無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年09月30日(火) 映画の栄華/『ロン先生の虫眼鏡』1巻(光瀬龍・加藤唯史)

 中洲の映画館、「福岡東映」が本日で閉館。
 まだ大洋劇場(洋画系)にオークラ劇場(成人向け)が残ってはいるものの、中洲はもう完全に映画の町ではなくなってしまった。東宝も松竹も東映も日活も大映も、かつての五社時代の映画をかける小屋はもはや一軒もない。
 「福岡東映」が、起死回生を賭けて全館リニューアルを断行したのは1994年のこと、早速私も見に行ったのだが、周囲を客寄せのつもりかゲーセンと飲食店でゴテゴテと固めて、肝心の映画館は狭い通路を地下にもぐって行かねばならず、何より音響がリニューアルとは名ばかり、昔ながらのスピーカーを舞台の両端に置いただけのオソマツなもの、音は割れててセリフは聞こえづらいという、映画館としては最低の評価を与えるしか仕方のないところであった。
 私が最後に「福岡東映」に行ったのは『エヴァ/シト新生』のときだったが、やはり音が割れてシンジがブツブツ呟いているところなどは何を喋っているかがサッパリわからず、業を煮やしてキャナルシティで同じ映画を見直したところが、あれだけくぐもって聞こえていたセリフが、今度はバッチリ聞こえたのであった。これには驚くというよりは呆れ果ててしまった。
 設備のどこにカネをかけるべきかが分かっているところとそうでないところとの差がハッキリ分かれていて、こりゃ東映も長くないなと思ったものである。結局、10年は持たなかった。映画館がなくなったあと、あそこは改装されて別の何かになるのだろう。でもどうせ周囲に合わせて呑み屋かチャラチャラした遊戯施設の類になってしまうのに違いない。

 映画館が一つなくなるというのは、普通なら淋しい思いをするものだが、中洲の映画館の場合はそれも仕方がない、という思いをするところが多かった。
 あまり詳しくは語れないのだが、仕事上、中洲の映画館の方々と何度か交流を持ったことがある。正直な話、あまり嬉しくない目にあったことも多かった。ともかく態度が横柄で契約は曖昧、話がとんとビジネスライクにいかないのである。逆に、キャナルシティのAMCに伺ったときは、その対応が中洲の映画館とうって変わって要点は明確、実にトントン拍子に話が進んで行ったのである。あのときは外資系の企業に、古臭い日本の興行主が勝てないのは当然だと思ったものであった。
 戦後の博多の復興に、中洲が貢献したことは事実である。けれど、あたかも闇市をそのまま大きくしたような形で中洲を発展させてしまったことは、博多に大きな禍根を残した結果になった。もういっぺん更地にして一から立て直した方がよかないかって気もしてくるのである。


 朝は早出で夜は残業。合間の休みは全くなし。代理の仕事も入って、息つくヒマもありゃしない。死ねというのかチトトンシャン♪ だから指の利かない人間に指を酷使させるなよう(T∇T)。
 まあ泣き言ばっか言ってるワケにもいかないので頑張りはしたんだけどさ、こういう時に限って、間違い電話とかが携帯にかかって来るのな。私の携帯は殆どしげとのやりとりでしか使ってないので、昼日中に掛かってくるのは99%間違い電話である。で、実際、ちょっと応対する時間すらないので、もう問答無用で切る。これで諦めるかと思ったら、しつこく掛かってくる。仕方がないので電源自体切る。ところがあとで電源入れたら、何度も入れてるのだ。そのくせメッセージは全くない。どこのどいつかと思って、仕事が引けてようやく電話をかけてみたらやっぱり間違い電話だった。気付けよって(-_-;)。
 それとももしかして、誰ぞへのサラ金の取り立てかなんかだったのか?

 バスの本数が少なくなったので、またタクシーで帰る。
 晩飯はコンビニのオニギリ。体重が落ちかけてきてるので、あまり暴食はしないようにという配慮である。
 

 福岡ダイエーホークス優勝の瞬間をBSで見る。とは言え特に感動はナシ。
 大阪対博多、ってのはプロ野球史上でもほぼ初めてなんじゃないかな? 西鉄ライオンズ時代の相手は確か全部巨人が相手だったような。
 大阪、博多、どちらも太閤秀吉が開いた商人の町という共通項があり、住んでる人の気質も似通ってる面が多い。かと言って仲がいいとも言い切れないところが微妙なところだ。松竹新喜劇や吉本新喜劇が好きで、小学校の頃、クラスにちょっと面白いことを言うヤツがいたら、先生や友達からすぐ「お前、吉本に入れ」と言われてしまう風俗まで大阪・博多と共通しているクセに(私も昔はよく言われた)、博多人は大阪弁を生で聞くのは耳障り、と感じているところがある。生の人間同士だと、やはりライバル意識が芽生えるせいなのか。
 野球そのものより、スタンドのファン同士の熱狂合戦の方が面白くなるかもしれない。

 チャンネルをいろいろ回してみると、福岡だけでなく、小倉でも大歓喜の様子が中継されている。まあ、みんなでお祭り騒ぎができること自体はいいこった。
 例の「飛びこみ」も、多分あっちこっちであってるんだろうが、その様子を中継している局は一つもない。実際の飛びこみ映像を放送することで、マネをして飛びこむ馬鹿がこれ以上増えたりしないないように、という配慮だろう。
 興味本意・野次馬根性の権化なテレビ局が、珍しくも良識的な判断をしたものだが、世間からの批判が強まったための腰砕け的な措置であることは分かりきってるので、あまり誉めてやる気にもならない。死者が出なきゃ、今日だって喜び勇んで撮影してたに決まっているのだ。
 テレビ局も、その程度の常識的な判断ができるのなら、日頃からも少し報道の仕方を考えとけよ、と言いたい。
 何にせよ、「飛びこみ者は報道の価値ナシ」、という判断がされたわけだ。「下の人などいない!」というのと同じことで、「飛びこみ者などいない!」ってことになったわけである。存在を消されるほどに世の中から迷惑がられてるってことなんだよ? 周囲の人間も気がついてるなら当人に言ってやんなよ。


 マンガ、光瀬龍作・加藤唯史画『ロン先生の虫眼鏡』1巻(秋田文庫・690円)。
 加藤唯史のマンガを最初に読んだのは『少年ジャンプ』の『サテライトの虹』だったので、当時の私の中では加藤さんは「かわいい女の子を上手く描ける人」という印象だった。でも時代はまだラブコメブームが来るにはほど遠く、「バックステージものは当たらない」というジンクスも手伝ってか、『サテライト』は単行本でわずか2巻で終わってしまった。しかもジャンプコミックスでは出してもらえず、落穂拾い的な作品が多かったジャンプ・スーパー・コミックスの方でである。表面的な人気だけでしか作品価値を判断できないジャンプシステムの中では、加藤さんはこのまま消えて行ってもおかしくはなかったかもしれない。
 ところが加藤さんは、いきなり活躍の場を『少年チャンピオン』に移して、「昆虫・動物マンガ」を描き始めた。画力のある人だから、そういう分野もソツなくこなしていたが、その転身ぶりがあまりに極端だったものものだから、当時はかなり驚いたものである。しかも原作者が、あの光瀬龍と来たもんだ(ロン先生が光瀬龍自身だということに気付くのにはちょっと時間がかかったが)。驚きは二重三重である。
 マンガとして見た場合、ウンチク的要素の強い本作は地味で、全盛を誇っていた頃の『チャンピオン』の中ではかなり損をして見られていたと思う。連載も巻末ページに近いことが多かったし、カラーになったことも殆どなかったのではないか。本書のあとがきでも、「チャンピオンの良心」と呼ばれながらも人気がなかったことを加藤さんが述懐されている。
 けれど、文庫による再刊ラッシュの中にあって、本作の復活は嬉しいものの一つだろう。

2002年09月30日(月) 今時の格闘オタク/アニメ『天地無用! GXP』第1話/『Heaven?』4巻(佐々木倫子)ほか
2001年09月30日(日) 新人さんの名前は?/『不幸な子供』(エドワード・ゴーリー)ほか
2000年09月30日(土) 邪馬台国と背後霊と泥繋がりと/映画『モンティパイソン 人生狂騒曲』ほか


2003年09月29日(月) 痛痒な腰痛/『だめんず・うぉ〜か〜』5巻(倉田真由美)

 早朝っつーか、昨日の深夜、いつもは午前様のしげが珍しくも12時前に帰宅。
 腹が減って喉が乾いてて遊びたいというので、ガストに出かけていって、ディスプレイで二画取りを延々3時間。
 最後はなんだか意識がモーローとなる。ふとしげを見ると、眼の下にクマ。多分私も、顔色が土気色になってたに相違ない。なんでそこまでするかな。
 でも、そこまでやりぬいたせいか、あれだけ熱中していたしげもすっかり飽きたようである。「まだやる?」と聞いたら、「もういい」と一言。ついこないだまでは「スキルが上がったね♪」と喜んでたのに、熱しやすく覚めやすいしげならでは。でもまあ、3時間もやり続けりゃそんな気分になるのも当然か。
 気晴らしに軽く、占いとかやってみる。
 「ポーの箱庭診断」、二人の相性を測ってみるがまあまあってところ。こういうので二人の相性が悪かったことは滅多にないが、神社のお御籤と同じで「大吉」の率が高い仕掛けになってるんだろうな。
 心霊ビデオのコーナーを開いた途端に、しげ、悲鳴を上げる。
 「なんでそんなん見るん! 消しい!」
 「オレはこういうの好きなんだよ! イヤなら離れてろよ!」
 「離れれるわけないやん!」
 「なんで!?」
 しげ、ムッとして答えない。その間も心霊ビデオは「もう一度見てみよう」とか言ってワイン蔵かどこかのヘンな影っぽいのを再現している。どう見たってただのシミュラクラである。いったいどこが怖いというのか。
 「いやあ!」と言って逃げ出しそうな格好をしていながら、しげ、腰を上げようとせずにニジリニジリと椅子の端に身を寄せるだけ。いったいどうしたのかと思ったら、ゲームのやり過ぎで腰を痛めて、動けなくなっていたのだった。
 だったら最初からゲームなんかしたがるんじゃないよ(-_-;)。

 帰宅は3時過ぎ。休日出勤の代休で、仕事が休みなので、夜更かしもできるのである。
 ひと寝入りして起きたら10時過ぎ。7時間は寝た計算になるので、寝不足ということはない。せっかくの平日休みなので、こないだの検査の結果を聞きに病院に行くつもりであったし、しげも「トリアスの温泉に行きたい」と言っていたので、グースカ寝こいているしげを起こしに行く。
 「そろそろ起きろよ、午前中にトリアス行くんやろ?」
 しげ、布団の中でモゾモゾ動いちゃいるが、起きあがる様子がない。それどころか息も絶え絶えに「……ゴメン、無理……」と言って私を見上げたその顔、ぐっすり寝たはずなのに夕べにもまして病人顔でマブタが腫れあがっている。
 思わず「どしたん?」と聞くと、「腰が痛くて動けん〜」と泣き出す。
 「腰が痛いから、マッサージに行きたいって言ってたの、お前じゃないか」
 「だからマッサージに行けんくらい、腰が痛いと〜」
 本気で体重落として、骨にかかる負担下げた方がいいんじゃないか。

 とは言え、私も気がつくと首の調子がおかしいのである。
 右には曲がるが、左に曲げようとするとキリキリと痛い。左側を見るときには、上半身から左に向けなきゃならないのである。寝違えたらしいので、お出掛けは中止。でもこんな調子では、日記の更新もままならないのである。


 マンガ、倉田真由美『だめんず・うぉ〜か〜』5巻(扶桑社/SPA!コミックス・900円)。
 5巻まで来ましたねえ。
 世にダメ男のタネは尽きまじなんで(つか、男はたいていどこかがダメである)、もうしばらくはネタが尽きなかろうから、もちっと続くとは思うけれど、いつかパワーダウンしちゃうときは来ると思うのである。くらたまさんの場合、「次」が予想しにくいんだよなあ。巻末に描きおろしでフツーのマンガが載ってるのは、「こういうマンガも描けますよ」というプロモーションか。ちょっとホロリとさせるタイプのマンガだけれど、どうしても西原さんを想起させられるのは損だと思う。どちらかというと、いしかわじゅんの『東京物語』みたいなセンで長編描けるようになった方がいいんじゃないかなあ。女性であの絵でそっち路線というのはあまり多くないし。一歩間違えるとただのレディースになっちゃう危険はあるけどね。
 今巻も「マサカこんなダメ男が本当にいるのか」というエピソードのオンパレードであるが、一番の特徴はたいてい「借金男」ですね。私もしげに金借りたことあるから大きなことは言えんのだが(^_^;)、ヒモ願望のある男って、結構多いんだよね。若いヤツで将来の夢を語るときに大風呂敷を広げるヤツには特に要注意。ミュージシャン志望とかアーチスト志望とか役者志望とか(^o^)。女に甘えてカネふんだくることしか考えてなかったりしてな。
 じゃあ、ある程度トシ食ったヤツで、それなりの地位も築いてるオトナだったら大丈夫かというとそんなことはない。詳しくは今巻のくらたまさんと林葉直子女史との対談をご参照のこと。ホラ、例の某名人のことです(^o^)。あの事件については、なんつーか、世の中には男見る目持った女もいなけりゃ、女見る目持った男もいやしねえんだなあ、としみじみ感じるお話でしたが。
 幸い私の場合は、あとでバクロされて困るようなテープなどは存在していないから大丈夫♪(ホントか?)

 ダメ男のことについては、こないだ劇団の集まりがあったとき、どういう経緯だったか、私とよしひと嬢と二人して鴉丸嬢に、「男がいかに女をモノ扱いするか」について、トウトウと説諭していたことがあった(なにやっとんじゃ)。
 男は女に「反逆」を許さない。ともすれば「オレの言うことを聞いてりゃ間違いないんだ」と支配しようとする。
 でもそれは男の「虚勢」なんですね。ホントは男って、すごく弱いんですよ。
 「自分がこの女を守ってやれる」「自分が付いてなきゃこの女はダメだ」ってのは、そう思うことで、やっとこすっとこ、「男」としてのプライドとか、アイデンティティを保ってるだけなんだけど、そのことに無自覚だから、そこを女に突つかれると、すぐに感情が爆発して、暴力を振るったりするんである。ドメスティックバイオレンスって、そんな感じで引き起こされてる場合が多いんだよ〜。
 そんな浅薄で単純な男ばかりじゃないだろうと、「白馬の王子様」を夢見てたい女性の方もいるかもしれないが、だからそれは夢です(^_^;)。叶わない幻想なんて、持たない方がいいと思うけどね。
 いいですか、女なしで自立できてる男なんていないんですよ。
 言い換えれば、「男なんてそんなもん」と見切って、うまいこと男に甘える術を身につけられてれば、女性はダメ男に引っかからずにすむんである。

2002年09月29日(日) やっぱり被害に合うのはしげ。/アニメ『サイボーグ009・地上より永遠に』/DVD『マジンカイザー』第7巻最終話ほか
2001年09月29日(土) 郵便ポストが赤いのも/『エクセル▽サーガ』8巻(六道神士)ほか
2000年09月29日(金) Sashimiと震災の真実とバーブラと/『爺さんと僕の事件帖』2巻(しかくの)ほか


2003年09月28日(日) 女優に有情/舞台中継『赤鬼 RED DEMON』/『砲神エグザクソン』6巻(園田健一)ほか

  悲しい訃報が二つ。

 漫才コンビ「いとし・こいし」の夢路いとしさんが、25日、自然気胸及び肺炎併発のため亡くなっていたことが分かった。享年78。
 私の年代の人間にとっては、1962年から12年間続いた「がっちり買いましょう」の司会が一番馴染み深い。けれど、歴史上、一番面白かった漫才コンビを上げよ、と言われて第一に名前の上がるのがダイマル・ラケットだとしたら、二番手は間違いなくいとし・こいしのお二人であろう。私個人は子供の頃、お二人のような大御所よりも、若手のカウス・ボタンや阪神・巨人の方が好きではあったが、お二人の牙城が揺らぐことは決してなかった。20年前の、あの異常な漫才ブームのさ中にあっても、お二人の漫才は「いつも通り」で、そのときようやくお二人の漫才が至極「上品」なものであることに気付かされた。
 プロフィールを調べてみて驚いたのだが、お二人は1945年、広島の爆心地近くで被爆しているのである。原爆症にならなかったのは奇跡としか言いようがないが、笑いの神様がその才を惜しんだのかもしれない。
 93年、兄弟で紫綬褒章を受章。


 27日、『雨に唄えば』のドナルド・オコナー氏が、心不全のため死去。享年78。
 仮にミュージカル映画のベストワンを選べ、と言われたら、これもまたアチラを立てればコチラが立たずで頭の痛いことであるのだが、あえて個人的な趣味で選んでしまえば、私の場合は何と言っても『雨に唄えば』である。
 ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ(レイア姫のキャリー・フィッシャーのママと言わなきゃわかんない人もいる。嗚呼……)、ドナルド・オコナーの三人によって歌われた数々のスタンダードナンバー、主題曲の『雨に歌えば(Singin' in the Rain)』や『グッド・モーニング(Good Morning)』を何気なく鼻歌や口笛で歌った経験のある人も多いだろう。
 中でも、『ザッツ・エンタテインメント』でも取り上げられたオコナーのまさに一人舞台、『笑わせろ(Make'Em Laugh)』。壁を走り撥ね回り、元はサーカスの役者だったというのもさもありなんというパフォーマンスぶりで、私なんぞはこの一曲でジーン・ケリーよりもドナルド・オコナーの方が好きなっちゃったくらいである。DVDにはオコナーのコメンタリーも収録されているそうだ。買おうかどうしようか、随分迷ったけど(というのも、これは親父も買う可能性が高かったから)、買っちゃおうかなあ。
 ミュージカルダンサーの旬は短い。ジーン・ケリーもフレッド・アステアも、一時不遇をかこち、晩年は性格俳優に転じた。オコナーの場合も、70年代は映画出演作が一本もなく、80年代になってようやく『ラグタイム』や『トイズ』に出演している(でもどちらも見てるのにオコナーが出てたかどうか記憶にないんだなあ)。それが世の習いとは言え、いささか淋しいことである。
 遺作はジャック・レモン、ウォルター・マッソー主演の日本未公開作『カリブは最高(Out to Sea)』(1997)。未見だが、なんとオコナーはこの作品でタップを披露しているらしい。当時71才、まさしく最後の芸を披露してくれているということか。レモン&マッソーの名コンビにとっても、この後の共演作は『おかしな二人2』があるのみである。
 この辺までキチンとフォローしてくれない死亡記事が殆どなのはホントに残念(T.T)。


