無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月31日(火) 出た出た糖が♪/映画『コーラス』

 先月の健康診断の結果が届く。
 通院もここんとこずっとサボってるし、薬も飲むのやめちゃってるから、あまりよくはなかろうなと思ってはいたが、やっぱり尿糖が+1。肝脂肪も相変わらずたっぷりこんと付いている。
 普通なら再度の精密検査が促されるところで、実際診断書には病院への紹介状も付いてはいたのだ。けれども、病気がひどい時には尿糖が+3、血糖値も主治医から「いつ死んだっておかしくないですよ」とまで脅されていた時期に比べれば、遥かに病状は“安定”しているように思えるのである。「なんだあ、プラス1じゃん」ってなもんで。ホントはそう言って放っといとくのがよくないってこと、分かっちゃいるのだが。
 それより気になるのは、もう四年連続で身長が縮み始めていることで、一年に1ミリから2ミリ、確実に縮んでいっているのだ。このままのペースで行くならば、850年もすれば私の身長はなくなってしまう計算になるが大丈夫だろうか。


 二子山親方(元大関貴ノ花)が、昨30日、口腔底がんのため死去。享年55。
 早過ぎる死、とは誰もが口にするだろうが、それを一番痛感しているのは兄の花田勝治氏(先代二子山親方・元横綱初代若乃花)だろう。
 私はこの十年ほどの花田家のゴタゴタについては全く興味がない。ワカノハナ・タカノハナと言われて連想するのは平成のボケ兄弟の方ではなく、親子ほども歳の離れた勝治・満兄弟の愛憎渦巻く相撲人生の方である。兄の鬼のようなシゴキに耐え、大関昇進を果たすまでの経緯は、小学館の学習雑誌に絵物語で紹介されるほど、我々の世代にはポピュラーな「偉人伝」の一つであった。
 しかし、貴ノ花が結局は横綱にはなれなかったことが、この兄弟の「物語」を、「未消化」のままで残すことになった。相撲ファンの中には、その物語の結末を「息子たち」に託したがっていた人も多かったようであるが、私に言わせるなら、貴ノ花と貴乃花は全くの「ベツモノ」である。親子の世代の違いとか、時代の違いとか、その程度の言葉では言い表せないくらいに「相撲」の概念自体が変わってしまった、そんな印象なのだ。陳腐な表現で申し訳がないが、「相撲からロマンが消えてしまった」のである。
 たとえ前時代的で封建的であろうとも、先代二子山親方の「シゴキ」と、それに耐えた貴ノ花の「我慢」や「辛抱」が、そのロマンを支えていた重要な要素であったことは否めない。別にシゴキが正しいとか言いたいわけではないが、「心・技・体」の一致が伝統として関取に求められる角界において、「辛抱」の精神は、実に保守的で、伝統に相応しいものであったのだ。先代の花田兄弟の「人間、辛抱だ」のCMは流行語にまでなったが、この台詞を堂々と言える相撲取りが、今、角界にいると言えるだろうか。相撲は死んだ、と感じているのはそのせいなのである。


 ダイヤモンドシティで、映画『コーラス』。
 不良、落ちこぼれだらけの学校を、一人の教師が音楽を通して更正させていく――という、どこかで聞いたことがあるようなオハナシであるが、これが日本映画なら主役の先生は若い熱血先生、なるところだろうが、そこは何と言ってもフランス映画である。主役の教師にハゲデブの冴えない中年を持ってくるという意外性。これがリアルかつユーモラスで実にいいセンスである。
 子供たちに音楽を教え始めるのも、自分が作曲家崩れの落ちこぼれなもんだから、「こいつらを利用して、俺の作った曲を歌わせてやろう!」という自分の欲望に忠実なだけで、教育の理念がどうのとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない俗物なのである。意外や意外、この「音楽教育」が功を奏して、生徒を更正させることができるのだが、その手柄をやはり俗物な校長に奪われて、この先生、おおいにムカつくのである。どっちもどっちだわな(笑)。
 生徒たちも、一応、コーラス自体が楽しくなって先生の言うこと聞くようになるのだが、決して先生をソンケイするようにならないのがよい。こういう映画を見ると、スーパーマンモドキのキャラしか出て来ないハリウッド映画よりも、フランス映画の方がよっぽど日本人の感性にしっくり来ると思うんだけど、どうしてみんなアメリカ〜ンなウス味にばかり群れ集うかね。


 Yahooの掲示板で、『Zガンダム』の感想など見る。
 案の定、賛否両論で、賛の方はともかく、否の方はかなりヒステリックである。たいていは「なんだあのダイジェスト版は」というものだが、初見の感想でも書いた通り、あれは通常言われるダイジェスト版とはまるで違うのだ。と言うより、「ダイジェスト版だ」と思ってしまった瞬間に、あの映画の本質も面白さも見失う仕掛けになっている。
 例えば殆どの批判者は、「あれでは世界設定も人間関係も分からないではないか」という、ムカシのファースト三部作の時にも散々口汚く言われていたことを書きなぐっている。しかし、私が不思議でならないのは、『Z』を見たことがない客に対してもあれだけ「分かりやすい」構成と演出がなされているというのに、どうして「テレビシリーズを見ていないと分からない」と断言する連中がやたらいるのかなあ、ということなのである(実際、初見でも面白かったという意見も多いというのに)。テレビシリーズを見ているファンは、どうしてもカットされている部分を知っているものだから、脳内でその部分を補って、「この描写がないと意味が繋がらないではないか」と考えてしまうのだろうが、逆にカットされた部分を思い出してしまうと、新作部分との整合性が崩れてしまうことになる。だからあれは「ディレクターズカット版」であって、あれ以外の描写は存在してないの。
 例えばレコア・ロンドとカイ・シデンの出会いだってカットされているのだけれども、それがテレビシリーズの通りであったとは限らない。というか、あの描写なら、「レコアが捕らえられた牢獄にカイもいた」と解釈して何の問題も生じない(カイが誰だか分からない、という人には唐突に見えるだろうが、だから「ファースト」のストーリーだけは知っておく必要があるのだ。「続編」なのだから、『Z』から見ようってのはさすがに無理である)。また、幽閉されて再び戦うことを逡巡していたアムロが、次のシーンではもうカツと行動を共にしているのは、小気味よくすらある。あの展開の早さゆえに、「アムロの迷いや愚痴はただのポーズで、実はティターンズに反旗を翻す機会を狙っていた」という解釈が成り立つ。あれならアムロはヒネた中年にならずにすむわ(笑)。「新訳」とはそういうことなので、同じ絵とセリフを使いながら、テレビシリーズとはキャラクターの設定も意味も全く別物になっているのである。だからテレビのことは忘れなさいって。
 そもそも、そのように怒る人たちは、何をどこまで理解できれば気がすむのであろうか。もともとの『ガンダム』シリーズを全て理解しており、その上で『Z』は説明不足だ、とでも言いたいのであろうか。だとしたらその人はかなり傲慢な人間である。これも有名な話であるが、テレビシリーズでは、「ミノフスキー粒子」の説明すらなされたことはないのである。オタクはすぐにガイドに頼るから、「ミノフスキー粒子が分からない」とヒトコトでも言えば、鼻息吹かしてウンチクを垂れまくるが、そもそも『ガンダム』シリーズの「物語」を楽しむのに、ミノフスキー粒子を理解していることが絶対必要条件であると言えるだろうかね? 『Z』に関して言えば、冒頭のナレーションで示されている「ティターンズとエゥーゴの対立」が理解できていればそれで充分で、キャラクターは全てそのどちらかの陣営に所属するように「分かりやすく」配置されている。シロッコの登場シーンを見て、こいつが「ティターンズ側だ」と気づかない者がいるだろうか? いたらそいつは小学校低学年以下の理解力しか持っていないと判断されても仕方あるまい。
 笑っちゃうことに、「映画になってない」という批判をしている人もいたが、これくらい「映画を知らない」発言もない。「映画」の概念なんてそんなに簡単に規定できるわけもないし、富野監督は富野監督自身の映画理論に則ってあの「映画」を作っている.それが自分の映画観と反しているからといって、「映画になってない」と断言することがいかに傲慢な行為か。「映画じゃない」というセリフは、口にした途端に映画ファンの仲間うちから「馬鹿」と断定されてツマハジキにあう運命にあうことを、ちょっとでも映画関係の本を読んだことがあれば感得できることなのであるが、何百本と映画を見続けていてもそのことに気づかない半可通も巷には結構いるのである。こういうやつは決まって自前の「映画論」とやらを得々と語り始めると止まらないので、鬱陶しくて仕方がない。こういうのの意見は一切無視してよいのだ。
 「全編新作画でなぜ作らなかったか」という批判については、気持ちは分かるが、そもそも「旧作の作画を使って、新しい物語・映画が作れるか」というのがあの映画のコンセプトなのだから、お門違いの批判だとしか言いようがない。だからあれは「新訳」であって「新作」じゃないんだってば。「あこぎな商売しやがって」という類の批判にもならない下らない批判についてはもう、何をか言わんやである。なんかもう、常識的なことを言わなきゃならないのは気が引けるんだけどさ、あの映画に対する「批判」をしたいのなら、まさにその「新訳」された箇所について、「こういう編集の仕方をした方が面白いぞ」という具体例を出せなきゃ話にならないのよ。それができてる批評がただのひとつもないというのはどういうわけなんだろうかねえ。

2004年05月31日(月) 思い返すことども。
2003年05月31日(土) 追い込み日記/サボっていた男
2002年05月31日(金) 病気はハンデじゃないってば/映画『スパイダーマン』/『ミステリー民俗学者 八雲樹』1巻(金成陽三郎・山口譲司)ほか
2001年05月31日(木) 多分まだ20世紀は終わっていない/DVD『なぞの転校生供


2005年05月30日(月) 体調振るわず/『げんしけんDVDボックス』2

 朝から熱発して出勤できず。

 グータロウ君が友達から『押井守DVDボックス』を借りた話を日記に書いている。
 押井守ファンでも、アニメは好きだが実写映画はちょっと、と感じている人は多いと思うが、その点で言えば私は「どっちかと言うと実写の方が好きかな」という珍しい押井ファンであると言えよう。いや、そりゃ映画としての完成度で言えば『機動警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』の方が上だろうし、押井守らしさが横溢している点では『天使のたまご』や『御先祖様万々歳』を挙げるのが妥当だろう。それらの傑作群に比べると、実写3作(『紅い眼鏡』『ケルベロス 地獄の番犬』『TALKING HEAD』)は観念的で映像としての魅力にも乏しく、“一般的には”一段劣って見えるのも仕方がないかもしれない。
 けれど、アニメでは「絵」というフィルターがかかるために抑制され薄められてしまうが、押井守のナマな人間に対する欲望は、実写版ではかなりストレートな形で反映されていて、それが私なんぞには非常に面白いのだ。少なくとも『紅い眼鏡』の兵頭まこの、目を見張るほどに済み切った美しさを見るだけでもこれは価値があるのよ(笑)。


 なんだか殆ど毎日酔っ払い批判をやらかしてて、全世界の愛飲家をテキに回しているようであるが、実際、酔っ払いの仕出かしたトラブルを書いていけば、毎日ネタに困ることもなく、立派に事件簿ができ上がっちゃうのである。
 映画監督のオリバー・ストーンが、27日夜、酒を飲んで乗用車を運転、ロサンゼルスの路上を走っていたところを取り締まり中の警察官に停められた。その際、車内を調べたところ、薬物が見つかり、逮捕されたという(薬物の種類は未発表)。アチラの話だから、ストーン監督は保釈金1万5000ドル(約162万円)を支払ってすぐに釈放されたそうだけれど、それだけのカネをポンと出せる人間なら、サケをやろうがヤクをやろうがカネ積みゃ何とかなるって発想になってもおかしかないわな。監督の薬物所持での逮捕は、99年に継いで2度目だとか。
 名声を馳せてはいるが、私はオリバー・ストーンという人を映画感得としてたいした人だとは思っていない。「社会派監督」という肩書きはクセモノで、題材がセンセーショナルな場合が多いので注目されることが多いが、かといってその演出力まで秀でているとは限らないからである。『プラトーン』を見た時に感じたことは、一般的な世評に反して「大味な描写だなあ」というものであって、監督が意図したらしい「ベトナム反戦」とやらは“映画の中からは”感じられなかった。リアルとか言われてたわりにはメロ入ってたしな。
 だもんで、この人も私には「胡散臭い」監督の一人だったのだが、最近はサケやヤクに限らず、本職の映画の方でもいろいろと馬脚を表しつつあるようである。『アレキサンダー』はホモ描写ばかりが話題になって、映画自体は大コケしたようだが、根のない「社会派」が客に媚売ってりゃ、いつかは化けの皮がハゲて見捨てられるのも必然というものだろう。『アレキサンダー』はまだ見てないんだが。


 DVDボックス『げんしけん』2。
 5〜8話、及び、『くじびきアンバランス』2巻。
 本編の方は、原作ベースながらオリジナル描写もかなり付け加えられていて、ドラマとしての厚みを増している。横手美智子脚本に期待してボックス買いまでしてるようなものなので、つまんなかったら涙がちょちょ切れるところだ。
 1話限りで消えちゃった新入部員のエピソード、「空気読めねえ」ぶりがリアルでおかしい。いるんだよ、宴会で先輩を無視して一人勝手に食いもの食いまくるやつ。おれもだけどな(もちろん私の場合は空気が読めないのではなくて空気を無視しているのである。飲めねえって言ってるのにムリヤリ酒を押し付けてくる酔っ払いにはこっちだってそれなりに対抗するというものだ)。
 予告編のナレーションで、咲姉さんがレイヤーを思いっきり貶しまくって(素で悪気なく言ってるという設定)、それに大野が「全国のレイヤーを敵に回しましたよ」と静かに突っ込むのがナイス。
 『くじアン』は「大総集編」という体裁で、過去の対決を千尋が思い返す。もちろんシリーズそのものが存在してないので、総集編もへったくれもないのだが、横手美智子著の小説版『くじアン』とはシリーズ構成もエピソードも違っているらしい。できればそこんとこの整合性も合わせてほしかった気がするが。1巻に引き続き、全体的に作画演出を「イマイチヘタレ」レベルで抑えているのが見事。これ、あくまで本編劇中の「架空アニメ」なんで、斑目とかが「アレックスとの対決シーンはリキ入ってましたなあ」と批評するクライマックスの一部分を除いて、作画レベルをよくできないのである。予め「手抜きでいい」ことが約束されてるアニメなんて、スタッフは気は楽だったかもしれない(笑)。

2004年05月30日(日) 相手を選ぼうよって話と、韓国の『ヒカ碁』
2003年05月30日(金) 追い込み日記/懐かしの男
2002年05月30日(木) タカリ女の言い分/『東亰異聞(とうけいいぶん)』1巻(小野不由美・梶原にき)
2001年05月30日(水) まるでNENNEのように/『帰ってきたハイスクール!奇面組』(新沢基栄)ほか


2005年05月29日(日) だから酒税は今の十倍でも構わないって/『戦国自衛隊1549』Vol.1(半村良・福井晴敏・Ark Performance)

 話題の『エウレカ7』、チラッと見たけど、それほど“引っかかるもの”がない。1話から見たわけじゃないから何とも言えないけど、キャラクターがデザインに凝ってるワリには内面の方が作り込まれてない気がする。もう何話か続けて見てみないとちゃんとした感想は出せないが、ウラの『ゾロリ』とどっちを見るか、迷うところだ。

 今日の『仮面ライダー響鬼』は十八之巻「挫けぬ疾風」。
 ついに「謎の男」がライダーたちと接触(っつっても会ったのはあきらだけだが)。これがどういう目的だったのかがよく分からない。あきらに「何かした」のか、単なる足止めだったのか。結局オオナマズは倒されちゃったわけだから、足止めだけが目的だったら何の意味もなかったことになる。当然ここは前者であって、あきらの身に今後変化が……って展開になるのが作劇のセオリーってもんなんだけれど、『響鬼』の脚本家陣、あまりそこまで深く考えて脚本書いてない気がしてならないんだよね(笑)。「謎の男」のただの示威行為なんじゃないかな。
 しかしここんとこどんどんヒビキの影が薄くなってきてるのはちょっと気になるとこだね。早いとこバイクに乗せたげようよ。


 マンガ、半村良原案・福井晴敏原作・Ark Performance漫画『戦国自衛隊1549』Vol.1(角川書店)。
 福井晴敏作の小説版も出てたけど、単行本だったので、マンガ版だけを購入。最近はあれこれと出物が多いので、小説は文庫か古本でしか買わなくなってるのだ。映画企画ありきのメディアミックスだから、原作を小説で読もうがマンガで読もうが余り変わらんわな。つか、『亡国のイージス』にしろ『戦場のローレライ』にしろ、福井晴敏の小説って、設定のあざとさと浅薄なイデオロギーが鬱陶しくて、力のある作家さんだってことは分かるんだけど、今一つ好きになれないとこがあるんである。だから思想性なんて皆無の半村良版『戦国自衛隊』(作者本人が「思い付きだけで書いた」とかつて後書きで告白してるんだよな)のリメイクの担当者としては余り相応しいとは思えないんだけど、ほかに角川が頼みにできる作家がいなかったんだろうな。
 その福井晴敏の「原作者あとがき」がまたこの人の「眼の低さ」を露呈していて、作画野―の光吉賢司氏を賞賛するのは構わないんだけれども、それがまあやたら「天才」って表現を連発するものだから、かえって「そこまで誉めるほどのものか?」と首を傾げたくなってしまうのである。確かに構成、作画ともに素晴らしいことは認めるんだけれども、「天才」というほどじゃない。そんなこと言いだすなら、マンガ界は天才ばかりがひしめきあってるって。スタッフに関わってる人間が身内をやたら誉めると「誉め殺し」に終わるんで、そういう機微に気がついてないあたりも福井晴敏がイマイチ信用できないことの一因になってるんである。
 でも実際、「骨組み」ばかりで小説・映画ともに決して面白いとは言い難かった半村良版に比べると、結構面白くはなっている。
 日本各地で発生する謎の虚数空間。このままではこの世界を含む次元空間そのものが無に帰してしまう。その原因は六年前に起きた自衛隊のタイム・スリップにあると判断した技術研究本部の神崎怜は、事件の中心に元陸軍一佐・的場毅が関連していると見抜き、かつて的場の部下であった鹿島勇祐に助力を求める。
 ご都合主義的設定や展開は随所にあって、戦国の世での歴史の改変がどうして平成時代にだけ影響を及ぼしているのかとか(「等価交換」ってことだけじゃたいして説得力のある説明にはなっていない)、更に未来からの干渉がないのなら、この事件自体が実は歴史的にたいした影響を及ぼさないってことなんだから、つまんないじゃないかとか(もちろん、宇宙の歴史が平成で終わっちゃったのなら更に未来ってのはありえないわけであるが)、基本的なSF設定がかなり雑なんだが、ともかく『戦国自衛隊』シリーズは「自衛隊が戦国で大暴れする」アイデアの面白さだけを楽しめばいいのだから、SF設定がどうのこうのってのは気にしたってしょうがない面はあるんだよね。
 笑っちゃったのは、タイムスリップした的場が、すっかり戦国時代に染まっちゃって、喋り方まで時代劇口調になっちゃってること。「戦国の者共よ、これが我が意の声と知れ」「我が想い、どうやら天も関心事らしい! 事は成った!」「久しいな、鹿島」とか、気取り過ぎである。映画もこんな調子なのかね? まあ、超大作映画かなんかと勘違いしないで、B級SFを楽しみに行くつもりで見に行きゃいいかな、ってな印象なんだよね、これは。


 エコ缶さんの練習に参加するので、しげは夕方から外出。
 ひとりのんべんだらりとしていたら、父から電話がかかってきた。「明日から入院するぜ」と言うので驚く。
 「六月からの予定じゃなかったんね」
 「早めたったい。お客さんで、仕事ば続けろって言わっしゃる人もおるけん」
 「姉ちゃんは、店はどげんするて?」
 「さあ。別にやめるとは言わんごとなったけん、続ける気やなかか?」
 なかか、って、ちょいとアンタ。こないだまで店をたたむのなんのと騒いでたのはどうなったんだ、と、ガクッと来たけど、要するに父も姉も仕事は続けたいのである。ちょいとお互いの言葉の“かけがね”が外れかけちゃったんでゴタゴタしたけど、本来、ケンカなんてする必要はなかったのだ。
 まだお互いのシコリが解けたわけではないようなので、予断が許される状況ではないのだが、タダで散髪できなくなるのは経済的に結構イタイので、もちっと店は続けていてほしいのである。
 ともかく明日の早朝から入院ということなので、荷物運びをしげに手伝わせることを約束して電話を切る。
その直後に、また電話。タイミングよく、今度はしげからだった。今しがたの電話の内容を伝えて、父の入院を明日手伝ってくれないか頼む。
 「ああ、それ、ちょっと無理かも」
 「どうして?」
 「今からよしひと姉さんを北九州まで送っていくことになったから」
 「なんでまた?」
 「今日、コンサートで博多に来てたんだけど、そのあと飲んでて終電逃したって。帰りは早くても3時は過ぎるから、朝起きるのは無理」
 父の手伝いがなくとも、もともと朝起きて私の弁当を作ったりするのは日課だったのだが、それもできそうにないとか。とんだ大迷惑だが、確かによしひと嬢を夜の博多の街にほったらかしとくわけにはいかないから、送ってやらなきゃならないのは仕方がないことではある。しげにしたところで断れる状況ではないことは分かるのだが、どうも釈然としない。いざとなっても何とかなるって甘えた感覚がよしひと嬢に全くなかったと言えるだろうか、ということである。
 だから酔っ払いは、といつもの私の言い分を繰り返すことになってしまうのだが、「酒に呑まれる」タイプの人間がなぜ酒を飲むのか、これが私にはどうにも理解できないことなのである。言っとくが私だって昔、大学時代にゼミの宴会で酒を飲んで乱れちまったことはある。しかしそれで自分には酒を飲む資格はないと気づいたから、それ以来、一切酒は飲んでないのだ(挨拶代わりに舐める程度はある)。病気になる以前から、私は禁酒してるんである。
 なんかホントに酒飲みの常識は狂ってるよなあと思うのは酒を過剰に摂取すれば中毒症状を起こす薬物と同等のものだという認識に欠けていることだ。飲酒を禁止できないのは、これが既に社会的に廃絶することが不可能なまでに蔓延してしまっているからに過ぎない。ヘタに禁酒した場合、どうなるかはアメリカの「禁酒法」時代、マフィアの暗躍を許してしまった事実が証明している。
 適度に血行をよくする効果があるからいいじゃないかとか、そんな言い訳はちゃんと「適度に」飲んでる人間が言わなきゃ説得力はない。「何かあっても責任取れない自分」を作りあげといてそんな言い訳をするのは、「どうせそうそう事故やトラブルなんて起こさないさ」と高を括っているだけで、自らの卑劣さに気づかないかあえてそれに目をつぶっているかのどっちかである。「責任取れない事態」になったあとで悔やんでも遅いが、そういう過ちを犯している人間がどれだけいることか。世の中に確かに宗教は必要だよなあと思うのは、ここまで「罪人」が蔓延していれば、彼らを全て裁くことなど不可能で、結局は「赦す」しかないからである。別に赦したいなんてそもそも「非飲酒派」の誰も思っちゃいないんだが。
 それにしてもしっかり者だと思っていたよしひと嬢まで酒に呑まれるタイプだとはなあ。そりゃライブが楽しくて浮かれてたんだろうが、明日の仕事のこともまるで考えてないとは呆れた話である。しげと連絡が付かなかったら、どうするつもりだったのだろうか。道端で寝て過ごすか。どっちかっつーと、ウチに泊まってもらって、朝一番の列車で帰ってもらってた方がこちらは助かってたんだがなあ。
 もっとも、その場合、ウチは地震後の片付けがまだ済んでないので、私としげは車で寝なきゃならなくなっていたと思うが、それでもそっちの方がマシなのである。

2004年05月29日(土) 手術決定&女の子の国
2003年05月29日(木) 追い込み日記/アカデミズムな男
2002年05月29日(水) 管理ってそういうことじゃなくてよ/DVD『絶叫屋敷へいらっしゃい!』/『ガンダムエース』7月創刊号ほか
2001年05月29日(火) ヒステリー・ヒストリー/『オサムとタエ 早春残光編』(村野守美)ほか


2005年05月28日(土) おお・それ・みよ!/映画『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』

 アメリカの俳優エディ・アルバートが26日、肺炎のために死去。享年99。
って、えっ? エディ・アルバート、まだ生きてたの? と、そっちの方で驚いてしまった。つか、この人の訃報、私は昔、新聞で見た記憶があったんだけど、私ゃユメでも見てたんだろうか。確かに横顔の写真まで載ってたって記憶してたんだけどなあ。
 映画ファンにはなんといっても『ローマの休日』での陽気なカメラマン、アーヴィング・ラドヴィッチ役が有名で、これでアカデミー助演男優賞にノミネートされたくらいなのだが、それまでは下積みが長く、1953年当時、既に45歳だったのである。映画を見てるとそんなに老けてるようにはまるで見えないんだけど、それが彼の演技力だったんだろうね。経歴を見ると、サーカスの空中ブランコ乗り(!)から始まって、舞台、ラジオで歌手・役者・声優として活躍した後、30歳でようやく映画デビューを果たしている。本名は「エドワード・アルバート・ハインバーガー」と言ったが、ラジオで名前を「エディー・ハンバーガー」と間違って紹介されたことがあって、ラストネームを省いちゃって芸名にしたのだそうな。
 もともと演技に幅があるのは当然だったのだが、軽妙な役から重厚な役まで自由自在に演じられたものだから、かえって重宝がられすぎてどうでもいいような役まで引き受けすぎていた嫌いがあり、50の坂を越えたころから少しずつテレビ出演が多くなり、映画はとんとご無沙汰となってしまった。
 それでも『刑事コロンボ/ホリスター将軍のコレクション』では権威主義の塊のような老将軍、マーティン・ホリスターを堂々と演じてもいた。犯罪の具体的な物証に乏しいなど、ミステリーとしての本作の弱さを指摘する声は結構あるのだが、これはエディ・アルバート自身が第二次大戦中最も激烈な戦闘であったタラワの戦いに参加しており、負傷した味方の救出に尽力した功績がある事実を踏まえてのパロディ作品なのである。彼自身にとってもこの戦闘は思い出したくない過去だったらしく、本作放映当時(1971年)には完全な沈黙を守っていた。そういう経緯があったからこそ、「なぜ将軍は凶器を隠すことができなかったのか」という謎の解決に説得力が生まれていたのである。
 遺作は日本のテレコムも作画で参加しているテレビアニメシリーズ『スパイダーマン』の悪役ヴァルチャーの声優。空飛ぶ科学者・ハゲタカスーツの爺さんである。ホントに何でもやってるんだなあ。65話中、7話に登場しているが、日本で放映されたのはそのうち2話のみ。最終出演作である“Six Forgotten Warriors Chapter 4: The Six Fight Again”の放映が待たれる。……って、エディ・アルバート目当てで首を長くしてる人が日本にどれだけいるかわかんないけど。


 しげはエコ缶さんの芝居の打ち合わせであ朝からおでかけ。
 昨日に引き続き私は歯医者に行って再び消毒。麻酔が切れると悼みがぶりかえすので、まだ抜糸はできない。
 帰りに「バーミヤン」に寄って、台湾フェアの小海老と卵のビーフンを食する。辛くなくて油濃くもなく、適度に美味い。でも台湾フェアなら台湾ちまき〔肉粽 (バーツァン)〕があってほしいとこだけどね。


 昼に待ち合わせて、映画を見に行くつもりだったのだが、しげはどういうわけか家までエコ缶スタッフのぞのっちさんを連れてきていた。てっきり一緒に映画を見るのかと思ったら、「車でぞのっちさんを家まで送ってあげようとしたら、道に迷ってウチまで着いた」とのこと。
 「ぞのっちさんの家ってどこよ」
 「M」
 「ウチと方向全然逆やん!」
 しげはこうしてしょっちゅうリングワンデルングに陥っているのである。……つか、ぞのっちさん送ったあと、帰りの博多駅までの「一本道」をなぜか脇道に入ってまた迷うしよう。
 おかげで、シネ・リーブル博多駅で映画『機動戦士ZガンダムA New Translation星を継ぐ者』を見る……つもりだったのだが、到着したのが開始時間の10分前で、既に午後1時の回は満席であった。仕方なく次の3時の回のチケットを買うが、これも満席ギリギリ。客が来てくれるのは嬉しいが、座れないんじゃなあ。どうしてもっとでかい映画館でやってくれないのか。
 Yahooの映画投票では『ミリオンダラー・ベイビー』に次いで期待度が2位だったのに、劇場側もリサーチが不充分なのである。
 
 今や信じがたい話ではあるが、本放映時の20年前、テレビシリーズ『機動戦士Zガンダム』第1話『黒いガンダム』を見た友人Kは声を上気させてこう言った。
 「見たか? あの作画レベル! トミノ、絶対劇場化そのまま狙ってるぞ!」
 私はと言うと、「女のような名前」と言われただけでいきなり相手に殴りかかる「キレる若者」(もちろん当時そんな言葉はなかった)、カミーユ・ビダンを見て、その雑なキャラクター設定に引いてしまっていたので、正直な所、作画レベルの話などはどうでもよかった。けれど友人Kが興奮するのも一応は納得できて、当時は「あれでも」劇場アニメ並みの作画レベル、と思われていたのである。つか、たいていの劇場アニメの作画レベルが低かったんだけれどもね。
 今、『ヤマト』や『銀河鉄道999』シリーズなどの劇場版を見ても、最近のテレビアニメシリーズ並みの作画にしか見えない。
 当時はアニメの情報は現在よりもはるかに少なく、断片的にしか入っていなかった。しかもようやく入手した情報は、必ずしも嬉しい情報ばかりではなかった。そもそもマトモなアニメファンならみんな、「続編」と聞いただけで、「『ガンダム』まで『ヤマト』化するのか!?」と、苦虫を噛み潰したような顔をしていたものなのだ。つまり、本放映時から、「別にファンは誰も望んではいなかった」企画なのである。それが、「安彦良和はキャラクターデザインのみで、作画には参加しないらしい」とか、「井上瑤も続編には反対していて、セイラさんの出番は殆どないらしい」とか、初めからいやな情報ばかりが相次いでいた。で、現物がアレである。「『ファーストガンダム』(という言葉も当時はなかったが)しか認めない」というファン層が生まれたのもこの頃からなのである。
 賛否両論が渦巻いた『Z』は、結局、当時は劇場アニメにはならなかった。それなりの人気は博したが、第一作に比べればとても一時代を築いたアニメと言える代物にはならなかった。しかも、アムロとシャアを中心に描いてきた一連の『ガンダム・サーガ』は、いったん、劇場版『逆襲のシャア』で終わってしまっている(それでも尻切れトンボの印象は強いが)。更なる続編、小説版『閃光のハサウェイ』はついに映像化さえされなかった。
 その後の数々の続編、他監督による外伝やパラレルワールド的作品群、「リメイクもどき」などなどが生まれては消えていく中では、もはや『Z』の映画化など、誰が予想できただろう(ゲームで『Z』に人気ガ集まってたことなんて、私ゃ想定してなかった)。
 けれど、逆にその「なぜ今」が、『Z劇場版』にかえって新しい魅力を付加しているようにも思う。本放映時の「なぜ?」は多分に「続編なんてやめてくれ」という気分がファンの間を支配していたが、『∀ガンダム』という「黒歴史の封印」を経た後では、「かつての間違った歴史の修正」もありえるのではないか、「今度の『Z』はハッピーエンドです」というトミノ御大の信じられない台詞にも信憑性があるのではないか、『Z』に幻滅した世代にも何かを期待させるものがあったのである。
 実際には私のような本放映時のファンの殆どは、既に「ガンダムシリーズ」自体から遠ざかっていて、今『Z』に熱い眼を向けているファンは『ファースト』も『Z』も、全て「既にあるもの」として享受している若い世代だろう。情報はあるが、「時代の空気」を知らないのはかえって幸せである。なにしろ彼らは、何の心の葛藤もなく、『Z』を『ファースト』の素直な続編として認められているのである。

 劇場は大混雑だったが、お客は明らかに10代、20代に集中していた。男女比は8:2で男が多く、女性もたいていはカップルの片割れである。一人で来ていた女の子もちょっとだけいたようだが、『SEED』流れの腐女子さんだろうか。まさしく「新世代のガンダムファン」たちである。九州で『Z』が劇場公開されてるのは福岡と熊本だけなので、どうも北九州や長崎あたりから遠征して来ている客もいたようだ。
 チラチラ聞こえてくる会話を聞いていると、たいていの観客が『ファースト』も『Z』もテレビシリーズを見た上で来ている。しかしその会話内容は幼稚で、旧作画との落差とか、どのキャラのデザインは気に食わんとか、そんなんばっかである。脚本や映像演出について語っている連中は殆どいない。オレたちが20代のころにはもうちょっと身のある会話してたよなあとは思うが、それも「葛藤のない享受」をしている若い人たちには無関係な旧世代の愚痴に過ぎまい。

 かつての『ファーストガンダム』劇場版三部作はそれぞれ2時間20分ほどの長尺を要した。しかし今回の『Z』第1作は1時間35分。当然、テレビシリーズ14話分のストーリーを全て語ることは不可能なのだが、ではこれがダイジェスト版になっているのかというとそうではないのだ。これは声を大にして言いたいのだが、本作はあくまで富野由悠季監督による「ディレクタ―ズ・カット版」なのである。だから、「テレビシリーズを見てないとわけがわかんないよ」という批評・感想は、全てこの映画の表面をなぞっただけの浅薄で半可通な意見でしかない(『ファースト』は見てないとつらいだろうが、『Z』を見ておく必要はない)。
 一つ例を挙げるなら、主人公であるカミーユの登場シーン、これが映画では一切使われていないのである。カミーユの映画での初登場シーンは既に拘束された後、脱出のシーンからである。あとでジェリドをぶん殴るシーンが回想としてチラッと出て来はするのだが、なぜカミーユがそんな暴力を振るったのかは最後まで全く説明されない。説明不足じゃないか、と憤慨するのはお門違いで、ティターンズの横暴は再三再四描かれているので、カミーユの拘束も、“映画上では”「民間人が何か軍人から横暴なことをされたのだろう」としか見えない。というか、そう見るべきなのである。
 カミーユがシャアを「そんな大人、修正してやる!」と殴るシーンもカットしているので、当然これは「カミーユはシャアを殴らなかった」と解釈すべきなのだ。見事なくらいにカミーユの「いやな部分」がカットされている点だけを取ってみても、本作が「ダイジェスト版ではなくディレクターズ・カット版」になっている所以であるのだ。詳細はもう語ってたらキリがないから省くしかないが、ともかく全編に渡って、あの「陰気アニメ」がこんなに「気持ちのいい」アニメになっているとは、なんとまあ。
 だから、テレビ版との違いをいちいち挙げることは、本作の魅力を挙げる一助になりはしても、本質を描くことにはならない。恐ろしいことに富野由悠季の演出力は、60の坂を超えてまだ進歩しつつある。これも富野御大がこれまでに映像演出の本を何度となく表しているお陰で理解できるのだが、ラストの延々と続くバトルシーン、『逆シャア』でも『F91』でもその演出理論が優れているにも関わらず具体的な映像としては有効に働かせられなかった失敗、簡単に言えば「誰と誰がどの機体でどうやって戦っているか分からない」状態だったのが、本作では実にスムーズに「分かる」のである。
 一つはあの「画面切り取り」の演出がスライド式に変わり、唐突で説明的に見えていたのが軽減されスムーズに見えるようになったことも大きいだろう。単純に見えるが、あれは面白いアイデアではあったが、実は映像の流れをかなり滞らせていた。
 しかし工夫はそれだけでなく、カットからカットへ移行するときのモビルスーツの動線が「見えるようになった」ことが一番の進歩だと思う。
 我々観客は映画をただ漫然と見ているだけなわけではなくて、「この先、このキャラクターはどう動くのか」、その「動線」を予測しつつ見ている。例えばそれは視線の動きも含めてそうで、あるキャラが右を向いたとき、その相手は当然左に位置していなければならないわけで、それは、映像演出の基本中の基本である。テレビサイズの演出と映画サイズの演出では、その「動線」の作り方が違うのだが、最後のバトルシーンを全て新作画にしなければならなかったのは、まさしくこの「動線」の処理のためである。単純に上下の絵を切って、横広にすればいいわけではないのだ。『逆シャア』などはそれをテレビサイズ感覚でやってしまったために、動線が見えず、誰がどう戦っているのかよく分からなくなっていたカットも多かった。それが今回のバトルシーンでは殆ど見られないのである。
 二者の対決だと動線は比較的作りやすいのだが、三者以上になるとなかなかに至難のわざとなる。「シャアの乱入」と言う、そのカットだけは「わざと」動線を無視するが、それ以外、本作では全てこの動線がきちっと計算されているのだ。ロボットアニメの歴史上、これだけ複雑な空中戦を観客を混乱させずに見せてくれた例を私はすぐに思い出すことができない。『マクロス』の「板野サーカス」だって、カメラが追いかけているのは実はバルキリー一機だけだったりするのだ。このラスとバトルの美しさを見るだけでも、本作を見る価値は充分にある。
 でもって、最後はアムロとシャアの再会でパート2に続くのだが、この空中シーンでの夕陽に輝く二人のきらめきぶりは、富野演出初の「萌え」シーンと呼んでいい。空中で殆ど言葉も交わさず見つめあっているだけなのに、二人には確かに心の交流が存在しているのだ。それは第三者であるカミーユを二人の再会の「目撃者」として配置し、「ただならぬもの」として認知させることで「萌え」感覚を観客にも誘導しているのだ。何ちゅー演出をあのトシでなされるかね。「なんか巷では『ガンダム』の名を騙った萌えアニメが幅を利かせてるらしいな。でも俺に「萌えアニメ」を作らせたらこうだぞ!」と叫ぶ御大の雄叫びが聞こえてきそうである。もう刻(とき)が見えちゃってますって(笑)。
 ……しかしオタクも変わったねえ、というのは、字幕が流れだした途端に立ち上がる客がかなりいたことだ。字幕を見ないオタクがオタクと言えるか! それに『供戮陵醜霾圓世辰討舛磴鵑販れたんだぞ! サブタイトルが「恋人たち」だと!? もう御大、どこまででも行くつもりだぞ!! やっぱ若いやつに『Z』は渡せんよなあ。
 というわけですんで、今んとこ劇場アニメでは今年No.1な本作をアニメファンならぜひとも見ましょう。で、薄いウンチクを劇場でくっちゃべるな。

2004年05月28日(金) 神経科に行こう!&デジモン新作
2003年05月28日(水) すっ飛ばし日記/耽美かヤオイな女たち
2002年05月28日(火) 素敵なあなた(はあと)/CD『ぼういず伝説』/『コメットさん☆』DVDBOX2ほか
2001年05月28日(月) 才能がないなんて言い訳だ/DVD『チャーリーズ・エンジェル』


2005年05月27日(金) 虫歯が痛いよ/『探偵学園Q』20巻(天樹征丸・さとうふみや)

 この日記、わざと「だである」文と「ですます文」を混ぜて、記録的な意味合いとお客様への語り口調とをないまぜにして書いてるんですが、別に文体の統一ができないわけではありません(笑)。
 日記なんだから、基本的には前者で書くのが普通だと思ってたんですが、ふと世間の日記さんを見渡してみると、語り口調の日記のほうが圧倒的に多い。そうか、みんなそんなに自分の日記を読んでもらいたいのか、とネットにおける「日記」が通常の「日記」とは意味合いが違うことを再確認いたしました(別に悪口じゃないからね)。
 私なんぞは、語り口調を多用しちゃうと、文章がどうしても「落語風味」になっちゃって(「私なんぞ」と書き出しちゃうのが既にそうですね)、いや、お喋りそのものなら早口で一気に言っちゃうから、さほどモタモタした印象にはならなくてすむんですが、書いたものを読んでもらう場合にはただ文章が長くなるばかりですから、鬱陶しいだけだろうなあと、できるだけ避けるようにしてたんですね。それにどんなに「言文一致」を試みたところで、結局、自分のモノホンの喋りと文章とは一致しないんですよ。「語り口調風文章」になるばかりで、どこかね、目の前の相手に語りかけているように見えて、ホンの少し、視線が逸れているというか、宙を泳いでいるようなものになってしまう。「独り語りの傲慢さ」とでも言えばいいような雰囲気が漂ってしまうんですね。「落語口調」というのは実はそれを回避する有効な手段の一つなんですが、二葉亭四迷の『浮雲』なんかを読んでみると、円朝の速記本を参考にしたと言いながら、だからこその「混乱」があちこちに表れてしまっています。まんま落語口調で書いちゃえばいいところを、そこから離れて新たな「語り文体」を開発しようとしたところが急に堅っ苦しくなっちゃって、周囲の文章から浮いちゃって、その「傲慢さ」が目立っちゃってるんですね。エリート崩れはこれだから(笑)。
 日頃の私は、他人の言によればかなりぶっきらぼうで無粋で、更にシニカルで余計なヒトコトが混じるんで、耳障りらしいです。亡母には大竹まことにそっくりと言われてましたが、これは喜んでいいのか悲しむべきなのか(苦笑)。自分じゃ全然似てないと思ってるんですがね。お前の書く文章っていやらしいんだよ、と感じていらっしゃる方も多いとは思いますが、ナマじゃない分、まだ「毒」は薄められてますんで、この程度でごカンベンいただければありがたい限りです。

 でまあ、今日に限ってどうしていきなり語り口調に変えちゃったかと言いますと、冷静に書いちゃうとやたら悲惨な印象になっちゃいそうだったからでして(笑)。
 夕べ、映画の帰りにコンビニに寄ったんですよ。私の場合、糖尿だし結石できやすい体質だし、一日の水分の消費量が結構嵩みますんで、しょっちゅうお茶だの水だの飲んでなきゃなんないんですね。で、帰ってきて早速、がぶっと水を飲んだと。
 そしたらまあ、途端にとんでもない激痛が左顎に走りまして。いやもう、脳天をつんざくくらいのオソロシイ痛みで。要するにムシバの痛みなんですが、これまでもたまにズキッと来たことはあったんですが、それがどうやら神経の深いとこまで達しちゃったらしい。痛んでる箇所がちょうど歯と歯とのスキ間だもんで、どうにも処置の仕様がない。正露丸詰めようにもそこまで届かないわけです。
 どうしたら痛みが治まるかというと、冷たい氷を口に含んで患部に当ててれば、一応は治まる。けれど、氷が溶ければ元の木阿弥です。仕方がないのでどうしたかって言うと、風呂に入って、口の中にシャワーで延々と水を流し続けた。いやホントに「一晩中」です。だって痛くって眠ろうと思っても眠れなかったんですから。その間、しげはずっと寝こいたままです。
 朝になって、私が風呂で一晩過ごしたことに気づいたしげが、「そんなに痛いなら、オレを起こしてくれればよかったのに」と言いました。
 「お前を起こしたら、どうにかなったのかよ?」と聞いたら、「そりゃ何もできないけどね」と言い返されました。だったら起こす意味なんてないってもんです。どうせ本当に起こしたら、「せっかく寝てたのに、どうして起こしたん!」って文句言うに決まってますから(涙)。
 結局今日は、トテモ仕事に出られる状態ではなく、早朝に歯医者に出かけて行って、奥歯を抜いてもらいました。知り合いの歯医者さんで、正直な話、ちょっと藪なんですが、一番近場の病院だったので背に腹は変えられなくて。取ってもらった虫歯は記念にもらいました。こういうの、しげが見るのが好きなんですよ。棄てちゃうと文句言われちゃうんですね。実際に見せたら、「穴が空いてる1」と喜んでました。そりゃ虫歯ですから、穴が空いてるのは当然です。英語では虫歯のことをストレートに“Cavity(穴)”と言いますしね。こういうところもしげは感覚がヘンです。屋根に棄てたってまた生えてくるわけじゃなし、何で取って置かせたがるんですかねえ。

 朝になってようやく眠ることができたので、夜まで爆睡しました。ですから今日書くことは本当はほとんどありません。日記の更新もとてもできる状態ではありませんでした。一度更新が滞ると、あとが続かなくなるのでそれは避けたかったのですが、いかんともしがたい運命に苛まれることはあるものです。
 日頃ちゃんと歯は磨いてたのか? と言われそうですが、もともと乱杭歯なんで、どんなに丹念に磨いても、子供のころからしょっちゅう虫歯にはなってたんですよ。以前の治療からかなり時間が経ってたとこなんで、今回は結構、持った方です。


 金曜エンタテインメント特別企画『空中ブランコ とんでも精神科医伊良部一郎登場』。
 奥田英朗の直木賞受賞作のドラマ化、ということで、放送前から結構リキの入った宣伝がされたんじゃなかろうか。いつもより放送前の予告編CMも多かったような印象である。……でも実は私、この原作読んだことなかった、というか、存在自体知らなかった(苦笑)。
 調べてみたら、この『空中ブランコ』って、サブタイトルにある通り、いい加減で自分勝手でドデブな精神科医が、なぜか患者を次々に治療できてしまうという「とんでも精神科医・伊良部一郎」シリーズの第二弾で、既に『ヤングチャンピオン』でコミック化はされているわ、一作目の『イン・ザ・プール』も『シティボーイズ・ライブ』や『トリビアの泉』の三木聡監督によって映画化されているわと大人気で、こりゃもう知らなかったこっちのほうがモノシラズなのであった。
 主人公の伊良部一郎の外見的なイメージは原作とは全く違うようだが、主演の阿部寛、ヒゲヅラでなんとなく不潔っぽいメイク、長身なのを猫背になって胡散臭い雰囲気を出し、若干ひきつけたような低い声で笑い、たまに何かに取り憑かれたように目を剥いたりもする、これじゃ患者より本人の方が精神的にどこかおかしいんじゃないかと感じさせる演技は、『トリック』の上田次郎をほとんどそのまま踏襲している。だから新鮮味がないと言えばないのだが、阿部寛ファンにはこれで充分だろうと思われる。原作ファンが怒るかどうかは知らないが。
 ストーリーは、原作の短編集からいくつかセレクトしたものを一本にまとめたもののようで、突然ジャンプが成功しなくなって“不眠”で悩む空中ブランコのフライヤー・山下公平(堺雅人)、尖端恐怖症のヤクザ・猪野誠司(遠藤憲一)、誇大妄想で自意識過剰なモデル・安川広美(佐藤仁美)の三人を伊良部が「同時治療」していく。まあ、そのまとめ方はまずくはないがうまくもないといったところ。脚本の橋本裕志はテレビアニメの脚本も多いが、原作付きアニメの「引き伸ばし」を長年やってると、こういう「可もなく不可もなく」な脚本しか書けなくなる。いや、そうなっちゃった時点でこれはやはり「不可」だろう。原作じゃ多分3人の間には何の関わりもなかったと思われるが、それを中途半端に絡ませているから、ドラマの焦点がぼやけてしまっているのだ。かといってこれを深く絡ませようと思ったら、オリジナルな展開をかなり増やさなきゃならなくなるから2時間ワクじゃまず収まらない。もともと2時間ドラマよりも連ドラ向きの企画なのである。
 確かに「面白くなりそうな」要素は多々あって、カウンセリングでやってきたのに、伊良部の治療はいつもビタミン注射だけとか、患者の男の子のお母さん(未亡人)にアタックしたりとか、いったい治療のためなのか単に自分がやりたいだけなのか、「空中ブランコ」を特訓し始めたりとか(原作にもある設定だったら、デブなだけにすごい迫力だろうなあ)、これがミステリーならドーヴァー警部や吉田茂警部補、大貫警部も裸足で逃げ出すほどの傍若無人ぶりだ。けれどその個性が今一つ際立って感じられないのは、要するにドラマ作り自体が全体的に薄っぺらで絵空事めいてしまっているせいだと言えよう。こういうトンガッたキャラクターを魅力的に描くためには、たとえ周囲の人間が心を病んでいてもそれをリアルに描かなきゃならない。堺雅人はまだそうでもないが、遠藤憲一や佐藤仁美の演技はちょっと過剰で切実感がない。そもそも脚本や演出の段階で「ドラマにし損なっている」シーンが多々あって、例えば佐藤仁美が鏡を見て自分の美しさに見惚れるシーンなど、ここにキラリーン、なんてエフェクトをかけちゃうものだから台無しなんである。妄想を全て映像化すりゃいいってもんじゃない。こんな効果を入れられたら、佐藤仁美はただの馬鹿ってことになっちゃって、視聴者が同情できなくなるじゃないか。監督に「これは病気の人を扱っているのだ」という自覚がないせいでこんな事態が起きるのだ。監督の村上正典、映画の『電車男』も監督してるそうだけど、ちょっと見に行く不安材料が増えちゃったなあ。
 「伊良部一郎シリーズ」が金曜エンタテインメント枠で今後も続くのなら、脚本や演出をもうちょっと考えてもらった方がいいと思うが、テレビの予算じゃそれは無理かな。意外によかったのは、看護師・マユミ役の釈由美子で、色気たっぷり子ちゃんなのだが、トンデモキャラクターばかりの中で、多分この子が状況を一番冷静に把握しているのである。なぜなら、周囲の右往左往をただ見ているだけで何もしない(笑)。まああれだね、『チキチキマシン猛レース』のケンケンの位置にいるキャラか。台詞もほとんどないのだが、ないからこそまたいいのだ。


 マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』20巻(講談社)。
 どうやらそろそろ最終章が近い雰囲気なので(終わったら金田一少年を再開するつもりなんだろうな)、まああまり貶すようなことも控えようと思うが、今回収録の特別番外編『盟探偵ケルベロス編』にも類似の先行トリックを使った小説があることは指摘しとかなきゃならないし、ケルベロス自身が「稚拙なトリック」と言った通り、あんな方法じゃ証拠隠滅はできないよ。相変わらず最後のどんでん返しが「こんなことなら殺すんじゃなかった」って「犯人の勘違い」で終わるのも興醒め。
 本編の方は団先生が倒れて、天草流が復讐鬼への道をたどるのかどうかというところでサスペンスを盛り上げようとしているけれども、少年マンガで一方のヒーローを本気で悪の道に走らせるわけにゃいかないわな。どこかで引き返すか、催眠効果で自分の犯罪に気が付かずにいたから無罪ってことになるか、実は初めから祖父のキング・ハデスに対抗するつもりでいて罪は犯さずにどんでん返しで終わるとか、天樹・佐藤コンビはもうこれまでありふれた展開しか描いてこなかったから、こんな陳腐な展開予想しか浮かばない。で、多分どれかで当たってるんだよ、きっと。
 それはそれとして、“冥王星”キング・ハデスの本名が「国王星彦」ってネーミングセンス、何とかならんのか。

2004年05月27日(木) 「義理」もまあ、ありがたいけど。
2003年05月27日(火) すっ飛ばし日記/メジャーかマイナーな男たち
2002年05月27日(月) また仕事休みました。/『コメットさん☆』DVDBOX/『ああっ女神さまっ』24巻(藤島康介)
2001年05月27日(日) 今度の芝居のキーワードは「裸」です/『ヨイコ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか


2005年05月26日(木) チェーン店も消える/映画『バタフライ・エフェクト』

 2、3ヶ月に一回くらいの割合で食事していた「一番カルビ」の諸岡店、今月いっぱいで閉店が決まったそうで、20%割引の案内が来ていた。
 街が様変わりしていくのは時代の変遷というやつで致し方がないことではある。近所を見回してみても、私が子供のころから親しんでいた店だの食堂で、今も残って営業中、なんてところは数えるほどしかない。「代替わり」というものが現代ではほぼありえないことになってしまっているので、「老舗」の店なども一代で立ち消えていくしかない。かく言う我が家も、不肖の息子が床屋を継がなかったために、曲がりなりにも髪結床の昔から続いてきていた床屋の家系(母方)がついに途絶えてしまった(親に詳しく聞いたことはないが、江戸の昔から少なくとも三代か四代かは続いていたのである)。しかし今や床屋という職業自体が法改正により絶滅してしまっているので(現代の理容師は昔の床屋とは別物で、剃刀を砥ぐ技術もない)、私が継いだところで焼け石に水、どうにもならなかったのが現実であろう。
 それやこれやの「商店街」の存続が危ぶまれている原因は、一昔前ならスーパーマーケットやらショッピングモール、チェーン店といった巨大資本の進出のせいにされていたものだったが、気がついてみたら、そんな巨大資本も、一時の乱立状態から緊縮整理の方向に進んでいる。しげが以前勤めていた空港通りの「モスバーガー」、ここも最近潰れてしまっていたが、一見順調そうに見えていた焼肉業界も、実情はなかなか厳しいものがあったのだろう。「一番カルビ」が開店したのは数年前だったと思うが、撤退があまりにも早い。同じ筑紫通りに「ウエスト」もあれば「焼肉のさかい」もあるので、結局は淘汰されたということである。だいたい、福岡には焼肉屋ばかり多すぎるのである。
 せっかくの割引券を無駄にするのももったいないので、仕事帰りに待ち合わせて「一番カルビ」に。「たらふくセット」とかいうのを頼むが、鶏肉とホルモンを焼いているうちに、ロースにカルビは全てしげに食われた。いつもは自分ばかり高い肉を食ってちゃ悪いかと、5枚に1枚くらいは私にも譲ってくれるのだが、今日は全くなし。よっぽど肉に飢えていたのだろう。もちろん、しげは毎日肉に飢えているので、さして不思議はないのだが、ちょっとばかり心が落ち着いていないのかもしれない。


 ダイヤモンドシティ福岡ルクルで、映画『バタフライ・エフェクト』(注意・ラストのネタバレあり)。
 タイトルは例の「カオス理論」による「バタフライ効果」のことで、北京だったかブラジルだったかで蝶が羽ばたくと、アメリカで嵐が起きることだってある、という「風が吹けば桶屋が儲かる」式の考え方を示したもの。
 要するに「何がきっかけで運命が変わるか分からない」ということで、それを時間SFと絡めたところがミソと言えばミソである。
 主人公の大学生・エヴァン(アシュトン・カッチャー)は、少年のころ、心神喪失状態に陥り、記憶をなくしてしまう癖があった。今ではごく普通の生活を送っていたエヴァンだったが、七歳のころからつけていた日記を発見して、失われた記憶を取り戻そうとかつての友人たちに会おうとする。
 精神病院に隔離されていた父の死に、自分は何か関係していたのか? 初恋の相手・ケイリー(エイミー・スマート)と地下室でビデオ映画を撮ったとき、何が起こったのか? イタズラで郵便箱に仕掛けたダイナマイトは爆発したのかしなかったのか? エヴァンを眼の敵にしていたケイリーの兄・トミー(ウィリアム・リー・スコット)は、エヴァンの犬を本当に焼き殺したのか? 故郷の町を去ったエヴァンは、ケイリーに「君を迎えに来る」と約束していながら、それらの謎を放置したまま13年を過ごしてきていたのだった。
当時のことを聞き出そうと、友人のレニー(エルデン・ヘンソン)を訪ねたエヴァンだったが、彼はもうずっと心を閉ざして家に引きこもったままだった。エヴァンは思い余って、ケイリーに再会したが、それが彼女を精神的に追い詰め、自殺に追い込んでしまう。そのショックが、エヴァンに「過去を変えたい」という強い思いを抱かせることになった。日記を凝視するエヴァン。その眼に映る日記の文字がぐらぐらと揺らぎ始める……。
 結局、「過去を変える」という時間SFの定番ネタなんだが、その手の作品をたくさん読んだり見たりしてきた人には「今更」感が強いだろう。それに、小説と違って映画だから詳しい説明が省かれてしまうのは仕方がないのかもしれないが、タイム・パラドックスの問題があまり深く考えられていないのが気になってしまう。
 エヴァンは過去を変え損なっては再び時間軸を遡るのだが、一本目の時間軸と次の時間軸が同じものなのかそうでないのか、そこが判然としていない。普通に考えれば“過去が変わってしまっている”のだからそれぞれの時間軸はあくまで別のもので、たとえエヴァンが過去を変えたつもりになっていても、それは本人が枝分かれした別の時間軸に飛び込んだだけのこと、「過去を変えることができた」とエヴァンが思っているのはただの自己満足に過ぎないのである。もともとの時間軸では、ケイリーはあくまで死んだままだ。だからそんなことに気づきもしないであっちこっちの世界を行ったり来たりしているエヴァンは底抜けの馬鹿にしか見えない。主人公に感情移入ができないから、全編、不快感が続くばかりでちっとも面白く見られないのである。
 パンフレットではSF作家の梶尾真治氏が本作に影響を与えたと思しい先行作品を挙げているが、殆どラストシーンの演出がそっくりそのままな、アノ時を駆けちゃう日本映画を挙げないのはどうしてなのかなあ、と思っていたのだが、どうやら梶尾さんが見た本作と、実際に公開された映画とはラストが違っているらしいのだ。
 これは二者を比較しなきゃなんないからもうあえてネタバレしちゃいますけど、劇場公開版はエヴァンがケイリーと出会うこと自体を回避して運命を変えて終わるのに対して、ディレクターズ・カット版はどうも創世記にまで遡っちゃうみたいなんですね。そこまでせにゃあ、運命は変えられんものだったのかとちょっとオドロキだけれども、無難でありふれた終わり方しちゃった公開版よりも、そっちのほうがトンデモでかえって面白かったかもしれない。テレビ放送するときはぜひ、オリジナル版のほうを放送してもらいたいものである。

2004年05月26日(水) 不安なことばかり。
2003年05月26日(月) すっ飛ばし日記/宍戸錠な男
2002年05月26日(日) マクド&マクド/『濃爆おたく先生』2巻(徳光康之)/『韃靼タイフーン』4巻(安彦良和)ほか
2001年05月26日(土) 恐怖! ウワバミ女の逆襲(完全版)/『人造人間キカイダーTRIBUTE』


2005年05月25日(水) 「『創氏改名』は嘘ですから」は嘘ですから/『メンタル三兄弟の恋』パート2

(昨日の続き)
 
 「リフトの上の3人の詩人」
 途中で停止してしまったリフトの上で、することもなく3人の詩人が詩を口ずさむ。
 大竹「いつ動くんだ」
 きたろう「空、どうしようもなく空」
 斉木「雲ただただ雲」
 大竹「いつ動くんだ」
 斉木「今、我ら詩人にできることは、詩を作ることだけ」
 きたろう「ここが宇宙の入り口かもしれない」(「出ちゃったね詩が!」と斉木が誉める)
 斉木「このリフト 僕のタイムマシンさ」(二人、「だせえ」と嘆息する)
 大竹「リフト・イズ・デッド リフトは死んだ」(「何言ってるんだ」と自分突っ込み)
 斉木「ほどほどにねえー」
 大竹「何してるんですか?」
 斉木「溶かしているのさ、言葉を。ちっくたっくちっくたっく、ぼーんぼーん」
 大竹「銀河鉄道のリフト」
 きたろう「リフトは釣り針 俺たちは餌」
 斉木「リフトは山の回転寿司 俺たちは寿司」
 きたろう「リフトはクレーン 俺たちは景品」
 大竹「いつ動くんだ!」
 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」
 大竹「空にピン止めされた 老人コレクション まだ三体 今ほしい 永遠のように長い 一本の針金」
 きたろう「針金ならば5メートルあれば アトモスフィア」
 大竹「(きたろうに)おまえの背中は小作農」
 斉木「俺の背中は航空母艦」
 大竹「お前の肩 ショルダーバックがなぜ落ちる 背中の丸みは縄文人」
 斉木「お前の背中 今すぐ見たい」
 大竹「お前の背中 カナブンみたい」
 斉木「カナブンよ 今すぐリフトのスイッチにぶつかるがいい」
 大竹、すぐ後ろのリフトの座席が壊れるのを見て、焦って「一つおきだったらいいなあ」と歌う。もちろん、その前にいるのはきたろうさん。
 斉木「一生このままだったらどうしよう」
 きたろう「急にモテたらどうしよう」
 斉木「今、詩人にできるのは、詩を作ることだけ」
 きたろう「空、どうしようもなく空」
 斉木「雲 ただただ 雲」
 大竹「風」
 斉木「ネピア」
 きたろう「クリネックス」
 大竹「スコッティー」
 斉木「エルモア」
 きたろう「エルエール」
 大竹「バンビックス」
 三人「フォクシー!」
 思わず「詩」を全部紹介してしまったが、日記にポエムを載せるなら、こういう詩を作りたいものだね(笑)。
 
「スキル王とメンタル王」
 水が吹き出ていて今にも決壊しそうな堤防を、二人の王が何とかしようとするが、どちらも帯に短したすきに長しで役に立たない。スキル王は助ける技術はあるけれど心が弱くて何もできない。メンタル王はイメージトレーニングだけで実行力がない。
  虎(のハクセイ)に食い殺されかけている大竹をきたろうが救うのだが、大竹さんがいくら「助けてくれ〜!」と叫んでも、きたろうさんは「意地悪して」反応しない。おかげで大竹さんは間が持たずに「メンタル王って人はいないのか!」と叫ぶ羽目に。アドリブな意地悪だが、実際の舞台でこれをやっても嫌味にならないのはきたろうさんの芸の力というものだろう。一見、何もやってないように見えるんだけどね。

 「逃げる警官」
 イカレた男(中村)に襲われた二人の警官(大竹・きたろう)が逃げて逃げて熱海まで辿りつく。これも実話を元にしたスケッチだとか。
 宿屋の一室でテレビを見ると、どこのチャンネルでも「恥さらし警官逃げだす!」のニュースをやっているのに、テレビ東京だけがアニメをやっているというギャグが秀逸。これは殆ど生版と変化はなし。

 「定食屋のパチンコ」
 店の前で、客が入るのを待っている店主の斉木。けれどちょうど「3人」が揃わないので、なかなか店の中に入ってきてくれないのである。
 最後のスケッチのわりにはもう一つの出来か。

 カーテンコールの舞台挨拶で、中村さんが「小倉と博多は仲が悪い。小倉は博多のことを『何をカッコ付けてるんだ』と思ってる」と紹介していたのに大爆笑&大拍手。地元の人間もよく知らない人が多いが、北九州は言語的には山口県に属しているので、実は九州ではないのである。地元を茶化されてもかえってヨロコブ難儀な性格はそっくりなんだけどね。

 芝居を見終わってロビーに出てみると、なんと下村嬢の姿が。しげには見に来ることを知らせていたらしいが、私は知らされてなかったのでビックリである。「面白かったでしょう?」と感想を聞いてみたが、どうもイマイチだったらしくて、困ったような表情をされる。そういうときは正直に言えばいいんだけど、なんかみんな遠慮しちゃいがちだね。自分の好きなもの貶されて怒るほうが傲慢なんだけどな。

 小倉駅でよしひと嬢と別れて、一路博多へ。
 ギリギリ最終のバスに間に合って、帰宅は11時近く。
 テレビを点けたら『NHKスペシャル』で、『放浪記』の森光子の特集を放映していた。「自分以外の誰に林芙美子が演じられるものか。やれるものならやってごらんなさい」という言葉は傲慢に聞こえかねないが、森さんの口から流れてくると説得力があるのでまるでイヤミに聞こえない。これが「芸の力」というものだろう。
 おかげでしげが「自分なんかが芝居をやっちゃいけないのかなあ」と落ち込む。そう言いながらも芝居をやらずにはいられないのがしげの業というものなので、悩むだけ時間の無駄である。根気も記憶力もないくせに、芝居に関してだけはなぜか「継続力」があるようなのが不思議なのだが。



(これより25日の日記)
 しげは今日は一人で『メンタル三兄弟の恋』を見に行っている。平日の昼公演なので、当然私は付いて行けない。なんたって全公演の楽日だから、どんな舞台になっているか想像もつかない。行きたい気持ちは山々なのだが、仕事を休んでまでは行けないんだよなあ、なんて良識的な判断をしてしまっているのはオタクらしからぬところであるが、だからもうオタクなんて名乗るのは返上したっていいかもしれない。
 帰ってきたしげに話を聞いてみたところによると、昨日の芝居ともかなり違ってるところがあったそうな。まずはきたろうさんがやたらコケていたとか(笑。いや、笑っちゃいかんか)。「余った時間の使い方」コントでは椅子につまずいて転んでかなり間が変わっていたそうだし、「3人のカウンセラー」でも、小山崎さん(中村有志)の留守電を聞きに行こうとして、やはり椅子に躓き、いつもは「あー、うー」としか吹き込まないのに「転んじゃった」と吹き込み、そのあとの「何にも言えなかった」の台詞が「全然別のこと言っちゃった」と変わってしまったらしい。本当は「何にも言えない」のでなければ、次のオチに繋がらないのだが、それでも会場は爆笑だったようなので、結果オーライというやつであろう。
ほかにも、「チャーハンショー」に演出の細川徹さんが飛び入り出演していたり、「武装サラリーマン」の中村有志さんが大熱演で拍手喝采だったり、一日経っただけでも相当違った印象になっていたようだ。やっぱ芝居はナマモノだからねえ。まさしく一期一会。高いカネ払って見るだけのことはあるんである。
パンフレットを買った人だけが見ることのできる(っつってもパスワードをネットでバラしてる馬鹿野郎もいるようだ)ひみつ(「ひみつ」はひらがなだっ!)サイトを覗いてみたら、小倉の町を気に入ったこと、来年も来たい旨のことが書かれていた。ぜひとも実現を。


 なんか、お気に入りの日記を回っていて、ちょっとウンザリしたこと。
何度も「政治的なことはあまり書きたくないなあ」とこの日記にも書いちゃいるのだが、歴史の事実というのはこうも消えていくものなのだねえ、と実感したもので。
 何のことかと言うと、「戦時中の朝鮮人の創氏改名は強制されたものではなかった」という主張がされていたのだね。その根拠というのが、「創氏改名は申告制だったから」というので思わずずっこけちゃったのだけれども、この人は「申告しなかった朝鮮人がどういう目に合わせられるか」ということに想像がまるで至らないらしい。
 日韓併合は双方の合意の上になされたんだから、創氏改名も施行上は当然「申告制」になるわなあ。けどそこで気が付かなきゃならないのは、そもそもなんで「創氏改名」をしなきゃならなかったのかってことで、その人の主張する「氏(ファミリーネーム)を持たない朝鮮人に氏を創らせた」ってのは、大嘘なんである。当時も朝鮮人はみんな姓(厳密に言えば「姓」と「氏」は違うんだけど、とりあえず同じものということで話を進めます)を持ってたよ。ただ、一族みんな「金」さんとか、朝鮮人の名字数は日本人に比べれば圧倒的に少なかったので(この「名字が少ない」「戸籍が整備されていない」というのが、「朝鮮人には姓がない」というデマを生んだのである)日本人の感覚からすれば区別が付かず「金田」「金本」「金山」とか名前を付けて区別しようとした。そこには「五族協和」と言いつつ、実際には「みんな日本人になっちゃえばサベツがなくていいじゃん」という意識が働いていて、日本人は“みんなに優しい”政策のつもりでいたけれども、朝鮮人の民族としてのアイデンティティーを踏みにじってることに少しも気づいていなかったのだ。
 現在でも、別に「強制」されてるわけでもないのに、多くの在日朝鮮人が「日本人名」を通称として使ってることをこの人はどう考えているのかね? 「それはその朝鮮人に勇気がないからだ」で済ませるか? “日本人にならないと”どれだけの差別を受けるか、知り合いに一人でも朝鮮関係の人がいれば気づいてておかしかないんだけどねえ(本名でがんばれ、というのは理想論で、人間、みんなそんなに強いやつばっかりじゃないのだ)。過去のことは知識としてしか知らないとしても、目の前の現実も見えてないという点で、この人は情けないくらいの馬鹿なのである。
 逆の立場で考えてみて、「日本人、明日から、名字を朝鮮名に変えなさい。でも強制じゃないよ。申告制よ」と言われて、「なんてありがたい申し出なんだ!」って思えるかね? 思えるんだろうなあ、その人には(その人に言わせれば、「当時朝鮮人の位置付けは中国人より下だったので、日本名改名希望者が殺到した」んだそうな。で、その「位置付け」とやらは「誰」が決めたの?)
 さらには「将校で朝鮮名のまま活躍した人もいた」と主張しているのだけれど、ここまで来ると、イデオロギーに凝り固まって思考力自体をなくしてしまっているとしか思えない。あのね、それはね、「将校」だからこそ、創氏改名はされなかったのだってことなんだよ。つまり、「日本に協力している朝鮮人」として「広告塔」に使われてたのよ。
 その人の言によれば、「朝鮮人の誰もが日本名に改名したがっていた」ということだけれど、だったらどうして、朝鮮人の代表ともいうべき「将校」が創氏改名していなかったのかな? 自分で書いててこの人はその「矛盾」に気が付いていないのだ。「広告塔に使われてた」という理由に納得が行かないのなら、将校本人たちが「朝鮮人のアイデンテイティーを失いたくなかったのだ」と解釈してもいい。けれど、どちらの理由で解釈しても、「創氏改名」が当時から「代表的な朝鮮人には拒絶されていた」という事実がハッキリ見えてくるのだ。
 史料にこだわる人は往々にしてその背景にある人間心理の機微を見落としがちなのだけれど、それにしてもこれはひどい。こんなに人の気持ちを推し量ることができない人が、政治や国家を論じようってんだから、全く情けないやら馬鹿馬鹿しいやらなのだが、困るのは、こんなにアタマが偏っちゃってる人の書いてる内容を読んでも、少しもウソを見抜けない人は世の中には結構いて、簡単に「日本は朝鮮にいいことばかりしたんだ」と思いこんでしまうことである。現在までの北朝鮮・韓国の反日政策に批判的な人だって、この「創氏改名」については「やるべきじゃなかった」って思ってる人は多いんだけど、そういうことも知らない。結果、馬鹿な言を吐き散らして、「日本人、反省しない」の印象を裏付けてしまうことになるのである。
 私だって、今の北朝鮮・韓国は圧倒的におかしい、と思ってはいるが、だからと言って、「日本には過去に一点の曇りもない、日本が反省すべきことは何もない」とばかりに事実を捻じ曲げてまで自己主張したいとは思わない。つか、「平和な現代」ですら、日本国中にありとあらゆる不祥事が蔓延しているのを目の当たりにしているのだ。ましてや、戦時中、日本人が常に冷静かつ紳士的に行動していたなんて幻想、誰が信じられるもんか。
 小泉首相は靖国参拝していいし、呉儀副首相の会談キャンセルには厳重抗議していいし、扶桑社の教科書を採択する自治体があっていいと思うけれど、「創氏改名」を正当化しようってのはもう相当アタマがイカレているのである。誰が何書いたっていいから別に当人に抗議する気なんかないが、どっちの言い分が正しいかは、それこそ読んだ人が自分の頭で判断してちょうだいね。

2004年05月25日(火) 『バナナがすきな人』&また来た首吊り。
2003年05月25日(日) すっ飛ばし日記/エロくて見せられない女
2002年05月25日(土) サヨナラを言いたくない人/『真・無責任艦長タイラー外伝 LOVE&WAR』(吉岡平・森小太郎)ほか
2001年05月25日(金) ドームにぃ、轟くピンのぉ音ぉ♪/『ウインドミル』11巻(橋口隆志)


2005年05月24日(火) 死者にムチ打て/『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』パート1

 葛飾北星原作・浦沢直樹作画のマンガ『MASTERキートン』が絶版状態にあるとか。
 ニュースソースは『週間文春』なのだが、その理由というのを浦沢直樹氏、編集者の長崎尚志氏(現在『PLUTO』をプロデュース中)などに取材してまとめている。その内容をかいつまんで書くと、以下のような次第になるそうな。
 まず、原作者の「葛飾北星」氏であるが、本名は菅伸吉、「ラデック・鯨井」や「きむらはじめ」のペンネームでも活躍していた人気原作者である(昨年12月に死去)。『キートン』に原作者として付いたのは、当時作画の浦沢直樹氏が『YAWARA!』を連載中で多忙であったため、編集部の要請があったためだという。
 ところが浦沢氏は葛飾氏の提供する原作が気に入らず、長崎氏と協力して話を作っていた。従って、実質的に葛飾氏は名のみの原作者に過ぎなかった。
 そういう事情なので、『キートン』の増刷に関して浦沢氏は「葛飾氏の名前を小さくしてほしい」と小学館に申し入れ、いったんはそれが了承されたのだが、葛飾氏の友人である雁屋哲氏がその話を聞いて、「葛飾氏の名前を小さくすることはまかりならん」と横槍を入れてきた。結果、増刷の話は宙ぶらりん、事実上の絶版状態に陥ってしまったというのだ。
 この話がどこまで真実なのかはちょっと分からない。話をそのまま鵜呑みにするなら、雁屋哲、何考えてるんだ、ということになるのだが、「葛飾北星は『MASTERキートン』の原作を書いていなかった」というのもどこまで本当なのか、そこから既にウワサの域を出るものではないから、もしも「葛飾原作」がちゃんと存在しているのなら、雁屋氏の怒りももっともだ、ということになるのである。
 細野不二彦の『ギャラリーフェイク』について細野さん自身が『ベスト版』でこう語っている。美術マンガという新境地を開拓するがゆえに、第1話こそ、編集部から原作を渡されたのだが、細野さんはその原作が気に入らずに放棄して、殆ど自分で物語を書き上げてしまったというのである。クレジットが細野さんのみになったのはそのためだろう。
 「葛飾原作」が存在していないのなら、あるいは存在していても浦沢さんがそれを使わなかったのなら、どうして細野さんと同じく自分だけの名前で発表しなかったのか。そこが腑に落ちないというか、なんだか胡散臭くすら感じられるのである。「原案協力・葛飾北星」程度の表記にしてもよかったのではなかろうか。浦沢さん自身がそのあたりの事情をきちんと語ってこなかったことがそもそものトラブルの火種になってるんじゃないかという気がしてならない。
 マンガ制作に関して「原作をどの程度使っているか」はケース・バイ・ケースで、クレジットだけではその実態が分からないことも多い。『あしたのジョー』では冒頭のドヤ街のシーンが梶原一騎の原作には全くなく、作画のちばてつやのオリジナルであることは、今でこそ有名な事実として知られているが、連載当時世間一般には全く知られていなかった。
 こういうのはかなり特殊なケースであるが、予め「小説」の原作があった場合には、マンガ家がどのようなアレンジを施したのかが比較できるが(例えば、鳥山明の『ドラゴンボール』などは兎人参化のエピソードあたりまでの展開は、意外にも呉承恩の『西遊記』に忠実なのである)、マンガのためのオリジナル原作となると、それが読者の目に触れる機会は殆どないに等しく、これだけ「マンガ文化」が世界的に普及している現在でも、その研究が立ち遅れている原因の一つになっている。
 浦沢さんが自作に自信を持っているのなら、「インタビュー」という本人のコメントを中実に再現しているのかどうか分からないもので勝手に憶測ばかりされている状況を打破して、制作の事情を公開して「自分の言葉」で堂々と雁屋氏を論破すればいいし、小学館だって「葛飾北星原作」の文字を外して増刷に踏み切ればいいのである。自分が書いてもいない原作にクレジットされている葛飾氏のほうがよっぽど草葉の陰で自らの虚名に泣いていよう。逆に浦沢さんが何のリアクションもしないでこのまま『キートン』の絶版状態が続けば、雁屋氏の主張のほうが正しいということになってしまうのだ。印税目当てで、葛飾氏の名を小さくしようとした卑劣な人間、と後ろ指を差される事態にもなりかねない。あれだけの名作がこんなくだらない事態で読めなくなるようなことになれば、たとえその作品の描き手自身であろうと、責任は重大だろう。
 真実が未だ不明瞭であっても、「『葛飾北星・原作』のクレジットについて、長いことクレームも付けずに放置してきた」点において分が悪いのは浦沢さんのほうだと思うのである。それって結局、「著作権を半分放棄してた」ってことになるんだからね。今までどおりの表記で、増刷、あるいは文庫化されるようにオトナとして引いてくれてもいいんじゃないかと思うんだけどなあ。

 この『MASTERキートン』に関する「ウワサ」については、もうネット上のあちこちで批判の記事が書かれているが、特に「死人に口なし」「欠席裁判」な浦沢・長崎両氏の言に対する不快感がかなり大きいようである。なんか宮崎駿が手塚治虫死去直後に「手塚治虫のやってきたことは全て間違いだ」発言をやらかして手塚ファンの猛反発を呼んだときと状況が似てるよなあ。やっぱり誰かへの批判は「その人が生きてるうちにしとかないと卑怯」ってことじゃないのかね。「その人と一緒に仕事をしているときは悪口は言わない」なんてのは「キレイゴト」の「コトナカレ」でしかないのである。それで仕事が滞ったりトラブル巻き起こしたりしてる自覚がない馬鹿が世間に蔓延してるから、尼ヶ崎事故起こしたJR西日本みたいな体質をあっちこっちで作ってるんだからね。


 仕事を一時間早引けして、L特急に乗り込む。
 座席には、頬を紅潮させ、潤んだ目で私を待っていた女がいた。
 っつってもこいつはしげなんで、別に浮気旅行に出かけようとしてるわけではありません。誰もそんなこと私がしてるとは思わんだろうが。
 今日は『シティボーイズ・ミックス メンタル三兄弟の恋』の北九州公演の当日なのである。昨年まではゴールデンウィークの飛行機代が糞馬鹿高い時期に上京していたのだが、今年はついについに北九州公演があるということで、感無量である。もうアンケートにどれだけ「福岡に来てください!」と書いてきたことか。たとえ北九州公演でなくても長崎だろうが鹿児島だろうが、飛んでいったことは間違いない。私もしげもここ何日かはいささか興奮気味でなかなか眠れない日が続いていたのだ。
 会場のリバーウォークまでは、特急を使っても小一時間くらいはかかるので、一度帰宅してから出かけていたのでは開演に間に合わない。それでしげには予め博多駅からの4枚切符を買って乗り込んでもらって、途中合流、という形を取ったのである。しげは、予定通りに会えてホッとしたのか、「おなかすいたろう」と声をかけたら、車内中に響き渡りそうな声で「腹減った!」と吼えた。残念ながらこちらも急いでいたので、弁当を買う余裕はなかった。会場ではよしひと嬢と落ち合う予定でもあるし、そのとき食事を一緒にすればいいだろう、と提案して我慢させる。

 小倉駅に到着したのは5時をやや過ぎたころ。会場のリバーウォークまでの距離はバスで一駅ほどだが、歩いても10分ほどで辿りつける。開演は六時半だから、時間的には十分余裕がある。
 けれどしげは眉間にシワを寄せた仏頂面で、いかにも機嫌が悪そうである。腹が減ってるときのしげはいつもこんな顔だ。気遣って声をかけたら、これがまたトンチンカンなやり取りになってしまった。
「食事は着いてからでよかろ? 指定席だから慌てなくていいし」
「指定じゃないよ、自由席だよ」
「え? ウソ!?」
「本当だよ! 何言ってんの!」
「じゃあ、急いで並ばないと。食事はどうする? ハンバーガーでも買って、並んで食べるしかないか?」
 「なんで並ばないといかんの! 指定席なのに!」
 「はあ? 今、自由席だって言ったじゃん!」
 「それは電車の話!」
 「誰が電車の話してたよ?! 『着いたら食事』って言ってんだから、会場の話に決まってるじゃん!」
 「いや、だからオレもなんでアンタが今更電車の話をするのか、馬鹿になったのかコイツって思って……」
 「勝手に脳内で話を変えてるのお前だ!」
 しげの妄想は普段でもいつ何どき発動するか分からないから怖い。相手の言葉の脈絡を掴む術に劣ってる分、妄想でそれを補っているのだが、もちろん妄想だから補ったことには全然ならないのだ。意志の疎通ができなくて困ることも多いのだが、これが単純にコトバを間違って覚えてるだけならたいした問題ではないと言えなくもない。コトバの誤用は時代を経れば市民権を得ることもあるからだ(『情けは人のためならず』も誤用のほうが多かったりするからねえ)。でもしげのような先走った妄想や思い込みで会話が成立することは永遠にない。しげのもうそうはこういう「空腹時」にやたら発動するので、しげにマトモな会話をさせようと思ったら、四六時中食わせとくしかないのである。
 おかげでしげの体重は年々増加の一途にある。そろそろ「逆転」が近いかな。

 「リバーウォーク」内の「福家書店」で、よしひと嬢と待ち合わせ。ここで福岡じゃ売り切れてて買えなかった吾妻ひでおの『ななこSOS』3巻(ハヤカワ文庫)を入手。ちょうどそこによしひと嬢が現れて「何か新刊出てましたか?」と聞かれたのだが、「いや『ななこ』がね」と言っても伝わらないだろうなあと思ったので、「あまりないねえ」と答えてしまう。多分『不条理日記』あたりだったらよしひとさんも面白がるだろうと思うのだが、『ななこ』はなんたって『ななこ』だからなあ(笑)。
 3人で何とかという名前の“肉の店”に入ってハンバーグセットを一律注文。ハカセ(穂稀嬢)の結婚式の話などでひとしきり喋る。ラクーンドッグさんの公演と期日が重なっているので、PPのメンバーで分担して行くか、何とか掛け持ちできないかなどの相談。ハカセ、“本当に”祝福されてるんだなあと実感する(笑)。


 北九州芸術劇場大ホールで『シティボーイズミックスPRESENTS メンタル三兄弟の恋』。
 会場に入る前に、ダイレクトメール用のチケット半券に住所と名前を書いていたら、しげとよしひと嬢に数歩遅れた。と思っていたら、二人の姿があっという間に見えなくなる。脱兎の如く走って行く二人の姿がチラッと眼の端に見えたので、指定席なのに何をそんなに焦っているのか、と思って追いかけると、しげは公演パンフを買って、「先着サイン付きだよ!」と叫んでいた(お三方+中村有志さん。まぬけ会のサインはなし)。
 これまでの東京公演でも、シティボーイズのみなさんのサイン付きパンフが“抽選で”当たることはあったが、先着順とはなかなかの大盤振る舞いである。今日、明日が楽日だから、これで売りきっちゃおう、ということだろうか。私のように映画や芝居を見たときには必ずパンフを買う人間はどうやら世間には少ないらしいのである。よく「類友」だとからかわれるのだが、どうしたことか知り合いの「オタク」と呼ばれる人たちで、パンフを必ず買うって人はただの一人もいない。パンフは必ずしもオタク属性と関わらないと見るべきか、単に金をケチってるだけなのか。
 よしひと嬢も、普段、パンフは買ったり買わなかったりなのだが、今日はしげと一緒になって嬌声を上げている。一冊一冊、パンフのサインは別々で、しげは中村有志さんの、よしひと嬢は大竹まことさんのサインパンフをゲットして、飛び跳ねているのだ(最初に買ったのは逆だったのだが、交換したのである)。しけがまた目を潤ませていたので、結局、大竹さん、きたろうさん、斉木しげるさんのサインパンフも買った(別に慌てなくても係りの人に言えば希望の役者さんのサインパンフがもらえたのである)。というわけで実は私のウチには『メンタル三兄弟』のパンフレットが4冊あるのです(笑)。

 会場は三階席までほぼ満席で、これなら来年以降の九州公演も期待できるんじゃないかという感じ。大ホールではあるけれども、客席の勾配がよく計算されていて、後ろの席でも舞台が間近に見える。しげとよしひと嬢は下手のほうの席に、私は上手の席に分散する。座席についてはプレ抽選に私としげと二人で応募して、両方当たっちゃったので、チケットは計4枚あった。一枚はよしひと嬢に渡したが、もう一枚は希望者を募ったところ、早い者勝ちで草野(加藤)さんのお友達がゲットした。私の隣に座った人が確実にその人なのだが、面識がないので声はかけられない。あちらはあちらで隣に座っている変なオジサンがチケット提供者であるとは夢にも思わなかったであろう。芝居の間、よく笑っていらっしゃったので、楽しんでもらえてよかったなあと独り合点でホッとする。

 オープニングはメンタル三兄弟の紹介。
 きたろうさんが大竹さんにポットのお茶を注いであげるのだが、いきなりポットにお湯が入っていないというミス。大竹さんが「いきなりかよ!」と突っ込んで、きたろうさんも困った顔。これがホントにハプニングだということは生中継ライブを見ていればこそである。
 長男・斉木しげるは「自分がホログラムではないか」という妄想に囚われている。
 次男・きたろうは「この家が縁の下に住んでいるサラリーマンの吉田さん(中村有志)に支えられている」という妄想。
 三男・大竹まことは「誰かにダンスの振り付けをしたくてたまらない」という妄想。
 だから「メンタル三兄弟」というわけなのだが、パンフにも書いてあったが、このネタ、実際にそういう兄弟が知り合いにいて、モデルになってるんだそうな。こないだ『犬神の悪霊』を見たばかりだから、「家族そろってイカレてるっての、現実にもあるよなあ」と不謹慎なことを思う。
 斉木さんときたろうさんが妄想の中でニコール・キッドマンを譲り合って、「ニコールからは手を引くよ」「オレこそ手を引くよ」と言ってるのを聞いてた大竹さんが、「いつ手を出したよ!」と突っ込むギャグがよい。WOWOWでの生中継(以下、「生版」と略す)よりも大竹さんの声に張りがあるのも分かる。まさに舞台は生き物だ。
 この三兄弟、そろって独身で同居しているという設定。だからギャグはもちろんおかしいのだが、もう初老の域に入ろうとしているお三方が演じると、笑いの向こうに寂しさ、切なさが漂う。ラストにまたこの三兄弟は再登場するのだが、きたろうさんは、家族ができて妻の実家に帰ることになる吉田さんと、悲しい別れを迎えることになる。妄想の友からも去られてしまう寂しさとは、かなり深刻なのだが、それをさらりと流すように演じるのはきたろうさんならではの持ち味だろう。シティボーイズのお三方は、昔のようなアナーキーでラジカルな芝居よりも、孤独と、今や死を身近に思うほどに研ぎ澄まされた感覚を描くほうに、芝居の興味がシフトしてきているのかもしれない。
 便宜上、タイトルを勝手に付けて各スケッチの内容を紹介すれば以下の通り。

 「パッション・ショー」
  寿司屋の店員たちが、「この店にないものは客とパッションだ」と、パッションショーを催すことを企画する。みんなで義太夫を唸ったり、暗闇の中で駆けまわったり。地元に来て張りきっているのか、中村さんがシーツを「パッション!」と叫んで“はたく”のが生版よりも激しい。ラストは斉木さんが不動明王に扮して登場。でも台詞は「悪い子はいねが〜」と、なまはげ。

 「予期せず余った時間の使い方会議と謎の編物集団」
 調整課の社員3人が会議室に行くたびに謎の編物集団が現れるというシュールなスケッチ。
 生版にあった中村さんが万年筆のインクを吸うギャグがカットされ、、中村さんが指にボールペンを刺してエイリアンのパフォーマンスをするギャグも短縮されている。そのかわり、生版でタイミングが合わずに幾多郎さんが言い損ねていた「キャサリン・セタ・ジョーンズと言おうと思ったけど、やめたよ」の台詞が復活。これは生版だけを見た視聴者には一生わかんない「真実の台詞」だ。
 生版のときにはなかった、逃げ回る編物集団の中にいる斉木さんを見て、大竹さんが「中にロシアの人が混じってませんでしたか?」と突っ込むギャグが追加。

 「武装サラリーマン川柳」
 激しくトレーニングする中村さんの前で、斉木さんが「何かと危険に出会うことの多いサラリーマンが“武装”する川柳」のコンクールをアナウンス。
 佳作「職場でも 書類丸めて 武器にする」
 「会議中 挙手 する右手も こぶしを握る」
 「ホッチキス 武器にならないか考える 会議中」
 紫賞「無意識に まず急所みる 初対面」
 ゴールデン・ジョンイル賞「サージャンニン サージャンニン サーランヘーヨ トンカジオライ」
 選外の斉木個人賞「武器だらけ スーツの重さ50キロ 海外出張できんぞなもし」
 部長賞「どんなにえばる部長も 急所は延髄」
 最優秀作品賞 宮本武蔵賞「ボーナスで まとめて払う 武器ローン」
 アンコール賞「定年だ 自分にプレゼント 仕込み杖」
 字幕でも川柳は紹介されるので、生版と殆ど内容は変わらないが、明らかに中村さんの動きははじけていた。

 「3人のカウンセラー」
 何をやっても元気が出ない小山崎さん(中村)が紹介されて訪ねた神経科のカウンセラーはなぜか3人協議制だった。精神科医の胡散臭さを象徴したようなギャグで、今回のお気に入りスケッチの一つ。他人の受け売りばかりのきたろう、やたら激烈な薬を飲ませたがる斉木、本人がメンタルな大竹と、キャラクターの描き分けも上手い。
 きたろうさんが、「バルビタールを飲ませても死ななかった報告もある!」と不平を言う斉木さんを壁にぶつけて黙らせるのだが、生版より激しくぶつけるのでセットが思いきり揺れていた。きたろうさんは中村さんの名前を最初「山崎さん」と言い間違えるのだが、言い直したときに「オ・山崎さん」と強調するのが生版にはなかった演出。大竹さんが中村さんを「どうしてこんなにハゲちゃったの?」と言った途端に中村さんが床で転げまわるのも今回新たに加わったアドリブらしい(カーテンコールのときに、大竹さんか「いつもはあんなに転げないんですよ」と説明していた)。ともかく中村さんは全編に渡ってサービスサービスである。

 「ニコール・キッドマン・ショー」
 中村のMC、そして斉木、きたろう、大竹がそれぞれのニコール・キッドマンになりきる。
 斉木は『アイズ・ワイド・シャット』のニコール。
 きたろうは『陽のあたる街角』からのお色直しで『ムーラン・ルージュ』のニコール。
 大竹は「死んでもやだって言っただろ!」とカツラを投げ捨てながら『ドッグヴィル』のニコールを演じる。続けて4人は「チャーハン・ショー」でフライパンを持って「それそれそれそれ!」とチャーハンを炒める。多分チャーハンに見えたのはそれらしい「塊」で、フライパンからこぼれない仕掛けになっていたと思うのだが、きたろうさんはしっかりこぼしていた(笑)。

 長くなったので明日の日記に続く。

2004年05月24日(月) 徒労の木馬。なんつて。……イヤ、つい思いついちゃったので(^_^;)。
2003年05月24日(土) すっ飛ばし日記/穴子に拘る女
2002年05月24日(金) カニの味がわからない/『かしましハウス』7巻(秋月りす)/『焼きたて!! ジャぱん』2巻(橋口たかし)
2001年05月24日(木) 幻想の帝国(改)/『作画汗まみれ』(大塚康生)ほか


2005年05月23日(月) 人間嫌いなわけではないのですが/『新暗行御史』第十一巻(尹仁完・梁慶一)

 ハカセ(穂稀嬢)から、結婚式の案内メールが届く。
 個人情報を垂れ流すのは人としてどうか、と非難される方もいらっしゃるだろうが、別にこれでハカセの人生が狂わされてしまうようなことにはならないので、まあ、いいんじゃないか。ちゃんと「書かないでくださいね!」って言われてることはいつも書いてないからね。
 結婚式はもう何ヶ月か後のようだが、当日はほかに先約の用事があって出席できるかどうか分からないので、その旨を連絡した。返事はすぐに返ってきたが、ハカセも案内を送るかどうか、ちょっと迷ってたらしい。多分、ハカセも知ってることだと思うが、私としげは結婚式を挙げていない(写真だけは撮った)。その辺の事情まで詳しく話したことはないが、まあ、一応何やらありそうだと気遣ってくれたのかな、と思う。

 私は自分の結婚式を挙げなかったばかりか、ここ20年ほどは親戚や友人・知人の結婚式なども殆どオミットさせてもらっている。どうにも断りきれなくって出席したことは何度かあったが、気分を悪くして吐いたりした。酒に酔ったとか。そういうことではなくて、結婚式に出たこと自体が私にとっては苦痛だったのだ。条件反射のようなもので、これも一種のPTSDかな、とも思う。
 子供のころはこんなことはなかった。小学生の時分に、両親に連れられて父方の叔母の結婚式に出席した記憶がある。しかし逆にそのころから、両親も、親戚の結婚式になかなか出席しなくなった。正確に言うなら、母が、父方関連の結婚式には殆ど出なくなったのだ(母方関連でもかなり少なくなった)。「言い訳」は「仕事が忙しくて休めないから」である。確かに床屋は月曜が定休日なので(地方によっては違うのだろうが、博多はたいていそうなのだ)、土・日が定番の結婚式には出席しにくいのは分かる。しかし、それならどうして私が子供のころには家族そろって出席していたのが、パタッとやんでしまったのか。
 おかげで私はまだ小学生でありながら、一家の代表としてたった一人、あちこちの親戚の結婚式に送り出されることになったのだが、どうして母が晴れがましい席を避けるようになったのかはすぐにそれと知れた。要するに母が父なし子だったからである。
 母は生前、私に「何かあったとき、お父さんの親戚は当てにならないからね。お母さんの親戚を頼りなさい」としょっちゅう言っていた。現実には父方の親戚のほうが穏やかな人ばかりで、母方の親戚はほとんど金にだらしなくて母に借金しに来る連中ばかりだったのだが、それでも母は意地になったかのように父方と縁を結ぼうとはせずに自分の親戚の求めるままに稼いだ金を吐き出していた。
 幼心にも私は「どうしてそこまで」と思っていたものだったが、つまり母は、父方の親戚に(多分、祖母か曾祖母だろう)、「何か言われた」のである。母が父方に顔を出さなくなれば、当然、父も遠慮をせざるを得なくなる。かと言って義理を欠き過ぎるのもまずいので、両親はまだ子供の私を代理として送り出していたのだろう。とんだスケープゴートであったが、そこには、まだ小学生の子供に対してまで、親戚連中も何か言うことはなかろうという甘い判断があったと思われる。
 両親がお人好しだなあと思ったのは、世の中には、たとえ相手が世間知らずのガキであろうと、「何か言う」腐れた連中は確実にいるということをよく知らなかったことだ。そのあたりの「事情」を両親に話したことはなかったが、長じるにつれて明らかに私が「式」と名のつくものに強い不快感を示すようになったから、ある程度は察していたのではないかと思う。私が自分の結婚式を挙げるつもりがないことを「だってお金がもったいないから」と、普通なら「ふざけるな」って怒鳴られてもおかしくない理由を挙げて両親に告げたときも、全く何も言わなかった。母が死んだ後、父は「今まで不義理ばかりで悪かったね」と、親戚の結婚式に出るようになったが、私には一切「一緒に来い」とは言わない。
 親戚の結婚式じゃなければ平気か、と思って、知り合いの結婚式に出たことも何度かあるのだが、既に私には「式」そのものに拒絶反応が出てしまうようで、熱は出る、動悸は激しくなって、吐き気はする、PTSDと言ったのは別に誇張でもなんでもなくて、本当に体調が悪くなってしまうのだ。リクツで割り切れるものではないので、治療のしようがない。ひたすら「自分のようなものがこんなところにいていいのか」って強迫観念が頭の中に広がって、立っていられなくなるのである。
 今だからもう言っちゃうけど、よしひとさんのお父さんのお葬式に出た後で体調崩したのも実はそれです(笑)。焼香だけでさっさと帰ったから、たいして響かんだろうと思ってたんですが、判断が甘かった。あのときは関係各位にご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
 もちろん結婚を祝いたい気持ちはあるので、ハカセの結婚式にも時間の余裕ができるなら出席したいし、仮に体調崩しても翌日も休日なんで静養できそうではあるから何とかなりそうな気もするのだが、それでも滞在は2時間が限度だと思うので、お色直しは一回くらいだったらありがたいなあ。ハカセはメンバーの日記もちゃんと覗いてるって言ってたから、ちょっと注文つけとこうかな(笑)。
 ……いや、ホントに回数減らされたら困るけど。

