無責任賛歌
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2003年05月16日(金) |
すっ飛ばし日記/魔界な男たち |
しげがどうしても一緒に行ってくれそうにないので、一人でキャナルシティまで『魔界転生』を見に行く。帰りは1時間ほど歩きになるが、まあ仕方がない。 一見して、誉めたい部分と貶したい部分の落差がはげしいので困った。前回の映画化のように、「若山富三郎の殺陣以外は全部クズ」ってくらいにハッキリしてりゃものの言いようもあるのだが。
ともかく、原作を映画化するということはどういうことなのか、とか、そんな基本的なところから考察しだしたら、もう膨大な分量になってしまう。これはもう、説明不足、舌足らずになることは承知の上であえて乱暴なモノイイをさせてもらおう。
山本弘さんの「SF秘密基地」では、山本さんご自身が天草四郎について「前作の沢田研次の方がマシだったのではないか」、と書いている。 トンデモない話で、あんなオッサンのどこが十七歳の少年だというのか。映画のウソにしたって、程度というものがあるのである。かといって、今度の窪塚洋介がいいと言いたいわけじゃないのだが。 そもそもクボヅカがどうのという批評自体、この映画に関してはあまり意味をなさない。主役はだいたい天草四郎ではない。たとえ脚本家や監督が、窪塚洋介を主役だと認識し、そのつもりで演出していたとしてもである。だって、元々の原作にそういう要素がないのだから、どんなに改変を加えようが、四郎が主役になれるはずないじゃないの。 「魔界転生」というアイデアは、それまでの風太郎忍法帖の忍法・秘術とは性格が違う。それまでの忍法はあくまで登場する忍者たちの持つ「能力」としての忍法であった。しかし本作の魔界転生の秘術は、あくまで「裏方」にすぎないのである。 映画版ではカットされているが、原作では島原の乱の実在の軍師、森宗意軒の秘術として「魔界転生」は設定されている。 天草四郎、荒木又右エ門、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生如雲斎、柳生但馬守、宮本武蔵の七人の魔界衆が蘇り、柳生十兵衛と戦うことになるのだ。だが、しょっちゅう主役のように描かれる四郎は、確かに森宗意の後継者ということになってはいるが、あくまで魔界衆の一人。しかも、元々剣豪ではないために、仕方なく「忍法髪切丸」という妖術の使い手として十兵衛と戦うことになる。こうでもしないと、たかが美少年ってだけでは「十兵衛と釣り合いがとれない」のだ(当たり前だね)。なのに、物語の中盤であっさり十兵衛に倒されてしまうのだから、全く、何のために出てきたんだか。 原作のメインはあくまで、歴史上ではありえなかった、十兵衛と、剣豪たちの死闘。 いや、宮本武蔵対柳生十兵衛を描くこと。 これがこの物語のキモなのである。 十兵衛が一人、また一人と魔界の剣豪たちを倒して行くのは、それぞれの戦いも圧倒的に面白くはあるのだが、あくまで武蔵を倒すための布石である。ラストは巌流島の決闘の再現。これを「ラストシーンとして」描かない『魔界転生』は『魔界転生』ではない。 途中まで、映画は原作の精神を生かすように描かれて行く。 荒木又右エ門は十兵衛と嬉々として戦う。右腕を飛ばされれば、四郎に向かって昂然と「右手をくれ」と言い放つ。自分の命令を無視するかのような又右エ門に四郎が自死を迫ると、「貴様のためには死ねん」と嘯く。 たとえ四郎の方に魔界衆たちの生殺与奪の権限があろうとも、「剣豪」としての又右エ門たちのキャラクターを描いて行けば、天草四朗は、本人がどうあがこうと彼らを生かすための裏方、ただの脇役に過ぎなくなってしまうのである。 精神的優位は常に魔界衆たちにあるし、そうでなければ物語は面白くならない。前作の映画化ではカットされた、柳生但馬守対宝蔵院胤舜。ともに十兵衛との戦いを望み、それが果たせなかった二人。この二人の戦いを描くことにどんな意味があるか、脚本家は、監督は考えなかったのだろうか。 宝蔵院胤舜が「魔界もいいものぞ」と柳生十兵衛に嘯くシーンまでは、私はこの映画の成功を疑わなかった。胤舜の問い掛けに無言で答える十兵衛は、既に人の身でありながら、自らも精神的には魔界衆であることを肯定しているのである。