 先週はうっかり見損なってた『鉄腕アトム』、ウワサによるとなかなかよかったらしい。アニマックスの再放送待ちとして、今日はしっかり見逃さないようにする。
 第25話『もしも涙を流せたら』。
 タイトルだけ見ると、これは原作の『電光人間』のときのアトムのセリフから取ったもののようだが(アトムにお茶の水博士が「涙を流す」機能を付けたのは、『宇宙こうもり(コウモリ伯爵)』のエピソードのとき。ただし、単行本ではカットされている)、ストーリー自体は関係がない。

 地上の環境を守るために、地下に作られた理想都市・ジオシティの落成式に招待されたお茶の水博士とアトム。
 しかし、都市の設計者・セバスチャン博士(=手塚キャラのフランケンシュタイン博士)は、環境修復システムが、ホログラフィのニセモノであることに気づく。このままでは地球は地下から汚染されてしまう。
 ジオシティのマニー市長は、直前になって環境修復システムにかける資金が惜しくなったのだ。セバスチャン博士は、都市の機能を止めるために、植物育成剤・ケミカルAを巻くが、異常な繁殖を始めた植物は、都市を、人間たちを襲い始めた……。

 「ケミカルA」と聞いて、つい、『PPG』を思い出してしまいましたが、まあ、クスリにつける名前としてはオーソドックスなんだろうか。
 人間の環境汚染に復讐する植物の来襲というのは、もう見飽きるほどに見てきているネタだけれども、子供だま……ああいやいや、よりよいお子様を育成する「善導」アニメとしては、いっぺんはやんなきゃいけないネタだったんだろうねえ、と、海より広い心で許してあげましょうよ、ねっねっ。


 たまにちょこちょこ見ている『いつみても波瀾万丈』、本日は「安達祐実伝」(^o^)。まだ22だろう、ちょいと早いんじゃないか、と言いたくもなるのだが、デビューが2才というから、実はもう20年のキャリアがあるのである。実際、言葉遣いが実にしっかりしていて、「じゃないですか」を連発する福留功男の喋りの方が鬱陶しく聞こえるくらいだ(^o^)。小学校時代からずっと続く「苛め」も相当酷かったみたいだし、それでグレずに堪えてきたのは立派なもんである。一歩間違えばドリュー・バリモアになってた可能性もあるのである。ちょっとなってる面もあるか。
 実際、「役者」としての安達祐実はやっぱり今も「不遇」なんである。映画出演は『お墓がない!』(1998)を最後に、一本もない(声優出演を除く)。テレビレギュラーは一応、『大奥』とかがあるけれど、主演ではない。
 そういった安達祐実の「惨状」を見るにつけ、役者を、特に女優を育てるのって、今はホントに難しくなってるのだなあ、と思ってしまうのである。迷走してる印象は強いけど、本来、女優の才能のある人だってことは、見てりゃわかりそうなもんだけど。本当なら、主演映画がもう10本はあってもいいのに、生かせる監督がいないんだよなあ。
 『家なき子』のあと、随分長いこと干されたそうだけど、その理由というのが定番の「色が付いてて使いにくい」ってやつ。それさあ、役者の個性を生かせないってのとと同義なんだがなあ。だって、それ言い出しゃ、使える役者って、男優だろうが女優だろうが誰もいなくなるじゃん。
 『ガラスの仮面』は、安達祐実の転機になるドラマだったんだが、あれ以来、グラビアアイドルの方に行っちゃって、これといった「演技」を披露する機会に恵まれていない。なんであの時期に映画版を作らなかったかなあ。今でもまだギリギリセーフでイケるから、「紅天女編」やれよ。原作無視して完結させていいから。テレビスペシャルみたいにキスして終わりってそんな生っちろいもんじゃなくて、ちゃんと劇中劇で『紅天女』作っちまえばいいのになあ。
 まあ、その『ガラスの仮面』で共演した野際陽子とどんな会話するんだろ、と興味があって、今回の『波瀾万丈』を見てみたんだけれども、ごく不通の会話でしたね。そりゃそうか。
 「初めて会ったとき、なんて澄んだ眼で真っ直ぐ見る子なんだろう」という野際陽子の述懐は間違いなく当たってる。『ガラスの仮面』にハマる人ってのは、ちょっと危ない方向に行きはするけれど、役者としては「使える」ようになるのである。大竹しのぶ然り、荻野目慶子然り。なんかスゴイ系譜だけど、だからこそ演技に「個性」が生まれるんだよ(^_^;)。


 昼間はアニマックスやらWOWOWをぼんやり見ながら日記書き。時間があるとついつい長めに書いちゃうのでやっぱり更新が追いつかない。
 今日から『名探偵ホームズ』の再放送が始まるので、それも録画。ビデオでは持ってるけどもうこれからはDVDしか見そうにないから。全く技術の進歩にも困りものである(-_-;)。
 正直な話、宮崎駿が絡んでないやつで見たいのは殆どないんだが、まあそれだけ録画するってのもなんか中途半端な感じなんで一応全話録るつもり。できるかな。
 WOWOWで『ダーティハリー』、久しぶりに見るが、もう1も2も3も頭の中でゴッチャになってるので(多分5まで全部見てるはずなんだが)、ラストで犯人が撃たれて湖に浮かぶシーン、「あれ? スタジアムで死ぬんじゃなかったっけ?」とか首を捻る。これだから映画も2度、3度と見返さなきゃなんない。これからはホントに記憶力との戦いになるなあ。


 夜、NHK教育でNODA・MAPの『赤鬼 RED DEMON』、ロンドン公演版を見る。
 日本版は日本人の中に一人だけ外人が混じる、という設定だったと思うが、こちらは外人の中に日本人である野田秀樹だけが混じる逆設定。
 野田秀樹が「赤鬼」ってのはムチャだと思うが、面白かったのは、日本人という設定でありながら、野田秀樹のセリフが殆ど日本語でないハナモゲラだったことだ。たまに「Oh!God!」が、「大事」と混同する、というギャグはあるが、ともかくのだひできは「へにょろぺっちゃらくっちゃら」みたいな喋り方で殆ど言語不明瞭な謎の男を演じ続ける。こういう「言語否定」なところからコミュニケーションを模索している試みが面白い。いろんな人が指摘してるのに、なかなかみんなが気付かないんだけど、言語くらい意志伝達の方法として貧弱なものはないんだからね。


 続けて、NHKBS−2でつかこうへい作・演出『ストリッパー物語』。これも昔のやつと全く毛色が変わってる。
 私はつかこうへいは殆どストーリーは無視して、役者のカラダの動きにだけ注目して見るという甚だシツレイな見方をしているのだが(だってセリフが未だに説教臭い絶叫型なんだもん)、やっぱ体技は凄いわ。脱がずにあれだけ「ストリッパー」を感じさせるんだもんねえ。
 ストリップの演技には、セクシーに行きそうで行かない、その直前で「結局はアンタ、ナニが見たいんでしょ」とナニをほっくりだしちゃう身もフタもないところがある。まあそれがかえって、ストリッパーの心を客より優位に立たせて、性を売る後ろめたさから救っている面もあるのかもしれない。
 でも客もまた、その彼女たちの微妙な心にそこはかとない影を見て、ナニを見る以上の繋がりを感じたりもするのである……ってなもんだかどうだか、私はストリップを見たことなんで一回しかないからよくわからんのだが。
 でもストリッパー同士のトップ争いってだけで、ああ、これつかさんの『幕末太陽傅』なんかなあ、と見るのは多分そんなにハズレた見方じゃないと思う。女の争いはいつも切ない。


 マンガ、園田健一『砲神エグザクソン』6巻(講談社/アフタヌーンKC・540円)。
 単行本の出る間隔がかなり空いてるので、前の話がウロオボエになってるよ。マンガ喫茶で読み直さないといけないかなあ(ウチにあるやつは、本の山の奥に沈んでるのである)。主役の砲一が実はロリコンで、幼児体形の茜ちゃんとナニしまくりというのは覚えてたが(^_^;)。
 今巻で一番印象に残って次巻まで覚えてられてるシーンは、やっぱりキンバー先生の×××になるかな。いや、×××な意味じゃなくて、×××するようなヤツは×××されても当然、私だって×××が×××されたら×××するよってことなんである。でもキンバー先生、×××されたけれども×××が×××になってホッとした。いや、これも×××が×××になったからって、それでキンバー先生が×××になったとは思わないのだけれども、やっぱ×××が×××になるなら、それに越したことはないってことで。
 何が何やら分かりませんな(^o^)。なんか×××なマンガだと勘違いされちゃマズいから一応フォローしとくと、これは地球を制圧した宇宙人リオファルドにレジスタンスを挑み、地球の復権を図ろうとするヒーローの物語です。その究極の兵器がタイトルにあるエグザクソンね。スペルを書くと「EXAXXION」で、Xが三つもあるのがミソ。ああ、やっぱり×××の話に(~_~;)。

2002年09月28日(土) こんぴーたなんて使えません/『まいっちんぐマチコ先生』1・2巻(えびはら武司)/DVDBOX『電人ザボーガー』
2001年09月28日(金) さらば長嶋/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 始動編』掘検憤舵良和)ほか
2000年09月28日(木) 百鬼夜行とヤオイSFとデクノボーと/『イミューン ぼくたちの敵』(青木和)ほか


2003年09月27日(土) のべつ差別/アニメ『妖獣都市』/『仮面ライダーSPIRITS』5巻(石ノ森章太郎・村枝賢一)

 昨26日、民主党の小沢一郎氏が、京都市で開かれたパーティーの挨拶で、小泉首相の自民党総裁再選を批判して、「日本人は(世界から)特殊学級扱いされている。ばかじゃないか」と発言したとか。
 詳しい経緯としては、小沢氏がまず、自民党橋本派の青木幹雄氏らが首相を支持したことについて、「看板政策の郵政民営化の法案が出てきたらぶっつぶす、と言っている人が『小泉支持』を打ち出すという、ばかげたことがまかり通っている」と批判した上で、「心配なのはそれを許している日本社会。ほかの国でこんなことは通用しない」として「特殊学級」発言となったということである。更に畳み掛けるように「特殊人間扱いされている」「本当にそうですよ」とも述べたんだと。
 記事は「障害児教育への偏見を助長する発言とも受け取れ、批判を招きそうだ」とあるが、こういうのを批判しなきゃいけないわけよ。これ、「言葉遣いが悪い」ってんじゃなくて、「特殊学級」を「差別されて当然のもの」って認識してるってことなんだから。決してこの場合の糾弾は「言葉狩り」にはならない。
 いやね、どうせまた、「そういうつもりはなかった」とか適当な言い訳をするんだろうとは思う。そりゃ、確かに「『つまはじき』という意味での比喩として適切ではない」という意味での言い訳は成り立ちはする。けれども、それで本人に「差別意識がなかった」ということにはならないんだから、誤魔化されちゃいけない。
 政治家としての力量をこの「失言」だけで測ろうなんてことは思っちゃいないが、「そういう失言はしなさそうに見える」小沢さんからこの手の発言が出たという事実は、結構重要だと思うのである。やっぱ政治家って、殆どが田舎おやじ(←これは差別語ではなくて批判をこめた悪口ね)の集団だってことがあからさまになったってことでね。


 なんかまあ、いろいろあちこちで囁かれてたようだけれど、マンガ家の西原理恵子さんとカメラマンの鴨志田穣さんが離婚されてしまったようである。
 マンガの中でギャグっぽく「リコン」をほのめかしてたことはあったけれど、これが現実になっちゃうと、シャレですまなくなっちゃったのかな、と淋しくなる。

 昔ながらの日本人のムラ意識がそうさせるのか、日本人は特に他人の冠婚葬祭についても何やかやと言いたい傾向があるようだ。ネットをちょっと散策してみたが、西原さんの離婚についても、同情から揶揄まで、様々な感想が書きこまれている。ヒトのことだからほっとけば、という気もするが(それを言い出しゃ、この日記も余計なこと書き連ねてるんだが)、西原さんが読んでないことがわかってるにも関わらず、「お節介」な道学者めいた説教を書く人間も結構いるのである。赤の他人が自分の勝手なイメージを相手に押しつけて、喜んだり泣いたり怒ったりするのだから、いったんそういうのを意識し始めれば。たまったものではあるまい。「有名税」と言ってしまえばそれまでだが、私的に結婚・離婚一つするにしても、「世間の眼」というヤツを気にしなきゃならないのはツライところであろう。
 テレビで芸能人の離婚記者会見が報道されることがあるが、昔はたいてい涙・涙の愁嘆場となるのが常であった。ところが最近は意外に「せいせいした」って感じの夫婦や、「ちょっと結婚してみただけだから別れるのもフツー」みたいな感じでニコヤカに離婚する夫婦もたまにいる。実家が床屋なもんで、そんな様子を見ながら、悪態ついてるお客さんとかも見かけるんだが、これがもう、本気で怒ってたりするのである。
 「離婚するってのに、なんであんなにサバサバしてるんだ」。
 そんなの当人同士の勝手やん、と心の中で思いながら、こちらもその様子を見ながら苦笑してしまうのだが、なんかもうこと結婚・離婚に関する限り、「ヒトゴトにできない」人ってのは多いのだね。実は私もそういうお節介な人間なんで、つい西原さんの離婚に関しても勝手に胸を痛めてしまうのである。

 西原さんのマンガは、たとえそれがギャグマンガであろうと、この人の体験してきた苦労って、並大抵のもんじゃないな、と感じさせるものがあった。こういう人には幸せになってもらいたいと、つい願ってしまうのだが、無情なことに現実ってのは、不幸な人間はずっと不幸のまま、というパターンが多い。
 マジメな人間、苦労人ほど不幸になるというのは、そこにすがり付いてくる人間が増えるからである。この人なら苦労は人一倍してるから、きっと心の痛みも分るだろうとか、優しくしてもらえるだろうとか、甘えたい人間が群がってくる。でもって、すがりつかれたほうが実際に優しくしてあげるもんだから、それ見たハイエナが次から次に来るのよ(T.T)。なんかねえ、麻雀で負けつづける西原さんのマンガ見てたときもねえ、みんないい人そうに西原さん描いてるけど(悪逆非道に描かれていても、マンガ表現になった時点で「いい人」にしか見えなくなるものだ)、こいつらただの寄生虫じゃん、とか思っていた。鴨志田さんがそうだったと思いたくはないが、明確に否定できるものでもない。引き受け過ぎて、もう疲れちゃったんだろう。
 そういう西原さんに対しても、ファンは「マンガ家」としての西原さんのイメージを求める。ここで西原さんは泣いたりはしない人だ。明るくふるまい、笑ってリコンの顛末もマンガにしちゃう人だ。そんなイメージを持ってる人は多くないか。私もそう思うし、そうあってほしいともつい思ってしまう。
 でも、西原さんの心の内なんて、ホントに分るはずもないことだ。たとえ西原さんのことを「思いやる」書きこみであっても、それが読者の勝手な「期待」である以上は、ただの「思いこみ」に過ぎない。西原さんにとってはかえって迷惑なことであろう。けれども、その迷惑に晒されずにいられるはずもないこともまた、一方の事実なのである。
 だからあえて、私は今、「西原さんのマンガが読みたい」と思う。離婚のことを書こうが書くまいが構わない。ただ、マンガが読みたい。西原さんのホームページには、「必ず帰って来ます」とメッセージが書いてある。そのことを信じたい。


 本日は休日出勤、しかも残業まであったので、帰宅は9時。
 同僚の中には連日帰宅が午前様、という方もいらっしゃるので、文句は言いたくはないけれど、ムダな仕事をカットして行かないと、本気で死人が出てもおかしくない。つか、毎年必ず過労による入院患者が出てる職場って、環境改善しようって気がハナからないってことにならんか。「休めるときに休む」ってアタリマエなことが非難されるようじゃ、仕事なんてやってられない、という気分が蔓延してくる。それでも去年までよりはちょっとは楽になったような気がするのは、一番アホだった上司がすっ飛んでったおかげかな。


 CSファミリー劇場で、マッドハウス特集、アニメ『妖獣都市』を見る。
 菊池秀行原作のモダンホラーアニメシリーズ第1作を川尻善昭監督が忠実に映像化。1987年劇場公開及びビデオ発売、ということだから、これももう17年も前のアニメなんだなあ。そんなに経つかよ(~_~;)。

 長く争ってきた、人間界と魔界。その抗争に終止符を打つべく、不可侵条約を締結しようという動きがあらわれる。その鍵となる人間界の霊能者ジュゼッペ・マイヤートを護衛する任務を与えられた“闇ガード”滝蓮三郎は、魔界から派遣された美女・麻紀絵とコンビを組む。条約締結を阻止しようと、次々に襲いかかってくる魔界の妖獣たち。そして、一瞬の油断を突かれて、マイヤートは魔界の女に取りこまれてしまう……!

