無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月01日(月) 「じゃないですか」って言ってる人が多いじゃないですか/映画『用心棒』/『呪恩2』(清水崇・MEIMU)ほか

 ひと月の集計、外人さんからのメールが先月は22通来てました。やっぱり平均一日一通ってとこですねえ。
 宣伝と詐欺は日常という道端に転がってるものなんで、別に迷惑だとは感じないんだけれど、下手なテッポも数撃ちゃ当たる式の、あまりアタマ使わないですむ方法ばかりが横行するのはもの淋しいんでねえ。犯罪ってのはもっと知恵を絞っていかに自分が摘発されずに(以下自粛)。


 COCO壱番屋の大盛りカレーの完食無料サービスが昨31日で終了。駆け込みで挑戦した連中、全国でどれだけいたかな。
 廃止の理由が、「店舗拡大に伴って大盛りカレーを食べきれず、失敗した際に処分される残飯が増加。冷夏によるコメ不足も懸念される中、『初めから食べ残しが出ることを予想したゲームは不適切』と判断した」とか。食べるのに失敗しても罰金は1400円だからなあ。話のタネにとかで、食べられないとわかってても挑戦してみたアホンダラも多かったんじゃないか。なんかホントにトッショリにはわかんないもんね、今の若い人たちの感覚。
 今でこそ、糖尿が悪化して暴食は控えている(そうか?)私ではあるが、大学のころまでは、そらもう食いに食っていた。高校の修学旅行なんか、腹が減るでしょう。旅館のメシは食い放題だから、ドンブリで七杯半オカワリしたこともあるのだ(友人に「食い過ぎだろう」と言われたので八杯目は半分で止めたがそれでも腹八分目であった)。なのにそのころはいくら食っても体重68キロを越えたことがなかったのだから、やはり若いということはあれやこれやとエネルギーを消費していたのだろうな。今はとてもそんな食い方できまっしぇん。
 でも、そんなに食うことに自信のあった昔でも、「食い放題」に挑戦したことだけはなかった。まあたいていの店の「挑戦者求む」が壱番屋のような甘いもんじゃなくて、アレの3倍はあろうかってレベルのものが多くて、さすがの私でもとても食い切れねえ、と判断したってこともあったが、食い残した時の残飯がもったいないのと、罰金払うのがともかくイヤだったって理由の方がホントは大きい。だってその失ったカネで、本が何冊買えたことかって考えたら……ねえ。
 言ってみりゃ、今の若い人って、その「残飯」と「罰金」については考えてないってことである(つか、番組製作者がってことか)。ある意味、羨ましくはあるけれど、そこにはどうにも越えられない深い溝が我々の世代との間にあることも感じてしまう。私がテレビの「大食いコンテスト」の類をあまり見ないのも、番組自体の面白さよりも、食いきれずに残る残飯を見るのが胸にやたら痛いからだ。
 何たって、昔の親がテレビの「俗悪番組」アンケートとかでドリフの番組を批判してたの、パイ投げなんかで「食べ物を粗末にする」ってのを理由に一番に上げてたからなあ。「子供が汚い言葉遣いを覚える」だけではなかったのよ。ウチの親なんかも、あのパイが食べ物じゃなくてパイ投げ用の特製品だって知るまでは、『8時だよ!全員集合』を毛嫌いしていたくらいだ(それでも「見るな」と私に強制しなかったのは偉かったと思う)。
 今や食い物は残してこそ可である。実際、外食で出されたものを全部食ってたら、一日のカロリー摂取量を軽くオーバーしてしまう。日本人全員が潜在的な糖尿病患者になってるのが実態なのだ(念のために言っとくけど、私ゃ遺伝で糖尿になってるので、暴食しなくても糖分を分解できないのである)。だから「もったいないから全部食べなさい」とも親は言えない。残したものを親が食べてやるのも躾としてはよくなかろうが、それもいたし方がないのである。
 外食を完全にやめて、全部家で料理を作ればいいじゃないか、とも簡単には言えない。共働きの家庭などでは、どうしても外食に頼る面もあるだろう。結局、「食い物なんて全部残さず食うもんじゃない」って感覚の方が常識的なのである。リクツではそうわかっちゃいるんだけど、どうにも納得のいかないものを感じてしまうのはいったいどうしたらいいものか。


