無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年09月20日(木) ま、映画さえ見られりゃいいんだけどね/『夜刀の神つかい』4巻(奥瀬サキ・志水アキ)

 福岡・博多の観光地の、昨年一年間の入場者データが公開された。
 1位がホークスタウンで、年間およそ180万人。昨年まで4年連続1位だったキャナルシティの120万人を大幅に抜いた。ホークスの優勝効果が貢献しているのだなあ。でも、今年優勝出来なかったら、来年はまた落ちこんじゃうんじゃないか。
 ぐんと下がって70万人利用の第3位が、ただいま経営不振でジリ貧の博多リバレイン。
 しかし、閑古鳥が鳴いてても第3位。というか、70万人も入っててペイしてないってことのほうがスゴイよ。『クレオパトラ』を製作した20世紀FOXかってなもんで、ハナから博多の人間は誰もあんなもんが成功するなんて思っちゃいなかったのである。
 不況の中、高級品で顧客増加を、って発想、どう考えても逆効果だ。庶民の街が庶民を無視してどうするのか。
 結局、川端の商店街の連中の天神・福岡地区への対抗意識だけで作られたようなものだからねえ。「何もせんよりはした方がマシ」「やってみないことには分らん」って発想だけでものごとが全て片付くように錯覚するのは博多人の悪いクセだ。っつーか、戦前の精神主義から一歩も出てないって。
 私だって、博多人のハシクレとして、リバレイン、利用してやりたいとは思うのだが、買いたいものが何もないのだもの。へっ、ブランドものなんてオタクにゃ似あわねえんだい。
 経営母体である第3セクターのSBC(スーパーブランドシティー)、福岡市が援助を決定したようだけれど、こちらが買い物しなくても税金って形で持ってくってか。じゃあ、なおのこと出かけてやる義理はないじゃないか。
 1位のホークスタウンだって、ダイエーの営業不振は未だに続いているし、2位のキャナルシティもメガバンドールが閉鎖したばかりだ。客は結構カネを落としてるのに、なぜそんなに経営が苦しい。どこかに放埓な部分があるんじゃないのか。
 時代を経て、街が様変わりしていくのはある意味しかたのないことだ。上位3ヶ所に4位のベイサイドプレイスだって、全部この10年ほどの間に生まれたものばかりである。天神も、博多も、私の子供時代から残っている風景そのままなんてところは殆どない。馴染みの商店街や行き付けの店も、寡頭競争の中でいつの間にか消えていく。それを惜しむ気はないが、だったらその競争に買った連中が、勝った途端に企業努力を放棄してるように見えるのは、ちょっと腹立たしいのである。
 ……中洲の映画館、軒並み潰れてるんだぞ。これでキャナルのAMCやホークスタウンのユナイテッドシネマが潰れたらどこで映画を見たらいいのだ。って、やっぱり心配してるのは映画館のことだけかい(^_^;)。


 仕事から帰ると、しげがいない。
 またどこかにフラフラと遊びに出かけたのかなあと思っていたら、しげから電話。
 「今からマックに来ん?」
 「なんでいきなり」
 「BOOKOFFに行った帰りに食べたくなって」
 もちろんこのマックはマッキントッシュのことではない(今更なギャグですみません)。
 でもしげはマクドナルドが余り好きじゃなかったはずだよなあ。どういう風の吹き流しだ(by.那須雪絵)。
 「オゴリなら行ってもいいよ」
 「いいよ」
 ど、ど、どうしたのだ。あのケチで吝嗇で(このギャグ前にもやったな)出すものはウ○コだってイヤだというしげが、気でも狂ったか。
 これは、ぜひ「真相」を確かめねばなるまい。
 とか言うほど大げさな理由でもないが、誘われて断る理由もないし、出かけることにする。ちょうどスパゲティを作ろうかと思ってたところだったんだけど、まあ、非常食をあえて減らすこともない(給料前でマジで金がないのだ)。晩飯にハンバーガーというのも味気ないけど。
 自転車で近所のマックまで行くと、しげがいかにも「遅いよう」という感じの顔で待っている。ったって、10分しか経ってないのに。
 ホントに、何をそんなに腹減らしてるんだと思って、ふとウィンドウを見上げると、そこに期間限定の「月見バーガー」のポスターが。
 ……なあんだ、しげ、これが食べたかっただけか。
 そう言えば、季節が巡るたびに「月見バーガーが始まったよ!(=^o^=) 」「月見バーガーが終わるよう(ToT )( T-T) 」と騒いでたよなあ。