 懐かしのOVAの中でも、当時は出色の完成度で、第5回日本アニメ大賞オリジナルビデオソフト最優秀作品賞を受賞している。私も一見して驚嘆したものだったが、今見ても充分ハイレベルだ。CG映像に馴れちゃった若い人でも、これならファンになれるのではないかな。
 もっとも、アニメであっても相当グロで気持ち悪いホラーですからねー、特に、虫とか蜘蛛とかがキライな人にはリアル過ぎる蜘蛛女の動きが気持ち悪いかも。
 でも、ヒロインの麻紀絵がいいのよ麻紀絵が。アニメにおけるクール・ビューティの系譜は多々あれど、従来のアニメにおいてのそれは、やはりどこか「甘さ」のあるものであった(まあ、子供向けアニメがほとんどだったから、当然なんだけど)。そこにまあ、ナニでアレもしちゃう麻紀絵が登場したものだから……。しかも更にビックリしたのが声が『一休さん』の藤田淑子さんだったことだねえ。あのシーンなんか、延々とアノ声出し続けてるんですから、当時はもう充分にオトナになってはいましたけど、ちょっと「いいのか、おい、イメージ自ら壊してないか」とか思っちゃいましたね。まあ『パタリロ!』でもやってたんだけど(^_^;)。
 ……思い出したけど、当時から若い子に「これはいいぞ見ろ見ろ!」と奨めてたなあ。確かよしひと嬢にも奨めてた記憶があるが、彼女は大の蜘蛛嫌い。知ってて言ってたような気がするから、もしかして苛めてたんだろうか(^_^;)。当時はどうもすみません。


 マンガ、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』5巻(講談社/マガジンZKC・580円)。
 サブタイトルに“The Legend of Masked Riders”と付いてるのにやっと気付いた。注意力ないなあ(-_-;)。「ライダーズ」とちゃんと複数になってるのが嬉しいね。
 ページをめくると、石ノ森章太郎描くゼクロスの折り込みポスターが。このころになると、ライダー関連で石森さん自身が描くカラーイラストってのも少なくなってきてるだろうから、こういう付録は貴重だと思う。
 本編のマンガについて言えば、「新しい仮面ライダー」はこういうのがいいよなあ、と思っていた一巻の頃とはかなり印象が変わってきている。中江真司のナレーションが聞こえないのは仕方ないとしても(でも目次にあらすじ付けて、名調子風に書くとかのサービスがほしかったなあ)、各キャラクターのセリフ回しがどうしても「村枝賢一風」になってるのが違和感を増してきている。
 「滝はそんなひと昔前のマンガに出てくる不良みたいな頭悪いセリフマワシはしねーよー!」とかね。
 それでも話自体が面白いから、悪いとは言えないんだけれども、どうしても『555』と比較して、“懐かしの”仮面ライダーを期待しちゃうんで、見方が辛くなってしまうんである。ニードルの反乱とか、あんな噛ませ犬の陰謀なんてポシャることは初めからわかりきってるんだから、あまり引くもんじゃないとか思っちゃうのよ。フツーのマンガだったら、この程度のありがちパターンは気にならないんだけどね。やっぱ『仮面ライダー』にも結構思い入れあるのか、私。
 「ゼクロスとしての力が衰えながらも戦う」というのも、賛否は分かれるんじゃないかと思うが、若干の疑問符を付けつつも、私はこの設定を生かして、ボロボロになりながらも戦っていくゼクロスの姿を見ていきたいと思う。仮面ライダーもまた、他の石ノ森ヒーローと同じく、悲しみを背負って戦う姿こそが美しいと思うから。
 アニメ化企画も上がってはいると、あとがきの早瀬マサトさんの文にあるが、これはやっぱり早瀬さん自身も仰ってる通り、ちょっと無理だろうね。

2002年09月27日(金) トンデモさんがいっぱい/オペレッタ『マリツァ伯爵夫人』
2001年09月27日(木) 「檸檬」って書ける?/『BLACK JACK ILLUSTRATION MUSEUM』(手塚治虫)ほか
2000年09月27日(水) とろける膵臓と行きずりの恋と膝小僧と/『おもいでエマノン』(梶尾真治)


2003年09月26日(金) 真剣に死刑/『ワイド版 風雲児たち』16巻(みなもと太郎)/『サトラレ』5巻(佐藤マコト)

 全く、日記なんて短くチャッチャと書きあげちまおうと思ってるのになんで長くなるんだか。10行くらいで収めちまおうとしてるのに10行書いたら10行じゃ収まらねえなあと思うからダメなんである。指が痛み出して以来、休み休み書いてるから以前より2倍は時間がかかるようになってるのだ。そろそろ短く纏めるクセつけないとな。

 一週間の終わりの日だけど、いろいろあって、明日は休日出勤しなければならない。同僚が「明日があるなんて信じられない」と口走ってるが、「明日はあるよいつでも」、と心の中で突っ込む。でも「ピンとこない」じゃなくて「信じられない」というコトバが実感こもってるんである。
 その同僚は、私のようなぐーたら一代男ではなくて、至極マジメな方であるのだが、それでもなんでここまで働かされなきゃならんのやという感覚は持ってるのである。せめてもちっと給料が上がればなあ。……内実バラしちゃうとね、みんな実質的に5年も給料が上がってないのよ。つかまた減らされてる(T∇T)。
 冗談ではなくて、DVDのボックス、欲しいやつ全部諦めたからね。小津安二郎ボックスも座頭市ボックスも。もしも中古屋に流れてきて半額以下になってたら買いたいんだけど。


 テレビのニュースで、今朝方、北海道十勝沖で、マグニチュード8.0の地震が発生したことを知る。重軽傷者は450人以上に上ったという。
 地震の規模自体はでかいけれども、死者は今のところそんなに出てはいないようである。地震による死者って、殆どが二次災害によるものだから、避難態勢がしっかりしてれば、怪我人は出ても死者は出ずにすむ。北海道なら広いから逃げられるとこ一杯あったんじゃないかなあ(行ったことないからテキトーに言っとります)。
 九州にはもう何10年も目立った大地震の記録がないけれども、エネルギーがたまりにたまってるんでなければいいけどね。


 大阪児童殺傷事件の犯人で、既に大阪地裁に死刑判決を言い渡されていた宅間守被告が、弁護団が行った大阪高裁への控訴を取り下げた。弁護団は取り下げを無効とする異議申し立てはしない方針だそうで、これで宅間被告の死刑判決が確定した。一審判決での死刑確定は極めて異例という。
 弁護団が控訴していた理由が「責任能力について十分解明されたとは言えない」「責任能力があったとしても被告に贖罪の意識をもって刑に服してほしい」といこちだったってのは、充分納得できることではある。けれど一般的な感情として、「責任能力の解明なんてことが出来るのか?」「仮に責任能力がなかったということになったら、無罪になってしまうのか?」「いずれまた社会に舞い戻ってくる可能性もあるのか?」「あの被告に贖罪の可能性なんてあるのか?」などなどといった疑問符を抱く人が多いのも確かなことだろう。
 弁護団がこういった疑問に対する答えを明確に示さずに、ただ控訴のための控訴をしようとしてるって見えちゃうから、感情が更に煽られるのである。しかも、被告を説得しきれなかったから控訴取り下げ無効の異義申したてもしないって、そりゃ何なんだよ。法を遵守する立場の人間が、法による権利の保証を最後まで貫かないってんじゃ、やっぱりやる気なかったんじゃねえかって思われても仕方がないぞ。
 法の厳正な運用という点では、この判決は大いに疑問が残る。けれど、現実的な観点からは、被告の死刑が確定してよかったという結果オーライなところがあるのも否めない。実際、まかり間違って宅間被告が釈放されるような事態になれば、第2、第3の池田小事件が起きる危険はかなりの確率で高いと言っていいのだ。世間に「早く殺してしまえ」なドス黒い情念が渦巻いてるような雰囲気は何とも気色悪くて仕方がないんだけども、これはもうしょうがないことなんだろうねえ。


 マンガ、みなもと太郎『ワイド版 風雲児たち』16巻(リイド社・680円)。
 今度のオビの推薦文は松尾貴史。「日本史が苦手な私にとって居酒屋で使える歴史ネタを学ぶ手段はこの作品以外にない!!」だって。無精してないで図書館に行きなさいよ(^_^;)。
 物語は天保の改革にやっと辿りついた頃だけれど、つい最近の連載だったような気がしてたのに、『ウゴウゴルーガ』ネタが頻出してるところから考えると、もう10年も前のことなのだ。
 なんでつい最近って気がするかっていうと、物語内の時間もたいして経ってないからなんだね。当時の編集部から「進みが遅い、幕末に速く行け」とせっつかれながらも、今巻ではじっくりゆっくり、天保11(1840)年から13(1842)年までのたった2年しか時間を進めていない(^_^;)。今の『幕末編』が丁度黒船来航だから、嘉永6(1853)年のこと。連載中断がありはしたが、11年しか経ってない。ほぼ1年=1年のペースじゃん。
 もちろんそれだけの時間をかけてるだけ、教科書的な知識しかないこちらにしてみれば、無味乾燥にしか思えなかった天宝の改革が、まさしく人間と人間がぶつかり合い絡み合うドラマとなって目の前に現れて来る。
 政治欲に燃え、江戸を二百年前の始原に戻そうとする改革の遂行者・水野忠邦、政的を追い落とすことにのみ腐心する醜悪な妖怪・鳥居耀蔵、精錬の士なるがゆえに陰謀の被害者となり憤死を遂げる矢部定謙、矢部の跡を継ぎ庶民の味方となる遠山金四郎景元。
 前巻から引き継がれている彼らの戦いは、とてもこの一巻でも終わらなず、次巻まで持ち越されて行くのである。


 マンガ、『サトラレ』5巻(講談社/イブニングKC・540円)。
 折り返しの作者メッセージ、「おぼろげながらラストの形が見えてきました」にちょっとホッとする。最初に面白い設定を考えつくのも作家の才能だけれど、それを面白くしていく展開を考えるのにはまた別の才能が必要になる。
 「回りに自分の思念が悟られてしまう」という主人公たち「サトラレ」の設定は確かに抜群に面白い設定なのだが、それが現実の世界の中でどのように受け入れられていくかということについて、リアルな展開を創案していくのはかなり難しいことである。自分がサトラレだと自覚してしまえば、白木重文や木村浩のように「島」で暮らすしかなくなってしまう。「人間」として生きることを自ら拒絶せざるを得なくなるのだ。いかにサトラレが天才だとしても、そのような生き方しかできない人間を「なんとか」することはできないのか? という疑問に対する答えを、作者はその場その場でシミュレーションしながら模索していったフシがある。
 その答えの一つが、「サトラレ抹殺」を企む山田一郎教授であったわけだが、もう一つのキーワードになりそうなのが今巻初登場の「サトラレでなくなったサトラレ」星野勝美である。
 「今日、病院に来る前に妻とケンカしましてね、ささいな互いの勘違いが元でのくだらない、サトラレなら起こりえないケンカです。私にはそんなくだらないケンカがたまらなく楽しいんです」
 不必要なケンカをしたいなんて人間は早々いないだろうが、人と人とが関わればそこに諍いのタネが生まれないはずはない。星野夫妻はそのささいなケンカかがもとで、離婚、自殺未遂の危機まで起こす。それでもなお、お互いの心が掴めない、「サトラレでない」生活の方を望むのだ。星野の述懐が正しい答えだというわけではない。「サトラレを守ろう」としてきた委員会の人々は、彼が言うように「サトラレの才能」だけに注目して来たわけではないのである。物語は未だにアンビバレンツの中で、明確な答えを見出せているわけではない。それがライトでソフトな描線で描かれているにも関わらず、この物語に大きな「重さ」を与え続けている。
 それを、「サトラレのいない世界」にいる読者がどう受けとめるか。このシリーズの「物語」の持っている意味を考えるヒントがそこにあると思うのである。

2002年09月26日(木) 鮎川哲也、死去/『手塚治虫の奇妙な資料』(野口文雄)ほか
2001年09月26日(水) 彼岸の人/ドラマ『ブラック・ジャック掘戞拭悒疋鵐ホーテのロンドン』(鴻上尚史)ほか
2000年09月26日(火) 泊まりの仕事で本も読めねえ


2003年09月25日(木) 文化の分化/『浪花少年探偵団』(東野圭吾・沖本秀子)/『探偵学園Q』12巻(天樹征丸・さとうふみや)

 Web現代の「あなたとわたしのGAINAX」、摩砂雪インタビューの第2回「アクションの血」、全くガイナックスの方々の発言というものには意気軒昂なものがあるのだが、今回も摩砂雪さん、ハリウッドのCG技術について、「やつらはセンスがない。なんか日本の物真似をやっているけど、演出の詰め方ひとつとっても職人根性がない」。とか、ハリウッド作品への日本のアニメの影響についても、「まっ、いいんじゃないの。好きでやってるのならば。ただ『マトリックス』をつくっている人たちが好きなアニメーションってのは、俺があんまり好きなアニメーションじゃないんですよね」とか、「アクションの真髄をわかってないんですよ。アメリカのような多民族が集まっている国だと、どうしても統一性を持った文化の様式がない分、そこから凝縮されて生まれてくるかっこ良さが出てこなかった」とかもう、言いたい放題である。
 でも実際に的をちゃんと射てると思いませんかね?

 ハリウッド映画を擁護する人たちは、やたらアチラの作品は「エンタテインメントのセオリーに則ってる」ことを強調して誉めるけれども、別にそんなのは当たり前のことなんで、そのセオリーの上に何を積み上げていけるかってのが職人芸なわけよ。則ってるだけで、あとは全部同じ印象のバカ映画にしかなってないのは、その「積み上げ」がないから。みんな似たような「肌合い」になっちゃってることに気付かないらしいのが私にはフシギで仕方ないんだが。
 まあ、なんでも「最初に見た映画」は面白く感じるものだからね、そういうのを初めて見るような若い人がハマっちゃうのはもう仕方ないと私も諦めてるんだけど、これまでそれなりに映画やドラマを見てきてるんじゃないかって思うようないいトシしたオトナがさ、『マトリックス』あたりに群がっちゃうというのはどういうことなのよ? あれの何をどう面白がれというの? 「まあまあだね」ならまだしも、本気で感動したりしてるの見ると、もう「文化」とか「伝統」というものはこの国からなくなってくのかと暗澹たる気分になるよ。
 時代は移り変わるものだ、というのは確かにそうなんだけれども、何かが全くの別モノに変わってしまうということはそうそうない。映画のルーツはたかだか百年だ。百年前の映画に、最新の映画のルーツを、そのプリミティブなスピリットを見出すことは充分可能である。もちろん、全ての映画を見るなんてことはかなわないまでも、ある程度の名作、傑作、駄作を追うことは決して不可能なことではない(ここで「駄作」だって見逃してはならないってとこがポイント)。ヒマツブシにテレビを眺めてたって、そういうものを眼にする機会はいくらでもあったと思うんだけれども、それを殆ど見逃してきて、そのくせ「なんとかって映画はいいですよね?」とか言われても困るのよ。
 「伝統」とか「文化」ってのは、当然、前の時代のものが基盤になって、そこに新しいモノが積み重なったり入れ替えられたりしてじわじわと変化していくものである。自分たちのルーツが目の前に転がってるのに、それからあえて眼を背けちゃうってのは、まさしく「文化の否定」だし、結局は自己否定にしかならんのだけれどもね。

 まあ、摩砂雪さんの意見には頷くところ大なんだけれども、やっぱり「じゃないですか」を乱発した喋りはどうもねえ(~_~;)。まあ私はそれを全部「なんですよ」とかに置き換えて読みましたが。


 体調は少し回復してきたけれども、まだまだ仕事のノリがイマイチよくない。
 疲れて帰宅したあと、気になる用件が一つあったんで、私用の電話。まあ詳細は書けないんだけれども、正直な話、悲しくなるような会話であった。「迷惑かけてないと主張してる人間が実は一番迷惑かけてることに気づいてない」ってことを証明してるようなもんなんだけれど、相手からは私の方がモノが見えてないように見えるんだろうなあ(T.T)。そうでないことを証明しようと思えば、いろいろ相手に支障の出てくることでもあり、それが本来の目的でない以上は、こちらが引き下がった方がよかろうなあとながなが喋った上で結論。


 DVD『カレイドスター』の1巻を見ながら寝るが、4話収録分を見て、今んとこ面白くなりそうな要素だなあと思ったのはやっぱりフールの存在かな。ヒロインの苗木野そらにとって、ピノキオにおけるジミニー・クリケットのような「良心」となるのか、はたまただのおジャマ虫となり果てるのか(^o^)。声優さんが声優さんだけに、どっちに転んでもおかしくないのである。
 カレイドステージのメンバーの声優にあびる優や大森玲子がいたけれども、ちょっと使えねえなあ(^_^;)という面があったとしても、出すなら出すで、もちっと美味しいところのある役に振らないと、ヒロインを苛めるってだけの役じゃ、ホントに使い捨てになってしまうんと違うか。それともベテランが支えて後進を育てるって麗しき伝統、声優の世界でもなくなってきてるんかねえ。


 マンガ、東野圭吾原作・沖本秀子作画『浪花の熱血先生と教え子探偵団の事件簿 浪花少年探偵団』(秋田書店/サスペリアミステリーコミックス・540円)。
 その昔(^o^)、NHK『ドラマ愛の詩』で、山田まりや主演で映像化された短編シリーズのマンガ化。原作小説自体読んでみたいと思いつつ、まだ見当たらないのでマンガで我慢。
 一昔前に、講談社から有名ミステリをマンガ化した「コミックノベルス」なるものがシリーズ出版されてたことがあったが、ハッキリ言って、単行本1巻に原作小説をまるごと収めるのにはムリがあり、どれも原作の魅力を伝えるのには程遠い出来になっていたのには落胆させられていた。
 中城健の『刺青殺人事件』(原作・高木彬光)は画面に動きというものが感じられず、名探偵神津恭介は眉目秀麗に描かれているわりにはどこかもっさりとしていたし、望月あきらの『アルキメデスは手を汚さない』(原作・小峰元)は、既に『ローティーンブルース』を描いていたころの鮮烈さを失っていた。まあ悪くない出来かな、と思ったのは古賀新一の『陰獣・人でなしの恋』(原作・江戸川乱歩)くらいのものである。
 あのころに比べると、最近の原作付きミステリーのレベルアップには眼を見張るものがある。ページ数に「ゆとり」が生まれてきてるってのもあるだろうけれど、マンガ家さんたちの作画技術、演出力が格段に進歩しているのも大きな理由だろう。
 沖本秀子さんの描くしのぶセンセは、ムネは山田まりやほどにはないかもしれないが、一文字にキッと結ばれた口元がぐっと魅力的である。必ずしも「名探偵」というほど頭が切れるわけでもなく、教え子たちに手助けされながらようやく事件の真相に辿りつくようなありさまだが、そこがかえって「人“情”的」でよろしい。乱歩の『少年探偵団』はやはり「東京」が舞台であってこそだが、「学校」を舞台とした大阪の少年探偵団の活躍は、こういう浪花っ子のセンセを仰いでこそ映えるんだなあ、と、この設定には感心すること頻りである。
 願わくは、続編の登場を希望したいのだけれど、最終話でしのぶセンセ、……ちゃったからなあ。いやもちろん「復帰」は可能な設定なんだけれどもね。


 マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』12巻(講談社/少年マガジンコミックス・440円)。
 しかしホントに天樹さん、「ダイイング・メッセージ」が好きだねえ。
 『魔矢姫伝説』にも『光と影の絆』にも、どちらにもダイイングメッセージが出て来る。
 もう私だけじゃなくて、ミステリの専門家がみんな指摘してることなんだけれど、この「死者の伝言」くらい、ミステリのトリックの中で不自然なものはないのである。「犯人に気付かれずにメッセージを残す」ことの困難さをどうクリアするかってことなんだけれども、結局、シチュエーションそのものを操作して、メッセージを残すタイムラグを無理矢理作らないと、お話が成り立たなくなるのである。『魔矢姫』でも、ある事情から犯人が被害者を「即死しないように殴った」ために、そのタイムラグが生まれたって説明なんだけれども、そんな器用な殺し方がそう簡単にできるかい(^_^;)。被害者が呻き声を出して周囲に気付かれない程度で、しかもダイイングメッセージを書き残そうって意識はあって、手も動かせる状態なんて、なんて都合のいい状態。つかありえるのか。
 『光と影の絆』の「フリーメーソンの暗号」ってのも、「それなりにてこずるダイイングメッセージ」なんてハッタリかましてるけど、見て恥ずかしくなるくらいに簡単過ぎる暗号。下手すりゃ『名探偵カゲマン』よりもレベル低いぞ。でもネット散策してみると「ヒント言われてやっとわかった」なんて書き込みが堂々としてあったりするのよ。つか、そのヒントである「N」に注目しない方が犯人が誰か特定できちゃうんだけど。
 いや、暗号のレベルが低いってことが問題なんじゃなくて、読者のレベルをやたら低く見積もってるところがちょっとなあってことなんだけど。
 『心霊カメラでスクープ』のトリックについては、もうこれやめようよと言いたくなった。某有名アニメでも『Q.E.D.』でも使ってたやつだよ。節操がないというかなんつーか……(-_-;)。

