無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか

 今日は小泉純一郎首相の写真集の発売日だそうな。
 世間の反応、「いくら人気があるからってやりすぎ」って人も多いみたいだけど、こういうキワモノこそが、後の代において「時代の証言」となることが多いのだ。
 人気なんて、泡ブクのようにあっという間に消えちゃうものだから、数年後、「あの小泉フィーバーは何だったのか」みたいな感じで振り返られることは必定。今、書店のコーナーを埋め尽くしている感のある小泉関連本が、水が引くように消えてなくなることも確実なのである。
 そうなると、更に十数年後、若い人に向かって「昔ね、小泉さんってライオン頭の総理がね、何の実績も示さないのに支持率だけは90%越してたことがあったんだよ」って言っても誰が信用するかってことになるのだ。
 そのとき、押入れの奥に隠していた「写真集」を取り出して、「ホラ、それが証拠にこんな写真集まで出てたんだから」と見せれば、ウソなんかついてないってことが証明されるのだよ。
 そのためには、初版を買うより、ある程度増刷が掛かったころを見計らって買うのが一番いいんだけどね。「ホラ、三ヶ月でこんなに増刷が!」とかってね。……でもタイミング間違ったりすると、増刷が掛かる前に絶版、ということも考えられるので、この辺の見極めがムズカシイのだ。
 ……え? じゃあ、お前は買うつもりがあるのかって?
 だから「小泉さんのファンの人」、恥ずかしくても買っといたほうがいいですよって言ってるんだってば(笑)。

 私は今、酒井法子の『のりピーちゃん』や飯島愛の『タイムトラベラー愛』(作画は武林武士)を買い損なっていることをちょっとだけ悔やんでいるのである(ちょっとだけだよ、ちょっとだけ)。
 
 
 朝方、J−COMブロードバンドから、「せっかく申しこんでもらって悪いけどよ、お前んとこ、電波障害があってよ、ブロードバンドできねえんだわ。引っ越したらまた声かけてくんな」って、ミもフタもないメールが届く。
 ようやく最近、「ブロードバンド」というコトバを覚えたので、「おお、これは便利そうだな」と、早速しげに頼んで(この辺がまだパソコンオンチな私の度胸がないとこ。しげに頼まないと何もできないのだ)、これからは画面一杯にサイトを広げてもフリーズしないぞと喜んでいたのだが、そう都合よく物事は運ばないものらしい。
 だいたい「ブロードバンド」なんてエラそうな名前を名乗ってるんだったら「電波障害」くらいものともしないくらいのスペックがあってもいいんじゃないのか。「ブロード」って「広い」って意味じゃないのか。「でもアンタんとこはダメ」なんて了見が狭いぞ。「バンド」って「帯」だっていうけど「紐」の間違いじゃねえのか。やさしくゆったり包んでほしいのに縛って絞めつけてビシバシしばかれてる気分だぞ。
 ……パソコンに詳しい人には大笑いの発言でしょうが、ご容赦下さい。イナカに住んでるんだなあ、とちょっと悲しくなったんです。


 夜、偶然、『ディズニー百周年SP クイズ$ミリオネア・新学期子供大会』を見ていたら、ちょっと変わった男の子が出ていた。眼鏡をかけた、ちょっと見は、なかなか利口そうな顔立ちの子である。
 番組はもう終わりどきで、「野口英世はなんの病気で死んだ?」という、我々の世代なら選択肢がなくたって即答できる程度の問題だが、小学生にはやはり難しいのだろう。ちょっと悩んで「ええ〜っ?」なんて言っている。
 その態度に物怖じした感じが全くないので、度胸のある子だなあ、でも一歩間違えたら生意気だって嫌われそうな感じだよなあ、と思っていた。
 男の子、ハッとして「黄熱病!」と答える。司会のみのもんた、あのねちっこい声で、「どうしてそう思ったの?」と聞くと、男の子、「う〜ん、どこかで聞いたような聞かなかったような、友達から聞いたような聞かなかったような」と言って小首を傾げる。場内、ドッと受ける。
 おやおや、これはなかなか「ツカミ」を知ってる子だ。
 もちろん、正解、75万円獲得!の瞬間、その子が前髪をかきあげてオデコをペろっと見せると、そこには「75万円」と書かれたハチマキが。
 おお、いいぞ、この子。アタマのいい子ってのは、それだけでナマイキに見られちゃうものだが、それを「崩す」手段を知っているのだ。こういうのが「知恵」ってもんなんだよなあ。しかも優勝の百万円は、クラスのユニフォームを作るために使うらしい。……ううむ、みんなに憎まれない根回しも万全だ。やるねえ。
 なんだか「知恵の一太郎」(江戸川乱歩の小説に登場する利口な少年)みたいだなあ、と思っていたら、名前が「小林くん」……おい、ホントに「小林少年」だ(笑)。


