無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年05月18日(土) 世界の中心で馬鹿と叫んだ女/『彼氏彼女の事情』13巻(津田雅美)ほか

 更新が遅れてるの、ずっと風邪引いてたせいですねん。
 頭痛と咳と喉イガと鼻水と下痢と戦いながら、更新……って、パソコンも基本は体力なんですねえ。
 ……はふー。

 ここんとこ、またウィルスメールが届くようになっている。
 添付ファイルを開きさえしなけりゃ感染することはないので、片っ端から削除してるんだけど、ほかのサイトを覗いてみると、どうやら、またハヤリのようにあちこちに送られているらしい。
 相当、広範囲に渡ってるみたいだから、犯人は一人ってことじゃないみたいだね。ってーと、これも同時多発テロみたいなもんなのか? 季節の変わり目の風物詩って考えるには、ちとタチが悪い。
 しかしウィルスが問題になるたびにいつも思うことなんだけれど、実行者はいったい、どういう心理でこういう行為に走ってるんだろうかってことだ。
 単に人が困る様子を見て喜んでるだけなのかなあとも思うけれど、やっぱりココロに何か傷をお持ちの方々かもとも思う。
 私の書く文章に何か不満があって、文句つけたいのなら、堂々とウチの掲示板に書きこんで頂いて構わないんだけどなあ。そのためにウチんとこは初めから「悪口OK」を標榜している。悪口書きこんだからって決して「来るな」とか「オマエのアホな話に付きあってられるか」とか邪険にするつもりはないのよ、ホント。私の体力があれば付き合いますとも、どこまでも(^^)。
 せっかくだから「なぜに私はウィルスを送ったか」というのを自己分析して書きこんでくれたら、こりゃすごく面白いと思うな。そーゆーの、滅多にあるこっちゃない。芥川龍之介じゃないが、「犯罪者が自分の心理を冷静に分析した例は余りあるまい」と自負できるぞ。
 ……おっと、アレは「自殺者」だった(^_^;)。


 朝寝して、昼少し前に鴉丸嬢のお宅に出かける。
 しげ、劇団のHPの方に私の書いた台本を無料配信しようと思ったそうだが、自分のファイルから昔のやつがスポッとなくなっていたんだそうな。
 私は自分の書いた脚本には執着がなくって、端から忘れて行くので、当然のごとく保管なんかはしてない。で、劇団の連中に聞いてみたらかろうじて鴉丸嬢が捨てずに持っていたというので、アリガタヤとばかりにそれを受け取りに行くことにしたのだ。
 さて、この段階では我々にさしたるトラブルはなかった。

 鴉丸嬢、春めいてきたせいか薄手な格好。
 もともと浅丘ルリ子並に痩せてるヒトなんで、薄い恰好をするとますます薄く見える。よく生きてるよな。
 ビンボーなことは先刻承知の上なので、ワザワザここまで来てそのままサヨナラというのもナンなので、食事に誘ってみる。
 「時間はあるの?」
 「夕方、大勢(其ノ他君のこと)にクッキー作って持っていく約束はしてるけど、それまでは空いてるけど」
 ……「ケド」が多いぞ。このあたりの言葉遣いにすぐ反応しちゃうのが私が古い言語感覚の持ち主だってことなんだろうケド。
 「どこに行くの?」
 「『かに一』でどうかな?」
 「ああ、あの一夜にして『スタミナ太郎』が『かに一』に変わったという……」
 何だか建物自体がいきなり別の建物に変わったみたいだな。秀吉の一夜城じゃないんだから、一日で建物が建て変わるわけないじゃん。ノボリが変わっただけだよ。
 鴉丸嬢にこういうヘンテコな教え方したのはもちろんしげだ。こういうモノイイが物事を針小棒大にして、ちょくちょく我々の間で事実を歪曲させて行ってる原因になってるんだが、いくら注意してもしげは自分の物語の中だけで生きようとする姿勢を改めない。
 つーか、本気で自分の作った虚構の中に入りこんでたりするのだな。
 それはそれで構わないけどさあ、その妄想の中に私を巻き込むのはやめてくれ。お前は『うる星2』のラムか。