2002年09月25日(水) まあ、冷静な人間なんていないんだけど/『小説ウルトラマン』(金城哲夫)ほか
2001年09月25日(火) リアル・ホームズ/『トンデモ本の世界R』(と学会)/『けだものカンパニー』3巻(唐沢なをき)
2000年09月25日(月) 日記のネタはどこにでも/ビデオ『労働戦士ハタラッカー』ほか


2003年09月24日(水) クノイチのミノウチ/『新天地無用!魎皇鬼』5巻(奥田ひとし)/『全日本妹選手権!!』5巻(堂高しげる)ほか

 東区の一家四人連続殺人の犯人の写真、ようやくイラストから写真に切り替わる。まあ似てると言えば似てるか。モンタージュ写真が一般的だったのが似顔絵に切り替わって久しいが、効果の方はどんなものなんだろう。いや、今回の似顔絵はまあ上手い方だと思うんだけれど、たまに小学生の描いた「うちのお父さん」みたいなイラストが放送されることがあるから(^_^;)。署員に絵心のある人がいるとは限らないものねえ。
 その、中国公安当局にとっ捕まった王亮容疑者と楊寧容疑者、取り調べに対して、「殺害は誰からも頼まれていない」と供述しているとか。動機はただの物取りで、顔を見られたから殺したってんだが、金目当てなら、空き巣狙えばいいじゃん。ダンベルやら何やら予め用意しておいて、こんな言い訳が通用すると思ってんだから、ふざけた話だけど、それだけ「黒幕さん」が怖いんだろうなあ。あるいはよっぽど「信義」で結びついてるとか? なんかね、そのヘン突っ込んでくとね、まあヤバげな話になってくるので避けときますが(^_^;)、最後まで警察が追い切れるのかどうかなあ、という心配はもう募ってきてるんですよ。なんやかやと犯罪者には甘いんだもんねえ。


 休日明けの仕事、今一つ調子が出ず。
 軽い風邪だろうとは思うが、あまり発熱しないでただひたすらからだがダルくて重い、という感じになるのがいつもの症状。それでも声だけは張り上げることができるので、仕事をこなせないわけではないのだが、急に目眩がして意識が遠のきそうになるのが怖いんだなあ。傍目からは「なにフラフラしてんだコイツ」みたいに見られてるらしいのがまたツライんだけれども。うう、速く休日来い。


 ずっと前の日記に実は『SASUKE』が好きだ、なんてことを書いたことあるような気がするが、あれは比較的「ヤラセ」が少ないと思うからなんだね。有名タレントでも、失敗したらその場で脱落、さっさと消えちゃうからね。多少は事前の練習くらいさせてるかもしれないけれど、本番一発撮りなのは間違いなかろうから。
 『SASUKE2003・秋最強の女性No1決定戦"KUNOICHI"』、笑い取るためのイロモノ出演者もいるけれど、前回(未見)は第1ステージクリア者が5人だったのが、今回はぐっと増えて13人。出場者のレベルアップが競技を面白くしてるってこと、ちゃんと分かってるんである。
 まあ、根本はるみみたいに最初の舞踊石ですっ転ぶことが分かってるようなタレントも、何人かくらいなら出場させても構わないけど、だったらビキニで出場させろよ。「狙い」は「そっち」なんだろうからねえ(^_^;)。もう一人、明らかに「そっち」狙いな大原かおりがインタビューもなく、ちょっとしか映らなかったのは、芸能界の栄枯盛衰を象徴しているようで、ちょい涙。
 でも平山あやは運動神経もホントにいいみたいだから、もうちょっと頑張ってほしかったなあ。まさか風車渡で落ちるとはなあ……って前回も舞踊石で落っこってんじゃん。事務所、も少し練習させとけよ。なんかこの人、正統派アイドルだってできるのに、下手にいろんな方面への「個性」があるものだから、どう売ったらいいのかわかんなくなってて、損してる気がするねえ。そういう子には、特撮ヒロインやらせりゃいいのよ(^o^)。
 けど、今回恐れ入ったのは、C.C.ガールズの森洋子と水野裕子。森洋子は第3ステージまで、水野裕子はラストステージまで行っちゃうんだから、彼女たちの実力は本物だろう。いや、円柱渡とか、崩れたバランスを即座に戻してるとこ見ると、確かに二人ともバランス感覚がスゴイぞ、こりゃヤラセでもCGでもない(^o^)ってのがわかるから。
 特にエントリーナンバー100、しんがりを務める水野裕子の負けん気、根性、凛々しさには、つまらんテレビバラエティ嫌いの私が、一瞬、胸を突かれて見入ってしまうくらいのオーラまでが感じられた。プレッシャーに整った顔を歪めたり、大声張り上げたりするところなんかは、アイドルとして見た場合、マイナス要因とも言えるのだが、それ以上に、彼女が全身で表現している「やってやる!」というエナジーが、見る者を感動に巻きこんでいくのである。下手をしたら『SASUKE』の色物バージョンとしてしか見られかねない危険のあった『KUNOICHI』を立派な一つのスポーツショーとして見せられている功労者が水野裕子なんじゃなかろうか。
 ああ、こういう人こそ特撮ヒロインに抜擢して……って、そればっかりかい(^_^;)。そうだよなあ、日曜朝の特撮番組になかなか乗り切れないのも「なんでこの役者使ってんだ」ってコンセプトの見えない部分が大きいからなんだよなあ。


 『トリビアの泉スペシャル』、10分延長の拡大版だけれども、特にネタが増えた印象がない。
 つかねえ、今回の「種」なんか、凄い不快感感じるんだけど。
 動く歩道を一流のスプリンターが走ったら、どのくらい速くなるものなのか? という実験なんだけど、そのためにわざわざ連れて来てるのがベン・ジョンソンなんだよ。正直な話、私はこの結果が出たとして、それがどういうトリビアと認定されるのかが全く理解できないし、そもそも番組スタッフが何をしたいのかも分らない。
 「動く歩道」なんて、あんな走るのに全く適してない場所を走らせたところで、記録が出るはずがないなんてことは初めから解りきってる(トリビアの種に送ってきた投稿者もドアホウだ)。スタッフだって、仮に好記録が出たとしても、それが記録としては何の意味もないことは承知の上でやってるんだろう。わざわざ一流のスプリンターを呼んで走らせて、「ホラ、記録は出ませんでした」って笑いたいんだったら、最初から「冗談がわかる」人に依頼しないとシャレにならない。
 ベン・ジョンソンは40歳になろうとする今もなお陸上復帰を夢見てトレーニングを続けているとか。そんなの無理だよと誰もが思ってはいても、かつての彼にまつわる出来事を思い返せば、そう簡単にそのことは口に出せまい。そんな彼にこんな「冗談企画」を持ちこんだ時点で充分シツレイだとは思うのだけれど、もしも彼が「本気で」記録を出すつもりだったとしたら、スタッフは彼にとてつもなく酷い仕打ちをしたということにはならないか。それとも金メダルを剥奪されるようなやつには何をしてもいいって言いたいのか?
 結果、ベン・ジョンソンは、動く歩道の上100メートルを、10秒越えて走ったのだが(それだけでもトシを考えれば充分スゴイのだが)、記録を見たあとで「ここじゃなきゃもっと速く走れた」といかにも悔しそうに呟いていた。その様子を見る限り、やはりマジメに記録を出してやろうと思っていたんじゃないかという気がどうしてもしてしまう。会場はねえ、それ聞いて笑ってたけどさ(笑い屋さんかもしれないが)、「笑いものにしよう」という意図がミエミエのシチュエーションで、あえて笑えるものか? こういうのを、悪趣味とギャグセンスを混同してるってんだよ。
 タモリはこの「トリビアの種」に「満開」をあげていた。気休めにもならないだろうけれど、せめてそれくらいはしてあげないと、って気持ちになっちゃうよね、ホントに。

 特撮ネタ、アニメネタはマニアの突っ込みが激しいからなのか、最近はあまり目立たなくなった。「ウルトラマンと仮面ライダーは握手したことがある」ってのも今更なネタだけれども、これがトリビアとして通用するということは、オタクがいくら一般人化しつつあるとは言っても、世間知から言えば「そんなもん見てるやつはヘン」と思われてるってことでもあるのだ。つか、イタいオタクって、知識が偏ってるだけなんだけどね。「アニメや特撮のことに詳しい」人と、「アニメや特撮のことしか知らない」人とじゃ、そりゃナカミが違って当然。
 でも、『ウルトラマン』も『仮面ライダー』も、実作品を満足に見たことない人が一杯いるってこともやはり淋しいもんなのである。他になんか熱中してることがあるんならともかくも、それが例えば「野球」だけだったりすると、なんかもうこの人とは何をフックにしてコミュニケーションを取ればいいのか、と暗澹たる気持ちになるしなあ。

 今回一番面白かったトリビアは「『しばらくお待ちください』は地方局によって謝り方が違う」で、実際に全国ネットのそのテロップ映像を全部流したこと。これはもう、見ようったって見られないものばかりだから、こうしてまとめて紹介されると「圧巻」の一語に尽きる。「へぇの本」の第4弾が出た時には、これはぜひ見開きで、デザインがハッキリ判るように紹介してほしいね。フジテレビ以外の系列局のも知りたいけどそれはさすがに無理だろうな。

 こういう「地方もの」が『トリビアの泉』の中で一番面白いってのは、結局、他のトリビアが「知の切り取り方」としては下手だからなんである。やっぱ「へぇ」で終わる程度じゃ面白くないんだよね。補足トリビアがもう少し充実してくれればそのへんは大分解消されると思うんだけれども。「大相撲の力士は本場所中全員まわしを洗わない」というのも、理由は? ということのほうが気になる。補足トリビアで、インタビューを取るのならそこまで聞いてほしいんだけど、「臭くないです」で終わりだからなあ(ホントは相当臭いらしい)。
 ゲンかつぎなのかと思って調べてみたら、「絹製のマワシは洗濯するとすぐ柔らかくなってしまって使い物にならなくなるから」というのが正解のよう。もっとも力士一人一人はそんな疑問も持たずにただ「習慣として」洗わなくなっちゃってるようだけれども(^_^;)。


 マンガ、奥田ひとし『新天地無用!魎皇鬼』5巻(角川書店/角川コミックスドラゴンJr.・588円)。
 何か気がつかん間に掲載誌が「ドラゴンジュニア」から「ドラゴンエイジ」に移行してたのである。いやもう全てのマンガ雑誌のチェックなんてしてらんねーんだってば。だいたい勘違いしてる人も多いんだけども、私がこれこれこういうものを読んでますよ、ってご披露してるのは知識をひけらかしてるつもりじゃなくて、これこれこの程度しかモノを知らん人間だから、他のネタ振られても困りますよって意志表示してるだけなんである。その点で私のことを「すごいですねえ」と言って下さる人も、「知ったかぶりめ」とけなしてる人も、文意が読めてない点では同じなのだ。ちゃんと何度も書いてるのになあ。人はホントに自分の思いたいようにしかモノを思わない。
 かと言って、『天地』シリーズについて色々振られても困る点では、やっぱり同じなのである。前の第2期OVAシリーズからもう8年、第1期シリーズの内容も、既に記憶の彼方にスッとんじゃってるのよ(^_^;)。なんたって最初のOVAを、私は近辺では箱崎に1軒しかなかった「レンタルLD」で借りて見ているのである。一体いつの時代の話だ。
 だもんで、作中に「遥照」って名前が出て来ても、「それ誰だったっけ? ああ、天地の親父さんか」と、思い出すのに時間がかかるのだ。テレビシリーズに付いて行けなくなってきたのもトシのせいなんだろうなあ。『新天地』の途中まではなんとか追いついてたんだけれども、『GXP』はもう深夜枠だったこともあって見られなくなってしまった。
 それどころか、一番好きだった「鷲羽」の声優さんの名前がすぐに出てこないのである。魎呼の折笠愛も、阿重霞の高田由美も、砂沙美の横山智佐も、美星の水谷優子もスラッと出て来るのに、「小林優子」だけがブラックボックスに入り込んじゃってるのはなぜなのか。昔のイベントでも、前記の4人の露出は多かったけど、小林さんは控え目だったのが原因になってるのだろうか。
 まあ、それはそれとして、今巻の白眉は何と言っても34話「餐」の寿司グルメ合戦であろう(異論却下)。こんなとこにも「トリビア」の影響は見て取れるが、「なぜ寿司は二貫ずつ出すのか」について、「江戸時代当時、オニギリ大だったのを半分に切ったのが始まり」、とか最初はマトモなウンチク披露の話だったのが、いつの間にか「キュウリに蜂蜜をかけるとメロン味になる」とかどんどん胡乱な方向にズレて行く。
 「プリンに醤油をかけるとウニの味になる」
 「味噌汁に牛乳入れるとバター味になる」
 「バナナにマヨネーズをかけるとメロン味」
 「イカ刺しにポカリスエットをかけるとナタデココ味」
 「酢メシに生卵とコーラを混ぜると旨い」
 「ウニに納豆とアイスクリームを混ぜて……」
 誰かためしてみなさい(^o^)。
 なんかもう別に『天地無用』でやらんでもい〜ような話になっちゃってはいますが、面白ければいいのである。


 マンガ、堂高しげる『全日本妹選手権!!』5巻(講談社/アッパーズKC・540円)。
 まあこのマンガについてはもうあまり細かいことは言いたくないのであるが(いやまあ面白すぎるからなんだけどね♪)。新キャラに関しては特に「触れてはいけない」と私の背後霊が囁いてるのでパス(^o^)。
 「世間で叩かれがちなものを弁護しまくってあげる」っての、これまでの地雷踏みまくりネタを逆手に取っての堂高さんの大逆襲という感じで今巻抜群の面白さを誇っており、でもやっぱり地雷は踏みまくっているのであるが(^_^;)、やっぱり「○かほ○さと○」を嫌ってるオタクって多いんだなあと再確認。
 実際、悪口しか聞かんのに未だに需要があるというのはやはりどこかにファンがいるんだろうけれども、見るからに頭悪そうな中坊でも、やっぱり「あ○○りはねえ」とか言ってんの、よく耳にしてるんだぞ。どこにいるんだファン。
 で、あ○ほ○さんをどう誉めているかと言うと、「エンタテインメントに徹せられるのはすばらしい」。……えー、やっぱリコメントは避けます。
 更には何をどう俎上に上げているか、あとのネタをちょっと列挙してみよう。

 「○崎アニメの声優」→「自然な演技のスキルを持った人を抜擢するのは必然」
 「アイドル声優」→「人間美しいに越したことはない」
 「○原めぐみ」→「どんな役でもこなす技巧派」
 「ガンダ○シー○」→「『サイバーフォーミュラ』はよかった」
 「子安のアレ」→「女子中高生の妄想をあおる術を熟知して(以下略)」
 「声優使った特撮」→「本家の特撮の俳優も昔からあんなもん」
 「○渕裕」→「社会現象まで起こしたもんね、『エヴァンゲリオン』」
 「自分の漫画のエロ同人誌出してる漫画家」→「(省略)」

 誉めてるなあ(^o^)。いやもう、オモテで語れるネタとしてはこれがギリギリの線なのだろうなあ。
 でも、「宮○アニメの声優」についてはちょっと異論がある。確かに『もののけ姫』のアレとアレとかがひどすぎたんで、どうしてもマイナスで見られる傾向があるのは納得するんだけれども、みんながみんなハズレってワケでもないでしょ。『もののけ』で言えば、西村雅彦や美輪明宏はちゃんと評価しないとイカンと思うんだがねえ。アニメ出身だろうが、実写出身だろうが、要するに役者としてその映画にハマッてるかどうかってのを判断しないと結局はただの印象批評にしかならんのである。例えば、『となりのトトロ』のメイちゃんは坂本千夏でいいけれども、『火垂るの墓』の節子は“当時の”白石綾乃ちゃんでないといけないってのは、そもそも作品の「質」が違うから、ってことなんだよ。
 前にも書いたことあると思うが、「結局有名俳優を使うのは、客寄せのためじゃないか」って批判を一蹴できるのは、『カリオストロの城』の頃から、宮崎さんだけじゃなくて大塚康生さんも含めて、「演出家としては」、アニメ声優の誇張されすぎた演技がイヤでレギュラー声優を変えたがっていたことを指摘しとけば事足りるのだ。クラリスやカリオストロ伯爵に、当時は声優専門ではなかった島本須美や石田太郎を起用したことまで否定するかねえ?
 も一つ言えばよ、ただ客寄せのためなら、サンやアシタカにあの人たちを使わんでもジャニーズ系の人選んだ方が得策でしょうに。アレで客寄せになると判断する感覚がもう、オタクの平常感覚が偏ってることを逆証明してるんである。それで言うなら、小宮悦子やらイザムやらをゲストに呼んだ『クレヨンしんちゃん』のほうがよっぽど「客寄せ」に熱心じゃん。批判と難癖の違いくらいはハッキリさせてよね。
 オタクがさあ、林○めぐみの小器用さがイヤだって言うなら、○崎さんの声優起用の仕方には賛成してもよさそうなんだが、なぜか批判の声が大きいのは、「苦楽を共にしてきた仲間が有名になったことへのやっかみ」に近い感覚があるようで、なんかちょっとウジウジし過ぎてんじゃないかって思うんである。

2002年09月24日(火) チチに弱い男ばかりじゃねーぞ/『アフター0 著者再編集版』3・4巻(岡崎二郎)ほか
2001年09月24日(月) 荒らしを起こして♪/DVD『マジンカイザー』1巻/『KUNIE』1巻(ゆうきまさみ)ほか
2000年09月24日(日) ○○と○○はどちらが臭いか…汚ねえな/『いつも美空』1巻(あだち充)ほか


