無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年09月18日(土) アナリストたちの誤算/『毎日かあさん カニ母編』

 昨日の日記が字数オーバーしてしまったので、書けなかったこと。
 しげの通院がそろそろ一年になるというので、病院の先生が「一度ご主人にも来てもらえませんか」と仰ったとか。家事がまともにできない、物忘れがひどい、罪悪感がない、すぐヒステリーを起こす、そのあたりの状況がどれだけ変わったか、話を聞こうというのだろう。私の感触としては、最初の三つはたいして変化がないが、ヒステリーだけはあまり起こさなくなってきたように思うのである。これはやはりクスリの効果なのだろう。今後も通院して治療を続けるかどうか、という相談もあろうとは思うが、10年かかって殆ど進歩のなかったしげが少しは落ち付くようにはなったのだから、効果は微々たるものでも、やはり今後もお願いしたいところである。
 それよりも私の方が「だいぶ神経やられてますね。入院治療が必要です」とか言われなきゃいいが(^_^;)。


 しげは今晩が仕事、明日はパーティだというので、クスリを飲んで爆睡している。部屋の片付けもまだ残っているというのに気楽なことで、少し広くなった居間で、仰向けになってバンザイ、足はガニマタという実にみっともない格好でイビキをかいている。
 見てるとなんだかむかっ腹が立ってきたので、携帯カメラで写真を撮ってやった。あとでしげに見せて笑ってやろうと思ったのだが、夕方になって起きてきたしげ、写真を見てひとこと。
 「こんなのに惚れるアンタっておかしいよ」
 なんか、肉を切らせて骨を断たれたような。


 WOWOWで舞台『ミッドサマー・キャロル ガマ王子対ザリガニ魔人』の中継。
 7月にPARCO劇場で録画したものだが、やはり舞台を映像で見るのはかなり魅力が減殺されてしまうことを痛感。役者の対話を切り返しで見せるだけでもカメラが自由に動けるわけでもないからかなり違和感が生まれているし、芝居の流れを無視した編集もあちこちに見受けられた。これで初めて後藤ひろひとの作品を見たという人には、「ホンモノの舞台はこんなもんじゃない」と言っておきたいところである。
 役者さんたちの演技も、私が見た千秋楽の時の方がはるかに上達していた。福岡での客の笑いなどの反応がよかったこともあるのだろうが、例えば伊藤英明が「安達祐実……ジョディ・フォスター、ドリュー・バリモア!」と叫んで泣くシーンなど、放送版よりも千秋楽の方が客の反応を見つつ、かなり間がよくなっていた。長谷川京子も放送版ではただ「突っ立ってる」だけの演技がまま見受けられ、なんだかハラハラしてしまったのだが、それが千秋楽では立っているだけに見えても相手の役者とちゃんと対峙するようになるまで上達していたのだから、大したものなのである。記録に残すんなら福岡版流せ、と言いたくなるくらい「差」があったのだ(伊藤さんが1ヶ所だけ吹いてたけど、放送版でも木場さんが1ヶ所トチってたからトントンだろう)。
 芝居のチケットは確かに高い。けれどやっぱり舞台はナマで見ないとその真価はわからないのである。

 読んだマンガ、西原理恵子『毎日かあさん カニ母編』。
 オビの「家庭円満マンガを描いていたら、連載中に離婚してしまいました(笑)」という作者談が全てを物語っているな。家庭や子どものことをネタにしてマンガを描く作家さんは多いけれど、子供が長じてそれを見るとたいてい、「なんでこんな恥ずかしいことまで描くんだよ」と怒ってグレたりする。でも西原さんとこの子どもは相当なこと描かれちゃいるけどあんまり怒んないんじゃないかなあ。こんなにいい母さん、ちょっといないから。
 こしのりょう『Ns‘あおい』1巻。
 こうしょっちゅう入退院を繰り返していると、医者ものマンガに惹かれてつい買ってしまうのだが、正直、これはいい! というものは少ない。リアルっぽく見せかけて結局お涙頂戴で締める『ブラック・ジャックによろしく』とか読んでて腹立ってくるし。このマンガも構図やら展開やら『よろしく』の影響をモロに受けてるんだけど、まだ嫌悪感が少ないのは主人公がナースだからかな。

