無責任賛歌
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2001年09月07日(金) |
夢の終わり/映画『王は踊る』ほか |
昨日までの雨天が、今日はカラッと晴れてポカポカ陽気。 まだまだ外でのお仕事は続いているので、都合がいいといえばいいのだが、今度は日中、眠くて眠くてかなわない。 新しいクスリ、やたらと副作用が強いと言われてるが、そのせいなんだろうか。でも、以前から7、8時間寝てても眠いときは眠かったからなあ。 しげの眠り病が移ったかな(^_^;)。
1995年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)をめぐって、ホテル代を水増し請求させて4億2300万円を騙し取ったとして、外務省課長補佐が逮捕。 外務省も次から次へとトラブル続きだが、別に昨日今日のコトではなく、長年の澱のように溜まっていた腐敗体質が、今になって一挙に噴出した印象だ。 ラジオで、なんとかいう評論家が「田中真紀子大臣に代わったので、これまでの不正をなんとかしてくれるんじゃないかということでリークが相次いでるんじゃないか」なんて意見を語っていたが、もちろん、「田中大臣に全ての責任を取らせよう」という動きだと捉えることもできる。 田中さん、つい先日自ら給料カットしたばかりだし、これで結構動きを規制することもできるかもってことなんだろうけど、さて、これでおとなしくするようなタマかね。もともとが放埓な人だから、ますますイキリたって、暴走して、外務省の中を引っ掻き回してくれりゃ面白いんだが。 だいたい官公庁で不正をしていないところがあるなんて、国民は一切信じちゃいないんだよねえ。使途不明金や放漫会計、別に内部事情に通じてなくったって、役所の近所の居酒屋で聞き耳立ててりゃいくらでも情報は手に入るぞ。 なのに、この程度の告発で済んでいる、ということのほうが僥倖なのである。まだまだ10億や20億程度の税金が宙に消えてんだろうから、一連の騒ぎで慌てふためいてボロを出す人間がもっと出て来てほしいもんだね。
『キネマ旬報』9月下旬号、映画『ファイナルファンタジー』の特集。 全米2649館での公開、これはなかなかの規模で、しかもそれなりのヒットは飛ばしたらしい。CG映像に食傷気味の昨今だが、それでも『FF』の映像は結構ショッキングだったということなのだろう。 映画を見る前にはできるだけ情報を入れずに見に行こうと思っているので、監督の坂口博信と押井守の対談も斜め読み。 でもチラッと「ゲームと映画とは違う」というようなことを二人が語っているのを見て、ああ、これは期待していいかも、と思った。 実は私は「ファイナルファンタジー」シリーズも「ドラゴンクエスト」シリーズも、RPGモノはほとんどやったことがないのだが(ビデオゲームではなく、実際に知人同士でやったことはある。当たり前の話であるが、ビデオより圧倒的に面白かった)、ちょっと考えただけでも、ゲームと映画とではその性質が水と油、ほとんど相容れないものであることは見当がつく。 ゲームと映画とでは、そもそも楽しみ方そのものが違うと言っていい。 ゲームに参加しているアナタは、主人公自身であるが、映画を見ているアナタは、主人公の冒険を見ているただの傍観者である。 経験値を挙げるために、延々とザコキャラを倒していく、なんてことは、ゲームの中で自分が主人公となってやっていることだからこそ楽しいのであって、それを2時間程度の映画でただ傍観者として見せられるのであれば、こんな退屈することはない。 従来のゲームの映像化は、ゲームをなぞることに汲々として、とても映画とは言えないシロモノになっていることが多かった。『ストリートファイター』など、これがラウル・ジュリアの遺作かと思うと情けないやら悲しいやら。『弟切草』に至っては、存在そのものが冗談としか言えないような出来だったし。 坂口監督が、“ゲームとは違う”「映画」を作った、というのは、これまでのゲームの映像化を考えると大言壮語にすら聞こえる。CG技術がどうのより、私はゲームは本当に「映画」たりえるか、ということのほうが気になってしまうのである。
