無責任賛歌
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2002年05月15日(水) |
目出物雄三ってキャラが某マンガにいたね/『まんが アベノ橋魔法☆商店街』(鶴田謙二)/『ガウガウわー太』3巻(梅川和実)ほか |
大使館亡命事件、どうやら五人家族を韓国に移送することで決着を図る方向に進む模様。 ……ま、要するに最初から出来レースだったってことだね。 マスコミは散々「五人の安否が心配です」とか煽ってたけど、ハナから命の心配なんかなかったんじゃん。つーか、政治的な見地から言えば、北朝鮮の人間を亡命させてやれなかったことより(前にも書いたけど、日本がそんな立場を取れるかどうか考えて見ろってば)、あの五人を大使館の中に入れたこと自体がそもそも失策だったってことの方が常識だと思ってたんだけどねえ。結構、マスコミに「洗脳」されてた連中、世間にゃ多かったみたいだねえ。 あちこちの日記だのサイトだのを覗いて見てもよ、猫も杓子も「人道」「人道」って、お題目みたいに唱えてやがって、気持ち悪いったらありゃしない。人道にゃ車が突っ込んでくることだってあるんだよ。政治的に何かできる甲斐性もないくせに、外面だけ善人のフリして、モノを言えた気になってる連中がこうもゾロゾロいるってのがどうにも気色が悪い。前にも書いたが、国威を掲揚した方がよかったのかね、日本は。中国が引かなかったら戦争になってもいいのかアンタらは。政治オンチがいっぱしの口利いてるんじゃないよ。 世間ってよ、もちっとアタマが良くて、あんな事件にゃ無関心でいられると思ってたんだがな。マスコミに洗脳されてなかったのは相変わらず唐沢俊一さんくらいのものだったね。 日本大使館の無能ぶりだけが目立ったようなカタチになってるけど、マスコミがそれを批判するのは目糞鼻糞と言うものだ。別に、日本人が外交に関して無能なのは今に始まった話でもなし、今回の事件、その前後で何かが変わったかと言うと、「何も起こりませんでした」。そういうことじゃない? あのビデオ映像に振りまわされて、やたら「人道的対応」を日本政府も大衆から迫られた恰好になってるけれど、もともと政治と人道主義が相入れないものだってこと、この国の人間は経験値として知ってると思ってたんだけどな。 もちろん、「正義派」とか「人権主義者」とか言われてる人たちが、「それでもあえて政治に人道を求める」と仰るとすれば、その姿勢に感心はするけども、実のところ、そんなヤカラは政治上、迷惑な存在でしかないんだよね。 頼むから、政治を「善悪」で判断するような幼稚なメンタリティは捨ててちょうだいよ。その幼稚さがかつてはこの国を戦争に突入させていったんだってこと、我らが先達は口を酸っぱくして語ってきたんじゃなかったのかね?
私の疲れもピークなのか、一日中ともかくダルい。 休憩も取れないまま、交互に押し寄せる目眩と頭痛にひたすら耐えて仕事。 しげはしげで、今日も腰立たないとかで、送り迎えはなし。 先月から送り迎えをサボったら罰金取るようにしてるけど、今日はさすがにかわいそうになって、自腹を切る。 でも往き帰り四千円の出費は給料日前はイタイんだってば。
それでもしげ、仕事の方は昨日からなんとか復帰している。 と言っても、腰にサポーター巻いて、左足をかばってなのでまだまだ不自由を託っているようなのであるが。 「平地だから平気」と、つまんないダジャレをトバしているが、いつまたふらついて足の上にモノを落としたりするか分らない危うさなんである。 少しは夫として元気づけてやらなきゃならんかな、と思って、夕方、仕事に出る矢先に「好きだよ」と声をかけてやったが、「嘘の愛は要らん」と言い捨てて出て行かれてしまった。 「なんでウソだってわかるんだよ」 「目が愛を語ってない。自分が言うだけ言って満足したら、さっさと目を逸らすじゃん」 「いつかは視線外すの当たり前じゃん」 「ほら見てん」 「だからどうしてお前はオレを極悪非道の大悪人に仕立て上げたいんだ?」 「事実やん」 「だから自分の妄想にオレを巻きこむな!」 なんだか最近、毎日のようにこんな会話繰り返してる気がするが、もしかしてこれも私の妄想だろうか。