 おかずが尽きているので、朝食はそば、昼と夜はスパゲティに、それぞれネギだの千切りキャベツを混ぜるだけで肉ナシ。
 しげが「給料入ったら親子丼ね?」と言うが、こないだまでは給料入ったら「肉肉肉」とうるさかったのだが、親子丼なら安上がりで重宝する。しげが二食分食ったって、300円くらいしかかからないもんな。


 映画『ホーム・アローン』シリーズに主演した元名子役のマコーレー・カルキンが、17日に、規制薬物とマリフアナ所持の疑いでアメリカ・オクラホマ州の警察に逮捕。
 莫大な出演料を巡っての両親の確執、離婚とか、本人の17歳での結婚、破局とか、まあ、これまで散々アメリカの子役が辿ってきたスキャンダルの歴史を、見事になぞってきたカルキン君だったけれども、その期待に答えるようにクスリに手を出しちゃいました。あとは服役後の自伝執筆と来るかな。
 それこそ散々言われ尽くしている「子役の大成は難しい」だけれども、本当は全然難しくないのである。大成する前に引退すりゃいいんだから。5歳やそこらで「将来は役者になりたい」という大志を抱く子どもというのもそう多くはなかろうから、子どもが映画に出演するというのにはやはり何らかの形で親が関与しているわけで、単に子供時代の思い出として学芸界のお遊戯感覚で演技をさせたいのか、それとも本気で演技者の道を歩ませたいのか、そこで子役の運命ははっきり分かれてしまうと言える。なんかカルキン君の場合は前者で出発してヘタに大金が親のフトコロに入っちゃったんで、トチ狂っちゃったって感じがしてならないね。
 子どもが主人公の映画がヒットすれば、雑誌の見出しにすぐ「天才子役」の文字が踊るけれども、本当に子供の頃から内面の表現としての演技力を評価できるような子役なんてのはそんなにいるもんじゃない。たとえ子どもであっても、「どう、ボクってお芝居うまいでしょ?」って感じの「鼻につく」演技をする子は、かわいらしさで一時的な人気は得るものの、じきに化けの皮が剥げる。カルキン君に関しては、やはり子役時代のイライジャ・“フロド・バギンス”・ウッドと共演した『危険な遊び』でかなり“臭く”なっていたので、ちょっと心配してはいたのだが、案の定じきに失速した。現代版「魔少年」という役どころで、親としては『ホーム・アローン』のイメージを払拭しようとあえてスキャンダラスな役に挑ませたのだろうが、当時は「あんなヒドイ役をやらせるなんて!」という批判の声の方が強かった。イライジャ・ウッドとの明暗の差は明らかで、親が欲をかいて失敗したというお定まりのパターンである。
 『E.T.』のヘンリー・トーマスもスキャンダルこそないものの、役柄に恵まれず(『サイコ4』ではなんと若き日のノーマン・ベイツ!……だもんねえ)、地味な脇役になっていった。『シックス・センス』のハーレイ・ジョエル・オスメントが、『A.I.』の興行的失敗にも関わらず“まだ”失速していないのは、イメージを裏切るような役を演じていないからだろう。『ウォルター少年と、夏の休日』以降の活躍も期待されるところで、子役の生き残りにいかに役の性質が深く関与しているかが分かる。『ダウンタウン物語』『タクシー・ドライバー』のジョディ・フォスターや、『アダムス・ファミリー』のクリスティーナ・リッチとかは、もともとヨゴレ役が多かったからもう何を演じても平気、という感じで見事に生き残っている。女の子の場合はかなり真剣な演技を要求される例が多いので、生き残りやすいという面はあるのだろう。なんせあのドリュー・バリモアですら復活できたのだ。ダヴェイ・チェイスもダコタ・ファニングも、多分大丈夫だ。
 カルキン君の場合、『ホーム・アローン』というその後の“期待される”役柄のイメージを強く持ち過ぎてしまったのが敗因だったのだなあと思う。もう24歳だが、今の写真を見てもただのとっぽい兄ちゃんにしか見えず、今後浮上することはかなり難しかろう。もうムリに役者するんじゃなくて、転職した方がまだ傷は少なくてすむよ、きっと。なんせオトナになって人殺しまでしちゃった子役だっているものなあ。