 意外や意外、ハカセは毎日買い物もすれば、食事もきちんと朝晩自分で作っているそうで、しげよりよっぽど普通の主婦している。漢字や日常語を知らなくても、生活手段知ってるほうがありがたいわなあ。
 私も人並みのことしかしげには要求してないんだけど、なんとか二月近く続いていた弁当作りもそろそろ朝寝坊で時々忘れかけてきているのである。洗濯やゴミ捨てなどの家事も、まるで実行に移さない。「トイレに紙を貼って忘れないようにする」って言ってたくせに、案の定小さな紙を「貼っただけ」で安心してしまい、肝心の家事をすること自体を忘れてしまっているのだ。私から「洗濯忘れてるぞ」と言われて初めて動くのなら、結局はこれまでと変わりがない。
 なかなか人に言っても信じてもらえないのだが、しげの健忘症は、家事を始めた途端に都合よく発動するらしく、白昼夢や妄想も併発して、全て中途半端に終わってしまうのだ。例えば台所で食器を洗っていても、疲れてくると健忘症のスイッチが入って全部洗った気になってしまい、途中で作業を放棄して寝てしまうのである。目の前にまだ洗ってない食器があるだろう、と突っ込みたくなるのだが、その食器が「見えなく」なるのだ。おかげで洗い場にはまた小バエが発生し始めてしまった。
 「やれ」と言われた次の瞬間に「やった気になる」のでは、処置なしである。昼間グーグー寝ていれば、家事なんてできるはずがないのだが、どうして「やった気になれる」のか、どうにも納得ができない。根本的に心がどこか壊れているか脳に疾患があるのかもしれないと、私もしげ自身も、そこんとこを病院にもきちんと診断してほしいのだが(しげが単なる虚言症であるという可能性も含めて)、もう一年以上通院しているというのに最近はまるで進捗が見られない。面談してお話を聞いてそれで終わりってのは何なんだろう。
 最近はやっぱり医者を変えたほうがよかないかとも感じているのだが、そうするとまた薬をもらえるようになるまでに手間がかかり、診療費がかさむことにもなるらしくて、踏ん切りがつかないのである。こっちはしげが家事ができるようになればそれだけでいいんだけど。


 マンガ、尹仁完原作・梁慶一作画『新暗行御史』第十一巻(小学館)。
 曼陀羅華の鍼を打ち、過去の幻想の中を彷徨う文秀(ムンス)。夢の中という設定で、これまで語られた物語の間隙を補完する形で、山道(サンド)が文秀に付いて行く決心をしたエピソードなどが描かれる。しかし、ファンの最大の関心を引くのは、待ちに待ってた“聚慎滅亡”の顛末を描くことになる「快惰天戦」のエピソードだろう。
 悪獣どもの母体・快惰天を辺境の地に追い詰めた文秀率いる聚慎軍。しかし最終決戦を覚悟した悪獣どもの反撃は激しく、聚慎軍は「絶対聚慎!」を叫びつつも逆に劣勢を強いられる。歴戦の英雄たちが次々と命を落としていく中、文秀の副官・阿志泰(アジテ)は一時的な撤退を進言するが、文秀は自ら突撃部隊を編成し、先頭に立つ。対峙した快惰天は少女のように美しい本体を現し、雷撃で自ら生み出した悪獣どももろともに聚慎軍を全滅させる。果たして文秀はこの戦いに勝利することができるのか。そして、この戦いの中、暗躍する阿志泰の本心はどこにあるのか。
 梁慶一氏の緻密な作画はこの「快惰天戦」を圧倒的な迫力で描き出しており、さながらハルマゲドンを彷彿とさせる。しかしだからこそ文秀と元述(ウォンスル)しか生き残らない状況で、なぜ快惰天を倒せたのか、そこにも実は阿志泰の陰謀が働いてるのだろう、ということは予測が付くことではある。読者はこれが文秀の見る「過去の夢」であって、既に聚慎が滅亡しているという前提を知っているから、「このままではすまない」ことも分かっている。
 この『新暗行御史』のストーリーの背景には、「人間は、真実を知ることを極力嫌っている」という作者の人間認識がある。これまで登場してきた主要キャラクターたちはみな一様に「目の前の現実」を認めようとせず、自分の作り出した妄想、幻想の中に生きてきた。フィリップ・K・ディック的というか『マトリックス』的というか押井守的というか、この作品はその発想において極めてSF的である。SFは、幻想にすがらなければならない人間の弱さを切なく描いてきたが、この『新暗行御史』の第一の魅力はまさにそこにあるのだ。そして、幻想が現実に打破され、謎が明かされていく展開はミステリー的であって、そこから立ち直って現実を認めていく人間の「強さ」が爽やかな感動、第二の魅力に繋がっているのである。
 そして、これまで彼らに向かって「奇跡なんかない」と言い続け、現実を認識させようとしてきた文秀自身が今、「夢」に囚われてしまっているのである。ドラマ展開の流れから言っても、この「夢」から覚めたときが、文秀対阿志泰の最後の決戦のときとなるのだろう。
 もちろんその前には「更なる悲劇の夢」を文秀は見なければならないわけで、これから先、どれだけ物語を盛り上げていけるのか、前巻までの「活貧党編」がちょっと低調だっただけに、ぜひ読者の心を切なくかつ熱く感動させてほしいと思うのである。

2004年05月23日(日) 庵野秀明インタビュー&カンヌ映画祭閉幕!
2003年05月23日(金) すっ飛ばし日記/寝ると怒る女
2002年05月23日(木) 風邪さらに悪化/『パワーパフガールズDVD−BOX/バブルス缶』/『何が何だか』(ナンシー関)
2001年05月23日(水) できれば私への電話はご遠慮下さい/『真夜中猫王子』2巻(桑田乃梨子)ほか


2005年05月22日(日) どうしてみんなあえて狂いたがるのか/舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』

 JR九州にも尼崎事故以後もオーバーランが何件かあったとかで、国土交通省から厳重注意があったって。でも、尼崎事故はオーバーランそのものが問題なんじゃなくて、その失敗を取り返さなければと高見運転士を精神的に追い詰めた「日勤教育」のほうに問題があったんじゃないの? なんだかこの注意の仕方って、逆にJR九州に対して「事故を起こしやすい」プレッシャーを与えてることになってるんじゃないかね。「オーバーランするな」だけなら、結局はJR西日本と同じ指導の仕方じゃん。客のことを考えてない体質は上からしてそうなんで、これじゃあJR九州にも早晩、事故が起きるかなあ(涙)。


 また飲酒運転による悲しい事故が発生、しかも今度のはかなり悪質。
 宮城県多賀城市で、佐藤光容疑者が運転するレジャー用多目的車(RV車。ったって、クルマに興味関心のない私には、どんなんだかよう分からん)が、乗用車に追突した上、学校行事のウォークラリーをしていた仙台育英高校の生徒の列に突っ込んだ。ちょうど横断歩道を青信号で渡っていた生徒たちがはねられて(30メートルも吹っ飛ばされた子供もいたという)、3人が死亡、4人が重傷、16人が軽傷という悲惨な事態に。佐藤容疑者は七軒の店をハシゴしてすっかり泥酔、居眠りもしていたというから、同情の余地は全くない。
 同じことを何度も繰り返して書くのはうんざりするのだが、この日本の「酔っ払い天国」状況は何とかならないものか。佐藤容疑者、一人で飲んでいたわけではなくて、同乗者もいたのだがこいつもすっかりへべれけ、それまで居酒屋を飲み歩いてた仲間もみんなぐでんぐでんだったのである。誰一人、「お前、運転あるんだろ? 飲むなよ」と止めたやつがいない。間違いなくこいつらは「常習犯」で、全員で子供たちを殺したようなものだ。
 オタクが事件を起こせば、すぐに「ゲームが悪い」「マンガが悪い」と、すぐに有害なものは規制しろという声が上がるのが常だが、飲酒運転の事故(つか殺人)はそれこそ頻繁に起こってるのに、何で「酒のせいだから規制しろ」って声は上がらないかね? もちろん、本当は酒のせいではなくて本人のせいだから、そんな声は上がらなくっていいのだが、だったらオタクの犯罪もオタク本人のせいで、マンガやゲームのせいじゃないだろうが。なのにどうしてオタクに対しては世間の目が厳しいのに、酔っ払いには甘いかね。つまりは世の中、下戸に比べて酒飲みの数のほうが圧倒的に多いってことだね(笑)。行政も世論も腐ってるから、結局は腐れた酒飲みの味方になってんだ。
 酒飲みはすぐに「酒を飲んで何が悪い、酒は日本の文化だ」と嘯くが、日本には「酒を飲まない」文化だってあるのである。
 基本的に私は文化相対主義の考え方をしてるから、酒自体を撲滅しろとまで言うつもりはない。確かに酒は日本の文化を代表するものの一つだろう。けれど文化によってはどうしてもお互いに「相容れない」ものも存在しているわけで、例えば「首狩り文化」を持ってる部族と対等に付き合うのは到底不可能だ。嫌でも向こうがその習慣を捨ててもらわなきゃ、怖くて仕方がないのである。同様に考えれば、「下戸の存在を認めない酒飲み」には「酒は文化」なんて主張する資格はないのだ。「俺の酒が飲めないのか」なんて言ってるやつはそもそも人間として性根が腐っているんだが、そんな最低レベルのメンタリティしか持ち合わせてない輩が、この日本にどれだけ蔓延していることか。
 ハッキリ言うが、酒とタバコに関して日本人は、誇りを持って「文化」と呼べるほど成熟したものを築き上げているとは言いがたい。銘柄なんてどうでもよくて「酔えりゃいい」「吸えりゃいい」の安酒安煙草で満足してる連中がゴマンといて、何が文化か。
 事故そのものもどうにもやりきれないのだが、もっと胸糞が悪いのは、これだけの事故が起こったからといって、今現在酒かっくらってる連中がこの事故を他山の石と考えて自己反省するわけではないってことである。つまりこれから先も飲酒による被害者は少しも減りゃしないのだ。たいていの酒飲みが「自分は大丈夫」って高をくくってるんだろうが、そういうやつほど危ないってこと、これまでの事故の例を見ていて気がつかないものかね? 今度の事故の佐藤容疑者も、日頃はすごく真面目な、普通の会社員だったって言うぞ? つまり、いったん酒を飲み始めたら、「飲んだら車を運転しちゃダメだ」という判断自体、できなくなるということなのである。たとえごく普通の人間であっても「酒を飲んでる限り、事故を起こす危険性を常に持っている」のだ。そんな単純なことにも気がつかないくらい、酒飲みってやつは馬鹿で糞っ垂れなやつばかりだ。つか、もうただの既知外ね。否定できるか? そこの酒飲み。
 そこまで言わんでもいいじゃないかとこれ読んでムカついてる酒飲みの人もいると思うが、警察庁の発表によれば、「酒気帯び運転」の取り締まり件数は、毎年20万から30万の間を推移しており、車による事故およそ4千件のうち、酒酔い運転が原因の事故は常に1千件以上、死亡事故もそのうち200〜400を数えている。つまり毎日一人は酔払い運転のために人が死んでいるのだ。オタクの犯罪よりよっぽど発生率が高いだろうが。自分たちが「犯罪者予備軍」「人殺し一歩手前」なんだってこと、少しは自覚してくれよ。
 酒税で日本経済がまかなえているんだから、と反論される向きには、次のデータをお示ししたい。厚生省の発表によれば、アルコールによる社会的・経済的損失は、年間に6兆6000億円以上に上るということである。それに対して、国税庁が発表している酒税収入は、年間およそ2兆円。利益よりも損失のほうが圧倒的に多いのだ。単純計算でも、酒の値段が今の4、5倍しないと、ペイしないってことになる。もちろん、だからと言って、それで失われた人の命が戻ってくるわけではないのだ。
 そこの酒飲みさんよ。これはさ、下戸な人間がみんな等しく願ってることなんだけどさ、アンタがどんなことがあろうと酒文化を守ろうって気概の持ち主じゃないんならさ、もう無理して酒飲むのやめてくんないかね。人の趣味嗜好の問題だ、ガタガタ文句言うなって気分なんだろうけどさ、心構えや覚悟のない人間が趣味云々言うのって、一万年早いんだよ。本気で酒が好きで節度守った飲み方してる人間から見れば、アンタらみたいな存在は鬱陶しいだけだ。日頃どれだけ鬱憤やストレスが溜まってるのか知らないがな、そんなの酒で誤魔化そうとするな。酒飲んでるだけで人間としてのランクを確実に下げてんだ、これ以上恥の上塗りしてんじゃねえ。開き直って「へいへい、どうせオレは酒飲みでござんすよ」と卑下して見せるのはもっと最低。飲酒運転のせいで死んだ子供の遺族の前でも、そんな態度が取れるか? 下司めが。
 どうせ酔っ払うならさ、いつか人を殺したり女子高生襲って犯したりする前にね、側溝に落ちるか豆腐の角に頭ぶつけるか自分の臍噛むかして、早いとこ死んでほしいよ。性犯罪者には刑務所から出た後も監視がつくようになるみたいだけど、酔っ払いにも同様の処置をしてもらいたいね。中毒になったやつってのはどうせまた同じこと繰り返すんだからさ。


 休日だけれど、午前中は出張。六時にゃ起きないとバス、電車に間に合わないのだが、目覚ましが鳴る前に5時に目覚めてしまう。不眠症(つか、深く眠れないのね)も役に立ってる面はある。
 かなり田舎のほうに出かけたので、空気だけはいい。多少小雨は降っていたが、涼しいくらいのものである。間近の山も少し霞んで見えるのがいい風情。仕事は予想外にきつかったけどね。
 午後までかかるかと思っていたのが、意外に早く片付いて、帰宅は午後3時。おかげ出昼寝ができて、昨日の寝不足をちょっと回復。やっぱり休日はできるだけ睡眠時間を確保しておきたいものだ。


 出張のため、『エウレカ7』は今日も見られず。評判いいんで、来週こそは何とか。
 録画しておいた『仮面ライダー響鬼』十七之巻 「狙われる街」。
 ついに魔化魍が街中に……つか、こないだから続いているレギュラー陣の「私服編」ですな。イブキ(渋江譲二)のショッピングはどうでもいいが、香須実(蒲生麻由)の薄黄色一色のファッションセンスってのはどうなんかね。あまりチャラチャラしてるのもよくないだろうが、ヒロインなんだから、もう少し華やかさがあってもよかろうとは思う。
華やかといえば、ひとみ(森絵梨佳)とあきら(秋山奈々)に挟まれた明日夢(栩原楽人)君、両手に花ですごく幸せそうだったなあ(笑)。でもこれで明日夢君、全国のロリ系オタクは敵に回してしまったね。どうせスタッフもオタクだろうから、ファン心理というものは先刻ご承知だと思うのである。これからは視聴者の溜飲を下げるためにも、明日夢君を何かと苦しめる展開になるんじゃないかと予測するがどうか。盲腸とか万引き犯に狙われるとか、そんな生ぬるいことじゃまだまだだね。
 関係ないけど、「天美あきら」の「天美」って、ずっと「てんみ」って読んでました。今日初めてこれが「あまみ」であることに気がついた(ボケボケである)。というとやっぱりこの子もイニシャルが「姓・名」ともに同じ。やっぱり「鬼」になる運命なんだねえ。けど、明日夢と同じイニシャルってことは、二人で「逢引鬼」(アイビキ)とか……。すみません、座布団一枚返上します。


 昨日WOWOWで録画しといた、パルコ+サードステージPresentsの舞台『お父さんの恋 -Family Tale-』を見る。
 これも福岡公演があって、私はすごく見に行きたかったのだが、しげは全くと言っていいほど興味を示さなかった。主演、前田吟だぞ、オイッて言っても全然伝わんないのがちょっと寂しい(タイトルロールは境雅人が筆頭だが、実質的な主役は前田吟である)。
 前田さんはこないだ『キネ旬』でも、1968年の初主演映画『ドレイ工場』に出演したときの思い出を語っていらっしゃったが、俳優座養成所出身だからやはりもともとは舞台の人なのである。『男はつらいよ』で長く博役を演じてこられたから、どうしても実直で融通が利かない、けれど下町の人情味に溢れた労働者、というイメージが付いて回るが、そこから「解放」された現在、どんな演技を披露してくれるのか、それが楽しみであった。
 タイトルだけだと確かに地味で興味を惹かれないのも無理からぬことだけれど、これはかなり意欲的な脚本、演出の舞台である。開幕当初、上手のベッドに前田吟扮する“お父さん”杉本正樹が寝ていて、そこへ派遣ホームヘルパーの深谷さおり(星野真里。『三年B組金八先生』の金八の娘・坂本乙女役の美人さん)が入ってくる。二人の会話が“噛み合っている”ので、いっときは“気が付かない”のだが、杉本家の次女・美樹(菊池麻衣子)が登場してきたあたりから、なんだか“雰囲気がおかしい”ことに観客も気付き始める。父親が娘に声をかけても、何の反応もしないのだ。娘には父親の姿が見えていないのか? と一瞬訝るが、どうもそうではないらしい。美樹は正樹がちゃんとベッドにいるものとして、様子を窺っている。正樹は当然、美樹に声をかけるのだが、その声は“美樹には届いていない”のだ。長女の武藤正子(七瀬なつみ)、医者の藪一平(池田成志)が登場するに至って、正樹は実は「寝たきり」の植物人間で、喋っているのは正樹の「心の声」に過ぎないことが分かる。冒頭、さおりとの会話が成り立っているように見えたのは、さおりが「正樹さんには意識がある」、と信じて声をかけていたからなのだ。
 全編、お父さんは植物人間のままで通し、その声が他の家族に届くことはない。ある意味、これは「幽霊もの」の変形であって、映画『ゴースト ニューヨークの幻』のように、現世の人間との交流は可能か、という興味で物語を引っ張っていく。ところが、お父さんはちゃんと「生きていて意識もある」のに、ほんの少しも家族との会話が成立する様子を見せないのだ。植物人間は植物人間、決して目を覚ますことはない。だからいかに前田吟が熱弁を振るおうと、これは極めて現実的な物語であって、「幽霊もの」のようなファンタジーではないのだ。
 長女の正子は家庭が崩壊し、現在不倫中である。次女の美樹は会社の金を騙し取られていて、父親の財産を狙っている。長男の大樹(堺雅人)は今流行りのニート(要するにプー太郎だよな)だ。そんな家族のテイタラクを目の当たりにしても、正樹には何もできない。しかし、そんな彼らを見ていて、さおりが突然、思いもよらないことを言い出す。「あなたたちには正樹さんを任せておけません。私は正樹さんを愛しています。正樹さんと結婚させてください」。
 もちろん、“意識のある”正樹は、もうずっと先からさおりのことが好きだった。妻をなくし、孤独に耐え切れなくなった正樹は、家を新築すれば子供たちが戻ってきてくれると信じて、この家を建て替えた。子供たちが好きだと言っていたシャンデリアに暖炉……。めちゃくちゃなインテリアだったが、それで家族の絆がつなぎとめられると思っていた。ところが、子供たちは父親を見捨てた。正樹は自殺を決意したが、その直前に脳溢血で倒れる。自分には死ぬことすらかなわない。悔し涙を流すこともできず、絶望のどん底に陥れられていたちょうどそのときに、さおりが現れ、実の子供たち以上にかいがいしく自分に尽くしてくれるようになったのだ。正樹は恋をした。そして、生きる気力を取り戻したのだが、情熱を傾けたいと熱望するその人とは、会話することすらかなわなくなっていたのだ……。
 正樹は確かにさおりに恋心を抱いている。けれど、自分の娘たちよりも若い、この美しい娘が、寝たきりの老人に恋をしたなんて、本当だろうか? 物語は、家族一人一人の隠し事を少しずつ暴きながら、その心の奥底を覗いて行く……。
 イマドキの演劇の常として、むりやりギャグでつないでいく展開があるのはちょっと気に入らないが(もっぱらギャグは成志君が担当してるんだが、正直な話、物語の展開上は殆ど必要ないキャラである)、前田吟の演技、自分の意志が伝わらないもどかしさが、話が進むにつれて切実感を増してくる。見ているこちらは、「いつか何らかの形で意志が伝わるようになるのではないか」と期待しているから、それが外されるたびに、悲しみが弥増していくのである。いや、前田吟自身は決して悲痛な演技はしていない。その演技はあくまで軽い。しかし、軽いからこそ、寂しいのだ。『男はつらいよ』シリーズのファンなら、すぐに気づくだろう、これは、渥美清の演技である。
 物語の冒頭、さおりが家族みんなに向かって「正樹さんを愛しています」と啖呵を切り、正樹に「行きましょう、正樹さん」と声をかけるシーンがある。そのときの正樹の返事が、一拍置いて、上ずった声で短く「はい」である。ああ、この「間」と「発声」は「寅さん」だ。自分がモテるなんて露とも考えていなかったのに、急に告白されてドギマギしてしまったときの寅さんだ、まさしくそうなのである。
 フーテンで、家族に迷惑ばかりかけている「お兄ちゃんの恋」と、寝たきりで、家族の絆を結べない「お父さんの恋」。どうにもならない恋をしている図式も同じなら、その悲惨さを悲惨と見せない喜劇としての作劇の仕方も、実は全く同じなのだ。前田吟は明らかに渥美清を念頭において演技プランを立てている。脚本の中谷まゆみが前田吟を主役に据えたのは、渥美清を20年以上にわたって見てきて、その「芸」を盗んでいるに違いないと確信しての起用であったのだろう。前田吟はまさにそういう役者であった。だから、観客が正樹に感じる切なさは、寅さんに感じるものと同質なのである。
 前田吟の前では、形式上の主役(失礼)、NHK大河ドラマ『新選組!』で山南敬助を好演した堺雅人もいささか影が薄くなってしまうのが残念だが、共演した役者さんたちも、何らかの形で前田さんの「芸を盗」んでくれればいいと思うのである。ああ、やっぱりこの芝居、ナマで見たかったなあ。

2004年05月22日(土) 関係者にしか意味が分らない文章ですみません。
2003年05月22日(木) すっ飛ばし日記/本な男
2002年05月22日(水) 風邪引き第一日目/『クレヨンしんちゃん映画大全』(品川四郎編)/『ビートのディシプリン SIDE1』(上遠野浩平)ほか
2001年05月22日(火) 我々は夢と同じものでできている/『MY SWEET ANIME 私のお気に入りアニメ』


2005年05月21日(土) 今度はいつまで/映画『交渉人 真下正義』

 またちょっと疲れ気味なので、短く書く。

しげのアルバイトが決まる。
 「家事をちゃんとするから」と言いつつ、またやっぱりちゃんとしなかったので、「芝居したいならその分くらい働け」と言ったら、なんか急に思い立ったらしくて、面接に言っちゃったようである。「返事が来ないなあ、きっと落ちてる」とか愚図愚図とうるさかったので、「連絡取れよ」と言って電話をかけさせたら受かっていたのである。今度も接客業だけど、食料関係ではありません。
 心配なのは今度はどれくらい長く勤められるかどうかなのだが、職種よりも人間関係によるので、数週間とも数年とも言いがたいのである。

 昼まではのんべんだらりとテレビを見る。
 CSキッズステーションで劇場版『MARCO 母をたずねて三千里』など。日本アニメーションの劇場版シリーズが『フランダースの犬』とこれの2本だけで終わってしまったのは未だに残念に思う。テレビシリーズ至上主義の方にはいまいち受けが悪かったようだが、一年間のシリーズにし立てるために不要な「引き伸ばし」も多かったテレビ版に比べ、原作に近い形で凝縮された作品に両作とも仕上がっていたのに。次は絶対『赤毛のアン』だろうと期待していたのである。


 夕方から、キャナルシティのぽんプラザホールで、劇団ぎゃ。第8回公演『裏庭(野田和佳菜「ガーデン」より)』。
 ストーリーの紹介は自分でまとめるのがつらいのでまんま引用。

> レアモノと呼ばれる奇形の女たちが働く女郎屋、ガーデンに幽閉されている美しい遊廓、胡蝶は、大好きな人形遊びに没頭するあまり、すっかり人形に乗り移ることが出来るようになっていた。
> 人形になって初めて部屋から脱出した胡蝶の不思議な物語。

 「美しい遊郭」って、「美しい遊女」の誤植じゃないかな(笑)。
 役者さんたち、一応熱演はしてるんだけれど、フリークスの悲しみみたいなものがもちっと出せたら面白くなったと思う。
 こういう「演劇をミセモノとしてとらえる」劇作家は、寺山修司という偉大過ぎる先人がいるので(海外だとフェデリコ・フェリーニかな)、どうしても比較して見てしまう。脚本家さんは寺山さんやトッド・ブラウニングの『フリークス』やフランケンシュタインとかにも影響を受けているように見えるが、どうしても「若書き」で深みのなさが目立つ。若くしてドロッとした情念をピュアに演じられる人たちでないと面白くなんないのよ、こういうのは。


 続けてAMCで映画『交渉人 真下正義』。
 公開2週を経て、興行収入一位を爆走中だが、ヒットしてるからと言って面白いとは限らない。実のところそんなに期待してたわけじゃないんだが、青島が出ないだけで、『踊る大捜査線』シリーズがこんなに面白くなるとは思わなかった(笑)。こういうのも「嬉しい誤算」と言っていいものかどうか。
 映画第1作も第2作も、青島が叫ぶたびにドラマが停滞していた。主役も馬鹿、敵対する犯人も馬鹿では、知的エンタテインメントとしてのミステリーなんぞ成立するわきゃない。ミステリーはやっぱり知性と知性のぶつかりあい、騙すか騙されるか、裏をかけるかかけないかの権謀術数がなきゃ面白くはなんない。ユースケ・サンタマリア演ずる真下正義を「知性派」と呼べるのかっていうと、ちょっとどころかかなり厳しいのだが、あまり知性派過ぎても観客はついて来れないから、恋人の尻に敷かれてる程度でちょうどよいのだろう。
 脚本家が君塚良一から十川誠志に変わったのも今回の成功に繋がっている。横枝が多くて幹がシャンとしてなかった前作までと違って、交渉人の真下と、地下鉄を暴走させている犯人との対決だけにストーリーが絞られているから、否が応にもサスペンスは盛り上がるのだ。
 ただその「面白さ」というのが全て過去の映画の「引用」、悪く言えば「パクリ」で成り立っている点が道義的にどうか、と思わざるを得ない。映画中でも『ジャガーノート』や『オデッサ・ファイル』などにインスパイアされていることが示唆されるのだが、それだけに留まらない。地下鉄の××だの鴉だの犯人は××だの、これって全部『劇場版 ××××××××××』だし、ラヴェルのボレロでクライマックスって映画はもう何本見たかわかんないくらいだ(十川さんがアニメ畑から来た人だってこと考えると映画『デジタルモンスター』の影響が強いかな)。でもって「××××」はヒッチコックの『××××××××』だもんねえ。名作の「いいとこ取り」なら、一見「面白く見える」のは当然なんである。
 でもそういった「寄せ集め感」がしてしまう以上は、面白いって言っても、オリジナルな魅力と言うには程遠い。それに、「前作までが酷すぎたから総体的に面白くなった」ってこともあるんで、未見の方はあまり期待して見に行くのはどうかとは思う。
 役者陣ではもう何と言っても出ずっぱり國村隼さんの演技が最高である。こちらはお母さんの八千草薫の尻に敷かれているのだね(笑)。

2004年05月21日(金) 『イノセンス』カンヌ上映。
2003年05月21日(水) すっ飛ばし日記/モンティ・パイソンな女
2002年05月21日(火) ハコの中の失楽/『KATSU!』3巻(あだち充)/『アリソン』(時雨沢恵一)ほか
2001年05月21日(月) アニメな『ヒカ碁』/『臨機応答・変問自在』(森博嗣)ほか


2005年05月20日(金) 井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』

 「朝鮮新報」の取材に応じて、映画監督の井筒和幸氏がした発言が、ネット上で波紋を呼んでいるようである(「ようである」と柔らかな表現にしているのは当然「2ちゃんねる」あたりでの論議がかまびすしいらしいのだが、ウィルスが怖いんで覗きに行ってないためである。キーワード検索するといろいろ引っかかりはするので、「いろいろ言い合ってんだろうな」とだいたいの想像はできるのだ)。『パッチギ!』で日本人高校生と在日朝鮮人の少女の恋愛を描いたことが取材のきっかけになったのだろうが、確かにその発言を取り上げてみると、一瞬、「何だこれは?」と目を丸くする人もいるだろうことは分かる。
 曰く、「(日本人は)拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げた」。
 これに激怒した人たちは、当然、「拉致問題は『物語』じゃない、『事実』だ!」と文句をつけているようである。実際、私が巡回している日記でも同様のことが書かれてあって、「蓮池さん夫婦や地村さん夫婦や曽我さんは幻想なのか?」とか「まだ拉致問題は解決していないのに、この発言は人間としてどうだろうか」「拉致被害者の家族は井筒監督に直接抗議せよ!」と、かなりの激昂ぶりである。
 もちろん、井筒監督が本当に「北朝鮮は拉致などはしていない。全ては日本の捏造だ」と言ってるのであれば、その怒りは当然のことであると言える。しかし、当該の記事を実際に読んでみると、ちょっとその解釈はおかしい、ということに気がつくのだ。

 念のために「朝鮮日報」から直接引用してみる。

> 「英国人はアイルランド問題について関心が高く、いつも熱く語り合っている。ところが、日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた。当然、朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた。なのに拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げ、日々それを塗り替え、あげくに国交交渉どころか、経済制裁論にまでエスカレートさせてしまった」

 まず注意しなければならないのは、これが北朝鮮の記者によるインタビューの要約で、恐らくはかなり「自分たち寄りのニュアンスで」まとめられた言葉だろう、ということだ。だから、さらりと流して読んでしまったのでは、井筒監督の意図がどこにあったのかに気づかないまま、「朝鮮日報」に簡単に「誘導」されてしまうことになる。それを回避するためには、要約・省略はされていても、微妙な部分に「削りそこなった」部分があるものなので、それを丹念に見ていく必要があるのだ。

 「日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」という言葉一つにしてみても、かなり政治的に我田引水的な意味合いが込められていることはアノ国のあり方を見れば見当はつく。朝鮮問題についてウカツなことが言えないのはこういうところで、そりゃあ、私だって年がら年中朝鮮問題を考えているわけではないが、つい「そっち方面には無関心でねえ」などと言おうものなら、「朝鮮問題にカブレている」人(必ずしも在日朝鮮人ではない)からは、「だからアンタはダメなんだ! 歴史を何も知らないし、加害者意識に欠けている!」なんて罵倒されてしまうことになる。「関心はない」とは言ったが、「知識がない」とは私ゃ言ってないんだが、もう「過去の歴史に学ばない日本人」のレッテルを張られてしまうのである。馬鹿馬鹿しい話だが、イデオロギーに凝り固まった手合いはやたらいるのだ。「無関心」を責められたら、「お前、メシ食ってるときやクソしてるときも朝鮮問題について考えてるのか」とか「今の私にはオゾンホールによる環境破壊のほうが切実な問題です」と言って煙に巻いてあげよう。

 それはさておき、井筒監督は果たして本当に「拉致なんてしてない」と思っているのだろうか。そこまで言いきれるだけの何か確かな根拠があって主張しているのだろうか。金正日自身すら認めている事実なのに、それを覆す根拠などそうあるとは思えない。井筒監督の発言、額面通りに受け取るにはどうにも疑問がある。
 そう思ってよく読んでみると、「拉致問題をきっかけに」とある通り、井筒監督は決して拉致を「幻想」などとは言っていないことに気がつくのだ。「物語」と井筒監督が言っているのは、「朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」「朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた」という言葉との関連から考えても、「平和な日本」の部分なのであって、日本が過去に戦争を経験したことすら忘れ去ってしまっている現状を指して批判しているのだ。そう考えないと、本文全体のつじつまが合わなくなる。
 ここで、「いや、俺はちゃんと忘れてないぞ」と反論したって無意味である。井筒監督が批判しているのは「忘れている人たち」であって、「忘れていないあなた」ではないのだ。

 「分断の原因」については私も井筒監督に反論したいとは思うが、ここで「悪いのは米ソの冷戦構造だろう」と反論するのはやはり「日本の責任回避だ」と突っ込まれることになる。「そもそも日本が植民地支配をしなければ米ソに付け込まれることはなかった」という恨みが北朝鮮・韓国の双方に長年に渡ってある反日感情の根拠になっているので、そこから理解して反論をしなければ、これも火に油を注ぐことにしかならない。「逆恨みも恨み」なので、ただ突っぱねれば終わりになるわけではないのだ。
 確かに、井筒監督は北朝鮮に対して同情的だとは思うが(知り合いに北朝鮮人が多いらしい)、これを「拉致自体を物語としたがっている」と読み取るのは無理がある。そう読みたがっている人は、井筒監督に対しての先入観というか偏見が先にあって、何としても井筒監督を「北朝鮮の広告塔」呼ばわりがしたくて無理やり読んでいるのであろう。我田引水というか「捏造」という点では、朝鮮日報を笑えるものではない。

 『パッチギ!』という映画自体、私はあまり政治的に読み解きたくはないのだが(単純に『ロミオとジュリエット』的青春ものとして面白く出来ていた)、以前も書いたとおり、批判の矛先は“日本人にだけ向けられたものではない”。「迫害されている在日朝鮮人」という被害者意識を逆手にとって日本人を責めたてる在日の老人たちの卑怯さに対してもちゃんと目を向けているのである。朝鮮日報のインタビューがどれほどの長さのものだったかは分からないが、仮にそういうことを井筒監督が語ったとしても、当然、カットされているであろう。そもそもインタビュー記事が監督の生の声であると判断すること自体、メディアの本質というものが分かっていない。

 しかし、これも誤解を招かないように念のために書いておかなければならないのだが(まあ、誤解したい人は何言ったってわざと誤解するものではあるが)、私は井筒監督の思想に全面的に賛同しているわけではない。在日の問題はデリケートであるだけに、その扱い方が大雑把に過ぎるのはちょっとどうかとは思っているのだ。「北朝鮮のスポークスマン」のように勘違いされても仕方がない「ウカツさ」は確かにあって、逆にだからこそ「あんなウカツな人を広告塔にしてどうする」と、「広告塔説」を否定する根拠になっているのである。
 あのね、井筒監督の発言を聞いてりゃさ、あの人がそんなに「難しいこと」が考えられる人ではなくって、極めて庶民的な感情から映画を作り、発言していることは察しがつくってもんじゃないのよ。嫌われると分かっててプロが映画評を好き放題言ってるのは馬鹿な証拠だ(笑)。一番「ウカツ」なのは、朝鮮日報の取材に応じちゃったことだろうが、これも「断る理由がない」とか、素直過ぎる理由で受けちゃったんだろうなあと思うのである。

 井筒監督が思想的なところから外れている人だという根拠は、記事中のこんな文章にも表れている。

>「人の苦しみに寄り添う芸術とは? 教条主義やウソではない、ピカソのゲルニカのように厳しい現実の中から生まれるものでなくてはならないと井筒監督は考えている」

 このあたりの発言がかなり「要約」されているのは、恐らくは朝鮮日報について「都合の悪いこと」が書かれていたからだろう。「教条主義」というのが何を指しているのかが曖昧になっているが、これが井筒監督の出身地である「大阪の教育」という現場を考慮に入れてみれば、典型的な戦後民主主義教育、サヨク教育であることは容易に察しがつく。サヨク批判の部分はぼかさざるを得ないのだ(全くカットしてしまっては、井筒監督からクレームが来るだろうから、「紙面の関係で要約」という姑息な手段を取るのである)。
 ピカソの『ゲルニカ』を引用しているのもその推測を補強するもので、井筒監督の世代なら、当然、1988年に起きたいわゆる「ゲルニカ事件」のことも知っているだろう。福岡市立長尾小学校の卒業式で生徒たちが壇上に『ゲルニカ』を掲示しようとしたのを校長によって日の丸に差し替えられ(『ゲルニカ』の絵自体は式場後方に貼られたそうで問題はないと思うのだが)、それを卒業生の女子の一人が式の真っ最中に突然立ち上がって抗議し始め、また、女子の発言を制止しようとした校長を教員の一人が恫喝し、戒告処分を受けたという事件である。その教員というのがまたコチコチのサヨク教師だったものだから、この女子が「洗脳」されていたことは想像に難くないのである。
 だが、『ゲルニカ』はそもそもそんなひ弱な思想のサヨクに利用されるような芸術作品ではない。ピカソがナチスドイツによるゲルニカの町の空爆の悲劇を、わずか20日あまりの製作期間で一気に描いたのは、もっと根源的な、戦争という人間の業を描かないではいられなかったからである。井筒監督が「人の苦しみに寄り添う芸術」として『ゲルニカ』を自身の映画の根本にあるものと引用している以上、それは単純な「サヨク」芸術の範疇に留まるものではないのだ。

 まあ、右寄りのみなさんもさ、井筒監督が「言ってもいないこと」に難癖付けるんじゃなくて(繰り返すけど、「拉致なんてない」とも「拉致られても当然だ」とも言っちゃいないよ)、言ってることに対してちゃんと文句を付けようね。でないと「ただの馬鹿」と見なされるのは自分たちのほうになるよ。仮に井筒監督自身が在日朝鮮人で拉致に関連してたとしても(そうは思えないが)、『パッチギ!』は決して北朝鮮を正当化するような映画にはなってなかったので、素直に誉めたいと思う。……なんかこんなふうに書くと『パッチギ!』がよっぽど気に入ったのかと思われそうだけど、「面白さレベル」で行けば実は「まあ普通」なんだが(笑)。


 今日はしげとは博多駅で待ち合わせ。
 ヤマダ電器でDVDを買って、「しーじゃっく」で回転寿司。
 そのあと、今日で最終日の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』を見に行くつもりだったのだが、しげの体調があまりよくない。今日の昼間、ラクーンドッグさんたちと「エコロジーな缶詰ワールド」の次回公演の打ち合わせをしていて、かなり疲労したそうである。「寝不足だしきついんだよ」と言うが、私だって毎日のようにしげの「スリーピング・バイオレンス」の被害に遭っているので、3時間くらいしか寝ていないのだ。でも無理強いしたってしようがないし、必ずしも評判のいい映画でもないから(笑)、私一人で行くことにする。
 しげの話によれば、ラクーンドッグさんも『弥次喜多』は見たがっていたそうで、「今度みんなで一緒に見に行こう」とか相談していたとか。それなら、最終日であることを教えて差し上げれば、一緒に見に行けるかとも思ったのだが、しげに連絡を付けさせてみると都合が悪くて無理とのこと。残念だったが、ドッグさんも見たい映画のスケジュールをとんと調べていないというのは呑気なことである。つか、そういう「習慣」がない人みたいね。血液型O型かなあ(笑)。
 しげが捨てられた子犬のような目で「どうしても一人で行くと?」とグスグス鼻をすすりながら私を見るものだから、私のココロの中でも「どうする? アイフル?」と声がしたが、もちろん袖を振り払うように見捨ててキャナルシティへ。

 最終日で楽に座れるかと思っていたのだが、結構お客さんが入っている。ざっと百人ほどか。しかも女性が連れ立って、というパターンが多い。しりあがり寿の原作マンガのファンか、監督の宮藤官九郎のファンか、主演の長瀬智也・中村七之助のファンか、と考えると、圧倒的に三番目なんだろうなあと、一番目の私はちょっと場違いなところに来てしまったような気にならないでもない。洋服売り場に迷い込んだ斑目(『げんしけん』)みたいなもんか。
 ちょうど後ろに並んだ女性陣が、これが何でここまで受けるんだってくらいに映画の間中、笑い続けでうるさい。いや、笑っちゃいけないわけではないのだが、明らかに「笑いの沸点」が低いのだ。弥次さんも喜多さんも、江戸時代人だからバイクに乗るのはおかしいと寺島進の白バイ岡引に注意を受けるとか、スキップしようとしてもスキップはできないとか、その程度でけたたましく笑うのだ。まあ古田新太が追いはぎにあった惨めな姿で「清水次郎長です」ってのや、中村勘九郎のアーサー王に研ナオコの脱衣婆といったキャスティングの妙、この世で死んだ人間の魂は老若男女問わず「荒川良々」になるってギャグには私もちょっと笑ったが(CGによる「荒川良々軍団大暴走」およびエンドクレジットのダンスは必見である)。
 そういう環境で見たもんで、反作用的に映画の印象はあまりよくない。確かに「弥次さんが、ヤク中の喜多さんを回復させるためにお伊勢参りに連れて行く」という原作のコンセプトは守られているけれども、しりあがり寿のあの“崩れた絵柄”から滲み出る独特の倦怠感、ほのぼのとしているようで何だか切ない味わいは生身の人間に演じられるものではない。主役の二人がマンガチックな演技を無理して演じているものだから、旅の途中途中の展開がやたらもたついて感じられてしまうのである。露天風呂で、弥次さんが喜多さんのタ○ブクロを引っ張って噛り付く、なんてギャグ、マンガならヒトコマでパッと描けちゃうものを延々実写でやったって退屈するだけだ。いったん原作を「忘れて」映画を見るべきだったと、見終わってから後悔した。
 全体として、ややぼやけた印象ではあるが、江戸時代と現代、現世とあの世、現実と空想とが混交する中で、「弥次さんだけがおれのリアルだ!」と叫ぶ喜多さんの叫びは切なく響く。その「リアル」だって幻想に過ぎないということはもラストシーンで再び「伊勢」に向かって疾走するイージーライダーの二人のその先が、『幕末太陽伝』の左平次が駆け去っていったのと同じく、どこにも続かない無明の世界だからである。
 あと、役者さんでこの人はいいなあと思ったのは意外にも弥次さんの妻・お初を演じる小池栄子だった。『義経』での巴もそうだが、目鼻立ちがくっきりしているのがそもそも役者としてかなり有利なのだが、その表情をどう生かせばいいかをよく知っているなあ、という印象なのだ。弥次さんと喜多さんの関係を知って、「米を磨ぎます」と真夜中に延々と米を磨ぎ続ける怖さ。包丁で刺されて死んでいく表情の苦しさ、悲しさ。自分を殺した弥次さんを許すときの慈母のような表情。充分演技賞ものだと思うのだが、グラビアアイドルだってことで批評家からは色眼鏡で見られちゃうんだろうなあということも予測がつくので、それがまた悲しいのである。

2004年05月20日(木) 職場に14時間もいたくないわい(ーー;)。
2003年05月20日(火) すっ飛ばし日記/親を崇める子供たち
2002年05月20日(月) もっとギャグを!/『蛇神さまといっしょ』2巻(桑田乃梨子)ほか
2001年05月20日(日) 念の入った話/DVD『NHK少年ドラマシリーズ なぞの転校生機戮曚


2005年05月19日(木) 寝たい眠たい眠りたい/『アタックNo.1』第六話

 なんか寝不足がかなり酷くなってる。いや、これは地震のPTSDではなくて、原因はまたまたしげである。最近、しげの「ドメスティック・バイオレンス」、いや、「ドメスティック・スリーピング・バイオレンス」が酷いのだ。
 ともかく夜中にいきなり寝言を言ったかと思うと、隣に寝ている私をいきなり殴ってくる。今朝も午前2時ごろに「どうせ『欽ちゃんの仮装大賞』に出るっちゃろ!?」と叫んで、パンチで鼻を殴られた。もちろん、その直後にしげはイビキをかきだす。横じゃたまらんと下にさがると足でカニバサミをされて首を締められる。起きてるときに文句を言っても「眠ってるんだから知らんよ」と言われる。ホントか? ホントに寝てるのか!?
 おかげで職場のイネムリも酷くなってきていて、まずいんだけど。会議中にどうもイビキかいたらしくてよ。周囲の笑い声で起きちまったよ。
 誰か私に安眠をください。 
 

 昨日の日記で書こうと思ってたけど疲れて寝て書けなかったテレビ番組の話。
 『確立10000000分の1!? 世にも不思議な超偶然事件簿!! あれは奇跡? 奇跡じゃないってば!! 世界の奇跡を藤井隆が暴きます』と、タイトル写すだけでいやになるほど長い。番組自体は世界で起こった「奇跡的な事件」が、本当に「奇跡」と呼ぶに値するものなのかどうかを専門家の意見を聞いたり実験したりして検証しようというもの。別に藤井隆自身が何かするわけではない。唐沢俊一さんもチラッと出てたがたいしたコメントはなし。つか編集でかなりカットされてるんだろう。
 「奇跡」と言っても、キリスト教国家における「神の奇跡(「奇蹟」と書く場合も多い)」って感覚は日本人には殆どなかろうから、「めったにない出来事」くらいの意味合いでしか使われてないんじゃないか。事故で命が助かっても「奇跡」と簡単に使われちゃうくらいである。私も頭蓋骨骨折の事故で意識不明の重態に陥ったが、「奇跡」的に生還したことがあるが、これだって「運がよかった」「偶然だろう」と言われてもその通りなんで、「いいえ奇跡です」なんて強弁するつもりは毛頭ない。
 番組内で伊東四朗も「私と君が出会ったのがそもそも奇跡」となんか恋人を口説く定番な台詞を藤井隆に向かって言ってたが(笑)、つまりは「奇跡」と「偶然」の違いなんてその言葉に込められた「思い」以外には実質的な差異はないのだ。「ただの偶然」だと分かっちゃいても、危機的な状況から身内が生還したりすれば「奇跡」と呼びたくなるのは人情というものだろう。
 だから「奇跡じゃないってば」というアプローチの仕方にはどこか粋じゃないっつーか、野暮っつーか、別にどっちだっていいものをムキになって否定しようとする神経症的なニュアンスがあるっつーか、番組製作者の性格の悪さがそこはかとなく感じられてちーとばかしやな印象なのである。まあ泡沫番組にいちいち目くじら立てるのだって粋じゃないけどな。
 しかしこういう番組が成立してしまっている、というのは、逆に「奇跡」の概念が若い人たちの間では我々の世代よりも過剰な形で捉えられ、それこそ「信仰」的なものにまで昇華させられているせいもあるかもしれない、という気もしてくる。なんかオカルティックなものを無条件で信じて力説するヒトも決して少なくはないから、いっぺん神秘的な思考に偏りがちな人たちに対してはハッキリと「幽霊もUFOもUMAも永久機関も神様もいないんだよ」って否定してあげといたほうがいいんじゃないか。その意味ではこういう番組のほうが検証なき『ふしぎだがほんとうだ』みたいな『奇跡アンビリーバボー』よりは面白い。欠陥は多々あるけど。
 番組で取り上げられてる事件は、オーストラリアで起きたカンガルーの人命救助や、海に落とした指輪がタラの腹の中から見つかった出来事、別れ別れになった恋人が50年ぶりに再開したりとか、このへんは「奇跡」といってもそうたいしたことはない。
 けれど、第2次大戦中に5500メートルの高さからパラシュートなしで落下し、ほぼ無傷で生還したイギリス空軍パイロットのエピソードなどは確かに「めったにない」程度の出来事ではなく、こりゃ人々が「奇跡」と驚いたのも納得できはする。もっとも銃撃を受けて墜落している飛行機の中から脱出したとしてもそれが「5500メートル」の高さだったとどうして分かったのか、実際にはもうちょっと低空で飛び降りたんじゃないかって疑問はあるけど。それが確率的に起こりうるのかどうか検証することもさることながら、「その話が本当かどうか」って検証を先にしたほうがいいんじゃないかという気がするんだけどね。「奇跡」を躍起になって否定しようとすると、超自然現象を全て「プラズマ」のせいにしたがる某教授みたいにかえっておかしな事になりかねないと思うんだけどね。
 