今日で公開が終わる『王は踊る』、しげが見に行きたがっていたので、仕事を1時間早引けして待ち合わせ。 キャナルシティあたりで上映してくれてたなら、家からもそう遠くないし、早引けする必要もないのだが、KBCシネマと言う、天神というよりは長浜に近い映画館での上映なのである。 私なら自転車で40分弱で辿りつけるが、しげが一緒だと多分1時間ちょっとはかかる。時間に余裕がないと、しげは絶対ヒステリーを起こすので、仕方なく早引けしてるのだ。ちっとは感謝してもらいたいもんだよ。
しげ、腹も減らしているので、天神ショッパーズの地下で、柳川定食を頼む。 ウナギを卵とじにしているが、ウナギ自体が薄くてそれを卵で誤魔化してる感じがしてそれほどうまくない。 最初はマクドナルドでハンバーガーを買って行こうって言ってたのになあ。 しげに『キネ旬』を見せると、「もうこれ『FF』じゃないよ」なんてウンチクを垂れる。だから私ゃもともとの『FF』を知らないんだってば。
『王は踊る』、実は全く予備知識を持っていなかったので、タイトルの「王」ってのが誰のことなのかも知らなかった。監督は『カストラート』のジェラール・コルビオ(すまねえ、この人の映画見たの初めてだ)。 アホな話で、インド映画の『踊るマハラジャ』の続編かなにかか、なんでしげは独善的で能天気なだけのお寒いミュージカル映画を見たがっているのだ、などとぼんやり思っていたのだなあ。 でも、これがもう、見てビックリ。いや、これだけ見応えのある映画も久しい。やっぱりスカスカなハリウッド映画ばかり見てちゃダメだよん。
……「王」って、“太陽王”「ルイ14世」だったんだねえ。彼が若いころバレエ・ダンサーだったとは全然知らなかった。 宮廷作曲家として揺るぎない権勢を誇っていた、ジャン=バティスト・リュリ。イタリア人である彼がフランスに帰化したのは、若き日、ともに踊ったルイ14世に対する思慕の念ゆえであった。 しかし、男色を嫌う14世は次第にリュリを敬遠するようになる。30歳を越えた王は、既に自ら踊ることもなくなっていた。それでもリュリは王を称える音楽を作りつづけ、盟友である劇作家のモリエールとも決別する。失意のうちに喀血、舞台上で死んでいくモリエール。その姿に自らの運命をも重ね合わせるリュリ。 そして、リュリの最後の演奏会に王の姿はなかった。リュリは指揮棒で誤って自らの足を傷つけ、「王と踊った足を切るな」と叫び、死ぬ。 リュリの死の床に顔を見せようともせぬ14世は、一言「今日は音楽が聞こえぬ」とだけ呟く。
リュリは本当に男色家で、14世に報われぬ恋心を抱いていたのだろうか。それが果たして史実なのか、映画上の演出なのか、寡聞にして私は判別が出来ない。 しかし、14世とリュリの、「朕に友はおらぬ」「ならば私も同じでございます。私にも友はおりません」という、「拒絶によるシンパシー」とでもいうべきパラドキシカルな会話は、見ていてかなり切ない。 臣下であるリュリは、純粋に王への恋慕を告白しただけかも知れない。しかし、14世にしてみれば、「王」に生まれるということそれ自体が、重大な「欠落」を持っているのだという事実を突きつけられたも同然である。多分、その「欠落」は、「友」だけではあるまい。
ジャン=バティスト。その名は「洗礼者ヨハネ」に因むが、リュリのみがその名を持っていたわけではない。モリエールの本名もまた、ジャン=バティスト・ポクランである。 諷刺喜劇の第一人者と評価の高いモリエールも、この映画の中では、14世に媚びを売るただの追従者である。14世の庇護を受けられなくなった後も、最後まで舞台から客席を見て「王は来られぬのか」と悲痛な声を漏らす。 つまりこの映画は、二人の「王に見捨てられた男たち」の物語なのである。 映画のラストが、この二人の死を重ね合わせるように描いているのは、彼らが殉じていたものがいったいなんだったのかを観客に対して問いかけているかのようだ。 彼らは果たして「美しかった」のだろうか。