 アキレス腱を切った上司、ご本人は今日から出勤と仰っていたが、やっぱり休み。そりゃ怪我して2週間しか経ってないんだからなあ。代理で仕事をするのは一向に構わないし、完治するまでゆっくり休んで頂きたいとも思うのだが、休んでるほうは出勤するつもりができなくなって、ヤキモキしていることだろう。
 こういう気分は、入院経験のある人じゃないとなかなか理解してもらえないのだが、入院が長引くにつれて、自分がどんどん役立たずのゴクツブシの、社会のお零れに預かってかろうじて生かしてもらっている寄生虫のように思われてくるのである。「ゆっくり休んでください」という慰労の言葉すら「お前なんかいらねえよ」と聞こえてしまうのだ。被害妄想だと頭じゃ理解できていても、一度生まれた妄想は止まるものでもない。
 これじゃ健康に悪いから、初めから入院しないほうがいい、とも言えるのだが、そうはいかない場合だってある。アキレス腱は自宅療養じゃ治らないものなあ。
 責任感のある人ほど、鬱に押しつぶされてしまうものなので、上司の苦悶も想像にあまりあるのだが、やっぱりこちらは「頑張って出て来てください」とは言えずに「ゆっくり休んでください」と言ってしまうのである。
 パターンとかセオリーとかに捕われない、心にちゃんと届く言葉を思いつけないものかと思うのだが、そうはなかなかいかないのがなあ。


 パターンと言えば、最近、耳障りな言葉に「〜じゃないですか」の連発が気になっている。言い回しとして間違っているというわけではないし、私も使うことはあるけれども、ほんの二言三言のセリフの中に3回も4回も繰り返されればイヤでも耳についてしまうのだ。
 「ほら、私って、外見とか気にしないヒトじゃないですか」
 知らねえよ、そんなの(-_-;)。
 ここまで押しつけがましくはなくても、自分が既知のもの、常識的なことと思っていることを、相手に同意を求める過程になしにサッサと話を進めようとする傲慢さにみんな馴れちゃってるってのはどういう神経なんだろう、と思う。
 「お箸の正しい持ち方知らない人って、増えてるじゃないですか」くらいの内容なら、さっきの「人じゃないですか」パターンほどの不快感はないけれど、でもやっぱり「相槌」を打たせる間すら省略しようとしている感じはしっかり残っている。
 自分の言いたいことを相手に確認してもらいたいなら、普通に「〜でしょう?」と聞いたり、「〜なんですよ」とハッキリ断定して話を進めればよい。それが言えなくなってるってのは、それだけ他人から突っ込まれることを拒否し、自分の身を守ることの方にばかり汲々としてしまっているということになりはしないか。
 こういう会話パターンも既に成立して(いるとされて)久しいが、これの何が困るって、こちらの異論を差し挟む余地を初めから阻んでいる、ということなんである。と言うか、異論を加えること自体があたかも絶対的な悪であるかのような雰囲気すら形作ってしまっている。そのパターンを壊して、「そりゃ違うよ」と言おうものなら、「話の腰を折らないでください!」と逆切れされてしまうのである。コミュニケーションを拒否して、初めから「オレ語り」したがってるのはお前じゃねえか、と私は言いたいのだが。自分の方が意見の押し付けを行っているのに、自分が押しつけられてるかのように錯覚するってのは、こちらにしてみれば何だかなあ、なのだが、もともと本人にその自覚がないから、いくら説明をしてみても相手は納得できないのである。こんなに自明で簡単な論理もなかろうと思うのだが、そう思わせないのが「パターン」の怖さだ。「通用しているものは正しい」という盲信なのだね。それ以上、「それはただの盲信で傲慢です」などと言おうものなら、相手は今度は自分がバカにされてるとしか思わなくなる。ああ鬱陶しい。
 会話なんて、しちめんどくさいものから逃げたくなる気持ちも分らないではないのだが、せめて自分から振った話題で初めから逃げばかり打つのはやめてほしいものだ。ホントにね、こんなパターンは誰が作ったんだ、ふざけんな、くらいのことは言っときたいのである。


