無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月18日(木) めんどくさいのは私も好かんけど/『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(大塚英志)

 飛び石連休で、今日と明日が出勤、そしてまた二日休んで、一日出勤して、また休んで……。なんだかえらくめんどくさいんでかえって体調崩しそうなんだけど、そんなんなっちゃってるからなあ。祝日はやっぱり全部月曜か金曜にズラしてもらったほうがいいなあ。


 昨日はずっとしげと一緒だったので、パソコンを殆ど見てなかったのだが、チャットの方にあやめさん、グータロウくんが書き込んでくれている。
 あやめさんは前の職場をお辞めになったあと、新しい職場が決まったことのご報告。めでたいめでたい。技能職だから決して楽じゃない職場だとは思うけれど、頑張ってほしいものである。
 グータロウくんは『座頭市』と『英雄』をハシゴしたとか。体力あるなあ。
 『座頭市』は、ところどころ気に入らない部分があった由。絵のツクリ方や編集の悪さを指摘していたが、それは確かにその通り(^_^;)。ただそれを必ずしも欠点と捉える必要はないのではないか、というのが私のあの映画に対する見方なんである。もちろん、どっちが正しいという問題ではない。
 映画とかモノの見方はいろいろってことでね、それが基本認識になってるから、意見が違っても彼とはケンカにならない。

 「自分が面白いものを貶されたから怒る」ってのはモノを判断する時に一番やっちゃいけないことなんだけど、なんかもー、そういう人、やたら増えてきてるもんねえ。なら世の中、批判は一切許されないのか。少しくらい腹が立ったからって、貶される原因はどこかにあるんだから、堪えることくらいしろよと言いたい。
 「誉められりゃ嬉しいし、貶されりゃ怒るのは自然でしょ?」とはよく主張されるのだが、コドモじゃあるまいし、人間をそんなに単純に決めつけるのは失礼なんじゃないか。見え透いたお世辞で喜べる心理の方が私にはよくわからない。ごくたまに私も人に誉められることがあるが、「誉められ方」によるんでね。ズレた誉められ方したって嬉しくも何ともない。それよりは堂々と批判してもらったほうがはるかにありがたい。
 みんな、そんなに傷つくことが怖いのかね? まあ、「うわべだけの付き合いですら怖い」シンジ君シンドロームな人に、むりやりオモテに出ろとは言わないけど。
 藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』の最終回で、魔美のパパが自分の絵を批評家に酷評されて、思いっきり激怒はするけど、次の瞬間には「それでおしまい」とあっさり終わらせてるのを見たとき、「ああ、これなんだよなあ」と思ったことを思い出す。藤本さん、オトナだよ(T.T)。こうあっさりとキモチを収められるのが「節度」ってもんなんだけど、それのできる人ってのが随分少なくなっちゃってるのが淋しい。

 しかし、「『座頭市』も『英雄』も美少女が出てきてよかった」と書いてたけど、『座頭市』には確かに子役がいたけど、『英雄』には誰かロリーな女の子がいたっけか?


 道頓堀飛びこみでついに死人が出た。しかもどうやら誰かから突き飛ばされたらしいが、犯人はまず捕まらないだろうな。つか、犯人自身、自分が犯人だと自覚してるかどうか怪しい。多分「飛びこもうとしたヤツを突き飛ばした」人間って、もう何10人といるだろうから。
 こういう事態になることがわかっていて、あえてみんな飛び込んでるのだから、もう何をか言わんやである。押した方も押された方もその本質は同じだよ。酔っ払って誰かに迷惑かけようがお構いナシって人種だ。でもそういう連中が堂々と大手を振ってノシ歩ける世の中になってるんだからなあ(-_-;)。
 こういう形での「許容される犯罪」がどんどん世間に伝播していくとするなら、それに巻きこまれないための防衛手段だって一般庶民は講じなければならない。これもまた淋しいことだけど。
 野球ファンだけでなく、何かのスポーツの熱狂的なファンには近寄らないようにすること。いつ「一緒に飛びこみましょう」と誘われるかわかりゃしない。それから酒飲みとつきあわないこと。大人しい酒飲みもいないわけではないが、10人、人が寄ればそのうちの一人は確実に飲んだくれである。冗談で川に突き落とされちゃたまったものではない。そう言えば大学時代に、歌舞伎町の噴水に叩き込まれたことはあったな(^o^)。
 簡単なようで、これ案外難しい。宴会はできるだけ避けなきゃなんないし、人付き合いに摩擦が生じるのも覚悟しないといけない。つか既に病気を理由に職場の宴会からは逃げ回っているのだが、人間関係はお世辞にも良好とは言いがたい。酒一つで人格見られるというのも理不尽ではあるのだが、それが日本の現実なんである。
 ああ、ホークスが優勝したら福岡でも那珂川に飛び込むバカがゴマンと出るのだろうなあ(T.T)。


