無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年05月12日(土) 今日までそして明日から/『私はスポック』(レナード・ニモイ)

 あっ、また投票ボタンが変わってる。
 「押せば〜?」って、しんちゃんかい(+_+)。


 福岡の映画館は、某ホ○劇場を除いて全て踏破してるつもりだが、去年新しくオープンしたばかりのワーナーマイカル福岡東(粕屋町)にはまだ行ったことがなかった。
 ちょうど今日から『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が始まるので、場所の確認がてら、二度目の鑑賞。
 正直なところ、もう二度目だし、最初に見たときほどの感動はあるまい、とたかを括っていたのだ。第一今度は、同人誌のためのネタを確認するためだから、メモ書きに気を取られて、映画の話の流れについてはいけまいと思っていたのだ。
 ところがぎっちょん(←古い。でもこれ語源はなんなんだろね?)。
 私はルノアールのココアより甘かった(←c.江口寿史)。

 メモを取るたびに、1回目には見のがしていたカットやセリフに気がつくだけでなく、あちこちに張られていた伏線にも改めて気付く。
 そうか、「スナック・カスカビアン」でしんちゃんたちがオトナになったのも「匂い」のせいだったのね。

 ひろしの回想シーンは子供のころ、父親銀之助との二人乗り自転車のシーンで始まり、現在の家族の自転車シーンで終わる。そうか、「家族」は21世紀も繰り返すって、この時点で語られてたんだなあ。というか1回目そのことに気付いてなかった私がバカ。
 前にもここで泣いたのに、今回も泣いてしまった。しんのすけの「とうちゃん、オラのことわかる?」のセリフに続く、ひろしの「ああ、ああ」と言うセリフ、こんなに情感がこもっていたのか。
 声優陣の、一つ一つのセリフに込められた思いが伝わってくる。1度目は泣けなかった「俺の人生はつまらなくねえ!」のセリフにも泣けた。なぜここまで私ははまってしまっているのだろう。でもそんなことわからなくてもいい。後半、私の涙は一瞬たりとも乾く間がなかった。

 音響もまるで違っていた。
 特定の映画館を非難したくはないので伏字にするが、前回『オトナ帝国』を見に行った○○○○は、スピーカーをスクリーンの裏に置いただけのクソ設備であった。
 冒頭シーンのビートルが、玩具ハウスに隠れたカスカベ防衛隊を探すひろしの足音が、5.1チャンネル(多分)サラウンドで聞こえてくる。
 極めつけはクライマックス、タワーを駆け上るしんちゃんのBGMだ。
 こ、こんないい曲だったとは。もはや涙は止めど無く流れている。
 音楽、荒川敏行と浜口史郎。この二人の名前も忘れはしないぞ。

 思わずハッとしたカット。
 走るしんちゃんの姿に見入っている夕日町商店街の人たち、魚屋で「お魚くわえたドラ猫」が逃げて行くのにも気付かない。
 あの『サザエさん』のルーティーンに町の人たちはもう背を向けている。
 『しんちゃん』と『サザエさん』のどこが違うか。
 『サザエさん』は既に様式の枠からはみ出ることなく伝統芸能化している。しかし、『しんちゃん』は永遠の幼稚園児でありながら、まだ今を生きていたのだ。

 「とうちゃんの足の匂いより臭い匂いはないぞ」、そう言ってしんちゃんは走る。ケンが「足の匂いでも止められない」と言っているのに、全く聞いていない。しかも、ひろしが足止めをくらって足の匂いがなくなっているのに、しんちゃんは意味もなくタワーを駆け上がって行く。
 デタラメだ。
 ケンとチャコが自殺を思いとどまったのも、しんちゃんの勘違いとキジバトのためだ(あんな高いところに巣を作るとはあの鳩も相当おバカ)。
 こんなにいい加減で、偶然に頼った結末はない。
 でもだからこそ感動を呼ぶのだ。
 ケンがふとつぶやいたように、私たちは近頃走らなくなった。意味のない行動を取るのが恥ずかしくなっていた。そつなくやり過ごすのが大人になることだと思っていた。
 でも無意味で、無責任で、自由で、おバカな行動が、世界を救うことだってあるのだ。『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』で、あたるがラスト、意味もなく走って世界を救ったように。
 もう一度走ろう。
 ただ意味もなく、夕日に向かって。
 『クレヨンしんちゃん』は別にシリアスな話に変わってしまったわけではない。やっぱり今回も今までと同じく、「おバカが世界を救う」物語だったのだ。

 映画が終わって、しばらく立ちあがれなかった。二度見て、一度目以上に泣いた経験は生まれて初めてである。もう迷いはしない。私の最高のフェイバレット・アニメは文句なくこの『オトナ帝国』だ。