 CS日本映画専門チャンネルで、黒澤明監督の三十郎シリーズ第一弾『用心棒』(1961)、もう何度見たかわかんないけど、放送されてるとやはり引き込まれる。
 ダシェル・ハメットの『血の収穫』に想を得ているとはよく言われているけれども、ヤクザとかギャングものの抗争劇だと、自然、孤高のヒーローの対抗手段としては、二つの組のつぶしあいを図るパターンになるんじゃないかね。現に本作の“一年前”に岡本喜八が撮った『暗黒街の対決』(1960)でも三船敏郎の“刑事”は、同じ手段で対立する暴力団を潰そうとするのである。
 黒澤エンタテインメントの傑作として評価は高いが、厳しい評価もある。佐藤忠男は「荒唐無稽なヒーローもの」とその現実逃避ぶりを批判していたし、故・田山力哉も「なんであれを誉める人がいるのか気が知れない」とボヤいていた。まあ思想的に語りすぎる佐藤さんの批評はともかくとしても、エンタテインメントにも理解を示していた田山さんも怒ってたってのは、盲信を避けるためにも耳を傾けといた方がいいと思う。確かに、説明過剰なセリフ、逆に説明不足な描写など、穴はやたらとあるんである。
 それでも全編に横溢した「余裕」が私は好きだ。実は私が一番好きなのは、もう一人の「用心棒」、本間先生(藤田進)が「昼逃げ」するシーンなんだけれども。あの爽やかな笑顔の楽しさがいいんだよね(^o^)。
 昔から気になってたことが一つあるんだけど、ラストで三十郎(三船敏郎)は、卯之助(仲代達矢)がもう銃を撃てないと分かった上で銃を渡したんだろうか。好意的に解釈すればそういうことになるんだろうけれど、もしかしたらそれも脚本の「穴」かもしれないのである。
 今度、岡本喜八の『座頭市と用心棒』がDVD化されるから、映画の「用心棒」シリーズで未DVD化なのは、あと稲垣浩監督の『待ち伏せ』だけになった。早いとこ出せよ、東宝。


 続けて映画『国際秘密警察 虎の牙』。もうこっちは簡単に書く。
 日本で007と言えば、どうしても宝田明か三橋達也ということになってしまうのかな、と、あまりこのシリーズには思い入れなかった。やっぱねえ、外国を舞台にしていながら国産臭さが漂ってるのがねえ。別に外国で起こった事件に、いくら国際秘密警察だからと言っても、日本人が出張る意味はないだろうとか思うんだけれど、なぜかこのシリーズの舞台になる外国(今回はアラバンダ共和国)には日本人風の顔の人間が多いので(^_^;)、三橋達也もさほど目立たずにすむのであった。そこが面白いと楽しめはするけど。
 ラストの北見次郎(三橋達也)とクリマ(中丸忠雄)の対決はカッコいいけどどこか横浜の裏路地のビルで撮ったんじゃないかという雰囲気が何とゆーか。ヒロインが白川由美ってのも、今回はちょっと「重い」。


 マンガ、清水崇原作・MEIMU漫画『呪恩2』(角川書店・630円)。
 映画のコミカライズだけれど、なんと映画の売りの一つである「時間軸の混乱」をちゃんと流れの通りに並べ替え。そして本筋に関係がなくて浮いていた千春のエピソードを完全カット。で、このほうが話がスッキリしてわかりやすく、面白くなってるのだなあ(^o^)。
 映画のコンセプトを一から壊しちゃうような改変だけれど、マンガ化した作家から殆ど「批判」に近いアレンジをされてるってこと、監督さんもよく考えた方がよかないかな。これ、映画とマンガのメディアの違いってことだけじゃない問題なんだけどね。

2001年09月01日(土) 加藤夏季補完計画(笑)/『スペオペ宙学』(永井豪)ほか
2000年09月01日(金) 食って寝るだけの毎日も今日まで/ドラマ『横溝正史シリーズ・本陣殺人事件』ほか



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