無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年04月30日(土) 続く事故(ヒビキのタイトル風)/『ビジュアル探偵明智クン!!』1巻(阿部川キネコ)

 F(遠心力)=m(質量)×v(速度)2/r(距離)
 兵庫県尼崎のJR福知山線の脱線事故、死亡者はついに107人。最終的な事故原因はどうやらやはり「スピードの出しすぎ」「急ブレーキをかけたための脱線」ということらしい。過密ダイヤとか何とか言われてるけど、結局は運転士の責任なんで、今の報道は、「憤懣の持って行き所」を探して、迷走しているように思える。
 電車事故だのバスの転覆だの、人為的な事故がこれだけ相次ぐと、「ミスは許されない」という言葉がかえって空々しいものに聞こえてくる。人間はどうやったってどこかでミスをしてしまうものなのだ。だったら、そもそもミスを誘引する要素自体を減らしていくしかしようがないのではなかろうか。福知山線の事故についても、運転士にプレッシャーを与えた過密ダイヤも問題だが、時間に縛られた現代日本人の精神構造が招いた悲劇だとも言えるのである。生活にもっとゆとりを、とは誰もが口にするが、具体的にのんびりできる余地がないんじゃ、いつか何かの事故が起きることを覚悟するしかないのが「現実」というものではなかろうか。
 昨29日夜、羽田空港で間抜けなトラブルが起きた。
 工事のため閉鎖されていたA滑走路に、管制官ら管制グループ18人全員が滑走路閉鎖を失念して誤った指示を出したために、帯広発の日本航空1158便(エアバスA300型機、乗員・乗客51人)が着陸した。当時、滑走路上には工事車両などがなかったため、けが人などはなかったが、この2分後、札幌発の日航1036便(ボーイング777型機、乗員・乗客161人)も閉鎖中の滑走路に向けて最終着陸態勢に入っており、気づいた管制官が慌てて着陸をやり直させている。つまり、一歩間違えば、飛行機と工事車両、飛行機と飛行機が滑走路上で接触するなど、重大事故にもつながりかねない深刻なミスだったのである。
にもかかわらず、18人全員がモノワスレって事態はあまりに間抜け過ぎで、ニュースを知らない人に伝えても冗談としか受け取ってもらえないのではなかろうか。例えて言うなら、管制官みんなガンビー。これが小説だったら、読者は絶対「リアリティがない」と文句をつけるはずである。着陸の指示を出した管制官も、事情聴取に対して「漠然とは閉鎖があることは頭の隅にあったが、昨日がその日との認識はなかった」と話しているというから、やっぱりガンビーである。

 例年、この時期はシティボーイズの公演を見に上京していたのだが、今年は北九州公演があるのでパス。のんびりと朝からテレビを見る。
 日本映画専門チャンネルで『クレージーの大爆発』、『放浪記(1935/夏川静江主演版)』、時代劇専門チャンネルで『木枯し紋次郎』など。感想は長くなるのでパスね。
 あとは、マンガなど読む。


 マンガ、阿部川キネコ『ビジュアル探偵明智クン!!』1巻(芳文社)。
 世の中に妖しいマンガは数あれど、これくらい本屋のカウンターに持って行き辛いマンガもあるまい。いや、女性は全然平気でしょうが(笑)。表紙に登場しているのは、一見、長髪の美女、よく見ると全裸のオトコ。これが主人公の明智くんだ。『新・ルパン三世』主題化付きOPの峰不二子のボーズで、ライフル構えてるんだけど、なんかねえ、潤んだ瞳にマニキュア塗って伸ばした爪がもう完全に男の客を引かすこと請け合いってなキャラでねえ。阿部川さんの『辣韮の皮』や『WAKIWAKI タダシさん』が面白かったのでこの本も買っちゃったのだが、表紙だけなら絶対に買ってない。誰が買うか。
 しげが一時期ボーイズにハマッてたおかげで、ウチには妖しい表紙のマンガがそこここに散らばっていて、これ以上、自分の生活環境を不穏にしたくはないのである。
 けれど、帯にはなんと桑田乃梨子の推薦文が! 作者どうしがお友達なんだろうが、これだけ傾向の違うマンガを描くお二人が……ってのもフロイト的になかなか興味深い(おおげさ)。
 タイトルから分かるとおり、お話は名探偵もののパロディ。でも主人公の明智くん(下の名前は不明)はオリジナルの明智小五郎とは何の関係もない。まあナルシストってところは似てるかもしれないが、やたらと脱ぐわコスるわ、鬱陶しいったらありゃしない。探偵になる以前の過去は謎に包まれているが、路上詩人だったことがあるとか。もちろん詩の中身は独りよがりで芸術家気取りで、でもリリカルという一番困ったタイプ。「レモネード色の街に一人ぼっち……」ってどんな街や。黄砂、降り積もっとるんか。桑田さんがなんでこんなのが好きなのかよく分からないのである。
 依頼人だった山村美々(通称みっちょん)をなし崩し的に助手にして、数々の何事件に挑む! というのが基本的なストーリーラインだけれど、もちろんマトモなミステリマンガのはずもなく、次から次へと現れる変な探偵仲間が、事件を逆に紛糾させていく。不思議ちゃん探偵悪梨須(アリス)はただのストーカー、自称明智くんのライバル金田一くんは霊視ができるパンク探偵、陰陽探偵京極院晴明はモロあの人。
 しかし極めつけなのは何と言っても「横溝ドイル」くんだろう。“体は大人(33歳)、心は子供”、つまりはただのアダルトチルドレン(つかとっちゃんボーヤ)で、女と見れば“ぶって”擦り寄るあたり、キモいったらないのだが、オリジナルだって子供の演技してるときは気色悪いんだからどっこいどっこいだろう。たまたま出かけた先で必ず事件が起こる「地獄の探偵」ぶりもオリジナルと同じ。オリジナルの腐れぶりに腹を立てている人にとっては、毎回エロ行為に走ってみっちょんにぶちのめされるドイルくんは、すこぶる溜飲の下がるキャラだろう。ちゃんと「眠りのドイル」を見せてくれるところも芸コマである。
 作者の阿部川さん、『辣韮の皮』でもチラッとそのミステリオタクな面を見せてはいたが、実際、かなり内外のミステリを読み込んでるんじゃなかろうか。明智くんがボソリとつぶやく「ああ……ドラマ化しないかな……あの探偵事務所がうらやましい」という台詞、もちろんこれは関崎俊三『ああ探偵事務所』がドラマ化されたことを指しているのだが、同時に江戸川乱歩『二銭銅貨』の冒頭のフレーズのパロディにもなっている。こういうミステリファン向けのくすぐりも多く、某有名推理作家のデビュー作の「見えなかった」オチや、理系人気作家の「回転する館」オチに対して、「なめんなよミステリー」と突っ込んでるのも、同じ思いを抱いているファンにとっては小気味よく感じられることだろう(私はアノ二作ともアリだと思ってるんですが)。

2004年04月30日(金) 東京の夜は更けて(1)/中洲の夜のキティちゃん
2003年04月30日(水) メモ日記/白い人たちの夜。
2002年04月30日(火) 今もまだへにょへにょ(疲れてんだよ)/『開田無法地帯』(開田あや・開田裕治)
2001年04月30日(月) 別れのトワレ/映画『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』ほか


2005年04月29日(金) 昭和の日。/映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』

 えーっと、天皇誕生日……ってんじゃなくて、みどりの日? おクニのほうでは「昭和の日」って変えようって動きがあるようだけれど、その伝でこれからも「平成の日」とかどんどん休日を増やしてくれるつもりなのかね。「Yahoo」の投票でも「みどりの日のままでいいじゃん」という意見が圧倒的に多いようだけれども、こういうことをするから、日本は右傾化してるとか誤解を招くんである。右傾化してるように見えるけれども右傾化してないよというアプローチのつもりかもしれないが、やり方がヘタだ。なんか「なしくずしにやる」って形が多いようだけれども、根回し足りないんじゃないか。まあ私は昭和天皇の誕生日なんだから、昭和の日以外の名称をつけてる現在のほうが欺瞞だよなあとは思うけれども。ついでに「○○節」も復活させたらいかがかな?(笑)
  
 連休の始まりであるが、昨日一日走り回っていたおかげで、今日は体の節々が痛い。一日ほとんど寝てDVD見て本を読んですごす。

 DVD『80デイズ』。
 ジャッキー・チェンのDVDは出るたび買わなければならない宿命になっているので、映画としてはどうか、という批判も多い本作も購入。でも往年のデヴィッド・ニーヴン主演版『80日間世界一周』のような大作を期待するから批判も出るわけで、B級エンタテインメントとして割り切ってみれば、決してつまんなくはない。それにこれ、LIMBのタダ券で購入したから、お金は一銭もかけてないのよ。特典映像と吹き替え音声が付いているだけで満足である。
 未公開シーンの中には、映画冒頭でのジョン・クリーズの出演シーンもあり。これがなけりゃ、ラストでどうしてクリーズが再登場してくるのかが分からないので、このカットは腑に落ちないところである。
 吹き替えは声優陣と、ゲスト役者との演技の落差が激しく、こういう吹き替えがまかり通るのなら「客寄せパンダの役者起用は止めろ!」の声が高まっても仕方がないと思える。フォッグに扮し原田泰造がともかく聞いていられないくらい下手糞。今や封印されて幻となった『スター・ウォーズ』テレビ版初吹き替えに匹敵するくらいの棒読みである。ジャッキー・チェンの石丸博也さん、合わせるのが大変だったろうなあと涙もちょちょぎれる。
 逆に言えば、宮崎駿の役者起用が決して「客寄せ」のためではないということが、まんま客寄せなこういう映画との対比で理解できるのである。世の宮崎駿バッシング、やっぱり「やっかみ」が入りすぎてるよなあ。


DVD『ゴジラ ファイナルボックス』を買ってしまったので、もう何十回見たか分からない『ゴジラ』シリーズを、一作目から順番に見ていくことにする。何度見返しても新しい発見があるのが「名作」たるゆえんだろう。
 とは言え、「第一作以外のゴジラをゴジラとは認めない」というコアなファンの付いている映画『ゴジラ』にも、欠点はいくらでも見受けられる。映画が神格化されてしまうと、良きにつけ悪しきに付け、批判自体がしにくくなるもので、半可通なオタクのちょっとした底の浅い批判などは一蹴されてしまう。「新作のゴジラ映画に比べてテンポが遅い」なんていうのは馬鹿もはなはだしく、若い役者には演技の密度が薄く、観客も演技を見抜く力が衰えているので、早いカット割りで誤魔化すしかなくなっているのである。コメンタリーでは宝田明が「志村喬や平田昭彦の演技プランがいかに綿密であったか」を語っているので、参照していただきたいものである。
 そういう感覚的な批判(印象批評は批評の出発点でしかないのだが、そういう基本も今の評論家やオタクは体得していないのである)ではなくて、映画の構造上のミスを挙げれば、例えば大戸島の「ゴジラ」伝説がネーミング以外にドラマにまるで関わっていないとか、志村喬の語る「ゴジラ保護論」も、言葉で語られるだけで、同じくドラマを盛り上げる葛藤としての役割を果たしていないとか、いろいろあるのである。私がこれまで読んだ『ゴジラ』批判の中で少しは納得できたのは、富野由悠季の「本編の演出が特撮シーンのことを全く考慮していない」というものであった。これは単純に「ゴジラとの目線が合っていない」「怪獣と人間との比率がおかしい」ということだけではなくて、普段の芝居を演出する際に、背景に「怪獣が本当に存在している」という実感を持って演出することができていない、ことを指しているのだろう。もっともそれが出来ている怪獣映画なんて、皆無に等しいのだが。
 瑕瑾はあれども、第一作『ゴジラ』がシリーズ中、唯一の傑作であり、オリジナルとしての価値があることは間違いないことで、「今見るとつまらないですよねえ」なんて言っていっぱしの批評家気取りになっているエセオタクとはもう私は話をしたくもないのである。
 ……とか言いながら、私も今回コメンタリーを聞いていて初めて気づいたことも多く、例えば電車の中でゴジラのニュースを知って、「いやねえ、また疎開しなくちゃいけないのかしら」とか暢気なことを言っていた女性(東静子)、ゴジラが初上陸するときに東京湾の遊覧船上で暢気に踊っていたのである。これはゴジラなどという荒唐無稽なものに対して、一般民衆が実はたいして気にも留めていなかった、という具体的な描写であり、だからこそいざゴジラが上陸してきたときに電車は動いているわ民衆は今更のように逃げ惑うわ、という「何でみんな逃げてないんだよ」という批判に対する答えにもなっているのだ。この第一作に限って言うなら、民衆が逃げ惑う描写は決して不自然ではない。
 あと、クレジットされてないので気がつかなかったが、冒頭の通信室のシーンで、藤木悠がチョイ役出演していた。こんなん気づかんわ(笑)。

 
テレビ民放で、平成3年月曜ドラマスペシャル、古谷一行主演の『八つ墓村』再放送を見る。これは本放映時に見逃していたもので、多治見辰也が鶴見辰吾、要蔵がジョニー大倉、春代が浅田美代子、久野医師が戸浦六宏、森美也子を夏木マリが演じているもの。
 もう何度となく原作の出来の悪さには言及しているので、どう映像化したって面白いものにはならないと分かった上で見てみたのだが、ちょっとびっくりしたのは、他の映像化の際には無視されることの多かった辰也の実父の行く末、それと犯人の最期が原作通りだったことである。これと市川崑版の『八つ墓村』を程よくブレンドすれば、原作の忠実な映像化になるのだが。どっちにしろ、真面目に映像化したら、どうしても四、五時間の大作にはなっちゃうので、今後もそんな映画が生まれることはありえないだろうけれどもね。
 

リニューアルになってから第三回目の『ドラえもん』、前後編30分ぶっ通しでの「どくさいスイッチ」のアニメ化というのは、「『ドラえもん』はのび太の言うままに道具を与えてばかりで教育上よくない」という批判をかわすためか、リニューアルで視聴率を落とすまいという判断から原作の名作をつるべ打ちで行こうという判断からか。来週放送予定作品が「成長した星野スミレ」が登場する「オールマイティーカード」だってことからも、後者じゃないかという気がする。
 職場でも「新声優はだめだ」とか騒いでる若い子がいて、独りよがりなオタクは少しは言葉を慎めよ、とも思うのだが、スタッフはどうせそんな雑音なんぞ気にもしてないだろう。『ドラえもん』も含めて、声優陣に対する「合ってる合ってない」論議に参加する気に私が全くならないのも、そういう雑音は番組が継続さえすれば自然に消えるからである。だいたい、「印象」だけで言うなら、石田国松、初代磯野カツオ、のらくろ、神勝平と大山のぶ代の声に親しんできた身にしてみれば、「ドラえもん=大山のぶ代」というイメージは私には(恐らくは私と同世代の『ドラえもん』第一世代の殆どにも)全くないのである。特に初期の大山のぶ代は、「ドラえもんの皮をかぶった国松」にしか聞こえなかった。
 正直、これまでさほど代表作のない(失礼)水田わさびさんのほうが、「機械だけれども親しみやすい声」という点で、よっぽどドラえもんに合っているように聞こえる。藤子・F・不二雄まんがの主人公は、旧『オバケのQ太郎』の曽我町子以来、代々「ちょっとダミ声」な人が演じるのが伝統になっているが、水田さんの声は新『オバQ』や『チンプイ』を演じた堀絢子さんの声質に近く、ちゃんと伝統を踏まえていると言える。「新声優許せん」の声は、ただの思い込みでしかない。個々人の印象批評がいかにアテにならないか、ということなのである。
 これはもう藤子Fファンとしてはっきり言っておいたほうがいいと思うので言うが、キャラデザイン、脚本、演出を含めて、今回のリニューアル版『ドラえもん』が、原作に最も近い『ドラえもん』であると言える。いや、藤子作品の映像化としても、格段にいい。みんな、新『ドラえもん』を“本気で”応援しよう。


夜、キャナルシティAMC13で、映画『Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?』。
 周防正行監督によるオリジナル版『Shall we ダンス?』が公開されたのは1996年。もう9年も前になる。ダンス好きのしげと当然のごとくに劇場まで足を運んだのだが、そのときは「俺たちも社交ダンス習おうか?」と二人して盛り上がるほどに感動した。けれど、今回のハリウッドリメイク版では、そこまでの感動は持ち得なかった。これは映画の出来が云々というより、やはり文化の違いであろうと思う。
 もうこれもハッキリ言っちゃうが、オリジナル『Shall we ダンス?』は、社交ダンスにハマッた「オタク映画」であったのだ。確かに役所広司もリチャード・ギアも、ダンスを始めたきっかけはダンス教師であるヒロインの憂い顔であった。しかし、いったんダンスにはまってしまったら、家庭もダンス教師もどうでもよくなって、「自分の趣味に走る」のが役所広司のサラリーマンであったのだ。これを「オタク」と呼ばずして何と言おう。今思うに、オリジナル版は、「全ての日本人の男のオトナにはオタク要素がある」と喝破した作品でもあった。だから女性が「オタクなんて嫌い」と思うことは、「一生、男なんて要らない」というに等しいのである。
 断言しよう、日本人の男は全てオタクかオタク予備陣である。
『オトナ帝国』のチャコとケンに感情移入する人間は確実にオタクであろうが、それと同じ感覚で、我々は杉山正平を応援していたのである。杉山は、「やっぱりおうちが一番」と、薔薇持ってスーザン・サランドンに再プロポーズするような軟弱なナンパ男ではないのだ。
 まあ、リメイク版もそう悪い映画ではないと思う。けれど、オリジナル版を見ずに今度のリメイク版から見ようと仰る方には、「日本映画のほうが面白いよ」と言っておきたいのである。客に言えば、オタク嫌いで表面的なロマンスにだけ惹かれる人は、リメイク版のほうが面白く見えるかもね。

2004年04月29日(木) 旅行前でも駆け込み映画鑑賞&ポエムの日々。
2003年04月29日(火) メモ日記/メモ日記な夜。
2001年04月29日(日) 涙涸れるまで語ろう/DVD『新しき土』


2005年04月28日(木) カリスマヒロインは生まれるか?(追加アリ)/『PLUTO(プルートウ) 02』豪華版

 懐具合がマジでヤバイ。
 原因は以前も日記に書いたことだが、しげがいきなり仕事を辞めてしまったことで、それまでは月々の車のローンはしげが自分で払っていたのだが、それが立ち行かなくなってしまったのである。車検だの何だの、そういうのも全て私の負担。そこに旅行だの何だの、以前から予定していた出金が重なったものだから、たまらない。「聞いてねえよ」と叫びたいくらいである。
 かてて加えて、「またかよ」と文句を言う気も失せてきたのだが、長引く不況で会社の経営が逼迫、この夏、またまた社員の給料がカットされることになってしまったのである。これで8年間昇給無し、どころか減給までされているのだから、昇給を当てにして考えていたあれやこれやの買い物を先送りにしまくっている。本当ならノートパソコンや5.1チャンネルオーディオは完備し、引越しだってしていたはずなのだが(いや、そこまでの給料は貰ってません。これは妄想です)。
 一応は私も「遊びにばかりお金使いまくってもなあ」と考えて、先月は一枚もDVDを買っていなかったのだが、それでも月末の収支決算では赤字が出るのである。いやまあ、その分芝居に行きまくってたから、金はやっぱり使っちゃってるのだけれども。無計画だとか金銭感覚が甘いと非難されても反論ができないのである。
 それにしてもローンを背負った状態がこれから先、一年以上も続くのであれば、ことは「苦しい」どころではなくなってくる。どうせ私が払うものならば、いちいちしげの口座に金を振り込んでいくのも面倒くさい。この際、車のローンは完納し、しげの通帳はまっさらにして、私の通帳のほうで金利の安いローンを会社に組んでもらうように切り替えることにする。要するに給料の前借りなんだが。
 その手続きで、今日はずっとあっちの銀行こっちの銀行と東奔西走である。転勤早々、仕事を同僚に頼み込む羽目になってしまったので、いささか心苦しかった。いや、この手続きだってしげに頼めなくはなかったのだが、またぞろ「やり方がわからん」である。全く、誰のために駆けずり回ってると思ってやがるんだ。

 
 角川映画が、久しぶりに新人オーディションを再開するって。
 「ソニー・ミュージック」と組んで大規模オーディション「ミス・フェニックス」を開催、グランプリ受賞者には主演映画&CDの同時デビューが約束されるという。
 思えば角川映画第三弾『野性の証明』で、やはりオーディションに受かった当時13歳の薬師丸ひろ子がデビューしたのが1978年のこと。それからもう27年が経っているわけで、所謂「角川三人娘」も揃って四十路に入ろうとしている。この三人(特に薬師丸ひろ子一人)が、どれだけ絶大な人気を誇っていたか、若い人たちにこれを説明することはなかなか難しい。なんたって薬師丸ひろ子は『Wの悲劇』(1985)『野蛮人のように』(1986)あたりまでは、「日本映画で唯一客を名前で呼べる女優」とまで言われていたのである。さながら松竹が『寅さん』だけでその屋台骨を支えていたように、角川映画は確実に、いや、日本映画全体が三人娘(特に薬師丸ひろ子)に牽引されていた時代があったのだ(「そうかあ?」なんて言ってスカすやつはブッコロス)。
 それが証拠に、1986年に三人娘が相次いで角川春樹事務所を離れると、角川映画自体がろくな企画を出せなくなってアニメに走るようになり、興行収入も激減、凋落していった(言っちゃなんだが、『サイレントメビウス』で宮崎アニメに対抗しようってのは無茶である)。角川が発行していた映画雑誌『バラエティ』は殆ど三人娘の宣伝誌と化していたが、あっという間に廃刊になった。逆に言えば一つの雑誌がスター数人によって支えられていたのだから、その人気たるや何と表現すればいいものか。
 大金かけた大作も当たらなくなり(『天と地と』は興行収入の額面ではヒットしていたように見えるが、協賛会社へのノルマチケットの売り付けが激しく、劇場は閑散としているという事態が生じて問題になった)、『ぼくらの七日間戦争』で宮沢りえを映画デビューさせたものの、製作と監督との間で確執を起こして次が続かず、それやこれやで新しいスターを模索しているうちに、既に子役として有名になっていた安達祐実に白羽の矢を立てて育てていこうとしたら(『恐竜物語 REX』)、角川春樹社長が麻薬取締法違反で逮捕である。
 こんなに分かりやすい転落ぶりもないが、角川映画に魅せられて(つか、薬師丸ひろ子と原田知世に入れ込んで)、出来が悪かろうがなんだろうが殆どの角川映画に足を運んでいた私にしてみれば、悲しささびしさもひとしおだったのである。
 角川映画はまさに三人娘とともにあった。それが角川映画のカラーでありブランドであった。角川歴彦社長のもと、大映も合併吸収し、再びヒット作も制作しつつある現在、新しい「角川アイドル」を発掘しようというのは当然の成り行きだろう。
 ちょいと気になるのは、「主演映画が『野性の証明』から『ぼくらの七日間戦争』までのヒット作からリメイクする」というくだりである。つまりは新しい企画が立てられないということで、新人抜擢の企画としては弱いんじゃないか。たとえば『野性の証明2007』なんてのに今更魅力を感じる客がいるのかどうか。ましてやもう、何度リメイクされたか知れない『ねらわれた学園』や『時をかける少女』を望むファンもいないんじゃないかと思うが。
 可能性があるのは、今度こそ赤川次郎の原作に忠実な形で、『セーラー服と機関銃』をライトにリメイクするとか、バックステージものに改変された『Wの悲劇』を原作通りミステリーにってとこか。『悪魔が来りて笛を吹く』や『悪霊島』とか、横溝ミステリーはヒロインものには向きそうにない。どれも一長一短というか、ちょいと地味だ。
 意表を突いて『幻魔大戦』実写映画化というのはどうだ。これならルナ姫という絶好のヒロインがいるわけだし、今度こそSFファンが長く待ち望んでいた「お月見」のシーンを映像化することができるのである。……つかさー、ほかにリメイクに値するようなヒット映画って、殆どないと思うんだけど。
 『金田一耕助の冒険』は無理だろうなあ。


