無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月13日(土) 言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』

 昨12日の朝、東京都江東区の東京港建材埠頭で、ルポライターの柏原蔵書(かしわばらくらがき/本名・染谷悟)さんが遺体となって発見された。本職はフリーカメラマンなのだが、東京・新宿の犯罪や風俗の実態を紹介した『歌舞伎町アンダーグラウンド』という著作もあり、最近は銃社会の取材を始めようともしていたとか。
 犯人が誰なのかはもちろんまだ調査中なのだが、著書の中に「本を書いたことで歌舞伎町を敵に回してしまったかもしれない」と記し、また、出版後は周囲に「命を狙われている」とも話していたというから、ウラのなんたらの報復措置だとも考えられる。
 いつぞやの『悪魔の詩』事件の時にも思ったことだけど、「表現の自由の保証」だのなんだと言いながら、その実、日本人の殆どがそんなものには関心がないんじゃないかと疑りたくなってんだよね、私ゃ。
 だってさあ、みんな普段はこの言葉を金科玉条みたいに口にしてるけどさあ(特に識者とやら)、それがなぜかって言うと、自分の意見を押しつけるための言い訳に使ってるだけなんだよねえ。それが証拠に、日頃この手の発言してるやつに限って、こういう事件が起こって何か言うかっていうと黙りこむんだよ。トバッチリがくるの、イヤなんかね。アンタラがまず真っ先に怒りを表明して然るべきなんでないの? と言いたいよ。
 そういう口の達者なヤツらって、いつも言い訳だけは用意してるんだよ。
 まだ捜査中の段階ではコメントできないとか(いつもは憶測だけでモノ言うことも多いくせにな)、今はまだ事情があって語るべき段階にないとか(で、あとで語ったってあまり聞かないなあ)、果ては「言論は無力だ」とか(なら最初から黙ってろ)。
 命が惜しいのは当然だろうから、沈黙するのが悪いとまでは言わない。けど、日頃は好き勝手放言しときながら、何かあったら逃げるってことは、そういう事態に自分が置かれるって可能性、考えてなかったってことだろ? 自分にだけは弾圧も攻撃も来ないと甘く見てたってことだよね? そこは突っ込まれたり批判されたりしても仕方ないんじゃないかね。
 私も見た本や映画の感想、こうして好き勝手書いて公開までしてるもんだから、たまに実作者の方から書いたことについて訂正や批判を求められることもある。そこで事実の誤認があれば訂正してるし、拠って立つ立場が違う場合はそれを説明もする。そういうことはないだろう、なんて高を括ってたりはしてない(よくこんなもんまで読んでるなあ、とは思うが)。たとえば『座頭市』について批判してる部分もあるけど、たけしが乱入してきたら謝る覚悟は持ってるぞ(謝るんじゃん)。
 世の「識者」のみなさん、この事件についてはもっと声を大にして真相究明を求めるキャンペーンくらい張ってもいいんじゃないのかね。なにかモノを言って狙われたら即アウト、なんてふざけた状況、許したいわけじゃないだろうに。それこそ自分たちの「死活問題」なんだから、いつも言ってる「法整備」だの何だの、主張すべきことは一杯あると思うんだけどね。


 朝、早起きしてしまったので、しげを誘ってガストで食事。
 最近ここのディスプレイで「二角どり」というゲームをするのが我々夫婦のマイブームである。1回50円で同じマークの麻雀パイをクリックしてめくって行く遊びなんだが、直接隣り合わせになってるか、空間で繋がってないとめくれないのである。
 朝もはよから画面を指でプイプイ押してる怪しい二人組というのも何なんだが、まあ、人に迷惑かけてるわけじゃなし。
 そのあと、合コンゲームをやって画面の中の女の子をナンパ。百円でやれる程度のゲームだからあっという間にキスまで行ってしまう。でもそれから先がない。ファミレスだからそれが限界だよなあ……ってそもそも恋愛シミュレーションゲームがあるだけでもヘンなんだが。
 

 いよいよ明日が公演本番なので、よしひと嬢、今日から二泊三日のお泊り。
 今度の脚本にはモチーフに黒澤明の『羅生門』を使っているのだが、よしひと嬢、未見とのことなので、本棚を猟ってビデオテープを引っ張り出す(DVDは山のどこかに沈んでて見つからなかった)。

