無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年06月02日(木) 見えるものと見えないもの/『こころ』(夏目漱石×榎本ナリコ)

さてまあ、何と言うかそりゃもう「おめでとう」としか言いようがないのであるが、別に知り合いでもない有名人についてそんなふうに言うのも変ではあるから「へええ」と言うのが妥当であるかもしれないのだが、『名探偵コナン』のマンガ家青山剛昌とコナンの声優高山みなみがご結婚あそばされていたそうである。終わり。
いや、それで終わっちゃわざわざ日記に書くほどのことはないのだが、『コナン』の作中に高山みなみが本人自身の役で登場してたり、高山みなみの写真集の帯に青山剛昌が熱烈な応援メッセージを寄せていたりしてたのは結婚の伏線だったのかなあと思いながら、これから先、愛妻に喋らせることを念頭にコナンの台詞がねっとりしたものになっちゃったりしたらやだなあ(特にコドモぶりっ子コナンな)とか、『ミスター味っ子供戮アニメ化されたらまた高山みなみには味吉陽一をアテてもらわなきゃなんないんだから、声優引退だけは極力避けてもらって、でも子作りは年齢的にギリギリかもしれないからちゃっちゃと済ませてもらって早めに現役復帰させてくれよとか、余計なことばかり考えているのである。


 「雑学」や「豆知識」が、会話の潤滑油になることもあれば、逆に論争のタネになってしまうこともあるという好例。
 「『万里の長城』は宇宙から見える唯一の人工建造物である」というのは、少年誌のコラムなんかにもたびたび取りあげられていて、私たちの世代にとっては常識のようなものだったのだが、それがいささかアヤシイ、と言われ出したのが数年前のことである。
 というのが、2003年10月、中国の宇宙船「神舟5号」で初飛行した楊利偉飛行士が、「『万里の長城』は宇宙からは見えなかった」と発言して、中国では小学校の教科書を書きかえるほどの大騒動になっていたのである。
 そのニュースを聞いた時には、これもよくある「常識のウソ」の一つだったのかなあ、と漠然と考えていたのだが、事態はこの先、更に紛糾することになる。
 2004年11月、国際宇宙ステーションに滞在していたリロイ・チャオ飛行士が宇宙から撮影した写真には、見えないはずの「万里の長城」がしっかり写っていたというのだ。それ以来、中国では「見える・見えない」論争が続いているというのであるが、要するにこれは「どの程度の高度までなら見えるのか」「天候によって見え方はどうなるのか」「肉眼とカメラの目の差はどうなのか」とか、それらの要素が複合されて見えたり見えなかったりするだけの話ではないかと思う。
 それに、「雑学」の面白さというのは、その真偽がどうかということよりも、そのネタを面白いと感じる人々の心理の方にあるので、実は「万里の長城」が見えるか見えないかという実際はどうでもよかったりするのである。つまり、「中国の人々」が「万里の長城が見える」ことにいかに固執しているか、という現象の方が面白いのだ。
 中華思想の白髪三千丈のお国柄だから、ご先祖様がこれだけのものを造ったんだぞって威張りたい気持ちは理解できないわけでもない。こっちだって素直に「すげえなあ」とは思う。けれど、何も「宇宙から見える」とまで主張することはない。そこまで言っちゃうとかえって滑稽だ。まるでモンティ・パイソンの「貧乏自慢スケッチ」(今は成功者となった人々が、若い時いかに苦労したかを語るうちに、ありえないことまで捏造して語ってしまう)みたいに、主張がエスカレートしてしまっていて、周囲から失笑を買うことにしかなってない。そのうち、「火星からでも見える」とか言い始めるんじゃないか(笑)。
 おクニ自体が自我肥大してしまうと、民衆の誰一人として自らのおかしさ、異常さに気が付かなくなってしまうものだが、戦前の日本がまさにそうであったように、今の中国も同じ轍を踏んでいるのである。中国人のメンタリティの幼稚さというか民度の低さはこのところのいろんなデキゴトで白日のもとに晒されているが、こういう論争にまでそれが表れてるというのが可笑しい。中国に対して腹を立ててる日本人は多いと思うが、こちらまでヒステリックになって嫌悪感や憤懣をぶつけて相手と同じレベルまで落ちてやる必要はないんで、ここは一つ、オトナの余裕を示して大いに笑ってあげればいいと思うんだがどうかな。