 マンガ、浦沢直樹×手塚治虫『PLUTO(プルートウ) 02』豪華版(小学館)。
 あのおまけはないだろう、という不満はあるが、待望の第二巻がようやく発売。
 プルートウと対決する七人のロボットは今巻でヘラクレスが登場したのでほぼ揃い踏みである。やっぱりヘラクレスはマッチョになるのだなあ(笑)(エプシロンもチラッと登場)。
 原作レギュラーのお茶の水博士、田鷲警部、中村捜査課長、そしてついに登場のアトムの妹・ウランと、なんかもうファンとしてはワクワクを通り越してドキドキが喉までせりあがってくる感じ。お茶の水博士のデザインなんて、こりゃもう絶対この人勝田久の声で喋ってるよって言いたいくらいドンピシャなアレンジだ。
 その完成度の高さゆえに、最近はあえて批判する人々もいるようだけれども、そこまでヒネクレなくてもいいんじゃないかねえ。確かに漫画史上における最高傑作とまで言われりゃ、そりゃ持ちあげ過ぎってもんだろうとは思うけれども、これを越えるほどに面白いマンガが今どれだけあるのかって考えると、今現在、このマンガと出会えた至福を素直に感じてもよかろうと思うのである。
 確かに、浦沢直樹の絵の上手さを賞賛する人に対しては、私も「そんなに上手いか? 浦沢直樹」とちょっと皮肉の一つも言ってみたくはなる。一見、リアルで表情が豊かに見えはするが、実のところさほど微妙な表情を描写する技術に長けているわけではない。その表情パターンは意外なほどに幅が狭いのだ。だから、『YAWARA!』や『Happy!』のようなラブコメに徹したような作品だと、コメディ・リリーフを演じるキャラクターをうまく動かせず、いや、派手な表情をさせて無理に動かそうとして、かえって「浮く」状態を作ることになっていた。ジゴローも富士子も桃子もはしゃげばはしゃぐほどにストーリーを停滞させることが多く、鬱陶しくてかなわなかった。『パイナップルARMY』『MASTERキートン』『MONSTER』と続くシリアス路線が成功しているのは、「表情が少ないほうが物語にマッチして効果的だからである。『PLUTO』も当然その延長線上にあり、ゲジヒト刑事が常に暗く悲痛な表情をしているからこそ、ミステリアスなムードが保たれていると言えるのだ。
 だから、さほどマンガ好きでもない人が、「マンガを特に好きでもない自分がハマるくらいだから、これはマンガの中でも特に上質のマンガなのだ」と、マンガを誉めているように見えて実は蔑んでいる発言をするのを聞いたりすると、いささか胸糞が悪くなる思いとてするのである。
 “語り口”に関して言えば、同じSFミステリーである『デスノート』よりもかなり洗練されている。「外堀」はかなり埋められているが、肝心要のプルートウは未だに登場しない。フセインそっくりのダリウス14世は原作のチョチ・チョチ・アババ三世に当たるのか、いや、そもそも黒幕はなんとなくトリシア大統領のようにも見えるのだが、どうなのか、「ゴジ博士」とミスター・ルーズベルトは同一人物なのか、謎は尽きない。一番気になるのは、エプシロンはやっぱり女性ロボット? ってところなのだが、その謎が解明されるためにはまた半年待たねばならないのである。ああ、待ち遠しい。


 マンガ、細野不二彦『ギャラリーフェイク』32巻(完結/小学館)。
 表紙は無精ヒゲでやつれたくわえタバコの藤田玲司。悪徳商売のツケなのか、ついに藤田もホームレス? と勘ぐりたくなるくらい、最終巻にはおよそふさわしくないみっともなさだけれど、正真正銘、これが紛うことなき完結編である。
 何だかずいぶん分厚いなあと思ったら、318ページと、いつもより60ページくらい超過のボリュームだった。けれど中身がそれに見合うだけのものかというと、ややネタ切れ気味。ビザの書き換えに帰国したサラとの連絡が付かなくなり、それと呼応するように藤田はアルカイダの資金調達に関与していたという容疑で逮捕されてしまう。果たして、藤田をハメたのはサラなのか? ……ってな展開なんだけど、これまでの付かず離れずの藤田とサラの関係を見てりゃあよ、そんなバカなことは万が一にもありえないんで、サスペンスにも何にもならないのである。ネタもまた幻のモナ・リザで、二番煎じの印象をぬぐえない。これまでの登場キャラクターの再登場もサービスのつもりなのかもしれないが、三田村小夜子館長(冒頭では茶髪で登場するが、すぐに黒髪に戻した)、トレジャーハンターのラモス(結局、こいつの彼女はどうなったんだ?)、スコットランド・ヤードのロジャー・ワーナー警部(残念ながら、今回、変装はなし)、国際美術品窃盗団リーダーのカルロス(以前より顔がさらにコワくなってる)、サラの従兄弟・カジム(未だにサラに未練タラタラ)、調香師・ジャン・ボール・香本(キャラ的にDr.WHOOと区別が付かん)など、“無理やり出してる”印象は否めない。
 で、結局、藤田とサラの二人の関係がどうなったかというと、「実はまだギャラリーフェイクは続いているのです」で、何の変化もないのであった。何じゃそりゃ。連載開始年月日を考えればサラだってもう30歳を過ぎてるだろう、いい加減、結婚しろよ、エッチがタブーな少年マンガじゃあるまいし、と思っていたら、作中に「あの戦火から5年」なんて台詞が出てきた。つまり二人が出会った1991年の「傷ついた『ひまわり』」事件から実は数年しか経っていないということなのである。歴史的な事件も何度も扱ってるから、作中の時制が21世紀になってないはずはないんだけど、そこはもう、あまり突っ込まないように、ということなんだろう。このラストはもしかして何年か経ったときに「特別完結編」とか出すための伏線かなあとも思うのである。
 9話にわたるラスト・エピソードよりも、私は「生キタ、カイタ」で、夭折した天才画家にして詩人、探偵作家である村山槐多(むらやま・かいた)を取り上げてくれたのが嬉しかった。マンガの中でも紹介されているが、槐多の絵はまさしく情熱のほとばしるままに描かれており、「汗だくのリビドーにまみれている」のである。
 「槐多の絵に触れた人間はなぜか魅入られる」の言葉どおり、高校時代に槐多にハマった私は、部活の会誌に稚拙な「村山槐多論」まで書いてしまった。まさしく「若気の至り」である。
 マンガでは紹介されていなかったが、合掌し放尿する僧侶の絵などは、自制できない情念のほとばしりをストレートすぎるほどに描いていて、この絵も私は大好きだ。槐多が描いた僧侶の陰茎は中途半端に勃起してさえいるのである。
 全集が絶版になって久しかったが、「美少年サライノの首」「悪魔の舌」「魔童子伝」「魔猿伝」「殺人行者」など、その代表作は、『村山槐多 耽美怪奇全集』(学研M文庫)として一昨年再版された。近年のふにゃふにゃなボーイズラブ小説に飽き足らない方には、槐多のねっとりとした耽美を一度味わっていただきたいものである。
 槐多の詩や小説を偏愛し、彼同様、「美少年趣味」であった江戸川乱歩の書斎には、生前、槐多の『二少年図』が飾られていた。今、その絵は世田谷文学館に寄贈されているそうである。

2004年04月28日(水) 出張の中身はヒ・ミ・ツ。
2003年04月28日(月) メモ日記/インモラルな夜。
2001年04月28日(土) 掲示板開設!/映画『バンパイアハンターD』ほか。


2005年04月27日(水) 楽しんでなきゃデマなんて流れるわきゃないのだ。/『物情騒然。人生は五十一からぁ戞幣林信彦)

 昨夜は11時を過ぎても周囲はピクとも揺れず、ほら見ろやっぱり地震が来るなんてデマじゃねえかと意気揚々としていたのだが、朝方出勤して、同僚から「今日、午後二時に震度七の地震が来るそうですよ」と言われてまた脱力した。外れた予言の定番、「予言の延長」である。しかも天気の挨拶をするみたいに会う人会う人「地震」「地震」「地震」で、全くなんでみんなこんなに地震が好きかとタメイキしか出て来ない。もちろん、二時を過ぎたって何の揺れも起こらなかったのだが、そしたらまた「今晩11時という説もあるそうですよ」と言い出すやつが。そりゃ、いつか地震は来るってば。こないだの余震のときも事前に騒いだやつはいないんだから、予言なんてものはみんな迷信なのである。
 ウワサについては新聞でも取り上げられていて、福岡管区気象台には、連日約百件の問い合わせが続いていて、ホテルに“避難”する住民もいるそうな。避難って、ホテルに行くくらいのことで避難になるのか? どうせ避難するなら福岡自体離れたらどうなんかねえ。こういう人たちはとても本当に神経過敏になってるとは思えず、地震を口実にホテル住まいをちょっとやってみたかっただけなんじゃないかと勘繰りたくなる。
 気象台は当然「デマに惑わされず冷静に対応を」と呼び掛けているということだが、こういうウワサが留まらないあたり(私ゃ、職場で話題にする気にもならなかったけどよ)、世間から「常識」が失われているってことなんであろう。
 噂の内容として新聞に紹介されていたのはつぎのようなもの。
 「二十七日午前二時ごろに震度7の大地震がくる」
 日にち、時間をここまで設定できる科学的予知は未だに開発されていない。しかも震度は震源の中心がどこにあるか、また地形などにによっても変わるので、「震度7の地震が来る」という表現は成り立たない。強いて言うならマグネチュードのほうだろう。ウワサを広めてるやつに小学生程度の科学的知識もないことがこれで明らかである。
 「自衛隊が地震に備えて緊急態勢を敷いた」
 春日基地じゃ特に目立った準備はしてなかったみたいだが? つか、予測できる事態に対して敷くのが「緊急態勢」なので、この伝で行くなら自衛隊は「市民に何も知らせないで緊急態勢を敷きながら、その情報は世間にダダ漏れだった」ってことになるのだが、そんな間抜けな自衛隊が何の役に立つか。
 「大学の先生が講義で地震を予知した」
 「予知ができる講義」ってどんな講義じゃ。一生懸命それらしい根拠を作ろうとしてやっきになっている様子が見えて、哀れですらある。
 入院患者から「同室の患者が『大地震が来る』と言って、実家に帰る手続きをしている。本当なのか」との電話もあったということだが、こんなのは別の病院に変わったほうがよかないか。


 演劇関係の仕事をしていると、ちょくちょく芝居やコンサート、イベントなどの安売りチケットを入手するチャンスにも恵まれるのであるが、春先にはその案内がまとめてうちに届く。だいたい十公演から二十公演くらいまとめて来るので、見たい芝居が二本や三本は確実にあるのが嬉しい。
 こないだ一緒に芝居を見に行ったときに、細川嬢とお友達から、今度芝居の安売り案内が来たら紹介してほしいと頼まれていたので、仕事帰りに、鴉丸嬢、細川嬢のバイト先を訪ねて資料を手渡す。細川嬢には、一応喜んでいただけたようではあるが、果たしてお気に召す舞台があったかどうかは分からない。
 割引と言っても舞台は元値が五千円とか一万円とかバカ高いから、二、三割安くなっても四千円とか八千円とかするのである。場所が北九州だったりすると、交通費も二、三千円かかる。なかなかちょっと暇つぶしに映画でも、と気軽に行ける類のものではないのだが、二十公演くらいある中には、二千円程度の安い公演もある。せっかくの機会だから、友達誘って行ってみたいものがあればいいのだが。
 公演の中には、「ボリショイサーカス」なんてのもあったのだが、これなんかは定期的に来日していて、協賛がやたらあるせいか、えらく安い。もっとも、今時の若い人にサーカスに対する“郷愁”はそうそう求められないような気がする。既に私がチケットを定額で買ってしまったシティボーイズの『メンタル三兄弟の恋』もしっかり割引きチケットが案内されていて、これなどはそんなにハズレることはないからお勧めではあるのだが、安売りでも四千円ちょっとして、やっぱり会場は「リバーウォーク」の「北九州芸術劇場」なのである。全く、どうして「これぞ」って芝居、北九州にばかり来るようになっちゃったのかねえ。

 世の中に趣味娯楽の類は数あれど、「芝居にハマる」というのは、劇団の地方巡業が当たり前だった昔(っても戦前です)ならばいざ知らず、今ではかなり特殊な部類に属すると思う。やはり若いときに本当に「よい芝居」に出会って、心揺さぶられる思いを実感しない限りは、そうそう定期的に芝居を見ようなんて気にはなれないものである。
 舞台はどうやったって記録には残せない。演劇関係者の誰もが口にする通り、ビデオで録画しておいても、それはナマの舞台とは似て非なるもので、舞台の魅力の十分の一、百分の一も伝えてはいない。まさしく「そこにいる」ことで誰もが共有する「空気」が、ビデオ画像からは決して感じられないのである。
 だから舞台とは、いささかの誇張もない一期一会の「夢」の体験なのであり、はかなく消えるしかない運命を「観客が舞台を見た直後から」担わされているものである。すなわちそこにある「滅びの美」とでも言うべきもの――を見出す感性を持った人でないと、本来、舞台には関われないものなのではなかろうか。思うに、若いころは私以上に舞台の面白さにとり憑かれ(主にヅカだったけど)、その魅力を得々として私に語っていた亡母の職業は「床屋」だったのであり、生前、何かにつけ自分の仕事を「形の残らぬ芸術」だと主張していた。私の芝居好きは、やはり母の血なのかもしれない、と多少のため息もつきつつ、物思いにふける昨今なのである。
 私は、映画を人に勧めることはあっても、舞台は、滅多なことがない限り、殆ど勧めることはない。理由はもうお分かりだろうが、「感性」のない人に芝居の面白さを語ることくらい、むなしいことはないのである。


 父の店でしげと合流、三人で連れ立って、「焼肉のさかい」。
 メニューは任せる、と父が言うので、ファミリーセット(ロース、カルビ、骨付きカルビ、牛ホルモン、上タン、鶏肉、ソーセージ、焼き野菜など)に上ロースとハラミを追加。ともかくしげの「赤み肉」好きに合わせたのだが、それでもしげには物足りなかったらしく、さらにロースを二人前頼んだ。いくら父の驕りだからと言っても、ちょっと食いすぎとちゃうか。父は相変わらず医者に逆らって酒飲んでるので、食はそう進んでいないし、私も野菜中心で肉は一人前程度しか食べていない。どう少なく見積もっても、しげ一人で五人前くらいは食っているのである。これで栄養のバランスが保てるわきゃあない。

 先般の父と姉との決定的な衝突以来、話題はどうしても今後の店の扱いとか身の振り方のことになってしまう。往年の腕ほどではなくなっているとは言え、まだ父でなければと仰ってくださるお客さんは多く、姉が辞めても細々ながら店は続けて行きたい由を再度繰り返す。となれば単純に私の扶養家族として職場から手当てを貰えるかどうかも分からないし、同居するかどうかで支給額も変わってくる。
 「そんなこと言われても、先がどうなるかオレだって分からん」と父は言うのだが、それじゃあ申請のしようだってない。私としては姉も交えて一度きちんと話をしてみたい、と思っているのだが、それも父は「せんでいい」と苦々しげに言うのである。全く、どれほど感情的な諍いをしたもんだか。
 話題を変えて、時機を見て愛知万博に行かないか、と誘ってみたが、「大阪の万博で懲りたからなあ」と気乗り薄である。
 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』で、子供時代のひろしが体験したのと全く同じく、私もアメリカ館の月の石が見たくて長い行列に並んだのだが、一時間経っても二時間経っても微動だにしない行列に父は痺れを切らせて、「自分ひとりでも並ぶ」と嫌がる私を無理やり連れて行列を離れたのだ。
 「で、何を見に連れて行かされたかって、住友館の“未来の床屋の椅子”だもんね」と悪態をついたら、「そやったかな? もう覚えとらん」と首をひねっている。自分の都合の悪いことはことほどさように忘れ去るものなのである。


 小林信彦『物情騒然。人生は五十一からぁ戞癖現嬖幻法法
 「週間文春」連載エッセイの2001年度版の文庫化。
 タイトルの「物情騒然」は「世間の騒々しいさま。不穏なさま」という意味で、これを省略して「物騒」と使うのが一般的なのだが、落語の枕にもよく使われていた「何やら物騒な世の中になって参りましたな」、という言い回し、最近はとんと聞かなくなってしまった。今や「物騒」がすっかり日常化してしまったせいだろう。“ちょっとした”事故や殺人事件では、もう新聞の片隅の囲み記事にもならない。
 それでも2001年と言えば真っ先にあの「9.11」同時多発テロが想起される年であり、いかにもさようなタイトルネーミングであるのだが、小林さんはあえて「ぼくにとって、今年最大の事件は<9.11>ならぬ<10.11>であった」と述べる。もちろん、古今亭志ん朝師匠の死去である。
 恐らくは「全世界を震撼させた大事件と、一個人の死を同列に扱うとは何事か」と憤懣を覚えた人もいたのではないかと思われるが、歴史は国際政治や経済のみで語られていいものではない。志ん朝師匠の死は、日本文化の最も重要な底流の一つが“完全に”消滅してしまったことを示しているのであり、同時多発テロよりもより我々庶民の日常に肉薄している。日本人としてのアイデンティティー、心の拠りどころを失ったに等しいのだ。
 だからこそ私には、小林さんの言が、自己の趣味の世界を偏愛しているだけのオタク的感性の産物ではないことが“分かる”。地方出身者である私にも、志ん朝師匠の使う江戸弁と、それ以降の噺家の江戸弁もどきが「違う」ことは一“聞”瞭然であった。しかし、そのことを“肌で感じられる”世代は、多分、我々四十代が最後なのであろう。悪口ではなく、一つの「事実」として理解してもらいたいのだが、今の若い人たちが、私から見ればとても日本人だとは思えないのも、そういう感覚が“分からなく”なっているからである。実際、「物を知らない」なんてレベルではないんだからねえ。

 もちろん、一つ一つのエッセイを読んでいくと、小林さんの言にも違和感を覚えることも少なくないのだが(最近の「血液型性格診断」に関する肯定的意見(?)などはその例だ)、概ね「そうだよなあ」と納得するのは、人間同士の共感や理解、絆と言ったものが、文化的背景の共有なしではありえない、という視点を七十の坂を越えた小林さんが忘れてはいないからだ。若い人たちがどんなに「自分たちにだって“心”はある」と力説しようが、裏打ちされた文化なくして「心」は育つものではない。『セカチュー』以降、我々から見れば幼稚で安っぽい擬似純愛ドラマでしかないバカ話が流行るのも、その程度で満足してしまえるほどに若い人たちの心が「薄く」なっているからである。小説も、映画も、舞台も、明治のころ(あるいはギリギリ戦前まで)に作られた作品は伝統的文化に裏打ちされていて、現代のそれよりももっと濃密で、それでいて重苦しくはなく、粋だったものなのだが。綿矢りさの『蹴りたい背中』も、その「擬似恋愛」ぶりが若い人たちの(特にオタクの)イマドキな「現象」として面白くは感じられても、小説としては「それから先」を描かなければ意味ないじゃん、としか私には感じられないのである。
 映画『シックス・センス』について、小林さんは、あの「意外性のあるラスト」について「映画のルールに従えば」推測は充分可能であり、「この程度のシナリオが珍重されるハリウッドはかなり荒れている」と批判する。もちろん、その指摘は全く「正しい」のだが(私も伏線まるでなしの『アンブレイカブル』を除けば、M・ナイト・シャマランの映画のトリックはその「へたくそさ」ゆえに開巻五分で見破ってまえている)、本来、あの映画は、そんな「意外性」を強調する方向にではなくて、ハーレイ・ジョエル・オスメント少年が、霊界お助け人として目覚めていく過程を描くことをもっとキモにすべきだったと思う(『花田少年史』みたいなシリーズものにすればよかったのにねえ)。妙にこの「どんでん返し」だけが巷間の話題に上ってしまったために、その後のミステリー映画は、ただ物語をひっくり返せばいいだろう、という安易な模倣に堕するものが増えることになってしまった。『愛してる、愛してない』『アイデンティティー』『箪笥』などはまあ出来がいいほうであったが、『シークレット・ウィンドウ』や『ハイド・アンド・シーク』などは全く無残な有様であった。
 「二匹目、三匹目の泥鰌」を狙うのは映画界の昔からの悪弊であるが、もちろんこの「どんでん返しがあればいい」物語の流行の責任が、脚本のバランスをうまく取れなかった「新人監督」のM・ナイト・シャマランにあることには疑う余地がない。しかし、映画を見慣れていない若くて未熟な客が増えすぎていることにそもそもの問題はあるのだし、ましてや小林さんを初めとして、トリックを見破っただけでそれを嬉々として語る評論家たちの「野暮ったさ」が、かえって客の反発を煽っていることも感じないではいられない。ハリウッド映画が「荒れた」のはここ最近の出来事ではない。乱雑な脚本がまるで名作であるかのように喧伝されて堂々とまかり通るようになったのは『スター・ウォーズ』のころからそうだった。字数に制限のあるエッセイでは無理なことは承知の上で言うのだが、映画を本気で批評しようと思ったら、「自分が気付いたこと」だけではなくて、「このように作るべき」という点にまで踏み込まないと、ただの揚げ足取りになりかねないのである。