なんだか辛気臭い書き方になっちゃったけど、これって、本当に当時の歴史的事実なの? と言いたくなるようなエピソードも満載で、見ていて退屈しないどころか、結構笑えちゃうのだ。 ともかく14世、なにかあるたびに楽隊引きつれてBGM代わりに音楽鳴らしてるのね。 ベルサイユ宮殿建設予定地で、「ここに壮大な宮廷を!」と叫んで、ひときわ音楽が高まった途端、14世が沼にハマって泥まみれになる、なんてまるでコントだ。 最高に笑ったのが、愛人とのベッドインの真っ最中にまでBGMを演奏させてること。しかもその演奏を指揮してるのが14世にホの字のリュリだから、彼がジェラシる表情がいじらしいやらおかしいやら。……しかし楽隊に見られてて、よくヤレるよな14世。
公開は終わっちゃったけど、ビデオでも出たらどうぞご覧あれ、お勧めの一本です。でもなあ、ベルギー映画(性格にはベルギー・フランス・ドイツ合作)なんて、そうそう近所のレンタルビデオにゃならばないかもなあ。
映画が終わったのは9時近く。 しげ、何が気に入らないんだか、妙に機嫌が悪く、声をかけてもぶっきらぼうな受け答えしかしない。 しかも勝手に脇道にそれて見知らぬ路地に入りこもうとするので、こちらも腹を立てて「どこに行くんだよ!」と怒鳴る。 「遠回りしちゃいかん? そんなに早く帰りたいの?」なんて嘯くので、もう、これは相手にしちゃいられないと思って、しげを放って、いつもの通り道を先に帰る。明日も私は仕事があるのだぞ。 それに、色弱で夜目の効かない私が、見知らぬ道を自転車で行くということがどれほど危険か、今までもう何十回も口を酸っぱくして説明しているのに、しげは一切記憶しようとしないのだ。私が何度、夜道で電柱やらガードレールやらにぶつかってコケたと思うのだ。 しげは、自分が自動車の免許を取ろうとしているのは、山道を自転車で通う私が心配だから、と理由を説明しているが、そんなの信じられるか。だったらなぜわざわざ暗い道を選ぶか。 結局しげは、自分の気分で「親切ぶりっ子」をしたいときだけ、優しげに見せてるだけで、相手を本気で気遣ったりしてるのではないのだ。 しげが免許を取ったとしても、その車に同乗する気は私にはない。そっちのほうがよっぽど危険だ。
ドアに鍵をかけて、遅れて帰宅したしげを外に締め出す。 これくらい強硬なことをしないと、しげは決して謝らない。 ようやく「ごめんなさい」と謝ったので部屋に入れるが、結局それも口先ばかりで、なぜ勝手に横道に入ろうとしたのかとか、どうして機嫌が悪かったのか、とか、いくら問い詰めても理由をきちんと説明しようとしない。
入院して以来、しげには振りまわされっぱなしである。 故意に嫌がらせをしているとしか思えないことも多々あったので、何度も叱りつけるのだが「反省する」と言うばかりで、実際に反省したような行動は全くとらない。 相変わらず家事は全くしないし、物忘れをしないように気をつけようともしていない。 「わざと叱られるまねをしてるのか?」と聞くと、「そうだ」と答える。 「どういうことだ?」と畳みかけるように聞くと、「失敗すれば、叱られるって結果の予測がつくけど、反省したらその先の予測がつかないから不安になるの」と説明する。 ……これはもう一種の自傷行為だ。それにつきあってたら、マジでこちらの身が持たない。私生活のフォローだけで私にはもう限界である。これで日曜休日まで劇団の練習に潰されていたら、いつ誰がウチの家事をやるというのか。