 マンガ、夏目漱石×榎本ナリコ『こころ』(小学館)。
 小説のマンガ化はたくさんあるけれども、『こころ』に着目した例ってのはあまりないんじゃないか。時代を現代に移してはいるが、ストーリー展開やセリフはかなり原作に忠実である。だからこそ、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」というKのセリフなどは現代人のセリフとしては違和感を感じてしまうのだが、まあ、時代錯誤な人間はいつの時代でもいるものだし、かえってそのことが登場人物たちの性格を際立たせている結果になっている。
 もちろん、「マンガ」という「形象」を伴っているがために、「私」も「先生」も「K」も、原作のように複雑で多様な解釈の成り立つ人物ではなく、ストレートに感情を吐露する人間として表されてはいる。その「単純さ」を嫌う読者もいるとは思うが、そもそもコミカライズや映像化というのは、作者の解釈が極めて限定された方向に働くものである。『エヴァンゲリオン』の流れの上にある榎本ナリコのキャラクターデザインは、センシティブな上に狂気の匂いすら孕んで、危険で蠱惑的だ。
 特筆すべきは、夏目漱石自身が「失敗」と呼んでいる構成上のミス、後半の「先生の遺書」のボリュームだけが異常に肥大してしまった点が改善され、バランスのよい物語になっていることだろう。おかげで原作の「私」は「先生」に比べてすっかり陰が薄くなっているが、榎本ナリコの描く「オレ」は、充分「先生」に対抗するキャラクターとして屹立している。
 更にもう一人、やはり原作では陰の薄い「お譲さん」こと「静子」が、「肉体」を持ったことの効果は大きい。漱石は必ずしも身体描写が得意な作家ではなかったので、ここにコミカライズされるべき意義を見出したのは榎本さんの慧眼であっといってよいだろう。まさか「先生」と「静ちゃん」のセックスが見られるとはなあ(映画では例があったけどね)。
 二人の恋の結末も、原作とは違っている。「現代ならば」、彼らの問題がどのような結末を迎えるべきか、それを明白に示した点で、今回のマンガ化は見事な「思想小説」になっている。ブンガクファンも読むべし。

2004年06月02日(水) 年齢は関係ないのだ。
2003年06月02日(月) 人間みんなどこか狂ってるけどな/『るくるく』1・2巻(あさりよしとお)
2002年06月02日(日) 天動説健在/『ブレーメン供截慨(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか
2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)


2005年06月01日(水) いいんだぜ/映画『オペレッタ狸御殿』

 あまり何やらの会員になったりするのは好きではないのだが、演劇関係となると話は別で、実はここ数年すっかり気に入ってしまった劇作家兼演出家の「G2」さんの(「さん」を付けないと、とても人の名前だとは気がつかれないね)「G2プロデュース」のホームページに会員登録をしている。
 月変わりのDVD販売も楽しみなのだが、毎月の特集記事が充実していて、更新が待ち遠しいのである。

 今月は何と中島らも一周忌特集。
 G2さんの語る「らもさんの思い出」が、語ってるG2さん自身がらもさんの優しさを思い出しながら泣いていて、それを読んでるこちらも自然と泣けてくる。

>(G2)らもさんはメチャクチャをするので、わかりにくいけれど、根はものすごくいい人でね。たとえば劇団の打ち上げでアンケートの読み合いっこをしたときに、誰かの失敗に突っ込んだのは、おもしろいから読まれるんです。でも、誰かが落ち込むようなのが読まれると、らもさんは、その人をほめるようなアンケートを探して、さりげなく読む。それもちゃんと笑いもとったりしながらね。そういうふうにして、人が傷つくことを、すごく避ける人でした。
>それが「いいんだぜ」というその曲に出てるんです。「いいんだぜ、いいんだぜ」の繰り返しのあとに、「君がめくらでも、君がびっこでも」と放送できないような言葉ばかりがずーっと続いて、最後に「いいんだぜ」で終わる。それだけの歌だけど、ものすごい深い愛を、ものすごい汚い言葉を並べて表現している。それを聴いて、一緒に行ったキッチュも泣いてました。

 どんなに大らかに生きているように見える人でも、心のどこかに何かの「傷」を持っているものだ。だから人はその「傷」を人前にさらすまいと、身の周りに幾重もの「盾」を「構えて」生きようとする。そうするしか仕方がないのだが、そうやって傷を守るために構えた「盾」だって、決して傷つかないわけではない。構えれば構えるほど、外界からの攻撃が増すことだってあるのだ。
 いつかその「盾」はボロボロになり、剥き出しになった心は、深く、これ以上はないというほどにズタズタにされてしまう。そうなってしまった人をどうしたら救えるだろうか。「頑張れ」とか「大丈夫」とか、生半可な言葉は絶対に届かない。「癒し」なんて流行語は屁の役にも立たない。けれど、らもさんの言葉は、そういう人たちにもちゃんと届いていたと思う。
 『いいんだぜ』の歌詞はこんなだ。

 >いいんだぜ いいんだぜ
 >いいんだぜ いいんだぜ

 >君がドメクラでも ドチンバでも
 >小児マヒでも どんなカタワでも
 >いいんだぜ

 >君が鬱病で 分裂で
 >脅迫観念症で どんなキチガイでも

 >いいんだぜ

 >君がクラミジアで ヘルペスで
 >梅毒で エイズでも おれはやってやるぜ
 >なでてあげる なめてあげる ブチ込んでやるぜ
 >君がいいヤツで だからダメなヤツで
 >自分が何をしたいのか 全然わからなくても