 小林さんが今巻で取り上げている人々の中で、もう一人忘れてはならないのは(毎年取り上げてはいらっしゃるのだが)、映画評論家の双葉十三郎氏である。
 私も氏の『ぼくの採点表』シリーズは、映画をどういう切り口で“読んで”いけばよいかの教科書として参考にさせてもらっている。つか、たとえシロウトでもね、これ読んでない人間が映画の批評を書こうって、そりゃおこがましいって言うか、出発点から間違ってるんだわ。“斬人斬馬剣”の辛口批評家として著名な氏は、この年、菊池寛賞を受賞している。それだけでも氏が“ただの映画評論家だけの人ではない”ことが分かるが、ともかく、A級、B級、C級と、映画に貴賤を付けずに批評する氏の姿勢は、いずれかの分野に偏りがちな昨今の映画評論家モドキは襟を正して範とすべきであろう。双葉さんは、海外の推理小説に通暁し、翻訳家でもあり、アメリカのジャズも戦前から熱心に聴いていた。そんな八面六臂の活躍ぶりの動機が全て、「勉強しよう」とか「既成の権威に対する抵抗」とか、そんな辛気臭いものではなくて、ただ「面白いから」、というのだから、これを「粋」と呼ばずして、何を「粋」と言おう。
 1932年生まれの小林さんが、1931年公開のゲーリー・クーパー主演の『市街』を見ていないことに、1910年生まれの双葉さんは驚く。「そんなの見られるわけないじゃないか」と、若い人ならいかにも自分が正しい、といった口調で主張するだろうが、作品を批評するということは、そんな言い訳などが通用するものではない。双葉さんとて超人ではないのだから、“全ての映画を見ることなど不可能”だろうが、“それでも見ている”ことが映画評論の前提となるのである。映画を「好き」になるというのはそういうことだ。屈託なく「あ、それ、見てないっスね」なんて言ってるやつは、映画が実は嫌いなのである。そんなヤカラはもう、厚顔無恥としか言いようがないのだが、私も実は『市街』は未見で、これはもう「すいません」と謝るしかないのであった。

2004年04月27日(火) お客さまに感謝。してるんだって、ほんとに。
2003年04月27日(日) メモ日記/アニメとマンガな一日。
2002年04月27日(土) 東京再訪 浸安襪凌好献屮衄術館/アニメ『くじらとり』ほか……“NEW”!
2001年04月27日(金) 祝、2000ヒット/映画『チキンラン』


2005年04月26日(火) 安達祐実は30代を演じる夢を見るのか?/『原作完全版 魔法使いサリー』(横山光輝)

 兵庫県尼崎市のJR福知山線快速電車の脱線事故の続報。
 午後10時までに確認された死者はついに76人、負傷者も456人に上っているが、まだ十数人の乗客が1両目に閉じ込められており、生存反応はなく、さらに死者数は増える見込みだという。その中には事故の鍵を握る高見隆二郎運転士も含まれているが、救助員が声をかけても全く応答がないということである。
 今日になって判明した事実だが、この運転士、事故直前に手前の伊丹駅で停止位置を約「40メートル」オーバーランし、いったんバックして停車していたのを、車掌と口裏を合わせて「8メートル」と虚偽報告していた。ところがこれが妙な話なのだが、オーバーランの距離が10メートル前後でも40メートルでも、社内処分の重さは変わらないそうなのである。だとすれば、なぜ虚偽の報告を行う必要があったのか、そこにこの運転士の「精神的な弱さ」を感じないではいられない。運転士暦はまだほんの11ヶ月で、2000年4月の入社以来、五年間に計三回、訓告などの処分を受けていて、その中には車掌時代に「目がうつろだ」と乗客から指摘を受けた、なんてのまである。事故の原因が運転士にあるのかないのか、そこは未だに不明なのだが、いずれにせよ、そんなやつを運転士にしちゃったこと自体、ダメだろうによ。
 でもこれでまた一つ分かったことだけど、やはりJRも「常識」なんて通用しない世界なのである。つかよー、「常識」が残っている会社なんてさー、いったい日本のどこにあるというんだろうね。
 事故原因の「憶測」については、昨日にも増して情報が錯綜している。JR西日本が昨日は堂々と拡大写真で紹介していた「置き石」の痕跡らしい「粉砕痕」、今日の現場検証では、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が「現場でブレーキ痕や石の粉砕痕を確認できなかった」と発表して、双方の意見は完全に食い違ってしまった。JR西日本は早速その「先走り」を反省して、正式な調査結果が出るまでは余計な情報公開はしないことを言わざるを得なくなった。
 どっちにしろ「置き石」だけでは脱線する可能性は低いとのことなので、JR西日本の態度は「先走り」とか「勇み足」というよりは、全くの「責任転嫁」を図ろうとしたものだと解釈されても仕方がなく、事故はますます「人災」の様相を色濃くしてきている。やりきれない。


 先ごろ黒田アーサーとの破局が伝えられた女優の安達祐実。
 いや、そっちのニュースはどうでもいいのだが、ここしばらくドラマや映画のいい役に恵まれてないなあと心配していたところが(私が心配したところでどうなるものではないという突っ込みは置いといて)、9月2、3日放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『積木くずし 真相』に主演することになったとか。
 ニュースで初めて知ったのだが、昭和58年に放送された高部知子主演版の前作『積木くずし』は、ドラマ史上最高視聴率45.3%を記録していたんだそうな。まあ、やたら再放送やりまくるなあと思っちゃいたが、45%ぽっちが最高視聴率になるんかね? 昭和30年代には50%以上稼いでたドラマがもっとあったような気がするけど。
今回、タイトルに『真相』と加わっている通り、ドラマは「家族の再生」を謳ってハッピーエンドで終わった前作とは異なり、原作者の穂積隆信氏が昨年発表した『由香里の死 そして愛 積木くずし終章』をもとにして、『積木くずし』がベストセラーになってしまったために起きた悲劇、印税をめぐる夫婦のいさかいや離婚、娘の再びの非行など、主人公たちの“その後”を描くことになるとか。著書に書かれているとおり、ヒロインのモデルとなった長女の由香里さんは、一昨年、心不全のために亡くなっている。拒食症が高じた末の死だったそうだが、この人くらい「幸薄い人生」という言葉が思い浮かんでしまう人もそうはいない。芸能界活動を試みた時期もあったようだが、光が当たったことは殆どなかったように思う。ごく普通の幸せを掴むチャンスは何度となくあったと思われるのに、運命の歯車は最後まで狂いっぱなしだったということなのだろうか。
 それはさておき(まだ本題ではなかったのである)、驚いちゃったのは、今度のドラマ化が「前作『積木くずし』も含んだ上でのドラマ化」だったことだ。つまり現在23歳の安達祐美は、穂積由香里さんの「13歳から亡くなる35歳までを演じる」ことになるのである。
 普通、こういう場合は「十歳も年下の役を演じるには無理があるだろう」と考えるほうが先に立つもんだろう。年を上に見せるのはメイク一つで何とかなるが、年下に見せるのはかなり難しいからだ。舞台なら私も八十歳の杉村春子や森光子が十代の少女を演じるのを見てきたが、これは舞台が「見立て」の芸術だから成立することだ。基本的に現実と近接している映画ではなかなかそういう例はない。たまにあるものは目も当てられないものが殆どである。某映画で40代の岩下志麻のセーラー服を見たときには石を投げてやりたくなった。
 しかし、安達祐実の場合、心配なのは全くの逆で、「どんなに老けメイクしても35歳の役は無理なんじゃないか」ということなのである。毀誉褒貶激しいが、私は安達祐実という女優の演技力は、決して『家なき子』や『ガラスの仮面』程度で計れるものではないと思っている。いや、それなりに上手い子だと思ってはいたが、特にそう感じたのは、『いつ見ても波瀾万丈』や、黒田アーサーとの熱愛報道で追いかけられていたときの「普段の顔」の時の「演技」が素晴らしかったからで、ああ、こういう“演技をすることに屈託のない子”は、育てりゃ確実に伸びる、と思ったのである。
 正直、あの童顔と身長の低さが幅広い役を演じるのにはネックになっているが、逆にそれを武器にして、必ずしも主役にこだわらずにちょっと変わった役を演じさせれば、かなりハマるものもあろうかと思うのである。
 『積木くずし』のヒロインも、『家なき子』の延長線上に含まれる役どころで、安達祐実なら楽に演じられるだろうと思う。しかし、ヒネた見方をすれば、ああいう不良少女の役は、そこそこの役者なら誰でも演じられるのだ。別に蒼井優でも石原さとみでも市川由衣でも上戸彩でも上野樹里でも香椎由宇でも加藤夏季でも栗山千明でも酒井彩名でも沢尻エリカでも鈴木杏でも長澤まさみでも平山あやでも深田恭子でも藤谷文子でも前田愛でも本仮屋ユイカでも桃井はるこ(笑)でも構わない。あびる優なら旬だ。この「別に安達祐実がやらなくても」感が強いのが、今の安達祐実の弱点だと思う。
 それに言っちゃなんだが、この手の「実録非行少女」ものは製作者の意図はいざ知らず、受け手は殆ど興味本位、少女の常軌を逸した暴力なんて対岸の火事で、「まあ、なんてひどい親ざんしょ、うちの子はあんなふうに育たなくて、よい子に育ってくれて、嬉しいわ。これも私の教育のたまものよねえ。おほほほほ」と自己正当化の材料にしているに過ぎない。そして本当に家庭崩壊してしまっている家は、「あの程度で不幸ぶるな」と見向きもしないだろう。所詮は他人の家の出来事なのである。そんな企画のドラマにいくら出たってキャリアになろうとは思われない。かと言って、朝の連ドラとか大河ドラマとか火サスとか土ワイとかミニシリーズとかにチョイ役で出たって、すぐに忘れられる。ここはやはり自分の役に合った「映画」にドンと出てほしいのだけれど、いかんせん、今のひ弱な映画界では、いったん色の付いた役者をもう一度洗いなおすだけの底力がないのである(だから新人が出ては消えを繰り返しているのである。上戸彩もいつまで持つか)。必然、安達祐実はどうでもいいような無駄な仕事ばかりこなすハメに陥っているのだ。もったいないったらありゃしない。私ゃ安達祐実は「タンスにゴン」の沢口靖子みたいな三のセンを狙っていったほうが一番いいと思ってるんだけど、誰かプロデューサーに進言してくれないか。いや、ムリだろうけど。


 夜、8時ごろ、父から電話がある。
 ちょうど寝入りばなだったので、ムニャムニャしながら受話器を取ったが、向こうは息せき切ったように慌ててこう言った。
 「今晩、11時に地震が起きるげな。知っとうや?」
 「はあ?」
 アクビが混じっていたので、「ふぁあ?」みたいな返事になったが、ともかくイカレた話である。どういうことか、父に問いただしてみたところ、昨日から今日にかけて、店に来るお客さん、みんながみんな「今日か明日、震度七強の地震がある」と口にしているというのである。
 「お前の職場では誰も何も言っとらんや?」
 「さあ、知らんなあ。もしかしたら喋りよったかもしれんけど、僕はいちいち人のうわさに聞き耳とか立てんもんね。大体、うわさの出所はどこね。インターネットとかやないと?」
 「知らん。ばってん、地震雲が出たて言うけん」
 「あ、だったら、それデマ。昔から『地震雲』とか言われよるばってん、全部迷信やもん」
 「でも姉ちゃんは今日、明日、一時的に『疎開する』て言いようぞ」
 「……ばか?」
 しばらく押し問答したが、私が呆れている気配が伝わったのか、父はまだ何となく不承知な口ぶりで電話を切った。「デマに踊らされるな」ってのは、普通、親が子に言うものであろう。予言とか占いとか、オカルトの類は一切信じなかった父が、いったいどうしてしまったものか、これも年を取ったということなのか、そう思うと何だかまた寂しくなる。
 ただ、ここで注が必要になるのだが、父の場合は高齢なせいでこのデマにも何がしかの不安を感じて電話をかけてきたものであろうが、このウワサをまことしやかに右から左へと流している福岡人の大半は、この状況を“かなり”楽しんでいる、ということである。福岡人・博多人気質を知らないヒョーロンカなんかは、多分、地震に対する不安がウワサを呼んでいるのだろうと分析すると思うが、それは福岡人の大馬鹿度を見誤っている。博多人にだってデリケートな部分はあるのだが、こと、“お祭り方面”に関しては、それはまるで発揮されないのである。
 以前も書いたとおり、一般常識から判断するなら信じがたいほどに、福岡人の大半は被災してなお「命が助かったんなら、これも楽しかったイベント」と前向きに考えちゃっているのだ。嘘ではない。私は「今度はどんくらい(震度)のが来るやろか」「死なんどきゃいいと」という台詞を何人もの人間から腐るほど聞いた。もちろん本当に家をなくした人たちはとてもそんな悠長なことを言う気にはならないだろうが、「地震が何か!」と息巻いてる単細胞も結構多いのだ。デマでもいいから地震を待望する気分がウワサに火をつけているのである。
 あまり言いたかないことだが、いつぞや、作家の栗本薫が、北朝鮮の拉致被害者に関して「滅多にない経験ができて羨ましい」と言った件に関して、世情は「不謹慎な」と激怒したのに対して、世間がどうして栗本薫に腹を立てるのか分からん、という態度を示した福岡人を何人か知っている。ことほどさように、福岡人の「ハレ」を好む気質は、世間の常識と乖離しているのである。まあ、それがいい面に働く面もありはするんだけどねえ。
 私はと言えば博多人には珍しいくらい繊細な神経の持ち主であるので、すっかり不眠症に陥っている。いや、ホントに人からデリケートって言われること多いんだわ。他県人から見ればそうは見えないだろうが、判断基準が全然違うんで。


 物寂しくなって、ふと、東京のグータロウ君に電話をかける。
 一応、6月に上京する予定の日を伝える用件もあったのだが、内実は「電話の向こうの親父の背中が小さく感じられた」からだ。地震のデマの話を伝えると、グータロウ君も笑っていた。
 「暢気だねえ」
 「博多人は遊んでるよ。地震の不安なんて全然ない」
 理解しようったって、理解のしようもなかろうが、世の中には不思議なことは確かにあるのだ。関口君。
話題はついでに『名探偵コナン 水平線上の陰謀<ストラテジー>』や、『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』に移って、二人で憤懣をぶつけ合う。まあ、『コナン』の出来は毎年のことだから初めから期待しちゃいなかったのだが、『クレしん』はそのレベルダウンの程度が激しすぎたので、少しばかり口吻がきつくなる。
 「アイデアはいいのだが、それがドラマに昇華されてない」
 「台詞が取ってつけたようで説得力がない」
 「どうしてあそこで××××って展開にならないんだよ!」
 考えてみたら、これまでの十二作、多少の出来不出来はあっても全て秀作・佳作・傑作ぞろいだったというのが奇跡だったのである。監督代われとまでは言わないから、世間の不評も考えて、ムトウユージ監督には来年は「映画」を作ってもらいたい。観客は「紙芝居」が見たいわけじゃないのだ。


 手塚治虫原作『ブラック・ジャックマガジン』(秋田書店)。
 17人のマンガ家さんに『ブラック・ジャック』を描かせるという試み。まあ、秋田書店でしかこの企画を立てられないのは分かるけれど、小学館の『PLUTO』を見ているだけに、秋田が抱えるマンガ家さんの「層の薄さ」が、そのままマンガの出来に反映していて、読んでていささか辛い。
 リメイクがオリジナルを越えるためには、そこに何か新しい視点を持つ必然性が生じるのだが、なんかどのマンガ家さんも「物まね大行進」の域を超えてなくて、到底オリジナルの感動を伝える作品として昇華されていないのである。マンガ家として旬は過ぎてしまっている永井豪、青池保子両御大の作品はもう「悲惨」以外の何物でもない。誰も永井豪の絵柄で描かれたサファイアなんか見たいと思っちゃいないだろうし、ブラック・ジャックに少佐や伯爵と競演してほしいとも望んではいないと思う。サービスと独りよがりを混同してないか。『魔王神ガロン』のときも思ったことだが、こういうのはもう、珍品としての価値しか見出せない。
 それでもこの企画が途絶えもせずに続いているのは、やはり秋田書店だからだろう。集英社でジャンプのマンガ家さんに描かせてたら、アンケート最下位続きであっという間に企画そのものが暗礁に乗り上げるに違いない。それでも尾田栄一郎や小畑健、秋本治、許斐剛、和月伸宏、冨樫義博といった人たちが手塚マンガを原作に描いたら……と夢想したほうがよっぽど面白く思えるのは、それだけ秋田書店のマンガ誌が凋落してるってことなんである。『少年チャンピオン』購読者には悪いが、『がきデカ』連載当事の『チャンピオン』の勢いったら、もう現在の比じゃなかったんだからねえ。
 それにしても、水島新司が描いてないのは、さすがにこれは……と判断されたのかどうか。私ゃ秋田で『ブラック・ジャック』を本気で描かせるのなら、水島さんに如く人はいないと思うんだが。


 マンガ、横山光輝『原作完全版 魔法使いサリー』(講談社)。
 虫プロから発行されてた一巻本は昔読んでいたので、原作が意外と短いことや(作者が多忙で途中で打ち切ったのである)、よっちゃん、スミレちゃんのキャラデザインがアニメとかなり違うこと(よっちゃんはかなり美人。スミレちゃんもヘアスタイルがまるで違う)、トンチンカンは一話しか登場せず(アニメに登場したのが先で、原作がそれに合わせたため)、ポロンちゃんは全く登場しない(原作がアニメより先に終了したため)など、異動を取り上げていくとキリがない。
 だからこそ原作を楽しむ余地があるわけで、これまで二度もアニメ化されている横山光輝一方の代表作であるにもかかわらず、原作が完全な形で発行されてこなかったというのは、何か事情があったのだろうか。今時の速いテンポのマンガと違って、のんびりした印象のマンガなので、売れない、と判断されたのかもしれないが。
 今回初収録の『魔術師ジョー』と『さよならサリー』の二話が、なぜ以前の単行本ではカットされたのか、そのあたりの事情も定かではない。ページ合わせのためだとしても、他の短編と合わせて一巻にする手もあるし、この二話が選ばれた基準も今はもう分からない。
 推測でモノを言うしかないが、『魔術師ジョー』はアル中になった往年の名マジシャンを、サリーが“魔法を殆ど使わずに”治す話であり、サリーはホントにジョーを一室に閉じ込めるのである。当事の少女マンガの中で考えれば結構ハードな展開で、単行本化が敬遠されたのはこのあたりの事情があるのではなかろうか。アニメでもポロンが実は人間の捨て子だったエピソードなど、かなりハードな話は多かったから、気にすることはないと思うのだが。
 初めて読んだ「最終回」、台風で死んだ少女を助けるためにパパに頼み込んで交換条件を出され、サリーは「悪魔の国(原作では「魔法の国」ではない)」に帰る。よっちゃん、スミレちゃんへの挨拶もなく、いささか寂しい。アニメ版では魔法使いであることがバレたサリーとよっちゃんスミレちゃんとの間で悲しい別れが長々と演出されていたが、原作はあっさりしたものである。というか、第一話の密度に比べると、いささか手を抜いている感がすることは否定できない。『サリー』がアニメ化されていなかったら原作はまだまだ続いていた可能性は高く、もしそうだったらもっと叙情たっぷりな最終回が見られたかもしれないという気がどうしてもしてしまって、原作とアニメのコラボレーションがもう一つうまくいっていなかったのだなあと残念に思うのである。

2004年04月26日(月) まあ比較的平穏だった一日。理由は明白(~_~;)。
2003年04月26日(土) メモ日記/口にチャックな夜。
2002年04月26日(金) アッパレ再び/『学園戦記ムリョウ』7巻(完結/佐藤竜雄・滝沢ひろゆき)ほか……“NEW”!
2001年04月26日(木) イシャはどこだ!/映画『黒蜥蜴』(1962年・大映)ほか


2005年04月25日(月) 多分、世界はいやになるくらい狭い/『アガペ』2巻(鹿島潤・石黒正数)

 人の縁(えにし)はどこでどう繋がっているか分からぬ、とは、これまでの人生でも多々実感したことであったが、新しい職場で気が合った同僚の女性(とりあえずAさんと呼んでおく)、なんとホモオタさんの大学の一年後輩であった。
 「ホモオタちゃんは(と、Aさんは先輩である彼を「ちゃん」付けで呼ぶのである)、大学生のころは髪が長くてスマートだったんですよ。性格はあの通りの性格でしたが」
とのこと。現在のホモオタ氏は言っちゃ何だが外見は「ハゲた赤豚」である。性格の歪みが体型にも現れちゃったんじゃないかな。
 当然、ホモオタさんの数々の「行状」についてもAさんは先刻ご承知で、私以外に「被害」にあった方々ともお知り合いだったのだが、私が「部屋に誘われたんで行ってみたらセーラー服姿のホモオタさんに襲われかけたんですよ」という話をしたら、さすがにホモオタさんがバイセクシャルだということまでは知らなかったらしく、目を丸くなされていた。
 「私が知ってるホモオタさんの好きな人は女性でしたが。Sさんという方の奥さんで」
 「Sさんの奥さんも知ってますよ。私の家内の知り合いでしたから。その方に相手にされなくて、私に乗り換えたんです」
 「……好みの幅の広い人なんですねえ」
 いや実際、そのSさんの奥さんというのは昔から評判の美人で、密かに懸想している男性は数知れず、その「後釜」が私だというのはちょっと気の毒だったのである(まあ当時は私も一応は20代でしたが)。
 実を言うと、当時ホモオタさんは、私と家内が接近するのも様々な形で妨害しようとした形跡がある。直接的には私に家内の悪口を言いまくり、「あんな女にいつまでもかかずらわっていると、あなたが不幸になりますよ」とまで言ってのけていた。確かにしげは昔からろくでもないあほんだらではあったが、私への一途な思いは嘘偽りのないものであったから、それを無碍にないがしろにする気はなかった。
 だから、たとえ一見「親切や忠告のつもりで」しげの批判をされても、それは私にとってはおためごかしかいわれのない中傷にしか聞こえないし、そういうモノイイに対しては私が猛烈に反発する人間であることくらい、私を見ていれば気がつきそうなものである。障碍が多いほど恋は燃え上がるという「ロミオとジュリエット効果」みたいなもんですかね。ところが、ホモオタさんにはそのあたりの初歩的な人間の機微すら一向に理解できなかったようなのだ。恐らくそのころにはもう妄想が果てしなくエスカレートしていて、自制できない状態にまで陥っていたのであろう。
 ほかにも当時、ホモオタさんが、私と家内に関するとてもここには書けないような胸糞が悪くなるようなデマを流していたことも、後に誘導尋問で引っ掛けてホモオタさん自身から聞き出した。なんとしてでも私としげの間を裂きたかったのだろうが、結果は全く反対に作用したわけである。だからもともと実る関係ではないのだから、早々に諦めてくれりゃ自分が傷つかずにすんだだろうにねえ。
 ホモオタさん、中傷ハガキの件でも分かるとおり、法に触れるギリギリの線を綱渡りする嫌がらせを実行できるあたり、決してただの馬鹿ではない。しかし、策略家ではあるがそれが実を結んでいないという点ではやはり間が抜けているのである。それはやはり、ホモオタさんが自我肥大を起こして自己を天才と錯覚してしまっているために、結局、人間の心理などは探れば探るほどフクザツカイキであって、いくら読もうとしたって読み切れるものではないという事実に未だに気づいていないからだろうと思う。
 「こうすれば人はこう動く」「人は簡単に洗脳できる」「他人を洗脳できる自分は天才なのだ」「だから他人はみな自分にひれ伏さねばならない」
 一度、そう思い込んでしまったら、他人が自分の思うようにならないと、それは自分がごく普通の人間であって、他人に対してたいした影響力は持ち得ないというあたりまえの事実を受け入れることができなくなる。結果、一種のヒステリー状態を経てその人は他人に対して常に攻撃的になり、人を敵か味方かだけでしか判断できなくなり、自分の不遇は常に他人の陰謀のせいだと思い込むようになり、果ては自分にはこの世ならぬものの姿が見える、自分は神の使徒だ、宇宙意志と交信でき、天変地異だって起こせる、自分に逆らうと地獄に落とすぞ、とまで言い放つようになる。ホモオタさんはそこまで行ってしまった。ホモオタさんに脅され続けて、ついに神経を病んだ女性がいることも私は知っている。
 今日、Aさんから聞いた話によると、ホモオタさんが一時期「研修」の名目で現場を離れていたのは、そういう「被害者」の方の身内の一人が、「告訴してやる!」と激怒して当時のホモオタさんの職場にねじ込み、それを聞きつけた本社が慌てて取った措置だったのだそうだ。
 本社の幹部ども、私にはやたら「告訴したらどうか」と打電しておきながら、実際にキレた人が出てきたら急に及び腰になって、こういう「穏便な」処分でコトを済ませてしまおうとしたのである。ということは、やはり本社はホモオタさんを完全に解雇する気はなかった、と判断せざるを得ない。精神に異常を来たしているという程度のことでは、解雇できないと言うか、既知外相手の厳しい処分は自分たちの身にも被害が及ぶ危険性があると判断して「逃げた」のだ(以前、馬鹿正直にそう口にした支社長もいたから、これは確実である)。
 全く、厄介なのはホモオタさんよりもこういう自己保身に走る本社のほうかもしれない。いっそのことホモオタさんの本名も、本社の名前も暴露してしまいたくなるが、内部告発して不当解雇かそこまでいかなくても減俸処分食らって、これから先、何年も本社と裁判で係争していくとか、そこまでのエネルギーは私にはないし、ホモオタさんが未だに私にちょっかいかけてくるのは、そういうぐちゃぐちゃした事態を召喚したいという思惑もあるのだろうと思われる。「毒を食らわば皿まで」と言うか、「死なばもろとも」と言うか、「窮鼠猫を噛む」と言うか、ホモオタさん、もう精神的にギリギリのところまで追いつめられちゃってるんじゃないかなあ。
 本社の幹部連中も私やほかの被害者にババ引かせたいと考えて事態を放置している糞狸の群れである。その掌の上でいいように転がされたかないから、こっちも命令通りに動いているように見せかけながら実は全く動いていないのだが、その間、ホモオタさんもそれなりに責任のある立場にい続けているわけで、被害者はどんどん拡大されているのである。
 ホモオタさんの話題、これからも尽きることはなさそうであるが、カタストロフが来たときゃ、本社はどう責任取るんだろうかね。それ以前にさっさと定年退職しちまおうって腹か。くそったれめ。


