無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年09月17日(金) 爆発120%!/『カミヤドリ』1巻

 書くだけでムカムカしてくるので、もう簡単に書くけれど、トンガリさんがまた難癖をつけてくる。昨日の会議で決まったこと、やっぱりよく分かってなくて、全然仕事に手を付けようとしてないばかりか、「昨日の会議の内容がよくわかんなかったから、まとめて書類にして出してくれ」と言うのである。出ても出なくても結局一緒かあんたは。
 「わかんないわかんないって、そりゃ仕事できないってことじゃないですか!」
 「あなたは私を無能呼ばわりするんですか! 大概にしてくださいよ!」
 「実際その通りじゃないですか! あなたがここにいたらそれだけで迷惑です!」
 「あなたも最近は元気だからそんなこと言うんでしょうけど去年までは病気で仕事もロクにできなかったじゃないですか!」
 ……ああ、この人、こないだまで私が入院してたことも知らないのである。もちろん自室に閉じこもって外に出てこないからそれも当然なのだが。
 なんかもう、どうしようもない応酬をしたあと私がどうしたかと言うと。
 ……資料作ってトンガリさんに渡したのである。だって仕事してもらうことが目的なんであって仕事やめさせようってわけじゃないんだから。
 ああ、でもハラワタが煮え繰り返ると言うか、血管ぶち切れると言うか、なんとも腹の虫が収まらない。いやホントにこのヒト自分からやめてくれた方がどれだけの人が胸をなでおろすことだろう。けれど心臓だけは毛が生えてる感じだもんなあやめろったってやめないよなあ。
 一連のやりとりを上司に報告したら、「藤原さんには悪いけど、笑っちゃうね。挨拶一つできない、礼儀も知らない、仕事もしてない人からしてないだろうって言われるのは。あの人の代わりに資料作ってあげてるのはどこの誰なんだろうね」と言って慰労されたのだが、心が慰められた気分には全然ならないのである。


 いやなことは二つも書きたくはないのだが、帰宅したら父から電話がかかってきた。
 いや、電話自体は私の病後を心配してかけてきたのだが、あとの話題がどうにも腹が立つ内容だったのである。
 父の幼馴染の友人で、私も子供のころからかわいがってもらっていたある方がいらっしゃるのだが、どうもしげのことを気に入らなく思っているらしい。どこでどういう話を仕入れてきたのか分からないのだが、しげの育ちが悪いだの何だのと父に告げて、「なんで別れさせないのか」とか談判したと言うのだ。
 思わず電話口で「はあ?」と言ってしまったが、父の親友と言っても私とは赤の他人である。何の義理があってそんな余計な口を叩くのかワケが分らない。しげとその人とは顔を合わせたことだってそう多くはない。まだしもしげの家事ほったらかしぶりをよく知ってる劇団の連中から言われるほうがリクツは通るというものだ。
 しかも我々夫婦を別れさせたい理由が「しげの育ちが悪いから」とはいったい何なのだ。ついそばにいたしげに「お前、育ちが悪かったのか?」と聞いてしまった(^_^;)。しげは笑って「よくはないぞ」と威張っていた(威張るなよ)。
 そもそも「育ちがいいか悪いか」なんてこと、客観的な線引きができるものでもない。「あんたは育ちがいいかね?」と聞かれて「いいよ」と答える人間は大馬鹿だろう。結局は「自分の方が格上である」という差別意識があるからこんな発言が平気で出るのである。時代錯誤も甚だしい。
 「でもどうしてわかったの?」としげは自分が蔑まれたことよりもそちらの方を不思議がっていたが、確かにそれが謎である。単に当てずっぽうでそんな中傷をしてるだけのような気もするが。
 当然父も怒ってその方とはかなりな口喧嘩になったそうなのだが、父はこれまでにもその方とは何度となくこの手の話題で口論を繰り返してきているのである。今後、その人の性格が改まることはまずあるまい。
 世の中には親切ごかしでこんなことを言う人がたまにいる。自分では「この人のために何かしてあげなければならない」「この人に意見ができるのは自分だけだ」と思いこんでいるのだろうが、そんなのはただの思いあがりで、実際は「そういう『親切な自分』を演じる」のが好きなだけなのである。自意識の塊のようなこういう人種にからまれると、全く鬱陶しくて仕方がないのだが、こういう手合いは天災のように忘れたころにやって来るので、関わり合いにならないでいることはなかなか難しい。私的な付き合いなら縁を切るだけですむのだが、仕事上でこんなのに関わった日には逃げることも叶わないからもう胃に穴が空くのも仕方がないのである。
 さらに悲しいのは、たまに私がそういう連中と同一視されることがあることである。私の言動を見たり、この日記の文などを読んでいれば、そういう「余計なお世話」の類が大嫌いだということが分かりそうなものなのだが。読解力がないというか、人を見る力に著しく欠けているというか、何か意見を言われただけで「干渉」だとか「強制」だとかヒステリックにがなりたてるのがそういった連中のパターンなのだが、これもそもそも自分自身が他人に意見を押しつけたいタイプだから、他人の意見が全て「干渉」にしか見えないのである。まず自分の姿を鏡で見ろってば(-_-;)。
 全く、世の中は自意識過剰と被害妄想の二種類の人間しかいないのだろうか。タメイキ。
 父は「どこでそんなウワサ聞きつけたか問い詰めてみようと思う」と言っていたが、「余計なことはしなくていいよ」と言っておく。ウワサが本人のところに届いている時点で、そのウワサはかなり広範囲に広まっていると判断して間違いはない。そんなもんのルーツをいちいち探るだけ労力のムダだし、知ったところで何がどうなるものでもない。人を蔑みたいやつは相手がどういう人間かということより蔑む行為自体を楽しみたいのである。具体的に商売上の不利益を被るとか、そういう被害がない限りは、ほっといたらいいのである。
 もっとも、そのお節介な父のお友達にはかなり本気で腹が立っているので、父はいざ知らず、私の方では今後お付き合いをすることはなかろうと思う。昔の恩義(といってもたいしたこっちゃない)と今の不快感を天秤にかけたら、やっぱ今の不快感の方が大きいのである。