 WEB現代『あなたとわたしのガイナックス』、4人目のゲストは摩砂雪氏。サブタイトルの「のしあがるためには」というのが凄いね。
 劇場版『エヴァンゲリオン/DEATH編』が代表作ということになるのかな、ああいう映画を作っていながら(私は好きだが)、あまり批判されることが少ない。「『DEATH編』は殆ど摩砂雪の仕事」と庵野さんが断言してるのに、批判が殆ど庵野さんの方に集中してしまうのは、やはり摩砂雪さんがメディアに露出することを避けてるからかもしれない。だって、人柄が特にいいというわけではないことはこのインタビューを読んでもわかるから(^o^)。
 「今のアニメはCGだなんだと山ほど使ってて、確かに1画面1画面はすごく緻密でもの凄く上手い。しかし演出にセンスがないために、映像としての魅力が全然ない、って感じはあります。そういうものを見ると『作画が上手いだけで面白くないものを、なんで毎週毎週こんなにいっぱいつくってるんだよ』と感じてしまうわけですよ」と具体的な作品名は挙げてないが、心当たりのある作品をアレとアレと……と挙げてくと、なかなかキケンなことを喋っていらっしゃるのである。でもせめてこれくらいのこと言う人がいないと、業界は活性化しないんだよな。言う人は自分でも言うだけの作品を作るから。
 しかし、こんなに「絵の描ける」人が「画を描くような面倒くさい作業は嫌いなんです」なんて言うとはなあ(^_^;)。
 話の内容には関係ないけど、摩砂雪さんも「〜じゃないですか」を連発してる。「静物や風景みたいな静止画は、描いていてもすごくつまらないじゃないですか」なんて言葉は、使い方を明らかに間違ってると思うんだが、もしかして、モノゴトを全て自分の決めつけで押し通したいって心理が蔓延しつつあるのかね。


 夜、チャットで昨日見損ねた『トリビアの泉』のネタを鍋屋さんに教えてもらう。今回の内容は普通、といったところらしい。「近藤勇はコブシを口の中に入れられた」っての、確か水木しげるがマンガに描いてなかったか。記憶だけで言ってるので自信がないが。
 「床屋に置いてあるマンガで一番多いのは『ゴルゴ13』」というのはナルホドと納得。みんな「床屋政談」をしたいんだよね。ウチの実家でも多分80巻くらいまでは買ってたはずだが、ある日どこかに行って見えなくなった。古くなったんで捨てたんだろう。残して置くのが何となく恥ずかしいって点でもいかにも床屋向きである。

 
 大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(角川文庫・620円)。
 「今日ナショナリズムは『私』の仮託先として『国家』や『日本』や『石原慎太郎』が語られながら、しかし『天皇』が“何気に”忌避されている。『天皇抜きのナショナリズム』に変質していった点が現在のサブカルチャー化するナショナリズムの大きな特徴である」という大塚さんの指摘は面白い。
 そう言われれば、「象徴天皇制」の「象徴」という言葉の意味についてすら深く考えようとしてこなかったが、それは必ずしも「ヘタなこと言ったら右翼が怖い」ということだけではないように思う。