 私も『羅生門』を初めて見たのは比較的遅かった。『七人の侍』も『用心棒』も『天国と地獄』も高校のころまでに見てはいたが、『羅生門』はテレビ放送を見逃すことも多く、初めて見たのは大学の終わりごろか、最初の職場に就職して間もないころだったと思う。それでももう20年近く昔のことだ。
 当時、天神の西通りに「キノ」という小さな名画座があって、そこで『ちゃんばらグラフイティー斬る!』『素浪人罷り通る』『羅生門』の三本立てで見たのが初見である。小さなスクリーンではあったが、スタンダードサイズのこの映画を見るには充分だった。三船敏郎の躍動、京マチ子の妖艶、それにも増して虚偽を語らねば脆弱な自己の心を守れぬ人間の愚かしさがかえって愛おしく思われた。
 それから何度この映画を見たか知れない。そのたびごとに新しい発見があるのだが、今、私の『羅生門』に対する評価は複雑なものになっている。それはやはり芥川龍之介の原作にない、黒澤明オリジナルの第四の結末に起因していることなのだが。
 この映画を広義のミステリーと解釈すれば、この結末に触れることはネタバレに属することなので喋りにくいのだが、少なくともそれまでの三人の語った相矛盾する物語、盗賊多襄丸が、真砂が、金沢武弘の霊が、なぜウソをつかねばならなかったのかをうまく説明している点では実によくできていると思う。
 ただ、「うまく説明ができている」からと言って、本当に彼らがそのような状況に立ち至ったためにウソをついたのだ、ということを証明することはできない。全ての被疑者がウソをついているなどという状況が非現実的である以上、納得のできる説明などは本来ありえないのである(たとえ現実にそのような状況がありえたとしても、信じがたい出来事であることには変わりがない)。
 芥川の原作はまさしく、「ありえない現実」をあえて具現化して見せたことによって、人間存在自体の虚構性を照射している点にその非凡さがあるのであり、これは本来、「寓話」の手法であって、映画に向く題材ではない。真相が分らないからこそ成立する物語に、第四の物語は本来蛇足なのである。
 もう一つ気になるのは、これが裁判劇というスタイルを取っているために、こんなに三人の証言が違っていたら、判決はどうなったのだろうと、そういうことが気になってしまうのである。これが第四の結末が示されていなければ、「これはまあ、寓話だから」ということでそんな瑣末なことは問題にしようとも思わなかったろうが、映画が一人一人の人物をリアルに追いかけてしまっているために、どうしてもそういった現実的な問題にまで注意が喚起されてしまうのである。
 じゃあ、『羅生門』はつまんない映画なのか、ベネチア映画祭グランプリは内実を伴わない形だけの賞に過ぎないのか、というと、そうではないから複雑なのである。

 『姿三四郎』も含めて、「わかりやすいエンタテインメント」も黒澤明は数多く作っているが、その本質的な部分においては、極めて観念的なものを持ってもいる。黒澤さんの場合、その思索部分についてまで「分りやすく」語ろうとするために、ともすれば映画が説教臭くなってしまうし、黒澤さん自身が「善の人」と錯覚されてしまいもする。
 『夢』の「水車のある村」なんか特にそんな感じでしたね。アンタ夢ん中でまで人に説教してんですかと。けれど、そういう「説教」の要素の少ない「日照り雨」や「桃畑」に比べて「水車のある村」がそんなに遜色のある作品かというと、決してそんなことはないのである。
 黒澤さんの説教は優しい。これを辛気臭いとか古臭いとか、煙たがったりするのはただの鈍感であろう。
 『羅生門』の最後、あの捨て子のエピソードで、杣売りの志村喬が口にする「俺のところには子供が六人居る。しかし、六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ」は最後の最後で「ウソ」をついた杣売りが口にするからこそ説得力があるのだ。黒澤明を単純な善悪二元論の人と見るのは見方が甘い。
 そう言えばゆうきまさみの『パトレイバー』のラストでバドを引き取ったブレディ警部もこれと似たようなセリフ言ってましたね。『羅生門』のファンだったって裏設定があるのかな。

 よしひと嬢、『羅生門』を見終わって「おもしろかったです」とは仰っていたが、『用心棒』や『七人の侍』のようなカタルシスはない映画だからなあ。今度は『野良犬』を見せることにしよう。

2001年09月13日(木) コロニー落としの報復は/『ヘブン』『ヘブン2』(遠藤淑子)ほか
2000年09月13日(水) シゲオと誕生プレゼントと009と/『遊びをせんとや生まれけむ』(石ノ森章太郎)



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