 夕食は昨晩と同じで親子丼。しげは当然ドンブリめし山盛りを米ひと粒残さずに食い尽くす。4日分くらい買いこんでいた材料が二日で尽きてしまった。恐るべしビッグ・ストマック。明日のおかず、何もなくなったぞ。
 テレビで『ザ・ジャッジ 2時間スペシャル』を見る。
 叶姉妹のネタのところで「いくら姉妹でも許せないことがある」とかいうセリフがあったが、それ見て「おいおい、あんたら『叶姉妹』ってユニットで、ホントの姉妹じゃないだろう」と突っ込んだ人、多かったろうなあ。
 森光子が80歳にして白髪が全くないというのはちょっと信じられない話だが、あの舞台での活躍ぶりを見ていると、それもなんだか納得できてしまうのである。

 読んだマンガ、三部けい『カミヤドリ』1巻。
 感染症により怪物化した人間をハントするってのは基本的にゾンビものの変形であまり新味は感じられないけれど、絵柄とヴィヴィのキャラクターはなかなか好み。やっぱハードな設定の中でコミュニケーション不全の少女が人間らしい心を取り戻して……というパターンが好きなのだな。ただ、ヴィヴィはともかく、他のキャラまで表情の付け方が固いのは絵としてはやや読みにくい印象を受けた。