 ここんとこあちこちで話題になっている野村総合研究所(NRI)の「国内のマニア消費者(オタク)主要4分野(アニメ・アイドル・コミック・ゲーム)の市場規模は約2600億円」報告。
 オタクが分散化の一途を辿っているのに、それをいっしょくたにして大市場のごとく語るのはどうかという気もするのだが、この数字の大きさに惑わされてか、どうも「バブル」のときと同じように有頂天になっちゃってるギョーカイの方もいらっしゃるようで、なんかあまり騙されない方がいいんじゃないですか、と他人事ながらお節介なヒトコトも言いたくなるのである。
 先日、森永卓郎氏はこの「2600億円」という数字に疑義を申し立てて、『夕刊フジ』の「森永卓郎サラリーマン塾」で、「1,メディアの融合化」「2,消費者と供給者の融合化」「3,新品と中古の融合化」の3点を挙げ、「オタク市場は現時点ですでに数兆円の規模に達しているだろう」と結論付けていた。
 その分析自体にそう間違いはないと思うけれども、だからと言ってオタク産業の全てが成功するわけではないのは、先日のトワーニの解散も象徴していることである。映画、アニメ、コミック、フィギュア、トレーディングカードなどなど、それこそメディアミックスを駆使しまくった映画『キューティーハニー』が見事にコケたのは、まさに「笛吹けど踊らず」だったのではないか。だいたい『ハニー』は、昔ながらのオタクの間では『CASSHERN』よりは“少なくとも”評価が高かったのに、ヒットはしなかったのである。『ハニー』は『フラッシュ』で少女マンガになったことでも判るように、本来の読者である男の子だけでなく「女の子にも」受けたマンガではあったが、だからと言って女の子がファンになるメインストリームの作品ではない。『ハニー』の公開中、ちょくちょく映画館に足を運んではいたが、ともかく女の子が入る様子がなかった。
 先日も日記に書いたが、男女間、世代間のオタク同士の断層はかなり深くなっていて、我々の世代のオタクにターゲットを絞ったところで「売れない」という法則がもうできあがりつつあるのだろう。

 msnの「インテリジェンスの業界レポート」では、
 「『otaku』はいまや、『shogun』『karate』『sushi』と並んで世界に通用する日本語だ。かつては『暗い』と同じ意味で、否定的に使われたが、そのイメージも変わってきた。また、オタクは重要な存在として注目されるようになっている」
 「知財立国を目指す日本にとって、まさにオタクは“国の宝”ということになるかもしれない」
 と、なんだか手放しの誉めようである。でも、この手のプロパガンダはこれまでにもしょっちゅう語られてきていて、その最たるものは岡田斗司夫さんの「オタクエリート論」であるのだが、それを真に受けてイタイ目に合ってきたオタクも決して少なくはないのである。
 実際に周囲を見回してみて、オタクに対する世間の反応をよく見てみればよろしい。本当に「イメージ」は好転しているのであろうか。少なくとも私が知っている男性のオタクは若いヤツから中年に至るまで何10人何100人といるが(一応、顔だけは広いのである)、明るくて女性にもモテる、なんてやつは殆どいない。もっとも、女性が好きになるタイプの男性は殆ど一点集中なので、オタクであるなしに関わらずモテないヤツはとことんモテないのであるが。
 しかし、興味のない相手にまで押し付けがましくオタクな話を熱心にするキモオタ男が男性女性を問わず嫌われているのは厳然とした事実である。