2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか

 昨22日に行われた大阪府の緊急アンケートで、道頓堀川への飛び込みに、大阪人の83%が否定的、との結果が出たそうな。
 なんだ、結構大阪人も良識ある人って多いんじゃん、とウッカリ思ってしまいそうな数字であるが、果たして残り17%の中に「賛成」者がどの程度いるものなのか。仮に10%だとすれば、それはいったい「何人」くらいになるのか。
 9月1日現在の大阪府の人口は、8,831,220人。ということはその10%は、883,122人ということになる。これ、全然少ない人数とは言えないと思うんですけど(^_^;)。そりゃ六千人くらいは飛び込むわなあ。
 街中で石を投げれば、10人に一人の確率で「そういう人」に当たっちゃう可能性が高いのである。やっぱり今の時期の大阪には行きたくねえなあ、という判断は当たってんじゃないかと思うが。


 休日だけれど、終日無為。
 昨日から体調を崩しているので、午前中はずっと爆睡。CS時代劇チャンネルで阪東妻三郎特集をやっていたので見るつもりだったのだが果たせず。
 11児にようやく起きて、カレーライスを作る。「こくまろカレー」に焼肉のタレを混ぜて炒める。これがコクの上にコクが出ていいんだって。具は鶏肉のほかに、タマネギ、人参、ジャガイモのセット売りをそのまま使用。でも人参がちょっと古くなってへにゃっとしてたのは失敗(^_^;)。
 まあ、ルーの出来は悪くなかったので食えないことはない。しげにもまあまあ好評であった。


 昼からCS時代激専門チャンネルで『總篇 佐々木小次郎』(1951=東宝)。
 大谷友右衛門(後の中村雀右衛門)の映画出演第1作で、時代劇の名匠・稲垣弘が監督に当たっている。武蔵ではなく小次郎にスポットを当てた原作は村上元三で、脚本にも一枚噛んでいる。もっとも武蔵以上に素性の分からぬ小次郎のことだから、実在人物とは言ってもその物語は殆ど創作である。巌流島対決で小次郎が死ぬことは観客には分かっているのだから、どうしても小次郎の言動に悲壮感が漂ってしまい、モノクロ映像も相俟ってか、映画のトーンが暗く沈んだ感じになってしまうのは否めない。しかも、6時間弱の三部作を一本にまとめてるものだから、どうしてもダイジェスト的な印象が強く、三船敏郎の武蔵がチョイ役にしか見えないのも残念である。

 続けて、本作の同監督によるカラー版リメイク『佐々木小次郎 前編・風雲大阪城/後編・決闘巌流島』(1967=東宝)。
 これも四代目尾上菊之助(現・菊五郎)の映画デビュー作。稲垣監督、歌舞伎役者の若手を小次郎に起用するという伝統でも作りたかったんだろうか。話は前のと同じなんだけれども、尾上菊之助の方が大谷友右衛門より「やんちゃ」な印象を受ける。こっちの武蔵は仲代達矢だけれども、影が薄いのは前作同様。小次郎の履歴を描写しようとするあまり、ライバルを軽んじちゃった印象がある。まあこのへんが吉川英治と村上元三の腕前の差ってことになろうか。


 夕方、起き出して、ちょっとだけ日記を更新。休日こそ一気に一週間分くらい更新したいんだけれどそれがどうにもままならないのは、やっぱりこれも書いとこう、あれも書いとこうと欲が出るからである。
 もっとサラッといかんものかと自分でも思っちゃいるのだが。


 夜は民放で映画『ピンポン』をやってたのを見る。未だに原作マンガの方は完読してないのだが(買うこた買った)、松本大洋のコマ運びにはまだちょっと馴れないでいる。ひとコマひとコマが独立した静止画のような印象を受けてるもので、物語の「流れ」を掴みにくい。
 映画にそういう「静止画」を持ちこむことはかえって困難なので(持ちこんでる部分はかえって失敗している)、私には映画の方がずっと「流れ」を感じることができた。批判喧しい窪塚洋介についても、演技がどうのより、役者本人に対する嫌悪感のほうが先に立ってるような感想も多いし、そういう偏見抜きにして、これはやっぱり「面白い」映画の一本だと思うんである。


 マンガ、加藤元浩『Q.E.D. 証明終了』16巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 『サクラ サクラ』と『死者の涙』の2本を収録。
 シリーズも巻数を重ねてきてるからなのか、「異色」なエピソードが増えてきてる印象。
 『サクラ サクラ』は殺人もなければ誘拐もない。事件らしい事件もない。佐藤春夫の『家常茶飯』のような、基本的にはただの「失せもの探し」の話である。こういうのを他愛ないと切って捨てる読者もいるだろうが、「日常の謎」を描けることこそが、その作家に本当に実力が備わっている証拠なのである。「闇の中でも文字が読める」ネタに、「はは〜ん」と気づく人も多いと思うけど、この話の眼目は更に「そのあと」にあるのだから、そこで即断してこの話を侮ってはならないのである。それにただの物探しの話じゃなくて、今回は燈馬想が完全に「安楽椅子探偵」に徹してる点にも注目しておくべきだろう。
 ちょっとラブコメ要素が入ってるのはまあ、ご愛嬌ということで(^o^)。
 『死者の涙』には、ちょい怪奇ミステリの要素あり。タイトルは比喩でもなんでもなく、“本当に”死者が涙を流す話なのである。別にそこに「トリック」はありません(このへんはネタバレの範囲外だし、この手のミステリに不慣れな人は予め知っといたほうがいいだろうと思うんで書いときます)。これもカーの『火刑法廷』ほか、「そういうミステリの系譜がある」ことを知ってないと、多分「んなことあるワケないじゃん」と突っ込んでしまう読者もいるだろうね。
 つまり今回は二作ともすげえ「マニア受け」な話なんで(いつもそうだけど)、こんなん描いてお客さん付いて来れるんかいな、という心配が少しばかりしないでもない。けれどそのマニア性をそれと感じさせることなく、エンタテインメントなマンガとして成立させている点に加藤さんの非凡さがあると言えるのである。何度も書いてるけど、『探偵学園Q』とか『名探偵コナン』とか読んで感心してるようじゃ、ミステリの奥深さは全然味わえないってことなんですよ。


 マンガ、野中英次『魁!! クロマティ高校』7巻(講談社/少年マガジンコミックス・410円)。
 今度は「悲願熱涙編」(by『空手バカ一代』)です。この「〜編」ってのもいくらでもネタありそうなワリにもう随分マイナーなの選んできてるねえ。内容とはほぼ全く全然というほど関係ないのが常だけど、表紙のキャラが北斗武士だと、何となく意味ありげには見えるからフシギ(^o^)。
 中身は相変わらずで、いったいこれは面白いんだかつまらないんだか分らないセンスでぶっ飛ばしてますねえ。もうゴリラの絵がヘタでヘタで。これじゃイエティだよ(^_^;)。いやそんなことが言いたいわけじゃなくて。
 関係ないけど「ジェットコースターでは両手を上げる」なんてお約束、あったの?

2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか
2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』
2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか


2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩)


 森光子さん主演の舞台、『放浪記』が、昨21日に昭和36年の初演以来、通算1600回の上演記録を達成した様子が朝のニュースで流れている。
 こないだ初日に見に行ったときには、最後の舞台挨拶は森さん一人が正座して手を広げるだけだったのだけれども、昨日は博多座に東山紀之、堂本光一、滝沢秀明も駆けつけて、森さんの偉業達成を祝福した模様。
 舞台の様子も中継されてたけれども、やっぱりカフェで森さんが踊ったりするシーンや、木賃宿ででんぐり返るシーンだったりする。「83歳とは思えない」と視聴者に思わせる演出だということはわかるんだけれども、森さんの演技力が発揮されるのはどっちかというと静かなシーンの方に多い。情念が全身から沸き立って来るような、それでいて決して下品ではない「林芙美子」としての仕草や表情をしっかり捉えてくれなきゃ、あの舞台の本質を紹介したことにはならんと思う。ニュース番組のディレクターも質がどんどん落ちてきてるんである。

 私は林芙美子の小説は『放浪記』しか読んでいない(『浮雲』は映画の方しか見ていない)。つか、今は本屋の文庫の棚に並んでるのがそれだけだから、図書館とかで全集などを探さない限りは読みようもないのである。流行作家の運命というものを考えると、そぞろ寂しい限りだが、林芙美子自身、自分が忘れられることを痛感していたのではなかったか。
 「『放浪記』だけは残ると思う」というのは本人の述懐だが、言い返れば他の作品は全て忘れられてしまうかもと感じていたのだろう。別に他の作品がつまらないということではない。小説や映画は、どうしたってその時代と「寝る」運命にある。風俗習慣の違いを越えて読み継がれ語り継がれる作品など、厳密にはありえない。『源氏物語』ですら、本居宣長が「再発見」するまでは「封印」に近い状態にあったことを想起して頂きたい。
 森さんの林芙美子は、最後に「書かなきゃ、林芙美子は結局『放浪記』だけの作家だったって言われるのよ」と吐き捨てるように呟く。それだけでも充分じゃないか、というのは、抗い難い人間の業からあえて眼を背けている者のタワゴトであろう。

 福田清人編・遠藤充彦著『人と作品15 林芙美子』(清水書院/センチュリーブックス・714円)」は、現在比較的入手しやすい彼女の評伝だが、シリーズものの一冊で紙数に縛りがあるために、その懊悩の人生の全てを描ききっているとは言い難い。しかしそれでも、舞台『放浪記』と比較しながら読めば、舞台の作者である菊田一夫が「虚構」を通じていかに林芙美子の心の「実像」を浮かびあがらせようとしたかが見えてくる。
 舞台では、実在の人物そのままの名前で登場するのは林芙美子と菊田一夫の二人しかいない。芙美子の母親キクですら舞台版では「きし」となっており、養父沢井喜三郎も「謙作」とその名を改められている。しかし物語自体は原作の『放浪記』をほぼそのままになぞっており、例えば、愛の遍歴に疲れて初恋の人にすがりに尾道に逃避するエピソードもまた、『放浪記』第二部の冒頭で語られている実話である(ただし、史実の芙美子が帰郷したのは大正十三年のことだが、舞台では昭和二年に“ズラシ”ている)。
 だが、この舞台のクライマックスである、芙美子が自分の『放浪記』の原稿を雑誌に掲載させるために、親友兼ライバル・日夏京子の小説を一時隠匿した、という話は、『放浪記』にも評伝本にも書かれてはいない。史実においては、『放浪記』は長く芙美子の篋底に埋もれてはいたが、三上於菟吉、長谷川時雨夫妻によって『女人芸術』に連載され、それが改造社の記者の眼に止まり、出版を果たしている。芙美子の栄光への執着心を誇張して描いたようなこのエピソードは、恐らくは菊田一夫の創作で、事実ではないと思われる。あるいはそれに近い出来事が少しくらいはあったのかもしれないが、菊田一夫は、林芙美子が「そういう人であった」ことをあえて描きながら、決してそれを否定的に見るのではなく、運命に抗おうとする彼女の「生」を半ば称えるようにして暖かく見つめている。
 だから、舞台の林芙美子は、意固地で、自己本意で、恨みがましく、韜晦ばかりしていながら、決して醜くはない。ラストで老醜(と言っても亡くなったのは47歳なのだが)を演じながらもかわいらしく、哀れなのである。
 史実の林芙美子は、執筆による過労が持病の心臓弁膜症を悪化させ、夏のある日、雑誌の取材で銀座でうなぎを食べた直後、心臓発作を起こして亡くなっている。舞台の林芙美子は直接その死は描かれていないが、誰もいなくなった自室で文机に持たれかかるようにして眠る。終生、孤独の影から逃れられなかった彼女の人生を思う時、やるせなさは募るばかりである。
 「虚によって実を語る」菊田一夫の面目躍如と言ったところだろう。

 ついでだけれど、菊田さんの手によって名前は変えられているが、登場人物が実在の誰に当たるかを次に記しておく。
 香取恭助→岡野軍一
 日夏京子→友谷静栄
 伊達春彦→田辺若男
 白坂五郎→上田 保
 福地 貢→野村吉哉
 藤山武士→手塚緑敏
 村野やす子は、平林たい子、壺井栄などのイメージが重ねられているようである。
 女給仲間の悠起、浅子、君、とも子、あけみらは、『放浪起』中に名前の散見する、初、秋、八重、由、俊、計、君、みき、といった女性たちをモデルにしていると思われるが、誰が誰に比定できるものでもなく、また、これらの名前自体が本名かどうかも、定かでない。まあ、文芸研究かならずば、モデルが誰かということは、舞台を楽しむ上においてそんなに気にすることではないのであるが。

 1600回の舞台を終えた森さんの挨拶は、「1600回という節目でございます。嘘は言いたくない。すごく不安だったんです」というもの。自分がそこまで一定のレベルの芝居を維持できるのだろうか、という不安もあったと思う。一回一回のお客さんの評価に晒されているプレッシャー ――というよりは「恐怖」―― に堪え続けた気力、体力はいかばかりか。
 森光子、今もなお旬か。驚嘆すべし。


 飛び石連休の狭間だったせいか、昼ごろからからだがすごくダルくなってくる。昼間クスリの副作用で眠くなるのはいつものことなのだが、立っているだけでふらついてくるのはちょっと辛い。
 それでもなんとか仕事こなしてるから、自分でもよく頑張ってるなあと思うんだが、見た目は単にくたびれて青息吐息なだけだから、ダラけてるようにしか見えないのである。
 やっぱりこれは痩せなければならない。デブだと、どんなに努力しても、この世の中ではマトモに評価してもらえないのである。20キロ体重を落とすだけで、世間のまなざしは変わるのだ。
 外見で人を判断するなったってなあ、判断する阿呆の方が世の中の大半を占めてるんじゃ、文句つけても詮無いだけなんだもんねえ。


 夜、グータロウ君から電話。
 何か急用かと思ったら、「いや、しばらく書きこみとかしてなかったから」とお詫びを兼ねての連絡とのこと。
 全く律儀だなあ、と思ってたら、「で、今、『ガドガード』見たんだよ」。
 いきなりその話題かい(^_^;)。
 動きは確かにいいんだけれども、キャラクターの整理はできてないし、なんか『ビッグ・オー』の二番煎じみたいな感じだし、あの運送屋って設定をうまく生かせるならモノになるかもしれないけれども、今のところはまだまだ未知数、といった評価。これはまあ私もだいたい同意。ヒロインの女の子がかわいいからとりあえずは見てやろうとは思うけれども、DVDまで買うのはちょっと控えたいところである。
 あとはもう、グータロウくん、『座頭市』の感想を怒涛のごとく語る(^_^;)。ヤレ、画面に空気が流れてないの、殺陣にタメがないの、おハナシが浅草軽演劇の構成そのまんまだの、大楠道代の使い方間違ってるのと、貶しまくることったらない。「一度オーソドックスな映画作ってみろよ、それがたけしのためだよ」と、おまえたけしの親戚かなんかか、みたいな言い方までしてたが、聞く人によっては、彼のこの言い分に異義をとなえる人もいるだろう。確かに「知らない人間」には誤解を招く表現ではある。
 なんかホントに野暮な解説になっちゃって、彼には申し訳ないのだが、これはグータロウくんが傲慢になってるわけでもなければ、知識をひけらかしてるわけでもない。これは、たけしもグータロウくんも、同じ「下町」の空気を吸って育ってきた人間からこそ言える、「共感」としての述懐なのである。
 かつて、「芸人」と「客」とが一体となっていた寄席や芝居小屋での感覚、芸が受ければ客は喝采するし、つまらなければさっさと帰る、その中で芸人たちの「芸」が自然に磨かれていく、その関係のままにグータロウくんは発言しているのだ。
 別に客だって芸人を育てようなんて滅多なことは考えちゃいない、ただ素直に面白いものは面白い、つまらないものはつまらない、そう思ってるだけのことなんだが、だからこそ芸人は受けるためには闇雲に精進をしていた。つまんない芸を披露すれば「田舎へ帰れ」と罵倒されるのが普通なのだから当たり前である(まあたけしはもともと下町生まれだけど)。
 グータロウくんには、たけしが映画においてはなぜ「空気」を扱えないのか(舞台での「空気」の感覚に馴れていると、映画においてそれを表現するのは空気を「作る」ことになり、すごく「照れくさくなる」のである)、「殺陣」に「タメ」を作れないか(これも照れくさいからである)、それが感覚的にわかる。分かるからこそ「ダメ」だと言える。それは同じ土地の空気を吸い、文化を共有して来ているからこそ言えることなのである。
 私はだからこそあえてあの映画を「かわいい」と表現したのだが、この言葉もグータロウくんから見れば「照れくさい」、いや、「しゃらくさい」表現ということになるかもしれない。どっちにしろ、グータロウくんのような立場での批評は貴重である。やっぱりねえ、「外国人が日本を舞台にして作った映画」みたいにさあ、共通の文化基盤を持たないで何かを語ってもねえ、どうしてもどこかトンチンカンなものになっちゃうのよ。


 マンガ、加藤元浩『ロケットマン』6巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 主人公の水無葉が情報組織「トゥルー・アイズ」のエージェントになって以来、加藤さんのもう一つの傑作シリーズ『Q.E.D.』との差別化が難しくなってるけれども、面白いからいいんである。
 Episode19『賢者の石』と20『たった一兆』の前後編、今回のテーマは「投資」。
 80年代に設立された投資会社フェイソン・トレーディング。その創立者である金融工学の天才、ロジャー・フェイソンの確立した「フェイソン理論」に基づいた投資は、何十億ドルもの利益を生み出していた。しかし世界的な不況がフェイソン・トレーディングを急激な破綻へと追いこんだ。一社の破綻が連鎖反応を起こし、世界市場は恐慌、引いては市場停止にすらなりかねない状況にあった。
 その最中に、事態を収集する可能性を持っていたロジャー・フェイソンが謎の「自殺」を遂げる。けれどそれが自殺だとどうしても信じることのできない少女がいた……。
 「レバレッジを利用した巨額なお金の応酬、そして情報戦!! それはネットワークを流れるただの数字だけのやりとりを通じてなされる。自分の思惑通りに市場を動かそうとお互いが圧力をかけ合う。もはや経済ではない。世界のお金はゲームで動いてる」……このセリフを口にするのは、経済学者でもなければ資本家でもない。主人公の葉でもない。今回のゲスト、弱冠14歳の少女、エミリー・フェイソンのセリフなのである。タイトルの「たった一兆」は、そのわずか一兆円の儲けのために人間の命が奪われる理不尽を告発したものだ。
 これはフィクションである。マンガである。けれど現在の「経済」がただのゲームに成り下がっていること、それは紛れもない事実だ。世の中にはバブルの崩壊で「儲けた」やつだっているのだ。
 私ゃ拝金主義とまではいかないけど、やっぱお金はないよりあったほうがいいと素直に考えてる人間だけどさ、例えば一兆円積まれたって親兄弟や女房を売ったりゃしない程度の「良識」は持ってるつもりなのよ。だからまさに「たった一兆のために……なあ」と思うんだが、ポーズかなんだか知らないけど、「一兆もらえるなら親だって売りますよ」と平然と嘯くやつ、現実に結構な人数いるんだよね。ジョークのつもりかどうかしらんが、こういうセンスもねえ冗談こかれたって、ただの厚顔無恥にしか見えないってこと、気付かねえのか(-_-;)。
 大金持ちを夢見ることは悪いこっちゃないし、目の前に現実に「儲ける」手段があるならそれに乗っかったって全然構わないだろう。
 でも現実のものごとには、ほぼ100%、リスクが伴う。分不相応な欲をかいたところでロクな結果にはならない。投資が「経済」だった時代には、そういう「経験則」も「カン」も働いてたと思うんだが、今はもう、お金がどう動こうが、結局庶民は損するしかないシステムになっちゃってるんである。なんか憶だの兆だのってレベルでカネ動かしてる連中がもし側にいたら、横っ面を張り倒したくなるんだけど、そういう感覚持ってるってのも、もう少数派になっちゃってるのかなあ。