 早いとこ単行本になってくれないかと毎号楽しみにしている『言語』の斎藤美奈子さんのエッセイ、『斎藤美奈子のピンポンダッシュ』であるが、10月号の第22回、『信長か秀吉か家康か』と題して、小学校6年生の「社会」の授業の内容が紹介されている。
 それによると、いわゆる「ゆとり教育」の一環として、「もしなれるなら信長、秀吉、家康の誰になりたいですか」という問題があるという。斎藤さんの知人の息子さんは、その三人の誰にもなりたくなくて困ったとか(^o^)。
 ほかにも「なぜ頼朝は弟である義経を追いつめて殺したのか」「タイムマシンに乗って杉田玄白にインタビューするとしたら」とかいう問題もあって、かつての知育偏重を反省し、歴史をただ知識として覚えるのではなく、その「人間性」にまで迫ろう、というのが主旨であるようだ。斎藤さんはそれを「だれそれの気持ちになって考えるのがそんなに大切?」「『人間性』を主軸にしたら、必然的に『気性』を云々しなければならなくなる」と言って疑義を提しているのである。
 でもこの「三人のうち誰に」っての、私も小学校のころに先生から聞かれたことがあるな。やっぱり5年か6年のころで、今時の若い人はよく知らないかもしれないが、例の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(信長)」「鳴かぬなら鳴かしてみしょうホトトギス(秀吉)」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)」の三つの俳句を引いて、「あなたならどのタイプになりたいですか?」という質問をされたのである。
 小学生も高学年となればチエも付いてくるし、先生が「どんな答えをほしがっているか」くらいは見当がつく。間違っても「信長」と答える子はいなくて、たいていは秀吉か家康タイプに分かれる。内心では「でも好きなのは真田幸村なんだけど」とは決して言わないのである(NHK人形劇『真田十勇士』なんかを見てたらそりゃ秀吉のファンにも家康のファンにもなりようがない)。けどそうやって「教師の気に入るように慮って」答えた解答にどんな「教育的成果」があるんかな、と疑問に思うのは斎藤さん一人ではあるまい(まあ媚の売り方は覚えるだろうがね)。だいたいそんな「俗説」のイメージを歴史の真実であるかのように語るというのは、それこそ「歴史の捏造」ではないのだろうか。それは私も小学生の時分から疑問に思ってはいたのだが、なんだかそのあたりの現代教育、どんどん妙な方向に歪んでいっているように見える。
 思うに現代の教育界、「ゆとり」どころか「あせって」いるのだ。犯罪の低年齢化が進むにつれて、学校は何をしているんだ、子供の心をちゃんと見ているのか、などなどと突き上げられる。何か事件が起きてしまえばいったい誰の責任なのか、校長か担任か親なのか、スケープゴート捜しに奔走し、誰かの一瞬の油断が責められババを引かされる。おかげで教育界はノイローゼ寸前、これではトチ狂った先生たちによって「なんだかなあ」と言いたくなるような授業方法が生み出されても仕方がない。ともかく求められるのは「即効性のクスリ」なのだから、副作用まで考慮する余裕はなくなっているのだ。いや、もしかすると即効性すらない気休めを与えられているに過ぎない場合もあるかもしれない。結局、彼ら教師たちは、子供の心に「思いやり」と「優しさ」を取り戻すことができれば犯罪を防止することができるという極めて短絡的でノーテンキな思考しかできなくなっているのである。
 別に「世の中が悪い」と言いたいわけではないが、犯罪の低年齢化は社会の必然である。共同体がとうの昔に解体し、高度な情報化社会と化している現代においては、人間もまた一つの情報にすぎず、「ワン・オブ・ゼム」としてしか機能しない。現代では本当に必要な人間など誰一人存在していないのである。にも関わらず、学校では先生対生徒、生徒間においてさえも一人一人が互いに必要としあっているような擬似関係をムリヤリ作らされている。目端の利いた生徒なら、その欺瞞を何年も続けさせられていればいい加減で嫌気がさすのは当然で、中には堪え性なくぶち切れるガキが出てくることもあり得ようというものである。そこに「思いやり」なんてキレイゴトを投げかけるのは火に油を注ぐようなものだ。別にこんなことは私一人が語ってることじゃなくて、これまで何万編も語り尽くされてることなのだが、そういうことが分かっていてもなお「生きる力」云々のキレイゴトを語り続けなければならないところに現代教育の一番の病根があるんだろう。
 でもみんなどうして「今の教育はダメだ」とか「おかしい」とか言いながら子供を学校にやるかね。行き先を見失ってるバスと知ってて乗っかる乗客も所詮はバカだと思うけど。「だって他に交通手段がないじゃないか」と言うのなら、そもそも今の教育界を安易に批判する資格はあるまい。
 それに、“本当に”学校に通わせること以外に教育方法の選択肢がないのかどうか、世の親がどれだけ考えたというのだろう。いったい今の学校の授業の中で、社会に出たときに真に役に立つ勉強がどれだけあるというのか、子供にキチンと説明している親がいるのだろうか? 小学生の親はただ託児所がわりに子供を学校に追いやり、中高生の親は自分の見栄のために通わせているだけではないのか? そこが生徒間のいじめや暴力、教師の手前勝手な思想の押しつけ、あるいは下らぬ校則での管理など、社会の理不尽な現実のミニチュアであることを知った上で子供を送り込んでいるのだろうか? もし「それこそが社会勉強だ」と主張するのなら、もう私には何も言うことはないけれども。
 映画『誰も知らない』で、YOUが演じていた母親が「学校なんか行かなくてもえらくなった人はいっぱいいる」と言い放つシーンがある。アレを見て「なんて無責任な母親なんだ」と憤る人はいるだろうが、実は一昔前の親というものはどこでも同じセリフを吐いていたのである。だって本当に「学校に通わせるだけ時間のムダ」と思っていた親が多かったから。現代だって、「学校以外の選択肢」を選ばせた方がいい子供は本当は何万人、何十万人という単位でいると思う。