 開催中のカンヌ映画祭で、北野武監督の新作『TAKESHIS’』のポスターが話題を呼んでいる。タイトル内容ともに未定で、主演、監督がたけしであることしか分からないが、それでも既にフランス、英国、イタリア、ロシアなど欧州各国のオファーが相次いでおり、 映像を見ないと買わない欧米のバイヤーたちの常識からすると極めて異例なのだそうな。そこまで「TAKESHI」の名前を信頼していいのかって思うけど、実際のところは「ある程度のヒットを見込める作品にはツバつけとけ」って程度のもんではないのかな。
 一説には北野監督の次回作は『座頭市2』とのウワサもまことしやかに流れてはいるが、現在、たけしが髪を金髪にしているところからも信憑性がないわけでもない。観客に北野武のどんな映画が見たいか、と問えば大半は『座頭市2』と答えるだろう。でもそういう「守り」の姿勢に北野武が入るものかどうか、いや、入っちゃったらかえってつまんなくなるんじゃないか、ともかくこれまで「タイトルだけ先行していて公開まで情報が抑制されている」作品が必ずしも出来がいいものばかりとは限らない、というジンクスを考えると、過剰な期待は禁物かなって思うのである。なんかいつのまにか「巨匠」扱いされてるけど、映画の出来不出来は結構激しいと思うんだけどなあ。


 今日も残業で、帰宅は八時過ぎ。何とか仕事を切り上げたのは『アタックNo.1』第六話を見るためである。
 前回からの「富士見学院存続の危機編」が一区切りで、これで取り澄ました校長役の小林幸子も見ずにすむかと思うとようやくホッとできるかな。世の中にはもっと面白いドラマやアニメも放映してるんじゃないか、落語好きなら『タイガー&ドラゴン』のほうをもっと重点的に見るべきじゃないかとか、だんだん見るのが苦痛になってきているけれども、なんとか半分まで付き合ったし、いよいよ来週からインターハイだから。
 40年近く前のマンガを現代に蘇らせるったって、どうせキャラクター名以外はオリジナルでやらなきゃ通用するものでもなし、と思っていたのに、鬼コーチと化した本郷の「富士見学院のメンバーに自信をつけさせるために、実業団と練習試合をさせて、わざと負けてもらう」っていう作戦は何なんだろうね。「手加減する」程度ならまだしも、そんな依頼、本物の実業団だったら、ふざけんなって怒るぞ。なのに、事の真相を知ったこずえ以下の富士見の連中、出ていこうとする本郷に向かって「本郷コーチ、私たちが間違ってました!」って涙を流して謝っちゃうんだから、もうこの古臭さというかくだらなさは何なんだろうと思う。
 こうなると猪野熊監督には実はやっぱりバレーボールの未来のためを考えていた、なんて道義的な人間としてオチをつけるのではなくて、極めて個人的な、自分の欲望を満たすだけに選手たちを苛める悪辣なサド野郎でいてほしいと思ってしまうんだけど、むずかしいかなあ。

2004年05月19日(水) 鬱陶しい雨の日の、鬱陶しい話。
2003年05月19日(月) すっ飛ばし日記/あるものが見えない女
2002年05月19日(日) 今日は一日寝て本・ビデオ……っていつもや/『Sink』1巻(いがらしみきお)ほか
2001年05月19日(土) 地上の星々/『狼には気をつけて』2巻(遠藤淑子)


2005年05月18日(水) ネットに一杯のオカマ/『竹熊漫談 ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(竹熊健太郎)

 ネカマ、というコトバを初めて聞いたのは何年前だったか、コトバもそうだがイヤラシイことをする人種はいるもんだと、やっぱりネットは「魔窟」かなと警戒心を新たにしたものだった。当たり前と言えば当たり前かもしれないが、ネットオカマはいても、ネットオナベの話は余り聞かない。ちなみに「ネカマ」でGoogle検索してみたらヒットしたのは91000件で、「ネナベ」は7000件だった。
 男と女のどっちがスケベかというのは、不毛な論議ではあるけれども、こういう数字を見るとやぱり男の方がスケベなんかな、とは思う。男が女のふりをするのはまあ、相手を騙してからかってやろう、という動機が大きいだろうが、女が男のふりをするのは女だということで好奇な目で見られたくない、という心理が働いてる場合のほうが大きいみたいだしね。
 私も役者のハシクレではあるので、演技として「女になること」に抵抗感はないのだが(前回の芝居を見て気分悪くなったヒトはすみません)、正体を隠してネットで他人を騙す気にはなれない。映画『ポケット一杯の幸福』ではないが、もしも万が一、実際に相手と出会うことにでもなったらどうするんだろう、女装でもするのか、とか余計な心配をするからである。
 ……とか日ごろから思っていたら、まさにそんな事件が(笑)。
出会い系サイトで知り合った群馬県桐生市の会社員(46)から現金約6万円をひったくったとして、無職星野賢政容疑者(24)と、無職少年(16)が群馬県警桐生署に逮捕された。
 2人は去る2月26日夕方、伊勢崎市宮子町のゲームセンターの駐車場に会社員を呼び出して、“女装した少年”が援助交際の値段交渉を装って会社員の車内に入って、現金入りの財布をひったくったという。
 よく男とばれなかったものだと思うが、もともと犯人の少年は細身で身長も低く、髪も長髪で金色に染めた上に付け毛もしていて、紺のミニスカートにグレーのカーディガン姿でアイシャドーやマニキュアまでする念の入れ方だったそうだ。16歳でもガタイのデカイやつだとなかなか騙せるものでもなかろうから、よっぽど「おんなおんな」していたのだろう。実際、会社員はその姿を目にしても全く男だとは気がつかず、みごとに騙されたそうだ。
 でもこの事件の場合は、ネカマを演じていたのも、初めから窃盗目的だったんじゃないかって気がするね。もしかして日常的に女装シュミがあったか、星野容疑者とカラダの関係もあったのかもしれないが、ともかくあるとき、少年の「女っぽさ」が「利用できる」ことに、本人か星野容疑者が気づいたんだろう。「天啓」でも受けたように感じたのかもしれない(笑)。
 でも、それだけの「素材」であるのなら、合法的に利用する手段もあったんではないかと思うのである。ネカマでエンコーでひったくりなんてしみったれたことしなくても、それこそ「役者」になれば引っ張りだこだろう。女装の似合う少年とか、ホントにいたら需要多いんだぞ。映画『覇王別姫』とか見て参考にすればよかったのに。……いやまあ、うちの劇団も役者不足には悩まされているので、「もったいない」とか思っちゃったんで。

 そう言えばうちのメンバーでネカマ経験があると言えば某君であるが(特に名を秘す)、日記で「彼女ができねえ」とかしょっちゅうボヤいている。いや、ネカマやった時点で「彼女」云々なんて言ったって共感は得られないと思うぞ(笑)。


 黒澤明監督・三船敏郎主演の映画『用心棒』とその続編『椿三十郎』のリメイク権を、角川春樹事務所(注・角川書店ではない)が入手したって。
 黒澤監督作のリメイクって、海外では昔からやたら行われてきたけれども、日本じゃ何だかタブーになってるような感じで、数えるほどしか例がなかった。そのへん、角川春樹社長も歯がゆく思ってたんじゃないかな。もともと『天と地と』なんかも明らかに黒澤時代劇に対抗する意識が濃厚だったし。ちょうど『酔いどれ天使』や『生きる』のハリウッド・リメイクが決まったとこだから、もう我慢できねえって感じで、3億円の契約金を黒澤プロに払ったってんだから豪気なもんじゃある。もっとも、黒澤リメイクで成功した例ってのもそう多くはないんで(『荒野の七人』くらいのものか?)、正直、先行き不安な企画だ。
 一番の不安材料ってのがそもそも「角川春樹事務所製作」ってとこじゃないか。まさか監督角川春樹自身か? もしそうだったら、どんな駄作ができあがることか、想像するだに恐ろしい。
 それでも『七人の侍』のリメイクよりは(『SAMURAI7』のつまんなさ、あれ何なんだろうね)まだリメイクのしがいがあるのが『用心棒』かもしれない、とは思う。黒澤明の代表作の一つに挙げられてはいるけれども、公開当時から「荒唐無稽過ぎる」という批判もある(佐藤忠男や田山力哉は特に『用心棒』を嫌っていた)。役者の力、演出の力であまり気づかれないが、脚本上の欠陥もある。
 私が一番弱いなと思うのは、主人公の三十郎の行動の動機に今一つ説得力がないという点だ。何しろ三十郎は最初から馬目の宿の人々を救うつもりでヤクザたちの抗争を煽っているのである。旅から旅の風来坊で、宿場とは縁もゆかりもない三十郎が、ヤクザに入門しようって若造を見かけて、酒場の親爺から愚痴を聞かされただけで、どうしてそんなお節介極まりない気持ちになったのか、どうも腑に落ちない。「三十郎がそういう性格だから」と納得するしかないわけで、この問題は黒澤明自身も気になりはしたらしく、逆手を取った形で続編の『椿三十郎』のストーリー上の重要なモチーフにすらなるのである。なんたって、若侍たちに協力する動機が「てめえらのやることは見ちゃいられねえ」だけである。若侍たち自身が「縁もゆかりもないのだから」と三十郎を信じられなくなっても無理からぬ話である。
 お前、実は公儀隠密なんじゃねえか(笑)という皮肉の一つも言ってみたくなるが、どうやら同様の思いをしていたのが岡本喜八で、シリーズを受け継いだ『座頭市と用心棒』では、用心棒を本当に公儀隠密にしてしまった。シリーズ最終作の稲垣浩監督『待ち伏せ』でも似たような「役目」を負わされている。そういう「縛り」は三十郎というキャラクターをかえってつまらなくしてしまうが、物語の不合理を正すことを優先するか、主人公の奔放な魅力を優先するか、どちらを取るかの判断は難しいところである。
 『用心棒』の原作とされている、ダシール・ハメットの『赤い収穫』では、この問題はもともとクリアーされている。主人公はコンチネンタル探偵社のオプ(調査員)だからだ。依頼を受けてポイズンヴィルに派遣され、そこで自分の依頼人が消されたことを知る。コケにされ、そのまま手ぶらで帰るのが業腹だったオプは、街のボスの一人である依頼人の父親に取り入り、街で起きる事件の数々を「解決」していくのだ。ここで重要なのは、映画の三十郎と違って、コンチネンタル・オプは抗争するボスたちをハメるための仕掛けを殆ど弄していない、という点である。もともといつ殺しあいが起きてもおかしくない状況で、実際に「暗殺」が横行しており、証拠がなくてお互いに動けなかったものを、オプは独自の調査で証拠を集めていくだけなのだ(たまにハッタリも使うが)。つまり別にオプがいなくても、ボスたちの抗争は勝手に起きて勝手に収束していたことは明らかで、オプのやったことはその崩壊のスピードを速めることに過ぎず、その目的も「コケにされた復讐」と「上前を撥ねる」ことにあった。三十郎が持っていた天然の正義感などは全くないのである。その意味で『赤い収穫』を『用心棒』の原作とするのには私としては大いに異を唱えたいところだ(小説からの明らかな台詞の流用があるので、黒澤明なり脚本家の菊島隆三なりが『赤い収穫』を読んでいたことは間違いないのだが)。
 『用心棒』のリメイクに関して一番難しいだろうと思うのは、製作当時の昭和36年ですら、「風来坊の正義感」に違和感を持った人々がいたというのに、更に即物的な人々が増えた現代、三十郎のようなキャラクターが受け入れられるものだろうか、という疑問である。新たな「原作小説」は既に福井晴敏に依頼されているということだが、そういった問題点にはいささか無頓着な人のように思えるので、果たしてヒットを見込める作品に仕上げられるかどうか、これも不安材料のように思えてならない。
 もっと単純に、「誰に三船敏郎の代わりが務まるのか」という疑問を抱く人も多いだろう。時代劇の主役で殺陣ができる役者と言えば、真田広之、役所広司、渡辺謙くらいしかいなくなってしまったが、その誰が演じても違和感は付きまとう。リメイク企画そのものが、安易ではあるのだが、リメイクの要となる役者が不足している日本映画の弱体化の方こそ本来は批判されてしかるべきではなかろうか。
 それにしても黒澤プロも自分とこで映画化しようとしないでよく簡単に映画化権を売っちゃったもんだが、もしかして新作『鬼』(これも黒澤明原案である)の資金繰りに詰まったとか、そういうこっちゃないだろうな。こちらも監督黒澤久雄ということで不安材料ありまくりどころの話ではないのだが。


 福岡西方沖地震のせいで、うちのマンションの壁にもあちこちヒビが入っている。
 うちの部屋には目立った被害はないのだが、どこぞでは漏水も起こっていたとのことで、マンホールの付近ではコバエが涌いていて、ちょうどすぐ近くに駐車しているしげの車などはコバエの被害をモロに浴びていた。
 いい加減で早く修繕してくれないものかとしげはブツブツ言ってたが、ようやく管理会社から「マンホール周辺を補修しますので、いったん車を移動させてください」と通達が来たのが二、三日前のこと。その知らせは私が受け取っていて、日時は今日だよと、しげにも伝えておいたのだが、しげは何を勘違いしたのか、それが来月のことだと思い込んでいた。地震からかなり日が経っていて、これ以上修理を遅らせられるはずもないのに、何でそう思ったのかは不可解だが、イカレアタマのしげのことだから理解しようったって無理である。字を読み違える、見えないものが見える、見えるものが見えないというのはしょっちゅうで、お前は関口か榎木津か、ってなもんである。
 管理会社の連絡で慌てて車を移動させたそうだが、「あそこのうちは大事な通知をきちんと見てないやつらだ」とか思われたんだろうなあ。私はちゃんと見て、しげにも伝えといたんだぞ! しげの馬鹿なのは今更だが、こっちまで同類と思われるのはちょっと心外に感じないでもない。しげとつるんでいると小さなことでも巻き添え食らうこと多いのよ。


 竹熊健太郎『竹熊漫談 ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(イースト・プレス)。
 タイトルの『ゴルゴ13』とか『美味しんぼ』『ガラスの仮面』がいつどういう形で終わるのか、という竹熊さんの「憶測」は正直な話、読んでて全然つまらない。
 『サルまん』式のマンガの物語パターンを当てはめていけばこれはこうなってこう落ちて、という予測は何通りでも想像できるのだが、「その予測に従いたくないから」、これらのマンガは未だに完結しない(できない)のである。大風呂敷を広げたら簡単にはたためなくて、手塚治虫や石ノ森章太郎に未完作品が多いのも、結局は「読者の予想を裏切るほどの素晴らしい結末」を思いつけなかったからだ、ということだ。『ゴルゴ』はもう確実にさいとう・たかをの死で未完に終わると思うけどね(実際の作家は別人だから続けるという手もあるが、もう打ち切った方が賢明だろう)。
 マンガ好き同士のヨタ話で「あの話のオチはきっとこうなるぞ」と予測しあうのは楽しいが、それを本にしたって、突っ込みあえないから、「へえ、あんたはそう思ってるんだ。よかったね」で終わってしまうのである。更に言えばこの竹熊さんの予測自体が底が浅くて膝を叩くほどのものではないのが致命的だと言える。この本読んで「俺はもっと面白い結末考え付けるぞ」と思った読者は多かろう。
 それよりも、後半の「自分のハナシ」や「オタクのハナシ」のほうが格段に面白い。70年代、80年代のオタク創世記に青春を過ごしてきた人間は数多いが、彼らがみな一様に『ヤマト』にはまり、『ガンダム』にハマッていたわけではない。アニメが好きでも『ヤマト』を見ていなければ、『ガンダム』に燃えていなければオタクにあらず、アニメブームの本質も見えていないようなモノイイをする人は多いが、果たしてそんなに簡単に言ってしまっていいものかどうか。確かに当時の『アニメージュ』の表紙を飾っていたのは『ヤマト』『ガンダム』が圧倒的に多かったのだが、この両作が視聴率的には惨敗していたのは周知の事実である。
 竹熊さんは、“『ガンダム』にハマらなかった”オタクである。私生活でアニメにはまれる状態でなかったことも原因ではあるが、大塚康生ファンである立場からなら、たとえ『ガンダム』を見る余裕があったとしても、とても本気でハマれはしなかったろう。しかしそれが結果的に竹熊さんのアニメを見る視点を客観的かつ分析的なものにした。
 「素直にアニメを楽しむ人たち=オタク顕教」
 「アニメを政治的に擁護する人たち=オタク密教」
 という分析は、一見単純で、そんなに簡単に人を二分化して見ちゃっていいものかどうか、という疑問も抱かせるものなのだが、実際にアニメオタクの連中をナマで見ていると、この図式にピタッと納まっちゃうやつが多いのである。例えば『アルプスの少女ハイジ』を見ていたやつは「オタク顕教徒」で、裏の『ヤマト』を見てたやつは明らかに「オタク密教徒」だろう。作品の完成度という点で見るならば、『ヤマト』には「ほころび」がありすぎる。素直にアニメを見るなら、『ハイジ』に軍配が上がったのは当然の結果なのだが、それでも『ヤマト』を支持する「運動」が、現在のオタクシーンの母体を作ったのだ。
 では、「ハイジ」ファンだった人たちはオタクではないのか。そんなことはない。顕教と密教のどちらが本道か、などという論議は不毛である。その両輪があってこそ、アニメの総体は語ることが可能なのだ。『ヤマト』『ガンダム』と続くアニメのエポックとなった作品のいかにも「密教」な流れがアニメブームを牽引してきた事実を竹熊さんも否定してはいない。しかし、「アニメ密教」の人々が、アニメを「裏読み」ばかりし、しかもそれが「ドグマ」(独断・教義)に陥ってしまいがちであること、これは通ぶったオタクが自戒の念をもって認識すべきことではないだろうか。すなわち、面白いものを面白い、つまんないものをつまんないと密教オタクは素直に言えなくなってしまっているのである。
 考えてみたら、私も『ヤマト』『ガンダム』にそれほどハマらず、密教オタクが毛嫌いした『エヴァ』にはハマッたという点で、竹熊さんと共通している部分がある。言っちゃなんだが、「アニメと特撮」だけを見て、それで全てを語れる気になっている密教オタクとは、会話していてもその視野の狭さに閉口させられることが多いのだ(これは私の視野が広いと言いたいわけではなくて、相手の視野が非常識なくらいに狭すぎるのである)。言い古された言葉ではあるが、オタクはやっぱりほかのメディアに触れるなり日常を大切にするなり、そういうアタリマエなことを心がけたほうがいいと思うよ。

2004年05月18日(火) トンガリさん、更にトンガる! ……とほほ(T.T)。
2003年05月18日(日) すっ飛ばし日記/やっぱリ肉食う女
2002年05月18日(土) 世界の中心で馬鹿と叫んだ女/『彼氏彼女の事情』13巻(津田雅美)ほか
2001年05月18日(金) 増えるワカメのごとく……/『鬼切丸』20巻(楠桂)


2005年05月17日(火) 今日もまた石野眞子/『おねがい☆ティーチャー』1〜8話

 石野真子の余韻に浸りつつ一日を過ごす(笑)。
 いや、別に意図してそうしてるわけじゃなくて、頭の中で自然と「石野真子メドレー」が流れて来ちゃうのよ。『デカレンジャー』のスワン役くらいでしか石野真子を知らない若い世代には、何でそんなに石野真子が、と思われるかもしれないけれども、70年代半ばの山口百恵・桜田淳子・森昌子の「花の○○(←「中二」から「高三」まで学年が入る)トリオ」の時代から、80年代には入り、松田聖子・中森明菜を中心に、アイドル全盛時代を迎えるちょうど間隙にあたる時期に、石野真子は殆ど唯一と言ってもいいくらい、青少年の人気を集めていたのだ。
 ここが大事なとこなのだが、まだ当時「オタク」という言葉はなかったが、オタク的傾向の強いやつほど、石野真子にハマッていたのである。ライバル視されていた大場久美子は歌がダメでどっちかと言うとドラマ『コメットさん』人気の方が高かったが、それも子供が中心でだったし、榊原郁恵はヒット曲では石野真子に拮抗していたが、より大衆的で、バラドル的な売られ方をされていた。その点、石野真子は、単に可愛かっただけではなく、高橋三千綱原作の『九月の空』という正統派アイドルとしての主演映画もあったし(滅多にテレビでも再放送されないんだよなあ。日本映画専門チャンネルにリクエストしたろか)、何より繰り出す曲の数々が今聞いても何じゃこりゃあ? と言いたくなるくらいマトモではなかった。
 「のんのんののー、のんのんののー、のんのんののー、のんのんののー、今日はー、わたーしのー、失ー恋記念日ーですー♪」って、『失恋記念日』の歌い出しなんか、今でも何を言っているのか全然意味が分からない。最初聞いたときには何をウワゴト言い出したのだ石野真子は、と目の前がクラクラしたものだった。昨日歌ってくれた『ハートで勝負』も、サビの部分は「フラッシュ! まぶしいあなたならー、私をーどうぞー、ご自由にー」である。お前の彼氏はハゲか。でもって自由にしてって言ってても石野真子はきっと自分が自由勝手気ままにふるまうに決まっているのだ。ともかく石野真子くらい現実味というものから遠いキャラはかつてなかったし、カラオケで男が石野真子の歌を歌うと、これはもう気が狂ってるようにしか聞こえないのである。
 デビュー曲『狼なんかこわくない』のタイトルはもちろんディズニーのパクリであるが、この時点で石野真子の「ファンタジー」なキャラクターであることに注目していたプロダクションは慧眼だったと言えるだろう。そう、なぜ石野真子がオタク的青少年に人気があったか、彼女は当時の「リアル二次元キャラ」であったのだ。
 「石野真子はいい!」という台詞は、70年代末期、絶大な人気を誇っていたギャグマンガ、江口寿史の『すすめ!! パイレーツ』で使われてたギャグである。そして、彼のマンガには、石野真子を模したキャラクターが「あはははははは!」と、あの脳天から突き抜けるようなけたたましい笑い声とともにしばしば登場した。江口寿史はリアル二次元キャラを自作のマンガの中に「逆輸入」してキャラとして立たせることが絶妙にうまく、それだけ石野真子がもともとマンガチックだったと言えるのである(薬師丸ひろ子をとんでもない悪辣なキャラに仕立てたときにはのけぞっちまった)。
 考えてみれば昔から私は普通にかわいかったり美人なだけのアイドルには興味を惹かれなくて、何か一つでも現実との「違和感」のあるキャラクターに魅力を感じていたようだ。もちろんリアルな演技をする女優さんの価値を認めないわけではないのだが、オタクというものは大なり小なり現実との「違和感」の中で自分自身の居場所を見つけられずに右往左往しているものである。どこか現実になじめない、SFチックと言ってもいいようなキャラクターに共感を覚えるのは、悪く言えば現実逃避ということになるんだろうけれども、まあ、コンサート追っかけて学校や仕事サボるほどのことまではしなかったし、日常に支障は来たしてないと思うから(多分)、いいんじゃないですか(自分で自分を勝手に許すな)。
 今の私の悩みは、ベストアルバムのCDは買うとして、今度博多にも来る石野眞子コンサートに行くかどうかである。40過ぎて今更アイドルかよって言うやつもいるだろうが、私ゃ石野真子より一つ年下なんだからね。


 今日は七時半から町内会に出席の予定だったのだが、仕事が押してて残業しないといけないことが事前に分かっていたので、しげに出席を頼んでおいた。頼んではいたけれども、こういう会合はコミュニケーション不全のしげが一番嫌うところである。もしかしたらサボってないかと仕事の合間にメールを入れたが返事がない。
 不安に思いながらも八時近くになってようやく仕事がひと段落着いて、電話を入れると、やっぱりしげは愚図って「行きたくない」と家に引きこもっていた。「ばかやろう、早く行け」と脅して、電車に飛び乗った。
 会場の公民館に着いたときにはもう九時になっていたが、まだ会議は終わっていなかった。慌てて駆け込んで、それでしげが来てなかったら間が抜けてるよなあとは思ったけれども、しげ、何とか自分を鼓舞して出席していたのでホッとする。全く、ちゃんと動けるのなら最初からぐずぐず言わずに動いてほしいものである。いちいちこっちに気を使わせないでほしいもんだ。
 あとで会合の様子を聞いたら、しげ、憤慨して「どうして十分で終わる会議を一時間半もかけてやるんだよう!」と叫ぶ。テキパキとコトを片付けなきゃなんない会社の会議とかに比べたら、そりゃ、爺ちゃん婆ちゃんばっかりの町内会なんて、そんなもんだろう。
 「でもあの会長、見て思い出したよ。店に来て、こっちが案内するまで絶対に動こうとしなかったいやな客だ!」
 まあ、同じ町内なんだから、どこかですれ違ってたっておかしかないんだが、いやなすれ違い方をしているものである。また場合によってはしげに会合に出てもらわなきゃなんないこともあるかもしれないのに、これでまた愚図られそうで、今から気が重いのである。


 食料が尽きてたので、マルショクで買い物。「安くて腹の太るもの」を頼んだら、しげ、ラーメンをたっぷり買いこんできた。だもんで、遅くなった夕食はラーメン。
 夜も遅くはなっていたが、ともかく一日になにか一つは本を読むなり映画を見るなりしないではいられないので、CSチャンネルNECOで録画しておいたアニメシリーズ『おねがい*ティーチャー』を一話から八話まで見る。三年前にWOWOWで放映されてたやつだけど、そのときには飛び飛びにしか見てなかったので、今度は一挙にまとめて。
 これもまあ、タイトルから推して知る通り、思いっきり「萌えアニメ」で、ヒロイン・風見みずほが、宇宙人と地球人のハーフの、メガネの、巨乳グラマーの、そんでもって学校の先生で、主人公の男子高校生草薙桂とひょんなことから夫婦になってしまうという、設定だけ聞きゃ「ふざけるな」と言いたくなりはするのだが、これが黒田洋介脚本なおかげで、意外にもかなり「見られる」ものになっているのである。
 確かにみずほ先生のキャラクターはかなり「天然」で、対する桂くんはストイック、二人の仲が進展しそうでしないのはシチュエーション・コメディの定番でありすぎるし(邪魔もしょっちゅう入る)、みずほ先生の声がまた井上喜久子と来ればこりゃどうしても『ああっ女神さまっ』のパクリ企画のように見られても仕方がないっちゃ仕方がないのだが、少なくともあかほりさとる脚本作品のように、腐れオタクに迎合するだけのアニメにはなっていない。
 先生と生徒のカンケイ、ということになると当然、学校から問題視されることになるが、詰問する校長の前で堂々と「僕たちは夫婦です」と言い切る桂くんの勇気、これが物語を転がすために必要な台詞に過ぎないとしても、そこにやっぱり少しは世間の偏見とかレッテルとか、そういうものをぶっ飛ばしてやりたいという脚本家の気概を感じるのである。腐っても黒田洋介、と言ったところだろうか。
 定番のシチュエーション・コメディなのに、いや、定番だからこそ、そこに「萌えアニメのもう一つ先にあるもの」が作れないか、とスタッフが頑張ってるんじゃないか、と、『おねがい』シリーズにはちょっと注目しているのである。作画も、キャラクターの細かい仕草になかなか凝っているのである。

 ところがこれ見てるとしげが段々イライラして来るんだねえ。やっぱりワンパターンってのが気に入らないのと、みずほ先生がやたらと「最優先事項よ」って繰り返すものだから、いい加減「うるさい」のだそうな。確かに毎週一話見るならともかく、八話連続で「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」って聞かされたらうるさいわな。
 なんかまたヘンなアニメにはまってるな、と思われる向きもあろうが、まあ概ね冷静に見てるので、「みずほセンセイ萌え〜♪」とかは間違っても言い出しません(笑)。

2004年05月17日(月) トンガリさん、切れる!
2003年05月17日(土) すっ飛ばし日記/時計だけ見る女
2002年05月17日(金) 追悼、柳家小さん/映画『モンスターズ・インク』/『カスミ伝△』2巻(唐沢なをき)ほか
2001年05月17日(木) 少しまじめな話/『コミックバンチ』創刊号ほか


2005年05月16日(月) 世界で一番の石野真子!/舞台『Shuffle(シャッフル)』

 昨日の日記の訂正。つか追加説明。『仮面ライダー響鬼』のヒビキたち鬼の本名、もう番組中に出てたんですね。複数の方から指摘を頂いたのですが、結構番組丹念に見てたつもりだけど、ちーとも気が付きませんでした。
 響鬼→日高仁志
 威吹鬼→和泉伊織
 裁鬼→佐伯 栄
 弾鬼→段田大輔
 これに轟鬼の戸田山登己蔵が加わるわけか。全員イニシャルが一致してるってのはちょっと出来過ぎ。鬼になるにはそういう「コトダマ」が必要ってな条件でもあるのかね? けどそうなると斬鬼が初め「今日からお前が斬鬼だ」って戸田山に言ったのは冗談だったのか、とか、天美あきらは将来イニシャルAの男と結婚しないと鬼になれないのかとか、疑問がいろいろ湧いてくるんだけど。いやまあちょっとした脚本家の遊びなんだろうけどね。だからこれで安達明日夢が即、鬼になる資格あり、と断定するのはまだ早かろうと思うのである。
 こんなふうに日記を書いてすぐに反応があるというのは嬉しいことなのだけれど、こうなると更新遅らせられないなあと、ちょっと責任を感じてしまう。「無責任賛歌」なのに(笑)。

 「腐女子批判」については劇団メンバーから文句が出るんじゃないかと内心ビクビクものだったのだけれど、まあこれまでにも何度も似たようなこと書いてるんで見逃してもらえたようである(笑)。だいたい、いくら批判されようが、「好きなもんは好き」でビクともしないんだから、ちょっとくらい罵倒したって構わねえだろ。今やマイノリティなのはオールドタイプの我々なのだ。
 お気に入りの日記さんで、「『SEED』が受けてるのは女子だけじゃないのでは」というご指摘もあったが、もちろん「男のファンがいない」なんて一言も書いちゃいない。『アニメージュ』の読者の大半が小・中学生の女子に移っちゃってるのは編集部も認めている事実であって、そのためにグランプリの票に偏りが生じていることを指摘しているだけなのに、なんか勘違いしているのである、
 総じて私の日記を読んで批判する人って、例外なく文章を読もうとしてないので、説明も反論もしようがなくて困るのだな。


 また監禁事件ですと。
 もう詳述する気も起こらないが、今度は奈良での事件。またもや出会い系サイトで知り合った女子高生(17歳)を誘い出して、手錠を掛けるなどして22日間自宅で監禁した露天商手伝いの川本隆之容疑者(29歳)(新聞によっては「鄭隆之」とある。こっちが本名なんだろう)が逮捕された。逃げ出して交番に駆け込んだ女子高生を追いかけて、自分も交番に駆け込んで逮捕されたっていうんだから、まったくもって真性の阿呆。
 もう犯人の幼児性とか短絡思考とか既知外ぶりとか親の監督不行き届きとか、それはもういくらでも言えるんだけれども、女の子の方にもねえ、いい加減で「出会い系サイトにやって来る男に対して夢を求めるの、やめようよ」って言いたいよ。そもそも「出会い系」に来てる時点で、身の回りの女性にまるで相手にされてないか、逆に食いまくってるかのどっちかだってこと、前提として知っとかなきゃ。
 男はさあ、「出会い系」に来る女なんて、世間知らずの馬鹿女か、インランな痴女のどっちかだから、どんなに蹂躙したってかまわないと思ってるんだよ。罪悪感ないやつのところにノコノコ出かけて行くな。「脅されたから仕方なく」なんて言い訳にもならんわ。引っ掛ける方も引っ掛かる方も阿呆で、どっちもどっちと判断されたら、世間の風潮は「勝手に監禁でも何でもされとけ」ってな具合に「馬鹿な女の方が悪い」って方向に傾きかねないぞ。


 夜、福岡市民会館で、パルコ・プロデュースの舞台『Shuffle』。
 筋の説明とか芝居の批評とか、そういうの全部抜きにして、まず、これだけは言わせてくれ。
 石野真子はいい!!!!!!!
 ……ハイ、すっきりしました。

 後藤ひろひと作・演出による、本人曰く、「『Midsummer Carol ガマ王子vsザリガニ魔人』に続く『ブレイン・トラブル・シリーズ』第二弾」なんだそうな。でも前作とはうって変わって、お涙頂戴なんかクソクラエのナンセンス・コメディに仕上がっている。
 主人公の刑事・乾利貴(伊原剛志)は、墜落事故で認知障碍を起こして目の前の相手が別人に見えてしまうようになる(相貌失認と言うそうな)。例えばAさんがBさんに、BさんがCさんに、CさんがDさんに、DさんがEさんに見えてしまうのである。せっかく怪盗団の正体を目撃したのに、果たして乾は事件を解決できるのか? 迫り来る怪盗団の魔の手にも彼は気が付くことができない……というスジ。
 この、「別の人間に見える」っての、似たようなネタを前にどこかで見たか聞いたかしたような気がするんだけど、思い出せないんだなあ。「視覚と聴覚が入れ替えられる」ってのは『虎よ!虎よ!』のネタだったけど、それじゃなくてもっとストレートに似てる作品があった気がしてならないんだけど。多分、吾妻ひでおのマンガかなんかだ。
 面白いのはもちろん乾の目の前の人物が全く「噛みあわない」言動をするシーンなのだが、そこにたどり着くまでの展開が少々もたつく。怪盗団チップス三人組(風花舞・山内圭哉・松谷賢示)の登場シーンなど、恐らくはわざとアドリブで場つなぎをさせてるようなのだが、これがあまり面白くない。繰り返しのギャグがしつこすぎて、笑えないのだ(でもほかの地方の公演では面白かったのかもしれないが)。
 けれど、警察医の賽野目(鹿内孝)から、相貌失認であることを知らされてから、物語はどんどん転がり始める。上司の剣女史(平田敦子)が同僚の梶野(三上市朗)に見えてしまい、鼻をつまんでどやされるくらいは序の口で、チビ・メガネ・ブス・博多の田舎者(笑)と三拍子揃った警備員の三つ葉幸子(奥菜恵)が、20年来の大ファンである石野真子に見えてしまうに至っては、実態と外見のギャップに引き裂かれて乾は身もだえする。
 それにしても、アイドルは星の数ほどあれど、石野真子に白羽の矢を立てた後藤ひろひとさんのセンスの良さよ! うん、これは「今のアイドル」には絶対こなせない役だ。それどころか、かつての同年代のアイドルたち、大場久美子や榊原郁恵にもムリな役だ。彼女たちでは庶民的に過ぎる。どこか現実との距離を感じさせるあのキャンディー・ボイス、彼氏を狼だの首領(ドン)だのジュリー(沢田研二)だのに見立てる“いったい君はナニモノだ”という石野真子だからこそ、「幻想ヒロイン」が演じられるのである。今のアイドルでギリギリ石野真子に近いスタンスで売られているのは小倉優子かとも思うが、石野真子はあんなただの馬鹿ではない。石野真子の前に石野真子はなく、石野真子の後に石野真子はないのである。後藤さん、あんたはエライ!(←小松政夫風)
 石野真子の話ばかりしてもなんなので、ほかの役者さんについて。タイトルロールの乾“シャッフル”刑事を演じる伊原剛志、石野真子の皮をかぶった(アイドル衣装がまだ似合う脅威!)奥菜“ドブス”恵を前にして「近づきたいけど近づきたくなくてでも近づきたいような」ってクネクネする演技、がやたら可笑しい。長身の伊原さんが演じているだけに、『オズの魔法使』のカカシを彷彿とさせるのである。しかも、乾の脳内シャッフル、“一度だけではない”のだ。奥菜恵は博多弁を喋っているのだが(長浜ラーメンの兄ちゃんに特訓受けたそうである)、これが石野真子の口に“移って”流暢に流れて来ると、もうかわいらしいったらないのよ! 奥菜恵ももちろんかわいいんだけど、石野真子はもっと……いかん、また石野真子に話が戻ってしまった(笑)。
 今回、「美女ヒロイン」が、奥菜恵、風花舞、澤田郁子、そして石野真子と四人もいるのだが、この四人に揃いも揃って「チンピラ情報屋」を演じさせるセンスというのがすばらしく楽しい悪ふざけである。さらには、申し訳ないが美女の系列からは外れてしまう(失礼)平田敦子は、もう絶品としかいいようのない「山内圭哉のマネ」を披露してくれる。……って、平田敦子と山内圭哉を知らないとこれがどれだけものすごいか、コトバじゃ全然わかんないねえ(超オデブな女性がつるっぱげの関西ヤクザを演じていると思ってください)。
 女優陣はそれぞれ実に個性的なのだが、やはり三つ葉幸子を演じている奥菜恵が「新境地」と言ってもいい、いかにも後藤ひろひと脚本らしい「変身ヒロイン」を演じている。
 奥菜恵はこれまで『弟切草』と言い『呪音』と言い、誰が演じても構わないような役どころばかりで損をしていたと思うが、伊原剛志との見た目40センチは慎重差があるんじゃないかというコントラスト、そのチビっぷり(多分150センチそこそこだ)が際立って、まるで「地下鉄のザジ」のように溌剌でかわいらしく見える。しかもそのかわいらしさは「ブスメイク」ゆえなのだ。もちろん物語の途中でブスメイクを落として素顔の「美女」になるシーンはあるのだが、後藤ひろひとの慧眼は、この子は「ブスにした方がかわいい」という点に気づいたことである。整った美人って、かえってキャラとしては立てにくいんだよね。美女になるのは一瞬で、ホントにほぼ全編、ブスメイクのままってのが素晴らしい。
 そして、やっぱり最後に言わせてほしい「幻想ヒロイン石野真子」を演じた石野真子。もう最強である。ラストはついに「生石野真子」として『ハートで勝負』を熱唱。青春の若き日、朝目覚めれば真子のことを思い、昼飯を食いながら真子のことを慕い、夜の夢に真子を見ることを願い毎日を過ごしていたころの憧れが再び胸に込み上げてくる。……そうだよ、隣の女房そっちのけで手拍子打ってたの、俺だよ。もちろん石野真子のたどってきた人生のアレやコレやを思いながら泣いてたともさ、悪いか(向かいの県立美術館ではちょうど長渕剛展やってやがった。けっ)。
 けれど、芝居がはねて出口に向かう客は一様に「石野真子がよかった」「すごいね石野真子」「やったね石野真子」と「真子が」「真子が」と、みんなミコになったかのように(←古くて分かりにくいギャグ)石野真子をたたえていたのである。そうだよ、『BIG BIZ』がシナトラを称えるための舞台だったとすれば、これは石野真子至上主義を高らかに宣言した舞台なのだ。ちょっとくらいダレ場があったって、真子がその全てをカバーして余りある感激と興奮と陶酔とを味合わせてくれたのだ。これほどの至福、これほどの福音、またとあろうか。
 DVD絶対に出せよ、パルコ。

2004年05月16日(日) 「替え歌」の方しか知らないってこと、あるよな。
2003年05月16日(金) すっ飛ばし日記/魔界な男たち
2002年05月16日(木) で・じゃ・ぶぅ/DVD『アードマン・コレクション』
2001年05月16日(水) 鳥頭の女/『文鳥様と私』2巻(今市子)


2005年05月15日(日) 腐女子さんは今日の内容読んだら気を悪くするよ/映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』

 劇団メンバーの日記が充実してきているので、巡回が楽しい。今、しげと私の一番の注目を浴びているのはグータロウくんとこの娘さんで、しげも日記に書いているが、将来が実に楽しみな小学二年生なのだ。いや、性格がではなくて体型が(笑)。
 思春期になればそれなりにスタイルとか気にしだすとは思われるが、現在は肉食大爆走。第二のしげになりかねない印象で、それを気にしてハラハラしているグータロウくんの親ばかぶりがいじらしいのである。多少太ってももとが可愛いからそんなに心配しなくても「売れ口」はきっとあると思うんだけどなあ。いや、売れたら売れたで彼は絶対泣くだろうけど。
 グータロウくんは私の日記を読んで、「優しいやつ」とか書いてくれているが、私の優しさはたいてい偽善なのであまり信用しないように(笑)。知り合いでもなんでもないマンガ家さんの将来を心配するなんてのは余計なお世話以外の何物でもないので、思いあがったゴーマニストじゃなきゃ、あんな「ジャンプふざけんな」みたいな口は利けないのである。別に小林よしのり二世を気取りたいわけじゃなくて、本質的に博多人はゴーマニストなの。逆にゴーマニストでない博多人はニセモノだとも言えるな(笑)。

 しばらく更新が途絶えていた桜雅嬢やよしひと嬢も久々に日記をアップしている。人間、気が抜けることだってあるし、自分のペースで更新すりゃいいと思うので、たとえ何ヶ月も何年も間が空いたって構わないと私は思っている。書いてなくても、みんなのことは忘れてないよ。慢性健忘症のしげはどうだか知らんが(冗談ではなく、出張で2、3日家を空けると、しげは私のことも私と確認するのに間が空くのだ。みんなとしばらくぶりに会うときもそういう「作業」をしていると思ってください)。お気に入りに入れているみなさんの日記も同様です。もう何年も更新されてない方の日記も、決して忘れてはいません。
 確かにずっと更新してないと、どうしているのかなあと気がかりにはなるけれど、「どうしたの?」とメールを送ったりするのも場合によっては相手へのプレッシャーになりかねない。間が空くのが普通の方の日記だと、そのたびに「どうしたの?」「どうしたの?」と問い合わせていては、鬱陶しいどころか、こちらがネット中毒にかかっていてストーカーしていると思われても仕方がないだろう。つか、そういうのは間違いなくストーカーである。……ホモオタさんから毎晩深夜の2時に電話がかかってきていた頃を思い出すなあ(泣)。メールの返事が遅れると「催促メール」をどんどん送りつけてくるお人とも知り合ったことがあるし、自分がそういう立場にはなりたくないやね。
 連絡を取るにしてもきっかけとタイミングが必要になるのは私自身経験済みで、これが難しいところなのだが、連絡もらって嬉しいときと、放っといてほしい時の差が激しいのだ。
 まあ私も少しはオトナになりましたから、イヤな気分のときに連絡もらっても空元気で応対できるようになりましたけど、若い頃はストレートに感情ぶちまけて友達なくしたこともありましたよ。私の場合は持病のこともあるし、日記が停滞してるときは確実に疲れてるときか入院してるときなので、できるだけ更新は滞らないようにしときたいと思ってるんだけど。
 
 ほかにもあちこち覗きたいサイトもあるのだが、一日の仕事を終えて、帰宅して映画を見たり本を読んだり、それからネットを覗いて日記を書いて、と、こうも毎日過密スケジュールでは、ネット上のウェブサイトをそうそう回れるわけでもない。本当に毎日「巡回」しているのはニュース関連と仲間内の日記、お気に入りに入れている日記くらいのものである。Yahooの掲示板はたまに覗くが、2ちゃんねるは殆ど覗かなくなった。作家さん、マンガ家さんのサイトはたまに覗く程度のものである。普通の暮らしをしていればこの程度のものなので、とてもネット中毒になんぞなりようがない。
 こないだうちの日記を覗きに来た人のサイト、アクセス解析で分かったんだけれど、これがまあ、百を越えようかってほどのサイトをお気に入りに入れてるんだわ。全部巡回してるとはとても思えないんだけど、それがタイトル見るだけでそれと分かるエロサイトが多いことったら(笑)。かなりな変態さんらしいが、どういう流れで私んとこに来たんだか。もう私は変態さんと係わり合いになんぞなりたかないので、覗きにも来ないでほしいんだけどね。


 『仮面ライダー響鬼』十六之巻 「轟く鬼」。
 引くなあ(笑)。
 いや、「明日夢はいつヒビキの弟子になるのか」って話題なんだけどもね。今回、ヒビキに「少年を弟子にする気はないんだ。少年も鬼になる気はないだろう?」って言わせちゃったから。
 確かに、「傭兵になってイラクに行きなさい」以上にキツイ仕事だからね(なんせ相手は化け物である)。そりゃ簡単に「弟子になる?」「はい、なります」って展開にはならないことは分かるけれども、そうやって距離置いちゃうと、「じゃあ、どうしたら明日夢が鬼になるのか?」そのきっかけを作るのが難しくなるよねえ。
 昔からこれのクリアーの仕方は、
「1、危険が迫って仕方なくそうなる」か、
「2、偶然そうなる」 
くらいしかないんだけど、できれば新しいパターンを開発してほしいもんだね。
 今回は(つか前回から)、「轟鬼」誕生編なんで、明日夢君話は次回以降に持ち越しのようだけれど、ふと思ったのは響鬼とか威吹鬼とか斬鬼とか、コードネームなんだから本当は本名があるってことなんだよね。 最終回までに発表はされるのかな?


 シネ・リーブル博多駅で、モーニングショー一回のみの映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』。
 日本のジャッキー・チェンのファン・サイトなどでは未だに彼の本名を「陳港生」としているが、実はそうではない、というあたりからこの「物語」は始まる。
 うっかり「物語」、と書いてしまったが、このジャッキーの父、陳志平(チェン・ジーピン)、実は元国民党の工作員、房道龍(ファン・ダオロン)の激動の人生を追ったドキュメンタリーは、そのまま戦前、戦後の中国史を「物語っている」。
 1915年、中国山東省で生まれた房道龍は、南京で育ち、やがて安徽省に移り、そこで結婚して、男の子二人を設けた。しかし糟糠の妻は長男が七歳のときにガンで死んだ。戦争の影がちらつき始めたころ、生活のために国民党の工作員として働くようになった道龍だったが、日中戦争終結後、国共内乱が起こると、一転して共産党から命を狙われる立場となる。身の危険を感じた彼は、亡妻との間に設けた息子二人を捨て、香港に逃れた。残された二人の子供がいかにして生き延びていったか、それは殆ど描かれない。
 香港で道龍は一人の女性と出会う。夫を日本軍の空襲でなくし、二人の娘を育てるためにアヘンの密売で生活を立てていた陳月榮(チェン・ユエロン)は、港の検査官として働いていた道龍に逮捕される。しかし彼女の事情を知り、こっそりと逃がし、友人として助力するようになる。彼らは上海に移り住み、月榮は女だてらに顔役となったが、再び共産党の手が道龍に伸びようとしていることに気づき、娘たちを置いて、二人だけで香港に舞い戻る。そのとき道龍は名前を「陳志平」と変えた。娘たちがどのような苦難の人生を歩くことになったか、それも映画は描かない。
 その後、二人の間に誕生したのがジャッキーである。だから彼は自分の姓は「陳」だと信じていたし、自分に異父・異母の兄姉が4人もいることなど、父親が告白する気になった1999年まで知らなかったのだ。当然父親はその時までジャッキーの兄姉を完全に放置してきていたのである。なんともウソ臭いが、どうやら本当の話らしい。
 映画の中では、このジャッキーの父親という人が、実に屈託なく自分の過去を語っている。そのおおらかさというか、あっけらかんとした態度は、かえって彼の語る「歴史の真実」が『ビッグ・フィッシュ』のほら話に聞こえるほどだ。
 共産党に狙撃され、足や頭にはまだそのときの傷が残っているが、それを平気で見せる。隣にいたジャッキーが、「僕も同じところに傷があるよ」と映画の撮影でできた頭の傷を示して、「親子の絆(?)」をアピールするのだが、これは笑っていいのか感心すればいいのか。
 犯罪に荷担していた月榮をどうして救う気になったのか、ジャッキーは父親に問い掛けるのだが、「中国人は人情に厚いから」といけしゃあしゃあと答える。もちろん人情以上の感情があったに違いないのだが。
 ジャッキーが入学した中国戯劇学院のカンフーの師匠を「共産党のスパイ」と呼び、ジャッキーに向かっても「お前がアメリカ進出を図ったのも共産党のスパイ活動のためだろう。私には分かっているのだ」と言ってのける。ジャッキーが頷きも笑いもせず、無表情で聞いているものだから、おいおい、ホントにそうなのかよ? と見ているこっちがビクビクしてしまう。
 40年以上もして、どうして真実を語る気になったかは、妻の月榮が病気になり、死期が迫ったからであったが、タイトルにある通り、「失われた龍の系譜」を回復するためでもあったのであろう。道龍はほぼ50年ぶりに息子二人、娘二人を探し当て、再会、名前も「陳志平」から「房道龍」に戻す。兄たちは、姉たちは、自分たちを捨てた父親をどう思っていたのだろうか? 映画はそれも深くは語らない。多分、「語れない」のだ。映画は、その兄や姉たちの家族に囲まれて、「おじいちゃん」となった道龍を、いかにも幸せな大家族のスナップショットの中心に映し出して終わる。
 そしてジャッキー・チェンは、「陳港生」ではなく、「房仕龍」(ファン・シーロン)となり、芸名の「成龍」だけでなく、本名でも「龍」の字を継いだ。出来すぎた結末で、ドキュメンタリーでありながら何か「足りないもの」を感じないではいられないのだが、その最大のものはこの父親の話をジャッキーが「どう受け止めたか」である。歴史の年表だけを見せられて中身の説明がまるでないようなものなのだが、兄姉たちの過去も含めて、それらが本当に語られることはないのだろう。
 月榮は2002年に他界した。現在に至るまで、ジャッキーは兄たちに面会してはいない。父は「会う必要はない」と語り、兄は「会わなくても弟は弟だ」と答える。そしてジャッキーは沈黙を守る。
 多分、それでも彼らは「家族」なのだ。どうしてそう思うかについては、私もジャッキーに倣って沈黙を守りたいと思う。

 帰宅したら、しげはまた爆睡。だから昼間練るなって。夜、練られなくなるだろ?