……なのにねえ、次にねえ、脈絡もなくさあ、いきなり対宮本武蔵が来ちゃうんだよ。 しかも演じてる長塚京三がもう、どうしようもない。ただの優しいおじさんだ。セリフにも殺陣にも鬼気迫るところがカケラもない。こないだ東京ですれ違ったときの方がよっぽど雰囲気怖かったぞ。又右エ門にも胤舜にも但馬守にもちゃんと戦うモチベーションを与えて描写してたのに、なんで肝心要の武蔵をこんなチョイ役に使うんだよ。 しかも、武蔵倒すの、十兵衛じゃないし(T-T)。 でさあ、一応ヒミツってことらしいから、原作にない最後の魔界衆、隠しておくけどさあ、なんで大ボスがアレなんだよ。整合性も説得力もねえだろう。 なんでこんな破綻が起きちゃったかって考えてみるとさあ、やっぱ「深作欣二の呪縛だなあ」としか思えないんだよね。天草四郎をメインに立てたりするような原作の改変、深作版からそのまんま頂いてるしねえ。 でも、それやっちゃうと「絶対に面白くならない」こと、平山監督にはわからなかったのかなあ。 「剣豪対剣豪」のドラマは次の十兵衛対但馬守で完結してしまう。しかも今度の天草四郎には「髪切丸」の忍法もない。装飾に凝って見せたって、盛り上がるものでもない。蛇足だけのシーンを見せられる方はもう、ひたすら苦痛だ。
けれど、それだけの致命的な欠点があるにもかかわらず、私はこの映画を嫌いになれない。少なくとも細川ガラシャがHするためだけに蘇って腰ばっか動かしてたチンケで糞な深作版に比べりゃ、何百倍も面白いのだ。 クボヅカがどうのってことに拘ってる阿呆には絶対に分からない、時代劇の魅力が横溢しているのだ。 あのロングでじっくりと見せる殺陣の数々、カメラが寄ってばかりで殺陣がどうなってんだか分らない『五条霊戦記』と比べてみればいい。柳生但馬を演じた中村嘉葎雄は、『キネ旬』で「ぼくは殺陣がヘタだから」と卑下して語っていたが、ほかの役者の誰よりもその剣さばきは早い。私は劇場で何度息を飲んだことか。劇場に行くほどでなし、レンタルビデオでいいや、とか考えてる連中がさ、テレビモニターの小さな小さな画面で「なんだつまんねえ」とか言うんじゃないかと思うと、私ゃ涙が出そうになるよ。 そして死に行く女たちのエロチシズム。クララお品役の麻生久美子の妖艶さと来たらどうだ。アレで勃たなきゃ男じゃないぞ。
……でも実際の話、劇場に足を運んでるのって、圧倒的に窪塚ファンが多いんだろうなあ。後ろにいたいかにもアタマ軽そうなバカップル、ラストで「何これ?」と不思議がってたけど、これはお前らのための映画じゃないんだよ(怒)。
帰りにコンビニに寄って夜食を物色。 ついでに永井豪『黒の獅子』2巻(完結)を買う。 アイデア自体は好きだったんだよなあ。戦国時代を舞台に、不死身のサイボーグ、ビリィ・ザ・キッド、張飛翼徳、ユリシーズらが地球を襲う「白魔」の手で蘇えらせられる(なんか魔界転生みたいね)。 でも、似たようなネタの『ズバ蛮』の面白さに比べて『黒の獅子』がどうにもつまらないのは、もうこのころの永井豪の絵から「若さ」が消えていたからである。本作には習作時代のオリジナル版があって、「永井豪展」で以前原稿を見たことがあったのだけど、やっぱりそっちの方が面白かったのだった。
2002年05月16日(木) で・じゃ・ぶぅ/DVD『アードマン・コレクション』 2001年05月16日(水) 鳥頭の女/『文鳥様と私』2巻(今市子)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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