 >いいんだぜ

 >君が黒んぼでも 北朝鮮でも
 >イラク人でも 宇宙人でも
 >いいんだぜ おれはいいんだぜ
 >HEY’BROTHER&SISTER
 >君はどうだい

 >いいんだぜ

 いちいちどこがどう泣けると説明しだしたらキリがなさそうなのでやめるが、一つだけ言わせてもらえるなら、「いいんだぜ」、であって、「いいじゃないか」ではない点が、とてもいい。
 「いいじゃないか」と主張する歌はいくらでもある。本人は差別も偏見もない態度のつもりで悦に入っているのだろうが、それはとんだ間違いで、本気で自分に「傷」があっても「それでいいのだ」と肯定しているわけではない。単に開き直って、自己弁護の自己陶酔に陥っているだけである。
 それに対して、らもさんの「いいんだぜ」は、本気で人間を等しく全肯定している。「いいんだぜ」という言葉は、上の立場から見下ろしているわけじゃない。同じ立場の人間として、いや、“人間はみなダメだからいいんだ”という人間観で、“みんなを愛している”のだ。だから、らもさんの言葉が心に届かないことはない。
 正直に告白すれば、私は「君が鬱病で 分裂で 脅迫観念症で どんなキチガイでも」のところで、しげのことを思い浮かべて泣いてしまったのである。私がしげのことを「イカレてる」とか書くと、「自分の奥さんのことをそんなに悪く書くなんて」と文句を付けてくる人がたまにいるが、私はしげがイカレてることを隠さなきゃならないことだとは考えていないからこそ「イカレてる」とはっきり書くのである。しげがイカレていることが私たち夫婦の間で何の障碍にもなっていないのに、どうしてそれを秘匿したり「言い換え」たりする必要があるのだろうか?(まあ、しげが家事をしないのは困ったことなんだけど、それが原因で我々が別れたりするようなことにはならないので)

 常日頃、酔っ払いの悪口ばかり書いてるのに、アル中だったらもさんを賞賛するのは矛盾じゃないか、と仰る方もおられるかもしれないが、私ゃ確かに酒や酒飲みはキライだが、「人」が嫌いなわけではない。
 らもさんという人の何に感激しているかと言うと、普通、人は、立派になりたいとかマトモでありたいとか、言葉としての聞こえはいいが、つまりは人よりも頭一つだけでも「上」でありたいと思っているものなのに、そういう衒いが全くないどころか、“できるだけ人よりも低くありたい”と考え、かつ実行していたからなのだ。
 マトモな人にはこういうリクツは理解しがたいかもしれないが、らもさんは、「世の中のダメな人々を愛するために、自分が率先してダメになった」人である。酒もやった、薬もやった、人としてはどんどんダメになっていって、だからこそあれだけ人を好きになれた。馬鹿とののしる人はいるだろうが、そんな「上からものを言う人」には決して人を愛することの真実は見えてこないだろう。
 こんな豊かな人格をお持ちの人に、魅力を感じないではいられないのだ。

 もう一つ、特報で、後藤ひろひと作・松尾貴史主演、『BIG BIZ』『BIGGER BIZ』に続く第三弾完結編『BIGGEST BIZ 〜最後の決戦! ハドソン川を越えろ〜』の製作発表も。
 松尾貴史のモノマネとトリック・スターぶりを存分に発揮した、日本には珍しい「ギャグ」だけで「涙」や「感動」の要素がカケラもないこのシリーズ、1作ごとに設定も構成も展開もどんどんエスカレートしてきているので、これで完結となればいったいどんなことになるやら期待は大。
 これまでのキャストに加え、篠原ともえが初参加とか。この人が結構な「役者」であることは先刻承知なので、ナマで見られるとなればもう、女房を質に入れてでも見に行かずばなるまい(いや、ちゃんと一緒に行きますよ。言葉のアヤですって)。
 けれど、会場を見ると、これまでは一作目、二作目とも西鉄ホール、福岡での公演だったのが、北九州芸術劇場に変更されている。ああ、また北九州に「取られた」(泣)。もう、地方公演のある芝居で、見たいやつの大半はリバーウォークにばかり来やがるし。そりゃ、舞台の造りが違うから仕方がないんだけど。こないだの『シティーボーイズ』の舞台を見ても比較できるんだが、音響効果を考えた設計と言い、客席の傾斜と言い、東京公演の天王州アイルよりも北九州芸術劇嬢の方が頭一つ分くらい上なのである。
 福岡・博多は何してるんだ、という苛立ちの声を挙げるのもだんだん空しくなるくらい、九州演劇の中心地は確実に北九州に移ってしまっている。「演劇振興」を掲げた末吉北九州市長の努力が実ったと言えるんだろうなあ、儲かってはいないと思うけど。北九州演劇祭もすっかり定着しているし、これでまた旅費を少ない家計から捻り出してかなきゃならないのである。


