無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年05月27日(木) 「義理」もまあ、ありがたいけど。

 ここんとこ、鬱陶しいことが続いているが、今日、キャナルシティから劇団四季のミュージカル『ユタと不思議な仲間たち』の招待券が送られてきた。こないだ、抽選に応募したのが当たったのである。四季嫌いのしげだけれども、タダなら文句はあるまい。ずっと前からこの芝居、見たかったんだけれども、なんか機会を逸してたんだよなあ。
 もっとも、招待日は決まっていて、それが平日なのである。……まあ有休取って、何とかしよう。でも同僚にはナイショ(~_~;)。
 

 二日経って、眼の具合、特に変化はない。
 つまりよくもなっちゃいないが、悪くもなってはいない。右と左と、両方に血管のような首吊り縄がぶら下がっているわけだがら、眼球を動かして(要するに寄り目にして)像を重ねれば、首吊り縄が3Dになって見えるかとも思って試してみた。ところがそうすると、縄と焦点が合わなくなって、縄そのものが見えなくなってしまうのである。
 ……おお、ということは焦点がズレればこの縄も見えなくなるってことじゃん! ……って、寄り目で生活なんてできゃしないって。


 職場でも、私の目の具合を心配して、同僚が次から次へと「いかがですか?」と聞いてくるのだが、なかなか返事が難しい。
 心配をかけないように、と「全然大丈夫でした」とウソをつくわけにはいかない。何しろこれでまた病院通いの回数が増えるのである。当然、仕事を同僚に肩代わりしてもらわねばならない回数も増える。それじゃ、「大丈夫じゃないじゃん」ということになってしまうから、やっぱり正確に病状は説明しておかなければならない。そうなればどうしても気遣われてしまうのであるが、心配してもらったからといって、目がよくなるわけでもない。壊れたものは元には戻らないのだ。
 同僚にしたところで、具体的にどう気遣えばいいのか分からないのは困ってしまうと思うのだが、私とて「こう気遣ってくれ」と言えるような具体的なものは何もない。しょうがないので、お互いに「大変ですねえ」「いやどうもご迷惑をかけます」と不得要領な会話を交わしている。せいぜい「すみません、時々気づかずにぶつかっちゃうかもしれませんが、インネンつけるつもりはありませんから」とか、ヘタな冗談を飛ばすくらいのことしかできないのだが、これで相手の気持ちが和らぐわけでもない。
 同僚が私に対して心配そうな顔をするのは「義理」である。「所詮は他人事」と冷たく突き放すようなモノイイをしたいわけではないが、「同情」の気持ちはあろうが、「愛情」のような強い感情ではないから、心底からの心配ではないことは事実である。ゆえに、「心配し続けなければならない」状況を強いられ続けることは、しょっちゅう顔を付き合わせてなきゃならない同僚にとっては苦痛であるし精神的な負担にしかならない。同僚がみな、しょっちゅう「近ごろ、調子はどうですか?」と尋ねるのは、気候の挨拶よろしく無意識的に投げかけられているけれども、その言葉の裏から、「調子がよければ余計な心配せずにすむのになあ」という感情が見え隠れしている。そういう要らぬ気遣いをさせてしまうことがまた私に溜め息をつかせることになっている。
 誤解なきように願いたいが、私は「義理」で心配されることを不快に思っているわけではない。確かに「義理」というのは「人情があるフリ」であるから、誠実ではないという見方もできるけれども、カミサマじゃあるまいし、人間、そんな誰彼なしに博愛主義になれるわけでもない。「人情がある“フリ”だけで済ます」「“フリ”を“真実”として受け入れる」という、日本人の「腹芸の世界」が、ここでも人間関係を成立させる潤滑油として機能しているのである。これは美徳と言っていいものだろう。
 けれど、フリはフリに過ぎないのであるから、「義理」を感じなければならない状況があまりに続くようであれば、そこに「無理」が生じてくる。かける言葉もなくなれば、自然、「遠巻きにされる」ことも生まれてくる。「義理」は、人間関係を長期に渡って継続させて行くツールとしては、そのスペックが甚だ不安定でアテにできないものなのである。しかし、これまで日本人はあまりにその「義理」という「交際マニュアル」に頼り過ぎていたために、それ以外の方法を考えることができなくなってしまっているのだ。日本人にいつまで経っても国際交流ができないのも、そもそも「義理」が通用しない外国人に対して手も足も出ないせいも大きい。
 「義理」の機能は認める。それは、希薄化しようとする人間関係を常に強固に結びつけようとする手段として有効だからだ。しかし、それはかつての生活空間がごく狭い、運命共同体的なムラ社会において効率的なものであった。行動範囲がこの五十年で飛躍的に拡大し、希薄な人間関係しか結べなくなってしまった日本人間において、「義理」で結びつく人間関係は既に不可能になりつつある。
 いい加減で、そういう「フリだけ人生」から脱却する方法を考えていったほうがいいと思うんだけど、どうですかね。御託をグダグダと並べてしまったが、要するに「病人なんて世の中にはゴロゴロしてるんだから、いちいち心配なんてしないでくれ」ということなのである。いや、病人には物理的にできないことはあるのだから、そのことを知っておいてほしいとは思うのだが、それを「苦痛」と思うような脆弱な精神は、持たないでいてほしいのである。
 まあ、そういう「義理」に守られ続けてきた人たちにとって、それが難しいことだってこともわかっちゃいるんだけれども。