アニメ『ヒカルの碁』第三十一局「プロ試験開始」 ありゃ、気がつかなかったけどOP変わってら。 今週からか? 監督交代の時に変化がなく、今頃ってことは、やっぱりあの監督交代、イキナリだったんだろうな。事情がよく解らんが、かと言って2ちゃんねるに行って、業界のウワサが流れてないかチェックするほどの元気はないし。DVDではどう説明してるのかな。……ってもう買うヤツは増やすまいとしているのに(^_^;)。 いつもは作画のことが気になるけれど、今回は新キャラの登場なので、声が気になった。 「プロ試験」と言えば、アレが出るじゃないですか、多分、女性ファンには総スカン、けれどドラマ的には絶対必要なアノ男の登場ですがな(^o^)。 そうっ! 外来受験者のヒゲ男、椿俊郎! さて、誰が声アテてるかなあ、と思ったら……え? 西村知道さん? 『うる星やつら』の校長先生!? そ、それはちょっと、いくら何でもミスキャストと違う? セリフにもあるけど、あの男のモデル、「椿三十郎」だよ、三船敏郎だよ?(名前が「敏郎」と「俊郎」で一字違うところはご愛嬌) となればどう考えたって、ドスの利いた太い声の人アテるのがフツーじゃん。大塚明夫とか玄田哲章とか郷里大輔とか候補者はいくらでもいそうなのに、西村さんじゃ、いくら何でも軽すぎじゃないスかあ!? うーん、これも桑原本因坊のように聞いてるうちに馴れるんだろうか。 ヒカルの川上とも子さんは、実はまだ聞き馴れないでいるんだけど、こっちの方はまだ、『ウテナ』の時の名演を思い出して、佐為との別れ、うまくやってくれるんじゃないかって期待しちゃいるのだ。 でも、西村さん、ちゃんとバイクにヒカルを乗せてくれるのかなあ? 少し心配になってきました。
ビデオでG2プロデュースの舞台、『人間風車』を見返しながら、晩飯のカレーを作る。 二度目で見返すと、ちょっと不必要なギャグも見つけてしまって、最初見たときほどの感動はない。それでもコメディとして、三谷幸喜作品よりは随分練られていることは練られている。 G2の舞台は福岡まで来てくれれば必ず見に行きたいのだけれど、今年は北九州までしか来てくれなかった。今年のゲストは水野真紀だったのに、ちょっと惜しかったなあ。再演、福岡でもやってくれないかなあ。
ちょうどカレーを食い終わったころ、しげが帰宅。 「あ、いいニオイ! オレの?」 「いや、今、俺が食ったばかり」 しげが眉間に皺を寄せて「へ」の字眉毛になって、目尻も垂らして「へ」の字になって、口も「へ」の字に曲げて、顔全体で「へえええええ?」と落胆したような顔を作ったので、余りに哀れで、ラーメンを作ってやることにする。 冷凍の喜多方ラーメン、チャーシューもメンマもワカメも予め入って200円しないというスグレモノだが、しげ、メンマとワカメをしっかり残す。 なぜそこまで好き嫌いができるかな。 こんなに栄養に偏りのある生活してると、いつか必ず大病すると思うんだけど、自制心がないから、野菜や果物を美味しく食べることができないのである。 いっぺん人間ドックに入れてやらなきゃと思いつつ、医者をとことん嫌がるのでそれもできない。カラダ壊しても助けてやらねーぞ、いいのか。
マンガ、GAINAX原案設定・鶴田謙二まんが『まんが アベノ橋魔法☆商店街 〜アベノの街に祈りを込めて〜』(講談社/アフタヌーンKCDX・1260円)。 出口竜正の「マガジンZ」連載版のハイテンション・アクションの方がアニメの雰囲気に近くはあるのだけれど、やはりなんと言っても鶴田謙二の凝ったイラストレーションが大版で読める魅力には抗しがたい。 鶴田謙二の絵は「母」のような絵である。 一見、柔らかそうに見えるその描線は、よく見るとどこか頼りなく、部分的には角張ってさえいるのだが、全体としてみるとなぜかそういう印象が消えてしまう。 細い線にも、実は細かな強弱がつけられ、ところどころ重ね書きもされて、その結果として描かれた人物や背景は、まさしく魔法のように「生身感」を持ってくるのである。 鶴田さんの描く女性のヌードは肉感的である。 それは痩せてるアルミ(ヌードにはならんけど)を描かせてもそうだ。 しかし、肉感的とは言っても、イヤラシクなったりセクシーになる寸前で「止まっている」。陰毛までしっかり描いているというのに、なんかまあ、そこに顔埋めて眠ってしまいたくなるような(* ̄∇ ̄*)。 そういう印象を受けるのは、一つには鶴田さんの絵が「動いていない」からだろう。効果線が殆どない、イラストとイラストをコマで繋いだような描き方が、必然的にコマ内での絵の時間を止めている。どんなにアクションシーンを描いても、鶴田さんの描く乳はガイナックスのアニメのごとく揺れることは全くなく、ただひたすらふくよかにそこにある。 それが結果的に「母」的なものとして現出しているのではないだろうか。 「静か」が鶴田さんの絵のキーワードであることは誰もが言うが、同時に「母」のような「懐かしさ」、これもあるのではないか。 鶴田さんの絵が好きな人って、マザコンが多いような気がするなあ……って、私もそうか?(^_^;)