 『アニメージュ』6月号、恒例のアニメージュグランプリ、数えてもう27回であるが、まあ想像通りグランプリを取ったのは『機動戦士ガンタムSEED DESTINY』(2501票)で、2位の『鋼の錬金術師』(1478票)を大きく引き離していく。更に3位以下は得票が一気に3桁台に落ち込むので、アニメージュ読者にとっての昨年のアニメと言えば、“この2本しかなかった”ということになる。『アニメージュ』も腐女子に乗っ取られて久しいから、この結果も仕方がないのだが、70年代からアニメブームの牽引的役割を果たしてきた老舗がこのようなテイタラクに成り果てていることに忸怩たる思いを抱いているアニメファンも多々いらっしゃるに違いない。何たってねえ、このグランプリ、『マインドゲーム』が一票も入っていないのだ!(たいていの批評家がベストワンに推していると言うのに!)
 この十年くらい、あまりにもベストテンに「偏り」があるために、グランプリとは別に批評家のベスト作品を紹介したり座談会を開いたりして、読者のアニメに対する啓発(つか啓蒙に近いな)を行ってきているが、効果は殆ど上がっていない。ともかく今のアニメファン(と言うよりはキャラ萌えの腐女子)くらいアニメを見ていない連中はいないのだ。以前は私も「頼むからもう少しほかのアニメも見てよ」と言ってたが、もう最近は「頼むから『アニメファン』を名乗らないでくれ」と言うしかないな、という気持ちになりつつある。
 今回の藤津亮太、斎藤良一、小黒祐一郎三氏による座談会は例年以上に辛辣な批判が飛び出しており、かつてこれほど読者を罵倒した記事があっただろうかと思えるほどだ。ちょっと抜粋すればこんなとこだ。
 「得票を募集したときの人気作品に票が集まる(半年や一年前の作品だと忘れられている、という意味)」
 「『アニメージュ』にたくさん記事が載ってる作品が、順当に上位に来ているということでしょ。それが良いことか、悪いことなのかはわからないけど」
 「そういう意味では、グランプリ結果を見て『アニメージュ』も、もっといろいろな作品を取り上げてよ、とは思いました」
 「最近は『萌え』か『BL』ばかりになっちゃって、中・高校生の男の子が本気で見られるアニメがなくなってる」
 「基本的にアニメ雑誌の読者は、キャラ中心に見てるから。(『イノセンス』について)主人公がバトーとトグサのおっさん二人で、あとは犬と人形じゃあ、『アニメージュ』読者は投票しようがない(笑)」
 要するに、アニメファンを称する連中が、幼稚で視野の狭いバカガキの娘っ子ばかりになっちゃった、ということである。かつての「コミケからヤオイを駆逐するぞ!」の吾妻ひでおの檄も、今はむなしい。
 こういうことを書くと、またメールやら掲示板で「今のアニメファンの土台を作ったのは、あんたたち昔のオタクでしょうが。責任逃れするな!」と腐女子のミカタの方が現れたりするので、素直に反省しましょう。ハイ、確かにその通りです。昔も今の腐女子と同じく、キャラと声優にしか興味のない腐れオタク女子はいましたが、そいつらを我々は「まあ、人の趣味はいろいろだし」と戦後民主主義的に暖かく見守っておりました。それがよくなかったのですね。我々は彼女たちにこう言ってやるべきだったのです。「キモいからやめれ」。
 アニメーションにはさまざまな可能性がある。ところが腐女子はその可能性に目を向けない。見えないと言った方が正しいかもしれない。“そういう人間しかアニメを見ない”ような事態になれば、アニメーションという表現芸術自体が崩壊してしまうだろうことは火を見るよりも明らかだろう。
 雑誌は売れなきゃしょうがない。だから今が旬のキャラをフィーチャーした特集を組まざるを得ないのは商売としてはわかる。しかし、今、アニメ雑誌が相手しているのは、一人のキャラへの興味が尽きたらほかのキャラに乗り換えるような、ジゴロか風俗通いの変態レベルのメンタリティしか持ってないキモオタ女どもである。こんな連中を視野に入れた雑誌作りが、果たして長続きするものかどうか。長い目で見るならば、もっとファンを「育てる」誌面作りをすべきではないか。そのためには、今までのように単に「ほかにもいろんなアニメがありますよ」程度の紹介だけでは生ぬるかろう。ここは徹底的に「下らんアニメの吊るし上げ」特集を毎号組んでいくしかないのではないか。
 『SEED DESTINY』にしろ『鋼錬』にしろ、ネット上ではケチョンケチョンに貶している意見もまま見受けられる。それらは単純な感情の垂れ流しに過ぎないものも多いから、ここは雑誌媒体としての威厳を持って、もっと多角的かつ建設的な分析を試みた批評を多数載せるのである。なんならテーマを決めて読者に論争をしかけたっていい。ネットみたいに誰でもが書きこめて収拾がつかなくなることはないのだから、「私の○○を貶さないで!」みたいなヒステリー投稿は無視して、きちんと根拠を示して反論してくる意見だけを取り上げればよい。読者が活性化しないと、雑誌は存続できないのだ。
 ……でも、ホントにそんな特集やったら、批判されたアニメのプロダクションは怒って番宣資料くれなくなるかもしれないよなあ。アニメ業界って、アニメファン以上に性格歪んでそうな人間も多いらしいから(と、誰のことかは言わないでぼかしておこう)。
 日本はもうアニメ大国ではなくなっていくのかな、と思う。どうせ腐女子は自分たちがアニメの未来をつぶしているという自覚なんかないのだろう。そしてこれからも数々の迫害にもめげず、ゴキブリのように増殖し、アニメーションを食いつぶしていくのである。業界に入ってくる新人も萌えオタクばかりになる。そんな奴らが新しく作り出すアニメがどんな代物になるか。十年先、二十年先のアニメ界がどんな姿になっているか、想像するだに恐ろしいのである。

 『エウレカ7』、福岡じゃやってないと思ってたら、しっかり今朝放映してたのな。だから番組表だけじゃ小さくてわかんないんだって。アニメ雑誌って、放映前は○○系としか記載しなくて、放映が始まってから地方のキー局載せるから、情報発信の昨日、イマイチ果たしてないと思うんだけど。
 

 夜、久しぶりにアニメ『ワンピース』を見る。もう35巻のあたりまで来てるんだね。原作にかなり追いついてきてるけど、大丈夫かね。ひとシリーズ終わらないことには場つなぎの屑エピソードだって挟みこめないと思うけど。
 こないだ日記に『ワンピース』の悪口を書いたら、長いこと私の日記をお気に入りに入れてくれていた方からあっさり削除されてしまいました。まあ仕方ないんだけど、やっぱ「自分の好きな作品を貶されたら怒るのが当然」って考えてる程度のメンタリティしか持ち合わせてない腐女子さん(男にもいるけど)は基本的にコミュニケーション不全だと思うんだけどねえ。自分が思いあがってることに気が付いてないのな。

 続いて、やっと終わってくれた『名探偵ポワロとマープル』最終回。『雲の中の死』はマンガ版の感想にも書いたけど、原作自体が中以下のレベルの出来なんで、ポワロがトリックを語って犯人を指摘しても、「そんなん、その場で犯人バレるわ」としか思えない。作画も平板で、最後まで向上しなかったなあ。ラストに取ってつけたようにメイベルの「私も少しは成長できたかも」なんてナレーションが入るのも、スタッフが投げやりでこのアニメを作ってたようにしか思えず、腹が立つ。
 仮にもタイトルに『ポワロとマープル』と銘打ってるんなら、ラストでこの二人を出会わせるくらいの演出をしろよな! それとも、原作にそういうシーンがないからできないとでも? これだけ原作をデタラメに映像化しといて、それ言うんなら、このアニメのスタッフは全員打ち首もんだ。

 続けて『義経』も見たけど、清盛が死んだら、やっぱりドラマ全体の「重み」が消えちゃった感じだね。代わりに頼朝が前面に出てこないといけないところだけど、中井貴一、頑張ってるんだけどまだ重みを出すまでには至ってない。声がまだ頭の方から出てる感じなんだなあ。いや、デビュー当時の大根役者ぶりに比べたら格段に上手くなっては入るんだけどね。

2004年05月15日(土) 遅れ馳せながら今年の「アニメグランプリ」。
2003年05月15日(木) すっ飛ばし日記/ベストテンな本
2002年05月15日(水) 目出物雄三ってキャラが某マンガにいたね/『まんが アベノ橋魔法☆商店街』(鶴田謙二)/『ガウガウわー太』3巻(梅川和実)ほか
2001年05月15日(火) 本を売るならBOOKOFF/『BLOOD THE LAST VAMPIRE 2000』(玉置勉強)


2005年05月14日(土) 形ばかりの反省なら黙ってようよ/『時代劇スペシャル 丹下左膳 剣風!百万両の壷』

 JR福知山線の脱線事故で、乗客を救助しないまま出勤したJR西日本の男性運転士2人の手記が発表された。掲載されたのはヒゲの暴言記者の件で謝罪したばかりの読売新聞で、さて、手記を書きたいと本人たちが望んだものか、それとも読売のほうから「書きませんか」と持ちかけたものか、まず間違いなく後者だろうな。JR西日本も、謝罪姿勢を見せようと、積極的に書け書けと薦めたんじゃなかろうか。そういう政治的判断が見えるから反省の弁とやらもあまり素直に受け取れないんだけれどもね。
 ちょっとここで内田春菊の『幻想の普通少女』風に、二人の文章心理を分析してみる(悪趣味)。

 サンプルA〔尼崎電車区運転士(27)〕

 〉事故が起こった時、大きな衝撃とともに体が後ろに飛ばされ、パニック状態でした。

 →予め、「自分が普通の状態ではなかった」ということを主張しようとしていますね。周囲の状況を説明するためなら、「パニック状態」という言葉を使う必要はありません。パニックに陥ったのは事実でしょうが、それを、乗客を救えなかった言い訳にしようとしています。常に人生を言い訳して生きてる後ろ向きな人間に多い書き方です。

 〉警察の方が車内に来られて、線路横の駐車場に誘導されてからも、しばらく放心状態で何が何だかわかりませんでした。

 →事故の連絡をJRにしたのはいつの時点なのか、書いてませんね。上司に判断を仰いで、「出勤せよ」と言われて出勤したのはこの人でしょう。だとすれば当然、「放心状態」から覚めた瞬間があったはずなのですが。明らかなウソとまでは言いませんが、都合の悪いことは隠蔽しようとする性質が見て取れます。

 〉今、落ち着いて考えると、自分の仕事が気になったといっても、事故の現場でお客様の救助をしないで現場を離れたことはJRの社員としても、一人の人間としても無責任であり、本当に申し訳なく思います。

 →「今、落ち着いて考えると」で、再度「事故当時は冷静ではなかったので、何もできなかったのは当然だ」という主張を暗にしています。「自分の仕事が気になった」も、救助よりも優先すべきことがあった、という言い訳をしたいからで、本気で謝罪するつもりなら、書く必要のない記述です。「JRの社員としても」が「人間としても」よりも先に来ていることが、結局この若造が「JRにマインドコントロールされている」ことの証左でしょう。つか、「人間としても」は付け足しで、こいつに人間らしい心なんてものは「今も」ありません。謝らなきゃいけないから謝ってるだけの、実に形式的な文章です。タバコ吸ったガクセイが書く中身のない反省文かと思いました。

 サンプルB〔森ノ宮電車区運転士(59)〕

 〉気が動転していたとはいえ、現場に残ることができなかった判断の甘さと、これでいいのかという思いが出勤途中に何度もあり、時間がたつにつれ、一人の人間としての愚かさ、悔しさがますます強まり心苦しい毎日です。

 →若造よりはマシな文章ですが、やはり「気が動転」ということが先に書かれている「言い訳文」です。さらに「これでいいのかという思いが出勤途中に何度もあり」という部分は、当然「出勤すべきか」「残って救助すべきか」で迷ったことを示しており、その結果の「出勤」という判断が間違っていたことを「一人の人間の愚かさ」として認めてはいますが、残念ながら、その結論に辿りつくまでの思考の過程がわざと省かれています。なぜ「出勤」を選んだのか、その説明は、やはり都合が悪いから書けないんですね。
 それが「会社命令には逆らえないから」なのか、「こんな現場から逃げ出したい」のか、どちらともなのかは分かりませんが、やはり肝心なところで「自分を守ろう」という姿勢が表れてしまっています。更に「悔しさ」「愚かさ」という言葉は、自分についての判断の言葉であり、被害者の方への言葉がここまで少しも出て来ておりません。「心苦しい」のも「自分が」心苦しいのであって、「こんなに私は苦しいんだから同情してください」という気持ちのほうが先に立っているのです。

 〉小さな力ですが、私が残って手助けをしていれば、あるいは助かった方もあったかもしれず、悔やんでも悔やみきれません。

 →「助かった方もあったかも」という可能性を示唆する言葉でしか反省を語れないのが、事故の責任を回避したい心理の表れです。「俺がいても助けられなかったかもしれないんだから責めないでくれ」と思っているのでなければ、こういう書き方はできません。「悔やんでも悔やみきれません」という言葉は決まり文句で、感情が殆どこめられていません。こういう言葉で文を締めるあたり、「もう、これで勘弁してくれ」という逃げの姿勢の表れなのです。

 〉私の行動は非難されてもしかたのない行動で大変申し訳なく思っております。

 →「非難されてもしかたのない」であって、「非難されるべき」とは言っていません。つまり、彼を責める我々が悪く、彼自身は悪くない、と内心では思っているのです。積極的に罪を認めるつもりがないことがよく分かります。

 〉私は一生、この重い荷物を背負っていかなければならないし、二度とこのような事故を起こさないようJR社員一同が一丸となり、信頼回復に努めなければならないと思っております。

 →もう「殉教者」気取りです。ハタチそこらの人間が「一生重い荷物を」と言うのならまだ若さゆえの重い上がりとも言えましょうが、六十になろうとする老い先短いジジイが「一生」だなんて、何歳まで生きるつもりなんでしょうか。「こんなことで自分の人生に烙印押されてたまるか」という気持ちがなければ、こんな台詞は出てきません。「JR一同が」にも、「自分にだけ責任取らせるんじゃねえぞ、悪いのはJR西日本全体だろうが」という憤懣が背景にあります。それはその通りなんだけれども、だからと言って、自分が逃げた責任から逃れられるわけはないんで、かえって本人の卑劣さが行間からにじみ出てしまっています。

 一応、ワタクシメも大学時代から文章心理学を専門にやってきた過程がありますので、この分析、そうたいして外れちゃいないと思ってますが、いかがなもんでしょうか。まあ私も決まり文句ばかりで実のない文章はよく書いてるんで、人のことは言えないのですが(←この「人のことは言えない」というのが決まり文句ね。こう言っときゃ反省してるように見える、というやつです。そのココロは「人のことは言えないけど、私の意見は変えないよ」という意味なのね(笑))。
 でも、ここまで底が浅くて見え透いてる反省文を書かせるってのも、JR西日本が、それだけ国民を思いきり愚弄してるってことなんである。国民の知的レベルをその程度と踏んでいるということなのである(でなきゃ、あんなヘボ反省文、書きなおさせてらあ。「実は自分たちは悪くない」と言いたいからあんな文になるのだ)。
 あれ読んで「ああ、この二人は本当に反省してるんだなあ。可哀想に」なんて言って騙される人、いると思ってるのかね? たまにホントにいるから情けないんだけど。


 休日なので、朝からしげと映画に行く予定であったが、直前になってしげがキャンセル。継続中の鬱のせいである。
 病院に通っていても、最近はクスリ以外の治療効果があまり上がっていない。問診で先生から「どうして鬱なんですか?」と聞かれるのが嫌なのだそうだ。
 それこそ「どうして聞かれるのが嫌なのか?」と問いただしてみるのだが、「だって、理由を“作らないといけない”から」と答える。本人にもどうしていきなり情緒不安定に陥るのかが分からないのだそうだが、かと言って、本人以外に理由が分かるはずもないのだから、先生にしても「どうして?」と聞く以外にななかろう。ぶちぶち拗ねるしげのほうが間違っているのである。直感だけで生きてる人間は自己分析の能力もないから困るんだよね。
 「だからどうして映画に行きたくないのさ」と詰め寄ったら、「だって今日は、新しい抗鬱剤をもらったんだもん」と言う。それがどう効き目があるか分からないから、映画はやめるのだとか。よく分かるような分からないような、妙なリクツで、映画見た後で飲むのじゃダメなの? と思うのだが、しげの様子を見ていると何だか切羽詰っている感じで、なるほど、映画を見ている最中にぼろぼろ泣き出しそうな気配である。
 つい2、3日前も、しげは私を駅まで迎えに来て、私の顔を見た途端にべそべそ泣き出した。半日会えなかっただけでこれだから、安心して仕事に行くこともできやしない。映画館は一緒にいるじゃないか、と言われそうだが、一緒にいたって目はスクリーンに向かっているから、やはりしげは孤独を感じてしまうらしいのである。観劇中に「もう帰る!」なんて愚図られた日にはたまったものではない。前にも書いたが、私としげは一回りほど年齢差があって、更に見た目はもっと離れているように見えて(私が老け顔でしげは童顔だからである)親子くらい離れていると勘違いされることも少なくないのである。だから、しげが泣いてるのを私がなだめているのを人が見たら、どんなゴカイをするか知れたものではないのだ。
 映画は明日行くことにして、今日は控えることにする。と言いつつ、明日になってクスリの効き目が切れたらまたどうなるか分からないのだが。

 クスリを飲んだしげは、そのままコトンと寝て、12時間起きなかった。9時から9時までである。寝相は最悪で、寝たときにはちゃんと服を着て、布団もかけていたのに、目覚めたときには布団もとっ散らかした上に全裸であった。起きるなり私のほうを見て、「いやん、えっち♪」なんてこきゃあがったが、私が脱がしたのではない。自分で勝手に寝ながら脱いだのである。しかも、私が、脱ごうとする服を下げてやり、布団を何度もかけてやったというのに、結局、「うにゃあ!」とか奇声をあげてぜんぶうっちゃらかしたのだ。何で私が変態のように見られなきゃならんのだ。
 今朝の鬱はどこ吹く風、という調子なので、多分、今度のクスリは利いたのだろう。全く、自分で脳内麻薬くらい分泌してセルフコントロールくらいしてくれと言いたい。


 昼間はだらだらとテレビを見る。『行列のできる法律相談所』の再放送とか、『義経』の再放送とか。渡哲也の清盛があっさり死んで、松坂慶子の時子が檄を飛ばすんだけれど、これがまるで迫力がない。『キネ旬』でいつぞやこの松坂慶子を誉めてた評論家がいたが、何をどう見てるんだか。

 『究極の二択クイズコロシアム ホントはどっち!』という特番、パネラーがいかにもどうでもいい二択を選ばされるという楽しいバカバラエティ。問題だけのばかばかしさで、妙な演出をしてないのがいいやね。
 「豚と三瓶、体脂肪率が高いのはどっち?」(答え・三瓶。豚は29.1%で、ちょっと小太りの女性程度らしい。三瓶は36%くらいだった)
 「安田大サーカスの『クロちゃん』とかつみ・さゆりの『さゆり』、声が高いのはどっち?」(答え・さゆり。なんと1100デシベル! 人間の限界を超えてるとか言ってたけど、ヨナさんとこのあやめさんならこれ越えられるんじゃないか)
 「『佐藤』と『鈴木』。日本で一番多い苗字はどっち?」(答え・佐藤。昔は確か鈴木が多かったと記憶してるが、今は逆転してるのかな)
 「パンチパーマの人に聞きました。哀川翔と高倉健、あなたの『心の兄貴』はどっち?」(答え・高倉健。聞いた対象が中年以上の人が多かったから、そりゃ健さんになるでしょ)
 「新宿No.1ホステスとホスト。これまでに貢がれた額が多いのはどっち?」(答え・ホステス。しかしホントにどうでもいい二択だよなあ)
 パネラーの江川達也がやたら薀蓄語ろうとして森下千里から「うるさい」とたしなめられていたのがおかしかった。


 CS「日本映画専門チャンネル」で『世界の中心で、愛をさけぶ』。
 劇場公開時は「なんじゃこりゃ?」と思った映画であったが、『デビルマン』を見た後では(もうこのフレーズも懐かしいな)。
 やっぱり白血病患者を美しく描いて儲けようって偽善ぶりが鼻につくのは変わらないのだが、演じている長澤まさみに罪があるわけじゃなし、よく熱演はしてるし、この映画見てドナー登録した人も増えたと言うし、「偽善もまた善のうち」と、大きな目で見てあげてもいいかな、という気分にだけはなったんで再見。でもやっぱり感動はしないのである。
 しげの今一番フェイバリットな役者さんである近藤芳正さんが出演しているので(でもチョイ役)、録画してあげようと思ったのだが、生DVDを初期化し損なって失敗。でもまた再放送があるだろうから、勘弁してね。


 CS「ディズニーチャンネル」で『ヘラクレス』。
 一応ギリシャ神話がモチーフだから、いやがるしげを誘って劇場まで見に行った記憶があるが、今見返してみても薄味でつまんない映画である。ディズニーアニメ凋落を象徴する一本。もっとも、劇場公開時は字幕スーパー版だったので、気になってた吹替え版が聞けたのは嬉しかった。ヘラクレスの松岡昌宏、メガラの工藤静香はまあこんなもん、という出来であったが、ハデスの嶋田久作のハジケぶりが凄かった。悪役ではあってもディズニーアニメの中ではハデスはかなりヌケサクで愛嬌もあるので、そのあたりを考慮しての熱演だろう。何たって映画の締めはハデスにおいしいとこ持ってかれてるのである。


 CS「時代劇専門チャンネル」で『時代劇スペシャル 丹下左膳 剣風!百万両の壷』。
 昭和57年制作の仲代達矢主演版で、原作の『乾雲坤竜の巻』と『こけ猿の壷の巻』を適当にこき混ぜての映像化。左膳が隻眼隻腕の剣士になったいきさつも冒頭にあり、またその因縁が本編に絡む一幕もあり、大岡越前との丁丁発止もあり、つまりは原作シリーズの殆どを一作に詰め込んじゃったわけで、続編を作る意図がなかったことがよく分かる。単発で終わってしまったのが惜しいくらい、力の入った仕上がりだが、どこか原作のつん抜けたような豪快さがなくて辛気臭いなあ、何となく脚本も演出も五社英雄っぽいなあと思ったら、ホントに五社英雄が監督だった。まあ、仲代に、可憐なヒロインが夏目雅子とくれば、これは確かに『鬼龍院花子の生涯』の流れである。
 仲代達矢の左膳はまあ、仲代達矢であって、痩せぎすの風貌が大河内伝次郎よりは原作に近いので、もう少しギラギラしたところがほしかったが、ややもっさりとしてしまっているのが惜しい。それもある程度は仕方がないのは、この当時ですら仲代達矢は既に50歳になっていて、左膳を演じるにはもうギリギリの年齢だったのである。『用心棒』の頃(29歳)の仲代さんだったら、さぞや似合っていたことだろうと思われる。まあその頃はその頃で、東映で大友`柳太朗の『丹下左膳』シリーズが継続中(最終作が『用心棒』の翌年)であったから、仲代さんに左膳を、という話は多分なかったろうが(時代劇ヒーローのもう一方の雄、『大菩薩峠』の机龍之助を三十代のときに演じることができたのは僥倖だろう)。
 数ある左膳映像化の一本に埋まる出来なのかと思ったのだが、拾い物だったのは意外にも(失礼)、櫛巻きお藤役の松尾嘉代だった。実は私はあまりこの人の演技が好きではなかったのだが(特に2時間ドラマとかはどれもこれも「流した」ような印象があるのね)、このお藤は驚くほどにいい。伝法で凛々しくて、それでいてチョビ安を慈しむ母性もある。短筒を構えた艶姿なんぞは身震いするほどカッコイイ。女はやっぱり男前でなくちゃな、という感じなのだ。

2004年05月14日(金) 内憂外患、振り回されてますよ(T∇T)。
2003年05月14日(水) すっ飛ばし日記/モテる男の心中
2002年05月14日(火) 2001年アニメグランプリ/『ななか6/17』7巻(八神健)ほか
2001年05月14日(月) 今日の実験……失敗/今週の少年ジャンプ『ヒカルの碁』


2005年05月13日(金) 落ちる人形/ドラマ『冬の輪舞 特別編』

 夕べは『黒薔薇の館』を見に行って見られなかった木曜ドラマ『アタックNO.1』第5話、録画しておいたのを見る。前回、こずえ(上戸彩)が選抜を外されて富士見学園に戻されてしまったので、お話は富士見メンバー中心に返ってしまい、何となくこれまでの選抜中心のドラマ展開は何だったんだ、ちゃんと伏線張っといたの、収束されるんだろうな、と心配に思わないでもない。三条(遠野凪子)、八木沢(宮地真緒)、吉村(加藤夏季)、垣之内(秋山エリサ)、そして猪野熊(船越栄一郎)の出演シーンまでがた減りなので、いささか心配になるのである。
 ストーリーも「富士見学園存続の危機か?」と盛り上げたいのは分かるけれども、設定があまりにも雑過ぎる。前回、酔っ払い(中務一友)に怪我をさせたために、こずえが謹慎処分をくらったのも処分としては行き過ぎだよなあと感じてはいたのだが、これが今回はありえないくらいにどんどんエスカレートするのだ。
 もともと、非があるのは女子高生に絡んできた酔っ払いなのである。こずえの暴力はものの弾みで、事故でしかないのだから、訴えられれば酔っ払いのほうこそ立場がないと思われるのに(ドラマ中だってそのことは言及されている)、日本バレーボール連盟は富士見のバレー部を廃部させようとするわ、酔っ払いは部長の大沼(大友みなみ)に退部しろと言うわ、現実にはありえない展開が続くのだ。
 さらに連盟が「インターハイで優勝できれば廃部決定は取り消す」と条件をつけるに至っては、連盟は常識も人間性のカケラもないやつらの集団か?! とあきれてものも言えない。よくもまあ、モノホンの連盟は自分たちを徹底的にバカ扱いしているあほな展開を看過してるもんだよなあと、その度量の広さに驚くばかりである(いや、ホントにクレーム付けられても困るんだが)。
 ちょっと「たたみかけ過ぎ」でここまで来るとしらけるばかりで、脚本家の底が知れる。一応、好意的に解釈するなら、本郷コーチ(中村俊介)が猪野熊の影響を受けていきなり冷酷になっていくという無理やりな展開を、脇からフォローするための設定かとも考えられるのだが、外側を補強したって、中がガタガタだと、結局はドラマ全体が崩壊するのだ。そうならないことを祈りたいんだけどね。


 朝、変な夢で飛び起きる。
 高層ビルから飛び降りるのだが(理由なんかわからない)、一緒に飛び降りてくれる娘(しげのような気もするのだが、それにしてはスタイルがいい)がいつのまにか人形にすりかわっているのだ。「詐欺だァァァァァァ」と叫びながら落ちていくところで目が覚めた。
 昔から「落ちる夢」というのはしょっちゅう見てるが、地面とか海面にたどり着いたことはない。落ちきると死ぬ、という俗説はあるが、今朝は起きたら本当に心臓がバクバク高鳴っていて、ホントに死ぬかと思った。
 しょっちゅうとは言っても、私が「落ちる夢」を見るのはたいていココロに何かのわだかまりがあるときなので、しげの情緒不安定に私も引きずられてるのかな、とちょっと心配になる。

 職場で今日は健康診断があった。
 もう40歳を越しているので、身長と体重だけ、というわけにはいかない。心電図やら胃透視やらで、小一時間はかかるのである。仕事が忙しいにもかかわらず合間にあっちこっちと移動させられるので、かなりバタバタ。同僚と「こういうときは午前中だけでも仕事を休みにしてほしいものですねえ」と会話するが、そういう余裕がないのがうちの職場の現状なのである。
 ニュースで「会社員の帰属意識が低下している」と報道されていたが、どこの会社だって、本気で景気が回復したとは思っちゃいない。私んとこも、もう七年も給料減額だ。なのに仕事だけは増える、という状況が続くのであれば、誰だって「会社のために働こう」という意識が低下するってものである。特にうちらのような職種は、「心の余裕」を作らないと、やってけない仕事なんだからね。
 検査の結果は今日すぐには出ないが、最近の体調を考えると、ちょっと悪い予感がする。バリウム飲んだあと、下剤をもらったのだけれども、そんなもの飲まなくったって、ここ一週間くらい、便はずっと下痢便だ。今年は職場を変わったばかりでもあるし、入院だけはしたくないんだけどなあ。


 昨日、連絡があったのだが、結婚が秒読みでそう言いながらなぜか足踏みしていたハカセ(穂稀嬢)が入籍されたとのことである。個人的なことなんで、日記に書こうかどうしようかは迷ったけれど、破局のニュースではないからまあよろしかろう。
 これまでは散々直接間接を問わずノロケられまくっていて、そのあたりの話題もアップすれば楽しかろうなあとは思っていたのだが、万が一にでも破談なんてことになったら可愛そうどころの話じゃないと思ってたんで控えていたのである。
 考えてみれば知り合ったのが彼女がまだ十代のころで、当時からその強烈なキャラクターにはかなり圧倒されていた。どこがどうすごいか、それこそオモテじゃとても書けないのであるが、まあ、基本はいい子だと思うよ(←これだけ言っときゃいいと思ってる)。ともあれおめでとう。末永くお幸せに。
 せっかくだから、ウェブ日記でも書いて新婚生活教えてよ、とメールを送ったのだが、「痛いからいいですよぉ」と返事が来た。ハカセからこんな「わが身を知る」の言葉が聞けようとは! ヒトはオトナになるものである。


 『テアトロ』6月号、演劇評論家の林あまりさんが、うずめ劇場の『ねずみ狩り』を観劇して、「スッポンポンになるなんて潔い」と誉めていらっしゃる。私はあの芝居はかなりつまらなくて退屈してしまったので、あまり誉める気にはなれなかった。というか、真裸になることを評価するような動きがあっちゃ、よくないなあと思っていたので、案の定、こういうレベルの低い批評が出たことに暗澹たる気分に陥ってしまったのだ。
 演出家のペーター・ゲスナー氏の、恐らくは虚飾を排した肉体そのものによる演劇の構築を目指したらしい意図は理解できなくもないのだが、それが同時にこの演劇の限界にもなってしまっている。つまり、真っ裸になってしまったら、それ以上、我々は脱ぐものは何もなくなってしまうのだ。更に言えば、スッポンポンになるくらいのことで話題になる程度に現代日本の演劇表現は稚拙で逼塞してしまっているのかと逆に問いかけたくもなる。映画のほうなら、ああいう芝居は大島渚がもう何十年も前に『愛のコリーダ』で凌駕してしまっているのだ。
 芸術もまた一つの「メディア」である。それはすなわち「媒体」であるということで、作家、演出家、役者の意図したことがそのままストレートに伝わるわけではない。そこに現れた現象を観客は自らの経験と知識とに裏打ちされた見識によって咀嚼するのであるが、厄介なのは、観客は自らの頭脳に対して著しく無自覚である、という点である。舞台と観客との間に、さながら魑魅魍魎が蠢くブラック・ボックスが存在しているようなもので、演出家の才能というものはいかにその魑魅魍魎に形を与え、観客を心理誘導できるかという点にかかっているのだが、『ねずみ狩り』はかなりな部分でその誘導に失敗してしまっている。翻訳劇を外国で上演する際には、文化も習慣も違う風土にいかに現実性を持たせるかの工夫が必要であるが、それがまるでうまく行っていない。たとえば殆ど初対面の二人がどうして関係を持とうということに至ったのか、その背景がニュアンスとしてすら出せていない。真っ裸になり、お互いの獣性を発露するかのように求め合う二人の姿の中に、ほんのひとかけらでも人間的なものを残すような演出を試みていれば、それすらも最後の最後で踏みにじられる悲しさが、観客にも伝わったはずだと思う。日本人の観客を誘導するには、「そういう描写」が絶対に必要になるのである。
 役者の技量が高ければ、あるいは演出家がもっと日本の現実を捉えられていれば、『ねずみ狩り』はもっと笑えたはずだし、もっと切なくなれたはずだし、もっと感動できたはずだ。戯曲自体は悪くないと思えるだけに、そこが残念な芝居だった。


 夜、金曜ロードショーで映画『エボリューション』。DVDも買ってるので見ようと思えばいつでも見られるのだが、ダン・エイクロイドが出ているので、流れていれば結局チャンネルを合わせてしまうのである。映画としては『ゴースト・バスターズ』のエイリアン版で、つまんなくはないけど二番煎じの印象をぬぐえないんだけどね。

 そのあと、裏で録画しておいた『冬の輪舞 特別編』を見る。新聞のサブタイトルがものすごくて、「話題沸騰の昼ドラマが今夜復活! ボタバラを越えた40年に及ぶ激動の愛憎劇が遂に完結! 出生の秘密に翻弄され続けたしのぶと千鶴子が最後に選んだ究極の愛とは!?」で、もうストーリーを全部説明してしまってるでないの(笑)。
 吉屋信子の『あの道この道』が原作で、ということになってはいるけれども、子供すり替えの設定とキャラクターの名前が踏襲されているくらいで、原作とはかなり違ったテイストになっているようだ(総集編だから、細かいところは分からん)。まあ大正時代の少女小説を現代でリメイクするならそのまんまじゃ無理だろうけれどもね。
 しかし、遠野凪子、ちょっとキツ目の顔立ちではあるけれども、『日本の黒い夏・冤罪』のころまでは可憐な美少女役で売ってたのに、どんどん濃くなっていくなあ。「昼ドラ女優」なんてはまり役なんだけれども、この手の作品ばかり続くと、それはそれで似たような約しか来なくなりそうで、いずれは『極妻』路線にまで行っちゃわないかと、いささか心配なのですが。いや、私が心配してどうする。

晩飯は、しげがコンビニで買ってきた、期間限定の「若狭の浜寿司」。美味いんだけれども、950円という値段を考えるとちょっとボリ過ぎだ。回転寿司で鯖なら、100円で新鮮なのが食べられるんだからね。

 日記を何とか読みやすくできないかといろいろタグをいじくってみるのだが、これがなかなかうまくいかない。諦めるのも悔しいので、少しは機能が増やせないかと、一年前、二年前のその日の日記がリンクできるようにしてみた。4年前となるとさすがに話題が古いが、一年前だと、そう時間が経ってないように感じる。アレはほんの一年前だったのか、ついこないだのような気がしていたが、というようなものである。年を取ると時間が早くなるというのはホントだね。

2004年05月13日(木) そう言えば梅雨なんだわ。
2003年05月13日(火) すっ飛ばし日記/リズムな男の死
2002年05月13日(月) アッパレパソコン大合戦/『アニメージュ』6月号ほか
2001年05月13日(日) 愛の嵐/DVD『BLOOD THE LAST VAMPIRE』コンプリートボックス


2005年05月12日(木) 変態天国/映画『黒薔薇の館』

 えーっと、何年か前にも似たような事件があったような気がするぞ、の少女監禁事件。
 と言っても、事件そのものは昨年3月に起こったものだとか。
 北海道在住の無職・小林泰剛容疑者(24歳)は、インターネットのチャット上で女性を装って、兵庫県赤穂市の少女(当時18歳)と知り合う。しばらくすると小林容疑者は本性をあらわして、「やくざを送り込んでお前の家をつぶしてやる。家を出ろ」などと言って少女を脅す。怖くなった少女は小林容疑者の言うままに上京した(ここんところがどうも納得できないところである。どうして警察に通報しようとしなかったのか?)。
 東京都渋谷区のホテルに呼び出された少女は、小林容疑者から逃げられないように首輪をつけられ監禁され、顔を殴られるなどの暴行を受ける。それ以外にどんなことをされたかは知りたくもない。6月にすきを見つけた少女が逃げ出すまで、監禁は3ヶ月に渡ったとか。
どこぞのダイレクト・メールみたいに定期的に来るのが、この手の事件である。誤解を招く表現であることを承知の上であえて言えば、いたいけな少女を性奴隷にしたいという願望は、去勢でもされてない限り男性には確実に存在するものだ(年上好みの人もいらっしゃるでしょうが、ここは単純に男性は女性を支配したい欲望を本能的に持っているということを言いたいわけです)。サディズムと性衝動は密接に結びついているので、これがなきゃ、子孫繁栄だってできやしない。
 もちろん、世の男性がみな、自分の性衝動を開放して生きているわけではない。しかし、内なる猛獣を飼いならして日常を生きることができない男性も何割かの割合で存在することも現実なのであって、だから痴漢にしろレイプにしろ、「あってはならないこと」ではあるが、同時に根絶することが不可能な「確実に起こること」でもあるのだ。

 ならばどうして「予防」も「対処」もできないのか、と事件が「再発」するたびに胸糞悪い思いをまたしなければならないのだが、コトはそう単純ではない。
 小林容疑者は、2002年にも、北海道江別市の自宅に同居させていた21歳と19歳の女性に対する監禁容疑で逮捕され、傷害罪などで起訴されている。そのときは、札幌地裁の公判で、「ハーレムをつくる」などと言って複数の女性と同居し、日常的な暴行で女性を服従させたことが明らかになっている。複数の女性とも結婚、離婚を繰り返しており、予想通り、女性を監禁・暴行するパソコンのエロゲーにも熱中していた。
 あまりにも「定番通り」の経歴の持ち主で、だとしたらこんなやつをどうして放置しといたのか、保護観察処分などとは生ぬるい、とっとと刑務所にぶち込んでおけばよかったではないか、と怒りを押さえきれない人は多いと思う。しかし、今やもう、「この程度の人間」はそのへんにザラにゴロゴロしている。風俗の店で変態プレイに興じてる連中まで「性犯罪予備軍」だと判断してしまったら、朝の挨拶を交わしてる一見気のよさそうな隣の家のオジサンや、裏の会社のシャチョーさんまでタイホしなきゃならなくなるかもしれない。大げさだ、と感じる人もいるかもしれないが、自分が明日、酔っ払って女の子に痴漢行為を働いたりすることは絶対にない、と断言する男は、100%確実に将来痴漢行為を働くだろう。「自分は大丈夫だ」なんて言ってるやつくらい、信頼できない人間もいないのである。
 もしも警察が「犯罪者予備軍」を取り締まれるのなら、少なく見積もっても成人男性の半分はタイホされてしまってもおかしくはない。もちろんそんなことは無理な話で、日本において「加害者の人権」が何でここまで守られてるかといえば、男性の殆どが「脛に傷持つ身」であるからなのだ。誰が自分で自分を取り締まるように法律を厳しくせよと本気で主張するだろうか。男性で「もっと性犯罪に関する法規制を厳しくしろ」と主張している連中は、自分がその法律に引っかかる可能性に気がついていない愚か者か、イ○ポのどちらかであろう。

 ……全国の女性のみなさん、どうして日本が性犯罪万歳国家になってしまっているか、そのカラクリがご理解できましたか? あなたのお父さんが、お兄さんが、あるいは恋人が、自分たちが「取り締まられないために」、痴漢とかの罪はあんなに軽いのですよ。政治家の誰だったっけ、いつぞや、「レイプするほど元気なやつ」とか発言してたやつがいたでしょ? 「ミニスカとかボディコンとか(死語)、色っぽい格好をして男を誘う女のほうが悪い」「減るもんじゃなし、実際、女の方だって楽しめたんだからいいじゃん」って本気で思ってる馬鹿男、もう信じられないくらいたくさんいるんですよ? 今回の事件だって、「女が悪い」って言いきる糞ったれどもが、きっといて、ネット上で堂々と自己主張したりするでしょう(そりゃノコノコ上京していったのはどうかと思うけれど、圧倒的に悪いのは当然犯人のほうなんだけどね)。
 「女は男の性奴隷」、それが男性の本音なんです。あなたの隣の男性がどんなに優しげな顔をしていても、信用なんてしちゃいけません。筒井康隆の『家族八景』を読みましょう。男性の真の姿が分かります。

 床屋談義で半ば本気で言われる話題に、「性犯罪者は去勢してしまえ」というものがある。冗談めかしてはいるが、「死刑などの極刑にすることはできない性犯罪者」を処罰する方法として、「去勢」は決して無効なものではない。しかし現実には加害者の人権(つまりは男性の“女は乱暴してもいい”という既得権だわな)とやらを考慮すれば、これは荒唐無稽で実現不可能な手段であるとしか言えない。
 もう、諦めるしかないだろう。行政は、司法は、可愛らしいお嬢さんたちを変態の餌食にされても構わないと思っているのだ。たとえ一人、二人の犠牲者が出ても、とりあえず何年間かは犯人が「保護」されるので、その間の犠牲者だけは出ずにすむという、消極的な方法でガマンするしかないのだ。日本が実質「男社会」である以上は、これ以上の改善は望めまい。
 あなたが女性で被害にあったら、あるいはあなたの可愛いお嬢さんが犠牲になったら、「運が悪かった」と思って忘れよう。泣き寝入りがまたしても変態男どもを野放しにすることになるが、泣き寝入りせずに事件を公にしたら、今度は被害者であるあなたが世間からの猛烈な非難の嵐にさらされることになるのである。

またぞろ「責任はエロゲーにあり」の短絡思考で規制を訴える馬鹿が出そうだが、そんなことで性犯罪が根絶できたら、誰も苦労はしないし不安に苛まれることもないのである。やたらこういう「責任転嫁」したがるやつも、実は「犯罪者予備軍」の可能性、高いんだよねえ。キレイゴトを熱弁するやつなんて、信用しちゃいけません。


 今朝方、テレビスペシャル版『積木くずし』の制作発表がテレビで放映されてたのをしげと一緒に見たのだが、もう唖然としちゃったのが安達祐実の「特攻服」姿である。いやもう、パッキンのカーリーヘアーに鬼みたいなメイク、80年代の不良のまんまなのである。
 一応、時代は現代に移すんでしょ? それとも今でもあんなの、実在してるの? いや、なにより、安達祐実がそういう格好をしてもこれが全然似合わないどころか、「小学生の不良コスプレ」にしか見えないという点である。
 ……キャリア、終わっちゃうんじゃないか。

 朝っぱらからニュースをじっくり見られたのは、つまりはやたら早起きしてしまったためだが、相変わらずウトウトしながら目覚め、という不眠症が続いているためである。
 余震の回数はかなり少なくなっているのだが、それでも震度2程度の地震はまだ起こっている。これが、「今日はゆっくり眠れそうかな」という時を狙い済ましたように来るものだから、未だに落ち着かないのだ。
せっかく早起きしたのだから、と、いつもより早めの電車に乗って出勤しようと駅まで。ところが電車は2分遅れで到着。もちろん、遅刻になどはならなかったが、今日は帰りの電車も3分遅れであった。JR九州ではこういう遅れはしょっちゅうで、のんびりしたものである。少なくとも「過密ダイヤ」とやらで運転士がトチ狂って暴走するような事態にだけはなりそうもない。


 夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』の第4弾、深作欣二監督作『黒薔薇の館』(1969年・松竹)。
 チラシに「MIWA meets TAMURA」とある通り、主演は実輪明宏(当時は丸山明宏)と田村正和。どれだけ濃いドラマが展開されるかとつい期待してしまうのだが、正直,映画の出来はやや肩透かしなものだった。
 物語は佐光喬平(小沢栄太郎)という老人の独白から始まる。彼が経営するクラブ「黒薔薇の館」に、毎夜8時にどこからともなく現れ、11時にはどこへともなく消える謎の女、藤尾竜子(丸山明宏)。ただならぬ妖艶な雰囲気を身に纏った彼女は、純粋至上の愛の歌を披露し、館に集う男たちを陶酔させていた。佐光もまた、常に黒薔薇を手に持ち、真実の愛が得られたとき、その薔薇は赤く変わると信じて疑わない彼女の魔性の魅力に囚われていく自分を押さえきれなくなっていった。
 しかし彼女は男どもを破滅される女でもあった。彼女の元夫だと名乗る大友(西村晃)、横浜での恋人だったと称する青年(川津祐介)、神戸での恋人だったと称するマドロス(内田良平)が現れるが、竜子はその誰にも「知らない」と言ってあしらう。青年は失意のあまり自殺し、マドロスは竜子の取り巻きの混血少年のジョージ(城アキラ)と決闘し、死んだ。大友はその惨事を見て「ロマンは死に絶えた」と言い捨て、館を去っていく。
 ここまでの前半、物語は殆ど黒薔薇の館以外に出ず、回想シーンとのつなぎのみで実に演劇的に進行していく。3人の男が次々と現れ、しかし竜子の正体はいっこうに知れないという展開はスリリングで、台詞も極めて演劇的、特に西村晃のハムレットもマクベスもかくやという狂気の愛を語る弁舌は、濃い芝居が苦手な人には辟易であろうが、私には楽しめた。
 しかし、この映画の弱点は既にここで表れていて、つまりあまりに演劇的で映画としては破綻してしまっているのである。そもそも、美輪明宏という存在が映画には向かない。失礼を省みずに言わせてもらえれば、いかに美輪さんが美しくても、本物の女には見えない、誰もが彼女は男であると認識しているはずである。だからこそその妖しさは「見立て」の芸術である演劇においてはその魅力を倍増させるのであるが、映画ではどうしても「なぜ登場人物たちはあの女が本当は男だと見破れないのだ?」と訝ることになる。まあ、美輪さんのネツレツな信奉者ならばそれでも騙されてくれるのだろうが、特にそうでないヒトにとっては、美輪明宏賛美賛美賛美のこの映画は見ていてかなり苦痛であるだろう。しげなんぞは「オレ、『美輪明宏歌と踊りのショー』を見に来たわけじゃないよ」と憤慨していた。
美輪明宏を映画でも魅力的に描く方法がないわけではない。つまり見たまんま「ゲテモノ」として描けばいいわけで、ゲテモノであると知りつつも惹かれていく倒錯の愛を描けばよかったのである。美輪さんをあくまで女として扱おうとするから、おかしなことになるのだ。こんな映画と演劇の初歩的な違いにも気づかない無能な監督に脚本・監督をやらせることがそもそもの間違いで、全く深作欣二の映画にはホントにロクなものがない。
 それでも前半はまだ「見れる」方で、後半になるともう物語は退屈なだけになる。新登場の佐光の息子・亘(田村正和)がまるで冴えないのだ。
 美輪明宏主演の前作『黒蜥蜴』がドラマとして成立しているのは、黒蜥蜴に対抗するキャラクターとしての明智小五郎が、美輪明宏の「魔性」に対して、「知性」で拮抗していたからである。それがこの若き日の田村正和には全くない。親に愛されていないと思いこんだただのすね息子で、キャラクターとしての魅力は殆どないに等しい。彼もまた、前半に登場してきた馬鹿男たち同様、結局は美輪明宏に対する無条件の信奉者の一人に過ぎず、だから二人が死の逃避行をはじめても「いきなり何で? どうしてこいつと?」という疑問ばかりが渦のように浮かぶばかりなのだ。後半、美輪明宏の魅力がどんどん下落していくのは、「こんな馬鹿を愛するのなら、この女もたいしたやつじゃないな」と思わせてしまう点に原因がある。
 これは田村正和の責任ではなく、やはり脚本が悪いのである。「君のことが目に浮かんで離れないんだ!」なんて甘えん坊で陳腐な台詞を田村正和に喋らせるんじゃないよ。いずれが支配し、いずれが支配されるか、そういった葛藤と緊迫感を描くのは瀬戸際の愛を描く際には絶対に守らなければならない鉄則なのだが、深作欣二にはその才能が決定的に欠けている。後年の映画を見ても、セックスは描けても恋愛はまるでダメなのは、『火宅の人』でも『忠臣蔵外伝四谷怪談』でも同様であった。

