるためには愚かでなければならないというのは、そういうことなのだ。宮崎駿の『もののけ姫』が「生きろ」をコピーとし、「馬鹿には勝てん」のセリフで締めくくられるのは、つまるところは「希望を持つこと=馬鹿であること=生きること」であることを喝破しているのである。
 人はいつまでもユメを見ていたいと思う。『セカチュー』みたいに古色蒼然とした「お涙頂戴」映画が未だにヒットを飛ばすというのも、『華氏911』のように「キミにも正義が行える」と甘い錯覚を与えてくれる映画にトロンとしてしまうのも、みんな、現実の絶望と向き合うことから目を逸らしていたいからである。冷静に考えてみればよろしい。この世界に、気休め以上の希望がいったいどこにあるだろうか?
 押井監督が「現代人は肉体を失っている。結局人間には『言葉』しかない。肉体だと思っているものだって『言葉』によって規定されたものに過ぎない。その、言葉に規定される以前の、本来の『人間』を回復するためには、肉体に対置する存在としての『人形』をそこに置く必要がある」という、これまでに何度となく述べている『イノセンス』製作の動機を語っているのは、言ってみれば「絶望」を前提として、それでも人間が存在することに意味を求め得るのかという、殆ど解答の出しようがない命題を自身に課しているのと同義であろう。
 けれど結局、言葉にだって意味はない。意味があるように見えるものがそこに存在しているだけだ。押井監督がやろうとしていることは、すべからく徒労に終わることが運命づけられている、ドン・キホーテ的行動なのである。だからこそ、『イノセンス』は極めていとおしい映画になっているのであるが。
 カンヌ映画祭で無冠に終わった押井監督が、「『映画が好き』と語る人々は“過去”の映画を見ているだけだ」と語ったのを「負け惜しみ」と取る人もいるだろう。けれど実際、受賞した『華氏911』には、新しいものなど何もなかった。あれを評価している人々が、ドキュメンタリーという看板にうまいこと騙されて、単に自分に心地よい幻想に浸りたがっていただけだということに気付くことはあるのだろうか。

2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)
2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか



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