無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)


 森光子さん主演の舞台、『放浪記』が、昨21日に昭和36年の初演以来、通算1600回の上演記録を達成した様子が朝のニュースで流れている。
 こないだ初日に見に行ったときには、最後の舞台挨拶は森さん一人が正座して手を広げるだけだったのだけれども、昨日は博多座に東山紀之、堂本光一、滝沢秀明も駆けつけて、森さんの偉業達成を祝福した模様。
 舞台の様子も中継されてたけれども、やっぱりカフェで森さんが踊ったりするシーンや、木賃宿ででんぐり返るシーンだったりする。「83歳とは思えない」と視聴者に思わせる演出だということはわかるんだけれども、森さんの演技力が発揮されるのはどっちかというと静かなシーンの方に多い。情念が全身から沸き立って来るような、それでいて決して下品ではない「林芙美子」としての仕草や表情をしっかり捉えてくれなきゃ、あの舞台の本質を紹介したことにはならんと思う。ニュース番組のディレクターも質がどんどん落ちてきてるんである。

 私は林芙美子の小説は『放浪記』しか読んでいない(『浮雲』は映画の方しか見ていない)。つか、今は本屋の文庫の棚に並んでるのがそれだけだから、図書館とかで全集などを探さない限りは読みようもないのである。流行作家の運命というものを考えると、そぞろ寂しい限りだが、林芙美子自身、自分が忘れられることを痛感していたのではなかったか。
 「『放浪記』だけは残ると思う」というのは本人の述懐だが、言い返れば他の作品は全て忘れられてしまうかもと感じていたのだろう。別に他の作品がつまらないということではない。小説や映画は、どうしたってその時代と「寝る」運命にある。風俗習慣の違いを越えて読み継がれ語り継がれる作品など、厳密にはありえない。『源氏物語』ですら、本居宣長が「再発見」するまでは「封印」に近い状態にあったことを想起して頂きたい。
 森さんの林芙美子は、最後に「書かなきゃ、林芙美子は結局『放浪記』だけの作家だったって言われるのよ」と吐き捨てるように呟く。それだけでも充分じゃないか、というのは、抗い難い人間の業からあえて眼を背けている者のタワゴトであろう。

 福田清人編・遠藤充彦著『人と作品15 林芙美子』(清水書院/センチュリーブックス・714円)」は、現在比較的入手しやすい彼女の評伝だが、シリーズものの一冊で紙数に縛りがあるために、その懊悩の人生の全てを描ききっているとは言い難い。しかしそれでも、舞台『放浪記』と比較しながら読めば、舞台の作者である菊田一夫が「虚構」を通じていかに林芙美子の心の「実像」を浮かびあがらせようとしたかが見えてくる。
 舞台では、実在の人物そのままの名前で登場するのは林芙美子と菊田一夫の二人しかいない。芙美子の母親キクですら舞台版では「きし」となっており、養父沢井喜三郎も「謙作」とその名を改められている。しかし物語自体は原作の『放浪記』をほぼそのままになぞっており、例えば、愛の遍歴に疲れて初恋の人にすがりに尾道に逃避するエピソードもまた、『放浪記』第二部の冒頭で語られている実話である(ただし、史実の芙美子が帰郷したのは大正十三年のことだが、舞台では昭和二年に“ズラシ”ている)。
 だが、この舞台のクライマックスである、芙美子が自分の『放浪記』の原稿を雑誌に掲載させるために、親友兼ライバル・日夏京子の小説を一時隠匿した、という話は、『放浪記』にも評伝本にも書かれてはいない。史実においては、『放浪記』は長く芙美子の篋底に埋もれてはいたが、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻によって『女人芸術』に連載され、それが改造社の記者の眼に止まり、出版を果たしている。芙美子の栄光への執着心を誇張して描いたようなこのエピソードは、恐らくは菊田一夫の創作で、事実ではないと思われる。あるいはそれに近い出来事が少しくらいはあったのかもしれないが、菊田一夫は、林芙美子が「そういう人であった」ことをあえて描きながら、決してそれを否定的に見るのではなく、運命に抗おうとする彼女の「生」を半ば称えるようにして暖かく見つめている。
 だから、舞台の林芙美子は、意固地で、自己本意で、恨みがましく、韜晦ばかりしていながら、決して醜くはない。ラストで老醜(と言っても亡くなったのは47歳なのだが)を演じながらもかわいらしく、哀れなのである。
 史実の林芙美子は、執筆による過労が持病の心臓弁膜症を悪化させ、夏のある日、雑誌の取材で銀座でうなぎを食べた直後、心臓発作を起こして亡くなっている。舞台の林芙美子は直接その死は描かれていないが、誰もいなくなった自室で文机に持たれかかるようにして眠る。終生、孤独の影から逃れられなかった彼女の人生を思う時、やるせなさは募るばかりである。
 「虚によって実を語る」菊田一夫の面目躍如と言ったところだろう。