 「現実」と書いて「気が滅入る」と読みたくなる今日この頃であるが、またも悲惨なニュースが夕刊の大見出しに。「脱線」と聞くとすぐに「トリオ」と続けたくなるのは我々の世代の悲しい性(さが)であるが、ここまで大規模な脱線だとシャレにならないのである。NHKは、放送予定だった『きよしとこの夜』に列車の歌を取り上げるコーナーがあるため放送延期だそうな。また、BSフジは『きかんしゃトーマス』の4話分に、列車の脱線シーンがあるため、これも差し替えとか。相変わらずの「考えすぎ」だが(私ゃ地震直後に映画で『日本沈没』見たって放送局に文句付けたりゃしないぞ)、まあ、どうでもいいことにまで文句付けて自分の立ち位置確認しないと不安な人って、世間に腐るほどいるからねえ。
 今日、午前9時20分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線の、塚口〜尼崎駅間で、宝塚発・同志社前行きの快速電車(7両)が、速度オーバーで右カーブを曲がりきれず、前5両が脱線して、1、2両目が線路東側にあるマンション「エフュージョン尼崎」(9階建て、47室)北側の立体駐車場をなぎ倒したうえ、マンション1階に激突し、折れ曲がった。
 電車には乗客約580人が乗っていたが、夜までに乗客のうち計57人の死亡を確認、負傷者は440人に上っているという。57+440=497なら、残りの80人ほどは無事だったのかというとそうではなくて、夜になっても、 1、2両目に多数の乗客が閉じ込められたまま、救助活動が続けられているのである。
 事故そのものの痛ましさはもう、言葉にしようもないのだが、やっぱり気に食わないのは、マスコミの報道のはしゃぎっぷりである。
 既に「平成に入って最悪の鉄道事故」との報道がなされているが、台風や地震の規模の話とは違うのである。「脱線」の原因は、考えるまでもなく十中八九「人災」なのだから、事故が起きた事実だけで「最悪」なのは説明しなくたって分かる。屋上屋を重ねるように悲惨さを強調するのはただの「悪趣味」だ。
 その「人災」についての情報も、事故が起きた直後からどんどん流されている。
 曰く、「福知山線のATSは、旧国鉄時代の装置をJR西日本が独自に改良した『ATS―SW』と呼ばれる最も古いタイプで、運転士が赤信号を見落としたり、車止めに衝突しそうになった際しか、自動的にブレーキがかからず、カーブなどでの速度超過は防げない」とか、「事故を起こした高見隆二郎運転士(23)は、見習い期間を含め、過去に3度、オーバーラン等で訓告や厳重注意処分を受けていて、技術内容の点検や適性検査、心理テストなどを受講し、再び復帰していた」とか。
 もしかしたらそういったことどもが事故の重要な原因であったのかもしれないが、ここまで早く断定的な報道がなされると、マスコミは本当に正確な情報を伝えているのだろうか、という疑念が沸いてくる。つまり、「ほかに原因がある場合」の可能性が見落とされてしまうのである。
 ごく常識的に考えれば(悲しいことに私の常識がいつもいつも世間の常識と重なるわけではない場合も多いのだが)、事故の原因は、負傷者の救出の後、現場検証や生存者の証言などを聴取した後でなければ、簡単に結論は出せないはずである。すなわち、事故直後の現段階で、たとえどんなに信憑性、説得力のあるような原因が提示されたからと言っても、それは決して「憶測」の域を出るものではない。情報は常に早けりゃいいと言うものではないのだ。
 しかしマスコミがしばしば「情報の正確さ」よりも「早さ」のほうを優先しがちなのは、「内容」よりも「スクープ」性にこそ価値観を置いており、世間もまたそれを求めていて、だからこそテレビは高視聴率を取ることができて、新聞は売り上げを増すと信じられているからである。でも「高視聴率」ったって、人気ドラマだって今時ゃせいぜい20%行くか行かないか、「スクープ」ったって、ニュースはどこの局でも報道内容は同じじゃないか。80%以上が見てるわけでもない「スクープ」にそこまで価値を置くっていうのはマスコミがやはり強迫観念に捉われてしまっているとしか言えないのではないか。
 マスコミの現状は、言ってみれば、既知外の群れが「報道」という美名の下で「他人の不幸」を喜んでいる状況にほかならないわけで、テレビ新聞雑誌全て「東スポ」化していると言ってもよかろう。そりゃ、一誌や二誌が「東スポ」なら別に文句もないのだが、全部が全部荘なら、飽き飽きするってもんである。事故直後にコメントを発表する「識者」とやらも、ちったあ今喋るべきことかどうか判断しろよ。沢木耕太郎は「私が事件のコメントを全て断るのは、『分からない』からだ」とはっきり言い切ってるぞ。


 マンガ、鹿島潤原作・石黒正数作画『アガペ』2巻(メディアファクトリー)。
 1巻の表紙を見た段階では、「利他的で無償な愛(=アガペ)の持ち主」という設定の犯罪交渉人(ネゴシエーター)、一乗はるかの献身的な活躍を描く、というユメもキボーもあるミヤザキハヤオな展開になると思っていたのだが(だって絵柄も東映動画っぽかったんだもん)、なんかもう、とんでもない展開になってきました。
 交渉に失敗して死人を二人も出してしまったはるか、精神的ショックから失語症になったばかりか、仲間であり好意も抱いていた同僚、武市涼宇の存在も忘れてしまう。いや、単なる記憶喪失ではなく、武市の存在を脳に「書き込み」することすら出来なくなってしまうのだ。
 ……とまあ、ここまではもうこれまでマンガでも小説でも映画でもいくらでもある展開なのだけれど、はるかの愛が得られないと知った武市が、突然「自分が事件を起こせばはるかは交渉人として自分を愛するようになってくれる」と、「東京ドームにサリン撒くぞ」といきなり犯罪者になってしまったのには正直唖然。「八百屋お七かよ、お前は!」 (笑) 
 「神の愛」なんて、幻想でしかないものを、生身の人間の肉体に宿らせようとする作者たちの意欲はまあ、立派かなあと思わないでもないのだが、2巻でもう、手詰まりになりつつあるようである。はるか、全然「無償の愛」の体現者には見えなくなってるし。エゴイストじゃなきゃ「特定の人物の記憶だけを無くす」なんて都合のいい記憶喪失に陥るわきゃないでしょ。事件の「締めくくり」も、果たして武市を救ったことになったのかどうか。武市が更なる犯罪に走ったっておかしかないと思うが。
 けれどもし、作者たちが、「『アガペ』なんてない」という結論に持っていくことを目論んでいるのだとしたら、一応は物語としての整合性はあると言えるのだが、今更そんな分かりきった「事実」を結末に持ってこられたって、楽しくも何ともないのである。ここはやっぱり、はるかが「アガペ」を取り戻す展開に無理でも持っていかなきゃならんところなのだが、そういう手段、ちゃんと考え付いてるのかねえ。

2004年04月25日(日) おじょうさま、ごめんあそばせ。
2003年04月25日(金) メモ日記/シカゴな夜。
2002年04月25日(木) あの人にだけわかるナニの話(^^*) /DVD『エイリアン9 DVD対策BOX』……“NEW”!
2001年04月25日(水) おむすびころりん/『最終兵器彼女』4巻(高橋しん)ほか


2005年04月20日(水) まただ。(追加あり)

 ふざけんな馬鹿野郎、また震度5強だぞ。つい今しがた、またしげを山の中から掘り出したばかりだ。部屋の中はこないだよりも更にひどい惨状。私もしげもちょっとあちこちかすり傷は負ってるけど、今回も命は無事だ。外は雨の中、また救急車のサイレンが。電車は全線止まってるので仕事に行けるかどうかは分からんが、現況はこんなとこ。



 目は覚めていたのだ。
 「日本映画専門チャンネル」で、『亡霊怪猫屋敷』をみうらじゅんの解説目当てで録画予約していたのがちょうど6時に始まっていた。
 目は覚めていたけれども、朝風呂に入るのはいつも六時半ごろ。寝つきはいいが寝起きはよくないほうなので、布団の中で起きようか起きまいか、うだうだしていたところだった。
 午前6時11分。状況は一月前の本震のときと同じ、いや、それ以上だった。前回は落ちなかった棚の上のビデオが山崩れを起こし、スピーカーがテレビを直撃して転がり落ちた。慌てて飛び起き、落ちてくる本をよける。隣室でしげが悲鳴を上げたが、助けになど行けない。揺れが収まるのを祈るしかないのだ。
 居間の床が一月前と全く同じ惨状になった後、しげに「大丈夫か?」と声をかけた。
  「たふけて〜」と“猿轡をかまされたような“くぐもった声が聞こえる。崩れた本の山を掻き分けて隣室を覗くと、しげは一月前以上の本の山に埋もれて、何とか顔だけを覗かせていた。「出られんか?」と聞いたら、かろうじて左手を出して、「足が痛い。全然動かん」と言った。口の前にやはり本が落ちてきているので、声が聞こえにくかったのだ。
 「もう来るの分かったら何ですぐに逃げないかな」
 「分かったけど、起きなきゃって思った時にはもう雪崩れてきてるんだもん」
 どうやら愚痴を言う元気は残っていたようである。前回同様、しげを何とか掘り出したが、震度は確実に前回よりも大きかった。しげの部屋のテレビは棚から斜めに傾き転げかけていて、もう少しでしげを直撃するところだった。
 既視感。また外で救急車のサイレンがなっていたが、もちろんそれは錯覚ではなく、現実なのであった。

 震源はやはり福岡県西方沖だが、かなり湾岸に近い位置で起きたとのこと。博多区は前回の本震では震度5弱だったが、今回は震度5強。余震とは言え、実質は今回の方が本震のようなものである。ただ、津波警報が出されなかったことは前回よりも少しはマシだったと言えるかもしれない。

 今度も携帯もメールもまるで通じない。真っ先に父の携帯、店に連絡を取ろうとしたが、前回同様、これがまるで繋がらない。自宅の固定電話は完全に断線していてウンともスンとも言わない。こうなったら直接現場に行くしかないと、車に乗って出かけることにする。どうせ電車は普通だろうから、父が無事ならしげに職場までそのまま送ってもらおうと考えていた。
 自分ではまあまあ冷静なつもりでいたが、実際にはかなり慌てていたらしい。
 「エレベーターは動くかどうか危険だから、歩いて降りよう」
 「うん」
 と会話した直後、私はエレベーターの下りのボタンを押していた(あとでこのエレベーターは業者の点検を受けていた。私たちが乗ったときには一応、動いたからよかったもののの、実際にはやはり調子が悪くなっていたらしい。確かにキイキイ軋む音がしていたし、もしかしたらうっかり閉じ込められていたかもしれないのである。あほだよホントに)。

 表通りは地震後30分で既に渋滞になっていたので、裏道を博多駅方面に走る。父の店に到着したのが7時半ごろ。幸い、父も姉も無事だった。けれど、マンションの屋上のタンクは倒れたかどうかしたと言う。博多区の被害はやはり前回よりもひどそうだった。

 本音を言うと部屋を片付けないと今晩寝る場所もないので、出勤なんぞはしたくなかったのだ。しかし今日はかなり重要な用件の出張もあって、おいそれと休むわけにはいかなかった。けれどもこの状況でどれくらいの社員が出勤しているものかと疑いつつも職場に駆けつけてみると、60人か80人くらいいる社員のうち、集合したのはわずかに10人ほど。当然、仕事になんぞなりゃしないのだが、それでもどうやって来たんだか、支社長は「昼までは仕事をします」と言って、、お茶を濁す程度の作業しか捗らないにもかかわらず、出勤してきた少数の社員をこき使ってくれたのである。人の情というものがないよ、今度の支社(まあ、ある支社のほうが少ないのだが)。

 出張は午後からだが、JRの復旧は全く目途が立たず。それは「予想の範囲内(笑)」なので、実はしげを会社に連れてきて、そのまま待たせていた。待合室で一人ぽつねんと5時間あまりほったらかしとくのは正直、胸が痛んだのだが、これはもう天災のなせる業であるし、緊急事態なのでどうにもしようがない。車の運転が出来ないと、こういうときに一番迷惑をかけてしまうのだが、これとても目が悪いのは生まれつきなので、誰を恨もうにも恨めないのである。

 帰宅は5時半、それから夜まではひたすら部屋の片付け。一時は疲れ果てて父のマンションに泊めてもらおうかとも考えたが、8時半ごろにはとりあえず横になれる程度の床は掘り出すことができた。正直、また山崩れを起こすことを考えると、ただ本を積み上げるだけでは怖いのだが、収納棚が限界に来ているので、ほかにどうにも手段の取りようがないのである。


 劇団の関係者との連絡は、夕方までにほほ取れて、全員、無事を確認した。
 確認が一番遅れたのは鴉丸嬢だが、昼夜逆転の生活をしている鴉丸嬢、地震の瞬間は爆睡していたそうである。鴉丸嬢、結構神経は細いほうだと思っていたのだが、あれで眠っていられたとというのは、もしかしたらかなり「大物」なのかもしれない。
 夜には義父も安否を問い合わせてくる。多分、十年くらいお会いしていないし、電話も恐らくは半年か一年ぶりだろう。もちろんしげのことを心配してかけてきたのだが、「代わりましょうか?」と言ったら「いや、いいよ」と断られた。この親子にもいろいろあって、普通に会話することができない。何とかならんものかとは思うのだが、何とかなったらなったで何ともならない事態にもなりそうで、なかなか問題は難しいのである。

 テレビを点けると、ニュース番組で地震の専門家とやらが、「余震は収まってくると思いますが、まだ震度4程度の地震が二、三ヶ月以内のうちに起こらないとも言えませんので、注意してください」なんてことを言っている。
 「注意しろ」って、注意したってどでかい地震が一発来たらどうしようもなかろうに、この人は何を能天気なこと言ってるのか、と腹立たしくなる。だいたいこんな台詞、シロウトでも言えるではないか。専門家を名乗るなら、せめて70%くらいの確率で地震を予知してほしいものだが、どうにも科学とやらはなまずよりも役立たず学問のようである。

 余震は今も続いている。


〔訂正〕
 烏丸嬢から、「地震の瞬間には起きてたよ」と訂正の連絡がありました。私からのメールを受け取ったのは地震後しばらくしてで、回線が混乱したせいで遅れたらしいのです(だから直接通話はダメでもメールなら大丈夫という報道は間違いなのである)。ちょうどそのときは「寝ていた」という意味だったんですね。
 「地震でも爆睡する女じゃないよー」ということなので、ここに慎んで訂正させていただきます。

2004年04月20日(火) 今日はぶっくたびれてるので短い。
2003年04月20日(日) メモ日記/壊れていく夜。
2002年04月20日(土) スゲーナ・スゴイデス!/『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』ほか
2001年04月20日(金) ただいま治療中/『クラッシャージョウ』(細野不二彦)ほか


2005年04月10日(日) 当人には悲劇、他人には喜劇/『夢幻紳士【幻想篇】』(高橋葉介)

 昨9日、鹿児島市武岡の防空壕跡と見られる洞窟内で、焚き火をした市立武岡中学校2年生の男子生徒4人が一酸化炭素中毒を起こして死亡。
 最初にこのニュースを聞いたときには、あんな狭い空間で焚き火なんかしたらそりゃ窒息だってするだろう、中学生にもなって、その程度の科学知識もなかったのか、と、ご遺族の方には申し訳ないが、またぞろ「学力低下」の四文字がアタマの上に浮かんでしまった。無遠慮でデリカシーのかけらもない感想であるが、そう思っちゃったのは事実なので、人非人との批判は甘んじて受けたい。
 今日になって、4人のうちの2人は、以前もこの洞窟内で火を焚いて遊んでいたことが判明したとか。その時点で別に何も異状がなかったのなら、洞窟とは言っても比較的通気性はよかったのかもしれない。少年たちは恐らくは「前も大丈夫だったから」と「油断」してしまったのだろうが、前だって多少は煙いとか何とか、異状はあっただろうから、これはやはり子供たちの不注意であったと言うしかない。今回は火種にした段ボールなどが充分に燃えなかったせいで、一酸化炭素濃度が急激に高まったということである。気づいたときには煙に巻かれて、身動きできなくなってしまったのだろう。
 亡くなられた4人には気の毒だが、結局これはただの不幸な事故である。昔から「探検ごっこ」に興じる子供はいくらでもいて、それこそ崖から落ちたり川で流されたり猪に襲われたり火に巻かれたり遭難したり神隠しに遭ったり、命を落とした子供たちも決して少なくはなかった。悲しむべきこと、痛ましい事故ではあるが、危険を承知の「探検」である以上、全ては少年たちの自業自得でしかなく、誰かに責を求めることもできない。
 ところがこの「ありふれた事故」が、今朝の新聞では一面のトップを飾っているのである。あたら若い命が失われたことを悼む気持ちが加味されているのかもしれないが、だからと言って、大見出しで報道しなければならない意義が奈辺にあるのか、私にはそれがよく分からない。最初にこのニュースを知ったのは昨日の夜、yahooのニュースで見たのだったが、ネット上での記事は全てベタ記事なので、三面記事程度のものだと思って読み流してしまったくらいなのである。
 新聞が未だに「公器」であるのなら、私の個人的な感覚と世間の常識とがそこまで乖離してしまったということになるのだろうか。それともこの事件にも子供たちが死に至った社会的な道義というものが存在しているのだろうか。購読者の「公憤」を喚起する何かしらの要素があるというのだろうか。想像するにそれは、「子供たちが危険地域に立ち入っていたことに気づかなかった、あるいは気づいていても放置していた親や教師など大人たちの責任」とか、「防空壕跡を埋め立てもせずに放置していた土地管理者の責任」とか、そんなところにあるのかもしれない。けれどいくら「危ないから止めろ」と注意したところで、子供は大人の目を盗んで「冒険」してしまうものだし、子供にとっての危険地帯なんて、その辺にいくらでも転がっているのである。この事件を大々的に報道するのなら、子供が道路へ飛び出して一人車にはねられるたびに一面トップに持ってこなければ、“釣り合いが取れない”のではなかろうか。
 私がどうにも気に入らないのは、実のところ新聞などのメディアは、社会的な義憤とかそういったものにこの事故の報道価値を見ているわけではないのではないか、という点なのである。つまりは、殺人とか強盗とか誘拐とか、まさしくワイドショー的な扇情的事件のひとつとして、もっとハッキリ言ってしまえば、死んだ子供たちの愚かさ加減を笑い者にする感覚が無意識的に報道の背景にあって、面白おかしく報道しているように思えてならないのである。
 いや、確かに子供たちが愚かであるのは事実であるし、親がお茶の間で子供に向かって「あんな馬鹿なことしちゃダメですよ」と戒めるきっかけとして使えるかもしれない。けれどもだからといって被害者をここまで晒し者にするほどの事件なのか? これは、という疑問がどうしても脳裏から排除できないのである。
 もちろん我々人間は本質的にドス黒いものを常に内部に宿している存在ではある。馬鹿を見てあざ笑う心理は醜くはあるが、だからと言って、これを全面的かつ無条件に否定することは、人間の存在自体を否定することになりかねない。だから我々は日常を維持するために、時にそういった「心の暗部」が外部に流出しようとするのを抑制し、なだめすかし、飼いならしつつ何とか過ごしている。しかし今回の報道姿勢は、その醜さがあまりにも露骨に流出してしまっているとは言えまいか。これは「社会」自体が人間の欲望や恨みや妬みや狂気を「飼いならす方法」を既に見失っている証拠ではないのか。
 ……と、ちょっと不安に駆られたような書き方をしてしまったが、過剰報道をしているのは一部の新聞くらいのもので、世間的には「そんな事件があったの。ふーん」で終わっているような気配ではある。なるほど、それが「普通」だ。「よくある事件のひとつ」として新聞報道なんか気にせずに流すのが、この場合の「世間知」ってものだよねえと、私の「古い感覚」ではそう思っちゃうんですけど、もしかしたら若い人は、こういう事件を見たり聞いたりするのは何よりも楽しいんですかね。