 ……とかなんとか考えていたら、友人のグータロウくんから、「心配なんかしてねえけど、目の調子はどうだい?」と電話がかかってきた(^o^)。わかってらっしゃることで。


 「オレオレ詐欺」の被害が増えているというニュース。ふと気になって、父に「引っかかってない?」と電話したら、「トシヨリ扱いするな!」と怒鳴られた。いや、トシヨリ以外でも騙されてるけど……と言い訳しようとしたら、「バカや」とヒトコトで切って捨てる。全く、博多の人間のメンタリティとは言え、相変わらずミもフタもないモノイイである。
 確かに、詐欺事件の中でも、「オレオレ詐欺」についてあまり同情する気になれないのは、被害者に対して「なんで別人だって気づかないんだよ」という、マヌケさがどうしても先に立ってしまうからだ。実際、ムスコ本人が2階にいるってのに、そのことに気付かないでニセムスコからの電話に引っかかった母親とかもいるんだから、これを「バカ」と言わずに何と言おうか、ってなもんである。犯人の罪を追及するより先に、被害者のバカのほうが笑いの対象になってしまうのだ。
 詐欺を働く方も、こんなに「バカばっか」ならば、さほど罪悪感を感じないですむのも当然である。成功率が高くなければ(つまりバカが多くなければ)、こんなにお手軽に「オレオレ詐欺」が「流行」するわきゃない。「バカをバカにして何が悪い」というへリクツがここでも働いているわけだ。
 「バカがいなけりゃリコウが目立たん」とは、マーク・トウェインおよび私の父の言葉だが、バカばっか増えてもねえ。世の中ナメてかかる犯罪者を防止することも国民の義務とちゃうか。家に鍵をつけるのと同じくらいに、こういう詐欺に引っかからない、というのは最低限、できなきゃならない能力なんじゃないかねえ。
 しげに、「お前は引っかかるなよ」と言ったら、「払う金なんてない」と言われた。ごもっともである(~_~;)。
 

2003年05月27日(火) すっ飛ばし日記/メジャーかマイナーな男たち
2002年05月27日(月) また仕事休みました。/『コメットさん☆』DVDBOX/『ああっ女神さまっ』24巻(藤島康介)
2001年05月27日(日) 今度の芝居のキーワードは「裸」です/『ヨイコ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか



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