 それはともかく、鴉丸嬢、食事に付き合う気になったはいいが、ここで大きな問題が生じた。
 実はロドリゲス(しげの車の愛称)の後部座席、この間の公演の荷物が乗っかったままなのである。しげの腰の調子が治ってから一緒に部屋まで上げよう、と話をしていたのだが、なかなか元に戻らないので、仕方なく放っぽって置いたのだ。
 つまり、鴉丸嬢の乗る席がない。
 「荷物のスキマに乗ってもらうしかないよなあ。この間もよしひとさん、そこに乗ってたし、平気平気♪」……とかへらへら笑ってた私であったが、もちろん、女性をそんなヒドイ目に遭わせるわけにはいかないのである。
 で、頑張ってハマりこんだわけですがね、小道具で使ったゴミ袋の間に。
 「どう? 苦しい?」
 「いや……苦しくはないけど……」
 「けど、何?」
 「……あ・づ・いぃぃぃぃ」
 おお、私はちゃんと「けど」の使い方を心得ているぞ。さすがオトナ……ってマジで暑いんだわ、このゴミ袋の間ってヤツが。
 狭いとか、苦しいとかじゃないのね、このゴミ袋ってのが市指定の透明なヤツじゃなくて、黒一色なものだから、日に当たってるとだんだん熱を持ってきちゃうわけよ。そうなると暑いっつーか「熱い」。このままずっと放置されたら死ぬ。確実に死ぬ。
 「ちょっと『かに一』まで距離あるからガマンね」
 ……そこは「から」じゃなくて「けど」だろう。ガマンはするけど、早いとこ店に着いてくれ……と思ってたら、しげ、思いっきり道に迷いまくる。
 「あ、さっきの道、逆に曲がった」
 「も一つ手前で曲がんなきゃいけなかったんだな」
 「ああ、また同じ道を走ってる!」
 ……マジで私を殺す気か(-_-;)。
 なのにしげのやろー、笑いながら、
 「後ろの車が微妙に車間距離取ってるねえ」だと。
 その後ろの車の運転手とできるだけ目を合わさないように苦労している私の身にもなれや。

 しげ、車中で鴉丸嬢に向かって、他人の悪口を口汚く言いまくっている。鴉丸嬢も応酬するように悪口を言いまくる。
 詳しい内容は余りにひどすぎてとてもここでは書けない。
 悪口好きの私ですら閉口するほどだから、その過激ぶりは想像して頂きたいところである。「他人の悪口を聞くのは大好きだから隠さずに書け」と仰る好事家の読者の方には申し訳ないが、どうしても知りたければしげ本人に聞いて下さいな。
 日頃、私に対しては「世界の中心が自分だと思ってる」とか「他人を見下して生きてる」とか散々文句をつけてるクセに、しげの態度はまさしく自分を棚に上げている。もっともコイツが自分を棚に上げるのは日常茶飯事なので今更驚きもしないが。