 今回も私が泣いたので、しげが喜ぶこと喜ぶこと。
 映画館の隣の「SATY」で、オムライスをぱくつきながらも、いつもはさほど映画の感想を聞こうともしないくせにやたらと「どうだった、どうだった?」と聞いてくる。
 ちくしょう、また泣かせようとしてやがるな。どうもこうもねーや。
 俺はお前と出会えてよかったよ。お前と一緒にこれからも生きていけるのが嬉しいよ。あの映画見ながら、そんなことを考えていたんだ。でも、そんな気恥ずかしいセリフ、お前を目の前にして言えるか。
 ここで書いたからいいだろう。直接、俺の口から言わせようなんて思うな、バカタレが。


 連日オタアミ会議室を覗いているが、そろそろ一通りの感想は出尽くした感がある。実のところ、肯定派、否定派も含めて、私の予想をはるかに越えた意見が現われなかったことにホッとしている。
 その映画が認知、評価されるためにはとにもかくにも話題にならなければならない。しかし、いつぞやの『エヴァ』論争のように、「『エヴァ』を認めない者はアニメファンではない!」と言い切るようなファナティックなやつらが現われるようになると、その作品は正当に評価されなくなってしまう。
 薄いカルトは作品を世間に認知させる推進力となるが、濃いカルトは、作品の評価を地に落とすのだ。
 一見、感情的なやりとりに見えながら、『オトナ帝国』ツリーはごく冷静にそのテーマについての語り合いが続いていた。本当にこの映画が『ホルス』や、『カリ城』や、『うる星2』のように、カルトとなり得るかどうかはまだまだ未知数だが、その下地を作るお手伝いはできたように思う。
 ということで、私としては最後のつもりで、今日の日記に書いたようなことを書きこみ。
 ツリーを最初に起こしてから、都合、7回くらい書いたかな?
 でも4つのツリーで80近く書き込みがあったから、まあ10分の1、このくらいのはしゃぎぶりなら、会議室のみなさんに対して、そう迷惑にもなっていまい。


 レナード・ニモイ(富永和子訳)『私はスポック』読む。
 これは凄い。
 自伝の類というものは、たいてい我田引水的な自慢話になるか、露悪的なスキャンダル本になるか、どっちかである。いずれにせよ、書き手の意図とは裏腹に、その伝記の作品的評価などは無視されて、ゴシップについての興味から読まれてしまうことが圧倒的に多い。
 実際、「作品として」読むに値する自伝など数少ないのだ。
 ましてや『スター・トレック』については、これまで数々の「ウワサ」が流されてきた。Mr.スポック役のレナード・ニモイとカーク船長役のウィリアム・シャトナーの確執などは、ある意味「常識」でさえあった。
 しかし、この自伝、冒頭から度肝を抜いてくれる。なんと、「スポックからニモイに宛てた手紙」で「物語」が始まるのだ。
 それからもニモイは随所でスポックと対話しつつ、自らの軌跡を客観的に捉えようとする。これはまさしく演劇における「狂言回し」の手法である。
 映画『チャーリー』がこれと似たような手法を取っていた。ある俳優の回想を、記録者が質問を繰り返す形で誘導していく。ともすれば、自己弁護的になる俳優の言葉を、記録者は冷徹に問い質し、道を作っていく。ああ、そうか、これのルーツは『ハリウッド大通り』だ。
 そう、これは一篇の「小説」だ。
 『スター・トレック』サーガのスタッフ、キャストたちとの関わり自体をサーガとした、「創作」なのである。

 エピソードの一つも紹介しないのは不親切かもしれないが、どれを選んでよいやら判らないくらい、笑える話のオンパレードなのである。
 「カーン役のリカルド・モンタルバンの筋肉隆々の胸はホンモノだった」と書いてあるのを読んで、そう言えば『サタデー・ナイト・ライブ』中のスケッチ、「どっちがモア・マッチョ」にしっかりモンタルバンの名前が紹介されてたなあ、と思い出す。いや、そんな、他人のマッチョさにいちいち驚嘆して見せんでも(^_^;)。
 犬猿の仲と思われてるのを承知で、ワザとシャトナーと喧嘩して見せたり。
 スポックのくせにいつもユーモラスなのだ。
「スポックが恋しいか? いや、なぜなら彼はもう私の一部だから」。この言葉には素直に感動する。渥美清も寅さんについて似たようなことを言っていた。これが言えるのは、一つの役に固定されることが演技者としての死につながりかねない俳優にとっては、恐ろしく勇気がいる言葉なのである。
 なのに、この「物語」の末尾は、ニモイに向けられたファンの女性のこの一言で結ばれる。
 「あなた、レナード・スポックでしょ!」
 感動。



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