 『ニュース23』で、多重人格の母親を支える家族のドキュメント。
 日本には多重人格の症例は少ないと言われる。あっても詐病だと主張する医者もいるが、これは日本人の生活そのものが基本的に多重人核的だからだと説明されることが多い。
 詐病でもなんでも、本人がそう「思いこんでいて」、「回復しない」のであればそれは立派な病気だ。
 このお母さん、主人格のほかに、3歳、6歳、18歳のほか、年齢不詳の女、更には乱暴な男の人格まで、都合9つもの人格を持っている。やっぱり子供のころ、親に受けた虐待がもとになって、人格が乖離していったらしい。
 これを「逃げ」だと見なすのは、自分は確固たる人格を持っていると思いこんでいるモノマニアの「偏見」だ。
 こういう多重人格、言ってみれば本人による治療だと言ってもいい。果たしてビリー・ミリガンのように、一つの人格に統合しようとすることが正しい治療と言えるのかどうか。
 乱暴な男人格さえなんとかできれば、後は人格が九つあろうが百あろうが、生活するになんの支障もないのだ。他の人格と共存していけるのであれば、それも一つの生き方と受け入れていく方法を選択してもいいのではなかろうか。


 ここ二ヶ月ほど、日記の更新がなかったマンガ家の安奈さんへ宛ててメールを送る。
 個人的なメールを女性の方に送るのは、場合によっては相手に対して失礼になることもあるし、何よりしげにものすごくヤキモチを焼かれてしまうので憚られはしたのだが、ふと、もしも自分がツライときに誰からも声をかけてもらえないとしたらヤだなあ、と思ってお送りすることにしたのだ。
 幸い、夜中にご返事があって、感謝していただけたので、ホッと胸をなでおろす。
 安奈さんの描かれたマンガが、どんなのか無性に読みたくなってしまったが、こればっかりはご本人が匿名を守られている以上は、詮索できないんだよなあ。


 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE』20巻(集英社・410円)。
 20巻の大台に入って、ルフィたちとバロックワークスとの戦いもいよいよクライマックスに近い印象。少年ジャンプの対決マンガの黄金パターン、「団体戦」が展開されてるのだけれど、スポーツの試合じゃあるまいし、全員で各個撃破したほうがずっと効率がいいだろうに、なんて突っ込むのはもう今更かなあ。
 でもねえ、「パターンをなぞる」ってのは、そこにちゃんとなぞるだけの「効果」があると自覚した上でないと、結果的に「陳腐」って印象しか与えないんだけど、そのことちゃんと編集者は尾田さんに教えてるか? 教えてないよな、だって『ジャンプ』だし。
 もう、『リンかけ』以来私ゃその手のパターンに飽きてるから、気分的にはもう、「絶対に勝ちそうにないキャラにいかに勝たせるか」って方に興味が行っちゃってるのね。
 たとえ初めにどんなに追いつめられたって、ルフィやゾロやサンジが勝つのは意外でもなんでもないのよ。
 ウソップやトニートニー・チョッパーをいかに勝たせるか。
 ここに作者の技量が現れると言っていいのだ。……そういう肝心なところを読み飛ばしてないかねえ、ヤオイ系の『ワンピース』ファンはよ?