2004年05月12日(水) アニメなどニュースあれこれ。『キル・ビル vol.2』も見たよ。
2003年05月12日(月) すっ飛ばし日記/帰らない男
2002年05月12日(日) 懐かしき人々の狂乱
2001年05月12日(土) 今日までそして明日から/『私はスポック』(レナード・ニモイ)


2005年05月11日(水) ダウナー、ダウナー/『ONE PIECE ワンピース』巻三十七(尾田栄一郎)

 劇団メンバーのみんなのブログ、読みやすいものが多いんで、私もこの日記の行間をちょっと空けるくらいのことをしたいのだが、どうやったらいいのか分からない。いろいろタグをいじくってみたのだが、これが全然変化なし。もう何年も日記書きつづけてるってのに、未だにパソコンに慣れてないのである。パソコンに詳しい方、誰か上達のヒケツを教えて頂けないものでしょうか。


 何だかいつまで続くんだって感じの、しげの鬱。
 今日もポプラで鶏天弁当とミックス弁当を買って、車の中で二人で分けて食べる。しげはこれがかなり気に入ったらしく、食ってる最中、ずっとニコニコしているので、その流れで映画に行こうかと誘ってみたのだが、途端に渋い顔になる。
 「せっかくラブラブなのがなくなっちゃう」というのだが、何をどうすればしげのいう「ラブラブ」になるのかが見当もつかない。バカップルを演じたら、それでしげの心は満たされるのか? 「演技でもいい」としょっちゅう言ってるが、実際にやってみたときに「いつものアンタじゃない」とかえって情緒不安定の度合いが増しちゃったことがあったので、しげの言をマトモに受け取ることもできないのである。
 しげは、帰宅した後、突然またコンビニに出かけたかと思ったら、イクラ丼を買ってきた。しかも千円近くする巨大イクラ丼である。
 「アンタを驚かせようと思って」というのだが、確かにビックリした。そりゃあ、私はイクラが好きだ。回転寿司で、イクラにキュウリがくっついて来るのを見ると、「姑息なマネをするんじゃねえ!」と、キュウリをどけてイクラだけで食べるような人間である。一度、ドンブリいっぱいのイクラを食ってみたいなあというのは夢でもあった。
 けれど、嬉しくはあってもこれがしげの情緒不安定から来る行為だと思うと、素直に喜べないのである。給料日前でそんなに贅沢できるわけでもないのだから、無理してこんなの買って来なくてもいいし、第一、しげが作ってくれていたミートボールスープも私はもう食べていたのである。
 ただ、こういうことを書くとまたしげがシュンとしかねないので念のため書いておくが、こういうトンチンカンをやらかすところも(もちろん鬱も)含めて、私はしげと一生添い遂げたいと思っているのである。もう十年以上も一緒にのたくってるんだから、そこんとこの気持ちにいい加減気づいてくれてもいいんじゃないかと思うのだが、これが全然しげに伝わらないのがココロの不思議というやつだろうかと首をひねるしかないのである。


 チャンネルNECOで「みうらじゅん的映画祭」特集で映画『大巨獣ガッパ』。
 みうらさんが、「ガッパやギララやゴケミドロのようなB級作品を再評価することが、タランティーノをやっつけることになるんだぞ」の主張に大きく頷く。もっとも私は、これらの作品を「B級」と認識したことはないんだけどね。予算ってことでA級B級を分けるんだったら、日本映画はハリウッド映画に比べたら全てB級になるわな。トホホな部分はクロサワにだってあるのだ。
「昔、テレビで見た」とかいう特撮ファンはいっぱいいるけれども、「ガッパ」を劇場で見たって人にはあまり会ったことはない。私と同年輩か、それよりちょっと上くらいの人しか、こんなもん見たがるやつはいないので、それもいたし方がないのだが、当時私は劇場から出てきながら、心の中でみうらさんが「脱力もの」と評する「ガッパの歌」を涙しつつリピートしていた。『ガッパ』がイギリス製怪獣映画『怪獣ゴルゴ』のかなり露骨な「換骨奪胎」であることを知ったのは後年のことで、親子ガッパの再会に、ガキの私は素直に感動していたのである。
 だもんで、あまりトホホな映画であるかのように紹介されるのはちょっと悲しいものを感じてしまうのだが(確かに「亀」が当たったから次は「河童」という日活の発想は何だかなあだけれども)、ムカシの特撮映画なんて見る気もしない、なんて似非オタクがちょっとでも減ってくれるんなら、トンデモ的な紹介の仕方にもガマンしなきゃならんかなとも思うのである。悔しいけど。


 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE ワンピース』巻三十七(集英社)。
 ジャンプシステムの最もよくない部分の影響を受けて(つまりは連載の「引き伸ばし」ね)末期症状に陥っているが、それに気がつかないでいるのは、信者的なファンと新参入の若いファンと、作者だけであろう。……って、前2者が半端じゃないくらい数がいるから、連載がいつまでも続いてるんだろうけど。
 ウソップに続いて、ニコ・ロビンも麦わら海賊団を離脱しそうな気配だけれども、ウソップだけだと「どうせまた戻ってくるんだろう」と読者に先読みされてしまうので、もうちょっと「押しとく」必要性を感じてのこの展開だろうか。でも、こういう謎を残した形で「もう二度と会うことはない」とロビンに言わせたところで、ドラマツルギーがそれを許すはずもない。ここまで物語を「仲間」をキーワードに紡いでおいて、それがあいまいな理由のまま放置されていいはずがないのだ。
 ウソップもロビンもいずれ麦わら海賊団に戻るか、そこに至らないまでも、何らかの形での「絆」を結びつづけていくことは確実なので、中途半端に離散するように見せかける展開はかえって嘘臭い。麦わらの一味崩壊の危機感がないから、「出来レース」にしか思えないのである。
 こういう出来レースを何度もかましてくるあたり、尾田さんの作劇術が破綻している証拠なので、「末期症状」と言わざるを得ないのである。……いやね、これでロビンが本当に二度と登場してこなかったら、それはそれですごく意外な展開になるのだが、そうなったほうが読者は作者を許さないんじゃないかね。
 ルフィもゾロもいとも簡単にサイファーボールの連中にやられちゃってるが、これもまた「敵のインフレ状態」でしかないので、緊迫感も高揚感もゾクゾクもドキドキもワクワクもない。しかも今巻、後半はルフィたちがまるで出てこないのだ(フランキーを仲間にするための、いつもの「回想」だとしても長い。しかもやっぱりナミやチョッパーと同じく「育ての親の死」のパターンだ。もう二番煎じ、三番煎じでこうも感動を押しつけらけたって、涙も出やしないのだ。
 それでもこうして、単行本を続けて買ってるのは、何だかんだ言っても尾田栄一郎が鳥山明なきあとの(死んでないって)、ジャンプマンガを支えている才能の持ち主であることに違いはないからだ。このまま「引き伸ばし」でせっかくの尾田さんの才能を枯らしちゃいかんと思うよ、本気で。それでつまんないマンガしか描けなくなったマンガ家が山といること、昔からジャンプ読んでるファンなら知ってるよな?

2004年05月11日(火) ホントに午前様になっちゃったよ(-_-;)。
2003年05月11日(日) すっ飛ばし日記/ギャグで怖がる女
2002年05月11日(土) つんでぶで……謎の言葉(^o^)/DVD『日本誕生』ほか
2001年05月11日(金) ちょっと愚痴を言いたい夜/『荒野の出前持ち』(石川賢)


2005年05月10日(火) 彼は誰か。/『のどかnobody(ノーバディー)』2巻(田山りく・及川雅史)

 「想定外の事件」というのはまさしくその通りだろう。
 いつぞやの三馬鹿のような、無自覚な連中とは違う。カメラマン・記者ではないが、命を賭した仕事に従事していることは間違いない。ただし、その「思想的背景」は知る由もない。

 イラクの武装組織「アンサール・アルスンナ軍」(アルカイダと深い関係があるとされるイスラム教スンニ派の武装組織で、外国人の拘束、殺害事件を多数起こしているグループ)が、昨九日、イラク西部ヒート近くで米軍基地から出てきた車両を襲撃し、イギリスの警備会社「ハート・セキュリティー」から派遣されて米軍基地の警備支援に当たっていた日本人、斎藤昭彦氏を拘束した。斎藤氏は重症だという。
 率直な疑問を口にするなら、「米軍基地にどうして他国の『警備』が必要なのか?」ということなのだが、識者によれば、近年、アメリカなどでは兵士を抱えるコストを削減するために、有事のみに利用する傭兵・ボディーガードを民間会社に依存する割合が大きくなっているということである。要するに「準兵士」として働くわけで……って、つまり「MASTERキートン」(ロイズで働く前のね)か! と、実際にそういう人が活躍している現実は知識として知ってはいたものの、日常のニュースの中にこうして飛び込んできた途端に何か戦慄のようなものを覚えてしまうのは、やはり安楽な中に暮らしている日本人の心の間隙というものであろう。
 斎藤氏はかつて1979年から81年にかけて陸上自衛隊第1空挺団に所属し、その後、フランスの傭兵部隊に20年間所属し、200人からの部隊も率いていたという。ハート社は元特殊部隊所属の除隊者で構成されており、斎藤さんが雇われたのもそういった経歴が買われたためらしいが、だとすれば斎藤さんにとって、他国の警備会社の傭兵となることも「国防」の延長線上にあったことなのだろうか。その線がよく見えない。
 しかし、武装組織は明らかに斎藤さんを「米軍の一味」と見ている。斎藤さんを除いて、ほかの傭兵たちはみな殺したということだが、なぜ斎藤さんだけをとりあえずではあるが助けたのか。テレビのニュースでは、「日本人は金ヅルだから」というコメントを寄せる識者もいたが、果たしてそうか。「金銭要求のための人質」あるいは「自衛隊撤退を要求するための人質」ならばまだ生存の可能性はあるだろうが、「そうでない」可能性のほうが高いのではないか。自らの「宣伝」工作のためという意見もあったが、こちらの可能性が高いと私も思う。犯行声明文に具体的な要求がない点もその推測を裏付けているように思う。
 だとすれば、極めて厳しい現実を我々は覚悟しなければならないのではないか。
 日本政府はもちろん情報の収集、および救出に尽力するだろうが、明らかに「米軍協力」が明確である今回のケースは、これまでの中で最も危険な現実を日本人に付きつける結果になりはしないか。これでまたね、「自衛隊撤退」を訴えるトンチンカンな連中が現れそうな気がするが、これはもうそういうレベルの問題ではないのである。
 私のような凡人には、イラクに行く動機自体、心の中に全く見出せない。今や、どんな目的でイラクに行こうと、テロリストたちに利用されることにしかならないことは状況が示している。覚悟のない傭兵がいるわけもないが、だからと言って、余りにも我々の日常とかけ離れた立場に身を置いている斎藤さんの心情が分からぬ以上、憶測だけでは賛同も反対も示すことはできない。
 なんかね、ネット見てるとさ、斎藤さんと三馬鹿とを一緒にしてる連中もバカだけど、斎藤さん立派! と持ち上げている連中も、「傭兵」の何を知ってそういうことを言ってるのか、分かんなくてね、やっぱりバカなんじゃないかって気がしてくるのよ。斎藤さんは「自衛隊」としてイラクに入ったわけじゃないんだから、我々との繋がりをどう実感すればいいのか、今の段階では「よく分からない」というしかないのが大半の日本人の現状じゃないかと思うんだけど、何だかもう「知ったかぶり」なやつが多くてヤダねえ。

 私はもう、いったい、イラクとは何なのだろう、と根本的な疑問を自分に対して問いかけるだけである。

 斎藤さんの弟さんが会見を開き、「ご迷惑をおかけしまして」と涙を流している。しかし、何をどう迷惑をかけたというのか、それすらも見えない今は、困惑したままテレビの画面を茫然と見流すしかないのである。


 飛び石連休が終わって(大型にはならないのよね、うちの職種の場合)、普段の勤務に戻りはしたのだが、途中でちょっと体調を崩したこともあってか、どうもエンジンがグズってる感じ。
 急な頼まれ仕事あり。たいした手間はかからないので、さっと片付けちゃえばいいのだが、これがどうにも取りかかれない。ほかの仕事があるのを言い訳に、明日に回す。休憩時間にウトウトすると、あっという間に時間がなくなる。夜中に頻繁に目覚めているので、睡眠が浅いことも原因なのだろう。休日の前くらいはやっぱり睡眠薬を飲もうかなあ、という気になってしまうのは、やっぱり気弱になってる証拠だろう。

 同僚が雑談で由布院映画祭の話題をしているのを小耳に挟む。
 「『タカダワタル的』って映画を今度上演するそうですよ」
 「誰ですか、高田渡って」
 なんて会話をしているものだから、つい、「ああ、あれでしょう、『自衛隊へ行こう』の」と口出ししてしまったものだから、「藤原さん、高田渡をご存知でしたか!」と、しばしその場の4人ほどで高田渡話で盛り上がってしまった。
 浅学非才でモノシラズな私ではあるが、それなりに手持ちの知識だけで少しはお喋りができることがある。高田渡などは私の趣味の範囲からはちょっと離れてはいるのだが、それでも「こういう人のことは知っておいたほうがいいよなあ」というアンテナにだけは引っかかっていたのだ。
 話題はそれからあっちこっちへ飛んでいって、千石イエスの経営してたバーが今どうなってるかとか、黒い霧の池永さんのバーの様子はどうだとか、ドカベン香川のバーは(バー話ばかりではないか。全部福岡にあるのである)、なんてお喋りで時間をつぶす。みなさん、仕事が煮詰まっていて息抜きしまくっているのである。いいのかこれで(笑)。
 とりあえず今日は週明け早々だからまだアイドリング。起動は明日から明日から。


 ここしばらく、しげの「さびしんぼう」というか、情緒不安定、かなり長引いているのだが、車に乗っていると、いきなりハンドルから手を離して私の手を握ってくるので、運転は大丈夫かと気が気でない。
 しょうがないので、こちらから手を握り返して、片手運転させているのだが、オートマ車じゃなきゃ、事故を起こしているところである。つか、オートマでもちゃんと両手で運転してくれよ。
 「晩飯は?」と聞くと、「作るの忘れたんで、コンビニで弁当を買う」と言う。
 今更もう、お前は昼間何やってたんだよ、と文句は言わない。文句を言うほどの元気など週明け早々ありゃしない。週の半ばは忙しくて言う元気がないし、週末は疲れ果ててやっぱりそんな元気はないのである。
 弁当買ったら、またゴミが出ちゃうなあ、と思ったので、「じゃあ、車の中で食べようか? そしたらゴミもその場でゴミ箱に捨てられるし」と提案したら、これがいたくしげの気に入ったらしい。
 そのままでは狭苦しいので、助手席の背もたれを倒して、私は後部席に移動して、弁当をわけて食べる。食べてる最中、しげは私の顔を見てニコニコしているのである。いつもとちょっと違った食事の仕方をするだけで癒されていると言うか、この程度のことで喜んでるとは、よっぽど日ごろから私が邪険にしているようだ。本当はしげが不幸ぶりっ子してるだけなんだけど。


 マンガ、田山りく原作、及川雅史作画『のどかnobody(ノーバディー)』2巻(角川書店)。
 天才建築家、長瀬のどかが、傾きかけた温泉旅館をリニューアルして救っていく、温泉旅館版ビフォーアフターの第2弾。今回は「熱海」「箱根」「伊東」「石和」が舞台。富士山が切り取られた一幅の絵画のように眺められる温泉とか、天井から葡萄がたわわに実る温泉とか、うーん、こういう温泉が本当にあるのなら、一度行ってみたいもんだと思わせるが、いかんせん、殆どが関東周縁。それに温泉郷自体は実際の場所に取材しているけれども、旅館はあくまでフィクションらしい。残念。
 今回は、これまで連戦連勝を誇ってきたのどかが、大失敗をやらかすエピソード(のどかの彼氏さんも初登場。職業が落語家ってのがユニーク)や、謎のアシスタント(笑)の三井ケイ(ミケちゃん)が、その驚くべきオタク知識を発揮する番外編(入りてえぞ、アンモナイト風呂!)もありで、1巻より好調な印象だ。
 絵柄がもう、思いっきりほのぼの系のアニメ絵なので、しげからは「結局“萌え”で買ってるんじゃん」とジト目で見られているが、確かにストーリーは他愛無いけれど、「こういう温泉に入りたいなあ」という気分で読んでるだけなんで、余り目くじら立てないでほしいものである。

2004年05月10日(月) いそがしいそがし。&ゴールデンウィーク映画興行成績。
2003年05月10日(土) すっ飛ばし日記/イラストな女
2002年05月10日(金) 人生は重い荷物を……。/『新映画宝庫 Vol.4 スタークラッシュ 大宇宙映画放浪編』ほか
2001年05月10日(木) 仕事復帰、半分だけだけど/『× ―ペケ―』6・7巻(新井理恵)


2005年05月09日(月) あえて取材しないという選択を取れないのは何故?/『弁護士のくず』2巻(井浦秀夫)

 平日だけれども、土曜日の休日出勤の代休で休み。
 朝から夕方までは家でゴロゴロしながら日記の更新など。平日は体力使い果たして寝てしまうことも多いので、なかなか書くに書けないのである。

 テレビのニュースは相変わらず兵庫県尼崎市JR福知山線の脱線事故の詳報。
 平日はワイドショーを見ることがないので、どういった塩梅かと思ってチャンネルをひねり回してみるのだが、なんだかもう、ゲンナリするほどに酷い。いや、腹立ちは、事故を引き起こした責任のあるJR西日本に対するものと、テレビの過剰報道との両方に分かれるのである。
 JR西日本に対しては、1991年に起きた「信楽高原鉄道事故」 (JR列車と信楽高原鉄道車両が正面衝突し、死者42名を出した事故。複線でJR列車が一時停止して信楽列車をやり過ごさなきゃならないのを、ダイヤを気にしてJR列車が単線に突っ込んでいったために起きた)の時の教訓を何一つ生かせていなかったという憤りである。関係者に緘口令を敷いた隠蔽体質、責任のなすりつけ、今回の事故と全く変化がない。
 しかし、悲しみもまだ癒えない遺族に証言を強要し、それを「JRの体質をたてなおすためにはこれしか方法がない」と言い訳するみのもんたを見ていると、「デタラメこいてるんじゃねえ」と横っ面を張っ倒したくなる。“いつ、誰がテレビにそんなことをしろと頼んだ?”視聴率稼ぎが目的の連中に善人面されることくらいむかっ腹が立つことはない。
 しかもこいつら、ついこないだまで「ボウリング場で宴会」がどうのと非難しまくってたくせに、「JR西日本の管内放送では、その日、死者が出たとも脱線事故だとも一切放送しなかったために、事故の規模を知らずにボウリングに参加していた可能性があります」といけしゃあしゃあと喋ってやがる。
 一般のアンケートでも、今回の事故は「個人の問題ではなく、JR西日本の体質が問題」とする意見が圧倒的に多かった。その世論を受けて、マスコミはコロリと個人攻撃を止めて、システム批判に切り換えているのである。この節操のなさ、定見のなさは何だ。
 人の生き死にをショー化していながら(でなきゃなんでこうもBGMにアニソンが流れまくるのだ。これが「演出」でなくてなんだと言うのだ)、こういうキレイゴトを垂れ流す行為が、逆説的に生命を軽んじる結果になっていることになぜ気づかない。みのもんたの言は、「またこんなに人が死にましたねえ。たくさん死ねば死ぬほど、取材する対象が増えてショーを続けられますねえ。もっともっと事故が起きませんかねえ」と言っているに等しい。
 昼日中からテレビを見ることがあまりないので、断言はしかねるが、みのもんた、いつもあんな調子なのか? でもって、みのファンの主婦連は、アレを聞いて「もっともだ」とか頷いてるのか? あんな白々しい演出にコロリと騙されてるのか?
 なんだかもう、信じられない世界が真昼の日本を覆っているようである。


 夕方から、ラクーンドッグさんの誘いで、基礎練習に参加。
 その前に、細川嬢をしげの車に乗せてかなきゃならなかったので、いったん別の場所で待ち合わせ。ところがこれがひでえ渋滞に巻き込まれてしまって、5時前に家を出たのに、千代町の「パピヨン」に着いたのは六時過ぎ。本当なら六時前には着いているはずである。
 ラクーンドッグさんとは本屋で合流、そのあと「パピオ」の練習場に向かう。
 練習場自体は10時半まで予約を入れていたそうだが、私は明日からまた仕事なので、そこまで付き合っていたら体力を消耗してしまう。ただでさえ病み上がりなので、最初の基礎練習と「フルーツバスケット」まで付き合わせてもらった。
 キソレンったって、もう何年もまともに体を動かしていないので、腹筋も背筋も腕立て伏せもどれ一つとして満足にいかない。まるで体が曲がらず、すぐにへたばる。細川嬢もしげも、体が動かないようなことを口にするが、中年の私に比べれば段違いによく動いている。
 「フルバ」は(と略すとマンガのタイトルみたいだが)、満遍なくみんながお立ち台に(笑)。ラクーンドッグさんが、「宮崎駿の映画を見たことない人」とお題を出すが、誰も立たない。そりゃ、たいていの人が見てるだろう……と思うのだが、ドッグさんは『魔女の宅急便』も『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』、全てご覧になっていないとか。『ロード・オブ・ザ・リング』も『ハリー・ポッター』も一本も見たことがないそうで、これはこれですごいと言う気がする。でもこれじゃいつまでもオニから逃れられないのも当然である。
 私が立ったときに、「SMに興味がない人」と言ったら、ドッグさんしか立たなかった。女性陣はみんな興味があるのか。ドッグさんが細川嬢に「どこまでもですか!?」と言ったら、細川嬢、「あります!」と即答。恐るべし!
 本当は「フルーツバスケット」の後、読み合わせもある予定だったのだがそれはパスさせていただいて帰宅。
 途中、ラーメン屋に寄って、ホルモン丼を食う。焼肉屋で食べるホルモンはたいてい生焼けか焼き過ぎかで美味くないのだが、店で出されるホルモンはどうしてちょうどよい焼き加減になっているのか、これが不思議で仕方がない。


 CS日本映画専門チャンネルで西河克己監督『絶唱』(1966・日活)。
 大江賢次の同名小説(河出文庫で現在でも入手可能)の、舟木一夫・和泉雅子主演による二度目の映画化。久しぶりに見返したけど、
 最初の映画化は1958年、同じ日活の滝沢英輔監督作、小林旭・浅丘ルリ子主演。三度目は1975年、この二回目と同じ西河克己監督によるモモトモ(山口百恵・三浦友和)映画。
 完成度という点では、三度目のものが一番だったように思うが、この二度目の映画化はオープニングで舟木一夫の主題歌が哀切込めて(つか陰気に)流れるところがポイントで、「な〜ぜ、死〜んだ〜♪ あ〜あ〜あ、小〜ゆ〜き〜♪」と、おいおい、最初からネタばらししていいのかよって苦笑してしまい、本編でも、他の二本での情熱的な小林・三浦に比べて、舟木一夫ときたら、徹頭徹尾、腺病質な演技で観客の感涙を絞るものだから、「何じゃこりゃ?」という印象だけは強いのである。
 「なぜ死者との婚礼が行われたのか?」というミステリー的な興味で引くには、途中の大地主の息子と山番の娘との身分違いの恋の過程が案外スムーズに展開してしまうので、かなりダレる。クライマックスは婚礼そのものではなく、病床の小雪のもとに帰ってくる順吉が間に合うか否か、そこにかかっているが、西河監督はこのあたりを舟木・和泉版と、モモトモ版とではシチュエーションを微妙に変えている。そのあたりが見所と言えようか。
 劇中で「木挽き唄」を歌うシーンがあるので、この原作は「歌手兼俳優」の若手コンビを売り出すのに重宝されていたことが分かる。歴代のコンビの中で、本作の和泉雅子だけが異質に見えるが(つか、冒険女優が何で結核で倒れる薄幸の美少女なんかやってるんだってな感じ)、それは現在の和泉雅子を見ているからそう思えるので、当時は彼女も「アイドルスター」だったのである。いや、私もギリギリその時代を知ってるからねえ。ちょっとヒイキしちゃいたくはなるのよ。少女時代の梶芽衣子が、「太田雅子」名で、恋のライバルを演じているのも要チェック。


 マンガ、井浦秀夫『弁護士のくず(九頭)』2巻(小学館)。
 主演・ビートたけし(笑)の弁護士マンガ、オフィス・キタノから訴えられるような様子もなく、ちゃんと続いています。主人公の九頭元人が髪を金髪にしたらさすがにクレームが来るかもしれませんが。
 弁護士ものは小説にしろマンガにしろ、どうしたって「庶民の見方」的な視点でしか描かれないが、どれもこれもが『家栽の人』になっちまったらそれはそれで面白くない。ミステリーとしての興味がどんどん薄れていくからである。
 依頼人を解雇した会社の上司を、恋人を若い女に取られた中年女を、父親の愛人に遺産を取られまいと遺言書を隠した家族を、夫に依存しているくせに気位だけは高くて離婚訴訟を起こした女を、九頭は口先三寸で罠にかけ、本音を引き出し“丸く(なったのかどうか)”収める。丸く治めるためには嘘八百を並べても構わない。
 「金をふんだくってやりましょう」
 「判決が出る前にカタをつける」
 「お前はバカなんだよ! ちゃんと自覚しろ!」
 「うまく騙されて気持ちよく協力してくれる人がいてさ」
 「こいつバカみたいにヒトがいいから何やっても怒らねーよ」
 およそマトモな弁護士の言だとは思えないが、これでも大人しいのを選んでいるのである。被告をあるいは原告である依頼人にすら、「罠」を仕掛けるような行為を、果たして弁護士がホントにやっていいのかどうか、読んでていつも気になるのだが、一応、監修に弁護士さんが付いているので、ある程度は(こっそりとは)行われていそうである。
 その「罠」の部分がミステリーなんですね。いくつかの作品には「どんでん返し」も用意されていて、だからあまり細かいネタばらしはできないのだけれど、絵柄で食わず嫌いをされる向きもあるかもしれないが、これはなかなか拾い物のシリーズである。

2004年05月09日(日) クレーマーの話、続き。
2003年05月09日(金) すっ飛ばし日記/すれ違いな二人
2002年05月09日(木) 明日は誰の夢を見るかしら(^o^)/『スーパーまるでん』3巻(森下裕美)ほか
2001年05月09日(水) 病気で寝ててたいして書く事ないはずなのに(^_^;)/『死神の惑星』1・2巻(明智抄)


2005年05月08日(日) 「ひっ(ざ)びきー、呼ーび♪」/映画『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』

 昨日が休日出勤だったので、今日からが連休。一応、ゴールデンウィーク最後の連休と言うことなのだろうが、こう飛び飛びに出勤してるんじゃ、あまり「大型」という感覚は生じない。三日休むと体がなまるが(今、寝床が狭いので、節々もやたら痛む)、一日出勤しただけでは元には戻らず、かえって調子を崩す気がする。連休はやはり二日程度で、出かけるのは一日、あとの一日は寝て暮らすくらいがちょうどいい。


 さて、今日の『仮面ライダー響鬼』は、十五之巻「鈍る雷」。
 コトバ的にはヘンなサブタイトルだが、これはストーリーをうまく象徴していてイイ。雷撃とともに変身する斬鬼。けれど彼の体はもう……
 今回は明日夢君(栩原楽人)もヒビキ師匠(細川茂樹)も出演シーンが少ない。冒頭で、明日夢君が盲腸手術の跡(毛はやっぱり剃ってるようである)を見ようとしたちょうどその瞬間に、ひとみ(森絵梨佳)から電話がかかってきて、びっくりしてパンツのゴムを傷口に思い切り当ててしまうというベタなギャグがあるくらい。いや、ベタでもかわいいからいいやな。お母さん(水木薫)がなんか勘違いしちゃう描写は、朝の番組なのにいいのかな(笑)。
 こっちが年取っちゃったせいもあるんだろうなあ、昔だったら明日夢みたいな優柔不断なキャラは見るだにハラ立ててたと思うんだが、どんなに情けなくても、「くじけるな! お前、ヒビキの跡を継ぐんだろ!」と応援したくなってしまう。まさしく「少年よ旅立つのなら 晴れた日に胸をはって Hit the beat! keep your beat! 心が震える場所 探して Hit the beat! keep your beat! 誰にも出来ないこと 見つけ出せ」ってな心境なのである(この「your」の部分は、「ユア」ではなく、思いっきり「ヨー」と発音するのがGood。「ひっ(ざ)びきー、呼ーび」と聞こえるように歌うのだね)。けど、この展開でもしも明日夢が跡を継がないようなことにでもなったら、詐欺みたいなもんだよな。
 今回のメインストーリーは、「斬鬼(松田賢二)→戸田山(川口真五)」の師弟相伝の話。ここで「鬼」がどのように次代に継承されていくのか、具体的に描写するエピソードを入れておくことで、「響鬼→明日夢」ラインの伏線としておく、という構成なのだろう。戸田山にはまだ音撃戦士としての名前が付いていないようだが、次回のサブタイトルを見ると、「轟鬼(トドロキ)」になるみたいだ。「頷鬼(ウナズキ)」じゃなくて良かった。
 引退を口にするザンキに対して、戸田山はいかにもイマドキの若者ふうに「ムリっスよお! ムリムリ!」と狼狽しているのが可笑しい。「いや、鬼になりたくないってわけじゃなくて……」と言い訳する様子が(弟子になってるんだから、当たり前である)、見ようによっては明日夢君より幼く見えるのである。日菜佳(神戸みゆき)はどうしてこんなのに惚れるかな(←嫉妬入り)。電話で戸田山相手に激ラブに猛アタックしてたのが、相手がザンキに変わった途端に「あ゛」と、一気にトーンダウンする小さなギャグがまたかわいい。……なんかオレ、『響鬼』の面白さを小出しのギャグで判定しているなあ(苦笑)。関係ないけど、「ヤマアラシ」って妖怪の名前じゃないだろう(しかし、ホントにあれだけデッカイ魔化魍が暴れてて、この世界の人間たちはその存在に気づいてないのだろうか?)。
 いや、ちゃんとアクションシーンとかも実によく「魅せ」てくれてると思いますよ。ラスト、童子と姫に包囲されつつも悠々と(ホントは余裕あるわけじゃないのに)変身する斬鬼と戸田山のカットなんか、その構図と言い、間と言い、シビれましたもの。響鬼がちょっとくらい情けなくても、ワキが固めてくれているぞ!
 斬鬼はギター振り回してまるでジミヘンみたいな戦いっぷりでしたが、戸田山はどんな戦い方を見せてくれるんでしょうか? そして、未だにバイクに乗れない(乗れるこた乗れるのだがヘタ)らしいヒビキの運命やいかに! ……このネタ、まさか最終回まで引っ張るつもりじゃないだろうな(笑)。


 「母の日」ということで、CS放送は「母の日映画」を放映しているところが多い。
 「時代劇専門チャンネル」でも、山本周五郎の『かあちゃん』のテレビドラマ版を放送。映画版はついこの間、2001年に市川崑監督、岸恵子主演のものがあったが、これは1987年『傑作時代劇』シリーズ枠での放送で、主役の「お勝=母ちゃん」を市原悦子が演じている。実は、1973年『ぶらり信兵衛道場破り』の一エピソードでも市原悦子は同役を演じており、「“母ちゃん”女優」ということになる。
 何度となく映像化されている作品なので、ストーリーをご存知の方も多かろうが、五人の子供を育てているケチなお勝には実は秘密があって……、という軽い推理小説風味のある人情時代劇。推理作家としても『寝ぼけ署長』ほかの傑作の多い山本周五郎ならではの、小味の利いた短編小説。
 ドラマ自体は、あまり大きな起伏はなく、淡々とした描写が続くのだが、最後の最後で三郎(松田洋治)の語る「真相」が「なるほど」と膝を打つ感じで「粋」なのである。すべからく、ミステリーのラストは「粋」でなくてならない。O・ヘンリーか、スタンリィ・エリン、ヘンリィ・スレッサーあたりの味を日本人で体得していたのが山本周五郎であったと言える好短編である。
 このネタは山本周五郎もよっぽど気に入っていたと見えて、複数の小説でも「使い回し」している。影響を受けた小説や映画も数知れずであるので(その中には既に推理風味すらなくなってしまっているものも少なくない)、ご覧になった方の中には「なんだ、このネタか」と拍子抜けされる方もいらっしゃるかとは思うが、ありふれたネタだからこそ、役者の技量が試される部分もある。「母ちゃん」の市原悦子はまさに適役だが、「母ちゃん」の家に泥棒に入って改心させられる勇吉役の堤大二郎も根の実直さをよく表している。その勇吉に惚れるおさん役を、牧口昌代がこれまた元気に好演。どっかで見たことある人だなあと思ったら、元アイドル歌手でした。今はどうしているのやら。長屋の差配役で殿山泰司が出ているのがチェックポイントか。
 45分という短めの時間枠が、アイデア一本で成立するこういう作品にはちょうど合っていると思う。


 劇団のホームページの方に、グータロウ君、鴉丸嬢と、メンバーの日記が新たに参加。
 グータロウ君の日記はまあ何というか、親子の情愛が行間からにじみ出てくるようなほのぼの日記だし、鴉丸嬢はもう、日ごろの口の悪さはどこに行ってるんだってくらいのかわいらしい日記で(「大人画廊」のイラストはまあ、アレですが)、どちらも私には逆立ちしたって書けやしないものである。
 なんか活動休止してからがかえって日記コンテンツが充実して来た感じで、こうなるとラスト・サムライ其ノ他君にも登板していただきたいところであるが、本気で体力使い果たしてるからなあ。討ち死にしないで頂きたいと願うほうが先なのである。


 定期的に訪れるしげの情緒不安定。
 きっかけが特にあるわけでもなく、「いきなり寂しくなる」のだから、躁鬱病じゃないかという気もしてくる。何か具体的な治療法があるのなら何とかしたいところだが、それがないから困り果てているのである。もうね、この十年以上ね、ずっと言い続けてるんだけどね、私の心がしげから離れたことがあったかって言うんだ。私ゃ職場でも「どうしてそんなに奥さんの話ばかりするんですか」と言われるくらい女房の話をしているぞ。ヒューズ中佐もかくやってくらいだ。それが理屈では分かるけど感覚では分からないというから、しげの感覚の方が狂ってると断定できるのである。
 「じゃあ、どうすれば『心が離れてない』って納得できるんだよ」
 「あのね、あんたが寝ててもね、オレがじっと見つめたら、パチって目を開けて見つめ返してくれると」
 「オレはエスパーじゃねえええええ!」
 しげの要求度はこういうレベルである。人間の力でしげの心の隙間を埋めることは不可能であるということがご理解頂けようか。
 だから自分の心の病気は自分で治せ。
 

 夜、「AMCキャナルシティ13」で映画『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』。
 いやね、オープニングには思い切り期待させられましたよ。いきなり始まったかわいらしく昔懐かしい『小さな妖精』の人形アニメーション。あれ? アタマに別の短編がくっついてるのかな? と思わせといて、突然、画面がびりびりと裂けて、「これは、こんな楽しいお話ではありません」と来る。どんなに「不幸せ」な物語が展開されるのだろう、とワクワクしたのだが、続くナレーションのジュード・ロウ、これが語りにまるで軽快なところ、ブラックな味わいがなくって、一気にトーンダウンしてしまう。こういう詐欺師的な語り手を演じるのなら、それらしい雰囲気を出してもらいたいものだ。吹替版の松本保典はどんな調子だったのかな?
 本編の物語がまた、面白くなりそうでそうならない不完全燃焼。ヴァイオレット(エミリー・ブラウニング)、クラウス(リアム・エイケン。『ロード・トゥ・パーディション』の“あの子”だ!)、サニー(カラ&シェルビー・ホフマン)のボードレール家の三人姉弟を襲う不幸の数々が、どうにも観客の身に迫ってこないのだ。
 三姉弟の両親は家屋敷ともども焼け死に、引き取られた先のオラフ伯爵(ジム・キャリー)はボードレール家の財産を狙って、あの手この手で師弟たちを抹殺しようとする。慌てた弁護士ポー(ティモシー・スポール)に他家に預けられるけれども、彼らもまた次々に謎の死を遂げて……っても犯人はオラフ伯爵だってバレバレなのだが、そこはもうこういうナンセンス・ブラック・ユーモア・ミステリーの定番なので、それをどううまく見せるかが脚本家と演出家と役者の腕の見せどころだろう。ところがこれが、残念なことに今ひとつ、いや、今三つくらいにへにょへにょと冴えないのである。
 まあそれはもともとの原作が基本アイデアはいいものの、今一歩のところで「詰めが甘い」点にも原因はあるのだが、次々と子供たちを危険な目に合わせるのはいいのだが、それを切り抜けるアイデアがあるときは荒唐無稽、あるときは無理がある、あるときは偶然に頼りすぎると欠点が目に付き、なかなかカタルシスを得られないのである。かてて加えて、ジム・キャリーの過剰な演技が、面白さよりも一人よがりを感じさせてうまくない。
 『キネ旬』で立川志らく師匠が「不幸な映画なら木下恵介の『日本の悲劇』の方がよっぽど不幸だぞ」と書いていたが、もちろんこの『不幸せな物語』は本気で不幸を描こうとしたわけではない。不幸を様々なアイデアで乗り越える子供たちの機知の面白さをこそ楽しみたい映画である。しかしそのためは子供たちに降りかかる不幸は本気で恐ろしいほどの不幸でなければならないのに、そこからして「甘い」ことに対して志らく師匠は皮肉を投げかけているのである。
 それにしても、こないだの『ステップフォード・ワイフ』のグレン・クローズもそうだったけれど、メリル・ストリープやキャスリン・オハラといった名女優たち、コメディとなるとどうして押さえが利かなくなって臭くなるのかなあ。コメディアンにシリアス演技は出来るけれども、その逆はムリって風評、ホントだってことになっちゃうよ?(もっともキャスリン・オハラはコメディアン出身だから、コツを忘れたものか)
 演技者で一番よかったのが、“殆ど何もしていない”カメオ出演(しかもノン・クレジット!)のダスティン・ホフマンってのはどういうわけかね(ジム・キャリーの演技を見ながら、一言「最悪」と言うだけ。まことにその通り!)。
 まあ、主人公の三人師弟がかわいかったのと(『ハリー・ポッター』三人組ほどの魅力には欠けるのが痛いが)、オープニングの人形アニメーションとエンディングの切り絵アニメーション(影絵って書いてる批評がネットにあったけど、影絵と切り絵は違うよ)が素晴らしかったので、一応は及第点の出来とは言えようか。全編をラストの切り絵アニメーションで作っていたら、こりゃもう、とんでもない大傑作になっていたことは確実である。まあ、アニメだけならもう100点満点で、これだけのためにDVDを買ってもいいくらいである。アニメファンなら必見。

2004年05月08日(土) またまたクレーマーの話。
2003年05月08日(木) ある終焉
2002年05月08日(水) ピンクの象は出て来ません/『ホーリーブラウニー』1巻(六道神士)ほか
2001年05月08日(火) 38℃線突破/『なみだ研究所へようこそ!』(鯨統一郎)


2005年05月07日(土) 批判は言葉で言え/『WāqWāq(ワークワーク)』3巻(藤崎竜)

 俳優の小林勝彦氏が、6日、肝細胞がんで死去。享年68。
 脇役一筋という方だったので、出演したドラマ、映画、アニメなどは無数にあるが、それ故にどれを代表作と呼んでいいかは分からないくらいである。名前を聞いて「誰だっけ?」と首をひねられる方も、顔写真を見れば、「ああ、この人」とすぐに思い出せるくらい、一般の人にも身近な役者さんで、時代劇、現代劇を問わず、善人から悪人まで、チンピラから殿様、軽い役から重厚な役まで、何でもこなされていた。
 近年は声優としての活動の方が目立っていたように思う。『スター・ウォーズ』シリーズの銀河皇帝パルパティーンは故・千葉耕市氏がアテていたのを小林さんが引き継いでおられたが、これでまた新しい皇帝探しをしなければならなくなった。こういった声優交代が一番悲しい。
 特撮ファンには『快傑ズバット』23話の「紅フォックス」役の人と言ったほうが顔が思い浮かぶだろうか? こういう方こそが映画、ドラマの根底を支えていらっしゃるわけで、68歳での死去というのはなんとしても若すぎる。
 最近はマンガ家の雑賀陽平さんのケースと言い、沈鬱な気持ちになるような逝去のニュースが多くて、日記に書くのは避けてたんだけれども、地道に活動されていた方が亡くなっても、日記等で取り上げられるケースが少ないので、書かでものことを記した。やっぱり、若い人にはもっともっと本や映画を見てほしいのである。


 これもまた、悲しいニュース。
 『名探偵コナン』の作者、青山剛昌さんの出身地の鳥取県大栄町にある「コナン大橋」(知らない人もいるでしようが、そういうのがあるんですよ)に設置されている「江戸川コナン」のブロンズ像が、4月30日から5月1日にかけて破損されるという被害にあっていたとか。
 「コナン大橋」には、西北に虫眼鏡を持った像が、東北にも立像が建てられていたのだが、前者は右腕が接合部分からもぎ取られて橋の欄干に捨てられており、後者の立像はトレードマークの眼鏡が切り取られていた。しかも被害は今回が初めてではなく、これまでに六回も壊されているとか。修理総額は約二百十万円。今回の被害は更に百万円を超える可能性もあるということである。このような悪質ないたずらが続けば、立像の設置自体を考え直さなければならなくなるのではないか。
 モノはブロンズ像である。ちょっと叩いて壊れるとか、そういうものではないから、犯人は「コナン」に対してかなり悪意を抱いていると考えられる。私も日記等で「コナン批判」をやらかしているから、容疑者の一人になるかもしれないが(しまった! 身内としか会ってないからアリバイがない!)、もし犯人が本当に「コナン嫌い」だったとしても、こういう形での復讐には憤りを覚える。
 確かに私は『コナン』というマンガを読むたびに腹を立てている。トリックがチャチだとか、そういうレベルではない。作者の青山剛昌はミステリーを愛しているフリをしていながら、その実、バカにしている。既成作品のトリックを、作品名を含めてバラして平然としているのが何よりの証拠だ。最低限のマナーすら心得ない人間を、どうして評価できるだろうか?(こないだ見たアニメの再放送では、コナン・ドイルのある有名な作品のトリックをバラした上、コナンに「こんなチャチな事件なんか、扱いたくない」とか言わせていた。アニメスタッフもどれだけ思い上がっているかがよく分かる)
 しかし、だからと言ってブロンズ像を破壊する正当な理由になどならないことは当然のことだ。そんなことをして何になる? 青山剛昌が改心してマトモなミステリーを書く気になるとでもいうのか? ならんぞ、絶対。何の効果もないのに、こんな阿呆な復讐を企てるのは、何か事件が起きたとき、犯人の親族の家にまでイタズラ電話をかけるような下劣なヤカラと同じ行為、いや、反日デモのついでに、鬱憤晴らしに破壊活動を行った中国人と同様の、知能レベルが著しく低い狂気の沙汰である。
 「青山剛昌いけすかねえ」と思うのなら、作品批判を論文にして、どこぞのマンガ情報誌やアニメ・映画雑誌に投稿するとか、自分でホームページ立ち上げて好き勝手書きゃいいのである。こういう「暴力」に訴えるというのは、最低の手段だ。こういうことをされると、「コナン嫌い」がみんな犯人のような白痴じゃないかと疑う馬鹿だって出てきて、真面目に批判しようとする人間も一緒くたにされかねない。逆にマトモな「コナン批判」がしにくくなってしまうのだ。
 「言論(小説やマンガ、映画などの作品も含む)でなされたことに対しては、言論で返せ」これが社会の、と言うよりは「人間のルール」というものである。警察、とっとと犯人捕まえて縛り首にしてしまえ(注・法的には器物破損で縛り首にはできません)。
 ……何だか興奮した文章になってしまいましたが、これ、ホントに私が犯人で、そのことを迷彩しようとしてこんなこと書いてるように見えなくもないですね。でも、全然違いますから、警察の人、私んとこに調査に来たりしないようにお願いします。