 世の中に 月見ばあがの なかりせば しげのデバラは のどけからまし


 相変わらず世間は「テロ事件」報道で喧しいが、「“裏”モノ会議室」を覗いてみても、良識的な意見が殆ど見られないのは実に冷静でよいことだ。
 「戦争なんて個人の力でとめられるものじゃないんだから」って死んだお袋がしょっちゅう言ってたのが思い出されるなあ。
 こういう時にたかが庶民の分際で「今こそ平和を祈念する一人一人の力を結集して」なんてアジりまくる人間くらい信用ならないものはない。
 「犠牲になった人の気持ちが分らないのか」とか言って粋がってるヤツだって、何かが出来るわけではないのだ。
 「本当に戦争になったらどうする」なんて詰め寄られたら、「オマエと同じ行動をとるよ」と言ってやればいい。そのときそいつが慌てふためいたりしようものなら、そいつがイザって時にどんな行動をとるヤツか、底が見えようってもんだ。
 こういう時に「何とか」してもらうために政治家に一票入れてきたんじゃないのか。庶民が出来ることなんて何もない。
 ……いやね、またぞろ「戦争になったらどうすればいい?」って私に聞いてきたバカちんがいたんでね、「じゃあ、戦争を怖がってどこかに逃げるか? で、どこに逃げる? で、何も起こらなかったとして、ノウノウとここに帰って来れるか?」と言ってやったのだ。……実はこれ、『ちびまる子ちゃん』の『ノストラダムスの大予言の巻』で、マルちゃんがお姉ちゃんから言われてたセリフの丸写しなんだが(^o^)。
 納得するねえ、みんな。だから今、政治家以外で騒いでるやつはただのバカということになるのだ。
 ……お袋とさくらももこに感謝(⌒▽⌒)。

 まあ、テレビを見てて楽しいのは、やたらとアチラのなんとか専門家ってのが出て来て、ベテランの声優さんの声が聞けることかな。
 青野武、小林恭治、屋良有作なんて人たちが次から次へと出て来るんだもの。でも、昔だったら必ず出てきたであろう納谷悟朗さんの声を全然聞かなくなってるのが寂しい。
 もう随分体を悪くされているというウワサだし、無理はされないでいてほしいんだけれども。


 しげ、今日がホームページのリレー小説の連載のシメキリだと言うのに、一行もネタが浮かばないらしい。
 「ああ、地球が終わらないかなあ」なんて呟いている。
 しげは意外に「言霊」ってやつを気にするタイプなので、この手のことは冗談でも言わない方なのだが、よっぽど今回は困り果てているようなのである。
 ミステリの犯人なんか、直感でよく当ててるくせに、書く方になるとなぜか論理的に物語を組み立てられないのだな。
 足し算は出来るが引き算は出来ないってやつか(^o^)。
 譬えがちょっと違うようだが、事実、しげは引き算がむちゃくちゃヘタなのである。で、掛け算と割り算は全然ダメなのである。九九も全部言えるかどうか怪しいもんだ。