 結論を先に言っちゃえば、尾田栄一郎、まだまだ捨てたものではない。
 ウソップとチョッパーの敵を、いかにも二戦級なミス・メリークリスマスとMr.4の二人に設定してるって点では、ドラマチックな要素がマイナスされちゃってるんだけど、演出でその弱点を随分カバーしている。
 NO.4の特殊能力を説明するあたりのテンポが実にいい。
 チョッパーが、「4番バッターで犬と一緒なんだ!!」。
 ウソップが「さっぱり意味がわかんねェぞ、どういうことだ!!!」。
 実際、全く解らない(笑) 。
 わかんないものだから、その間にウソップとチョッパー、メタクソにやられる。
 で、ホントにNO,4、「4番バッターで犬と一緒」だったんだものなあ(笑)。こういうシビアな対決をギャグでつないで緩急のリズムを作り出す腕は尾田さん、実にうまいのだ。
 ミス・メリークリスマスが「モグラ人間」に変身した途端、「ペンギン?」って突っ込まれるギャグは絵が下手なせいでイマイチ効果がなかったけど。ちゃんとモグラに見えてしまう絵を描いちゃいかんねえ。ペンギンに見間違えられるんだったら、ちゃんと色を黒く塗って、もっと下半身デブにしなきゃ。
 「5トン」のギャグはギリギリセーフかな。
 ウソップの持ってるハンマーがハリボテなのは、読者にはもうミエミエだから、それを誰にボケさせるか、ってとこでチョッパーを相棒に選んでるのはなんとか納得できるし(でもこれは本来、ルフィの役柄なんだよな)。
 最後、それまでのギャグで誤魔化してた対決が、二人の底力で勝利する展開、結構うまくまとめられている。
 これで『アラバスタ編』最大の山場は最初に終わっちゃったので(笑)、あとはさっさとゾロもサンジもルフィもズタボロになりながら復活して敵を倒す拡大再生産パターンをさっさと終わらせて、いい加減で音楽家を出して海賊ものに戻れ。シャンクスも出せよ。

 ……それにしても、一番気になるのは、作者が主役のルフィを扱いかねてるのが目に見えてわかっちゃうところだ。
 ラスボスを最初に倒しちゃうわけにはいかないのはわかるが、クロコダイルから「てめェの様な口先だけのルーキーなんざ、いくらでもいるぜ…!?」って言われてるけど、その通りだぞ。
 ルフィ、今までもそうだったけれど、肝心なところで役立たずだったこと多いのだ。こういう能天気なヤツを勝たせるには、「能天気だからこそ強い」という発想で描いてくしかないんで、作者によっぽど強引な力技を仕掛ける技量がないと続かないんだよなあ。
 それができないと、結局、敵のほうの「強さランク」を落として、「実はただのバカだった」ってことであっさり倒させるしかなくなる。「なんだよこの敵、初め出て来たときにはいかにも強そうだったのに、戦ってみると意外と弱いじゃん」って印象になっちゃうのはそのせい。『ドラゴンボール』も『るろうに剣心』も、それで失敗している。
 ……クロコダイルもいかにもそうなりそうなんだよね。ゴタクばっかり言ってるし、今巻でミス・オールサンデーのほうが実は黒幕だったっぽい伏線が張られ出したのも、明らかに次へのつなぎ。
 だから伏線ってのは、「先を読ませない」のが主眼にないと失敗するんだってば。これで結局、「ルフィたちは最後には勝つ。敵の中でミス・オールサンデーだけは今の話が終わっても再登場する」ってわかっちゃったじゃないか(もともとルフィたちが負けるわけないじゃんか、って突っ込みは的外れ。これは作劇における演出の問題を言ってるの)。
 作劇の欠点を若さと勢いでカバーできるのはせいぜいデビュー後4〜5年だ。この辺で連載終わらせないと、ホントに尾田さん、潰れちゃうぞ。