 日曜の朝は『仮面ライダー響鬼』、今回は十一之巻 「呑み込む壁」。
 一話も欠かさずよく見てるなあ、オレ。こうなるとDVDすら発売されたら買いたくなってしまいそうだが、考えてみたら『仮面ライダー』シリーズは一番好きな旧本郷ライダーですらLD、DVDは持っていないのである(エアチェックのビデオテープだけ)。気に入らないところもないわけではないのにこんなに入れ込んでるのはなぜなのかまだ自分でもよく分かってないのだが、それを自己確認するためにもついつい見ちゃうのである。
 ついに明日夢も高校生。制服を今一つ着慣れていない様子なのが初々しくてよい。新学期に合わせるかのように、「猛士」側も「魔化魍」側も、急激と言っていいくらいの新展開があったのが今回の話。ダブルライダー揃い踏みのワリに、ドラマ展開自体はまったりしていた前回までとは打って変わったようである。
 ディスクアニマル開発者である滝澤みどり(梅宮万紗子)と明日夢との出会いはまさしく「出会いがしら」でいささか強引だけれども、明日夢がいよいよ「猛士」と深く関わっていくためには必要な展開であろうか。ただこのみどりさん、キャラクターとして香須実とカブってる部分があって、初登場のワリにはちょっと印象が薄い。今後の展開でもう少し突っ込んだ扱いをしないと無駄キャラになりそうな心配があるけれど、まあ私は日菜佳の方が好みなのでどっちゃでもよろし(笑)。
 敵方では「幹部」っぽい黒づくめの男が登場。なんだこいつはブラック司令(『ウルトラマンレオ』)か、と思っちゃったが、いつまでも単発的な戦いばかりじゃドラマが続かないし、敵さんにもやはり組織的な行動が必要だろう。ただこれもデザイン的にはありきたりで、もしかしたらあの黒服の中に斬新な衣装が隠されているのかもしれないが、今のところは「変なやつが出てきたな」程度のインパクトしかない。これも「面白くしてくれよ、頼むよ」という期待で見ていきたいところだ。……それはそうと、今回の魔化魍、食虫植物っぽいけど、「塗り壁」なのかね?
 ラストで明日夢が「たちばな」の秘密の壁に呑み込まれて落ちていくカットと、響鬼がヨロイを纏った童子たちになすすべもなくやられて崖を転落していくカットがシンクロする演出は秀逸。響鬼の危機感が相殺されてるんで、また「ライダーっぽくない」と怒るファンもいるかもしれないけれど、もう響鬼ってどんなにやられても悲壮感のカケラもないキャラとして認知されてると思うぞ。細川茂樹さんと栩原楽人くんの脱力した「あ〜〜〜〜〜」という悲鳴がかぶるのがGood(笑)。
 もう一つ、さりげない台詞だけれど今回のお気に入りは、松山さんの息子に「おにいちゃん」と呼ばれてヒビキが「おじさんでいいよ」と答えるシーン。日常普通に見られるシーンだけれど、ドラマでこういうやり取りを描いた例は意外に少ない。たいていは逆パターンの、「おじさん」と呼ばれて「おじさんじゃない、おにいちゃんと呼べ」と「若さ」を強要する陳腐なシーンが描かれることが多いのである。つまりはヒビキが自ら「おじさん」であることを引き受けていることを端的に示した台詞であって、当然これは将来的に明日夢との師弟関係も暗示しているのであろう。なにより、子供にとっての「大人」が今の世に必要だと訴えるスタッフの姿勢も表しているように思える。ドラマだけじゃなくて、、現実の「おじさん」たちも、堂々と「おじさん」であることを引き受けてほしいものだけれどもね。


 夜、8時半ごろ、またまた大き目の余震。
 さすがに少しは雪崩れた家具や本類を片付けないと、と、床を片付けた矢先にこれである。今度もパソコンの前に座っていたしげの手の上に棚からDVDが落ちてきて直撃。でもしげは「いてぇぇぇぇ!」と大仰に騒ぐので、かえって悲壮感に欠けている。よけろよそれくらい。
 それにしてもこの余震の数の頻繁さは何なのだ。今度の余震もかなり大きくて、マグニチュードは4.8、余震としては3月22日のM5.4に次ぐ2番目の規模、余震で震度4が観測されたのはこれで4回目だということである。西方沖の断層が活性化しているだけでなくて、福岡の地盤自体にあちこちガタが来てるんじゃないかね、これ。
 そんな風に心配し始めると、余震以上の本震が来ることもあるかなあという疑惑をどうしても捨てられなくなる。地震以前から計画していた引越し、本気で考えなきゃならんかとも思うが、いかんせん夏場まではどうにも動けない。その間にデカイのが来ないことを祈るしかないのだ。


 マンガ、高橋葉介『夢幻紳士【幻想篇】』(早川書房)。
 『マンガ少年版』『リュウ版(冒険編)』『怪奇編』『外伝』(更には『帝都大戦』『学校怪談』のゲスト出演も)と続いてきた『夢幻紳士』シリーズの最新作。掲載紙は「ミステリマガジン」で、ついにミステリとしてきちんと評価されるところにまで来たか、と、第一作のころからのファンとしては感慨無量である。
 「幅広の黒帽子、全身も黒服の男」というイメージだけが共通していて、作品ごとにひょうきんだったり純情だったりと変化して、作者自身からも「夢幻魔実也氏はそれぞれ別人」と言われてしまってはいるが、『怪奇編』の中盤あたりから、ジト目で煙草吸いで女たらしなイメージはだいたい固まっている(笑)。全く、何でこんな外道が女性にモテまくるのか、作者ならずとも、こんな陰険で卑劣でそのくせ妖しいくらいに美形なんてやつが現実に存在していたら背中から蹴り倒してやりたいくらいだ。
 けれど今回の魔実也氏の最大の特徴は、彼が「実在していない」という点だろう。すなわち魔実也氏は主人公の“僕”の心の中にしか存在していない。事件が起これば“僕”の心の中から「出てきて」解決するのだが、それは“僕”がそのように思い込んでいるだけであって、現実には“僕”自身が行っているのである。
 つまりこれはいわゆる「脳内探偵」ものなのであるが、本格ミステリとしてこれが秀逸なのは、やはりその「オチ」のつけ方だろう(もちろんネタばらしはしない)。
 何と言うか、実に複雑な気分なのは、このネタ、そしてオチに至るまで、私ゃ昔から考えていたんだわ。つか、実際に戯曲にも書いた。その戯曲を元にして、もうちょっと洗練された形で書きなおしたいなあと思っていたら、「そのラストシーンに至るまで」そっくりそのまま、高橋さんにやられてしまったのである。いやもう、悔しいというかなんというか。
 こういうことはしょっちゅうあって(先日見た芝居もそうだ)、人間の想像力なんて似通っちゃうものだなあとタメイキをつくしかないのだが、だからこそ「更にもう一歩先の物語がつむげないものか」という意欲にもつながるのである。私の脳もそろそろボケがひどくなっているようで、いさささか心許なくはあるのだが、シロウトなりにもうちょっとは面白いよと言っていただけるものを書いていきたいと思っちゃいるのである。

2004年04月10日(土) 勇気を持って言おう。
2003年04月10日(木) 最近教育テレビづいてるかも/『名探偵コナン』41巻(青山剛昌)
2002年04月10日(水) ヒミツ、ヒミツ、ヒミツのしげ/『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男)
2001年04月10日(火) 大江山枕酒呑草子/『カエル屋敷のベンジャミン』(玖保キリコ)ほか


2005年04月09日(土) 若さゆえの過ち/『ななこSOS』2巻(吾妻ひでお)

 夜、七時から、天神西鉄ホールで、E−1グランプリ番外編、マニアック先生シアターの『ロジウラ*ラジオ』と非・売れ線系ビーナス×万能グローブガラパゴスダイナモス『況わんや、百年振りの粗捜し』の二本立て。
 「E−1グランプリ」というのは、要するに地方劇団同士の全国大会で、北海道・東京・名古屋・中国四国・九州の各地区大会を行い、それぞれの劇団が25分の短編演劇を上演して、お客さんに審査投票してもらい、上位入賞者による全国決勝戦を年一回行うというもの。うちの劇団にはやる気あるやついないから参加したことがない(苦笑)。
 今回の「番外編」というのは、つまりグランプリに参加した劇団の凱旋公演のことで、素人劇団とは言え、そんなに外れはなかろうとちょっとは期待して見に行く(つか、知り合いのスタッフの女の子からチケット売りつけられたんだが)。
 基本的に私は若い人ががんばってる舞台はそれだけで微笑ましく見ることにしているので、一応は満足。歌って踊って走り回って笑わせて、見ながらつい「若いっていいなあ」とトシヨリの感慨が脳裏をよぎる。今後の活躍も充分期待できそうだ、と評価してあげたいと思う。
 ……でもまあそれはこちらも演劇やってる人間としての共感・同情・連帯感が背景にあるからで、そういうものを一切排除した一観客として芝居を見た場合、どちらの芝居もあれやこれやと不満が出てこざるを得ない。そもそも作り手の「若さ=底の浅さ」がドラマを薄っぺらなものにしてしまっているのが、両作品ともに共通しているのである。

 『ロジウラ*ラジオ』、街角の占い師のところにやってきたホームレス風の中年男。「私の探している『ドア』がどこかにあるはずだ」と妙なことを言う。占い師はその「ドア」がすぐそこにあると答える。そのドアから現れたのは、三人の男女。彼らはみな、自分は「ヤスシ」であると名乗り、中年男を「父親」だと呼んだ……。
 「同一人物が何人も現れる」というネタは私も昔書いたことがあるので、ちょっとした台詞回しも含めてやたら既視感がしてしようがなかったのだが、自分で苦労した経験があるだけに、この芝居もどこがどうマズいのかが細かく見えてしまってかえって困った。無理にドラマを先に進めようとするあまり、設定も台詞がやたら無理っぽいというか、不自然なものになってしまっている。中年男が「ドア」を探して回るという導入自体、物語を不条理劇にするつもりがないのなら無意味で観客の感情移入を阻むものでしかないし、役者も何の心理的葛藤もなくだらりと演じているだけである。しかもオチは浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』の複数化なわけで、ラストをしんみりとさせたいのなら、「ありえたかもしれない子供たち」はロッカーのバカガキや性転換したダンス教師やあやしげな鯉の養殖屋じゃギャグにしかならない。つか、なぜギャグにしないのか?
 小劇場演劇の隆盛は、芝居にはともかく「小出しのギャグ」と「ラストのしんみり」を入れなきゃならないという悪弊を生んでいる。それが決まる芝居ならばともかくも、この「本物は誰だ」ネタは、基本的にスラップスティックにしかなりえない(私は自分の脚本では当然そうした)。ドタバタギャグが日本人に通じにくいというのは分かるが、かと言って、木に竹を接いだような形でアットホームなオチを持ち込まれても、心情的に納得できるものではないのである。途中途中で差し挟まれるラジオDJのシーンも、家出した男が捨ててきた妻の消息を伝えるためだという作者の意図は分かるが、効果としては今ひとつ、それどころか話の流れを中断させることにしかなっていない。結果、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのはやはり「若書き」でしかない。

 『況わんや、百年振りの粗捜し』、再演だそうだが、意味不明でしかもキャッチーでもないタイトルは改題したほうがよかった。
 雨の日、段ボール箱に捨てられていた青年を拾ったハジメ。彼女は青年にテンノと名前をつけ、ペットにする。放送局のあるタレントの付き人になったテンノは、突然起きた大地震で混乱した民衆に的確な誘導を呼びかけてパニックを収めたことをきっかけに、プロデューサー・鍵屋に救国のカリスマとして利用され、「王のない国」の象徴的存在として擁立されていく。そして鍵屋の魔の手はテンノの出自を知るハジメにも伸びていた……。
 再演されたということは、初演は大受けだったのだろうか? 一部で笑いはあったが、劇場内は概ね落ち着いている、というよりは白けた雰囲気が漂っている。「みんなで唱和するからショーワ・テンノ」とか、場内はシーンとしている。一言で言ってしまえば、天皇制を揶揄するその視点が、ちょっとだけ政治にかぶれたガクセイの何となくな“軽い”反発の域を出ず、見ていて「もうちょっと世間知持とうよ」とタメイキしか出ないのである。
 天皇が所詮は時の政治の傀儡に過ぎないこと、なし崩し的に天皇制が継続していることが、いつかは「時代」によって利用される危険を秘めていること、そういった作者の「不安」は確かに物語を構成する重要なモチーフになってはいるが、結局物語はそれを指摘するところで終わりであり、その先の主人公たちの懊悩もなければ打開策の模索もない。挫折し、開き直って無頼に生きる度胸もない。テンノも鍵屋も仲間たちもみな死に、婆あとなったハジメだけが生き残って何となく空を見つめて終わるという投げやりなラストはいつたい何なのか。
 作者としてはこの程度の「からかい」で充分笑いを取れた気になっているのかもしれないが、客の目からは重いテーマから逃げているようにしか見えない。キツイ言い方にはなるが、芝居をなめているんじゃないか、とすら言いたくなる。あまり芝居を見慣れぬ若い客なら簡単に騙されるだろうが、天皇制に対する破壊的なギャグなら、場末の寄席でだってしょっちゅう行われていたのだ。軽いのではなく、ぬるい。結局、「何が言いたいのか分からない」芝居になってしまっているのは『ロジウラ*ラジオ』同様である。これもやはりただの「若書き」なのであろう。
 ああ、でも、NGOの連中が、鍵屋に「テンノ制に協力しろ」と言われて拒絶していたのが、「金は何ぼでも出す」と言われた途端に「何でも協力します」と豹変するギャグは笑った。何かを本気でからかうなら、「モジリ」に逃げずに堂々と実名を出さなきゃ意味はない。誤解を恐れずにあえて言うなら、演劇は本質的にテロリズムなのである。

 しげは以前も「非・売れ線」の舞台を見ていて、そのときも「今どきなんでこんな芝居を打つのか」と疑問に思ったそうだが、どの時代でも学生気分の純粋真っ直ぐ君はいるものである。そんなに不思議に思うこたない、と言ったら、「作者は絶対そこまで考えてないよ」と断言した。そこまで言い切るのも容赦がなさ過ぎると思うが、確かに「何も考えていない」可能性も大なのだよなあ。


 マンガ、吾妻ひでお『ななこSOS』2巻(ハヤカワコミック文庫)。
 とりあえず『ななこ』の感想は後回しにして(笑)、『失踪日記』は既に四刷りまで行ったそうである。今日、天神の福家書店でもカウンター横に平積みで何十冊も置かれていて、新聞の書評が紹介されていた。「吾妻ファンは10冊購入しなさい」とまで書かれていたが、実際、お金に余裕があるなら、10冊でも20冊でも買って、知り合い連中に「読め」と言って配りたいくらいである。
 『コミック新現実vol.3』掲載の『うつうつひでお日記』をお読みの方はご承知だろうが、吾妻さんの病気は現在進行形で、今も抗鬱剤を服用している。『失踪日記』だけを読んでいたら、「ああ、もうアル中も治って、マンガを描けるようになったのだろうなあ」と勘違いしそうだが、そうではないのだ。構成、下書きは確かに吾妻さんだが、仕上げは奥さんがされている状態。いつ再び、いや三度、「失踪」してしまうか分からない。せっかくヒットしているのだから、ぜひ平穏に暮らしてほしい。『失踪日記』の内容についていろいろ言いたい人もいるだろうが、ともかくファンとしては暖かく見守っていただけたらというのが願いなのである(最初の失踪もファンの「最近の吾妻マンガはつまらない」などの中傷が原因の一つだった)。いや、公的に発表されたマンガである以上、感想は何を言ったって構わないのだけれど、吾妻さんの目に触れ耳に届く形ではやってほしくないということなのだ。
 吾妻さんの公式ホームページ(http://azumahideo.nobody.jp/)では、日記代わりのスケジュール報告で、吾妻さんが「今更遅いけど、仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなのでもうナンセンス漫画はやめる。これからは暗い漫画を描くつもり。どこも使ってくれないかも知れんけど」と言ったことに対して、いしかわじゅんが「暗い漫画でも、日記漫画でも、何でも俺たち吾妻ファンは読むよ。好きな物を描いてくれ」と激励し、感動したことが書かれている。吾妻ファンはみんな等しく、同じことを思っているのだ(『ななこ』の描き下ろしマンガで、Dr.石川が昔よりも「優しく」なってるのはこのせいかな?)。
 『ななこ』の解説では、竹本泉が、「少年まんが家の93%は吾妻ひでおの影響を受けてるんだぞ」と力説し、「この『ななこSOS』には吾妻さんの基本要素が全てつまっています。美少女とSFとちょっと不条理と。吾妻ひでお初心者の人にもぴったりです」と薦めている。吾妻マンガを読んだことがないという若い人、けれどあなたの好きな最近のマンガ、そのルーツを辿れは必ず吾妻マンガに行き着くのだ。
 『ななこ』や『オリンポスのポロン』、『アズマニア』はハヤカワ文庫で入手可能だ。売れてないらしいので絶版が近いかもしれないが、『やけくそ天使』も秋田文庫でまだ買える。これも残部僅少だとは思うが、マガジンハウスからは『幕の内デスマッチ!!』『メチル・メタフィジーク』『贋作ひでお八犬伝』『格闘ファミリー』『銀河放浪』が出ている。あなたがマンガを本当に愛しているなら、ぜひ一読を乞う。

2004年04月09日(金) うどん談義と『新選組!』低迷
2003年04月09日(水) 最近日記に書けないことが多いなあ/『エンジェル・ハート』6巻(北条司)
2002年04月09日(火) 正義なんて要らない/DVD『指輪物語』/『UAライブラリー10 すごいけどヘタな人』
2001年04月09日(月) ハートブレイカー/『DRAMATIC IRONY』(藤崎竜)ほか


2005年04月08日(金) 訃報二つ/『名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(石川森彦)

 出張で一日ばたばた。そのためか、買ったばかりの定期をどこかに落としたらしい。
 「もしかしてスラレたかなあ」とつぶやいたら、しげ、「あんたが落としたにきまっとるやん! どうして他人のせいにするとね!」と烈火のごとく怒る。別に他人のせいにしてるわけじゃなくて、どこでどう落としたかが皆目見当がつかないので(ポケットに入ってたほかのもの、鍵とかは無事で定期だけが落ちているのだ)、そう言っただけのことなのだが、しげは怒りのぶつけどころがなくて、私に当たっているのである。
 でも、落として損したのは私であってしげではないのだが。私が悔しがる前にしげが半狂乱になってたんじゃ、私はどうしたらいいのやら。


 映画監督の野村芳太郎氏が、8日、肺炎のため死去。享年85。
 遺作が1985年の『危険な女たち』(原作はアガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』。エルキュール・ポアロにあたる探偵役は石坂浩二!)つまり、十代、二十代の若い人は、リアルタイムで野村芳太郎の映画を見たことはないということになる。だからこその「誤解」が、この人に関してはかなり付きまとっている気がしてならない。
 例えばその「代表作」のように思われている松本清張原作による『砂の器』である。以前もこの日記やコンテンツ(現在再アップ中ですが)で書いたことがあるが、お涙頂戴好きの日本人には痛く受けていても、これは映画としてもミステリーとしても何ら評価すべき点のない駄作である。あんなハンセン病を「利用」した映画に価値を認めるというのは、いったいどういう神経の人間かと憤りを覚えるほどだ(詳しくは都筑道夫の『サタデーナイト・ムービー』を参照のこと)。
 公開当時も、知り合い連中で(もちろんコアな映画ファン、ミステリファンばかりなのだが)あれを誉めている人というのは皆無に等しく、「ヒットしてるって言うから見に行ったのに、何だあれは」と憤慨すらしていた。つくづく作品の出来と大衆受けとは別物なのだと実感せざるを得ない代表例が『砂の器』であった。
 今やその「大衆受け」でしかなかった虚名が定着し、後追いでこの映画を見た若い人はこれが本物の名作であると大きな誤解をしているように思える。まさしく「歴史の風化」と言うか、「古いものはみなよい」症候群に罹ってんじゃなかろうか。
 基本的に野村芳太郎という人は、特に個性的な演出家というわけでもなく、やはり松竹大船の人情路線の伝統上にあってペーソスは解せてもナンセンスギャグは不得手、社会派としてもごく小市民的で床屋政談的な思想しか持ち得なかった人で、だからこそ逆に一般大衆にはわかりやすい庶民感情に根ざした娯楽作品を作ることのできた職人監督であったと思う。70年代、80年代の「大作志向」の映画以前は、小品だけれどもたまにしんみりした文芸映画、コメディ、ミステリーなど、ジャンルを問わない映画を数多く撮っていた。原作知ってりゃ誰が見たってミス・キャストだろうって印象の、美空ひばり主演の『伊豆の踊子』とか三波伸介主演の『ダメオヤジ』とか、一連のコント55号シリーズとか、いくらプログラム・ピクチャーだからとは言え、映画の出来云々以前に、企画段階で誰か止めるやついなかったのかって言いたくなるような珍品の数々が目白押しなのだが、これは恐らく、「タレント人気」に乗っかりゃいいんだからと軽い気持ちで(つか何も考えずに)作っていたと思しいのである。
 だからこそ初期作品でたまに光って見える『張込み』とか『拝啓天皇陛下様』とか『五瓣の椿』も、脚本もそんなに上手いわけではないのでやはり役者の力に起因するところが大きいのだろう、と演出家としての野村さんの腕は割り引いて考えてしまいたくなるのである。
 それにしても不思議でならないのは、野村さんは本人の資質的にはおよそ合っているようには見えないミステリー・推理映画に、どうしてあそこまで拘ったのかということだ。全部で88本ある監督作の中から、広義のミステリー・推理映画に当たるものを抜粋してみる。

 1953 鞍馬天狗 青面夜叉(原作 大仏次郎)
 1958 張込み (原作 松本清張) 
 1961 ゼロの焦点 (原作 松本清張) 
 1961 背徳のメス (原作 黒岩重吾) 
 1964 五辧の椿 (原作 山本周五郎) 
 1968 白昼堂々(原作 結城昌治)  
 1970 影の車 (原作 松本清張)
 1974 砂の器 (原作 松本清張) 
 1977 八つ墓村(原作 横溝正史)
 1978 事件(原作 大岡昇平)
 1979 鬼畜(原作 松本清張)
 1979 配達されない三通の手紙(原作 エラリー・クイーン『災厄の町』)
 1980 わるいやつら(原作 松本清張)
 1981 真夜中の招待状 (原作 遠藤周作『闇の呼ぶ声』)
 1982 疑惑(原作 松本清張)
 1983 迷走地図(原作 松本清張)
 1985 危険な女たち(原作 アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』)