 「戦後民主主義」は我々の世代にはどっぷりと染みこんでいる。
 主権が国民一人一人にあると“本気で”考えてしまいそうになるのはそのせいだ。しかしそう考えれば、「天皇」は極めて困った存在、ということになる。リクツで行けば「天皇なんて要らないじゃん」という結論にどうしてもなってしまうからだ。
 でも、「既にあるもの」を積極的になくすためにはそれ相応の理由が必要となる。
 「天皇の戦争責任」という、「個人の地位・立場の責任」が、「制度の責任」という形にすり替えられ、「天皇不要論」の根拠として語られがちなのも(「天皇制があり続ける限り戦争の危険は去らない」とかね。天皇がいようがいまいが戦争の危険はあるって)、要するにそれだけ「天皇を排除する理由」にこと欠いており、「天皇制廃止」を実行することが困難だからだ。
 熱狂的な天皇信奉者ならばともかく、一般的な感覚としては、天皇制は必要なものでもないけれども、なくしてしまう理由も特にない。「象徴天皇」という正体不明の概念を我々がすんなり受け入れたのも、こういう「何だかよく分からないもの」をその「分からない」ままに存在させ続けるのに都合がよかったからだと思う。
 紀子様、雅子様の結婚に狂喜し、子供が生まれるたびに「幸せな家庭の典型」のように報道され続ける天皇家を「忌避されている」と主張するのは事実に相反するようにも見えるだろうが、じゃあ「天皇って何?」と質問して明確に答えられる人間がいないのも事実なのである。もちろん「象徴天皇」以外の答えを明確に持っている人もいるだろうが、それは決してスタンダードではない。だから前総理の「天皇を中心とした神の国」発言が問題視もされたのだ。
 あの発言は、問題視もされたが、「軍国主義との絡み」で明確に批判した論調も殆ど目立たなかった。批判はあったのに、それが「天皇批判」に移行することをマスコミは極度に恐れていた。どちらかというと、あの騒動は「人がせっかくアレには触れないで過ごしてきたっていうのに、あのバカ総理、うっかり触れやがって」という意味で、右も左も一様に困ってしまって、その困った怒りをあの何も考えてない人にそのままぶつけているような雰囲気だった。実際、何が問題だったかも不明瞭かつ曖昧なまま、「で、日本は神の国だったの、そうじゃなかったの!?」という肝腎な結論は等閑になって終わっちゃいましたね。
 「天皇」のこうした世間における「居心地の悪さ」というのは、簡単に言えば、自分と全く付き合いのない家族が隣に住んでるけれども、それがまるで筒井康隆の『俺に関する噂』のように、「意味もなく」ニュースで流され続けているために、何でやねんと首を捻ってる、という感じじゃなかろうか。もちろん「うるさいから出て行け」なんて言えないし、かと言って仲良くしたいわけでもないという宙ぶらりんの状態なのである。

 ワールドカップの狂騒が「ぷちナショナリズム」として称賛も批判もされたが、あのファンたちの心の中にある「日本」は多分、「国家」ではない。もちろん「天皇」もいない。じゃあ何がいるかというと、「日本という名のムラ」である。
 その天皇の「不在」を大塚さんはもう一度見直そう、と説く。ただしそれは「かつての天皇制の復活」を目論んでいるのではない。
 「私たち個々人が自分に望むにせよ望まないにせよ帰属する行政単位としての『国家』に委託した自己の責任を自明のものとして引き受けるためには『天皇制』という政治制度をやはり断念すべきだ」と主張する。
 この考え方自体を私は否定しない。先に書いた通り、「民主主義」こそがこの国のナショナリズムであるとし、その制度を本気で遵守するつもりなら、「象徴天皇制」は、たとえ「権力集中を抑止する」効果があったとしてもその理念に沿わない、というリクツは筋が通っているからだ。
 けれど、何かが否定されたとき、それを正当化するために人はしばしば排除されたモノを「悪」と断ずる。たとえその排除の理由が善悪の彼我にあるものであってもだ。
 大塚さんはそのことの及ぼす「危険」まで考えて意見を主張しているのだろうか。そのことがちょっと気になるのである。

2002年09月18日(水) 復讐するは誰にある?/映画『恐怖のワニ人間』/『Q.E.D. 証明終了』13巻(加藤元浩)
2001年09月18日(火) 声だけ美少女/『スタジアム 虹の事件簿』(青井夏海)ほか
2000年09月18日(月) ゴキブリと音痴娘と構造記憶と/『僕らは虚空に夜を視る』(上遠野浩平)ほか



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