 ジャンプの「人気があるうちはいやでも続けさせ、なくなったら即打ちきり」っていう「作家使い捨て」体質を変えるためにね、「どんなに人気があっても20巻で完結」って制度にしたらどうかなと思ってるんだけどね。
 今日の読売新聞の夕刊を読んでたら、「囲碁」のページで『ヒカルの碁』のことが紹介されていて、集英社は「人気がある限り連載を続ける」と発言してるとか。
 「勇退」ってコトバ、誰か集英社に教えてやってくれ。


 宝泉薫編著『別冊宝島Real021 アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝島社・1200円)。
 私がこの本を読んでるのを、しげが見て、その目が無言で「私というものがありながら、なんでそんなの買ったの!?」と語っていたが、もちろん、これは「マジメな」研究本であって、ヌード写真なんて、引用のための小さなモノクロ写真が点在してるだけだ。変な疑い持つなよ。

 ヌード写真ではない、「アイドルヌード」というものはなんだったのか(これが過去形であることが重要)、80年代、90年代のサブカルチャーの重要な一端として捉えようとする著者の視点には大いに共感を感じる。
 女性は気を悪くするだろうが、「アイドル」というのは、たとえ脱ごうが脱ぐまいが、男にとっては「性の愛玩物」なのだ。
 その是非はともかく、なぜあの時代の若者たちが、ただのヌード写真ではなく「アイドルヌード」を欲したのか(あるいは欲さなかったのか)というのは、例えば「なぜオタクが美少女アニメに萌えたのか」というテーマとも密接な関係があり、戦後日本の文化的土壌を分析するための極めて重要な課題なのだ。
 ……思うに、戦後日本の最大のタブーってのは、天皇制の問題なんかではなくて、男性がどうして女性に性欲を感じるのかってことを秘匿してきたってことにあるんじゃないだろうか。
 男が女に性欲を抱くのは本能だと思ってる人が、下手すりゃ男の中にもいるだろう。でもそれは真っ赤なウソ。実は、男が性欲を燃え立たせるのは、その女体が持っている「物語」に対してなのだ。
 ……「男はみんな巨乳好き」とか思ってる女性の方、多くありませんか? 確かに男が母親から生まれた存在である以上、「女体に母を求める物語」が、男に受け入れられやすいものであることは事実です。でも、男がその内面で求めている物語はそれだけじゃないんですよ。
 いみじくも、かつてのアイドル、南野陽子は『寒椿』でヌードを披露した時、「私ってムネが薄いから、薄幸そうに見えるでしょ?」と言ってのけたが、つまり、「薄い胸」であっても、そこに何らかの物語を見出すことができれば、男は奮い立つのだ。
 80年代以降、一つのブームになったと言ってもいい宮尾登美子原作の「女郎もの」映画では、その女優の肉体について、いささかアザトイまでの「肉の振り分け」がなされていた。例えばそれは、エネルギッシュなキャラクターには肉感的な女優を配し(西川峰子やかたせ莉乃など)、耐え忍び病気に犯されるキャラは痩身の女優を配する(夏目雅子や真行寺君枝)、というように。
 だから逆に、肉感的な十朱幸代が薄幸な女性を演じても今一つ説得力がなかったりもしたのだ。

 もともと、アイドルには「アイドル」という「物語」が既に付与されていたのだ。そして、その物語には、「アイドルはヌードにならない」という物語が含まれていた。それは、大人のヌードではあまりに刺激的過ぎる少年たちに与えられていた、ささやかな性の解放だったと言える。
 ……実際、小学生のころの私なんか、スカートめくりまではしててもパンツ脱がそうとまでは思いもしてなかったし。……おっと、脱線(笑)。
 しかし、少年は大人になる。にもかかわらず、アイドルたちが脱がないままでいたらどうなるか。もはや、アイドルと大人になった少年たちとの間をつなぐ物語は存在しなくなる。アイドルたちが脱いでいったということは、「物語を変質させ、ファンとの間に、新たな共通の物語を持とうとした」ということを意味する。……失敗した例がたいていだったけれども。
 少年が大人になる前に、アイドルのほうが一足早く「変質」してしまった場合、少年は「置いて行かれる」。それが「アイドルに裏切られた」という心理になるわけだ。だから、その「変質」をどう受容してオトナになるか、というのも、当時の我々に課せられていた「性の通過儀礼」だったのだ。