 ついでだけれど、菊田さんの手によって名前は変えられているが、登場人物が実在の誰に当たるかを次に記しておく。
 香取恭助→岡野軍一
 日夏京子→友谷静栄
 伊達春彦→田辺若男
 白坂五郎→上田 保
 福地 貢→野村吉哉
 藤山武士→手塚緑敏
 村野やす子は、平林たい子、壺井栄などのイメージが重ねられているようである。
 女給仲間の悠起、浅子、君、とも子、あけみらは、『放浪起』中に名前の散見する、初、秋、八重、由、俊、計、君、みき、といった女性たちをモデルにしていると思われるが、誰が誰に比定できるものでもなく、また、これらの名前自体が本名かどうかも、定かでない。まあ、文芸研究かならずば、モデルが誰かということは、舞台を楽しむ上においてそんなに気にすることではないのであるが。

 1600回の舞台を終えた森さんの挨拶は、「1600回という節目でございます。嘘は言いたくない。すごく不安だったんです」というもの。自分がそこまで一定のレベルの芝居を維持できるのだろうか、という不安もあったと思う。一回一回のお客さんの評価に晒されているプレッシャー ――というよりは「恐怖」―― に堪え続けた気力、体力はいかばかりか。
 森光子、今もなお旬か。驚嘆すべし。


 飛び石連休の狭間だったせいか、昼ごろからからだがすごくダルくなってくる。昼間クスリの副作用で眠くなるのはいつものことなのだが、立っているだけでふらついてくるのはちょっと辛い。
 それでもなんとか仕事こなしてるから、自分でもよく頑張ってるなあと思うんだが、見た目は単にくたびれて青息吐息なだけだから、ダラけてるようにしか見えないのである。
 やっぱりこれは痩せなければならない。デブだと、どんなに努力しても、この世の中ではマトモに評価してもらえないのである。20キロ体重を落とすだけで、世間のまなざしは変わるのだ。
 外見で人を判断するなったってなあ、判断する阿呆の方が世の中の大半を占めてるんじゃ、文句つけても詮無いだけなんだもんねえ。


 夜、グータロウ君から電話。
 何か急用かと思ったら、「いや、しばらく書きこみとかしてなかったから」とお詫びを兼ねての連絡とのこと。
 全く律儀だなあ、と思ってたら、「で、今、『ガドガード』見たんだよ」。
 いきなりその話題かい(^_^;)。
 動きは確かにいいんだけれども、キャラクターの整理はできてないし、なんか『ビッグ・オー』の二番煎じみたいな感じだし、あの運送屋って設定をうまく生かせるならモノになるかもしれないけれども、今のところはまだまだ未知数、といった評価。これはまあ私もだいたい同意。ヒロインの女の子がかわいいからとりあえずは見てやろうとは思うけれども、DVDまで買うのはちょっと控えたいところである。
 あとはもう、グータロウくん、『座頭市』の感想を怒涛のごとく語る(^_^;)。ヤレ、画面に空気が流れてないの、殺陣にタメがないの、おハナシが浅草軽演劇の構成そのまんまだの、大楠道代の使い方間違ってるのと、貶しまくることったらない。「一度オーソドックスな映画作ってみろよ、それがたけしのためだよ」と、おまえたけしの親戚かなんかか、みたいな言い方までしてたが、聞く人によっては、彼のこの言い分に異義をとなえる人もいるだろう。確かに「知らない人間」には誤解を招く表現ではある。
 なんかホントに野暮な解説になっちゃって、彼には申し訳ないのだが、これはグータロウくんが傲慢になってるわけでもなければ、知識をひけらかしてるわけでもない。これは、たけしもグータロウくんも、同じ「下町」の空気を吸って育ってきた人間からこそ言える、「共感」としての述懐なのである。
 かつて、「芸人」と「客」とが一体となっていた寄席や芝居小屋での感覚、芸が受ければ客は喝采するし、つまらなければさっさと帰る、その中で芸人たちの「芸」が自然に磨かれていく、その関係のままにグータロウくんは発言しているのだ。
 別に客だって芸人を育てようなんて滅多なことは考えちゃいない、ただ素直に面白いものは面白い、つまらないものはつまらない、そう思ってるだけのことなんだが、だからこそ芸人は受けるためには闇雲に精進をしていた。つまんない芸を披露すれば「田舎へ帰れ」と罵倒されるのが普通なのだから当たり前である(まあたけしはもともと下町生まれだけど)。
 グータロウくんには、たけしが映画においてはなぜ「空気」を扱えないのか(舞台での「空気」の感覚に馴れていると、映画においてそれを表現するのは空気を「作る」ことになり、すごく「照れくさくなる」のである)、「殺陣」に「タメ」を作れないか(これも照れくさいからである)、それが感覚的にわかる。分かるからこそ「ダメ」だと言える。それは同じ土地の空気を吸い、文化を共有して来ているからこそ言えることなのである。
 私はだからこそあえてあの映画を「かわいい」と表現したのだが、この言葉もグータロウくんから見れば「照れくさい」、いや、「しゃらくさい」表現ということになるかもしれない。どっちにしろ、グータロウくんのような立場での批評は貴重である。やっぱりねえ、「外国人が日本を舞台にして作った映画」みたいにさあ、共通の文化基盤を持たないで何かを語ってもねえ、どうしてもどこかトンチンカンなものになっちゃうのよ。