 マンガ、奥瀬サキ作・志水アキ画『夜刀の神つかい』4巻(ソニー・マガジンズ・546円)。
 何となく『火焔魔人』にリンクして行くんじゃないかと言う予感で読み始めたんだけれど、同じ吸血鬼、同じ不死者の物語であっても、物語の肌合いというか、毛色はだいぶ違ってきた。
 殆ど自分で絵を書かなくなって、原作だけを担当するようになった奥瀬さんだけれど、そのおかげで、「ストーリーテラー」として奥瀬さんが評価されるようになってくれればいいんじゃないかと思っている。
 ……いやね、『低俗霊狩り』の解説で誰ぞが書いてたけれど、奥瀬さんが注目されていたのはいつもその「絵」ばかりだったのね。でも、昔は全く逆だったのよ。デビュー当時は天野喜孝の影響がモロに顕著でね、っつーか、『低俗霊』のころははっきり言ってマネにすらなってなくてドヘタクソだったのだ。作者自身、後書きでファンにボロクソ言われたようなこと書いてたし。
 多分、奥瀬さんは「がんばった」のだ。必死になって、自分の絵柄を模索して、天野さんの影響を脱したのだ。けど皮肉なことに、今度は奥瀬さん、「絵」についてしか語られなくなってきた。
 ……不幸だよなあ。
 2ちゃんねるの掲示板でも「自分で絵を描け」とか最近はよく書かれてたし、私の周囲の奥瀬ファンも似たようなことを言う。でも、デビュー当時から付き合ってきたファンなら、奥瀬さんの真骨頂は「絵」にはないということに気づいていてもよいはずなではないのか。
 『コックリさんが通る』でファンになったような連中は、うまくなりすぎた絵にかえって幻惑されているのだ。
 いや、ストーリーだって、永井豪やら夢枕獏やらに影響受けてるのは事実だ。
 吸血鬼と化したヒカゲの姿に、『デビルマン』の飛鳥了の姿を重ね合わせるのは容易だろう。ヒカゲは夕介を自分の仲間にはしたいが、かと言ってそうしたところで彼が自分になびくわけではないということも知っている。不動明の心に牧村美樹が住み続けていたように、夕介の心には菊璃がいる。
 そしてヒカゲは飛鳥了と全く同じセリフを夕介にぶつけるのだ。
 「お前に何ができる!! お前一人で何が出来るって言うんだ! 何も出来なかったじゃないか! みんな死んだじゃないか!」
 そうだ。
 菊璃を守ろうとした人々はどんどん死んでいっているのだ。それも『デビルマン』と至極似通っている。
 では、夕介は矢折れ力尽き果て倒れる結果になるのか。
 菊璃を守れぬまま終わるのか。
 しかし、私には、これは奥瀬さんが『デビルマン』を自分なりに越えようとする物語を作ろうとしているように思えてならない。奥瀬さんは一貫して、異形のもの、人間に受け入れられないもの、彼らのいるべき場所を探し求めるようなマンガを描いてきた人だ。それは相手が「低俗霊」であっても同様で、私は、巨乳マニアの低俗霊が、魔魅の貧乳に包まれて、「誰よりも小さなムネだったけれど、魔魅さんのムネが一番暖かかった」と言って昇天するというギャグが大好きだ(笑)。
 奥瀬さんは、夕介にも、ヒカゲにも、菊璃にも、生きるべき「時間」と「居場所」を与えるような物語を作ろうとしているのではないだろうか。
 普通のストーリー展開なら、ヒカゲは3巻あたりで自分自身の邪な恋自体に押しつぶされて滅びていてもおかしくはない。凡百の作家ならそうする(ジャンプ系はたいていそう)。
 しかし、この『夜刀の神つかい』のサブタイトルは『ヒカゲの時代』。そしてヒカゲは変わり果てた姿にこそなれ、死なずに「生き」のびたのだ。そこにあり続けることの苦しみ、哀しみ、やるせなさ、それを描いてなお、存在することの意味を奥瀬さんは問おうとしているのではないか。そう思う。
 異形となったものにすら生きるべき「時代」があるとすればそれはどういう時代なのか、奥瀬さんが出す答えが待ち遠しいのである。

2000年09月20日(水) 頭痛と頭痛と頭痛と……/ムック『山下清のすべて』



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