しげ自身が性格を変えるなり、セルフコントロールできるようにならない限り、劇団の手伝いまでつきあってはいられない。 しげも劇団内で意味不明なこと喋りまくってるのに、みんな甘やかして放ったらかしてるんだものなあ。 直観と言うよりは思いこみだけで何の理論も根拠もない発言をいちいち尊重してやらねばならんほど、私は芝居について不真面目ではいられないのだ。好きであるからこそ、しげの演劇をナメてかかった態度に対して、私は私生活ほどに寛容ではいられないのである。 なのに、この期に及んで、しげはまだ私に「劇団にいてほしい」などと自分勝手なことを言っている。もともと、私が腹を立てて抜ける可能性が高いことを予測しないで、いつのまにか勝手に私をスタッフに組みこんでいた適当さ加減がこういう事態を招いたのだという自覚がないのだ。 「プロデュース形式を取ったのは参加したい者だけ参加すればいいということじゃなかったのか? それをどうして引きとめる? もともと俺は、お前が感情的な行動をとらないなら、という条件付きで参加してたのであって、約束を破ったお前に付き合う義理はないだろう」と一蹴する。 と言うか、約束なんて結婚してから守ってもらった記憶がないぞ。 いくらでも反省できるチャンスはあったのに、それを全てしげ自身が潰してきたのだ。ここまでマジメに付き合っただけでもよしとしてもらいたいものである。 ……どうせあのアホはまた何も反省しちゃいないんだろうけど。
マンガ、星里もちる『本気のしるし』3巻(小学館・530円)。 星里もちる、もう完全に柳沢みきおの亜流になっちゃったなあ。 青春ほのぼのギャグマンガ描いてた人が、ドロドロした失楽園ドラマに走る法則ってのが何かあるのだろうか。私生活で何かつらいことがあったんじゃないかとか勝手に想像したくなるくらい、描かれる人間関係に救いがなくなってきている。 意識的にか無意識的にか、はかない女を演じて男を弄んでしまう女。 女に溺れれば身の破滅と知りつつ、その魅力にとりつかれてしまう男。 「バカ、その辺でやめとけ」と思わず声をかけてしまいたくなるが、そこで立ち止まっちゃ、マンガも完結してしまう(笑)。 見ていて男のバカさ加減に嫌気がさし、女の卑劣さに腹を立て、これじゃハッピーエンドは期待できない、こんなムナクソの悪いマンガがそうそうあるかと思いながら、いつの間にか固唾を飲んで、愚かな不倫に身をゆだねる男女の行く末を見守っているのだ。 それは多分、私もまた愚かな男であるからなのだろう。
DVD『アヴァロン』、吹替版で見る。 押井守監督自身がアフレコを担当したただけあって、キャスティング、その演出、これが別録りでカラミがないとは信じ難い。 アッシュ役の財前直見、私はこの人を『天河伝説殺人事件』でしか知らないのだが、たいしてよい印象はなかった。しかし、声優としてその“演技を聞いた”時、意外に口跡がハッキリしていて、凛としたムードを醸し出せているのに驚いた。 ゲームマスター役の日下武史も『天河』に出演しているが、財前直見との再度の共演は偶然だろう。劇団四季の重鎮として長年鍛えてきた演劇的な口調は、『攻殻機動隊』の「パペットマスター」を彷彿とさせる。つまり、彼もまた「演出家」としての立場にありながら、「ゲーム」のキャラクターであり、「演劇」の舞台に立つ登場人物の一人に過ぎないことを暗示しているのだ。 他のキャストも、役者の実力を見抜く押井監督の力量が見て取れる。 山寺宏一(スタナー)、范文雀(受付の女)、田中敦子(ジル)、大塚明夫(ビショップ)、木下浩之(マーフィー)。 なんとまあ、舌を巻く実力派揃いであることか。これを、舞台俳優と声優を組み合わせて演出したただの実験、と見るのは短絡的だ。なぜならここにはアイドルとかトレンディ俳優とか、シロウトに毛が生えただけの人気声優などは、ただの一人もいないからである。……石田ゆり子や田中裕子を使った某監督とは雲泥の差があるよなあ。
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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