2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか
2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』
2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか


2003年09月21日(日) 劇団の激談/『美女で野獣』3巻(イダタツヒコ)/『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(山田風太郎・せがわまさき)

 俳優・河原崎長一郎さんが19日午後4時26分、急性心不全のため死去、享年64。若過ぎる死だし、また糖尿病である。
 つい何日か前にCS時代劇チャンネルで『子連れ狼 その小さき手に』に出ていた河原崎さんを見ていたばかりだったので(と言ってもこれも何年も前の映画だが)、なんだか亡くなられたという実感が湧かない。
 誠実、実直、お人好し、そういった印象の役柄が多く、たまにちょっと悪役っぽい役をされても、「でも根はいい人なんだろうな」と思わせるところがあった。この人も代表作を「これ」一つと挙げきれない。遺作の記述が新聞に載ってなかったけれど、いったいなんだったんだろう。 


 朝11時より、久しぶりに劇団の集まりに参加。
 パピヨンプラザのロイヤルホストにメンバーが参集。と言っても出席者は、私、しげ、円谷君、鴉丸嬢、穂稀嬢、よしひと嬢の6人のみ。メンバー数だけいてもなかなか集まれないというのがうちの一番のネックなんだよな。
 脚本書くときにも、勢い、役者を3人程度に抑えなきゃならない。しかも、よしひと嬢は家庭の事情で役者としての参加は今回ほぼ不可。となると、最悪の場合、しげと鴉丸嬢二人だけの芝居も考えないといけなくなる。
 何度も言ってるけど、もうたいがいで誰か脚本書こうってやつ出てこないのか(-_-;)。
 とりあえず女二人、男一人の想定でシノプシスを書いて来たが、みんなに読んでもらった評判はあまりよくない。私の場合、最初からそうビシッとしたものが書けるわけじゃなくて、書いてるうちにアイデアがひらめく場合が殆どなので、シノプシスの段階では外形ばかりで中身がスカスカな場合が多いのだが、叩き台としてはそれで充分なので、あとはみんなでああすればこうすれば、と意見を出してくれればいいのである。
 ところがこれが、具体的なアイデアとなるとからきし出ないのである。「おもしろくない」「ありきたりだ」という「感想」は出るんだけど、打ち合わせってのは品評会とは違うんだから。
 結局、みんなの不満が奈辺にあるかを推測して、具体的な改変をしなきゃならなくなるのは私ということになるのである。でも、みんなが「何をしたいのか」ってのが見えてこないと、私だって具体的なアイデアは出てこないんだけどな。

 打ち合わせのあと、しげと鴉丸穣と連れだって、博多駅の紀伊國屋に回る。鴉丸嬢にはここのホームページのイラストを描いてもらっているのだが、ここしばらくは芝居に集中していて更新がなかった。改めてイラストを何点か描いてもらうために、報酬として本を買ってあげるのである。なんか安上がりで申し訳ないんだけど。
 鴉丸嬢、最近はクトゥルー神話にハマってるようで、ラブクラフト以外にも青心社の『クトゥルー』シリーズなどに手を伸ばしているとのこと。マンガでもクトゥルーものを探していたようなのだが、しげとよしひと嬢が、揃って「諸星さんがあるじゃん」というので、物色に来たのである。
 で、「諸星さん」とはもちろん諸星大二郎なのだが、はて、諸星さんにクトゥルーものがあったっけと訝る方もおられよう。で、それが何かというと『栞と紙魚子』シリーズなのである。いやまあ、確かにクトゥルーものだと言えば言えるが、そんな認識持ったことなかったよ(^_^;)。クトゥルーちゃんの「テケリ・リ!」って叫んでるのはラブクラフトじゃなくてエドガー・ポーだし。
 文庫版の『栞と紙魚子』全3巻を見つけて鴉丸嬢にご進呈したが、こりゃもう、早いとこウチの本棚あせくって、『真ク・リトルリトル神話体系』貸してあげないといかん、と心に誓ったことである(^o^)。


 鴉丸嬢を家まで送ってさしあげたあと、帰宅の途につく。
 途中、バーミアンで軽い食事を取りながらしげと長話。
 しげの職場に、顔立ちは全く日本人なのだが、喋り方がどうも「外人っぽい人」がいるとか。意志疎通がしにくいし、「どこか他の国の方ですか?」と聞いてみたい衝動に駆られるのだが、そういうこと聞くの差別かなあ、と気にしているのである。
 こういう話を聞くにつけ、「人権思想」の弊害ってのはやっぱりあるよなあ、と思ってしまう。相手が何人か聞くなんてことは、もちろん差別でもなんでもないのだが、「誰かが差別だと言い出すんじゃないか」という恐れが逆に「壁」を作ってるんなら、そっちの方がよっぽど差別だろう。
 厳密に言えば、人間と人間の関わりなんて、相手のことが完全に理解できることなんてありえないのだから、どうしたってそこに「偏見」は混じる。人の言動を差別だと決めつけようと思えば、全てが差別になっちまうのである。
 「で、聞いてみたいの?」
 「聞いて相手が気を悪くしたら、一緒に仕事しにくくなるじゃん」
 「聞く必要が絶対あるの?」
 「絶対じゃないけど」
 「だったら答え出てるんじゃない」
 初めからしげが本気で相手に国籍のことを聞いてみる気がないことは解りきっていたので、どうしても返事はつれなくなってしまう。自分で答えを出していることを人に聞くというのはそれこそシツレイの極みだと思うが、自分の行動を決断するのに、あと「ひと押し」がほしいのだろう。
 でもその「ひと押し」のあとでトラブルが起きたりしたら、すぐこちらに責任転嫁してくるのが目に見えてるから、私も愛想よく返事をする気になれないのである。
 ……短く書いてますけど、この手の話でそこに3時間くらいいたんですよ。思えらく、「人権思想」って、平等を謳ってるんじゃなくて、「出る杭を打つ」ことしかしてないんじゃないですかね。藤子・F・不二雄さんが『征地球論』で喝破したごとく。


 マンガ、イダタツヒコ『美女で野獣』3巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。
 1巻のころに比べると結構絵がうまくなってきたかな。大胆なアングル・構図も取れるようになってきたし、線に「伸び」が生まれてきている。なんだかんだ言って「女闘美」モノでは一頭地を抜いてるんじゃなかろうか。他にどんな「女闘美」モノがあるかはよく知らんのだが(^o^)。
 まあよくわからんが米軍基地とのチアガールファイトは面白かった。敵の3人がバブルスとバターカップまではいいとして(いいのか?)、3人目がキャメロンなのはよくわからんが。それとも実は3人目のブロッサムは4巻のお楽しみなのだろうか。
 カバーをめくって、表紙のマンガも楽しみましょう。


 マンガ、山田風太郎原作・せがわまさき漫画『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(講談社/アッパーズKC・560円)。
 戦慄の走るマンガというのはこういうのを言うのかなあ。
 いやもう、甲賀弦之介の「瞳術」ですよ。いや恐ろしい。山田風太郎の小説を「こういう形」で視覚化できるとはねえ。これ、アニメや特撮にしたら、ただ眼をピカッと光らせるだけっておサムイ映像になっちゃうんだろうなあ。って、それ、『魔界転生』じゃん(^_^;)。
 この弦之介の「瞳術」対朧の「魔性の眼」、発想は「もしもメデューサとゴーゴンが見つめあったら?」ってなあたりにあるんじゃないかと思うけど、そこに「ロミオとジュリエット」を重ねちゃうのが山田風太郎の非凡なところ。
 何がイイかってさ、「家同士が本気で戦争やってる最中に何を色恋沙汰でゴチャゴチャやっとんねん」という現状認識の甘さというかフヌケた展開が、山田風太郎にはないのだ。その点、本家『ロミオとジュリエット』より、『ウェストサイド物語』より『甲賀忍法帖』のほうが格段に凄惨かつ冷徹なんである。人間、「恋」をするならこれくらいのモノをしなきゃなあ、と思うのは、「地獄」を見たことのない甘ちゃんの発想なのかもしれないけどね。
 だからこそ、この2巻でのラストのアレがまた……戦慄するのよ。
 「究極の愛」を描かせて、谷崎潤一郎を越えてると私が思った作家は、実は江戸川乱歩と山田風太郎の二人だけなんである。
 まだ原作読んでないアナタ、人生ゼッタイ損してるぞ。

2002年09月21日(土) 世界の王/『パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産』(安田均・山本弘)/『パンゲアの娘 KUNIE』5巻(ゆうきまさみ)
2001年09月21日(金) 子供のころは本屋さんになりたかったのさ/『多重人格探偵サイコ』7巻(大塚英志・田島昭宇)ほか
2000年09月21日(木) 笑顔とブレゼントとオタアミと


2003年09月20日(土) 優柔な憂愁/『よみきりもの』5巻(竹本泉)

 恒例の(^o^)病院ハシゴ。休日出勤を依頼されたのを断っての通院なので今回はちょっと後ろめたい。と言っても来週の土曜はまたまた休日出勤せねばならないので、今日通院するしかないので断るしかなかったのだが。
 内科の方は検査だけなので、診察はナシ。前回同様、しげはリハビリで、私は眼科に回る。こないだから目の前に小さな光のカケラのようなものが見えていたので、何なのか見てもらったが、主治医にはやっぱり硝子体の中の濁りだと言われる。でもこれはほかの濁りと違って全然動かないんだけどなあ。また誤診されてんじゃないかと不安になる。
 「視力回復手術みたいなのがあるそうですけど」と聞いてみたら、あっさり「やってみてもいいかもしれませんね」。
 「どの程度になるものなんでしょうか」
 「まあ、メガネをかけた今程度の度数になるくらいですね。でも度数が回復するだけで、視力が回復するわけじゃありませんよ。メガネをかけるのが楽になるくらいです」
 視力と度数がどう違うのかよく分からないが、0.3程度はモノが見えるようになるということなのだろうか。ただ手術を受けるとしても、年末にならないと時間は取れないだろうな。ただ、ここの病院ではその設備がないらしく、別の医者を紹介される。
 どうも眼科医の間でも、さほど普及している技術ではないみたいで、受けていいものかどうかまたまた迷う。医者にかかって手術に失敗された経験、結構あるからなあ。


 しげと合流して、父にプレゼントを届けに行く。誕生日には早いが、平日はまず会えないから仕方がない。ついでに散髪してもらうが、「何ヶ月来とらんか」と呆れられるくらいに伸びていた。自分ではそんなに時間が経ってたとは感じてなかったのだが、勘定してみるとかれこれ2ヶ月。まあ不義理していると言われても仕方がない間ではある。
 しげ、父から何やら小さな箱入りのプレゼントを貰って喜ぶ(あとで中を見たら高級そうなボールペンであった)。別に何かが貰えると期待などしていなかったので、嬉しさもひとしおのよう。

 しげ、気分がいい感じで、今日も「肉が食べたい」と言い出す。
 和牛ステーキのレストラン「サトウ」でランチ。ランチは普通の定食程度に安いのだが、一枚ン千円もする佐賀牛あたりと比べると、やはり味は落ちる。けどそう連日高級肉ばかり食ってもいられない。昨日の夕食だって、二人で一枚近く吹っ飛んだのだ。けど、ここの店と言い、昨日行った大東園と言い、見た目普通のサラリーマンやら家族やらでほぼ満席状態だったが、不況だと言ってるわりには結構みんな贅沢しているのだなあ、と思う。もっとも、「食」が一番のタノシミ、という人も多いのかもしれないが。
 私は財政を切り詰めるとしたら、まず「食」から始めてしまうので、昔は一日、二日の絶食は普通だった。大学のころまで、体重70キロを越えたことがなかったのも、そのせいだろう。基本的に私は食に対する欲があまりないのである。
 大学卒業間際に病気になって、一週間ほどでいきなり10キロ以上も太り(痩せずに太る病気があるなどとは夢にも思わなかった)、その後、入退院を繰り返すたびに痩せたり太ったりを繰り返しているが、その振幅が軽く30キロはあるので、古い知り合いとちょっと古い知り合いと同時期に会うと、「痩せたねえ」「太ったねえ」と正反対のことを言われてしまうこともある。これでも最盛期に比べると20キロは体重を落としているので、もちっとカラダが動いてもよさそうなものなのだが。
 どちらかと言うと、体重が腰に来ているしげの方がもっと体重を落としたほうがいいと思うが、どうも私のように欲を抑制することが一番苦手なタイプなのである。しげと私の一番の違いはこのあたりだろうな。


 福岡ダイエーホークスの優勝が近づいて来たので、中洲の那珂川の「福博であい橋」に「飛びこむな!」という看板が立ったとか。でも飛び込むやつって、その時点では理性もなんもかんも吹っ飛んでるヨッパライが殆どだろうから、効果のほどはいかばかりか。
 飛びこみ自体は法に触れないので、警察は取り締まりができないらしいね。「危ないからやめなさい」と警告するだけ。確かにリクツで言えば、誰かに迷惑をかけてるわけでもない、と言えなくもないしね。本人が怪我しても、「覚悟の上でやってる」と言われたらそれで終わりだ。
 でも、ホントは決して誰に迷惑をかけてないわけでもなければ、後先考えてるわけでもない。どんな事件が誘発されるかも分からないという「社会不安」を引き起こしているという事実は明らかにある。ただ、そのことを糾弾し始めたら、世の中の現象で社会不安のタネにならないものはないので、「あれもよくないこれもよくない」と、個人の自由そのものが侵害されかねないのだ。結局、一人一人の「熱が引く」のを待つしかないということなんだよねえ。行政でこの狂騒自体をなんとか収める手段はあるかなあと考えてはみるのだが、川をその日だけ堰きとめるってわけにもいかないしなあ。
 で、考えたのだが、大阪の場合、「今飛びこんどかないと、次のタイガース優勝はいったい何10年後か」というファンの「焦り」が飛び込みの増加を招いた面も大きいと思うのだ。だとすれば、福岡の場合、ホークスが毎年優勝し続ければ、ファンも「また来年があるからいいか」と鎮静化していくんじゃなかろうか。実際、巨人ファンがあれほど熱狂したって話は聞かない。多少、優勝の間が空いたからと言って、「常勝巨人」のファンとして、無謀なことをする必要はない、と彼らは考えているんじゃないだろうか。
 となれば、阪神ファンの命を救い、引いては大坂の町に治安を取り戻すためには、もう今後二度とタイガースには優勝させないことだ(^o^)。今からタイガースの方に常勝軍団になってもらうのには、かなり時間がかかるだろうからねえ。
 てなわけで、日本シリーズは社会平和のためにもホークスに優勝させなさい。いや別にそれが言いたかったわけではないよ。私ゃそもそも野球ファンじゃないのだから。


 福岡の一家4人殺害事件の犯人らしい中国人元留学生二人、王亮容疑者(21)と楊寧容疑者(23)が、中国公安当局に身柄を拘束された模様。
 王亮容疑者の方はあの似顔絵の人物だそうだけど、まだ写真が間に合ってないらしくて、テレビ報道では相変わらずあの「若いたけし」みたいな絵を流し続けている。楊寧容疑者の方はもう写真が公開されているので、並べて報道されると、なんとなく滑稽。あれですね、学校の卒業文集なんかで、みんなの写真をコラージュして見開きページ作ってるのに、一人だけ写真撮り損ねていて似顔絵になっているという……例えがヘンか。
 けれど、これで事件が解決するかっていうと、まだまだ前途多難な気はするね。いかにも「黒幕」がいそうだけれど、実行犯逮捕までにこれだけ時間が経ってしまっているのだ。その間、その黒幕さんが座したまま何もしないでいたとは考えにくい。既に何かの「手」を打ってるのではなかろうか。
 も一つイヤだなあ、と思うのは、これでまた「在日外国人の犯罪」を云々するヤカラが増えそうだなあ、ということ。ともかく他人を蔑む機会を狙ってる連中はこういう事件が起きるたびに、ここを先途とばかりに、公然と「だから○○人はよう」ってなモノイイをするからねえ。根拠のない批判はただの中傷だ、くらいのことはあの連中もわかっちゃいるから、これまで言いたくても言えなかったことを、やっと口実ができたとばかりにもう喜色満面で吹聴するのだ。
 在日外国人の事件を問題にするなと言いたいわけじゃない。ただ、自分の差別意識をさも公憤のごとくすり返る、その根性がさもしくって、見ていられないのである。
 黒幕さんが仮にいたとしたら、そいつが「トカゲのシッポ」としてあの留学生たちを使ったのは間違いないことである。どうせ日本人じゃないから、という意識もあっただろう。だとすれば、その黒幕さんと、容疑者を中傷する連中とは精神的に一脈通じている部分があると言えるんじゃないかな。


 マンガ、竹本泉『よみきりもの』5巻(エンターブレイン/ビームコミックス・756円)。
 カバー外した表紙にもマンガがあるのは竹本さんのいつものサービス。今回、「ヘンな話が少ない」と竹本さんは忸怩たるものを感じていらっしゃるようだが、どうしてどうして、充分ヘンな話ばかりである(^o^)。
 「せきめんのすきま」「そらのすみ」「ことりのす」「くちをひらけば」「ブックスパラダイスVol.3」「もらいものに笑顔」の六編を収録。

 いつもひらがなタイトルの多い竹本さんのマンガ、ほわんとした柔かな雰囲気がいい感じなのだが、「せきめんのすきま」って最初勝手に「石面の隙間」と勝手に漢字を当てはめてて、いつ石の壁が出てくるかと勘違いして読んでいた。f(^^;) すぐ「赤面」する女の子の話なのですね。