 旧聞に属するニュースらしいが、角川書店から、今年末、「石ノ森章太郎萬画大全集」全500巻が刊行されるとのニュース。えーっと、『藤子不二雄ランド』が全301巻で、『手塚治虫漫画全集』が全400巻。これを軽く陵駕しちゃうわけで、当然、個人のマンガ全集としては世界最大級であるということである。
 石ノ森章太郎の「選集」は、詳細な資料を兵録した石ノ森章太郎自選集『Shotaro World』全90巻が、メディアファクトリーから刊行されているが、これはあまり売れ行きがよくなかったらしい。角川書店、またでかい風呂敷広げやがったものだが、勝算はあるんだろうか? 手塚治虫も藤子不二雄も、初期作品は後期の作品と絵柄も違うし構成も稚拙と判断して、未収録のままにした作品が多かったのだが、いかに多作の石ノ森作品とは言え、500巻となれば、そういった初期作品まで博捜しなければ揃うものではないだろう。デビュー作の『二級天使』とか、正直、現代人の目で見て面白いとはとても言えないと思うのだが、そんなのを今の若い子に、どうやって買わせるつもりなのだろうか?(こないだ出た完全版、私は買っちゃったが)。
 更に気になるのは、このラインナップに他作家との合作や、「石ノ森章太郎名義だが石ノ森章太郎が描いていない」作品も含まれてしまうのか、ということである。前者は赤塚不二夫との共同ペンネーム「いずみあすか」名義で描かれた作品や、鈴木伸一のペンネーム、風田朗名義で描かれたスタジオ・ゼロの合作マンガ『レインボー戦隊』、あるいはメインキャラ以外の殆どの作画を石ノ森氏が担当した『オバケのQ太郎』などがある。合作だけに、このあたりは権利的に収録がかなり難しいんじゃないだろうか。
 そして、収録されても困るのが、「名義貸し」作品である。「監修」と銘打ってる『シャーロック・ホームズ』シリーズとかはさすがに含まれないだろうが、厄介なのは『マンガ日本の歴史』とかだ。初期は確かにご本人が描かれていたが、体調を崩した途中からはシュガー佐藤に全面委任してしまっている。『家畜人ヤプー』と言い、『北斎』と言い、『ホテル』と言い、石ノ森御大の跡をシュガー氏ほかが継いだ作品は多い。これらを「石ノ森作品」として認めてしまってよいものかどうか? いや、それを言い出せば、代表作と言っていい『人造人間キカイダー』だって、レイアウトは確かに石ノ森氏だが、作画は山田ゴロ氏ほかに描かせたもので、自筆で描いたのは最後の2ページだけなのである。一応、これはメディアファクトリー版でも「石ノ森作品」と認知されて収録されているから今回もそうなるとは思う(つか、これはカットしたらファンが激怒するだろう)が、手塚作品以上に石ノ森作品には「あいまい」なものが多い。しかも、御大の作品と比べると、そういった「名義貸し」作品は、一部を除いて駄作があまりに多すぎるのである。ラインナップによってはまるで売れないものも出てくるのではなかろうか。
 角川は、大映を吸収合併して以降、映画『男たちの大和』製作やら、やたら花火をぶち上げてるが、全部本当に成功の見込みがあるんだろうか。「SNOOPY BOOKS 55周年記念復刻全86巻」とかもあったなあ。いや、大半を友人から貰った鶴書房版で持ってるんで、いらないんだけど。


 今日も腹の具合は最悪だったのだが、何とか便所に入ったり出たりしながら、一日勤務。便所で腹を撫でながら、しげにメールを送る。以下はそのやり取り。

 私「着いた途端に下痢ビチ〜。朝礼にも出られない〜」
私「トイレットペーパーがねええええええ!」(ホントになかったのである。掃除のおばさん、継ぎ足しとけよな。幸いティッシュペーパーを持っていたから助かったが)
 しげ「知らんっ。頑張れえええええ」(どう頑張ればいいのだ)
 私「ベルトが切れたああああああ!」(締めようとした途端に、ホントに根元から切れたのである。もう一度はめ直して何とかしたが)
 しげ「ふぁいとおおお」(もう投げやりである)
 私「弁当、量多すぎ。食ったけど。ゲップ。」(ホントに丼飯二杯分はあった)
 私「また下痢りん。ぷう。」(食えば出るのは当然である。でもせっかく作ってもらった弁当、残せないんだよう)
 私「し、尻の穴がイタヒ……」(下痢便が乾くと痛いのだ)
 私「きついよう。あへあへ言ってるよう。でも仕事してるよう。ふにいいいいい」

 途中からしげは返事しなくなった。愛想がないと言うか馬鹿なメールばかり送るんで呆れたのだろうが、こんなアホなことでも書いてなければ、ハラの苦しみをごまかせなかったのである。しげから貰った正露丸、なかなか利かなかったし。
 とりあえず、帰宅するまで、しかぶらずにすみました。ホッ。

 夜、『欽ちゃんの仮装大賞』を見ながら就寝。腹の具合、少しは収まってきた模様。


 マンガ、藤崎竜『WāqWāq(ワークワーク)』3巻(集英社)。
雑誌連載のほうはどうやら無事完結したようで、まずはめでたい。ファンの間では「打ち切りだあ!」と嘆く声もあるようたが、それはどうだろうか? この3巻で「ワークワーク」世界の殆ど全ての謎が解明されているし、護神像を奪い合う戦いも一区切りしている。もちろん人気があればもっと「引き伸ばし」をさせられたかもしれないが、脇道に入りこんで、何やってんだか分からなくなるのは長期連載作品を見ていれば分かることである。10週打ちきりとはわけが違うし、まあまとまりのある終わり方をしてくれたんじゃないかなあ。
 いやね、「人間によって作り出された機械の反乱」って、またぞろ『青騎士』かよ(いやもう、『R.U.R』や『メトロポリス』以来って言ってもいいんだけどね)と、ちょっと引きはするのだけれど、もうこれはロボットものの基本パターンだから、文句言っても仕方がない。それよりも、もはやどう転んでも陳腐な結末しかもたらさないその戦いそのものを描くのではなく、「人間(赤き血の神)」が滅亡した後の世界、残された「人形(黒い血の人間)」と「機械(人間が人形を殲滅するために作った機械生命体)」の新たな争いを描くことをベースにして、そこに更にカタルシスとなる「防人と護神像どうしの争い」という別の要素を導入したところに工夫はあったと思う。まあ、“もっと面白くできる”要素は充分にありはしたのだ。
 キャラクターの描写不足、強引なストーリー展開は『封神演義』の時以来の藤崎竜の欠点で、それが世界観の広がりや作品の勢いに繋がらなかった分、ちょっと小ぢんまりとしちゃったな、という印象は確かにある。けれどそれは単に技術的な問題に過ぎないし、デザイン力、構成力ともにこれから伸びておかしくない人だとは思うので(デビューして何年だお前、って問題はあるのだが)、ファンがあまり打ち切りだ打ちきりだと騒ぐと、かえって作品の評価自体、下落させることにもなりかねない。ここはファンの方々もオトナになられて、「想定の範囲内」と理解した方が、次回作に期待もできるというものではないだろうか。


 マンガ、岡野剛『未確認少年ゲドー』5巻(完結/集英社)。
 岡野剛作品は『ぬ〜ベ〜』のころから、絵柄に対する興味だけでしか買ってないのだが、おかげでしげからも「何でこんなの買うん」と言われてしまう始末。確かに小学生向けだと言うことを割り引いて考えても、この話で10週打ちきりにもならず、5巻まで続いたってのは、それこそ立派なんじゃないか。いや、これは皮肉。なんで「未確認生物を救う」話が最後はやっぱりバトルで終わるかね。
 「未確認生物」ってアイデアは悪かないんだが、ちょっとおふざけに過ぎたのが、テコ入れしなきゃならなくなった原因じゃないかって気がしてならない。そりゃ、『ぬ〜ベ〜』のときも出てくる妖怪、全部おふざけで見てて痛くてかなわなかったが、それ何の間違いやら、受けてしまった。それがそもそもの不幸で、まぐれで一回成功したからって、自作の焼き直しをここまで堂々と臆面もなくやらかしちゃ、「ほかに描けるものないのか」という批判を受けたって仕方がないと思う。
岡野さんがジャンプでお呼びがかかる可能性はかなり低くなったと思うけれども、 この人の場合、原作を付けてあげたほうがよかないか。どうも描きたいものがハッキリしてないように思えて仕方がないのである。

2004年05月07日(金) このへんで三馬鹿事件もおしまい。
2003年05月07日(水) ある終焉
2002年05月07日(火) この文も詭弁かもしれない(^o^)/アニメ『十二国記』第五話「月の影・影の海 五章」
2001年05月07日(月) フライド・エッグ・ムーン/『三毛猫ホームズの恐怖館』(赤川次郎・竹内未来)ほか


2005年05月06日(金) 色気なしの夫婦メール/『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』1巻(西 義之)

 経営不振から、リゾート運営会社の加森観光に営業権を譲渡することになっている「スペースワールド」であるが、このゴールデンウィーク中の入場者は15万人を越える勢いで、昨年を大幅に上回ることが確実なのだそうな。
 「もうすぐなくなるかも」ということで入場者が増えたのかな? それなら日ごろからもっと地元の連中が行ってやってたらどうなんだと思うが、何だか北九州って、デパートと言い、テーマパークと言い、地元民が非協力的だよな。リバーウォークは大丈夫か?
 快速も急行も停まらない駅にテーマパーク作ってるってのもどうかと思うんだが、それでもスペースワールドの場合も定期的な設備投資はしてたし、ハウステンボスよりは大丈夫だろうと思っていたのである。実際、九州の見られるテーマパークといったら、スペースワールドと三井グリーンランドが双璧だったんだから。それがここ数年は新しいアトラクションも増やせない状況になっていたということで、不況の嵐の凄まじさを思わざるを得ないのだが、さて、加森観光はこれから先、いったいどういう手を打ってくるか。
 加森観光は、これまでリゾート再生に失敗したことがない。北海道のクマ牧場、北海道内のスキー場開発、岩手県の安比スキー場、盛岡グランドホテル、大分・別府温泉の杉乃井ホテルと、全て再生させてきた。しかし、再生規模から言えばスペースワールドが最大級と言えるので、今回がその手腕を本当に試される機会だと言える。
 北九州市民には悪いけれど、ハッキリ言って、もう福岡県近辺だけに集客を求めるのは無理だと思う。本州から、あるいは海外から大枚はたいて来ても満足したと思えるだけの何かを提供できるんじゃないと、立ち行かないんじゃなかろうか。ディズニーランドみたいなブランド感がないのが弱いんだけど、そこを強化できれば道が開けないでもないと思うんだけどね。「宇宙ポテト」とか売ってたって、それだけじゃねえ。


 しげが自分の日記をブログに切り替えた。
 実は私はまだブログというものがよく分かっていないのだが、要するにhtmlトカ知らんでも、楽にホームページ的なものが作れるってことらしい。
 日記の文章は相変わらず説明不足で分かりにくいのだが、まあ読みやすくはなっている。しょっちゅうあっちこっちと流浪しているしげの日記であるが、今度はそれなりに続きそうな気配なので、ごヒイキにしていただけるとありがたいのである。
 笑ったのはしげ自身の自己紹介。

 〉しげ。
 〉ダメ主婦
 〉ヒキコモリ
 〉トリ頭

 〉そんな私がしげさんです。

 自覚してるんなら改善しろってばよ。
 http://blog.livedoor.jp/aykroyd/


 連休明け早々、体調を崩す。ともかく下痢が止まらねえ。血便にはなっていなかったので、腸とかに穴が空いてたわけではないなと、仕事には出かけたのだが、力むとミが出そうでかなりヤバイ状況。おもらししそうだから早退するというのも情けない話だが、アンタ、シジュウ過ぎた中年が職場でそうそうソソウができますかって。
 ある程度仕事を片付けたら、残りは同僚に任せて、少し早めに帰ることにする。「ちょっと“しかぶり”そうなんで」と言ったら笑われた。二十代の同僚なのだが、まだ「しかぶる」は通じるようである。「まりかぶる」はさすがに無理かもしれないが。
 しげにメールを入れて、車で来てもらうことにする。以下はメールのやり取り。
 
 私「具合悪い。下痢が激しい。2時間くらい早く帰りたいけど、迎えに来れる?(T_T)」
 し「何時に?」
 私「3時15分。いい?」
 し「ん〜。」
 私「着いたら教えて。それまで死んでる。」「もう家を出た?」
 し「出た。まうちょっと」
 私「ちょっと死んでる」
 し「着いた。」
 私「どこ? 見えないよ」
 し「下↓。」

 甘い夫婦の会話を期待する向きもあるかもしれないが、我々のメールでのやり取りはこんなものである。それでも私は状況が分かるように説明しようとするのだが、しげの返事はたいてい「ん〜」か「ん」だけなので、イエスかノーかすら分かりにくい。
 でも、そこんとこを問い合わせてみても、返って来る言葉がまた「んー」や「ん」だったりするので、やっぱりわけが分からないのである。いや、ちゃんと迎えに来てくれたからいいんですけれどもね。
 私に対してだけではなく、こういう「しげ語」を誰彼なしに使う癖があるので、しげと会話する人はその時々で注意してください。トリ頭なんですぐ忘れるとは思いますが(徒労を慫慂するのも申し訳ないことですが)。

 食事はガストで豆腐ハンバーグのランチ。こういうのかうどんくらいしか今は食えない。
 ともかく喉が渇いていたので、ドリンクバーでがぶ飲み。積文館でマンガを何冊か買って、帰宅して横寝する。それでも居間とトイレの往復はやまない。
 「パンツにシミが付いたかも」
 「いやー! 自分で洗え!」
 「そんな体力があれば自分でやるわい!」
 全くビロウな話で申し訳ないが、最近私の日記を読み始めた方、私はあっちこっち病気を持ってるんで、時々こういう話が混じります。お食事中にはあまり読まれないほうがよいかと思いますので、そこんとこ、ご注意。

 テレビで映画『Shall weダンス?』をやってるのをチラッと見て寝る。やっぱオリジナルの方が圧倒的にいいやな。


 マンガ、西 義之『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』1巻(集英社)。
 『D.Gray-man』もそうだけど、現在のジャンプマンガでは、気色の悪さが必ずしもマイナス要因として働かないのがよく分かる作品。「キモイ」は今やイケてんのか?
 幽霊やら妖怪やらの退治ものは、正直な話、もう食傷気味だ。よっぽど工夫がないことにはなかなか食指が動かなくなっている。けれどこのマンガに関しては、まずキャラクターの絵柄に惹かれた。物語自体も、単純と言えば単純だけれども、設定にちょっと工夫があるので、意外に“読める”。幽霊だか悪霊だかの見せ方も、まあいかにも『リング』的(マンガで言えば、山岸凉子か御茶漬海苔的)な構図ではあるのだが、恐怖感は充分に伝わってくる。
 闇雲に悪霊を封じるとか成仏させるとかいうのではなくて、「魔法律」という法律があり、それに照らし合わせて「処刑」するというのがまずは面白い設定ではある。ただし、本当に物語が転がって行って、面白くなるかどうかは、この法律の扱い方次第で変わってくるだろう。法律が存在するのなら、そこには「抜け穴」もあるはずで、当然、処刑執行人と悪霊との間に、虚々実々の駆け引きが生じる展開になるのが自然の流れだろう。と言うか、そうしなければせっかくの設定が生かせない。1巻の段階ではどの幽霊もあっさり刑を執行されちゃっているし、ライバルっぽいキャラの暗示がされているけれども、それは設定から考えるに方向性が違うようにも思えるので、ちょっと先行きが不安ではあるのだが、一応は期待してよい程度の出来には仕上がっていると思う。
 主人公のムヒョのビジュアルが少年のわりには気色悪いのは、地獄くんとか浦見魔太郎の流れで、ホラーマンガの歴史を考えれば特に珍しいわけでもない。けれど、これまでヒーロー然としたヒーローの多かったジャンプマンガの中では充分個性的だ。カエルみたいな顔っつーか、切れ長の三白眼に、笑うとむき出しになる歯。およそヒーロー向きのキャラではない。『魔少年ビーティー』や『遊戯王』がこれに近い味を出してはいたが、ここまで露骨に気色悪くはなかった。ムヒョ(ネーミングもよい)のようなダーク・ヒーローをきちんと造形してこれなかったのが、ジャンプマンガの「物足りなさ」につながっていたように思う(ジョージ秋山がジャンプで連載を持ってたころは少しはそういう傾向もあったのだが)。
 「外見は気持ち悪くても本質はいいやつ」の路線が崩れているわけではないが、少年マンガでそこまで崩す必要もなかろう。読者に気色悪い奴が増えたんで、こういうキャラを受け入れられる素地ができていたという分析も可能だが、そう言うと怒る人もいるかな(笑)。
 もっとも、その分、相方のロージーのキャラクターが普通すぎて、物語を転がすのにこういうバカキャラが必要だというのも分かりはするのだが、もうちょっと何とかならなかったのかと心配になる。あと、レギュラーの女の子キャラ、必要なんじゃないかね?

2004年05月06日(木) アメリカの真っ直ぐくん。
2003年05月06日(火) ある終焉
2002年05月06日(月) やっぱり類友(^_^;)/DVD『シティボーイズライブ』/DVD『ブギーポップは笑わない』ほか
2001年05月06日(日) 襟足に寒気/『仮面ライダーSPIRITS』1巻(村枝賢一)


2005年05月05日(木) 人を呪っても穴がない/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(星野桂)

 6時40分起床。けれど本当は6時に起きる予定だった。
 父はいつも6時20分のバスに乗って店まで出勤している。博多駅から降りて店まで歩くのに10分くらいはかかるから、夕べ父に、「朝は車で送るよ」と約束していたのだが、当然、父はもう出かけている。恐らく、我々が高鼾で寝ていたので、起こしちゃ悪いと、一人でそっと出ていったのだろう。
 実は私は、いったん4時に目が覚めていたのだが(寝床が変わって広々とした場所で寝られても、不眠症が治るものでもない)、出かけるにはいささか時間が早いし、まだちょっと体もうまく動かない。とりあえず、テレビを点けておくことにした。そうしておけば、うっかり寝込んでも音の変化ですぐまた目覚めるだろうという判断だったのだが、寝惚けたしげが、私がウトウトした隙に勝手にテレビを消していた。
 ハッと目覚めて、時計を見たときにはもう遅い。
 暢気に鼾をかいていたしげを起こして、「おまえ、テレビ消したな?」と聞いたら、寝惚けた声で「消し忘れかと思ったから」と答える。
 「うちでも朝はいつもテレビ点けてるだろ!? 寝過ごさないためにそうしてるのに、何で勝手に消してるんだよ。それに、そういうことするんならどうしてお前は自力で起きないんだよ!」と怒ったが、しげは「ああ、ごめん」と口にするものの、またすぐ布団の中にもぐりこんでいる。もちろん、罪悪感から恥ずかしくなって顔を隠したわけではさらさらない。ただ単にまだ眠いだけである。しばらく待って、7時を回ったころにもう一度声をかけた。
 「もう大概で起きろよ。店に行って、ここの鍵を返さないと」
 「じゃあ、『釣りバカ』見てから店に行こうか?」
 「ばかやろう!」
 寝過ごして約束を守れなかったことを申し訳ないと感じる心がないのだ。日ごろ、他人に対しては時間の感覚がルーズだのなんだのと文句を垂れるくせに、自分には甘いのである。こういうところが「ずるい」のだが、結局しげは起きてても半分寝ているような生活を送っているので、自分が卑怯者だって自覚もないんだろう。こいつと一緒にいると、本当に疲れる。
 父のマンションに泊まったときでもこんな風にぐーたらだと、今後もしも父と同居するようなことになった場合、ちゃんとした生活ができるものかどうか不安だ。なんでもソツなくやれと言いたいわけではないが、日常のリズムを作れないのが生活習慣の乱れに繋がっているのは間違いないことなんで、少しは改善しなきゃって思いを持ってもらいたいものである。でなきゃ、病院に通ってる意味だってないよ。
 店に顔を出すと、仕事中の父、案の定、「気持ちよさそうに寝とったけん、起こさんやった」と答えた。ともかくムカシの人間というのは人に気遣ってばかりで、それはたとえ親子の関係であっても同じである。一言声かけて、「起きろ」と言ってくれればいいのに、その程度のことでも遠慮される。一緒に食事をしても、油断すると飯代も全額自分で払おうとするような親なので、息が抜けないのである。世間の親というものは、年を取ったら、もうちょっとわがままになるものじゃないのかね。


 ここんとこ、兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故のニュースは、JR西日本のアラをいかに見つけるかに腐心しているように見える。
 そりゃ、実際に事故を起こした責任はJR西日本にあるのだし、その体制に問題があって、今後も同様の事故を起こしかねない点があるのは確かだ。たかが一分半の遅れが原因で、過剰な懲罰を受けるというのは、諸外国から「日本独自の現象」とか非難されてたけれども、日本人全般の感覚からしても非常識だと思うぞ。あれを日本の常識だと思われては迷惑だろう。二、三分程度の遅れはザラなJR九州なんてどうなるんだ(いや、遅れていいと言いたいわけじゃないけれども)。
 だから、その責任を追及することは確かにマスコミの仕事であろうとは思うのだ。けれど、だとしたらやはり、新聞もテレビも、今のような揚げ足取り的報道の仕方はちょっとおかしい、と自分たちで気づかなきゃいけないのではなかろうか。なんか、責任追及の目的から外れてしまっているように思えてならないのである。
 例えば、JR西日本の過剰な管理体質が問題だ、とするのならば、事故後もオーバーランがやたらあった、と報道するのはその視点がズレちゃってるんじゃないか? と感じるってことなのである。結局、それらのオーバーランを起こした運転手たちが「どういう処分を受けたか」は全く報道されていない。それじゃあ、JR西日本の体質が変わったのかどうかまでは分からずじまいじゃないの。たとえオーバーして定刻に遅れるようなことがあったって、もう事故前のような運転手苛めのような懲罰は下さなくなった、と報道するのなら分かるんだけど。

 「報道に対する違和感」は更に広がっている。
 事故が起きた先月の25日、JR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長ら職員43人が、発生から約3時間後に、懇親目的のボウリング大会を開催していた、という二ユースも、聞いたときには「何でこの非常時に?」と確かに呆れはした。事故を起こした管区の人間がそんなことをしていれば、それは確かに非難の対象になるだろう。
 しかし、この区長さんがテレビに出て頭を下げながら言った言葉を聞いて、あれ? と思った。「自分の管区外だということで、自分も行かなければならないという認識に欠けておりました」というような趣旨の言葉を口にしていたのである。
 えーっと、大阪の地理には詳しくないのだが、事故現場と天王寺って、近いの? 遠いの? 管区が違っていても、近場で事故が起こっているのなら駆けつけなかったのは人としてどうかとは思うけれども、普通、管区外の人間が公的に認められた休暇取ってたからと言って、責められる筋合いのもんじゃないんじゃないのかねえ。 マスコミの報道の仕方の「いやらしさ」は、このことをこんなふうに「歪めて」伝えている。
 「天王寺車掌区は阪和、関西線などが管轄で福知山線と直接関係ないが、同じ大阪支社管内」。なるほど、こういう表現の仕方だと、たとえ管区外だろうが駆けつけるのが当然で、事故を無視するのはおかしい、という印象になる。けれどこれって簡単に「天王寺車掌区は、大阪支社管内ではあるが、阪和、関西線などが管轄で、福知山線と直接の関係はない」って言い換えられる。それぞれ自分の地域に当てはめて考えていただければ分かるんじゃないかと思うが、「同じ大阪」って、やたら広いと思うのである。福岡で考えたって、博多区で起きた事故に東区の連中が出張ってきたら、かえって現場が混乱することだってあるんじゃないか。人手が足りないなら足りないで、改めて休暇返上で召集をかけるのは、それこそ、上層部の仕事なんだから、責任が重いのはやっぱりそっちのほうだろう。マスコミ、何を「下っ端イジメ」やってるんだか。
 それに、区長は放送で事故のことは知ってたと言うけれども、その放送内容自体が当初は死者が出ていることも告げず、「踏切事故」程度のことしか言ってなかったっていうじゃないの。だったらレクリエーションに行こうって判断したとしても仕方がないと思うけどな。繰り返すけれども、責められるべきなのは、現状把握が事故後何時間経ってもできなかった上層部にあるとしか思えないのである。
 当該の電車に乗っていながら現場から出勤した阿呆とは、状況が違う(あの阿呆たちは、たとえ上司が出勤せよと命令しても、「あほかお前は!」と罵倒すべきであった。上司に逆らえないと言うのなら、人間辞めちまえ)。それをなあ、もうどこまでこのニュースで「引っ張りたい」のか知らないけれど、マスコミのアラ探しも今に始まったことではないが、今回は特にひどすぎやしないか。ボウリング大会の後、どこぞの宴会場で開かれた二次会の現場まで出かけて行って取材なんてしてやがるが、誰がそこまでしてくれと頼んだ。「みんな楽しく酒を飲んでいた」とか、そんなニュースまで知りたがるやつなんて、どれだけいるって言うんだよ。
 とか何とか言っても、今や全ての報道機関が「フライデー化」してしまったと言っていいマスコミの体質が、たとえ訴えられたり処分されたりしたところで、変わるわけもない。そこんとこが胸糞悪いのだが、やはり「報道の自由」は保障されなきゃならない。だから、行政による報道規制がされるような事態にはならないでほしいとは思う。ただ、こっちが頼んでもいないのに余計な調味料を振りかけてまずくなった料理に対して、「くそまず」という権利だって、こっちにはあるのである。
 だから、怪我した人のインタビューまで、病院にずけずけと入りこんで取ったりするな。この腐れ脳どもが。


 昼間、テレビでドラマ『金田一耕助の傑作推理 悪魔の手毬唄』の再放送。これも本放映当時は見逃していたもの。金田一耕助の古谷一行、等々力警部のハナ肇はレギュラーで、それに磯川警部役で藤岡琢也が絡む。原作ではこの東京、岡山の両警部が相協力する描写はないので、これは横溝正史ファンにとってはなかなか嬉しいサービス描写である。磯川警部役は市川崑監督映画版の若山富三郎という極め付けがあるのだが、藤岡琢也の名演も捨てがたい。
 ストーリー自体は、恐らくは長大な原作を二時間に収めなければならないためだろう、原作のトリックを台無しにしている部分もあって、評価はしがたいのだが、『八つ墓村』などと違って、原作を妙にいじったりしない限りは(高倉健版『悪魔の手毬唄』のことね)そんなに駄作にはなりようがないのである。古谷一行の金田一物の中では、比較的出来のいいものとして仕上がっているように思う。つか、まだ古谷一行が若いしね。


 木曜ドラマ『アタックNo.1』第4話。
 猪野熊監督に選抜の合宿から帰され、富士見学園に戻ったこずえの再起編。
 今回のこずえに対する仕打ちも無茶苦茶で、実際、本郷コーチが言うように、こずえが自殺でもしたら選抜自体がオジャンになりかねないわけで、猪野熊監督のやり方はただの熱血バカのそれでしかなく、「世界に通用するためには」なんて台詞にまるで説得力がない。原作ではこずえに厳しいようでも実は監督としてこずえをしっかり見ているはずなんだけど、やっぱ船越栄一郎が演じると胡散臭いやつにしか見えないな。つか、ありゃ柏葉英二郎だわ。こずえの代わりにみどりをっていうのも、どちらかをかませ犬にしようって手段にしか取れないから(まあ最終的に選ぶのはこずえなんだろうけれど)、こんな人事をやってれば、選手全員離反して、監督解任されるって。ドラマとは言え、作りが強引に過ぎる。
 緑の人物描写もなんだかなあで、酔漢に教われたチームメイトを助けたこずえを「売る」必然性がない。自分はもう選抜に選ばれたんだから、これ以上こずえを貶める必要なんてないじゃんかよ。まあ、脚本は一話目から破綻してたから、今更なんだけれども、これくらいデタラメやるってのは、やはり往年の題詠ドラマを意識してるのかねえ。いやまあ、加藤夏季が出ている限りはとりあえずドラマは追いかけますって。ドラマの中で一番素直でいいい子の役だし。 


 マンガ、星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』4巻(集英社)。
 いかにもどこかで見たようなマンガであっても、3巻、4巻と続けばもうオリジナルである。人気も出てきたようで、今巻からいかにも「場つなぎ」な印象の強い、「孤城の吸血鬼」編が開始。
 前巻で左眼をつぶされたアレン・ウォーカー、冒頭でいきなりその目が再生し始めているというやや気色の悪い描写が。一時期、マンガでもアニメでも、身障者を描写しちゃいけないとする過剰な自主規制がはびこってたものだが、この『ディー・グレイマン』はそんなのどこ吹く風で、言い方は悪くなるが、悪趣味なゲテモノ描写をどんどんかましてくれている。ノアの一族のフランケンシュタイン継ぎ目なんかは最たるものだ。
 こういう描写がジャンプ誌上で許されるようになったのは、やはり『幽遊白書』あたりからの冨樫義博の「暴走」がかなり寄与していると思う。冨樫さんは「自分があるエポックを作り出してしまったこと」について、どの程度自覚しているのか分からないが、ごく自然に異能力者が“いびつな姿”で存在している世界を描くことは、フリークスが当たり前に存在するのが自然な世界である、と主張しているのと同じなのである。こういうマンガには、その絵柄のグロテスクさとは相反して、世界設定の根底に差別とか平等とかいった概念についての深い思索が巡らされているので、読んでいて気持ちがよいのである。
 今巻初登場のアレイスター・クロウリー男爵も、一応「吸血鬼」らしいのだが、前巻のミランダさん同様、やがてはエクソシストの一員として活躍していきそうで、しばらくはこういう「仲間探し」という形での展開が続きそうな感じである。
 ということはエクソシストたちと、千年伯爵&ノアの一族との戦いが、一時、ワキに追いやられてしまうわけで、てっきり今回も新しいノアの一族が登場すると思っていたのに、ちょっと肩透かしを食らった感じである。
 でも、ということはこの作品、かなり受けているということで、5巻以上は確実に続くだろうと思われる。となると、あまり大風呂敷を広げすぎると、そもそも世界観自体、『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』よりもずっと大きいので、両作以上に収拾がつかなくなる心配もある。アクマはあくまでアクマであって悪魔ではないのだから、今後は神だの仏だの、ハルマゲドンだの出してこないことを祈るばかりだ。

2004年05月05日(水) 躁なんだか何なんだか。
2003年05月05日(月) 東京の空の下ぁ娠撚茵悒椒ぅ后戮曚
2002年05月05日(日) トンデモさんの系譜/『こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』』(山本弘)ほか
2001年05月05日(土) 東京ドドンパ娘/葛飾柴又寅さん記念館


2005年05月04日(水) 12万ヒット!/『コミックマスターJ(ジェイ)』12巻(田畑由秋・余湖裕輝)

(昨日の続き)
 磨子はとんでもない跳躍力で、塀を乗り越え、疾風のように走る。目指すは垂水家の人々を殺した村の若者たちだ。殺戮! 炎上し、川に突っ込む若者たちのバイク。けたたましく笑う磨子! 美少女をこんな風にしちゃうなんて、伊藤俊也、あんたはサドか!
 そして、最後には竜次も狙う磨子。「村から出て行け!」と叫ぶ磨子に、「かわいい磨子を元に戻すまでは出て行くものか!」と応酬する竜次。いきなり「かわいい磨子」なんて、このときの竜次は完璧にロリコンだ。グラマー(泉じゅん)にスレンダー(山内恵美子)にロリータ(長谷川真砂美)って、好みの幅が広すぎるぞ大和田伸也。
 「出ていかないなら殺してやる!」と叫ぶ磨子。確かに最初に祠を壊した責任はあるけれど、そのあとは垂水家の人たちを守ろうとしたんだし、犬神が竜次を殺す理由はないように思うんだが。
 と思っていたら、麗子の顔が磨子の背後からにゅっと現れ(二人羽織だったのか!)、「やっぱりあなたは私を裏切って、かおりと!」と呪いの言葉を吐く。もう登場しないと思っていた泉じゅんのびっくりの再登場。
 そうかそうか、最終的な呪いの正体はやっぱり麗子だったのか、と思っていたら、竜次に飛びついて背後から首を絞める磨子の足には、びっしりとスネ毛が! おおおおお、『おとこ足の少女』! 好美のぼるへのオマージュか!(どっちが先なのか、よく知らないのだが)。ということはやはり犬神も磨子にとり憑いているのか? しげは「室田日出男の足!」と言うが、もしそうならこいつは泉じゅん+長谷川真砂美+室田日出男のキメラである。別の意味で怖いぞ。
 ああ、結局諸悪の根源は誰なんだよう! と悩んでいたら、竜次が「一番悪いのは俺だ!」……はあ、さいざんすか。
死闘の末、竜次は「かわいい磨子に戻ってくれ!」(この間竜次はずっと「かわいい磨子」を連発するのである。このロリコンめ)と磨子の首を締める。ぐったりとなった磨子の顔はもとの磨子の顔にもどっていたが、ハッとして磨子の心臓の鼓動を確かめた竜次は血相を変える。磨子が死んでしまった! 失意のあまり井戸の中へ飛びこむ竜次。その時、飛沫がほとばしって、磨子の顔へかかる。磨子は息を吹き返した!(さっき、心臓を確かめたのはどうなったんだ?)
 葬式の行列が進む中、一族の中、ただ一人生き残った磨子は、葬列を離れ、竜次が荼毘に付されている棺桶のそばに駆け寄る。ところが竜次は生きていた! 棺桶を破り飛び出す竜次。しかし、火の勢いは強く、竜次はやっぱり焼け死んでしまうのだった。
 ……どういう終わり方だ、これ。

 伊藤俊也監督、他の作品を見ていくと『誘拐報道』『白蛇抄』『風の又三郎 ガラスのマント』『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』など、まあ傑作とは言わないまでも決して駄作ばかり撮ってたわけではない監督だと思うのだが、この『犬神の悪霊(たたり)』のときはどうしちゃったものか。いったい何がやりたいのかがまるでわからない。因習に対して批判したいのなら、犬神憑き自体を否定しなきゃならんと思うのだが、やっぱり最後はオカルトで終わるしなあ。ともかく次にどんな展開が来るのかが全く読めない。読めるかこんなの。世にカルト映画は数あれど、やはり「伝説」となるためにはちょっとばかりおかしいところがある、程度ではダメで、これくらいぶっ飛んでなきゃ面白くない。橋本忍監督の『幻の湖』もかなりキテる映画ではあったが、あれはまあ、放送できる分だけ「無難」ではある。『犬神の悪霊(たたり)』は、こうした上映会の機会がなきゃ、まず目にすることは不可能だ。
 “こういう映画”がお好きな方、映画情報誌とかで、上映の告知を知った際には、未見であればぜひ目にされることをお勧めする。だからまあ、ネタバレを覚悟でかなり詳しく筋を書いた。いや、ちょっと筋を書いたくらいでは、この映画のものすごさはとても表現しきれないのだ。……でも、ごく普通の映画ファンには絶対勧めませんよ。『タイタニック』とか好きな人には縁のない映画です。


 父のマンションに帰って、DVD『釣りバカ日誌2』を見る。父はもう眠っていた。
 シリーズ化されたが、前作のラストでハマちゃんを土佐に帰してしまったのをどうするかと思ったら、どうもせずにハマちゃん、堂々と東京本社に返り咲いていた。スーさんのメイクも一策目と変えて若々しくなっている。
 こんな風に「一作目をなかったこと」にして始まる第二作というのも珍しい。まるで小説版『機動戦士ガンダム』のようだ。初マドンナとして原田美枝子がスーさんと妖しい雰囲気になるが、これは一作目の石田えりとの関係の焼き直し。ホテルに泊まったり(何も関係は深まらないのだが)、一作目よりも描写が露骨になった分、爽やかさは減っている。急遽決まった二作目で、いささか脚本も演出も迷走したような印象だ。
 原田美枝子を「妹」と騙したスーさんを、ハマちゃんが土産物に釣られて許すラストも今一つ潔くない。残念ながら、一作目よりもかなり出来が落ちる。でも、最初は継続当番を拒絶した三国連太郎が、開き直って「ズッコケ」を見せてくれるのは貴重かな。

 就寝は何時くらいになったのかな。多分二時か三時ごろか。「夜中に帰っても勝手に寝ていいぞ」とは言われていたが、父親への遠慮というものが全くない息子夫婦である。



(本日の日記)
 更新が滞っているにも関わらず、日記のアクセスが毎日百人以上。ひたすらありがたいことであります。
 ついにカウンターも12万ヒット。何だか自分でも信じられない数字ですが、常連さんも恐らくは二、三十人、たとえ一ヶ月更新がなくても、ともかく覗いてくださる奇特な方がいらっしゃらないと、ここまでの数字にはなりません。もう、一人一人の手を取って万歳しながら、「ブラボー!」と叫びたいくらいです。
 ROMに徹しておられる方にまで無理にとは申しませんが、日記の感想とかメールで頂けたらありがたいです。頂いたメールには必ずご返事を返しておりますが、私が使ってるOutlook、セキュリティが厳しいらしくて、メールによっては私のところまで届いていないものもあるようです(だいたいしげのメールが私のとこに届かない)。メールを送ったのに返事がない、ということがありましたら、掲示板のほうでお問い合わせください。

 カウンターは調子よく回っていますが、投票ボタンの方は押してくださる方があまりいらっしゃいません。「エンピツ」日記には投票ランキングのコーナーがあって、一位とか二位の人は一日で千票とか入っていますが、私は一、二票くらいのものです。いや、そもそもだいたい私自身が殆ど押してない(笑)。
 一応、投票機能があるのなら設置するだけしてみよか、と、何の気なしにボタンを付けただけなので、いちいち今日何票入ったかな? と確認するのも面倒くさがっていたんですね。「エンピツ」の登録ジャンルを私は「アニメ・漫画」にしてますが、実際にはアニメや漫画の話題がなかなか書けないでいますし、歯に衣着せず辛辣に貶しているマンガも多いので、私がファンなら当然票は入れません。得票が少なくても当然だろうと、私は気にしてはいませんでした。
 ですが。
 しげが、突然、「何、あんた一票しか入っとらんやん」と言い出しました。
 「ああ、そんなもんだろうね? それがどうした?」
 「あんたが入れたと?」
 「自分じゃ入れないよ。お前だって入れてないやろ?」
 「だって、こんなのがあるって気づいたの、今日が初めてやもん」
 「……気づいてなかったんか?!」
 「順位が下のほうやったら探しにくいやん!」
 「探さないでいいよ!」
 「いいから一票入れり!」
 無理やり一票を入れさせられたんですが、なぜ急にしげが得票を気にし始めたのか、理由がよく分かりません。好意的に考えたら、私があまりに下の順位なので、妻として悲しく思った、ということかもしれませんが、そういう形で妻の自覚を持たれてもねえ。
 というか、夫を気遣う自分を演じたい気分になっているというのが正解でしょうね。このまま得票が低いままなら、そのうち飽きるでしょう。
 それでもやいのやいのとうるさいし、確かに自分で自分に票を入れないのも卑下のし過ぎかとも思うので、一応、一日一票は自分で入れることにします。

 けれど、仮にそれで票が上がったとしたら、やっぱり私は嬉しいのでしょうか? 低いままだと落ち込むのでしようか? いや、自分のことでありながら、そこんとこが今一つピンと来ないんですけどね。それは、やっぱり「投票」の中身が見えていないからでしょう。
 得票数の高い日記を読むと、「なるほどこれは面白い」と感心するものもあれば、「これに人気があるのはなぜ?」と首を傾げたくなるものもまま見受けられます。邪推かもしれないけれど、日記の中には身内ボメで仲間が無条件で押してるものもあるんじゃないでしょうか? 私自身、お気に入りに入れている日記に票を入れることはよくありますが、「今日は今一つかな」と感じたら入れないようにしています。無条件に票を入れないのがその人たちへの礼儀だと思うからです。
 この日記を読んでくださっている数少ない常連のみなさまも、気が向いたらボタンを押していただけるとありがたいのですが、「つまんない」と思われた日は、無視して頂きたいと思います。そうでないと、私自身が客観的な判断ができないからです。


 昼、WOWOWで、『生中継 シティボーイズ・ミックス メンタル三兄弟の恋』。
 いつもは公演を見て、その後でテレビ放送を見るのが常であったが、今回はそれが逆になった。何しろ生だからどんな失言があるか分からない。再放送があってもPが入るかもしれないから、これは絶対録画しとかないといけないのである。
 具体的な感想は、舞台見た後にしときます。


 どんたくを見に行った父を拾ってマンションへ。
 「どんたくはどうやった?」と聞いたら、「つまらん」と即答。博多駅前の舞台で歌手がなんかイベントやってたらしいのだが、どこの誰とも知れん歌手で、全然面白くなかったそうだ。「誰が来てたの?」と聞いたら「覚えとらん」とのこと。配布されてるパンフレットにも名前が書かれてないから、急遽ヒマな歌手を呼び寄せたものか。
 出店は好きだが、混雑が嫌いなしげは行く気はなし。混雑だけなら私は平気なのだが、お祭りのためのお祭りになっちゃってるから、やっぱり行く気がしない。
 結局今日は、夕方から父が買ってきた肉で、焼肉パーティーをする。父がもう、牛だの豚だのハマグリだの、食いきれないくらいにてんこ盛りで買ってきたが、私もしげも見事に平らげた。腹はもうパンパンである。
 「そんなに食べてないのになあ。豚なんて一枚しか食ってない」と私が言ったら、「何を言いようか。豚を三枚食ったの、ちゃんと見とうぞ」と父に言われた。野菜食ってる間にしげにどんどん肉を食われていたので、自分では食った意識がホントになかったのである。


 三夜連続で、今日はDVD『釣りバカ日誌3』。
 今度のマドンナは五月みどり。昭和20年、スーさんが出会った女性の娘で(つまりこの映画の制作時点で50歳、必然的にスーさんは70過ぎってことで、実際の役者の年齢に合わせているのである)、もしかしたら本当にスーさんの娘か? というのが今回の「すれ違い」のキモ。スーさんの方は五月みどりに恋心を抱くのだが、五月みどりはもしかしたらこの人が父親かも? とあくまで娘としての慕情しか抱かない。このあたりは『男はつらいよ』第一作で、寅さんをあくまで幼馴染のお兄ちゃん、としか見なかった光本幸子と同じシチュエーションである。
 さらには、星が浦の開発に反対して、クビになりかけたハマちゃんが左遷されそうになるのに、「釣りが出来る!」と喜ぶギャグは一作目の焼き直し。早くもマンネリになりつつあるのがちょっと心配な第三作だった。


マンガ、田畑由秋脚本、余湖裕輝作画『コミックマスターJ(ジェイ)』12巻(少年画法社)。
 なんですかねー、登場人物のマンガ家に、映画『最後のサムライ』(『ラストサムライ』ですな)を「鎧を着ているのは間違ってるんじゃなくて演出だっのっ。映画は歴史の教科書じゃねーんだよっ。この映画が何を描こうとしているのかという読解力もないのかっ!?」って叫ばせてるけど、「時代考証」ってのは「形」だけじゃなくて、その時代の「精神」だって考証するものだ。『ラスト・サムライ』にどの時代の日本人の精神が表現されていたかな? 映画が歴史の教科書じゃないのはその通りだけれど、「明治に鎧」を演出と言うには無理がある。西部劇でインディアンがジープに乗って攻撃してきたら、この監督は馬鹿だとしか思わないでしょ。「この映画が描こうとしているもの」は、監督の脳内にしかない「日本人像」である。「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは『葉隠』などにあるかなり特殊な「武士道」の捉え方なんで、普遍的なものじゃない。どうして日本人がありがたがらなきゃならないかね? それに、このマンガ家が「日本を武士の国」と捉えているのもそれこそ歴史認識の大間違い。日本人の大多数は、昔からそのメンタリティにおいては農民と職人と商人の国だよ。前にも書いたと思うが、『七人の侍』を引くまでもなく、時代劇は「勝ったのは侍ではなく百姓」であるのが一番相応しいのだ。日本の時代小説は、侍ものよりも捕物帳を初めとして、市井物のほうが圧倒的に多いことを知らないんだな、この作者は。日本人の癖に。
さらにこのマンガ家は、USA『ゴジラ』を見て、「このGODJIRAよりすごい映像が、いままで日本のゴヂラ映画にあったか? はっきりいおう、ない。断じてない」とか嘆いている。これも『ゴジラ』の精神を何一つ表していないUSA版のほうがよく見えるらしい。核の脅威を描いてるんではなくて、それすら制御できると安易に語るバカ映画のどこが傑作だ? 読解力がないのは誰だろうねえ。
 こういう精神主義の塊のようなバカが大挙しているもんだから、外国映画のほうが日本映画よりよく見えるのである。外国映画に対する故なき劣等感から、自国の映画が貧弱に見えているだけだ。まさしく「自虐史観」である。こんな卑屈な根性で、どれだけの作品が描けるものかね? 真っ向から侍魂を見せてやる! と嘯くんなら、井筒和幸監督を「井痛痛数奇」なんてモジッて誤魔化さないで、堂々と批判しなさいよ。批評の対象なら、実名でも構わんはずだぞ?
 今巻から、ついに最終回に向けて、コミックマスターJがゴーストライターになったいきさつを語る「神との戦い編」が始まったのだが、こんなに底の浅い作者だったのかとガックリ来ちゃったので、これまで面白く読んでたのが一気に冷めた。日本のマンガは今や「聖書」を越えた高みにまで上っている、と誇っているような暗示もあるが、作者がただの妄想家なら、説得力がなくなっちゃうのである。あーあ。

2004年05月04日(火) 巨匠たちの幻の映画……12時間連続映画三昧。
2003年05月04日(日) 東京の空の下
2002年05月04日(土) 日記書きの一日/アニメ『アタックNO.1』/『低俗霊DAYDREAM』3巻(奥瀬サキ・目黒三吉)ほか
2001年05月04日(金) ウナセラディ東京/江戸東京たてもの園/『ヒカルの碁』12巻(小畑健)


2005年05月03日(火) 彼女がウェディング・ドレスに着替えたら/映画『犬神の悪霊(たたり)』

 女優の原田知世と、イラストレーターのエドツワキとが結婚。
 記事の一つには、「“時をかける少女”が公開から22年の時を経て、ついにお嫁さんになった」とあって、つまりデビュー後どんなにたくさんの映画に出ても、やっぱり『時をかける少女』のイメージでしか見られていないのだなあと、ちょっと悲しくなった。“時をかける奥さま”なんて惹句まであったが、何なんだいったい。下手なパロディマンガのタイトルにでもありそうな。
 映画『時をかける少女』には、公開当時、思いきりハマッちゃって「原田知世はいい!」と力コブ作って叫んだ人たちがたくさんいるのだが、私もその一人である。しかし、同時に大林宣彦のクサい演出に失笑した人だっていて、単純にあの映画を「傑作」と断言するのははばかられる。
 しかし、何にせよ「印象の強さ」では、他の原田知世出演映画は遠く及ばない。「芳山和子=原田知世」というイメージがラベンダーの香りとともに(笑)刷り込まれてしまっている人も私の世代には多かろうと思う。イマドキの「萌え」少年たちを笑えないのである(もっとも我々は本気で原田知世に「燃え」ていたのであって、「萌え」なんて軟弱な表現は絶対にしたくないのだ)。
 しかし、入れこんだファンがやたらいるってことは、原田知世に『時かけ』の「色」をべったりと付けてしまったことになる。それは、原田知世が役者として大成するに際して、半端ではない障碍として働いたのではないか。角川三人娘のほかの二人、薬師丸ひろ子、渡辺典子に比べると、原田知世の出演作は、映画、ドラマともにやや少ない。
 ところがそれが、今年から来年にかけて彼女は、『村の写真集』(三原光尋監督・4月公開)、『姑獲鳥の夏』(実相寺昭雄監督・7月公開)『サヨナラCOLOR』(竹中直人監督・8月公開)『大停電の夜に』(源孝志監督・2005年冬公開予定)と、立て続けに四本の映画に出演する。「いったいどうしちゃったんだ原田知世」感が強かったのだが、つまりは恋が彼女の身も心も充実させていたってことか。
 まあ、私もオトナですから(笑)。「エドツワキ許さん!」とかトサカに来ることはないけれど、なんかアレですね、女優さんにハマッて、レコード、写真集まで買いまくったっていう経験は、私にとっては薬師丸ひろ子と原田知世が最後なんで、なんかついに青春は終わったなあ、という感じですね(実はその後もあるのだが、まあ、この二人ほどの入れ込みではない)。
 歌手としての原田知世についてもヒトコト。
 誰もが原田知世の代表曲を『時をかける少女』だと言うだろうが、私ゃやっぱりデビュー曲である『悲しいくらいほんとの話』(テレビ版『セーラー服と機関銃』主題歌)を推したい。デビュー作にこそ、その新人のオリジナルな輝きが横溢していると思うからである。
 ついでに言えば、原田知世のデビュー映画も『時をかける少女』じゃなくて、『幻魔大戦』だからな。


 夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』、第二弾は1977年製作、伊藤俊也監督の『犬神の悪霊(たたり)』。
 公開当時は市川崑監督の『犬神家の一族』がヒットした直後で、タイトルはそれに便乗しているが、中身はオカルト・ブームの延長線上にある。怨霊ものなら日本にも「犬神」があるぞ、という意気込みなんだろうが、当時の私にはいかにもな際物に興味がわかず、映画館まで足を運ぶことはしなかった。全く、こうも幻のカルト映画になると知っていれば、あの当時に見に行っとゃよかった。ただ、当時中学生だった私がこの映画の驚くべき展開を楽しめるだけの「度量」があったかどうかは疑問だが。
 現在、テレビ放送は自主規制され、ソフト化されないままであるのは、作中の精神異常者の描き方に原因があるのだろうと察しは付く。
 確かにムチャクチャな描き方ではあるのだが、これはあまりにムチャクチャ過ぎて、殆ど意味不明の域にまで達しているので、これは逆に精神異常者への偏見など生じ得ないのではなかろうか(笑)。「こんな既知外はいねえ」って誰だって思うよ。いやもう、ある意味これ、『恐怖奇形人間』よりもトンデモな映画なんスから。

 冒頭、クレジットシーンは延々と洞窟の中を映し出し、そこに菊池俊輔のテーマソングがかかる。いかにも70年代のチープなホラー映画の雰囲気、というか、太鼓と女性の悲鳴めいた合いの手の組み合わせで、土俗的なムードを強調している。このシーンを見れば、たいていの観客は、当然のごとく、「ああ、これはやはり土俗的なオカルト映画なのかなあ」と思うだろう。私もそう思った。
 音楽とクレジットが終わっても、洞窟のカットがもうちょっとだけ続く。その出口の映像が唐突に切れ、主人公たちがジープに乗って登場。出口の映像はジープが出てくるトンネルの映像にかぶるのだが、この編集の仕方がいやに雑だ。このあともカット尻が余ったり足りなかったり、編集の下手糞さがこの映画はやたら目立つ。かなり急いで作られた映画なのだろうか。
 それはともかく、ジープに乗っていた主人公の加納竜次(大和田伸也)は、東亜開発のウラン技師という設定で、仲間の安井(畑中猛重)と西岡(小野進也)と共に、ウラン鉱発掘のためにこの久賀村へやって来ていたのである。ここで、村の子供たちが「ジープだ! ジープだ!」と言って駆け寄ってくるのが進駐軍に群がるガキんちょどものようで、いったいいつの時代設定やねん、と思ってしまうが、もちろんこれは昭和52年当時という設定なのである。子供たちはめいめいに鬼の面とか付けてるが(これも一応伏線のつもりか)、いくら因習の残る村とは言え、既に違和感はありまくりである。
 ウラン鉱はあっという間に発見され、喜び勇んだ帰り道、西岡が車の運転に失敗して、小さな祠を壊してしまう。それを怒ったのか、ジープの前に吼えまくる犬が飛び出してきて、これが当然のごとくに撥ねられて死ぬ。犬の飼い主の少年・勇(加藤淳也。後にアニメ『龍の子太郎』で太郎の声を当てる子役)が飛び出してきて、竜次たちをギロリとにらむ。この視線が怖くて、観客の誰でもがここから「呪い」は始まるのだなあと予測する。
 ところがここでシーンはいきなり転換、山中の滝つぼで、三人は水浴びをする二人の全裸の女性を覗き見る。これが本編のヒロインたちで、垂水かおり(山内恵美子。加山雄三主演のテレビドラマ『高校教師』で坂本紀子を演じていた超美人女優さんである。そうと知っていれば、当時絶対見に行っていたのに!)と剣持麗子(泉じゅん。若い人にはこれも説明が必要だろうが、山口百恵似の、美人系とかわいい系の中間の顔立ちで、しかも巨乳でポルノに限らず普通映画でも堂々と脱いでくれていたので、70年代の男の子にとってはかなりアイドル的な人気を博していた)。
 唐突なサービスシーンであるが、ドラマ上の必然性はない(笑)。木の上から覗いていた竜次が滝つぼに落っこちるという、この映画唯一の“意図した”ギャグシーンがあって、これがストップモーションになる。次のカットはいきなり半年後、竜次と麗子の結婚式のシーンになる。大和田伸也、手が速っ!。格さん役のときは堅物だったくせに。
 けれど、竜次の顔にいきなり石をぶつけた少年が。これが勇で、実はかおりの弟だった。垂水の家は「犬神統(いぬがみすじ)」として村人たちから忌み嫌われており、かおりと麗子は親友ではあったけれども、かおりは結婚式には呼ばれていなかったのである。竜次と麗子を乗せた車にかおりは追いすがるが、車は無視して去っていく。親友同士の悲しい別れだが、二人の悲劇はこれが始まりに過ぎなかった。このあたりはまあ何とかホロリとできなくもない展開である。
 異変が起きたのは、東京での結婚披露宴で、スピーチに立った西岡が、突然狂って暴れだしたのである。そのあと、ビルの屋上から飛び降りて自殺。更には安井が、都会の真ん中で野犬の群れに襲われ、食い殺される。こんな突拍子もない展開があれば、観客がみな、この映画の中では「犬神の呪い」は実在するのだな、と判断するのは自然の流れだろう。
 「呪い」は、竜次の身にも降りかかってくる。悪夢にうなされる竜次。竜次たちが祠を壊したことを知らされた麗子は、肌身離さず付けていたお守りを竜次に手渡す。かおりから結婚の報告の手紙を受け取った麗子は、「やっぱりかおりは竜次さんのことが好きだったんだわ! あなたに竜次さんは絶対に渡さない! 犬神が憑くなら、私に憑けばいいんだわ!」と叫んで、千枚通しでかおりの手紙を突き刺す奇矯な行動に出る。
 祠を壊したり犬が殺された呪いというより、三角関係が原因かい! と突っ込みたくなるが、このあたりから少しずつ物語の破綻は始まっているのである。これからしばらくは泉じゅんファンのための大サービスシーンの連続。シャワーを浴びている竜次に「怖い!」と叫んで服のまま飛びつく麗子。濡れた服を脱がしながらエッチ。しかし犬神は確実に麗子の心を蝕んでいく。様子のおかしい麗子を竜次はいろんな医者に見せるが、一向によくならない。麗子の実家へ連れて帰って、憑きもの落しの祈祷師(三重街恒二)に頼むと、霊媒(白石加代子)はハッキリと「我は垂水から来た」と語る。「“あかめし”くれたら去んでやる」の言葉を信じて、村人たちは赤飯にぎりを持って、麗子の体をなでる。麗子、あえぎ声を上げて身もだえする。当然、着物がどんどんはだけておっぱいポロリ。なんて露骨なサービス! オッパイ攻撃の前では、撫でてるだけで赤飯食ってないじゃん、という突っ込みは不必要かな(笑)。
 けれど治療もむなしく、憑きものは落ちなかった。竜次にねっとりとしたキスをしながら、「これくらいで出て行ってやるものか。私も竜次さんのことが好きだったのだ。とうとう竜次さんを奪ってやった!」と言ってニタリと笑う麗子。かおりが乗り移っているってことか? 村人たちは「犬神、出て行け!」とばかりに麗子の体を棍棒でぶちまくる。忘れ雪の降る中に飛び出した麗子は、竜次の腕の中で「東京へ帰りたい」と言葉を残して息を引き取る。 ……えーっと、麗子を殺したの、つまり村人たちなんじゃないの。もちろん、村人たちはそうは考えず、「垂水の家のせいじゃ」と思いこむのであった。
 犬神の悪霊とは何なのか? 妻を失って自棄になった竜次は、久賀村の山中で修復されていた祠をまた叩き壊す。そこへ「止めろ!」と叫んで飛び出してくる勇。竜次は勇を容赦なく突き飛ばすが、そこへ麗子の妹、磨子(長谷川真砂美。大林宣彦監督版『ねらわれた学園』の高見沢みちる。超美少女で、もっといい映画に出演してたら、きっとブレイクしてたろう)が飛び出してくる。「勇ちゃんは私の友達なの! 悪いことは何もしないわ!」。勇は自分の家に逃げ込む。追いかけてきた竜次は、かおりが結婚先から出戻って来ていたことを知った。父の隆作(室田日出男)は、「あんたも犬神なんちゅうものを信じなさるんか。わしらも被害者じゃ」と憤りを露わにする。
 あれれ? と思ったのはこのあたりからで、垂水家は別に何の呪いもかけていない、という描写がこのあとしばらく続くのである。それどころか、竜次たちが発見したウラン鉱の開発に対して、「核開発に繋がる」と山を売ることに反対していたのも垂水家の人々だったのだ。それじゃあ垂水家の人たちのほうが「正義の味方」じゃん! と驚きの展開である。 ……でも、それなら、麗子たちが死んだのは、本人たちのただの思い込みなのか? いや、西岡と麗子についてはそう言えなくもないけれど、安井の「犬に食い殺される」というのは自己暗示じゃ説明できないぞ? それともあれはただの偶然ってことなのか? と アタマがこんがらがってくる。
 垂水家の開発反対を後押しするように、ウラン鉱の作業所でも奇怪な事件が起きる。作業のドリルが突然、何者かに操られたように勝手に動き出し、次々に作業員を殺し始めたのだ。……えーっと、これはどう解釈すればいいんですかね。もちろん「ただの事故」とは絶対に思えない。でも、「犬神」というのは「ドリル」にもとり憑けるものなんですか?  いや、疑問を抱いても仕方がない、これは「乗り移っている」んじゃなくて、見えない力でドリルを「操っている」と考えるしかない。だとしたら、ウラン鉱に反対しているのは垂水の家の者だけなので、やはり「呪い」をかけているのは彼ら?
 垂水家への迫害は更に強くなる。家に石は投げられ、村の祭りの日、かおりは、酒をのんだ村の不良たちに犯されそうになる。父親の隆作が山を守るために動けないのは分かるが、妻の君代(岸田今日子。台詞も出番も少なく、もったいない使い方。白石加代子といい、横溝ミステリー出演者が何人も起用されているのも、いかにも便乗映画っぽい)や、かおり、勇をどうして避難させないのか、これが全然分からない。
 滝つぼに飛び込んで、かろうじて不良たちから身を守ったかおりを助けたのは竜次だった。村人たちは竜次が犬神の女にとり憑かれた! と、垂水家の周囲に糞便をぶちまける(魔除けになるそうである)。寄り添ううちに、竜次とかおりはお互いに恋情を抱くようになる。しかし、かおりが「ずっとあなたが好きだった」と告白するのを聞いて、竜次は「麗子は僕たちがこうなることを知っていたんだ!」と叫ぶ。
 ここでまた混乱である。ということは、呪いの主体はかおりじゃなくて麗子だったってことなのか? 「犬神統」は無関係? いや、それじゃやっぱり犬に襲われたり、ドリルが踊ったりの説明がつかない。
 何だかわけが分からないうちに、村人が井戸水を飲んで死亡する事件が発生する。これは、ドリルの暴走に手を焼いた開発会社が、岩盤を硫酸で溶かしたため、それが井戸水に混入したのが原因であったが(「絶対大丈夫だ」とか言ってたくせに、「実は地下で水脈が繋がっていたのだ」と跡付けの説明。いい加減な工事に対する批判だろうが、取ってつけたようである)、村人たちはそうは思わなかった。
磨子が、竜次のところに飛び込んでくる。「村の人たちがバイクに乗って垂水の家に向かってるの見たの。勇ちゃんを助けて!」。慌てて垂水家に向かう竜次。しかし、時すでに遅く、君代、かおり、勇の三人は殺されていた。出かけていた隆作だけが助かったが、家族を失った彼はとことん村人たちを憎むようになる。「やつらがわしらを犬神統と呼ぶなら、本当にそうなってやる!」
 もう、映画館の椅子からコケ落ちそうになったのはこの時だ。「犬神の呪い」は、このとき初めて発動したのである! ……ってことは何か? 西岡の狂い死にも、安井が野良犬に襲われたのも、麗子がかおりにとり憑かれたように見えたのも、ドリルが勝手に動き出したのも、全部「ただの偶然か!?」 いや、麗子のケースは犬神とは関係ない本人の怨念と解釈することもできるが、ドリルまではなあ。
 雷雨の夜、生き残った犬を連れて山中に入った隆作は、犬を土の中に埋めて放置する。この様子を木の陰から磨子がこっそり見ているのだが、これまで「勇ちゃんを助けて!」と優しい心を見せていた彼女が、このときはただじっと見ているだけで、隆作の行動を止めようともしないのが不自然極まりない。ついに「犬神の呪いよ。村人にたたれ!」と叫んで犬の首を日本刀で斬りおとす隆作(銃刀法違反である)。その途端、雷鳴が鳴り響き、斬られた犬の首は宙を舞って隆作の首筋に噛み付く。倒れ伏し、息絶える隆作を見ていた磨子は失神する。その途端、犬神は磨子にとり憑いた。
 呪いの発動は、ウラン鉱業所に落盤を起こし、爆発させる。凄いぞ犬神の呪い。さあ、このチャチな特撮は誰がやったんだ、東映。
 竜次は垂水家惨殺を実行した村の若者の一人を日本刀で脅して捕らえ、剣持の家にやって来る。駐在(三谷昇! 映画見ながらずっと「警察は何してるんだ」と思っていたが、ここでやっと登場した駐在が三谷さんなら、無能なのも納得できるのである。これはナイスキャスティング)に本庁に連絡させようとしたが、義父の剛造(鈴木瑞穂)は、電話線をぶち切ってしまう。「お前を助けるために、村人たちが垂水家に行くのを止めなかったんだ!」と叫ぶ剛造(垂水家と関係を持つ限り、竜次も危険にさらされる、ということだろうが、だったらもっと早くに垂水家を村から追い出すか暗殺しとくか、何で処置をとらなかったのかが疑問である)。
 村人が押しかけてきて、竜次は土蔵に逃げる(剛三が土蔵をチラッと見る伏線はあったが、ドラマにどう関係するのかこれまで全然分からなかった)。義母の佐和(小山明子)は「土蔵に行っちゃダメ!」と止めるが、無理やり入り込んだ土蔵の中には、狂人と化した剣持家の長男の真一(伊藤高)が閉じ込められていた。そんなやつがいたとは驚きの展開! もう何でもありだぞ。
 剛造と佐和はこの狂った真一に殺される。このときの「殺され方」がまた爆笑もので、まず佐和が二階にいる真一に「吊るされる」のだが、それを見ている竜次、茫然として、「目の前に二階への階段があるのに」身動きもしないのだ! 結構長いこと吊るされてたから、絶対佐和は助けられたぞ。小山明子も殆どチョイ役出演で、こんな使い方してたら大島渚が怒るぞ。
 争いの中で真一の胸に刀が突き刺さり、二階から落ちる。「ちょうど偶然」剛造が真下にいて、刀は剛造も貫く。劇場には十人くらいしかお客さんいなかったけど、笑いましたよ、みんな。
 剛造は虫の息で竜次に告白する。真一が狂ったのは犬神憑きのせいで、そのためにずっと垂水家を憎んでいたのだと。でも、犬神の呪いはさっき発動したばかりなのだから、これは剛造の勝手な思い込みなのである。言っちゃなんだが、真一、麗子、磨子と、三兄妹みんな狂ってるんだから、剣持家の血筋のほうが問題だとしか見えないわな。こりゃ、確かにテレビ放送はできまっしぇん。
 剛造は「磨子を頼む」と竜次に言い残して死ぬ。
 しかし、気絶していた磨子に、箪笥にしまわれていた麗子の長襦袢が覆いかぶさり、磨子の顔は般若のように変貌し、目は次第に異様な光を発するようになる。もちろんメイクしてカラーコンタクトを入れているのである。この当時としても「怪談映画かこれは」と突っ込みたくなるチープなメイクが何ともはや。つかなあ、麗子の長襦袢が磨子を操っているのなら、諸悪の根源は麗子じゃん。犬神の呪いじゃないぞ!

 長くなったので、明日の日記に続く。

2004年05月03日(月) また来るよ東京
2003年05月03日(土) 東京の空の下◆辛饌罅悒轡謄ボーイズ・ミックスpresents/NOTA 恙無き限界ワルツ』
2002年05月03日(金) ジンクス再び/『ジャングルはいつもハレのちグゥ』9巻(金田一蓮十郎)ほか
2001年05月03日(木) 東京行進曲/舞台『ラ・ハッスルきのこショー』ほか


2005年05月02日(月) すれ違う言葉/『不死身探偵オルロック 完全版』(G=ヒコロウ)

 今朝も震度1の地震。慌てて飛び起きる。早起きできるのはいいけどねえ。


 職場で、オタクなAさんと話していて、こないだのG2プロデュース公演の『Candies』に、Aさんも来られていたことを知った。オタクな趣味といい、映画や芝居が好きなところといい、ホモオタさんに関わった過去があるということも含めて(そんなことでは共通体験を持ちたくはなかったが)、妙に気が合っている。それはそれとして、話が弾むと仕事が進まなくなることもあって困りはするのだが、縁というものは確かに奇なものであるなあとしみじみ思う。なんだかいろんなところで偶然繋がる人はいるものである。
 もっとも、手当たり次第に舞台や映画を見ていれば、こういう偶然は結構起きる。そして、「偶然」とはいっても、「地震」や「戦争」などといった、本人の意図に関わらず、その時代、その地域にいた人たちがみな巻き込まれてしまう「偶然」と、「同じ舞台を見ていた」という「偶然」とは、同じ偶然でも意味合いが違うものである。地震はそこにいさえすればしたくなくても勝手に体験するが、芝居を見に行く、というのは言うまでもなく自らの意志で取った行動である。より「同志」としての感覚は強くなる。オタク同士のつながりなんて、結局はそういうものだ。
 若い人と会話をしていて楽しくならないのは、別に映画や舞台に限らず、音楽だろうがマンガであろうが、趣味の範囲がえらく狭くて、話題に事欠くことが多いからである。しかも、同じものを見ても、意見が違えば拗ねたり腹を立てたりと、コミュニケーションの基本がなってない場合も多い。最近も職場の若手連中とお喋りしていて、その頑なさに驚いたことが多かった。
 「新しい『ドラえもん』は見る気がしない。つまらないから」
「『ガンダム』(このときは『THE ORIGIN』の話題であった)なんて見る気がしない。つまらないから」
 「『PLUTO』なんて見る気がしない。つまらないから」
 ニベもないとはこのことであるが、こういう人たちと会話を成立させることがいかに難しいか。しかも彼らは友人同士でも殆どマトモな会話をしているとはいい難いすれ違いを見せているのだが、信じがたいことに自分たちでは会話が成立していると思い込んでいるのである。
 「○○って面白いぞ」
「ふーん、面白いと言えば××は面白いよな」
 「ふーん。この映画に出てる△△ってキモくね?」
 「さあ? オレは□□が好きだけど」
 彼らは、こういう会話が楽しいのだろうか?
 Aさんと話していてつらくならないのは、意見が違っていも、互いが考えることの根拠、思考の立地点と着地点がどこにあるかを認めあえるからである。
 しげとも最近話したことであるが、「痛いオタクとそうでないオタクのどこがどう違うか?」というのは、その「相手の立地点」を認めようとする人間かそうでないかで分かれると思う。なんかもう、自分のことだけ喋りまくる「痛すぎる」オタクがいかに多いかってことなんだけれどもね。


 父に誘われて、女房ともども「万葉の湯」へ。
 先日、父から電話がかかってきて、
 「連休中の予定はどうや?」
 「別にないよ」
 「地震で部屋がずっと散らかったままやろう。予定がないならゆったりうちで過ごさんや?」
 と誘われて、あっさり父のマンションに泊まることになったのだが、その前にひとっ風呂浴びようということになったのである。「万葉の湯」はウチの近所にあるのだが、今までに利用したことはない。理由は簡単で、料金が高いからである。大人1890円ってなあ、そのへんのスーパー銭湯に比べると、1.5倍くらい高いぞ。まあ、父の奢りだから、遠慮なしにゆったり浸かることにする。わざわざ大分・由布院と佐賀・武雄の湯を毎日タンクローリーで運んできているというのがウリなので、この値段なのだろう。本場の温泉ったって毎日浸かるんじゃなきゃ、たいして効能はないと思うがね。
 その後は食堂でしげはステーキ定食、父は玄海定食(刺身)、私は天ぷら定食。これに華味鶏のから揚げをつけて三人でつまむ。父は焼酎を注文するが(糖尿病のことなんて考えていないのである)、私は「こどもびいる」というのがメニューにあったので頼んでみる。その正体は美野島の「下町屋」という店が開発した、「ビールのような泡が出るソーダ(アップルタイザー)」であるが、子供が大人っぽい雰囲気に浸って飲むのにちょうどいい、ということらしい。
 「これ、東京土産にいいかな?」と私が言うと、「どうせ東京にも出店があるよ」としげが言う。後でネットで調べてみたらその通りで、新宿あたりで飲める店があるそうだ。全く、これだから地方土産の選定には苦慮させられる(いや、それほど悩んじゃいないけど)。

 父から「どうして今年は東京に行かんとや?」と聞かれたので、いつも行ってるシティボーイズの公演が、今年は北九州であるから、と説明する。
 「その代わりじゃないけど、6月には別の芝居見に東京に行くよ」
 「いつや?」
 「6月の24日から26日まで」
 「芝居はいつ見るとや?」
 「25日の昼」
 「なら、26日は空いとるとやな?」
 「そうだけど、何か?」
 「ディズニーランドのチケットがあるばってん、お前たち、行かんや?」
 「何でそんなもん持っとるん?」
 どうして父がそんなものを持っているのかはよく分からなかったが、ともかく東京の予定はこれでだいたい決定である。オフ会をいつやるかは未定だったが、こうなると6月25日(土)の夕方以降しか時間がない。
 徹夜カラオケはまず無理なので、三、四時間くらいの会食だけになるかとは思いますが、ご都合のよろしい方はご連絡くださいませ。


 父のマンションに着いたら、DVDが増えていた。
 『釣りバカ日誌』のボックスを買ってたのには驚いたが、まだ一本も見ていないという。いや、私もテレビで流れていてもチャンネルを合わせたことはない。興味がなかったわけではないが、まあ、デート向きの映画じゃないし、後回しにされるのは仕方がないとこである。せっかくだから、ということで、第一作をまず三人で見始める。
 今からもう17年も前の作品だから、出演者たちもやはり若い。そのころから既におじいちゃんであったスーさん役の三国連太郎ですら若い。しかもシリーズ化を考えていない単発映画のつもりで作られているから、物語もきっちりまとまっている。原作マンガの初期、ハマちゃんがスーさんを自社の社長と知らずに釣りに誘い、スーさんもハマちゃんを自社の平社員と知らず釣りに興じる、という「勘違いの喜劇」を、テンポよく見せている。三国連太郎も、これが初めてのコメディ演技とは思えないくらいに、頑固だがちょっと寂しい老人を“軽快に”演じている。この「軽さ」が重要なのだ。
 スーさんを孤独な老人と信じているハマちゃんみち子さんの夫妻は、スーさんに仕事を斡旋さえする。感動して涙ぐむスーさん。けれど、ハマちゃんを騙している罪の意識にも責められる。スーさん、基本的に小心者なのだ。会社で偶然スーさんを見かけたみち子さんは、真相を知る。悲しむみち子さんを前にオタオタするスーさん。気がついてない人もいるようだが、スーさんはみち子さんに恋もしているのだ。もちろんこれは三角関係というほどに明確なものではないが、三人の間にある種の緊張感は確かにある。これを重く演じてしまっては、ドラマはドロドロになる。屈託のないみち子さんを演じる石田えりの可愛らしさと、青年のころに戻ったような三国連太郎の純情さが、ドラマを明るく収束させる。
 ラストでハマちゃんとみち子さんは故郷の土佐に帰っていくが、これはまさしくこの映画を単発として美しく完結させるため必要な手段であった。これまで見ずにいたことが悔やまれる佳作。
 でもなんで親父は買っといて全然見ないでいたのか、不思議に思って聞いたのだが、「DVDノ操作の仕方が分からない」ト答えた。……DVD入れて再生ボタン押すだけだよっ!
 

 『キネマ旬報』5月上旬号、岡本喜八監督追悼特集がなんと30ページ。
 全39本のスチールに加えて、仲代達矢、佐藤允、小林桂樹、寺田農、大谷直子、本田博太郎、真田広之のインタビュー記事がそれぞれ見開き2ページ、森卓也×石上三登志の対談が6ページという超ボリュームである。岡本喜八が“どういう人であったのか”ということを映画ファンを自称する人も、ちょっとくらいは感じてもらいたいものだが、本当に面白いものを探すアンテナがイカレてる若い人が増えてる現状ではそれも望み薄である。
 いや、黒澤明にも言えることだが、岡本喜八がその全盛期からいかに「理解されてこなかったか」、ということも、森×石上対談は明かしている。『独立愚連隊』が「好戦的過ぎる」という批判や、『江分利満氏の優雅な生活』『ああ爆弾』『殺人狂時代』の記録的な不入りなどについても触れる。現代では傑作と評されるこれらの作品がなぜそこまでヒットしなかったか、今では東宝の宣伝の仕方、公開の仕方に問題があったことが指摘されているが、責任は全て岡本監督に帰せられた。岡本監督が酒びたりになるのもこのころからで、これがなければ後年脳梗塞を起こすこともなく、39本と言わず40数本は傑作を世に出してくれたのではないかと思うだに、「バカ東宝が」と愚痴の一つも言いたくなる。
 森×石上対談が「勉強になる」のは、例えば日米合作映画である『EAST MEETS WEST』で、岡本監督が、カットごとに独立して撮影する自分のスタイルを捨てさせられ、アメリカ式のマスターショット(登場人物の配置・アクションを把握するためのショット。アメリカでは最終編集権がプロデューサーにあるため、監督が、画面上必要がないと判断しても無理やりこれを撮らされる)を使用させられたことなど、「なぜあの映画が失敗に終わったか」を、感想文的な印象批評ではなくて、技術的な問題として客観的に説明している点である。批評というのは「こうでなくてはならない」。
 なぜ、岡本喜八映画を「映画館の大画面で見るべきか」についても、『暗黒街の弾痕』を例に森氏は説明する。三橋達也の「早撃ち」を演出するために、岡本監督は銃を構える動作と、銃を持つ動作とをカット割りして繋いでいるのだが、これが映画館で見れば人間の目は画面上の「動体」しか見ていないから、繋がって見える。しかしテレビのブラウン管の画面ではただのつなぎにしか見えないというのである。監督が観客の動体認識を利用するつもりで演出しているものを、テレビは少しも考慮しない、ということだ。映画はレンタルビデオやDVDで見るのが主流という方は、よく「映画を見に行くのには金がかかるんだから仕方がないじゃないか」と言い訳をされるが、せめてそれが「本来の映画の鑑賞の仕方ではない」ことくらいは自覚していただきたいものである。昔からの「映画館派」の人たちは、劇場に無意味なステイタスを感じて「映画グルメ」を気取っているわけではないのである(という「常識」も最近の自称「映画ファン」は知らないのだから困る)。
 あまり岡本監督を誉めすぎると、かえって「そんなに傑作ばかり撮れるものなの?」などと逆に疑問を抱かれてしまうかもしれない。石上氏は、岡本作品は決して映画史に残る名作、といった括りで見るのでなく、あくまで日本映画がプログラム・ピクチャーとして量産されていたころの、「ものすごく面白い、上質なエンターテインメント郡」としてみるべきだと主張する。それはその通りだろうが、我々が本当に自分たちの根本的な感性や思想を無意識のうちに培っていくのは、構えて見る「名作」ではなく、そういった、「上質のエンターテインメント」からであることのほうが多いのだ。黒澤明も、岡本喜八も、決してお高く止まったゲージツ家ではなく、「面白いもの」を作りたいと思っていたのだ、ということを「映画ファン」を名乗るのなら知るべきであろうと思う。
 岡本喜八映画は、「レンタル」でも置いてあるところは少ない。というよりビデオソフト化されている作品のほうが少ない。日本映画専門チャンネルでの岡本喜八特集はぜひご覧になっていただきたいものである。
 最後に、インタビューされた方々が「一番印象的」「好きだ」と言及している岡本作品を、ご紹介しておこうと思う。もちろんご自身が出演している作品が圧倒的に多いのだが。
 仲代達矢→『殺人狂時代』(1967)
 佐藤 允→『独立愚連隊』(1959)
 小林桂樹→『江分利満氏の優雅な生活』(1963)
 寺田 農→『赤毛』(1969)
 大谷直子→『肉弾』(1968)
 本田博太郎→『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979)
 真田広之→『EAST MEATS WEST』(1995)


 マンガ、G=ヒコロウ『不死身探偵オルロック 完全版』(エンターブレイン)。
 以前、ブロスコミックスとして刊行されたものの完全版。てゆーか、2巻が出るほど連載が続かなかったので、もう一回まとめて出しなおしました、という事情なので、何かのトラブルで全編収録できなかったのを完全版として出したということではない。たまにこういうことあるよね。前の単行本買ってる人間にとっては二度買いしなきゃならないから困るけど。
 だからまあ、マイナーな作家さんだというか、売れてないといえば売れてない人なのだが、単行本を出してもらえたという点ではカルトな人気を誇っているのである。しかしカルトであるということはカルトになるだけの理由もあるので、まず驚くのはその個性的な“濃い”絵柄だろう。
 マンガ家としての画力はすごくある。基本的にアニメチックで売れセンの絵柄も描ける人なのに、どうやらそれでは飽き足らないようで、やたらそれを“崩し”まくる。ブラックなギャグを矢継ぎ早に繰り出すとき、キャラクターの目は血走り口は裂け牙は生える。ひとコマにぶちこまれた情報は、濃過ぎてしばしば話の流れを停滞させるが、そんなことは気にもしていない。ともかく「描きたいことを描く!」というエネルギーに満ち満ちている。
 例えば13話でリカがオルロックをぶち殺す(ゾンビだから死なないが)カットでは、撃った瞬間の「ズガゥーン!」という擬音、そして「ポピーン」と飛び出す薬莢、弾は正確にオルロックの心臓を貫いて、その弾の刺さった心臓が飛び出す様子までを全て描き(よく見るとリカは銃声が聞こえないように左耳に指を突っ込んでいる)、更に背景にはアシスタントのアンデッタと人斬り108号が驚いている遠景まで描きこんでおり、そこにリカの「ハートブレイクショット!!!」という絶叫とオルロックの「オモイデポロポロ!!?」という悲鳴がかぶるのである。立ったひとコマにこれだけ時間と空間を圧縮しているのは半端ではない。もちろん全てのコマがここまで濃いわけではなくて、ところどころに気の抜けたようなコマも点在しているのだが、これがギャグに緩急を作り出している。多少読みにくさはあってもギャグが滑っていないのは、この緩急の間のおかげだ。
 この詰め込みギャグやコマの構成の仕方は誰かに似ているなあと思っていたが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』そっくりなのだということにようやく気がついた(前読んだときには気がつかなかったような気がする)。ひとコマの中にギャグのボケとツッコミを同時にぶち込み、そのギャグを更にエスカレートさせて状況を破壊しまくり、怒涛のようなテンポアップを図っていくが、それが突然風船の中の空気が抜けたようにしぼんでいき収束する「間」の取り方、これが「マカロニ」絶頂時にそっくりなのである。作品を見る限り、作者は相当なマンガ好きだろうが、鴨川つばめがそのベースの一つになっているだろうことはまず間違いないと思う。
 連載当初はあった「探偵」の設定も、話数を重ねるうちになし崩しにどうでもよくなっていくのもギャグマンガの宿命のようにもので、主人公のオルロックはどんどん影が薄くなり、中華探偵姉弟、ギャルキング、野沢ウォーケン(このネーミングには笑った、確かに野沢那智、しょっちゅうクリストファー・ウォーケンに声当ててるわ)、思い出刑事といったゲストキャラに存在感を奪われていく。それが少しもマンガの質を落とすことになっていないのが素晴らしいのだが、反面、今時の“薄い読者”に、このマンガの面白さがどれだけ伝わるのだろうか、と不安になってしまうのも事実だ。マニアックだから伝わらないのである。ギャグセンスというものは「シュールorナンセンス=わけが分からない=既成の概念が破壊される=面白い」という図式が予め素養として脳内にインプットされていなければ育たないものだが、今時の若い人にはこのセンスに欠けている人が多い。「わけが分からない=つまらない」と単純に判断されてしまうのである。だから、彼らが笑うギャグはたいてい「分けの分かった」オヤジギャグに限定されてしまうことになる。
 なんですかねー、皆さんの身の回りに一人や二人はいると思うけれどもねー、オヤジギャグをかましまくって自分はギャグの天才だなどと嘯いて悦に入っているやつって、最近多くないスかあ? あいつらが鬱陶しいのはねー、ギャグのレベルが低いというよりか、「わけが分かっている」ギャグを平然と口に出来る厚顔無恥のせいなんだよねー。
 それはさておき、『オルロック』のわけの分からなさというのはどんなものか。例えば19話では、いきなり意味もなく「伊東四朗の顔」がはめ込まれたマクラが現れ、「伊藤ピローです。ニン!」と歯をむいて消える。「伊東四朗」と「伊藤ピロー」だけならただの駄洒落だが、こいつがなぜ何のために出てきたのかが分からない。更に“グルメな枕”「山岡ピロー」が現れ、目が寿司になる。何がどうして寿司。もう全然わけが分からないが、とどめに「岸部ピロー」が現れて「かなんなー」とか言いながらフーリガンにぶっ殺されるのだ。文章で説明してもわけが分からないだろうが、マンガで見てもやっぱりわけが分からないのである。もはやこのマンガがどこに行こうとしているのか、予測のしようがない。つか連載終わっちゃってるけど、終わるよなあ(笑)。
 もともとお気に入りに入れてる日記さんの紹介で知ったマンガなんだけれど、こんなマイナーなマンガを楽しんでる人間なんて、探さなきゃ見つかるものでもないだろうと思っていたが、しげも結構気に入ってるらしくて、なんかやたら読み返しているのである。更には鴉丸嬢も大好きで、しげと「いいよねー」とか言い合ってるらしい。マンガファンが百人いたら、G−ヒコロウを読んでる人って、中に一人二人いればいいほうだと思うが、何ですぐ身近にいたりするかなー。
 あと、併録の『プロフェッサー・シャーボ』と『オダキュー』も楽しいが、一番ウケたのは、カバー裏表紙の横山光輝『マーズ』ポーズで立つオルロック。なぜかワキから「イデ」が発動しているのが笑えるのである。まあどこからでも発動しそうだけどな、イデ。

2004年05月02日(日) 東京の夜は更けて(3)/『スター・ウォーズ』展とシティボーイズ
2003年05月02日(金) 東京の空の下
2002年05月02日(木) 私は病院に行くかしら/『COMAGOMA コマゴマ』2巻(森下裕美)ほか
2001年05月02日(水) 行って来ます。/『20世紀少年』5巻(浦沢直樹)ほか


2005年05月01日(日) 深まる溝(ずっとヒビキ風タイトルで行こうか)/映画『コックリさん』

 一応、日曜の朝は『かいけつゾロリ』から一通りアニメは見てるんですが、まあハマッてるのは『仮面ライダー響鬼』だけですんで、感想もこれだけ(別に『マジレンジャー』や『プリキュア マックスハート』が嫌いってわけではないです。誰に言い訳してるんだ、オレ)。
気がついたら、オフィシャルサイトを覗いて、「今週の魔化魍は何かな?」とかチェック入れ始めたから、かなり病気は進行しつつあるのである。『ニュータイプ ザ・ライブ』も買うのやめてたけど、また買うかなあ。
 十四之巻「喰らう童子」。サブタイトルは毎回「動詞連体形+名詞」の形を取っているのだが、一話一話だと大して気にもならないが、ズラッと並べていくと、付け方に何だか無理があるような印象。そう感じる理由の一つに、自動詞と他動詞が入り混じってるせいもあると思う。「叩く魂」「呑み込む壁」「喰らう童子」なんて、特に気にならん人もいるかもしれんが、私は気になる(笑)。目的語がねーぞ、目的語が。「叩く魂」とか、「魂が(何かを)叩く」のか、「魂を叩く」のか、迷った。いや、そもそも各話を象徴する「動詞」を探さなきゃならないこと自体、毎回しっくり行くとは限らないわけで、スタッフの苦悩がしのばれることである。
 前回、仲間のヤマビコを喰らってパワーアップした「乱れ童子」。威吹鬼(渋江譲二)の攻撃も物ともせず、あきら(秋山奈々)に襲いかかろうとするが、なぜか鼻先で匂いをかいだだけで立ち去ってしまう。あきらはこないだから“どういうわけだか”この「襲いかかられ」シーンが増えてきてるんですけど、メインのヒロインの座がひとみ(森絵梨佳)からあきらに移りつつありませんか? ヒビキ(細川茂樹)から魔化魍退治にかけずりまわされている学校のことを心配されて、こりゃ大きなお友達の反響、さぞや大きいことでしょうねえ(笑)。なんつーか、こういうおいしいシチュエーションの前には、そろそろ顕在化し始めたストーリー上の様々な疑問が置いてきぼりされている。「こないだまで、平気で人間喰らってた童子が、急に人間に見向きもしなくなったのはなぜなんだよ」とか、どうしても感じちゃうものなあ。いや、裏設定はいろいろあるんだろうが、同じ魔化魍を喰らってくれて人間は食わないんなら、「人間の味方じゃん、倒す必要ねーよ」と、画面を見ている限りでは納得できないものを感じてしまうのだ。
 今回は、入院した明日夢(栩原楽人)と以前、名前だけ登場していたザンキ(斬鬼/松田賢二)が邂逅する新たな展開も(鬼たちは変身前はカタカナで、変身後は漢字で表記して区別しているみたいだ)。彼もまた明日夢のよきアドバイザーとなっていくのだろうか? 「外堀」が少しずつ埋められている感じで、日菜佳(神戸みゆき)もヒビキに「明日夢君なんか弟子にどうっスか?」なんて言ってるし、3クール目に入るころには「修行」を始める明日夢の健気な姿が見られるかも、という期待も高まる。
 逆に、今ひとつ煮え切らないヒビキの情けなさが一話ごとに際立ってきている気も。明日夢が入院していると聞いたときのヒビキの「少年があ?」という声の元気のなさというか、間抜けっぽさというか、まあそれがいかにもヒビキらしくてヨイのである。
 次回は斬鬼も含めて、ひとみのいとこの戸田山(川口真五)も変身するらしい。弦楽器を使うことだけは決定しているようだが、名前から察するに、「音で斬る」パターンになるような気配。最終回は巨大大首領相手にオーケストラかな(笑)。


「映画の日」で、市内の映画館はたいてい千円興行。キャナルシティに出かけたら、AMCの前に長蛇の列が出来ていて驚いた。ゴールデンウィークと重なったとは言え、ざっと見ただけでも200人くらいは並んでいる。しかもエスカレーターを上ってきた人の殆どみんながその後ろに付いていくので、列が途切れる気配がない。館員さんが「『名探偵コナン』は完売でーす」と叫んでいる。親子連れが目立つから、目当てはやはり『コナン』や『プリキュア』なんだろう(『クレしん』はキャナルでは上映していない)。
我々の目当ては『レモニー・スニケットの世にも不幸な物語』だったのだが、今日から公開予定だったはずなのに、3日公開に延期されていた。多分、『コナン』あたりがヒットしているので、同じファミリー映画ということで競合を避けたものだろうか。仕方なく、『コックリさん』を見ることにする。

 映画『コックリさん』。
 『友引忌』『ボイス』に続く、韓国のアン・ビョンギ監督によるホラーシリーズ三部作の完結編、前作の『ボイス』のときも感じたことだけれども、ワンシーンごとの恐怖描写はそう悪くもないが、一本通した幹となるストーリーが今ひとつ説得力に欠けていて、「面白い」と感じるまでには至らない。そのホラー描写も和製ホラーの模倣臭くて、世評と違って私が見る韓国映画はどれもこれもハズレが多い。今や映画は韓国映画のほうがパワーがある、という煽りも、どこまで本当なんだか。
 日本から伝わって流行したとされる「コックリさん」(韓国ではそのバリエーションの一つである「分身様」がなまって「分身娑婆(ブンシンサバ)」と呼ばれる)、日本ではコインを使うのが主流だったと思うが、映画を見る限りでは、韓国では鉛筆をみんなで握る形式が多いみたいである。私も小学生のころ、友達とやったことがあるが、男子が三、四人でこれをやると、必ずイタズラモノがわざと動かしたりしてわやくちゃになるので(「○○はむっつりスケベエである」と言うと、○○以外のやつが一斉に「イエス」にしようとするのだ)つまんなくなるのである。かといって、何も動かさないでいると、当然コインは動かないままなのでやっぱりつまらない。これもただのお遊びでやってただけでマジで信じるやつなんていやしなかったから、あっという間に廃れた。オカルト好きなやつでも、コックリさんに信憑性を感じる人間は、あまりいなかったように記憶している。
 けれども韓国じゃ「ブンシンサバ」は長いブームになっていたようで、パンフレットを見てみても主演陣がこぞって「やってたし当たるのが不思議」とか言っている。だから誰かがわざと動かしてるんだってば(笑)。「遊びの文化」はそれぞれの地域の民俗を探るための原点であるので、感覚的な差異はそのまま基本的なところでの「文化の違い」を象徴することになる。この映画になかなか入り込めないのも、「こんな幼稚な遊びに熱中してること自体、そもそもヘンだし、実際に呪いが発動しちゃうのも映画を成立させるための無理やりな展開で、乗るに乗れない」という感覚が生じるせいなのだが、結局これは「お国が違うから」と納得することしかないことで、文句をつけたって仕方がないことでもある。鉛筆が勝手に○や×を描くシーンが少しも怖くないどころか、笑っちゃいたくなる感覚は、韓国人には薄くて、結構みんな真剣に見入ってしまっているのだろう。
 『ボイス』のあの子を、ああいう形で出すというのも何がやりたいんだかよくわかんないんだけどねえ。ヒロインはみんな美人なんだけど、「女子高生」役者が軒並み二十歳過ぎってのは、いくらなんでもちょっとなあ。コスプレだ、あれじゃ。


 日本映画専門チャンネルで映画『大誘拐』。岡本喜八特集の一本である。
 大ヒットもし、後期の岡本監督の代表作のように言われつつも、往年の脂の乗り切ったころの傑作郡に比べると見劣りするとも批判されている本作。私も、公開当時に見に行って、「虹の童子」の車の出現シーンが全然かっこよく撮れていないところや、ラストでお山を見つめるとし子刀自をどうしてアップにしないのかとか、往年の岡本演出を考えれば、明らかに年齢による衰えを感じて寂しく思ったものであった。しかし、今回見返してみてもう一つ思ったのは、この映画に対する「イマイチ」感は、やはり「役者の違い」によって生まれている、ということである。同じカット割り、同じギャグであっても、これが60年代東宝映画の役者陣で演じられていたら何倍、何十倍面白かったろう、と思わせるものが多いのである。
 井狩警部役の緒形拳、これを『殺人狂時代』のころの仲代達矢が演じていたらどうであったか。緒形拳に風格がないとまでは言わないが、仲代達矢が演じておれば、その茫洋とした演技がかえって見えない犯人との間に緊迫感を醸し出しえたのではなかろうか。健次役の風間トオル、これを『肉弾』のころの寺田農に演じさせられたら、若いというだけでは収まりきれない命のほとばしりのようなものを感じさせて、役にもっとハマっていたのではないだろうか。ヘリの操縦士の高野、本田博太郎の演技はわざとらしすぎやしないか、同じ演技をさせたとしても、『独立愚連隊』のころの佐藤允だったら、「粋」に演じてくれたのではないか。橋本功の刑事も「フガシね!」と繰り返すあたりは力みすぎだ、これが堺左千夫か大木正司だったらもっとサラリと演じてもっと笑いが取れるはずだぞ、などと、いちいちどうしても考えてしまうのだ。嶋田久作の「東京」など、こういう下っ端のコメディ・リリーフならば、『ああ爆弾』の砂塚秀夫が演じるべき役だろう、と言えば、納得してくれる喜八ファンも多いはずである。
 主演の北林谷栄ですら、ハマリ役ではあるのだが、撮影時は年を取りすぎている、と感じていた。企画が立てられていた十年前に“ちゃんと”この映画が撮られていたら、もっと台詞にも演技にも切れあっただろうと思わざるをえないのである。正直、岡本映画のリズムを体現していて安心して見られたのは、くーちゃん役の樹木希林くらいであった。
 「もしもあの人が……」という仮定は、いずれももはや望むべくもない夢の話であり、日本映画の力が一番低かったころにこの映画が作られたことを考えれば、映画が完成したこと自体を慰めとして、その出来如何については諦めるしかない。つくづく岡本監督に映画を“撮らせないでいた”当時の日本映画界を恨みに思うことである。
 こんなことばかり言ってると、『大誘拐』がすごくつまんない作品のように聞こえるかもしれないけれど、岡本監督リスペクトを公言している庵野秀明監督の『キューティーハニー』、樋口真嗣監督の『ローレライ』に比べりゃ、はるかに面白いのである。エンタテインメント映画としての岡本作品は、一等劣るものであっても充分に面白い、そのことを強く指摘しておきたいのである。
 

 夕方に父から電話。急に食事に誘われる。
 本当はシネリーブルで『獣人雪男』を見に行く予定だったのだが、仕事を続けるか店をたたむかで姉とモメてる最中なので、無碍に断るわけにもいかない。東宝特撮映画で見損ねている映画はもうこの『獣人雪男』一本になってしまったが、また見る機会を逸してしまった。もしやと思って念のために父を誘ってみたが、やっぱり断られた。
 もっとも、昨年、私が入院したときには、父に博多座の「北島三郎ショー」のチケットを無駄にさせてしまった経緯があるので、文句も言えないのである。
 「ビッグ・ボーイ」で父、私、しげの三人でミックスグリル。本当は姉も交えて話が出来ればとちょっと期待していたのだが、父は私と姉を合わせようとはしなかった。姉は店の片づけで置いてきぼりである。これは姉に気を悪くしろ、と言っているようなものだ。
 父は「会っても話をしてくれる状態じゃない」と言うのだが、本当なのかどうか。父の話だけを聞いていると、姉がすっかり仕事をする気が失せてしまったように聞こえるのだが、そこまで姉が無責任だとも思いにくい。だいたい父は自分では首尾一貫したものの考え方をしているように思い込んでいるけれども、結構その場限りの適当なことを言い散らすことも多いのである。どうせ、「それを言っちゃおしまいよ」的な暴言を吐いて、そこから姉との溝が深くなっていったってことだろうな、と見当はつくのだが、だからと言って父が会わせようとしていないのを私がこっそり会うようなことをすれば、父がまた拗ねることも分かりきっているのである。おおまんなくせに細かいところにこだわる癖があって、そこが生前の母にも「お父さんは何であんなにしつこいかね」と非難されていたところなのである。
 散々愚痴を聞かされたあと、マンションまで父を送って帰宅。全く、姉が来ないのなら映画に行きゃあよかった。ぶつぶつ。

 夜中に地震。震度3。だから寝られないって(涙)。.

2004年05月01日(土) 東京の夜は更けて(2)/小鹿番さんの死去と、またまたテンパる妻。
2003年05月01日(木) メモ日記/淡白なメールの夜。
2002年05月01日(水) 疲労度の爪/『コミック伝説マガジン』No.6ほか
2001年05月01日(火) 実は某大学推理研OBです/『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)