 ただ、ヒトコトだけはっきりと言っておきたいことは、この「世界の中心」なんたら発言を、私に対して何か不満があるたびにしげは口にしているのだが、これも全て根も葉もないしげの被害妄想に過ぎないということだ。
 そりゃあ、確かに私も「博多は世界の中心である」みたいなことを口にすることがあるが、こんなのは主観的なハッタリで、客観的な事実でないことはアホでない限りすぐにわかる。お国自慢、ご当地自慢というものはそこまで思いきって言わなきゃ体をなさないから語ってるだけのことで、こんなのにいちいち目くじらを立てるしげの根性自体がネジくれているのである。
 だから広島人はよう(以下自粛)。
 結論を言っちゃえば、「世界の中心が自分だと思っている」のは私でなくしげなのである。だから他人が自分の上に立っているように感じられるのが許せない。それは、相手が夫たる私であっても変わりはしない。
 本来、人間というものは自分が言われて一番イヤな言葉を他人に浴びせかけるものである、というのは志水一夫さんもどこかで言っていたことだが、これはまさしく真実だろう。自分が世界の中心でありたいから、威張ったやつが許せないのである。自分が他人を見下し馬鹿にしているから、同じ言葉で他人を罵倒するのである。
 始末に悪いのは、しげのような対人恐怖症な人間にはよくあるタイプなのだが、自分自身の心の弱さというか、他人に虐げられるかもしれないという不安を紛らすために、たとえ相手に全く悪意がない場合でも、常に他人より優位に立っていなければ気がすまないがゆえに、ムリヤリ相手の悪意をでっち上げて罵倒を繰り返し続けることである。
 そんな妄想の対象にされるほうはたまったものではない。
 だから私は、しげと話をしながら、しげの話に矛盾や思いこみがあると判断した時には、その根拠を示して「そりゃお前の妄想だ」と指摘をする。
 冷静に事実を指摘すればしげも少しは納得するかと思って言うのだが、これがまた困ったことに往々にして、かえってしげの心の火に油を注いじゃう結果になるのだね。私にしてみれば、これはただの事実の指摘に過ぎないから、何も問題はなかろう、私自身、全くしげを蔑んでなどいないのだから、と思うのだが、しげは自分の考えが否定され、しかも反論の余地もないものだから、追いつめられた恰好になる。
 で、「自分が馬鹿にされた」と思いこんで、結果、ヒステリーを起こしてしまうのだ。
 なら、最初から冷静に話をせずに、しげの言うことにウンウンと相槌を打ってやってりゃいいじゃん、と仰る方もおられようが、そっちの方がよっぽどしげを馬鹿にしているというものだ。相手に理解力がないと初めから決めつけて会話するようなあからさまな差別を自分の女房相手にしたくはない。他人にならするが(^_^;)。
 私がしげのことを「馬鹿だ」というのは、その会話した結果の事実を報告しているのであって、初めから偏見を持って「馬鹿だ」と言ったことは一度もないのだ。
 だから私は毎日懲りもせずにしげと会話をし、そのたびに「馬鹿か」と言い続けているのである。
 それともしげよ、初めから「お前のような馬鹿とは会話なんぞできん」と言ってほしいか? 何度も言うが、自分の妄想で私を極悪非道の大悪人に仕立て上げるのはよせよな。確かに私は善人ではないが、少なくともお前みたく、目の前で○○○○○○○○○○○○○○○するようなマネはようせんぞ。

 「かに一」で、私としげが向かい合わせに座ったら、鴉丸嬢、しげの側に座るか私の側に座るか迷う。
 しかもそのワケというのが、私の隣に座るのはいやだし、向かいで顔見ながら食うのもイヤだしと、はっきり言うのである。
 この糞ナマイキなションベンくさい小娘が、と内心思うが、顔にも出さず、「向かいで俯いて食えばいいじゃん」と言う。しげに負けず劣らずこの鴉丸嬢も口が悪い。口が悪くても、これで悪意がないのだから実に始末が悪い。
 なにしろ、ウチのメンバー中最も温厚なよしひと嬢のことまで無意識のうちに悪口を言っているのだ。
 「よしひと姉様って、すっごくオトナだよ」
 「そりゃ知ってるけど」
 「いや、ココロじゃなくてカラダでも」
 「……何が言いたいんだよ」
 「こないだの公演でさあ、姉様、ブラウス着てたじゃん? それが結構薄くって、控え室で姉様、『ああっ! これじゃビーチク見えちゃう!』って言ってたの。『ビーチク』だぜ『ビーチク』。いやあ、姉様ってオットナあ♪」
 ……二度も三度も嬉しそうに繰り返すなよな(-_-;)。
 これで誉めたつもりになってるのが怖いよなあ。
 何度も下ネタ連発する女性って、ツマラン男にターゲットにされる率高いぞって言ってるのに、まぁだわかってないのだ。
 鴉丸嬢の過激な発言については、やはりここにはとても書けないナニだのナニに関するものもたんとあるのだが、これも聞きたい人は直接本人に聞いてくださいませな(-_-;)。ウチの劇団の公演に来てくれれば確実に会えます。

 鴉丸嬢、そのままウチに来て(帰りも私はゴミの中。とほほ)、台所を借りてクッキーを作る。しげと二人で作っていて、両方の作ったものを味見してみたが、しげのはとことんガサツである。
 型がうまく作れなかったからって、形状から勝手に「餃子クッキー」なんて名前つけるな。ホントに餃子の味がしてきそうじゃないか。馬鹿でかくて食いにくいし。
 ……あ、考えてみたらこれ、しげの久しぶりの手料理だな(お菓子だけど)。だけどしげが料理作るたびになぜか「料理」に対する概念が私の中でガラガラと音を立てて崩れていってるんだけど、この責任はいったいどうつけてくれるつもりなんだ。
 