 「そらのすみ」、空の隅っこに、「何か」が見えるという、かなりヘンな話。でも、見えないものを見ちゃう人って巷にゴロゴロしてるから、この話などはただただかわいい。このマンガで紹介されてる「チョコベー」のCMは、以下のサイトで見られます(うちのパソコンではなぜか見られませんが)。あの当時の子供はみんな一回はこれのマネやってますね。

 http://www3.plala.or.jp/akitokun/morinaga/cyokobe/1972.html

 「タイタニアン」のネタは私はもう忘れてました。『アイアンキング』も全話見てたんだけどなあ。

 「ことりのす」は某萩尾望都の有名短編とは何の関係もありません。髪の毛が「小鳥の巣」な女の子の話です。で、これが比喩ではなくて、ホントに小鳥が巣になってるから竹本さんのマンガは侮れない。

 「くちをひらけば」、「悪口が出る」話。「バカ」っていう言い方がとてもかわいらしい女の子っていますね。
 私は昔、映画の女優さんの「バカ」って言ってるシーンを集めて、クリップビデオを作ろうかと思ったことがありましたが、探すのが大変で諦めました。だって実際、映画を全部見なきゃなんないんだもの。オチだけは決めてたんだけどなあ。最後に「クレージーキャッツ映画」での人見明の「バカ」ってのを入れるの。まあ受ける人には受けるだろうってギャグだけど。

 「ブックスパラダイスVol.3」、このシリーズも『アップルパラダイス』のころから数えると長いですねえ。しかし主人公の「森永う子」ってどんな名前なんだ。「あ子」とか「い子」ならまだ分かるんだが。もしかして、「森永」→「牛」→「うし」→「う子」って連想でつけたのかな?
 恵理子が今回はポニーテールで登場。この子が竹本さんの全マンガ中、最強かもしれないと、私は密かに思っているのである。

 「もらいものに笑顔」、モノを食べてるときの顔がともかくかわいい女の子の話。一般的に女の子はみんな、モノを食べてるときって本当に幸せそうで、そんな様子を見ないフリして横目でチラチラ見るのが私の趣味だったりしますが(イヤな趣味だが男はみんなそうです)、この程度で癒されちゃうんだから、男って他愛ないものなんですよ。
 作中に出てくる『チグリス川潜行夫』って本、実在しないんだろうなあ。「れげんだ・おうれあ」のパターンだね。

2002年09月20日(金) ついに発売! アレとアレ(^o^)/映画『インソムニア』ほか
2001年09月20日(木) ま、映画さえ見られりゃいいんだけどね/『夜刀の神つかい』4巻(奥瀬サキ・志水アキ)
2000年09月20日(水) 頭痛と頭痛と頭痛と……/ムック『山下清のすべて』


2003年09月19日(金) 回想の妻/『にっちもさっちも 人生は五十一から』(小林信彦)

 職場の若い子がフンフンと鼻歌を歌ってたので、何かと耳を傾けてみたら、これが『ゲッターロボ』。「若い命が真っ赤に燃え〜て〜♪」という出だしの部分だった。当然、本放送のときに『ゲッターロボ』を見ているはずはない。「再放送で知ってるの?」と聞いたら、一度も見ていないし、『スパロボ』も知らないと言う。
 「じゃあなんで知ってんだよ」
 「いや、カラオケで……」
 友達と一緒に出かけたときに知ったんだとか。
 「番組も知らないのにそんなに燃えられるものなのかなあ」
 「だってカッコいいじゃないですか!」
 カッコいいのはわかったから、「じゃないですか」と語尾につけるのはやめてちょ。
 なんかイマドキの若い人はゲームもあまりしないみたいね。でも友達とカラオケに行ったからと言って、コミュニケーションの取り方がうまくなってるかと言うとそうでもない印象なのはなぜなんでしょ。


 ようやくしげ、仕事休みが取れる。
 久しぶりに私の職場まで迎えに来てもらって、4日遅れのしげの誕生祝いにキャナルシティまで繰り出すことにする。明々後日が父の誕生日なので、ついでに父へのプレゼントも買えるので一石二鳥。しげは「箱崎の『ゆめタウン』に行こうと思ってたのに」とブー垂れる。そんなんどっちでもいいじゃん。あそこは本屋がないんであまり好きじゃないのである。しげ、「オタクな本屋なんて、普通ないよ」と吐き捨てるように言う。自分だって紀伊國屋に行ったときはずっとサブカルのコーナーにいるくせになあ。

 途中、グッデイに寄って、車用のマッサージシートをしげにプレゼント。なんかムチャクチャ実用的なプレゼントであるが、最近、仕事が忙しくて立ちっぱなし、相当腰を痛めてるようなので、少しは役に立てばいいんだが。なんかこういう健康器具の類って、「ぶら下がり健康機」の昔からあまり信用ならんなあと思ってるんで。
 早速、シートを座席に設置して、振動部がちょうど腰に当たるように枕で高さを調整し始めるしげ。電源を入れると、振動が助手席のこちらにまで伝わってくる。なんかしげの目もキラキラしだした。……喜んでくれてるというより、エサ撒いた途端に池の鯉が口開けて飛びついてきたような感じがするのは気のせいか。

 キャナルシティ到着は6時過ぎ。外はもう暗くなっていて、日が落ちるのが随分早くなったなあ、と感じる。
 父へのプレゼントは、なんか適当な服をしげに選んでもらう。色とかわかんないからこれはしげに頼んだ方が無難なのである。

 そのあと、四季劇場に回って、『オペラ座の怪人』のチケットを購入。予定日は土曜の昼なのだが、既にほぼ満席で、後ろの方の席しか残っていない。平日はまだ空いてるんだろうなあ。土、日しか動けないから、仕方がないんだが。

 福家書店で本を買いこんだあと、いったんキャナルから外に出る。
 しげがやっぱり誕生日の祝いは「焼肉で」と言うのである。ちょっと違うんじゃないかとも思うが、まあいいか。で、前からいっぺん行ってみたかった「大東園」に入る。週末で随分込んでいて、30分ほど待たされたが、ようやく着いた席で注文した肉の数々、この味がもう、これまで食べた肉の中でも最上の部類。いやホントマジで「肉ってこんなに美味いモノだったか」と思ったね。
 ロース、ハラミ、フィレ肉、豚トロ、どれも美味いが、サイコロ形に切ったフィレ肉はもう絶品である。六面満遍なく焼いて、タレもつけずに味見(私は焼き肉は最初はタレを付けずに肉の味そのものを味わう)。程よく焼けた肉の歯応え、中は柔らかいが、決して火が通ってないわけではない。甘い肉汁が口いっぱいに広がって、肉そのものは舌の上でとろける。いやホントにこれが比喩じゃないんだ。
 肉はできるだけしげに食べさせて、私は冷麺を注文。まず麺の腰がいい。スープはキムチを混ぜなければさほど辛くなく、ちょうどいい具合に細麺に絡む。チャーシューと一緒に平たく白い円盤みたいなのが乗ってるから、いったいなにかと思ったら、これがスライスした「梨」であった。これがまたよくスープに合って、爽涼感まで感じさせてくれる。これでは一枚乗ってるチャーシューが、スープの味の前にかえって邪魔なくらいだ。おかげで、いつもは残すスープも、今日はつい全部飲んでしまった。なんだかここまで満足できた食事と言うのも珍しい。
 時間が合えば映画も見ようかと思っていたが、特に見たいというほどのものがなかったのと、しげの腰の調子がまた少し悪くなって来たので、そのまま帰宅。でもまあ、充実した夜であった。
 実はどこの店に入るかでまたちょっと口ゲンカしてはいたのだが(^_^;)。


 帰宅した途端にしげはバタンキュー。
 チャットに入ったら、あやめさんがご来臨。奇しくもあやめさんも今日が誕生日であった。おめでとうございます。〜( ̄▽ ̄〜)(〜 ̄▽ ̄)〜
 って、ウチは4日遅れで誕生日してるんだけど(^_^;)。

 しげのことをあやめさんが「おねえたま」と呼んだので、なんか凄い違和感を覚える。人はやっぱり出会った時期からそうトシを取った感覚で見ることはできないもので、しげに最初に会ったとき、あいつはまだ、15歳だった。てことは、もうあいつの人生の半分近く、私は一緒にいるわけである。
 初対面のころのしげの印象は今でも鮮明に覚えている。当時、私のいた劇団にあいつが訪ねてきた。わざわざ自分からやってきたのだから、入団したいのかといろいろ声をかけてみた。ところがこいつがともかく喋らない。
 「芝居に興味があるの?」
 「……」
 「好きな役者さんとかいる?」
 「……」
 「最近見たドラマとかは?」
 「……」
 取りつくシマもないとはこのことである。ともかくいくら声をかけても返事一つしないで、ただ黙っているだけなのだ。
 普通ならここで「黙ってるだけなら帰れ」と追いかえすところだが、口は開かないが、目だけは私を真っ直ぐ見つめて全く逸らそうとしない。そして時折唇がモゴモゴと何か言いたそうに動く。
 もしかしてこれは、何か私に挑戦しているのか、と思った。芝居を一緒にしていくに足る人物かどうか、試されてるのかも、と大いなる勘違いをしたのである。ああ、勘違い(by『欽ドン』)。
 これは何としてでも口を割らそう(って何か悪いことしてたわけじゃあるまいし)と、ともかく芝居の話を延々とし出した。演劇論、演技論、なんかその場で簡単なマイムまで披露したような気がする。それでも反応はやっぱりない。やはりただこちらを凝視して口をモゴモゴさせているだけである。
 それでも懸命に私はずっと喋り続けた。1時間近く、一人で喋って、ついに私は負けた。
 「……ま、芝居が面白そうだと思うなら、また明日来なさい」
 で、次の日も、その日と同じ光景が演じられたのであった(-_-;)。

 あとで聞いたら、その日はしげ、「よく喋る人だなあ」と感心して聞いていただけなんだそうな。単に最初から喋る気がなかったんである。ドテっぱらに風穴空けてカツブシつっこんでネコけしかけてやろうか。

 なにしろその頃のイメージが強い。強すぎる。
 だもんで、普通ならあいつの成人式にまで付き合ってるというのに、私のしげへのイメージは、そのころで止まったままなのである。と言ってもさすがに15歳とは思えないので、18歳くらいで止まっているのだが。それでも若すぎるか。


 小林信彦『にっちもさっちも 人生は五十一から』(文藝春秋・1550円)。
 『週刊文春』好評連載のシリーズ最新版、2002年度の分である。改めて言うまでもないけど、小林さん、今年で71歳だから、タイトル見て勘違いしないように。
 読んでくと、書きたいことがたくさん出てくるんだがなあ。でもとても全部には触れられないからなあ。こうなったら毎週『週刊文春』買って、感想書いてこうかなあ。もったいないからしないけど。

 小林さんが『千と千尋の神隠し』を高く評価している点は嬉しいことだ。私自身はどちらかと言うと『千と千尋』は宮崎駿作品としてはつまらない部類に入ると思うけれども、小林さんが誉めるのは“わかる”のである。
 「アニメという特殊性に閉じこもるのではなく、むしろ、“映画として開かれている”」という指摘が評価の根拠になっているからだ。宮崎さんが森卓也さんに語ったという「『荒野の決闘』で、ワイアット・アープがクレメンタインと腕を組んで協会に近づいてゆく時、地上を雲の影が流れる。それをアニメはまだ描けない」という言葉、多分この本で紹介されるのが初めてだと思うが、アニメファンには必読ではなかろうか。これを単に「宮崎アニメは実写志向」、と誤解してはならない。
 「必要な描写を描くための技術を作り出すこと」、という「演出論」として語っていると捉えなければならない。
 「後半の水の上を走る電車、車内での少女の孤独感の描写が、そこまでの狂騒的な気分から観客を浄化してゆく」というのも嬉しい指摘。「あそこのところはよかったね」とずっと以前によしひと嬢と話したことがあったが、まさしくあのシーンこそが「映画」としての白眉なのである。「『エヴァ』じゃん」という突っ込みはできるけどね。

 鮎川哲也さんのエピソードはちょっと悲しい。
 人間不信ゆえに、鮎川さんが小林さんとちょっと疎遠になりかけた話だ。これもミステリファンは必読のエピソード。
 ほかのはもう、実際に読んでみてくださいな。

2002年09月19日(木) 騒ぎどころが違うぜ/『仮面ライダー龍騎 13RYDERS』/映画『恐怖の火星探検』/『ロケットマン』3巻(加藤元浩)
2001年09月19日(水) ヤンキーたちの好きな戦争/『日露戦争物語』1巻(江川達也)/『探偵学園Q』1巻(さとうふみや)
2000年09月19日(火) 塩浦さん、今度はご夫妻で遊びに来てね


2003年09月18日(木) めんどくさいのは私も好かんけど/『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(大塚英志)

 飛び石連休で、今日と明日が出勤、そしてまた二日休んで、一日出勤して、また休んで……。なんだかえらくめんどくさいんでかえって体調崩しそうなんだけど、そんなんなっちゃってるからなあ。祝日はやっぱり全部月曜か金曜にズラしてもらったほうがいいなあ。


 昨日はずっとしげと一緒だったので、パソコンを殆ど見てなかったのだが、チャットの方にあやめさん、グータロウくんが書き込んでくれている。
 あやめさんは前の職場をお辞めになったあと、新しい職場が決まったことのご報告。めでたいめでたい。技能職だから決して楽じゃない職場だとは思うけれど、頑張ってほしいものである。
 グータロウくんは『座頭市』と『英雄』をハシゴしたとか。体力あるなあ。
 『座頭市』は、ところどころ気に入らない部分があった由。絵のツクリ方や編集の悪さを指摘していたが、それは確かにその通り(^_^;)。ただそれを必ずしも欠点と捉える必要はないのではないか、というのが私のあの映画に対する見方なんである。もちろん、どっちが正しいという問題ではない。
 映画とかモノの見方はいろいろってことでね、それが基本認識になってるから、意見が違っても彼とはケンカにならない。

 「自分が面白いものを貶されたから怒る」ってのはモノを判断する時に一番やっちゃいけないことなんだけど、なんかもー、そういう人、やたら増えてきてるもんねえ。なら世の中、批判は一切許されないのか。少しくらい腹が立ったからって、貶される原因はどこかにあるんだから、堪えることくらいしろよと言いたい。
 「誉められりゃ嬉しいし、貶されりゃ怒るのは自然でしょ?」とはよく主張されるのだが、コドモじゃあるまいし、人間をそんなに単純に決めつけるのは失礼なんじゃないか。見え透いたお世辞で喜べる心理の方が私にはよくわからない。ごくたまに私も人に誉められることがあるが、「誉められ方」によるんでね。ズレた誉められ方したって嬉しくも何ともない。それよりは堂々と批判してもらったほうがはるかにありがたい。
 みんな、そんなに傷つくことが怖いのかね? まあ、「うわべだけの付き合いですら怖い」シンジ君シンドロームな人に、むりやりオモテに出ろとは言わないけど。
 藤子・F・不二雄の『エスパー魔美』の最終回で、魔美のパパが自分の絵を批評家に酷評されて、思いっきり激怒はするけど、次の瞬間には「それでおしまい」とあっさり終わらせてるのを見たとき、「ああ、これなんだよなあ」と思ったことを思い出す。藤本さん、オトナだよ(T.T)。こうあっさりとキモチを収められるのが「節度」ってもんなんだけど、それのできる人ってのが随分少なくなっちゃってるのが淋しい。

 しかし、「『座頭市』も『英雄』も美少女が出てきてよかった」と書いてたけど、『座頭市』には確かに子役がいたけど、『英雄』には誰かロリーな女の子がいたっけか?


 道頓堀飛びこみでついに死人が出た。しかもどうやら誰かから突き飛ばされたらしいが、犯人はまず捕まらないだろうな。つか、犯人自身、自分が犯人だと自覚してるかどうか怪しい。多分「飛びこもうとしたヤツを突き飛ばした」人間って、もう何10人といるだろうから。
 こういう事態になることがわかっていて、あえてみんな飛び込んでるのだから、もう何をか言わんやである。押した方も押された方もその本質は同じだよ。酔っ払って誰かに迷惑かけようがお構いナシって人種だ。でもそういう連中が堂々と大手を振ってノシ歩ける世の中になってるんだからなあ(-_-;)。
 こういう形での「許容される犯罪」がどんどん世間に伝播していくとするなら、それに巻きこまれないための防衛手段だって一般庶民は講じなければならない。これもまた淋しいことだけど。
 野球ファンだけでなく、何かのスポーツの熱狂的なファンには近寄らないようにすること。いつ「一緒に飛びこみましょう」と誘われるかわかりゃしない。それから酒飲みとつきあわないこと。大人しい酒飲みもいないわけではないが、10人、人が寄ればそのうちの一人は確実に飲んだくれである。冗談で川に突き落とされちゃたまったものではない。そう言えば大学時代に、歌舞伎町の噴水に叩き込まれたことはあったな(^o^)。
 簡単なようで、これ案外難しい。宴会はできるだけ避けなきゃなんないし、人付き合いに摩擦が生じるのも覚悟しないといけない。つか既に病気を理由に職場の宴会からは逃げ回っているのだが、人間関係はお世辞にも良好とは言いがたい。酒一つで人格見られるというのも理不尽ではあるのだが、それが日本の現実なんである。
 ああ、ホークスが優勝したら福岡でも那珂川に飛び込むバカがゴマンと出るのだろうなあ(T.T)。


 WEB現代『あなたとわたしのガイナックス』、4人目のゲストは摩砂雪氏。サブタイトルの「のしあがるためには」というのが凄いね。
 劇場版『エヴァンゲリオン/DEATH編』が代表作ということになるのかな、ああいう映画を作っていながら(私は好きだが)、あまり批判されることが少ない。「『DEATH編』は殆ど摩砂雪の仕事」と庵野さんが断言してるのに、批判が殆ど庵野さんの方に集中してしまうのは、やはり摩砂雪さんがメディアに露出することを避けてるからかもしれない。だって、人柄が特にいいというわけではないことはこのインタビューを読んでもわかるから(^o^)。
 「今のアニメはCGだなんだと山ほど使ってて、確かに1画面1画面はすごく緻密でもの凄く上手い。しかし演出にセンスがないために、映像としての魅力が全然ない、って感じはあります。そういうものを見ると『作画が上手いだけで面白くないものを、なんで毎週毎週こんなにいっぱいつくってるんだよ』と感じてしまうわけですよ」と具体的な作品名は挙げてないが、心当たりのある作品をアレとアレと……と挙げてくと、なかなかキケンなことを喋っていらっしゃるのである。でもせめてこれくらいのこと言う人がいないと、業界は活性化しないんだよな。言う人は自分でも言うだけの作品を作るから。
 しかし、こんなに「絵の描ける」人が「画を描くような面倒くさい作業は嫌いなんです」なんて言うとはなあ(^_^;)。
 話の内容には関係ないけど、摩砂雪さんも「〜じゃないですか」を連発してる。「静物や風景みたいな静止画は、描いていてもすごくつまらないじゃないですか」なんて言葉は、使い方を明らかに間違ってると思うんだが、もしかして、モノゴトを全て自分の決めつけで押し通したいって心理が蔓延しつつあるのかね。