 晩年の作は殆どミステリーばかりと言ってよいが、そこそこの秀作はあっても文句なしに傑作と言えるのは『張込み』『事件』『鬼畜』くらいのものであろう。しかもこれらの作品の面白さはあくまで映画としての面白さであって、ミステリーとしてのそれではないのである。『張込み』『鬼畜』は犯罪を題材にはしているが、ミステリーとしての興味はかなり薄く、『事件』も原作が本来目指したものは裁判の集中審理方式に関する是非であり、推理小説のそれではない。これだけ松本清張作品を映像化していながら、最も本格ミステリとしての体裁を整えている『ゼロの焦点』が一番つまらない出来なのである。横溝正史、遠藤周作、クイーン、クリスティーの映像化に至っては、ミステリーとしてはトホホなものばかりであった。「ミステリ映画を作る才能がない」と断定しても構わないと思う。
 「いったい何が野村芳太郎に欠けていたのか」という点を考えたとき、比較の対象として黒澤明や岡本喜八を挙げれば、納得していただける方も多いと思う。黒澤明の場合はブレーンにミステリマニアの脚本家・菊島隆三がいたことも大きいと思うが、実際、野村芳太郎以上にミステリに対する造詣は深かったと思われる。純粋にミステリーを原作にしたものはエド・マクベイン原作の『天国と地獄』くらいだが、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』などにはミステリーの要素が横溢している。岡本喜八も、出世作『独立愚連隊』は完全に本格ミステリの体裁を取っていたし、大藪春彦原作の『暗黒街の対決』『顔役暁に死す』、ウールリッチ原作の『ああ爆弾』、都筑道夫原作の『殺人狂時代』、天堂真原作の『大誘拐』のほか、やはりミステリ趣味満載の映画が数多くある。黒澤・岡本両監督のミステリ趣味は、常に「粋」だということだ。
 まさしくその「粋さ」こそが、ミステリ映画をミステリ映画たらしめる重要なファクターなのである。例えばそれはどんなところに現れているかというと、『用心棒』『椿三十郎』で三船敏郎が敵を欺くために見せた数々の機知、『天国と地獄』のあのパートカラーの煙、『殺人狂時代』での仲代達矢のとぼけぶり(あまり具体的に書くとトリックをばらしちゃうので書けない)などなど、それらは映画、映像表現であるがゆえに効果的なものばかりであった。まさしく黒澤・岡本監督は「映画作家」であったのである。
 それに対して、野村作品のミステリ描写はことごとく芸がない。ただカメラで写しているだけで演出というものがない。『砂の器』の「カメダ」ほか、謎解きの高揚感のなさはどうしたことだ。「allcinema online」などのユーザーコメントを見ても、「親子の情愛」云々について語るばかりで、一般観客の感動がミステリ部分には全く関わっていないことがよく分かる。
 「ミステリ映画の第一人者」というイメージが、いかに野村芳太郎の本質とかけ離れているか、それは例えば野村さんの映画を見て原作者に興味を持ち、他の作品を読んでいけば、野村さんがいかに原作者の代表作を“外して”映像化しているかもよく分かる。横溝正史、クイーン、クリスティーについてはどうしてそれを選んだのか、理解に苦しむほどで、これはもうミステリに対する感度が著しく低いと言うしかない。別にミステリとして面白くなくてもいいじゃないか、と仰る向きにはミステリをミステリとして映画化しないのは羊頭狗肉であると反論しておこう。
 監督としての評価も『事件』『鬼畜』を最後に、作る映画作る映画、酷評を受けヒットもしなくなっていく。結局は『砂の器』や『八つ墓村』が予想を超えて記録的に大当たりしてしまったことが、野村さんを「勘違い」させ不幸にしてしまったのではなかろうか。その結果、「大作」を「ヒット作」を作らなければならない、という思い込みが、野村さんを、そして松竹を支配し、そのために「ミステリー映画で当たったのだから、次もミステリーを」という安易な選択に走らせてしまったのではなかろうか。
 そうでさえなければ、あともう少し、小粒ながらもしっとりした映画を作り続けられたのではないか、そんな気がしてならないのである。


 訃報がもう一つ。
 こちらは野村監督に比べて扱いが格段に小さいが、マンガファンにとっては絶対に忘れられない、忘れちゃならない名前である。
 かつて伝説のマンガ雑誌『COM』(手塚治虫責任編集だったんだよ)誌に珠玉の短編マンガを発表し、「天才」の名を恣にしていた岡田史子さんが、3日、心不全のため死去していたことが判明。享年55。つい何年か前に旧作の短編集が編まれていたし、『消えたマンガ家3』でもインタビューに答えていらっしゃったので、お元気なものと信じていた(「消えた」と称するが、もともと寡作家で、数年作品の発表がなくてもファンは気長に待っていた)。
 作品数は限られていたが、24年組の人たちに強く影響を与え、少女マンガが少年マンガを凌駕するほどの深遠なテーマを扱うようになるきっかけを作った人であった。……こういう「常識」も、知っている人間の“誰もが”記しておかないと、忘れられてしまうのである。
 多分に60年代、70年代の世界に対する逼塞感を感じさせる作風であるが、少年の、少女の、壊れ行く精神を、切り絵が人形のようなキャラクターに託して象徴的に描いた作風は、現代でもあるいは未来でも充分に通じるだろう普遍性を持ちえていたと思う。代表作の『ガラス玉』『ピグマリオン』などは、飛鳥新社から発行されている『ODESSEY1966〜2003 岡田史子作品集』で読むことができる。


 マンガ、大橋志吉脚本・石川森彦まんが『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル3 雲の中の死』(NHK出版)。
 マンガやアニメからクリスティーに入ろうという人には「原作を読んでくれ」と言いたいところだが、ともかく活字離れの進んでいる現代では、若い人にミステリーを読んでもらおうと思ったら、「学習マンガ」的な、マンガとしての面白みに欠けるマンガであってもないよりはマシ、ということになるのかもしれない。
 と、好意的に評価しても、原作の選択に『雲をつかむ死』というのはちょっと納得がいかない。クリスティーの長編の中では犯人の動機、トリックにかなり無理があり、せいぜい中の下、程度の評価しか与えられないのだが、やっぱり「空中の密室」である飛行機の中での殺人という設定に、つい魅力を感じちゃうんだろうね。犯人が限定される状況でなぜあえて殺人を犯さなければならなかったのか? という疑問に明確に答えられていないのが難点なのだが、この疑問に納得のいく解答を出しているミステリーって、実はすごく少ないのである(去年の『名探偵コナン 銀翼の奇術師』も、そのあたりの矛盾が全く考慮されてなかったものなあ)。しかも前作の『パディントン発4時50分』と、内容的にちょっと「かぶっている」部分もあり、その点でも原作選択においてもう少し検討はされなかったのかと疑問が生じるのである。
 アニメに準拠しているので、今巻もメイベル・ウエストが登場しているのだが、『パディントン』のように「置き換える」キャラがいなかったため、出番も少なく、いてもいなくてもいいテイタラク。ポワロがやたら「解けない謎はない。真実は私に微笑む」と決め台詞を口にするのもうるさい。これはもう『金田一少年』と『名探偵コナン』の明らかな悪影響だ。原作ファンには宣告ご承知と思うが、ポアロは確かに「名探偵、みんな集めてさてと言い」という状況を作るのは好きだが、巷間言われているほどのハッタリ屋ではない。マンガもアニメもキャラクター造詣が雑なのである。
 アニメもじきにめでたく放送終了だと思うが、いくらクリスティーファンとは言え(デヴィッド・スーシェ主演版のDVDボックスはしっかり買っているのである)、あれはDVDが出ても買う気になれないのである。


 マンガ、和月伸宏『武装錬金』7巻(集英社)。
 黒い核鉄のために、人類を滅ぼすモンスター・ヴィクター靴伐修恒震燭砲△襯ズキの逃避行編。斗貴子がくっついていくのは当然としても、もう一人の仲間、前巻より新登場の中村剛太のキャラクターが弱いのが難点。つかねー、もう中堅どころと言っていいキャリアがあるのにねー、和月さんが脚本・キャラ作りともに一向に進歩・上達しないこと自体、将来が心配になるんだけどねー。なんつーか、あれやこれやの先行作品からの流用が多すぎるよ。しかもそれを正直に後書きで告白して、「反省」したりするから、かえって評判を落とすのである。技術が上達しなきゃ、反省なんて有名無実だとしか思われないって。
 「いずれ化物になるかもしれない恐怖」ってモチーフもまあ昔からいくらでもあるんだけれど、ちょうどサンデーで夏目義徳の『クロザクロ』が全く同じ展開になってて、こっちのほうがはるかに面白いものだから、比較されるとどうしても和月さんのほうがワリを食ってしまう。何がよくないって、カズキに宿命を背負った悲壮感がまるで感じられない点なので、これはどう言い訳したって和月さんの演出力不足に原因があるのだ。「カズキはあくまで明るく振る舞うキャラだ」と弁護したいファンの人もいるかもしれないが、「明るく振舞うからこそその運命の重さが際立つ」演出がまるでなされていないのである。
 和月さんの実力を考えると、これから先、このマンガが面白くなるとは思えない。なのにファンとして和月さんを見捨てられないのは、前にも書いたと思うが、マンガそのものはつまらなくても、和月さん本人に「人間としての誠実さ」を感じるからだ。誠実でなければ誰が自作の欠点をあそこまで堂々と後書きで書きまくるものか。ほんの少しでも面白くなってくれれば、という淡い期待で、8巻、9巻と続いてほしいのだが、10巻越えての伸びがどこまでか、苦しいところだろうなあと思うのである。

2004年04月08日(木) もう好きなだけトンガッちゃってください(-_-;)。
2003年04月08日(火) 新番組攻勢始まる。/『アニメ『キノの旅』1話「人の痛みが分かる国」/カレイドスター』1話「突然で! 初めての! ステージ」
2002年04月08日(月) ゲイは身を助く/『光の島』2巻(尾瀬あきら)ほか
2001年04月08日(日) デイ・アフター/『漫画 巷説百物語』(京極夏彦・森野達弥)ほか


2005年04月07日(木) またもや類友/『Mermaid Heaven(マーメイド・ヘヴン)』(長谷川裕一)

 余震、朝方にまた。
 夕べも夜中に目覚めたのだが、結局、二時間ほどしか寝ていない。このままだと体を壊しかねないので、しげの通ってる病院に行って、睡眠薬を処方してもらおうかとも思うのだが、しげのへろへろな様子を見ていると、クスリに頼るのがちょっと怖くなるのである。
 しげはこないだから余震が起きるたびに「また地震? しつこいって言うか、もう飽きた」と言って、ウンザリな顔をするのだが、いくらしげが文句を言ったって、地震がやむわけでもない。だいたいしげは地震が起きようがクスリが効いているときは全く気が付かずにイビキをかいているのだから、飽きたも糞もないのである。
 熱しやすく冷めやすいというか、「根性なし」がしげの本性のようなものだが、今の病院についても最近は「飽きた。転院しようか」とかつぶやいている。医者と患者の間にも相性というものはあろうから、私も転院自体に反対はしない。けれど、その理由としてもう一つ、しげが、「なんか院長先生がオレのことバカにしてるみたいだし」と言っているのは被害妄想が入っている気がしてならない。
 いや、しげの言動を見聞きしていればある意味誰でも「バカだこいつ」と思いはするのだが、それは単に事実の認識であって、蔑むこととは別であろう。
 「クスリはほしいから、転院するときは院長先生から紹介状を書いてもらおうと思う」と言うのだが、バカにされてると思う相手に最後まで世話を受けたいというのも何だか手前勝手な理屈である。それに転院するにしても、その手の病院で、近場で通いやすいところって、そう多くはない。行った先がまた「合わない」なんてことになって、また情緒不安定に陥ってしまうのも困る。通院するようになって、寝ぼけ癖は増えたが、昔に比べてヒステリックになることはかなり少なくなっているのだ。即座に止めるんじゃなくて、転院する候補先をいくつか物色したあとにしてもらいたいのだが。
 

 職場で、今度私と同じく転勤してきた同僚と世間話をしたところ、この人がまたかなり年季の入ったオタクであることが分かった。
 それこそ実写テレビドラマ版『鉄人28号』や『忍者部隊月光』のころの話題から、内容、脚本、作画、声優、演出家に至るまで、実に詳細に覚えておられる。『ハッスル・パンチ』のテーマソングを私が間違えて覚えていたのを、即座に訂正されたので、思わず頭を下げた。試写会マニアで最近の特撮、アニメ映画もよく見ており、並みのオタクから敬遠されてた庵野版『キューティーハニー』も『鉄人28号』もしっかり見ているのである。しかもちゃんとどこそこがよいとホメているから目が高い。
 仕事はちょっと残っていたのだが、つい話し込んでしまって数時間、とてもその内容全部は紹介しきれないが、最後はお互いの「コスプレ恥ずかしい過去」までカミングアウトすることになってしまった。あちらは『魔女の宅急便』のキキになったことがあるのだそうな(多分それだけではなかろうが)。「いいじゃないですか、私なんか『油すまし』ですから」と言った途端に「お似合いで」と言われてしまったが、さすがに自分の体型で古代君とかシャアとかシンジくんをやる勇気はないのであった。
 しげについて、「うちの女房は変人で」とあれこれとエピソードを披露すると笑われたり受けたり首をひねられたり。首をひねられるのはやはり「ダイエットをしながら肉ばかり食う」

 「またそれ見てる。そんなに好き?」としげに悪態吐かれながら『春だサルヂエ大決戦』二時間特番を見る。前はそんなに当たらなかったのが、「慣れ」てきて、ヒントなしでも当てられるものが増えてきて楽しくなってきた。
 なぞなぞの答えを叫ぶ私を見ながらしげは「小学生男子みたい」と舌打ちをするが、もちろん精神年齢は小学生に戻っているのだから別に構わないのである。


 マンガ、長谷川裕一『Mermaid Heaven(マーメイド・ヘヴン)』(角川書店)。
 温暖化で全ての文明が海中に沈んだ300年未来の地球。わずかに残った文明の遺産は、「海賊」たちの求めやまぬ「財宝」として、激しい争奪戦が繰り返されていた。コールドスリープから目覚めた21世紀の高校生・獅馬渡は、機械化帆船“大ぼら(ビッグフィッシュ)”号の船長・シェルビー・ハーヴァーライトに拾われる。彼女の目的は失われたコンピュータ技術を渡の力で解明し、“世界を変える力”を手に入れることだったが……。
 やっぱり長谷川マンガは「SF」だなあ、と感心させられるのは、財宝“水宝珠(アクアオーブ)”の正体の意外性だけではなく、なぜそんな財宝を必要とする「技術」が残されていたのか、そして、21世紀人である渡ならば、その「技術」を誰よりも欲していたであろうに、なぜそれを「放棄」したのか、その「発想の転換」にある。それがまさしく「センス・オブ・ワンダー」であり、スペキュレイティブ・フィクションとしての「SF」の醍醐味なのである。
 同じ「海賊」マンガでありながら、『ワンピース』がただのヤンキーマンガに堕してしまっているのは、既成概念を打破する驚きに欠けているからだ。長谷川さんは明らかに『ワンピース』を意識して本作を描いていて、300年を経て「海賊」の概念が「海の平和を守る」ものに変化している理由が、「日本のマンガの影響」という設定になっている。つまり『ワンピース』の「でたらめさ」を利用して、逆にこの作品の世界を「ありえるもの」としてリアルに描写しているのである。「嘘から出た真」というのもSFのモチーフの一つで、こういうディテールにまでSFが横溢しているのが長谷川作品にのめりこむファンが多いことの一因だろう。
 『ワンピース』に飽き足らない方にはお勧めのマンガであるが、残念ながら全一巻で続編はナシ。一般のファンが今ひとつ着かないのは、長谷川さんの絵柄が、現在の美少女萌えな傾向とはちょっと離れてるせいがあるのかもしれない。いや、ハザミとか充分かわいいと思うんですが(笑)。

2004年04月07日(水) 1st. Anniversary!
2003年04月07日(月) もう迎えは要らない/『花田少年史』1話「はじまりはじまり」/『ドラゴンボール 完全版』9・10巻(鳥山明)
2002年04月07日(日) 少女はやがて怪物になるのだ/映画『WX掘。丕腺圍味腺贈錬辧。圍硲邸。唯錬孱稗釘魁戮曚
2001年04月07日(土) 初めての花見/DVD『ブルース・ブラザースBBパック』


2005年04月06日(水) がんばれ末吉市長/『名探偵コナン』49巻(青山剛昌)

 しとしと雨の、やや湿っぽい日。
 霧雨けぶる駅に立つと、そぞろ漂白の旅に出たくなるが、まんま吾妻さんである。今んとこ、精神的にそこまで追いつめられてはいないので、この日記が途切れることも多分しばらくはないと思うのである。


 『OO7』シリーズに関するニュースが二つ。
 「eiga.com」で「ショーン・コネリーが再びジェームズ・ボンドに?」のタイトルを見て、思わず「うっそーん!?」と叫んじゃったのだが、これゲームの中での話なのであった。
 エレクトリック・アーツ社製作によるゲーム『007/ロシアより愛をこめて』のボンドの声を新しく葺き替えることになったのだそう。考えてみれば、Mのバーナード・リーも、Qのデスモンド・リュウェリンも、殺し屋レッド・グラントのロバート・ショウもみな故人。今でも吹き替えができるのはコネリーと初代マネペニーのロイス・マクスウェルくらいしかいないのだな(ボンドガールのタチアナを演じたダニエラ・ビアンキは多分引退してると思うんだけど、参加するのか?)。
 初代ボンドのファンならば、コネリーが「イメージが固定されることを嫌って」ボンド役を下りたことは知っているはずである(でも『ダイヤモンドは永遠に』と『ネバーセイ・ネバーアゲイン』で二度もカムバックした)。それがゲームとは言え70歳を越えての復帰、しかもかなり“ノリノリ”で、「ゲームと映画がどのように融合しているのか楽しみだ」と喜びのコメントまでしているのである。『リーグ・オブ・レジェンド』でスティーブン・ノリントン監督と大喧嘩して俳優引退を宣言したのはどうなったんだ、と言いたくなるところだが、昔からのファンだから嬉しいことは嬉しいのである。05年末から06年初頭に、プレイステーション2などで発売予定。
 もう一つは、ついに決まったこちらは正真正銘、本家映画の21作目『カジノ・ロワイヤル』の六代目ジェームズ・ボンドの話題。『トゥームレイダー』などに出演歴のある英国俳優、ダニエル・クレイグ(37)だそうな。私はよく知らない役者さんなので、ネットで画像を探してみたのだが(またウィルスに引っかからないかとおっかなびっくりであったが)、映りがまあまあいいのはこんなものである。
 
http://www.bbc.co.uk/films/2004/11/25/images/daniel_craig_enduring_love_interview_top.jpg
http://www.cinefile.biz/tombr12.jpg

 なんかフツーのおじさん? てな感じであまりセクシーにもエレガントにも見えないのだけれど、映画になれば役者さんはバケるからね。それを期待しときましょ。


 周防灘に建設中の新北九州空港が、来年3月16日に開港することを、国土交通省大阪航空局の茨木康男局長と北九州市の末吉市長ら関係自治体の代表が会談して決定した。誰もが予測してることだと思うが、まずもって観光客倍増なんてユメはまさしく露と消え、他県の新空港同様、赤字転落することは目に見えている。打つ手打つ手が裏目に出まくっていて、内情はかなり苦しいはずの末吉市政であるが、これだけ税金の無駄遣いをしていながらどこか憎めないのは、まさしくその「夢見る夢子さん」ぶりによるのだろう(ともかく北九州演劇祭を赤字続きにもかかわらず定着させてくれたことは感謝の念に耐えない)。
 新空港は、早朝や深夜の発着便の就航(実質24時間営業だな)も目指しているとかで、んなことすりゃあ取り返しのつかないくらいの借財背負うことになるぞと、ヨソの市のことながら心配になるのだが、末吉市長の夢は枯野を駆け巡っているのである。ここまで来れば行き着くところまで行ってほしいものですね。


 マンガ、青山剛昌『名探偵コナン』49巻(小学館)。
 終わる気配を見せもせず、サンデーコミックスの最長不倒距離を更新中、話は二番煎じの三番煎じ、超どマンネリはどうにもならないのだが、それでも付いてくファンは腐るほどいるんだからまあいいんじゃないですか。
 どうせまた尻切れトンボに終わるだろうなって予測どおりに、黒の組織とのVS編はあっさり終わり。最近はこれが「場つなぎ」の役割しか果たしてなくて退屈で仕方がない。
 笑っちゃったのがコナンの台詞で、「本家本元のロンドンにあるハイド公園」ってやつ。つまり米花町とか提無津川とか、あのお寒い語呂合わせは偶然ロンドンの地名と日本の地名が似通っていたとか、ロンドンなんて町は「コナン」の世界には存在してません、ということではなくて、“誰かが明確な意志を持って”、ロンドンの地名を移植してきたものだってことになるのだな。戸来村ではなくセントレア市だったわけである。てことは、米花町があるのは東京都内ではなくて、きっとその近郊の「論丼市」とか「呂運貪市」とかいうのであろう(ロンドンは本当は漢字では「倫敦」と書く)。バカな町だ。
 中盤の行方不明の女の子を探す話は、私が学生のころにいろいろ考えてたトリックがいくつも偶然使われていて、自分のトリック創作力は『コナン』レベルかとちょっとガックリ来た。でも、なんてことのない「日常の事件」のほうが、やたら殺人だの誘拐だの、殺伐とした、しかも作りこみ過ぎていて無理のある事件よりは読んでて不快感はないのである。小説化でいうなら仁木悦子とか青井夏海のラインね。
 後半は、これも定期的なテコ入れの新キャラクター・見え透いてるくらいドジだけど、何やらヒミツのありそうな帝丹高校への転校生・本堂瑛祐君の登場。どうやらレギュラー化しそうで、コナン君の正体にも気づいているやらいないやら。でもこういう「わざとらしい」キャラクターにもファンは付いちゃうんだろうなあ。基礎教養がないというのはかくも恐ろしいことなのである。


 今日も余震連発。
 真夜中1時頃にも震度3くらいの揺れ。驚いて飛び起きたが、また睡眠不足な日が続き始めている。ここんとこ一週間くらい、鼻血が止まらないのだ。

2004年04月06日(火) 日記っつーより伝言だな、こりゃ。
2003年04月06日(日) マジ!? ホームベージ開設!/『鉄腕アトム』第1話『パワーアップ!』
2002年04月06日(土) スランプで寝てたっス/『COJI−COJI』完全版1巻(さくらももこ)
2001年04月06日(金) プレ花見/『ミスター・クリス』3巻(秋本治)