マンガ、梅川和実『ガウガウわー太』3巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。 うお! 打ち切られもせずもう3巻。めでたいなあ。 どうもこのマンガを誉める時、私は余り冷静ではいられない。 多分、私が子供のころ、いろんな生き物と関わり、その死に際に立ちあってきたこともあるのだろう。兎や、鶏や、犬。 多分、私は今まで一度たりと、動物たちにとっていい飼い主であったことはなかった。このマンガを読むたびに思うのは「あのときこうしてやればよかった」という後悔の念ばかりである。 マンガの出来より、「動物といかに付き合うか」ってことの方が気になってしまうということは、それだけこのマンガが「成功」してるってことだろう。 絵の技術がどうのとか、コマ割りがどうのとか、私のようなマンガオタクはすぐ冷静ぶってそういったマンガテクニックのことを言いたがるが、そんなことを忘れて中身に埋没してしまうときだってあるのだ。
タヌキの吾作編のラスト、吾作が人を事故にあわせてきたトンネルに、何人もの人が立ち止まるようになる。そこには今、小さなタヌキたちの墓がいくつも並んでいる。 足を止める人々は、そこでタヌキを轢いてしまった運転手であったり、ただの通りすがりのカップルであったりする。 運転手は、カップルに背中を向け、墓に花を捧げると、一言だけ「ごめんなぁ」と言う。カップルの少女(でも妊婦らしい)はそれを見て涙を流す。 少年が「おい、どうした?」と声をかけても、少女は「わかんない」と涙を流すだけだ。イマドキの、ごくフツーの、耳にイヤリングをして爪を長く伸ばし、おそらくは髪も染めているであろう少女。普段、少年の前でもあまり涙など見せたことがないんじゃないかって感じの少女が泣いているのだ。 そこで何があったのか、少女は詳しく知っているわけではない。 ただ、そこで「命」に関わる何かがあった。それだけを彼女は感じて、それで泣いたのではないか。 このシーンには、主人公の太助や犬のわー太も全く出て来ない。 運転手もカップルも、ここだけの登場人物だ。 けれど、だからこそ我々は、そこに自分たちもいるように思う。彼や彼女たちに思いを致す。 そこで泣いているのは、キミの彼女だ。
動物と人間、に限ることはない。 人はみな人を愛し、憎む。そして罪を犯す。 人が人である限り、その運命から逃れられる人間はいない。 人を憎んでいる間、人は自分が罪を犯しつつあることに気づかない。 そしてあるとき、フッと、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気づく。 そして人は自分を責める。 赦されはしないと解っているから、自分を責める。 そうして自分を傷つけ、あるときは自殺を図りもする。 けれどやはり彼が赦されるわけではない。 一度犯した罪が消えることはないのだ。 その罪の犠牲になった者が、帰ってくることはないのだから。 彼を、彼の罪を、それでもあえて、赦すとするなら。 そこに「覚悟」がいるだろう。 これ以上は赦す、赦せないなどという境界を設けない、どこまでも「赦し続ける」覚悟が。
太助の父ちゃんが「カミサマ」をやめて、「獣医」になったのは、やっぱりカミサマのまんまじゃその「覚悟」ができないと判断したからなんだろうか。神様には覚悟も要らない、何が起ころうと無責任のままでいられる。 しかし、「ニンゲン」はそうはいかない。 命を助けた相手が人を殺す「悪魔」だったらどうなるのか。 それでも「赦す」。それが太助の父ちゃんの答えだ。 浦沢直樹の『MONSTER』でも問われた問題の答えの一つが、ここに提示されているのである。
委員長&小次郎編も完全収録。 昔からよく論議される、犬に服を着せる問題。 従来、私は、着せ方によっては皮膚炎を起こすことになり、飼い主が自己満足で服を着せるのはよくない、と考えていたのだが、このマンガ読んで、犬によっては服を「着たがる」ヤツもいそうな気がしてきた(^_^;)。我ながら単純だけど、室内犬の中には寒がりもいるだろうし、意外と犬の服って冬場とかには必需品なのかも。 ……って、ああ、やっぱりマンガ自体の話題にならないや。
2001年05月15日(火) 本を売るならBOOKOFF/『BLOOD THE LAST VAMPIRE 2000』(玉置勉強)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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