 レイモンド・ベンスンによるOO7・ジェームズ・ボンドシリーズの最新小説『赤い刺青の男』は、ご存知の方も多かろうが“あの”『OO7は二度死ぬ』の「直接の」続編で、日本を舞台にしている。
 このほど映画化とロケ誘致の実現を目指す署名活動が、北海道登別市で始まったそうな(同じく小説に登場する香川県でも既に署名活動を開始)。
 けれどもここんとこOO7シリーズの映画は殆ど映画オリジナルとして作られており、原作は存在していない。巷に流れている小説版はあくまでノベライズなのである。
 ジョン・ガードナー、ベンスンと、イアン・フレミングの衣鉢を継ぐ形で書かれてきた小説オリジナルシリーズは、これまでただの一本も映画化されたことはなかった。フレミングの原作があったころにはたとえ原作をかなり逸脱した内容であろうと原作のネームバリューは無視できず、タイトルはあくまで原作を踏襲してはいたのだが(第15作『リビング・デイライツ』まで)、映画製作会社であるイオン・プロダクションとしては「別にガードナーやベンスンの小説をムリに映画化しなくても、映画オリジナルの方が、客が集まるし」といった判断でもあるのだろう。スペクター再登場の話などもあって、決してつまらなくはないのだが。
 だから、北海道や香川県がいくら署名運動を展開したところで、映画化はかなり難しいと思うのだが、『赤い刺青の男』をお読みの方はご承知の通り、あれにはなんと『二度死ぬ』のタイガー田中が再登場しているのである。タイガーと言えばもうこれは丹波哲郎以外の役者は考えられないので、もしも映画化されるのなら、丹波さんには失礼ながら、時間的な余裕はそんなにないと思うのである(^_^;)。OO7シリーズでボンド以外のゲストキャラが同一同俳優で再登場した例はリチャード・キールのジョーズなど、数えるほどしか例がない。それを考えると、これは確かに映画化してもらえんものかという気はしてくる。
 ピアース・ブロスナンのOO7降板は決定して、次作のボンドはどうやら『エバー・アフター』『ミッション・インポッシブル2』のダグレー・スコットになるらしいが、もしも『赤い刺青の男』が映像化されるとすれば、“若返ったボンド”(スコットは来年40歳)と、トシを取ったタイガー(丹波さんは現在82歳)との共演になるわけで、いくら「ボンドはトシを取らない」ことが暗黙の了解だからと言っても、どうしたって「同一人物の再会」と言い張るにはムリがあるのである。やっぱり映画化はムリですかねえ。
 豆知識だけれど、丹波さん、『二度死ぬ』の中では「グッモーニン、ミスター・ボンド」と発音もアクセントも実に見事な英語を披露している。丹波さんのプロフィールを覗いてみると「戦後GHQの通訳をしていた」というこりゃまたビックリな経歴も記載されているので、丹波さんの英語はホンモノだ、と思っている人も多いと思うのである。けれどこれ、真っ赤なウソで、ご本人が「全く喋れない」ことを『笑っていいとも』にゲスト出演したときに告白しているのだね。
 それで通訳なんかできたんか、とビックリされるだろうけれど、まあ戦後すぐのことだからいくらでも嘘八百がまかり通った時代だったというか、そこにいただけで何も仕事しなくてもしたフリするくらいの演技力は丹波さんにとってはおちゃのこさいさいだったというか(^_^;)。ともかく『二度死ぬ』の英語はあれ、外人さんの吹替えで丹波さんの生声じゃないんである。ちょっと聞いただけだと丹波さんの声に似てるんでウッカリダマされちゃうんだけれども(私も昔は本人の声だと思いこんでました)。

2003年09月17日(水) そう言や久しぶりのカラオケだったな/『雑多なアルファベット』(エドワード・ゴーリー)
2002年09月17日(火) 放生会の掘り出し物/『博多の心』(朝日新聞福岡総局)/『魁!! クロマティ高校』5巻(野中英次)
2001年09月17日(月) 祝日には旗を。私は出さんが/『クラダルマ』1・2巻(柴田昌弘)ほか
2000年09月17日(日) クウガと絶叫としゃぶしゃぶと/『少年探偵虹北恭助の冒険』(はやみねかおる)ほか



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