2005年04月05日(火) ボケボケ大行進/『毎日かあさん』2巻「お入学編」(西原理恵子)

 いつもの、しげのボケ三題。
 新しい職場に変わって、しげが何だか浮ついている。転勤したのは私であって、しげではないのだが、何かやたらと「プレゼント」をしたがるのだ。
 こないだから博多駅やらキャナルやらに行くたびにあちこちのファンシーグッズの店を覗いては何やら物色している様子なので、「何、探しとん?」と聞いたら、「弁当箱」と言う。
 「かわいい弁当箱と、それを入れるかわいい手提げがほしいとよ。ミッフィーのがあればいいっちゃけど、いいのがないと」
 「……誰がそれを使う?」
 「あんた」
 「オレは要らんぞ。何で四十過ぎたオッサンがそんなの持って歩かにゃならんか。不審人物と間違われるわ」
 丁々発止の末、何とかミッフィーの弁当箱を使うことは回避したが、今、私が持たされている弁当箱はウルトラマンキッズである。

 二つ目。
 このしげの「プレゼント癖」はやはりビョーキと呼ぶしかないくらい激しくて、油断するとどんどん不必要なものばかり買ってくるのである。
 もう何度も何度も「要らないから買ってくるな」と言っておいたのに、「薄型でいいの見つけたよ」と言って無理やり持たされたのが、「折り畳み傘」である。
 これで私の鞄には、折り畳み傘が“三本”仕舞われることになった。
 で、私の鞄を持ったしげが言ってくれた台詞がこうである。「重いよ。無駄なもの入れとかないで置いてったら?」
 ……傘、置いてくぞ。

 最後の一つ。
 しげが突然、「あんた、何でオレの秘密、知っとるん?」と、唇をとんがらせて聞いてきた。言葉だけを聞いたら何だかえらく隠微である。まるで私がしげをストーカーしているみたいではないか。
 「なんのことだよ、いったい」
 「日記に書いとったやん。オレがこっそりコンビニ弁当食べてるって。せっかく隠しといたのに」
 「何だそんなこと……って、お前なあ、部屋の中、食いかすだらけにしといてバレないとでも思ってたのか?」
 「思ってた」
 バカである。ほかにも私は、しげがヒミツにしている“つもりの”あんなことやこんなことも全部知っているが、いちいち調査なんかしなくても、しげの行動したあとの“痕跡”がいたるところに散乱しているのである。メシ食ったあとに米粒が口の端にくっついてるようなものだ。観察力のある人間なら、その日しげが何を食ったか、「匂い」でわかってしまうだろう。つか、牛肉か豚肉か鶏肉か、カレーかラーメンか、その中から選べばいいのだから、推理するほどのものでもないけどね。


 さて、転勤してトンガリさんとはめでたく縁が切れた私であるが、もう一人の既知外さんは、予測していた通りの行動に出られた模様である。
 出勤してみると、机の上に見覚えのあるワープロ印字のハガキが一葉。送り主の名前は、この職場に以前勤めていたある人物の名前になっているが、私とは全く面識がない。もちろん送り主はホモオタさんで、他人の名前を騙っているのである。今日になって初めて知ったのだが、ホモオタさん、五年ほど前までこの支社に勤めていたのだ(もちろん使い物にならなくて追ん出された)。
 本文はかなり社内の事情について詳細に書かれているので、そのまま紹介することはできない。かいつまんで内容を記せばこんなとこだ。
 「あなたはホモオタさんと知り合いでしょう。ホモオタさんはそちらの支社に勤めていたとき、○○さんのカメラとか○○さんのパソコンとかを借りたまま返さずに着服しています。あなたからホモオタさんに返却するように言ってやってください」
 ……関わってほしいんだなあ(苦笑)。こんなにモテたことは、私の一生において数えるほどしかないぞ。最初に出会ったのがまだ私が20代前半のころだから、もう二十年になる。よくもまあ、かつての一念をしつこくしつこく持ち続けられるものだ。でもどんなに思われても相手がホモで(正確にはバイらしい)オタクで既知外だから嬉しくも何ともないけどよ。
 迷彩のつもりなのか、ホモオタさんは無記名で私などへの中傷ハガキをばら撒くだけでなく、これまでにも繰り返し他人の名前を使って「自分の悪口」をこんなふうにばら撒いている。つまり「自分も中傷ハガキの被害者ですよ」というフリをしているのだが、とうの昔にホモオタさんのイカレ具合は本社から各支社に至るまで遍く知られるところとなっているので、迷彩が迷彩の役目を果たしていない。……ってことは本人も分かってるはずなのに止められないのがビョーキなんだよねえ。
 笑えることに、今回送られてきたこのハガキにも総務の付箋が付いていて、「ホモオタさん本人からのハガキと思われますが、一応お渡ししておきます」と注釈が付けられていた。一応、上司にハガキを見せに行ったのだが、私が手にハガキを持っているのを見るなり、「おう、来たかね」と笑って受け取った。もうみなさん先刻ご承知なのである。
 ストーカーと言ってもハガキをばら撒くだけでそれ以上の実害はないので、本社としてもこれまでは、いったん現場を離れてもらって新入社員と一緒に研修・再教育させるといった程度の措置しか取れなかった。そんなことをしたって、根っからお脳の方に問題があるのだから、「あいつもこいつも自分を裏切ったどいつもこいつも自分をバカにしているのだ悔しい悔しいえいくそえいくそみんなみんな死んでしまえ死んでしまえ、きいいいい」というホモオタさんの被害妄想・強迫観念は治りようがないのである。
 本社でも、こげな既知外、どげんしたらよかとねと、持て余してるらしいことはいろいろと聞き知ってはいるのだが、雇ったのはテメエラなのだから、ちゃんと後始末しろよと言いたい。またぞろこういうビョーキが再発しているようなら、本当に強制的にでも病院に叩っこんだ方がいいように思うのだが、それも「人権に鑑みて」ムズカシイらしいんである。で、いつか誰かにもっと大きな被害が出たときはどうするんでしょうね? こういう問題、巷にゃゴロゴロしてると思うんだけど、世の中の「人権擁護派」主義のみなさんに納得のいく説明をしてもらいたいものだよねえ。追求したってどうせ沈黙するだけだろうけど。


 今日で新職場も三日目だが、なかなか慣れない。
 慣れないというか、前の職場に比べて、ある課からある課への連絡がやたら滞ってるので、対応ができないのだ。別に自慢するわけではないが、私は自分の仕事に関して事前準備は怠らないほうである。もちろん、抜けがないとまで言い切るつもりはないが、会議の時間や場所などを確認するくらいのことは誰でもすることだろう。
 で、「これこれこの懸案について、今日、会議はあるんですか?」と課長に確認したところ、「こっちでもう準備しますから、藤原さんは待機しててください」と言われたのだ。
 ところがまあ、それならこちらはこちらで別の仕事の準備を、とやりかけていたら、「会議が始まってますよ、すぐ来てください」と連絡が入って、慌てて会議室に遅刻して駆け込むことになってしまった。要するに課長から課長へと連絡していくうちに、伝言ゲームのように内容がズレていっちゃったらしいのである。
 あー、だったら連絡は文書かなんかできちんと渡すようにしてくださいよ。だから支社のくせに広すぎるんだってば、ここ。


 マンガ、西原理恵子『毎日かあさん』2巻「お入学編」(毎日新聞社)。
 離婚したけど、西原さんは鴨ちゃんのところへ時々子供を連れて行く。父親の権利がどうとかで、調停で会う日が決められているのだろう。だからマンガにも相変わらず鴨ちゃんはあのまん丸のイガグリ頭の無精ひげのへんてこなキャラで登場する。
 娘さんが西原さんの耳元でこうささやく。「おとしゃんとおかしゃんはけっこんしてるの?」
 西原さんは答える。「うんそうだよ」。
 小さなうそだ。いつかはそれがうそだとばれる日が来る。あるいはもううそだと娘さんは気づいているかもしれない。それでも西原さんは小さなうそをつく。このうそはとても冷たくて、そして優しい。
 こういうマンガを描けるのに、西原さんはあとがきで「何描いていいかわかんなくなって」なんて言うのである。何でも描いていいと思う。何を描いたってファンは付いてくると思う。賞を取ったとか、そんなのは関係ない。『ちくろ幼稚園』のころから、『まあじゃんほうろうき』のころからのファンがたくさんいて、決して離れることはないと思う。
 西原さんは、私が一番ファンレターを送りたいと思いながら、絶対にファンレターを送るまいと決めている作家さんだ。多分、私の拙い筆では、どんなに褒めちぎってもファンレターにはならないから。

 巻末の石原慎太郎と西原さんのツーショットがラブリー(笑)。

2004年04月05日(月) 誰を、なんのために追悼しているのか、ということ。
2003年04月05日(土) やっぱりヨッパライ(^o^)/『ヒカルの碁』21巻(ほったゆみ・小畑健)
2001年04月05日(木) 鼻血ブーって覚えてる?/『ブレーメン供截牡(川原泉)ほか


2005年04月04日(月) たらいまわしの私/『DEATH NOTE(デスノート)』6巻(大場つぐみ・小畑健)

 新しい職場であるが、これがやたらだだっ広い。昨年度までの職場と比べると、多分三倍はある。それくらい広いとなると、どういう現象が起きるかというと、社員の誰かに内部のことについて聞いても、「よく知りません」という返事が返ってくるのである。
 いやまあ、新しくあれやこれやとやんなきゃならない仕事が増えたものだから、どこの部署に行けばいいかと、人づてに聞いていったのだが、これがサッパリ要領を得ないのだ。
 「ああ、それなら○○課の○○さんに聞いてください」
 「それは私よりも○○課の○○さんのほうが分かると思いますよ」
 「いや、私はよく分かりませんねえ。○○課の○○さんなら分かりますよ。ええもう絶対」
 「いや、私にそんなこと聞かれても」
 ……どないせえっちゅうねん。
 郊外の支社だというのに、前の職場よりも○○課だの○○課だの、十も二十も部署が分かれてるせいでこんなことが起きるのだが、まるで黒澤明の『生きる』の冒頭シーンそのまんまである。……ってよう、社内にいる人間が苦しめられるシステムって、いったいどうなってんだ。なんだか今度の職場もいろいろ苦労しそうではある。


 博多駅でしげと待ち合わせ、新しく定期券を購入。転勤で何かと物入りになってしまったので、実は私の小遣いはもうない。映画にも行けないが、それどころか定期券も買えそうになかったのでしげから借金したのだ。情けない話であるが、もともとはしげが仕事を辞めて実入りが減っちまったので、そのしわ寄せが一番大きい。
 何にせよ、予定外の出費でオロオロしている状態なので、セールスとか宗教とか、私に金目当てで近づいたりしないように。無い袖も襟も裾もスカートも振れんわ。こないだからひっきりなしに「マンション買いませんか?」なんて電話がかかってくるんだけど、私の職業までちゃんと知ってるし、個人情報流してるのはどこのどいつだ。


 食事は博多駅の「吉野家」で、二人とも牛焼肉丼。
 安上がりだし、誘ったのは私なのだが、「そんなに吉野家が好きか」と言われてちょっと怒る。しげが肉好きなのはビョーキだから仕方がない面はあるのだけれど、「高い肉の店」ばかりに行きたがるのは、経済的なかなり苦しいのである。「ウエスト」だろうが「牛角」だろうが、チェーン店でも焼肉屋は結構高くつく。二人で3000円、4000円は普通だ。その点、牛丼屋なら牛皿とかを余計に頼んでも2000円以内ですむ。
 今日もしげは「選べるのが牛丼しかないのがイヤ」なんて糞贅沢なことをほざいていたが、「吉野家」には豚丼だって鶏丼だってあるのだ。しげの脳内では「牛丼屋=しみったれた貧乏人が食いに行くところ」という牛丼屋好きが聞いたら激昂しかねない図式が出来上がっていて、いくら違うといっても聞き入れようとしない。いかにもうらぶれたサラリーマンとかオタクっぽい学生とか薄汚れたジャンパー着たガテン風のおっちゃんとか、居酒屋に行けよお前、みたいな下賎の民が集う場所だと思い込んでいて、それで食わず嫌いになっているだけなのである。でもなあ、そんなふうに偏見の目で見ているお前自身がなあ、紛うことなき「貧乏人」の一員なんだよ。
 いい加減で現実を認識しろよってことで無理やり牛丼屋に連れて行ったのだが、私の肉を分けてやったらやっぱりがっつくように汁も残さず食い尽くしたのである。庶民の口には充分美味いぞ吉野家の牛焼肉丼。
 ついでに言うが、ファーストフードの店だって、我々貧乏人は、本当は「モスバーガー」とかに寄っちゃダメなのである。「ロッテリア」でギリギリ、「マクドナルド」の「チーズバーガー」で充分贅沢。そういう感覚でいてもらわないとなあ。


 マンガ、大場つぐみ原作、小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』6巻(集英社)。
 こないだ鯨銃一郎の『新・世界の七不思議』を読んでいたら、何の説明もなく「デスノートに名前書くぞ」という台詞が出てきて驚いたが、ミステリマニアの世界でも、本作は「基礎教養」として認知されているのだ。
 けれど、最近の5、6巻あたりは、メインストーリーに絡み損ねている第三のキラまで出してくるし、露骨に「場つなぎ」の印象がして、以前ほどのテンションは維持できなくなっている。厳密に数えちゃいないが、今巻は月(ライト)の登場シーンがかなり少なくなってるんじゃないか。第三のキラの正体も、はっきり言って「面白くない」。RPGなら中ボスですらない、「咬ませ犬」のようなキャラでしかない。なんだこれは、これじゃあ今までの「ジャンプシステム」で作られた十把一絡げのマンガと代わらないじゃないか。どうしちゃったんだガモウひろし(ホントにそうなのか?)
 ……と思わせておいて、も一つどんでん返しがあれば面白いのだけれど、連載のほうはなるべく読まないようにしているので、この先どうなるか詳しくは知らないのよ。休載中なのは知ってるんだけど、つまり「煮詰まっちゃった」ってことなのかなあ。だとしたら無理やり連載続けさせてきたジャンプがまた一つ「被害者」を作り出したってことになるのかもしれない。切に復活を望む。


 マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』6巻(小学館)。
 『ギャラリーフェイク』のほうは完結だそうだから、これからはこの『ダブル・フェイス』と『闇の乱破』が細野さんのメインの仕事ということになるのか。……ちょっと小粒ってかんじだけど。本当は細野さんにはSFを描いてほしいんだけど、あまりマニアックなものが受け入れられにくい今のマンガ界の状況を考えると、ちょっと難しいかな。
 本作も昼間は街金のしがない営業員・春居筆美(最近になってやっとこの名前が「ハリー・フーディーニ」のモジリだと気がついた)が、実は闇の奇術師・Dr.WHOOという「ダブル・フェイス(カードマジックに使う両面とも数字のカードのことでもある)」のアイデアは奇抜だけれど、骨子は『必殺』だから、話もキャラクターもそんなにバラエティに富んだものは作れない。
まあそれを言い出せば『ギャラリーフェイク』だって基本は『ブラック・ジャック』なわけで、とうにマンネリの極地だったのだけれど、ネタの豊富さでマンネリをマンネリと感じさせないだけの技術を細野さんは持っているのである。だから決してつまらなくはないのだけれど、そろそろ受付嬢の小泉“世界一だまされやすい女”じゅんちゃんにDr.WHOOの秘密に気づかせてもいいのではないかな。そこで物語が終わるようなら、もうこのマンガは永遠にマンネリの極北を目指すしかなくなってしまうし。
 細野さんは絵に癖があるから(だからアニメ化には向かない)、それだけじゃファンはつきにくい。ドラマ自体は基本中の基本を押さえていかないと、ヒットはおぼつかないってことはわかるのだけれど、やっぱりもっと「濃い」ものを、と願っちゃうのはワガママかなあ。


 マンガ、青山剛昌原作、太田勝・窪田一裕まんが『名探偵コナン 特別編』24巻(小学館)。
 映画公開が近いけど、今度は初日には見に行きません。お金ないから(泣笑)。それにさすがにもうしげも付き合ってくれそうにないし。
 ああ、『特別編』のほうは本編ほどには腹は立ててません。もともと小学生向けに描かれてるんだから、トリックがチャチなのに目くじらなんか立てるほうが変。少年探偵団の話が多いから、微笑ましいくらいですよ。
 収録タイトルは「魅惑のファッションショー」「サーキットのA」「透明ケースに隠された真実」「魔の携帯メール」「宝石に秘められた奇術(マジック)」の五作。この中では「魅惑のファッショショー」がまあ見られる程度。事件が始まる前に、蘭の「無意識の」台詞でさりげなく伏線を張っているあたりはちょっと味がある。メイントリックはバレバレだけど。「サーキっトのA」、相変わらず暗号ネタは子供向けでも駄作。「透明ケース」はなんとタイトルでトリックと犯人をバラしている。いくら読者が小学生だからって、こんなに“親切”にしないといけないのかと疑問。「携帯」も同様でタイトルで中身バレバレ。単に小学生の知能を低く低く見積もってるんじゃないかという気さえしてくる。「宝石」は怪盗キッド登場編。キッドが特別編に出てくるのは初めてだっけ? ともかく無理して出演させてる感じがあって、トリックも一番ばかばかしい。でもこんなものなんだろうなあ。
 巻末のCMページを見ると、ついに小説版まで出るそうな。書き手の「谷豊」って、青山さんのアシストしてた人じゃなかったっけ? わざわざ小説版を出さなきゃならないわけがよくわかんないんだけれども、全国の学校図書館にでも置いてもらおうというハラでもあるのかねえ(タメイキ)。

 夜10時ごろ、また余震。今度は震度1くらいか。

2004年04月04日(日) 『レジェンズ』とリメイク版『犬神家の一族』と花見の夜と。
2003年04月04日(金) 遠い〜気球よ〜/『フライト・オブ・ワンダー』/『OO7/ダイ・アナザー・デイ』
2001年04月04日(水) ちかれた日〜(死語)/映画『宇宙怪獣ガメラ』ほか


2005年04月03日(日) 一日が喜八だけで過ぎていく/映画『ああ爆弾』

 『仮面ライダー響鬼』十之巻「並び立つ鬼」。
響鬼と威吹鬼、ダブルライダー活躍編で今回がどうやら物語の構成上、一区切りにあたるようだけれども、今一つ盛り上がりに欠ける印象。まあ一つは敵の魔化魍、これがここんとこ殆ど苦労もなしに倒されちゃってる「あっさり感」があるせいだろうね。
 今回の魔化魍は「オトロシ」。前回「サイか?」と書いたけど、カメだった。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では神社の鳥居の上にいる妖怪として描かれているが、カメは鳥居の上には登らんだろうなあ。こないだの一反木綿は空飛ぶエイだったし、イメージのすりあわせが、ちーとばかし強引だよねえ。
 つか、もうねー、「ジェット噴射」で空飛んだ時点で、テレビの前で誰もが「が、が、が○ら!」と叫んだであろうことは想像に難くない。往年の特撮ファンには「ウルトラマン対ジラース」を髣髴とさせる「ライダー対○めら」の夢の競演という趣向でしたね。いや、喜んだ人ってあんまりいないかもしれないけど(私もビミョー)。それから、あんなデカイのが空飛んでて、誰かに目撃される心配はないのかにゃん? いや、ダブルライダーも堂々と公道を変身したままで突っ走ってるけどさ。
 それにしても「百年に一度現れる難敵」だの「謎の魔化魍現る」だの「我等の子は決して敗れはせぬ」だのと、かなりな接戦を期待させといて、最後はひっくり返ったら起き上がれないって、やっぱりただのカメじゃん! ということで拍子抜けなのであった。本家がめ○はその弱点、ちゃんと克服してたのに(そのためのジェット噴射!)。
 響鬼が初めてバイクに乗ったけれども、「実は運転がヘタ」というのは「これは『仮面ライダー』ではありません」というスタッフの意志表示かな? いや、今更もうこれを『仮面ライダー』だと思って見ちゃいないけれどもよ。
 一方、明日夢は万引き目撃事件で今回も落ち込み中。勢治郎から説教されたりひとみから慰められたり、なんだかずいぶん優しくされてるけれど、もうちょっと厳しくされてもいいんじゃないか。あきらじゃないけど、「なんでそこにいるんだ」って感じのオミソな印象がかなり強くなっているぞ。多分もうちょっとで物語にちゃんと絡んでくるだろうとは思うんだけれど。


 『響鬼』を見てた時間帯以外は、日本映画専門チャンネルで「24時間まるごと岡本喜八」を立て続けに見る。
 今月のラインナップは『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』『ダイナマイトどんどん』『ああ爆弾』『結婚のすべて』『肉弾』『日本のいちばん長い日』『EAST MEETS WEST』など。何かもう、至福の時間である。
 どの映画も、これまで何度見返したか分からないくらい、好きで好きで好きでたまらないものばかりだが、いったん見始めるとやはりやめられないのであった。いや、こんなの全部感想書いてる余裕はとてもないのでご勘弁。
 あえてこの名作群の中から一本だけを取り上げるなら、和製ミュージカルの傑作『ああ爆弾』。初めて見たのはもう二十年も前の大学時代だが、その斬新なアイデアに度肝を抜かれ、興奮のあまり口をぽかんと開けながら見ていたことを今でも思い出す(実はオールナイトで見ていたので睡魔に負けて少し落ちていたのだ)。
 『幻の女』『黒衣の花嫁』のコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)のミステリ短編『万年筆』に、岡本喜八はとんでもなく大胆な脚色を加えた。なんとこれを「ミュージカル」に仕立ててしまったのである。しかも、日本の伝統芸能である「能」VSアメリカ発祥の「ジャズ&ゴーゴー」の「対決ミュージカル」として。
 伊藤雄之助演じるヤクザの親分が、自分の組を乗っ取った中谷一郎の代議士を万年筆に仕込んだ爆薬で殺そうとする。ところが、この万年筆がひょんなことから次々と他人の手に渡り……という物語の骨子はサスペンススリラーだが、今やジリ貧の伊藤雄之助や子分の砂塚秀夫は「能」を舞い(ついでに言えば伊藤の妻役の越路吹雪は日蓮宗の「どんつく」がテーマソング)、上り調子の中谷一郎一派はハチャメチャなゴーゴーで踊りまくる。いやもうその様子といったら既知外沙汰だ。
 ミュージカルが嫌いな人は、「何でいきなり歌いだしたりするの? 気が狂ってるみたいじゃん」と貶すが、蓋しその通り、岡本喜八はミュージカルをまさに「狂気」として演出しているのである。出てくる連中がみんなイカレてるんだから、イカレた連中がイカレた音楽に痺れるのは至極当然のことなのだ。『仮面ライダー響鬼』を見ている人は、この『ああ爆弾』を見れば、「ああ、あのミュージカルシーンはこれのマネだったのか!」と気がつくことだろう。そして『響鬼』のミュージカルシーンがなんであんなに「寒い」のか、いったい何が欠けていたのか、ということに気づくだろう。そう、ミュージカルは演者が狂ってないと面白くならないのである(特撮ファンには、有島“タコ社長”一郎と桜井“ゆりっぺ”浩子の掛け合いミュージカルのシーンがお楽しみだろう)。
 結果、日本の狂気はアメリカの狂気に敗れる。しかし、奢る平家は久しからず、最後の最後に中谷一郎に待っていた運命も……。これから先は言わぬが花。