 この二つのレポートにケツラクしているのはそもそも「オタクとは何か」という捉え方がおおざっぱな点だ。
 「オタク=特定の趣味分野に時間や所得をかける人たち」と簡単に言うが、その「特定の」ってのが現実には、分野どころかかなり狭く限定された作品やキャラクターレベルにまで絞られている場合も多い。必ずしも作品同士のファンの相互乗り入れが行われているとは言えない状況もあるってことを、キチンと把握してはいない。
 例えばテニプリファンの腐女子が、テニプリ以外のアニメ作品のグッズ収集などにどれだけ金をかけるというのか。そんなことをすれば、仲間うちからヘタをしたら「浮気したな!」と捉えられ、阻害されかねない。なんつーか、キャラクターの誰が受けで誰が責めかとか、その解釈の違いだけで反目しあう世界だからねえ(-_-;)。
 ファンは一つの作品に飽きるまではあまりヨソの作品にまで真剣に興味を移したりはしないものである。「いいえ、私は複数の作品が好きですよ」と仰る方も、好きな作品は『SEED』と『ハガレン』と『最遊記』とか、やっぱり明らかに「そっち」方面に偏っているので、間違ってもこういう方は『クレヨンしんちゃん』や『あたしんち』のDVDを買ったりはしない。描いてる同人マンガもみんな似たり寄ったりで、誰かしんちゃんとカザマくんのボーイズラブくらい描いてみたらどうだ、と言いたくなる(「もうある」というウワサは聞いたことはあるが「主流」じゃないよな)。
 「アニメなら片っ端から見る」なんて昔ながらのファンなんてのは殆ど絶滅しているのだ。興味関心が分散化しているだけではなく、マンガアニメ全般に時間やお金をかける余裕がないのも大きな原因の一つなので、だから「オタク受けを狙おう」と思って、「狙いどころを絞り損なう」と、砂漠に水を注ぐがごとく「誰も買い手がいない」という悲惨な結末を迎えることになる。
 40代を過ぎた古株のオタクはいかにもインテリ然とした態度で宮崎駿作品を「あれはオタク心をそそられる作品ではない」とこき下ろす。しかし、毎日毎日『となりのトトロ』を繰り返し見て、部屋中をジブリグッズで埋め尽くすような子供をオタクでないとどうして言えようか(ここでは作品に対する分析批評ができるかどうかという質的な意味での「オタク」を述べているのではないので誤解なきよう)。当然、宮崎作品の収益は、全国津々浦々にまで拡散した「老若男女のオタクたち」によって支えられている。単純に「特定の趣味分野に時間や所得をかける」という特徴を挙げるのなら、既に日本人の殆どは「オタク化」しているのであり、そりゃ何10兆円だろうが市場が存在しているのは当たり前で、そんな分析には何の意味もないのだ。2600億とか数兆とか、こんなとんでもない数字は、それこそ200円のガチャポンを買い集めるガキンチョまで含めた数字だということを考慮に入れないといけない。
 だからオタクをあくまで「市場」として考えるのならば、作品の訴求力がどの世代、どの階層、男女のいずれに偏るものなのか、2600億とかそんなユメみたいな数字に惑わされずに分析し、どの程度の資本投資が可能なのか冷静に判断することが必要なのである。それしなきゃ、みんなトワーニの二の舞だ。
 ……まあ、だからこの手のニュースを見て、「オタクにも日の光が当たってきたんだ!」とか、「ボクももしかしてモテルようになるかも!」とか期待しているそこのキモオタのキミ、それはキミのことではないから勘違いするとかえって傷ついちゃうよ(^o^)。

2003年09月18日(木) めんどくさいのは私も好かんけど/『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(大塚英志)
2002年09月18日(水) 復讐するは誰にある?/映画『恐怖のワニ人間』/『Q.E.D. 証明終了』13巻(加藤元浩)
2001年09月18日(火) 声だけ美少女/『スタジアム 虹の事件簿』(青井夏海)ほか
2000年09月18日(月) ゴキブリと音痴娘と構造記憶と/『僕らは虚空に夜を視る』(上遠野浩平)ほか



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