 アニメ『クレヨンしんちゃん』は長編、「さらばまたずれ荘 またずれ大捜査線だゾ」の巻。
 またずれ荘編完結編として、程よく纏まってる感じ。
 原作と登場キャラが相当かわっちゃったのはオトナの事情というヤツなんだろうけど、それでもつまんなくはなかった。
 この「つまんなくなかった」というのがクセモノで、その「オトナの事情を考慮しても面白いアニメは作れるんだから、そういう事情はあってもいいのだ」という発想にスライドされちゃうのが困りものなのだ。
 表現の規制が肯定されていいわけはないんだけどねえ。

 鴉丸嬢はテレビで『しんちゃん』がかかっていても、全く目を向けようとしない。ここまで「嫌い」を押し通すってのは、それはそれで徹底していて潔さそうではあるが、未だに「なぜ嫌いなのか」だけは口にしようとしない。あれだけ悪口好きなくせに、この点だけは不思議なことである。
 ようやく時間がきたので、しげ、鴉丸嬢を車で其ノ他君ちまでお送りする。
 ……やっぱり女性が二人以上集まると、男は勝てんねえ(^_^;)。


 マンガ、津田雅美『彼氏彼女の事情』13巻(白泉社/花とゆめCOMICS・410円)。
 今巻より「有馬編」のスタート、だそうな。
 んー、ここんとこ脇キャラの番外編的な展開ばかりだったから、ようやく本筋に戻ってきたって感じかな。
 確かに、プロローグとしては充分に面白い。
 優等生の仮面の後ろでどす黒く蠢くもう一人の有馬……というよりそれが有馬の本性だったりするんだけれど、これが今後どのような形で「発動」して行くのか、それが宮沢雪乃との関係にどのような変化をもたらすか、適当にお茶を濁さずに描き切ってくれれば、随分面白いことになりそうだ。

 考えてみれば、この物語、宮沢の「見栄」から始まった物語なのである。
 何巻だったか、結構初めのころだったけれども、宮沢がイジメにあったあと、その首謀者に向かって、「私ならもっとうまくやる」みたいなセリフを吐いていたこともあった。
 他人を騙し、誤魔化し、仮面をかぶってやり過ごし、巧言令色、権謀術数は社会の常識、みたいな冷徹な視点がこの作品には元からあったのだ。
 リアルである。作者の人間認識がどのようなものか、窺い知れる。
 しかし、奇妙なことに、その人間観においてはこのマンガ、実にリアルでありながら、同時にアンチリアルというか、いささか前近代的な要素・設定もこのマンガには見られるのだ。
 なんたって、有馬は、もともと「メカケの子」であり、今の両親に貰われた「貰われっ子」であるのだもの。おいおい、そんなん小説だったら昭和の半ばあたりでもう絶滅してるような設定だぞ。『赤と黒』か『日のあたる場所(アメリカの悲劇)』か『安城家の舞踏会』かってなもんで。少女マンガにはそれがまだ生き残っている……というより、作者は何となく「ワザと」そんな古めかしい設定を作中に持ちこんでいるような気がする。
 ドラマがそこまで現実から乖離していないと、有馬の憎悪はリアル過ぎて、「花ゆめ」の読者にはキツイ、と作者は判断したのかも知れない。

 作者自身は、極めて「現実的」な人なのではないだろうか。
 コミュニケーションとは自分を相手の前で「作る」ことであり、決して本性をさらけ出してはならないと、なんだか藤村の『破戒』を想起させるような「戒律」を自分に科して生きてきたんじゃないかって気もする。
 いや、憶測でたいした根拠があるわけじゃないんだけれども、実際にこのマンガ読んでると、この人、愛だの恋だの、思春期の夢物語は余り信じていないように思えるんだよ。
 だって、有馬が本気で宮沢を愛すれば愛するほど、二人の道は遠く離れるように設定されてるんだもの。有馬の本性は、かつて自分を蔑み、罵倒してきた者たちへの「復讐」にあるんだから。

 この物語が「悲劇」とならずにハッピーエンドを迎える可能性はあるのだろうか。そのへんを、作者に聞いてみたいくらいだけれど、もし悲劇として押し通すことができたら、これはもしかしてスゴイ傑作になるかもしれない。
 ……なんだか、このままいくと有馬、人の一人や二人くらい殺しそうな気配があるんだけど、少女マンガでそこまでやるかなあ。
 やってくれたら面白いね。

2001年05月18日(金) 増えるワカメのごとく……/『鬼切丸』20巻(楠桂)



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