 いくつかの「通過儀礼」を通じて、少年は大人になる。しかし、それは、「アイドル」を、「性の消耗品」として見るクセを我々が身につけたことにほかならない。何しろ、アイドルは次から次へと量産されていたからである。
 それは、言わば「神」として崇めていた偶像を自分のいる地べたにまで引き摺り下ろし、蹂躙する快楽なのであるが、その「快楽」こそが「大人になる」ということだったのだ。

 こうなるともうよりどりみどり、芸能界は妄想少年のハーレムと化す。
 初め、「アイドルに裏切られた」と嘆いていたファンも、すぐに「代わり」を見つけた。
 そうしていくうちに、彼らは、やがてはアイドルに「裏切られる」こと自体、どこかで期待するようになっていった。つまり「アイドルはいつか脱ぐ」、そのときがいつかを「賭ける」ことすらし始めたのだ。
 同時期にデビューした女性アイドルの誰が生き残り、誰が消えるか。そして、誰が脱ぐか。人気があれば、「賞味期限」は延びて、なかなか脱ぎはしないが、ユニットを組んだグループは、たいていが数年で解散し、脱いだ。
 トライアングル、パンジー、ギャル、少女隊、セイントフォーなどは、デビュー当時からみんな確信していたはずだ。「いつかは脱ぐ」と。でも、そう考えるほうが、当時の男たちにとっては「健全」な発想だったのだ。
 逆に「この子だけは脱がないだろう」という気持ちでアイドルのファンになる男というのは、より強い独占欲でアイドルを見ていたことになる。で、彼らはそのままストーカーになったりするのだ。
 
 結局、どう転んでも男は女を性の対象としてしか見ない。物語は女の側にあるのではなく、女の肉体を媒体とした男の方にしかないからだ。女が自立してるかしてないかは関係がない。
 女が自らを性の対象として見させないためには、そこに「男の物語を付与させない」方法をとるしかない。
 だから、フェミニストたちが「女性を性の対象として見るな!」と言いたいのなら、できるだけ女を魅力なく魅力なくしていけばいいんだけど、それを誰もしようとしてないのは、結局、自分たちを「性の対象」として見させたいことを肯定しているのだ。

 なんか、本の内容に触れる前に、個人的なアイドル論をぶち上げてしまったが、まあ、今、書いたようなことを前提に読めば、女性の方も「なんで男ってスケベなの?」という疑問の答えが見えてくると思います。

 本書にはアイドルヌードについての歴史が非常にコンパクトにまとめてあるのだが、やはの全てを網羅しきれるものではなく、ここはもう少し詳しく触れるべきではなかったか、という箇所や、調査が不充分と思えるところも多々ある。
 篠山紀信の「写楽」シリーズについては、もっとページを割いて解説してもよかっただろうし、従来の倫理観にとらわれない帰国子女のヌード、例えば川上麻衣子のものは、やはりエポックメーキング的な意味合いがあったと思われるのに全く触れていないのはどうしたわけか。
 また、「脱がない歌姫」でありながら脱ぐ以上のセックスアピールを出していた存在として、小泉今日子を筆者は挙げているが、ならば中森明菜の立場はどうなるのか。柏原芳恵は未だにバストトップを出してない、などと書いてるが、これも事実誤認で、ちゃんと脱いでいる。
 杉田かおるや、安達祐実など、子役が女優に生まれ変わろうとするときに辿った過程というのも、考察しておく必要があったのではないか。

 ……なんだか、自分でも「ヌード論」が書ける気になってきたなあ。読者の方で呆れてる人もいるかもしれないが、私が自分で一番呆れているのである。何しろこの本で紹介されている写真集で、その存在を知らないものがただの一つもなかったからだ(笑)。
 ここまで自分がスケベだったとはなあ。にもかかわらず未だに浮気の一つもしてないというのは、私ってもしかしたらモノスゴイ人格者なのではなかろうか(我田引水)。

2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)



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