 6時からMOND21で『平成極楽オタク談義』第一回「富野由悠季」の再放送。
 岡田斗司夫さんの「富野由悠季を貶していいのは俺らだけだ!」発言に苦笑。もちろん作品を褒めちぎった上で、「富野さん本人を」笑っているのである。
 7時半よりNHK総合で『名探偵ポワロとマーブル』(もうコメントはしません)、続けて『義経』。
 いつまで経ってもタッキーが全然義経っぽくならないのはどうしたものか。どうにもならないだろうけど。それよりももっと気がかりなのは丹波哲郎の老け具合である。滑舌もままならないんだけど、大丈夫かなあ。

 食事はしげが「カレー、カレー、カレー」とうるさかったので昼も夜も「ココイチ」。カラダが茶色くなりそうである(スパイスが効いてるから)。

2004年04月03日(土) 本物の外人さんって何%だろう。
2003年04月03日(木) 地元企業救済旅行(^o^)/葉加瀬太郎プロデュース「フォーシーズンズ・イン・ザ・スカイ」
2001年04月03日(火) ボクの地震、キミの地震/ドラマ『陰陽師』第一回ほか


2005年04月02日(土) ひとの住む街/『王道の狗』4巻(安彦良和/完結)

 昨日の余震で、玄海島の被災者の一時帰島が中止になった。
そうなるだろうなと予測はしていたが、今日はまた福岡にはかなりの量の雨が降っている。本震の後にも雨が降って、地滑りや崖崩れの起きた箇所が多々あったので、完全帰島がいつになるか、全く見えない状況になっているが、体育館での避難生活はもうかなり限界に来てるんじゃないか。
 病院も余裕がないなら、それこそ民間のボランティアで、ビルのオフィスの一室を空けたり、入居者のないマンションの部屋を一時的に提供したりするとか、天神あたりならいくらでもそれができそうな気がするけれど、そんな気配もないよなあ。それも行政が指導しなけりゃ動けないのかね。あるいはタダでそんなこたあできないと思っているのかね。
 天神・赤坂あたりでは、地震直後に一時避難した地区で、落書きや空き巣が横行したというけれど(避難させといて警備もしてなかった警察も糞タワケだが)、人間が住む環境自体が、あのあたりではかなり前から崩壊れているのである。再開発だの何だので、ビルを建て増ししたりデパートがぽこぽこ建ったりしたけれど、結局それは店同士の競争を生むばかりで、昔ながらの商店街のような横のつながりは失われてしまった。それはさらに西の西新・藤崎あたりの商店街の賑わいと比較すれば雲泥の差である。
 人が住まなくなったから、天神では小学校が廃校にも追い込まれた。それでもかまわん、と「遊びの街」を推進してきたツケが、まさしく「いざ」というとき、こういう形で出てきてしまったように思えてならない。何年か前、「住みやすい街」のアンケートで福岡はかなり上位に位置していたが、悲しいことに、天神近辺についてはその名を返上しなきゃならないようである。
 地震関連の話、そろそろやめようと思ってたのに、これだものなあ。うちもそろそろ部屋を片付けたいと思ってたのだが、まだ危なっかしくて手をつけられないのである。


 しげの体調、ようやく回復の兆し。
 てゆーかあ、ビョーキ? ってゆーより、ヤクチューだったのね、しげのやつ。
病院から睡眠薬を貰ってるんだけどー、なかなか眠れないからっていうんでー、一週間分貰ってるのを一気に三日か四日くらいで飲んじゃってたのねー。ばかだから。なのでー、あとの三日か四日くらいはー、薬がなくって眠れないし気分が悪いしって状態だったわけー。昨日薬もらった途端に具合悪いの治っちゃったってゆーからあ、薬くらいちゃんと自分で調整して飲めよって話―? てゆーかあ、病院に行ってんのにかえってカラダ悪くしてるんじゃ意味ねーじゃんねえ?
 ……気分がよくなったのか、今日は四六時中眠りこけてんだけど、いつもより「寝ぼけ度」が激しい。朝起きたら枕元にパックの飲み物があったとかで、私に「持ってきてくれたん?」と聞くのだが、私はそんな親切なまねはしていない。つか、寝てるしげのところに飲み物を持っていったりしたら、寝相の悪いしげのこと、布団の上に飲み物をぶちまかしかねない。しげが、自分で持ってきて飲んでいながら、そのことをきれいさっぱり忘れているのである。「確かにストローの挿し方がオレのやり方だけど……」と首をひねっているが、それが紛れもない証拠だ。
昨日の余震のときもそうだったが、確実に覚醒してるんじゃないかと思えるほどにテキパキと喋ったり出歩いたりしていても、実はやっぱり寝ぼけていて、翌日になると記憶から完全に消去されているなんてことがやたら多いのだ。夢遊病の気は前からあったが、薬を服用するようになってからそれが激しくなってきているのである。
 だいたい「眠れないー、眠れないー」とぶつくさ言いながら、実際にはいったん寝たら半日以上寝てるんだから(たまにトイレに起きるがそのことも全然覚えていない)、単に寝付きが悪いだけの話なのである。「自分は寝付きが悪い」と自己暗示をかけてるせいで眠れなくなっているし、眠ったら眠ったで半覚醒状態に陥っているのは、見てりゃ分かることだ。
 だからこそ、そういう「思い込み」を何とかするために薬に頼ったのだけど、そこでも「薬を飲んでも効かない」と思い込むから効かなくなるのである。何しろ薬を飲んだ後、「眠いのに眠れない」と言って無理して起きていようとするのだ。……あのなあ、眠いってことは寝ようと思えば眠れるってことなんだよ。つまりは「眠ろうって意志がない」ってことじゃないか。バカか。
 最近、しげの言動がおかしかったのはヤク切れのせいだったのである。笑い話にもならんが、しげが「何か変なこと言ってるなあ」というのはこれまでにもしょっちゅうあったことなので、それに振り回されたりしないように関係者各位におかれましてはご留意いただきたいと思います。全く、これではいつまで経っても改善の余地がない。もともと脳のどこかがイカレているのだとしたら、どういう手立てを取りゃいいんだろうか。


 昼間、雨の中を「レッドキャベツ」まで買い物と水汲みに。
 そのあと、「すき家」に回って食事。
 友人から「奥さんに肉ばかり食わせるな」と忠告されているのだが、しげはもう「肉中毒」でもあるので、しばらく食べていないと、やっぱり精神のバランスを崩してしまう。私には野菜スープとかを作ってくれるのだが、自分では食べようとしない。野菜を食っても食った気にならないらしく、結局こっそりとコンビニ弁当を買って来て食っている。そのあとゴミを片付けないからしげの部屋はゴミの山で埋まることになる。これじゃ健康にいいわきゃない。自然、イライラして八つ当たりばかりするようになるのだが、これも元はと言えば心のビョーキである。自業自得ではあるが、自分を苛めるほうに苛めるほうに追い込んでいながらきょとんとしているのだから、バカというよりはマゾなのかもしれない。……ああ、だからいくら叱っても生活を改められないのかも。
 私は豚丼に牛皿、しげはミニ牛丼と牛皿を頼むが、もちろんしげがこれで足りるわけもなく、私の牛皿をじっと見つめているので半分ほど分けてやる。だったら最初から大盛りを頼めばいいのに相変わらず見栄だけは張るのである。だから野菜も食えってば。


 安彦良和『王道の狗』4巻(白泉社/完結)。
 完全版、加筆付での最終巻の再リリースであるが、今回、本編以上に話題を呼んでいるのが安彦さんの「あとがき」である。
 この『王道の狗』の前作『虹色のトロツキー』が、NHKの『BSアニメ夜話』で取り上げられたとき、安彦さんはたまたまその番組の後半を見ていた。そこで、いしかわじゅんに「酷評」を受けたというので、激烈な反論を展開しているのである。
 その「酷評」を安彦さんが“まとめた”ままに引用すればこうだ。

 )「俺(=いしかわ)は、興味ないんだよネ。(中略)何が言いたいのか判らない。川島芳子と李香蘭が描けていない。旧い世代に属する安彦良和には、大友克洋以降の描き手達のようなリアルが描けず、動きも描けない。従ってその表現は、単なる記号論でしかない」……。

 これだけのことを言われれば、安彦さんが激怒するのは至極当然のように思われる。

 )「対象に対して興味を持たない者は、普通その評価作業からは降りるべきだろう」
 )「『虹色…』は川島芳子や李香蘭の物語ではない」
 )「漫画は、古いものであれ新しいものであれ、本質的に『記号』の集積なのだ」
 )「(動きが描けないという批判に対して)いしかわ氏の前で指パラのアニメを描いてみせてやりたい気になった」

 極めて長い反論なので、とても抜粋しただけでは安彦さんの反論の骨子は伝えきれないのだが、それでも『虹色』を読まれている方ならば、安彦さんの怒りも尤もだと思われよう。実際、ネット上の感想で、「安彦さんバンザイ」を唱えている人も多い(アンチいしかわじゅんな人なのだろうが)。
 私も、“これだけを読めば”安彦さんの主張は至極妥当に思える。
 アニメーター出身である安彦さんの絵の躍動感、これは『アリオン』のころから私たちファンが魅了されてきたことでもあるし、批判というのは「興味があるからこそ」行うものである(これも何度となく書いてることだが、私が『名探偵コナン』をこき下ろすのは「好き」だからなのだ)。いしかわじゅんの言は、明らかに批評家としての基本に欠けている。
 いしかわさんがが“本当にそんなことを言っていれば”の話だが。
 問題は実はそこにあるのであって、曲がりなりにも初回(大友克洋の『童夢』)から飛ばし飛ばしであっても『BSマンガ夜話』を見続けてきた者としては、いしかわじゅんが(その言動に問題が多々あるにしても)、“これまでの主張とまったく逆の”モノイイをするとはとても思えなかったのである。
 いしかわじゅんがやたらマンガの絵を「上手い下手」で批評するのは、「マンガとしての絵」であり、「動き」という言葉も「マンガとして」のそれである。だから西原理恵子の絵については「上手い」と評し、藤田和日郎については「下手」と言ってのける。「マンガ読み」に慣れてない若い読者にとっては、これは納得いかない批評であろうが、少なくとも40代以上でそれこそマンガ漬けの生活を送ってきた人間にとっては、この「区別」については納得がいくものだろう。西原理恵子の絵は一見汚らしくて下手に見えるが、「マンガとして何を表現したいか」と言えばまさしくその「汚らしさ」であって、時代とともに変遷してきたあの自画像は、西原さんの内面描写として最適なのである。『ちくろ幼稚園』の初期のころはまだまだ荒削りだった表現が、『ぼくんち』のころには西原オリジナルと言っていい「洗練されたへたくそ」の域にまで達している。それに対して『うしおととら』のころの藤田和日郎は、まだまだ自分の表現を身につけていない、どこかで見たマンガの模倣的な絵も多かった。そりゃ、「マンガとして」どっちが上か、と言われれば、西原さんに軍配を上げるのは当然なのである(さらに言えばいしかわさんは藤田和日郎についても「マンガ好きなために模倣から始まるのは当然」と決してけなす文脈の中では語っていない)。
 いしかわじゅんが「誤解」を受けやすいのは、彼が「マンガ好きにしか通じない」テクニカルタームでのみ語っているからで、どうもいしかわさんはテレビの前の視聴者をみんな自分並みの「マンガ好き」だと思い込んでいる節がある。んなこた絶対にないんで、マンガをたくさん読んでると嘯いてる連中だって、「歴史と伝統と文化」の文脈で読み解いてるヤカラなんて、数えるほどしかいない。現代のたいていの「読者」は、たとえば「ジャンプマンガしか読まない」「ガンガンしか読まない」「四コママンガ雑誌しか読まない」などというように細分化されていて相互交流がない。そんな人間にそもそもいしかわさんの「専門用語」が通じるはずはないのだ。
 これだけマンガが文化として定着している現代では、かえってその全貌を語れる人間などいなくなっている。『マンガ夜話』の出演者にしたところで、いしかわじゅんと岡田斗司夫両氏の世代間にはいかんともしがたい溝が横たわっているのである。
 悲しいことに本職のマンガ家であってもそういう「マンガ批評の言葉」に通じていない人は多い(マンガしか描いてないでコミュニケーションも薄いし活字を読まないからである)。言っちゃ何だが、安彦さんも「批評の人」ではない。そこに読み取りの間違いがあったのではないかと推測されるのである。
 あいにく私は、『BSマンガ夜話』の『虹色のトロツキー』の回を見ていない。つまりこれらの推測は確たる根拠を持たないものであるので、実際に番組を見ていた人で、安彦さんのあとがきも読んでいる人の感想がどこかにないものかとネットを探してみたら、これがあった。ほかならぬ『BSマンガ夜話』出演者である夏目房之介氏の日記である。
 実際にあの番組を視聴していたファンからの「別にいしかわ氏は『記号論』についてなど語ってなどいないのではないか」という質問に対する返答として、まだきちんとビデオを見返していないとりあえずの印象だが、と前置きした上で、いしかわ氏に代わっての「再反論」をしているのである。

 )「たしかに安彦さんの論旨はズレていると思います。多分、ふだんから夜話をみておられず、また番組も(書いておられるように)半分しか見ておられない。おそらくビデオで確認もされてないのではないか、と思います」
 )「安彦さんは、いくつもの情報をいしかわさんの発言ととり、さらにその解釈でも誤差を生んでいるように見えました(中略)」
 )「僕の理解の一つは、『虹色』の回の流れで、いおうとしていえなかったんですが『歴史(モノ)好き』の読み方(リテラシー)では、物語と直接の関係がなくても歴史上の人物が出ただけで『あ、こいつはこれからもっと苦労するんだよな〜』『こいつは、この前にこんな事件をおこした奴だな』とか、勝手に補助線を引いて楽しむところにあります。そういうことに興味のない人には、司馬遼太郎も『余談や無駄ばかりで物語になってない』みたいな読み方になってしまいますが、歴史好きは、まさにそこが読みどころなんですね」
 )「レギュラーのうち、いしかわ、岡田は、そういう意味では歴史(モノ)好きじゃないのかな、と思います。その感度の差が、あの番組では高千穂さんといしかわさんのズレになってるように見えますね」

 つまり、いしかわじゅんが「興味がない」と言ったのは、作品に対してではなく、「歴史上の人物が登場した時の歴史物好き独特の読み方」についてであって、作品批評の問題とは何のかかわりもなかった、ということだ。
 しかも、どうやら安彦さんが見ていない番組の前半では、いしかわさんは安彦良和を褒めちぎっていたらしいのである。一見「批判」のように聞こえるいしかわさんの言動も、本論から枝分かれした細論の部分での批評ではなかったか。安彦さんの怒りは初めから的外れであったのである。
 となると、安彦さんが一番拘った「動き」に関する反論もかなりズレがあるのではないかという気がしてならなくなる。マンガの絵の「動き」について語り始めたら、こりゃまた何十枚原稿を書けばいいか判らなくなるのでやめておくが、アニメーター出身の安彦さんの絵が、通常のマンガの「動き」の描写と違っていることは事実だ。そこのところの説明が批評者の舌足らずなどの関係で誤解を生んだ可能性もある。
 何にせよ、「表現」は原則的に「誤読」を排除できないものであるが、活字という形を取らない『マンガ夜話』のような「雑談」形式では(編集を経た『アニメ夜話』でも所詮は同様)、どうしたって誤解の振幅は激しくなる。正直な話、私はマンガ家としてはいしかわじゅんよりも安彦良和のほうが圧倒的に好きなのだが、愛着のある作品を「貶された」と思い込んだゆえのやむにやまれぬ怒りであったという心情に同情はするけれども、そもそも「ちゃんと相手の文脈を捉えて批判する」という批評の基本中の基本を弁えていないと揶揄されても仕方がない安彦さんの今回の「暴走」を、いささか悲しく思うのである。
 つかさー、「安彦さんバンザイ」を唱えてる「アンチいしかわ」と思しい批評家気取りの半可通、おまえらが安彦さん持ち上げるとさあ、かえって安彦さんの株を落とすことになりかねないんだよ。マトモな批評をしたいんなら、ちゃんと双方の意見を事実として確認した上で言えよってな。……再度私も念のため言っておくが、いしかわじゅんの批評にもこれまでの流れから判断するに、安彦さんが指摘したこと以外でかなりトンチンカンな言い回しや論理的な破綻がやたらあると思うんだけど、それは番組を確認していないから、断言することは控えておきます。今回の文、決して「いしかわじゅん擁護」のために書いたんじゃないからね。

 「あとがき」の感想で、マンガの感想になってないけど、本編はもう、まさしく「歴史物好き」には大興奮の傑作です。陸奥宗光の権謀術数ぶりがいいなあ(あくまでマンガとしてですよ)。

2004年04月02日(金) 初めての……。
2003年04月02日(水) ハカセ暴走!/『漫画アクション増刊 9人の宮本武蔵』/『手塚治虫マガジン』5月創刊号
2002年04月02日(火) だから仮病じゃないってば/DVD『京極夏彦・怪 隠神だぬき』ほか
2001年04月02日(月) 桜の森の満開の下/『イギリス人はおかしい』(高尾慶子)ほか


2005年04月01日(金) 暢気な初日と思ったら/『失踪日記』(吾妻ひでお)

 転勤初日。
 これまでの支社は通勤に1時間半かかっていたのが、今度の職場は徒歩20分にJRで23分、駅から歩いて5分、概ね50分弱で着く。しげに車で駅まで送ってもらえれば15分短縮されて30分強だ。ただ、それは行きの話で、帰りは電車の本数が極端に減って30分に一本しかない。でもそれでも七時前には帰りつけそうで、ずいぶん気が楽になる。
 久しぶりにJRに乗るが、思ったほど通勤ラッシュは激しくない。駅から職場まで、道がやや上り坂になってはいるがさほどだらだら坂というわけでもないので、明日に疲れを残さずにすみそうである。
 仕事はまだ初日なもので、会議が少々あった程度で、たいしたことなし。退社も定時。まずはゆるりと参ろうぞ、てな感じである。


 夜、震度3ほどの余震。隣の春日市では震度4を記録したとか。
 揺れ具合は前回と同様で、ゆらっと来て、ドン、と来る感じ。背後の棚の上の何かが落ちる音がしたが、何が落ちたかは確認できず。寝ているしげの部屋のほうでもまた雪崩の起きる音。揺れは10何秒ほどで収まるが、一瞬の恐怖は本震のときに近い。
 しげに「大丈夫か?」と声をかけると「うん、大丈夫」と答えが返る。起きてるなら大丈夫か、と思ったのだが、あとで分かったことだがこれはしげの寝言であった。どうやら時計だか本だかがしっかりしげのおでこにぶつかっていて、こぶができていたのだが、それでも目を覚まさなかったのである。こいつ、絶対寝ながら死ぬ運命にあるな。
 『報道ステーション』を見ていた最中で、古館伊知郎が深刻な顔で「詳しい情報があり次第お伝えします」と言ってたのに、後は何の報告もなし。なこの人が真面目くさってモノを言えば言うほど嘘っぽく聞こえてしまうのはどうしたもんかな。


 吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス)。
 発売から長いことかかったけれど、ようやく入手。
 友人から「まだ手に入れてないのか」とせっつかれたり、日記の読者さんからネット通販を勧められたりもして、なんだかあちらこちらにえらいこと心配をかけてしまいましたが、待ち望んだだけのことはありました。いやもうおもしろいったらない。
 この15年ほど、何度か復活しつつも、鬱で失踪、ホームレス生活、ガテンな仕事、アル中で強制入院と、一時期は完全に「消えたマンガ家」となっていた吾妻さんの私小説ならぬ「私マンガ」であるが、本職の私小説作家の作品よりもはるかに面白い。解説対談でとり・みきさんが仰ってる通り、実情は相当悲惨であったろうに、それをクールに見つめている姿勢が、作品をエンタテインメントとして成立させているのである。島崎藤村も田山花袋も嘉村磯多も徳田秋声もみんな自分に酔ってばかりいないで吾妻さんを見習え。みんな死んでるけど。
 何より嬉しいのは、「作者の出ないマンガなんてマンガと言えるか!」と言って、『やけくそ天使』や『スクラップ学園』『不条理日記』などなど、ほとんどの自作に自分を登場させてきたころとイメージがほとんど変化しないまま、本作でもマンガキャラクターとしての「吾妻ひでお」が主役を張っていることだ。史上最強のインランSFキャラクター阿素湖素子とタメを張り、隙あらば憧れのアグネス・チャンや林寛子に襲いかかり、妄想の中で妄想を紡ぎ出してきた「吾妻ひでお」なのである。だから「気が狂う気が狂う」とアル中による幻覚に苛まれていても、まるで悲惨に感じられないどころか「うん、ムカシから吾妻さんはそうだったものな」と微笑ましくすら見えるのだ。だって、「大好きな女子高生までが恐ろしい」なんて台詞、昔からの吾妻さんを知ってたら、同情しつつも爆笑するしかない。一読し終わって、帯に「自殺未遂」と書いてあるのに気づいて、「あれ? そんな描写があったかいな?」と思って読み返してみたら、「酔っ払っているうちに山の斜面を利用して首吊りしようとしたが眠ってしまった」というシーンがあった。あまりに暢気な描かれ方であったので、これを自殺未遂と認識できなかったのである。
読んでいる最中、私はこれを学習マンガのように読んでいた。ホームレスになったらどうやって食料を入手するか、どこで寝泊りすればよいか、ガテンな仕事はどうこなしていけばいいか。特に体が丈夫なわけでもない吾妻さんがこの境遇を乗り越えて生きてこれたことが、いずれ似たような運命に遭遇するであろう予感に襲われている私にとっては福音のように見えるのである。
 増刷がかなりかかったようで、博多駅の紀伊国屋では平積みで二列。その山も随分低くなっているから、もしかしたらベストセラーに近くなってるんじゃなかろうか。吾妻さん、一年間くらいは印税生活でやっていけないかな。
 あー、あと、この本買った人はカバー裏までちゃんと読んでね。

2004年04月01日(木) 四月馬鹿さ。
2003年04月01日(火) K嬢のえっちな絵/『戦国秘帖 黒の獅子』vol.1(永井豪)/『20世紀少年』12巻(浦沢直樹)
2002年04月01日(月) 心機一転?/映画『ビューティフル・マインド』ほか
2001年04月01日(日) 四月バカ/『ブンカザツロン』(唐沢俊一・鶴岡法斎)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)