 AMCキャナルシティで、映画『オペレッタ狸御殿』。
 脚本が『はれときどきぶた』ほかの浦沢義雄、監督が『ピストルオペラ』ほかの鈴木清順ということで、主演のちょっとオタクが入ってるオダギリジョーは「『ルパン三世』のコンビだ!」と狂喜したそうだが、別に『ルパン』を引き合いに出さなくても、この二人、もともと師匠と弟子の間柄なのである(兄弟子にやはり『ルパン』の脚本家・大和屋竺がいるね)。
 物語の筋は往年の『狸御殿』シリーズを踏襲しているから、極めて単純で、人間の若君と狸姫の種族を越えた(笑)恋を描き、命を落とした姫を救うために、若君が秘薬を求めて決死の冒険を……というものだが、単純なだけに、あまりクセのある脚本家・監督に任せちゃうととんでもない映画になりかねないのだが、やっぱりそうなった(笑)。
 定番の筋ではあっても、浦沢脚本のことだから、若君の雨千代(オダギリジョー)が実の父の安土桃山(平幹二朗)に命を狙われる理由が「ワシより美しいから」だったり、狸姫の命を救う秘薬が「極楽かえるの鳴き声」だったり、こういうナンセンスを書かせたら浦沢さんの右に出る人はいないのだが、いかんせん、そういうシュールなギャグを生かすためのテンポが、既に老齢の鈴木清順には生み出せない。
 そういうテンポを作るためにも、「オペレッタ」なんだから、ミュージカルシーンが大いに盛り上がってくれないことには困るのだが、これがまるでうまくいっていない。浦沢さんの作詞はもうハチャメチャで楽しいのだ(由紀さおりの「生まれ変わってもびるぜん婆あに生まれたい」って、アンタ生まれた時から婆あなのか、と大爆笑)。けれど、肝心の大島ミチルと白井良明が作ったメロディーが、もう作曲家として恥ずかしくないのかと言いたくなるくらいのクズ曲ばかりなんである。記憶に残るメロディーってのがどんなものなのか、ちったあ『サウスパーク』を見習ってくれ。オダギリジョーとチャン・ツィイーのダンスシーンも退屈なだけだぞ。
 といっても、ミュージカルのツボを外しまくった金子修介監督の『恋に唄えば』に比べればはるかにマシではあるのだが。薬師丸ひろ子の美声がこんなにいっぱい聞けるとは! 実際、この映画は平幹二朗・由紀さおり・薬師丸ひろ子の三人で“持っている”のである。
 
 正直な話、私は鈴木清順の熱心なファンとは言いがたい。一応、『ツィゴイネルワイゼン』以降の作品なら全て見ているけれども、日活時代の作品をせいぜい四、五本しか見ていないからだ。
 芸術とか映像美とか、そんな小賢しいホメ言葉が陳腐に聞こえるくらい清順監督の映画は「ヘン」なので、これはもう、私の感性としては当然「大好き」なんだけれども、どういうわけか見るチャンスを「外して」しまっていて、見損なってる映画が多いのである。エアポケットみたいな感じね。
 そのうちのいくつか、例えば『けんかえれじい』や『殺しの烙印』を見ただけでも「このカントクはイカレてるわ」ということはすぐ分かる。……と言っても、若い人は全然わかんないんだろうなあ。ヘタすりゃ、『ルパン三世(新)』の監修してたり、『美少女仮面ポワトリン』に神様役で出演してたことすら知らないかも知れない(何かのクイズ番組のレギュラー解答者として出演していて、いつもトンチンカンな答えばかり言ってたこともあったなあ。印象に残っているのは、「デブな俳優」というヒントに「岸井明」と答えてたこと。司会の紳助は目を白黒させていたが、無理もない話である)。
 だから、と言い訳するつもりはないのだが、私には鈴木清順という人があまりよく分かっていないのであって、面白いなあと感じている部分も、つまんないと感じている部分も、双方ともに印象批評の域を出ないのである。
 今回はそういうわけなんであまり突っ込んだ分析ができてないのですが、どうかご勘弁。

2004年06月01日(火) まだ眼が痛いのよ(+_;)。
2003年06月01日(日) 再開シンクロ日記(^o^)/映画『あずみ』
2002年06月01日(土) マトンウォーズエピソード0(^o^)/『ボンバーガール』1・2巻(にわのまこと)ほか
2001年06月01日(金) あえて美人殺しの汚名をきて/『「彼女たち」の連合赤軍』(大塚英志)



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