無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年05月29日(土) 手術決定&女の子の国

 行きつけの眼科がアテにならないので、もうちょっと大きめの眼科に出かけてみる。
 位置的に行きやすいところでもないのだが、住宅街に近いせいか、かなり繁盛している様子で、土曜日の午前中ということもあってか、待合は満員で、ざっと4、50人の患者さんが待っている。いつでも閑古鳥の行き付けの眼科とは雲泥の差だ。
 かなり待たされて、両目とも眼底検査、最初は女医さんに診てもらって、そのあと院長先生(意外と若い)に回された。
 即座に「網膜に変成が見られます。予防が必要でしょう」と、先の眼科医とは全く逆のことを言う。こちらは一も二もない。今日はもう手術は無理ということなので、ちょうど来週の火曜、糖尿病の3ヶ月検診があるので、その日の午後に治療を受けに来ることにする。治療費、またたっぷりかかるんだろうなあ、と思って聞いてみたら、前の眼科の半分以下。金額にしてン万円も安かったのだ。
 あああ、あの医者、ボッてやがったな。義理があってずっと通っちゃいたのだが、もう信用ができない。もう二度と行くまい、と決心したが、いささか遅きに失した感はある。義理だの人情だの、現代人にとっちゃ、足枷にしかなってないよなあと痛感することであった。

 『週間文春』の林真理子さんのエッセイで、宅配の寿司が異常に不味かったので、その寿司店の社長にクレームをつけた話が載っていたが、しげはそれを読んで「この人って『客人生』しか歩いてきてないよね」と言う。
 確かにクレームをつけることが生きがいなんじゃないかと思えるような品のない客はいるが、林さんの場合はそれほどでもない。社長に偶然会ったので、つい文句を言ってしまったが、ご本人が、「鬱陶しいオバサンになっちゃった」ということは自覚していて、自嘲しているのである。それに比べて、「芯のある米で握った寿司」を2時間遅れで宅配した寿司屋は、「商売人の自覚のない」と批判されても当然だろう。現実にそんな腐れた店は腐るほどあるのである。
 「お前、仮にも店を構えてるんだろう、大学祭の出店のタコ焼きみたいに、生煮えベチャベチャ、食えたシロモノじゃないってレベルと同等でどうすんのよ」と思った経験はみなさんにはないだろうか?
 いちいち目くじら立てるのもなあ、とガマンをしていれば、相手は「これで許されているもの」とつけあがる。基本的にサービス業であることを忘れてしまっているのだ。老舗だと自惚れている店ほど、そういう傾向がまま見られる。いやね、職人気質でガンコでも、美味けりゃ文句はないけどね、不味いもの食わせといて「不味いと言うな!」というのはただの傲慢でしょう、ってことなんですよ。「不味いなら食うな!」というのも的外れの批判で、そのイカレた逆ギレぶりが情けない限り。美味いか不味いかは食ってみなけりゃわからんという当たり前のことがもうわかんなくなってるんだよねえ。
 店には店の、客には客の、「分」というものがあるのだ。それがわからなければ、お互いに見限られても仕方がない。繁盛する店とそうでない店の差というのは、ホントにごくごく基本的な客あしらいで決まってくるところがある。私がウェイター、ウェイトレスの「よろしかったですか」という口調に不快感を示すことを避けないのは、それが客をバカにしている言動であることに気がついた人間なら。みながみな、言い続けなきゃいけないことだと思うからである。「クレームをつけるのもみっともないからやめよう」という判断は美徳ではあるが、既にそんな美徳が察せられる人間も死に絶えつつあるのだ。まあ死んでいいって思ってる人もいるんだろうけれどもね。


