無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月08日(月) ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)

 鬱病で芸能活動を休止していた高島忠夫さんが元気に復帰宣言。
 お年がお年だけに自殺の危険もあったと思われる。以前、知り合いが実際に鬱病に罹っちゃったことがあるが、親や恋人がいかに説得しても、自室の隅に引きこもって、顔を上げようともしなかった。こちらができたことと言えば、医者に連れていくように奨めることだけ。それとても本人にとっては厄介者のように扱われていると思いこまれるのではないかと心配になった。激励の言葉がかえって本人を追いつめてしまうくらいに、心は繊細になってしまっているのだ。
 高島さんが人前に出られるようになるまで約5年。この間のご家族の苦悩は想像するに余りある。自分たちの方が鬱病になってしまう危険な状況だってあったのではないか。それを堪えた。今の政伸さんの笑顔は、心からの笑顔だろう。
 願わくは、この5年間の出来事を「ドラマにしよう」なんて安易なテレビ屋が現れませんように。


 『キネマ旬報』9月下旬号、タイムリーに『座頭市』特集である。
 監督インタビューで北野武が「市は何の愛情にも絡んでいない」と発言しているのを読んで、これも北野監督の「照れ」かな、と苦笑した。ともかく今回の座頭市は寡黙である。「感情を言葉にすることの恥ずかしさ」というのは感情表現の過多な人にはなかなか理解してもらえないのだが、市が殆ど口を利かずに過ごすのは、感情がないからではない。それを口にすればウソになってしまうからだ。
 「本当は市はとても優しい心の持ち主なんだよ」。
 ほら、ウソっぽいでしょう(^o^)。
 言葉が意志や感情を伝達できる最良の手段だなどと思いあがってはいけない。言葉は本人の意志の十分の一、ヘタをしたら殆ど伝えられないと言っても間違いではないのだ。何かを伝えようとすればするほど、言葉が上滑りになっていくという経験をした人は多いだろう。結局は言葉もひっくるめて、「その人」を許容する覚悟があるかどうかでしか心と心の絆は生まれないのである。
 じゃあ、ビートたけしが日頃あんなに饒舌なのはなぜなんだと文句をつけるワカランチンもいるだろうが、だから「照れ屋さん」は「韜晦」するんですよ。
 こういう説明も野暮の極みだし、仮にたけしさんがこの文を読んだとしたら苦笑するだけだろうが、言葉を丸のままストレートにしか受けとめられない連中が世の中に横行してるから。だもんでそういう連中にはまさしくストレートに「馬鹿」って言ってやるんですがね。もちろんこれとて意味は伝わらない(^_^;)。

 同じ号では『踊る大捜査線2』の評論家&読者を交えての批評も特集されているのだけれど、絶賛から完全否定まで、実に幅広い。
 こうも意見がかけ離れてしまうと、「その映画って面白いのかつまらないのかどっちなの?」と未見の方は迷われると思うが、見る人によって感想が違ってくるのは当然なので、「自分の目で確かめてごらんなさい」としか言えませんねえ。
 よく「主観の相違」と言ってこの意見の説明をしたがる人は多いが、じゃあその「主観」ってのは何? ってことが余り考えられていないから、説明のための言葉でなく、相手を拒絶する言葉にしか作用していないのはよろしくないと思う。
 もう少し具体的に言えば、「主観」ってのは一人一人の背負っている「文化」の違いなんであって、それが映画の「何に注目するか」という違いにまで発展するのである。その結果、感想が変わるのは当たり前の話。
 単純な例を挙げて説明するなら、日本人が洋画を見るとき、もしも吹き替えや字幕がなかったら、内容が掴めずにつまらなく感じるでしょう。でもそれは映画の出来が悪いからじゃないことは自明の理。じゃあ、外国語が分らない方が悪いのかって言うとそうでもなくて、そういう「文化」を持たないで生きてきたのだから、これは仕方がないことなのです。つまり一人一人の持っている「知識」や「教養」は常に偏在しているので、議論をする場合にはそれを確認した上でなければできないことなのである。
 議論で意見が衝突している状態というのは、お互いに自分の「見ているもの」を相手が「見ていず」、自分の「見ているもの」を相手に「見ろ」と強要している形になってるのだから、そりゃケンカになるのもムベなるかな。
 うちのしげは「ダン・エイクロイドが出演していればそれだけで傑作」と主張してますが、これはしげの中では絶対的な真理ですから、何をどう言ったってムダ(^_^;)。もちろん、世間一般に通用する意見でないってことは本人も百も承知。文句言ったって仕方ないんだけど、相手の見てるものが「ダン・エイクロイド」だけだったら、やっぱり「お前、そこだけ見るのはやめろよ」と言いたくはなりましょう。言ってはいないけど。
 『踊る2』を本気で面白いと思ってる人は、映画をこれまでたいして見たことがないか、見ていても漫然と眺めていただけの人である(評論家の佐藤忠男も誉めちぎっているが、あの人もそうなのか、と聞かれたら「そうだ」と答えよう)。もちろんそれが悪いことだと言うつもりはない。誰にだって「初心者」の時期はあるのだ。江戸川乱歩の通俗ものと同じで、最初の一冊は面白いが、何冊も読んで行くと「なんだ、全部同じじゃん」と思って飽きる(もっとも微妙な差異が面白くて全作読んじゃってますが)。私は『踊る2』については「これまでに見たことのある絵、展開」しか見えなかったので、「陳腐」としか言えなかったのだが、ドラマのセオリーを外してるわけではないから、「面白い」と感じる人もいて当然でしょう。私にとって「寄せ集めのガラクタ」にすぎないものが「大切な宝物」に見えたからと言って、それを間違いだというつもりはないし、言ったとしたらこんなに僭越なことはない。
 ただ、「もっと面白い映画はいくらでもあるのに、知識や教養がないとわかんないんだな」とは思う。これはただの事実の指摘なんで(まさか『踊る2』が世界映画史上ベストワンだと言う人はいますまい)、バカにしてものを言ってるわけじゃないんだから、『踊る2』のファンの人、怒っちゃいけません。と言ってもムダかもしれないが。
 山根貞男氏などは「どうしようもないシロモノで、無視するのが真っ当な対応」「「カビの生えた古い感性の安っぽいセンチメンタリズムと劣悪なご都合主義」「ひたすら観客への迎合でのみ成り立っている」と容赦がない。ここまで断言してくれると実に小気味よい限り。『踊る2』肯定派の人も、この程度の言葉を受け流せる余裕がなきゃ、それこそマトモな意見吐いても相手にされなくなるから、ご注意を。


