無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年05月08日(火) 38℃線突破/『なみだ研究所へようこそ!』(鯨統一郎)

 ついに熱発して倒れる。
 職場に休みの連絡を入れて、あふあふ息をつぎながら万年床の上で天井を眺める。
 しげに「おまえの風邪が移ったのかな」と言うと「私のせい?」と拗ねられる。
 「なんでおまえのせいだよ、ウィルスのせいだろ」というと照れてモジモジしてやがる。
 それはいいから。
 おまえの方こそ具合がよくなったんならメシつくってくれよう(T_T)。

 しかし、なんだかこうしょっちゅう休んでいると、ホントに自分が仕事拒否症じゃないかって気がしてくるなあ。
 かと言って、この世で何より仕事が好きとか仕事をしてないと落ちつかないとか(そりゃワーカホリックだって)いうほどのことはないけど。

 仕事もせずに寝ているだけだと落ちつかないので(一行前に書いたことはなんだよ)、頭がふらついてるのにパソコンに向かって日記などを書く。当たり前の話だが、文章自体に病気の痕跡は表れないから、日記の文は元気そのもの、それどころかやたらハイですらある。

 FCOMEDYのオタアミ会議室、『クレヨンしんちゃん』のツリーがそろそろ頭打ち的記述が目立ってきたので、なんかちょっと引っ掻き回してやろうかと、幾つか「疑問」を書きこむ。
 映画の批評で何がつまらないかと言えば、「この映画の正しい見方はこうだ」と決めつけてしまうことくらい読んでいて白けるものはない。作り手に映画を作るモチーフなりテーマなりがあるのは当たり前の話であるが、そんなもの受け手にとっちゃどうでもいいことなのである。
 映画を見る者は百人百様、ある人が面白いと思うことが別のある人にとってはつまらなく感じることは多々あるが、それはどちらかが正しくてどちらかが間違っていると言うことでは決してない。
 どうも『しんちゃん』の面白さが「まだ見ぬ未来への希望」(X星人かオノレらは)の一言に収斂されていきそうな気配があったので、「それならあれだけのなつかしネタを散りばめる必然性だってないじゃん」と、ちょっと不満を感じ始めていたのだ。

 この指摘が誰からも語られないのが不思議なのだが、この「オトナ帝国の逆襲」事件そのものがしんちゃんにとっては「忘れられない思い出」となっていくはずのものなのである。
 ではそれはどんな意味を持った「思い出」なのだろうか?
 「思い出」……「記憶」と言い換えてもいいが、人間のアイデンティティを形成する核となるものが「記憶」であることは説明の必要もあるまい。「記憶」がなければ人は人ではいられないのだ。
 つまり「過去への郷愁」は人間の自己確認としての「記憶」の再確認なのであって、それを否定することは自己の否定と同じことになる。「思い出」は消せないのだ。
 しかし、われわれ人間は、ときとして、自分の記憶を「改竄」してしまうことがある。記憶違い、勘違い、忘却などがそれだ。しかしそれも実は、自分の人格を守ろうとする我々の脳の作用にほかならない。
 思い出してみるがいい、「イエスタデイ・ワンスモア」はしんちゃんにとっては「オトナ帝国」でしかなかったことを。ラストでケンちゃんチャコちゃんが「バンジージャンプをしようとしていた」と勘違いしていたことを。
 しんちゃんは自分の幼い脳では理解できないことを理解できるものに置き換えて認識していっているのだ。それがたとえ事実と違っていたところで構いはしない。その勘違いした「記憶」があってこその「しんちゃん」なのだから。
 この映画で肯定されているのは、そうした過去の出来事を「どんな受けとりかたしたっていいんだ」という当たり前の事実に他ならない。つまりは「間違った人生なんてない」という絶対的な人生肯定である。
 ひろしの人生も、みさえの人生も、ケンとチャコの人生もみな「勘違いの人生」だったことは見ていればすぐにわかる。でもその人生は決して「つまんなくない人生」なのだ。

 あ、適当に書いてたけど、この論調、同人誌に載せる原稿の元ネタになるな(^^)。

 予想通りわずか半日でスレッドが急に伸び出した。
 どうもオタアミの人たちはそれなりの意見を持っている人が多いので、素直にこちらが意見を書いただけだと、「ふ〜ん、そうなの」で済ましてしまうことが多いので、なかなかレスをつけてくれないのである。
 ふっふっふ、みんなうまいこと乗せられてやがるぜ。
 ……って、こんな書き方するからしげに「策略家」などと言われてしまうのだなあ。単に「みんなはこのへんのことにあまり触れてないけどどうして?」って思ってただけなんだけどね。
 でも、疑問の一つは単に私の勘違いだったので結果的にとっても恥ずかしかったのであった(^_^;)。

 横になって久しぶりに活字の本を読む。
 鯨統一郎『サイコセラピスト探偵 波田煌子(なみだきらこ)なみだ研究所へようこそ!』。
 相変わらずつまんねータイトル(ーー;)。『とんち探偵一休さん』と言い、このセンスのなさはなんなのだろう。マジメなミステリファンなら「なみだきらこ」の名前だけで引くぞ。
 まあそのツマラナサが中身にまで悪影響を及ぼしてなければ問題はないんだけれども、残念ながらミステリとしての出来は未だし未だしである。
 この人のデビュー作、『邪馬台国はどこですか?』がおもしろかったのは、「歴史上の事実」という、言わば「既定のこと」をムリヤリこじつけて読み替えていく楽しさにあったのだ。でもそれを普通のミステリでやっちゃ、「ムリヤリのこじつけ」が残るばかりだ。
 日本ミステリ史上、そのムリヤリのこじつけをミステリとして成功させ得たのは泡坂妻夫「亜愛一郎」シリーズ以外にない。それは泡坂氏がその世界観自体をきわめてエキセントリックに構築していたがために成功した稀有な例なのであって、普通の文体で同じことをしても失敗するのがオチなのである。
 キャラクター造形が面白かったんで、最初は期待したんだがなあ。
 1話目、2話目を読んで最終回のネタが読めてしまった。文章が下手なので伏線がかなりはっきりバレてしまうのである。次の作品を買って読むかどうか、かなり微妙になってきたなあ。



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