 昨日からまたまた「どうしたらしげは家事をするようになるか」ということを延々と話していたのだが、ともかく「家事をしようとする」と、「失敗したらどうしよう」という妄想がしげの活動を規制してしまう。なにもあれもこれも全部やれと言ってるわけではないのだから、とりあえず「食事と掃除と洗濯だけでも毎日するようにしたら」と何百万回も繰り返し言ってたことをまた言ったら、「じゃあ、食事と掃除だけする」と言う。これも何度もしげがそう言っては守れなかったことなんで、たいしてアテにはできない。
 それでも一年発起した気になったのか、しげ、買い物をしてクリームシチューを作る。でも鍋いっぱい、軽く十人前くらいは作るものだから、到底今日中に食い切れる量ではない。戦前の大家族かい、ウチは(-_-;)。性格が大雑把だから、微妙な加減というものがわからないのである。気持ちは嬉しいのだけれども、そもそもしげの大雑把な性格そのものを変えなけりゃ、問題は解決しない。普通の日常的な、誰でもできそうな簡単な家事だって、今のしげにはムリなのである。
 しげがきちんと家事に勤しむ姿を、いつの日にか見られるものかと期待して十一年が経ったが、私はまだ期待し続けないといけないのだろうか。


 斎藤美奈子さんの『紅一点論』をパラパラと読み返す。
 明日から『キューティーハニー』が始まるので、そのあたりだけを読み返しておこうと思っていたら、ついつい全部読み通してしまった。タイトルにある通り、特撮・アニメにおけるジェンダーを、少年少女用の「伝記」の系譜の流れから見直す、というコンセプトの評論だから、作品論とはちょいと違うのだが、作品を「男の子の国」「女の子の国」に二分化したときに、何の注釈もなく『キューティーハニー』を「女の子の国」に入れてしまっていることに、改めて首を傾げてしまった。……当時、女の子が中心で見てたのか? あれ。永井豪だぞ。まあ、後に『キューティーハニーF』と、ホントに少女向けアニメになっちゃったので、昔のアニメも、見てた女の子がいたことはいたんだろうなあ、と思いはするのだが、『F』に相当違和感を感じたことは事実なのである。
 斎藤さんは『ハニー』について、「戦うヒロイン」としてはあまりに突出していて、後続作品が続かなかった、と主張している。けれどもそれにはどうにも疑問を感じないではいられない。『ハニー』だけが浮いて見えるのは、そりゃ、テレビアニメの系譜だけで見るからで(そもそも「女の子の国」に分類すること自体、無理がある。ヒロインが女の子だから、ということであれば、あまりに短絡的な分け方だ)、昔から永井豪マンガを見続けてる立場からすれば、『キューティーハニー』は特に突出している作品でもないのである。
 永井豪の「戦うヒロイン」はもちろん『ハレンチ学園』の柳生十兵衛から始まっている。『あばしり一家』の悪馬尻菊の助、『ガクエン退屈男』の錦織つばさなど、初期の永井豪ヒロインはたいてい戦っていた。『デビルマン』の牧村美樹だって、決して守られるだけのお姫さまではなかった。『キューティーハニー』以降だって、『けっこう仮面』というトンデモナイものがあるのである。今度の『キューティーハニー』で特別出演の永井豪がハニーを見て「けっこう!」と叫ぶのは、ハニーとけっこう仮面がひと繋がりの存在であることの証拠だろう。
 私が永井豪にずっと引かれ続けていたのは、登場する女の子たちがみんな「強かった」からである。というよりも、「女の子は強い」ということのほうが私にとっては自然であった。私は女だらけの家で育ったし、私の母はいかにも「戦前の母」で、伝法で磊落、スカートなんてはいたこともないし、ゴキブリなんか平気でつぶすし、ドブネズミも素手で掴まえる、店に殴りこんできたヤクザの胸倉つかんで投げ飛ばすくらい、腕っ節も強かった。若いころはしょっちゅう竹を真剣で気合いとともに切ってたというが、戦前はそういう「強い女」は母に限らずいくらでもいたのだ。
 だからまあ、『宇宙戦艦ヤマト』の森雪が「だって古代くんが死んじゃう!」なんてブリッコしてるの見てると、私は「こいつこれでも女か?」と鳥肌が立っちゃうくらい気持ち悪く感じてしまうのである。
 なんだかねえ、日本は長らく男尊女卑の社会で、女は家に縛られてて、男の言いなりで従順にさせられてって、それが封建社会の姿だった、ていう人は多いけど、それって、もともと武家社会という、日本の人口から考えればほんの1%に過ぎない世界のイメージが、明治維新以降、拡大されていったせいで起きた錯覚なんじゃないの? 少なくとも、昔からビンボーだった「庶民」の家庭は、女だって働かなきゃならなかった。家庭に閉じこめてなどいられない。ヘタすりゃ稼ぎは父親より大きいから、家庭内での母親の発言権が父親より上だったところだって、腐るほどあったのである。
 「戦後、強くなったのは女と靴下」と言うが、私には「女は弱くなって、その分卑怯になった」と思えてならない。もちろん、そうでない女性もたくさんいるだろうが、男に甘える女、自分の弱さを売り物にする女、男に尽くすのが使命と考えているような女が糞にしか見えないのは、私の場合、確実に母親の影響である。
 私が『ヤマト』に殆どハマらず(キャラクター造形的には出てくるやつが全てナルシストばかりで、とてもドラマなどと言えるシロモノではない)、『ガンダム』で一番好きだった女性キャラがミハル・ラトキエで(ファーストシリーズ中、殆ど唯一と言っていいくらい生活感のある「働く少女」であった)、『エヴァンゲリオン』に一番燃えた(精神を病んでるか愚かなやつばかりだが、これだけ「甘えのない」女性キャラばかりが登場したアニメも滅多にない)のは、確実にそれぞれの作品の女性キャラの存在の大きさに比例している。
 斎藤さんは、女性ヒロインのエポックメーキングであった『ダーティペア』についても全く触れていない。見たことがないか、SFについて語る素養が全くないかで、「逃げた」のではないかと思われるが、あの作品くらい、「SF」という「男の子」の世界に、女の子が殴りこみをかけてしっちゃかめっちゃかにしてくれた痛快な作品もないのだ。星一つ破壊し、何百万という人間を死に至らしめておきながら、その張本人二人が「可愛いから許される」なんて物語が、SF以外のなんだと言うのだろう。「女の子」はその存在ゆえに、全ての罪が許される。女性の絶対優位を標榜したあの作品を無視していては、せっかくの斬新な批評も画竜点睛を欠くものだろう。できれば斎藤さんにはもう一度「仕切り直し」をしてもらって、新たに増補改訂版を出してもらいたいものなのだが。