 マンガ、加藤元浩『ロケットマン』6巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 主人公の水無葉が情報組織「トゥルー・アイズ」のエージェントになって以来、加藤さんのもう一つの傑作シリーズ『Q.E.D.』との差別化が難しくなってるけれども、面白いからいいんである。
 Episode19『賢者の石』と20『たった一兆』の前後編、今回のテーマは「投資」。
 80年代に設立された投資会社フェイソン・トレーディング。その創立者である金融工学の天才、ロジャー・フェイソンの確立した「フェイソン理論」に基づいた投資は、何十億ドルもの利益を生み出していた。しかし世界的な不況がフェイソン・トレーディングを急激な破綻へと追いこんだ。一社の破綻が連鎖反応を起こし、世界市場は恐慌、引いては市場停止にすらなりかねない状況にあった。
 その最中に、事態を収集する可能性を持っていたロジャー・フェイソンが謎の「自殺」を遂げる。けれどそれが自殺だとどうしても信じることのできない少女がいた……。
 「レバレッジを利用した巨額なお金の応酬、そして情報戦!! それはネットワークを流れるただの数字だけのやりとりを通じてなされる。自分の思惑通りに市場を動かそうとお互いが圧力をかけ合う。もはや経済ではない。世界のお金はゲームで動いてる」……このセリフを口にするのは、経済学者でもなければ資本家でもない。主人公の葉でもない。今回のゲスト、弱冠14歳の少女、エミリー・フェイソンのセリフなのである。タイトルの「たった一兆」は、そのわずか一兆円の儲けのために人間の命が奪われる理不尽を告発したものだ。
 これはフィクションである。マンガである。けれど現在の「経済」がただのゲームに成り下がっていること、それは紛れもない事実だ。世の中にはバブルの崩壊で「儲けた」やつだっているのだ。
 私ゃ拝金主義とまではいかないけど、やっぱお金はないよりあったほうがいいと素直に考えてる人間だけどさ、例えば一兆円積まれたって親兄弟や女房を売ったりゃしない程度の「良識」は持ってるつもりなのよ。だからまさに「たった一兆のために……なあ」と思うんだが、ポーズかなんだか知らないけど、「一兆もらえるなら親だって売りますよ」と平然と嘯くやつ、現実に結構な人数いるんだよね。ジョークのつもりかどうかしらんが、こういうセンスもねえ冗談こかれたって、ただの厚顔無恥にしか見えないってこと、気付かねえのか(-_-;)。
 大金持ちを夢見ることは悪いこっちゃないし、目の前に現実に「儲ける」手段があるならそれに乗っかったって全然構わないだろう。
 でも現実のものごとには、ほぼ100%、リスクが伴う。分不相応な欲をかいたところでロクな結果にはならない。投資が「経済」だった時代には、そういう「経験則」も「カン」も働いてたと思うんだが、今はもう、お金がどう動こうが、結局庶民は損するしかないシステムになっちゃってるんである。なんか憶だの兆だのってレベルでカネ動かしてる連中がもし側にいたら、横っ面を張り倒したくなるんだけど、そういう感覚持ってるってのも、もう少数派になっちゃってるのかなあ。

2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか



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