 夜、TVQで佐藤愛子原作、中島丈博脚本、久世光彦演出『ドラマスペシャル 血脈 大正〜昭和大震災と戦争の時代・妻として、母として、家族を激しく愛し、憎んだある女優の一生』見る。
 原作の方はいつか読んでやろうと思いつつ、文庫化を待ってる最中。でもそれは作家研究の興味からなんで、ここに登場する人たちのことを殆ど知らないだろう若い人がこの物語にどんな興味を抱くんだろう、といささか気になる。佐藤紅緑なんか、ただの無軌道親父にしか見えないんじゃないか。「あの『ああ玉杯に花うけて』の佐藤紅緑が」と思うからそのイメージのギャップに驚いちゃうんだけどねえ。
 実は久世さんの演出は昔からわざとらしくてそう好きではない。今回も時代の変遷を表すのに回り舞台に佐藤家の家屋を乗せて回すというのをやってるけど、それは舞台の演出で、テレビでやってもつまんないよな、と思ってしまう。昔『真夜中のヒーロー』って番組でも裸の岸本加世子を檻に入れてぐるぐる回し、「ああ、落ちる」とか歌わせてたけど。なんでも回せばいいというものではないのである。
 キャストは佐藤シナに宮沢りえ、佐藤愛子に石田ゆり子、サトウハチローに勝村政信、佐藤紅緑に緒形拳という布陣。宮沢りえは若くしてもう痛々しげだから役柄に合ってると言えなくはないけれども、なんだかやっぱり芝居が軽い。歴史の点景をかいつまんで描くような手法も、ドラマが薄くなる危険を考えなかったのかと不満が残る。
 筒井康隆が島村抱月役で出てたけど、いくらなんでも太り過ぎてるんじゃないかな。


 マンガ、CLAMP『×××HOLIC 〜×××ホリック〜』1巻(講談社/ヤングマガジンコミックスデラックス・560円)。
 私の周囲にはCLAMP嫌いの人も多くて、この人(たち)の本はちょっと買いにくいのであるが、グループでマンガ描くというスタンスも面白いし、同じ名前のブランドでいろんな絵柄のマンガが楽しめるというのもいい売り方だと思うのである。今度の絵柄は『夢幻紳士』っぽくて好きだ。トーンを殆ど使わない黒と白のコントラストが美しく、ピアズリーの絵画を見ているようでもある。なにより侑子様のいかにもマダム〜なお美しさがもうたまりませんがな(^o^)。

 ここはどこか。店である。それも、ネガイがかなう、ミセ。女主人の名は壱原侑子(イチハラユウコ)。彼女に出来ることなら、なんでも願いはかなう。けれど、対価は払わなければならない。願いに見合っただけのもの、その人にとってタイセツなモノ、例えばそれが魂であっても。
 客は迷いこむようにこの店に現れる。しかしそれは「必然」。この世に偶然はなく、あるのは必然だけ。四月一日君尋(ワタヌキキミヒロ)がこの店に「呼ばれた」のも、それは必然であり、「縁」だったのだ。
 一人目のお客は小指が動かなくなってしまった女性。それはその人の持つ「クセ」のせい。自分で気付いて、自分で直そうと思えば治るもの。けれど彼女は最後まで……。
 二人目のお客はネットをやめたがっている女性。これも、自分でやめたいと思わなければやめられるものではない。きっかけは侑子が与えた。けれど彼女は……。
 そして彼女はこう呼ばれる。「次元の魔女」と。

 ホントに願いをかなえてやってるのかこの女、と毒づきたくなるキライもないではないが、考えてみれば、自分を見返ることなしに「願い」だけをかなえてもらいたがるというのも勝手なリクツではあるのだ。侑子さまはいかにも冷酷かつ悪辣な魔女風だし、マンガ表現としては新しいのだけれど、案外古風な信賞必罰の倫理観に基づいて描かれてるのだね。
 そして物語はCLAMPさんのもう一つの連載、『ツバサ』とリンクしていく。『レイアース』のもこなも出る(^o^)。なんか大盤振る舞いだけれど、『バイオレンスジャック』みたいになりゃしないかと若干心配(^_^;)。

2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか
2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか



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