 高知県の小学校で、校庭のごみ集積場の上に「女子のスクール水着と体操服を15枚ずつ用意しろ。でないと、学校設備を壊す」と脅迫文を張った無職の男が逮捕。
 ……そうかあ、よっぽどほしかったんだろうけど、「無職」だから買いたくても買えなかったんだろうなあ、思い余っての犯行なんだから、情状酌量の余地は充分にあるでしょう、学校も山本周五郎のように「これを持って帰りなさい。けれどもう二度とこんなことしちゃダメだよ。また水着がほしくなったら、来なさい」とか言って、許してやんなさい。うそ。
 脅迫文に、「身長1・6メートルのサイズ」と指定されていたってことは、飾って楽しむだけが目的ではなくて、自分で着るつもりだったってことなんだろう。学校側が無視していたら、「要求を5枚ずつに減らし」たっていうのが何ともいじましい。もともと15枚要求していたということは、毎日着替えるとしてほぼ2週間分、取っかえ引返えしたかったってことなのか。あるいは体操服を敷き詰めてその上で寝転んでみたかったとか。……やっぱ、職に就いて金稼いで自分で買えよって。
 でもまだハタチなんだよな? ハタチで働きもせず、考えてることは小学生の水着と体操服のことだけってのがなあ。いや、今はこれ、笑ってもいられるけど、この程度の性衝動も抑制できない人間が、逮捕されたからって反省するとも思いにくいんだよね。恐喝未遂だから、まずたいした罪には問われないだろう。すぐに社会復帰して、更に本能をエスカレートさせていって、ホントに取り返しのつかない犯罪を引き起こす危険性だってあるのだ。想像を逞しくすると、今回の事件は「前哨戦」であって、次にはその服を着せる「中身」を誘拐してくる腹づもりだったのかもしれない。160センチという指定サイズが「自分のため」じゃなかったとしたらどうか。
 日本の法律はまだまだ性犯罪に対して甘いと思うんである。

2003年05月29日(木) 追い込み日記/アカデミズムな男
2002年05月29日(水) 管理ってそういうことじゃなくてよ/DVD『絶叫屋敷へいらっしゃい!』/『ガンダムエース』7月創刊号ほか
2001年05月29日(火) ヒステリー・ヒストリー/『オサムとタエ 早春残光編』(村野守美)ほか



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