 夜、チャットで昨日見損ねた『トリビアの泉』のネタを鍋屋さんに教えてもらう。今回の内容は普通、といったところらしい。「近藤勇はコブシを口の中に入れられた」っての、確か水木しげるがマンガに描いてなかったか。記憶だけで言ってるので自信がないが。
 「床屋に置いてあるマンガで一番多いのは『ゴルゴ13』」というのはナルホドと納得。みんな「床屋政談」をしたいんだよね。ウチの実家でも多分80巻くらいまでは買ってたはずだが、ある日どこかに行って見えなくなった。古くなったんで捨てたんだろう。残して置くのが何となく恥ずかしいって点でもいかにも床屋向きである。

 
 大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』(角川文庫・620円)。
 「今日ナショナリズムは『私』の仮託先として『国家』や『日本』や『石原慎太郎』が語られながら、しかし『天皇』が“何気に”忌避されている。『天皇抜きのナショナリズム』に変質していった点が現在のサブカルチャー化するナショナリズムの大きな特徴である」という大塚さんの指摘は面白い。
 そう言われれば、「象徴天皇制」の「象徴」という言葉の意味についてすら深く考えようとしてこなかったが、それは必ずしも「ヘタなこと言ったら右翼が怖い」ということだけではないように思う。

 「戦後民主主義」は我々の世代にはどっぷりと染みこんでいる。
 主権が国民一人一人にあると“本気で”考えてしまいそうになるのはそのせいだ。しかしそう考えれば、「天皇」は極めて困った存在、ということになる。リクツで行けば「天皇なんて要らないじゃん」という結論にどうしてもなってしまうからだ。
 でも、「既にあるもの」を積極的になくすためにはそれ相応の理由が必要となる。
 「天皇の戦争責任」という、「個人の地位・立場の責任」が、「制度の責任」という形にすり替えられ、「天皇不要論」の根拠として語られがちなのも(「天皇制があり続ける限り戦争の危険は去らない」とかね。天皇がいようがいまいが戦争の危険はあるって)、要するにそれだけ「天皇を排除する理由」にこと欠いており、「天皇制廃止」を実行することが困難だからだ。
 熱狂的な天皇信奉者ならばともかく、一般的な感覚としては、天皇制は必要なものでもないけれども、なくしてしまう理由も特にない。「象徴天皇」という正体不明の概念を我々がすんなり受け入れたのも、こういう「何だかよく分からないもの」をその「分からない」ままに存在させ続けるのに都合がよかったからだと思う。
 紀子様、雅子様の結婚に狂喜し、子供が生まれるたびに「幸せな家庭の典型」のように報道され続ける天皇家を「忌避されている」と主張するのは事実に相反するようにも見えるだろうが、じゃあ「天皇って何?」と質問して明確に答えられる人間がいないのも事実なのである。もちろん「象徴天皇」以外の答えを明確に持っている人もいるだろうが、それは決してスタンダードではない。だから前総理の「天皇を中心とした神の国」発言が問題視もされたのだ。
 あの発言は、問題視もされたが、「軍国主義との絡み」で明確に批判した論調も殆ど目立たなかった。批判はあったのに、それが「天皇批判」に移行することをマスコミは極度に恐れていた。どちらかというと、あの騒動は「人がせっかくアレには触れないで過ごしてきたっていうのに、あのバカ総理、うっかり触れやがって」という意味で、右も左も一様に困ってしまって、その困った怒りをあの何も考えてない人にそのままぶつけているような雰囲気だった。実際、何が問題だったかも不明瞭かつ曖昧なまま、「で、日本は神の国だったの、そうじゃなかったの!?」という肝腎な結論は等閑になって終わっちゃいましたね。
 「天皇」のこうした世間における「居心地の悪さ」というのは、簡単に言えば、自分と全く付き合いのない家族が隣に住んでるけれども、それがまるで筒井康隆の『俺に関する噂』のように、「意味もなく」ニュースで流され続けているために、何でやねんと首を捻ってる、という感じじゃなかろうか。もちろん「うるさいから出て行け」なんて言えないし、かと言って仲良くしたいわけでもないという宙ぶらりんの状態なのである。

 ワールドカップの狂騒が「ぷちナショナリズム」として称賛も批判もされたが、あのファンたちの心の中にある「日本」は多分、「国家」ではない。もちろん「天皇」もいない。じゃあ何がいるかというと、「日本という名のムラ」である。
 その天皇の「不在」を大塚さんはもう一度見直そう、と説く。ただしそれは「かつての天皇制の復活」を目論んでいるのではない。
 「私たち個々人が自分に望むにせよ望まないにせよ帰属する行政単位としての『国家』に委託した自己の責任を自明のものとして引き受けるためには『天皇制』という政治制度をやはり断念すべきだ」と主張する。
 この考え方自体を私は否定しない。先に書いた通り、「民主主義」こそがこの国のナショナリズムであるとし、その制度を本気で遵守するつもりなら、「象徴天皇制」は、たとえ「権力集中を抑止する」効果があったとしてもその理念に沿わない、というリクツは筋が通っているからだ。
 けれど、何かが否定されたとき、それを正当化するために人はしばしば排除されたモノを「悪」と断ずる。たとえその排除の理由が善悪の彼我にあるものであってもだ。
 大塚さんはそのことの及ぼす「危険」まで考えて意見を主張しているのだろうか。そのことがちょっと気になるのである。

2002年09月18日(水) 復讐するは誰にある?/映画『恐怖のワニ人間』/『Q.E.D. 証明終了』13巻(加藤元浩)
2001年09月18日(火) 声だけ美少女/『スタジアム 虹の事件簿』(青井夏海)ほか
2000年09月18日(月) ゴキブリと音痴娘と構造記憶と/『僕らは虚空に夜を視る』(上遠野浩平)ほか


2003年09月17日(水) そう言や久しぶりのカラオケだったな/『雑多なアルファベット』(エドワード・ゴーリー)

 昨日はテレビニュースをリアルタイムで見ていた、例の爆発事故、昨日に続いて詳細がニュースで流れる。
 犯人は軽急便の委託業者の別府昇容疑者(52)。
 容疑者が、刃物・洋弓銃を手にして、名古屋市東区のビル4階の運送会社事務所に押し入ったのは、昨日の午前10時すぎ。台車の上にポリタンク2個を乗せて、うち1個をけり倒して、床一面にガソリンを撒いて、「7、8、9月分の給料25万円をすぐ払え」と要求、支店長を含む8人を人質に立てこもった。
 県警は捜査員をドア越しに配置し、犯人の説得を試みた。しかし犯人は7人を解放後、ガソリンに火をつけた。捜査員が突入しようとした瞬間、爆発が起きた。
 犯人及び最後の人質だった支店長、そして捜査員の一人の計3人が死亡。近くにいた24人が重軽傷を負った。

 ガソリンを撒いただけで爆発なんて起こるんかいな、と化学的知識の全くない私はぼんやりテレビを見ていたのだが、気化したガソリンが密閉された空間に充満していたところに一気に火がつき、唯一開いていた小さな窓目掛けて吹き出したものだという。へぇ。
 犯人は自殺を試みたのではないかということだが、そんな爆発の知識があったとも思いにくい。金が目的だったのだから、火に紛れて逃げようとか、その程度のことしか考えてなかったんじゃなかろうか。
 事件そのものについての感想は特になし。巻き添えくらった支店長さんとお巡りさんがホントにお気の毒ってことくらい。


 突然しげが「カラオケに行く!」と言い出す。なんかストレスが溜まってたらしい。
 「何のストレスが溜まってるんだよ」と聞いたら、眉間にシワ寄せて(もっともしげの眉間にはしょっちゅうシワが寄ってるのだが)「アンタ」と言われる。
 「オレがオマエに何のストレス与えてんだよ。逆だろ」
 「いんにゃ、アンタもオレに与えてるね」
 「オレがオマエになんか与えてるとしても、オマエがオレに与えてるストレスのほうがずっと大きいね」
 「五十歩百歩じゃん」
 「五十歩百歩ならたいしたことないけど、千歩一歩なら大きな差だね」
 「そうやってすぐ自分を美化するし」
 「『美化』ってそういうときに使う言葉とちがうぞ!」
 なんか思い出して書くだにコドモの会話である。これで40と30の夫婦だからなあ。


 「シダックス」の会員券、私はどこかにやっちゃってるので、しげので入る。しげはバイト先の同僚の人たちとも時々出かけてるらしいので、あちこちのカラオケ券を持っているらしい。しょっちゅう「今度はどこそこのカラオケ屋に行こう」と誘われるのだが、そのたびごとに店の名前が違う。カラオケ屋荒らしでもやってるのかこいつは。
 新番のアニソン・特ソン、いくつか歌えるのがあるかどうか探してみたが、番組自体は見ているのに、主題歌が思い出せないというものが多い。『ナージャ』はキィが合わないから仕方がないとしても(そもそも歌おうと考えること自体がなあ)『ガオレンジャー』も『555』も『ガッシュベル』も全然覚えてない。20代のころまでは、斜め見してたアニメだって2、3回聞くだけで殆ど覚えていたのに、40の坂を越えた時点でもうアウトなんである。
 しげは外人にでもなりたいのか洋モノばかりを歌う。私もむりやりデュエットで『The Phantom of the Opera』を歌わされるが、舞台で一回、カラオケで一回しか聞いてない歌を何で歌えるものか。それでもしげの方は音程を外しつつもなんとか歌っている。「よく知ってんな、こんな曲」と聞いたら、しげ、「オレも一回しか聞いたことないよ」と言う(舞台は私しか見に行ってないのだ)。オモテに出たがらないクセにこういう隠れたところではやたらチャレンジャーなのだな。
 日頃は歌いつけてない歌を歌おうとアニソンを探しているうちに、いくつかの事実を発見。耳には馴染んでてもちろんソラで歌えるのだけれども、私は『オタスケマン』の歌を一度も歌ったことがなかった。なんかこういうのほかにもある気がするなあ。


 エドワード・ゴーリー(柴田元幸訳)『雑多なアルファベット“The Eclectic Abecedarium”』(河出書房新社・1050円)。
 今回随分版型が小さいなあと思ったら、原書と同じ体裁にしたからだそうな。ほぼ文庫版サイズで、絵本のコーナーに置いていたら、他の書に混じって見つからない可能性が大。ご購入の際にはお気をつけを。
 柴田氏の解説によれば、原タイトルの“The Eclectic Abecedarium”は「折衷的なアルファベット・ブック」という意味になるそうな。「エイビーシーデアリアム」とはラテン語起源の語で、あまり使われることのない物々しい響きのする言葉だとか。ムリヤリ日本語で雰囲気を出そうとしたら「寄せ集めのイロハ読本」てな感じになるのだろうか。日本でも種種雑多な「いろはがるた」があるから、あちらでのそういうお遊びものだと思って頂いて、基本認識は間違ってはいまい。もちろん作者が「あの」ゴーリーなだけに、一筋縄ではいかない。なんか意味ありげな、皮肉っぽいような短詩(?)もあるし、単にナンセンスなだけのもあって、種々雑多。でも残酷さはゴーリーにしては少ないので、これなら女の子や子供へのプレゼント用にいいかも。訳者の柴田氏はあとがきで「それでフラレても責任持ちません」と書いてるが(^o^)。

 柴田氏の訳については、これまでの訳もぎこちなく感じられて不満足ではあったが、今回は文句を付けるのはやや憚られる。なんたって、こういう言葉遊びの本で、英語の韻を日本語に引き写すのはほぼ不可能に近いからである。かつて北原白秋は、『まざあ・ぐうす』で果敢にそれに挑戦して敗れ去った(「とっぴょくりんのとん吉」なんて訳されてもなあ)。和田誠氏が『オフオフマザーグース』で偉業と評していいほどの成功を収めたのは稀有の出来事なのである。
 英語や中国語と違って、日本語は韻を踏むこと自体に難しいところがある。五味太郎の『さる・るるる』のように「る」だけを共通させるとか、その程度のことしかできないので、これは如何ともしがたい。
 内容は短いので、以下にそれを示してみる。

Alms(施し)乞われた施し ためらうな。
Bird(鳥)歌は聞こえど 姿は見えず。
Clumbs(パン屑)親指で拾え パン屑。
Door(ドア)ドア閉めるなら うしろ見てから。
Eye(目)地に人あり 空に目あり。
Fan(扇)扇舞うには 元気が肝腎。
Glass(硝子)硝子の向こうで 過ぎ行く人生。
Hail(雹)雹取る秘訣 常備のバケツ。
Indian Ink(墨汁)赤子泣くとも 墨汁飲むな。
Jam(ジャム)無闇に食わすな 犬にジャム。
Kelp(昆布)昆布選るなら 寄りあって。
Library Paste(澱粉糊)嘗めたらあかん 澱粉糊。
Mouse(鼠)家あれば 鼠あり。
No(ノー)つれない一言 悲しみの元。
Oar(櫂)櫂を持たずに 岸去るな。
Pill(薬)病んだら早急 薬を請求。
Queue(行列)行列は 手仕事の機と心得よ。
Rope(縄)もつれた縄は うっちゃるな。
Sun(陽)一日が済み 陽を拝む。
Toad(蝦蟇)人も歩けば 蝦蟇に当たる。
Urn(甕)触らぬ甕に たたりなし。
Vine(蔓)絡まる蔓に 御用心。
Well(井戸)地獄の道も 井戸から。
X(X)Xの字は 苛つく字。
Yarn(欠伸)欠伸するたび 三文の損。
Zinc(亜鉛)台所流し 亜鉛製。

 例えば、“A”の原文は“Betray no qualms/When asked for Alms.”。
 「施しを求められたら、心のまま迷わずに表せ」という意味だから、訳としては正しいのだけれど、“qualms(不安・良心の呵責)”と“Alms(施し物)”との韻を踏んだ調子はどうにも表せない。
 「施し」あるいは「おめぐみ」という単語は見出し語だし、イラストにも描かれているから、外すわけにはいかない。更にABCに合わせようと思うなら、出だしは「あいうえお」の「あ」とか「いろは」の「い」で始めなきゃならない。で、どこかで必ず韻を踏まねばならないと来たもんだ(-_-;)。
 そういう条件を考え合わせると、相当の意訳、超訳をせねばならない。
 試みに私が捻り出したのは「愛のおめぐみ あなたの御心」ってやつだが、まあゴーリーの雰囲気はやっぱり消えている。付いてるイラストが、汚いホームレス(つか毛むくじゃらのバケモノにしか見えん)に仕方なく何かをあげてる人の絵だから、皮肉っぽさは出たかと思うが。
 ついでだから「あいうえお」に合わせて全部以下のとおり訳してみた。言語と内容がかなり離れているものもあるが、ゴーリーの絵と合わせると何となく「そう見える」ようにしてみたつもりだが、もちろん柴田氏の訳よりこちらのほうがいいと言うつもりはない。ご覧の通り相当以上に苦しいものばかりだ(これだけで半日かけた)。アルファベットとあいうえおの数が合わないのがそもそも苦しいんだけど。

あ 愛のおめぐみ あなたの御心。
い いずこに鳥よ 今鳴いたかしら? 
う 失せ物パン屑 うろたえ探せ。
え えらい扉だ えいっと閉めろ。
お お目々があるから お空を見上げて。
か 勝手に踊れば 傾く扇子。  
き きれいな硝子に 厳しい人生。
く 雲間に舞う雹 食えやしないね。
け ケチでも墨汁 決して呑むな。
こ 子犬にジャムは 困りもの。
さ 探しておくれよ 浚った昆布。
し 渋い味だよ 湿った糊は。
す 隅々探せば 住んでる鼠。
せ 責めるだけなら せつないばかり。
そ その櫂なくしちゃ そこから落ちる。
た 助かりたいから たくさん薬。 
ち ちまちま並んで 小さな仕事。
つ 綱だか縄だか つまらぬ絡み。
て 諦観しみじみ 天を巡る陽。
と トノサマガエルは トンデモガエル。
な なぜ甕壊すか 中身も知らず。 
に 逃げろや逃げろ 逃がすな蔓よ。
ぬ ぬばたま地獄へ 濡れ井戸続く。
ね 練り歩く×(バツ)を ねめつける。
の のんびり欠伸 呑気な人生。
は ハウスの台所流し 映えるは亜鉛。

 原文も併記すりゃいいんだけど、もうそこまでは疲れちゃうんで本書にあたってみてください。「こんな風に訳したほうが面白いぞ」というご意見がありましたらどうぞご遠慮なく。
 ついでだから、「いろは」でやりたい人はやってみてください。私ゃもう、とてもやれません(-_-;)。

2002年09月17日(火) 放生会の掘り出し物/『博多の心』(朝日新聞福岡総局)/『魁!! クロマティ高校』5巻(野中英次)
2001年09月17日(月) 祝日には旗を。私は出さんが/『クラダルマ』1・2巻(柴田昌弘)ほか
2000年09月17日(日) クウガと絶叫としゃぶしゃぶと/『少年探偵虹北恭助の冒険』(はやみねかおる)ほか


2003年09月16日(火) 狂熱の一夜/映画『南の島に雪が降る』/『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(山科けいすけ)

 休日出勤の代休で、今日と明日は休みである。
 夕べのチャット中に、阪神が18年ぶりに優勝。
 野球にホントに興味がなくなってるので、今、阪神にどんな選手がいるのかも知らない。まあまたアホな連中が道頓堀に飛び込むんだろう、くらいに思っていたら、今朝のテレビニュースでその数5300人とか。こりゃあちょっと多いなんてもんじゃないね。既にただのヒステリー状態だ。脳内の発酵具合は、関東大震災の朝鮮人虐殺の時とおんなじ。自分が何をやっているのかを認識することが完全にできなくなっているのだね。本人はワザとバカやってる程度の意識しか持っちゃいないんだろうけれど、一人の行為が誰かの「犯罪」に繋がる可能性が「極めて高い」行為なんだからなあ。警察からも、いや、アンタらが好きだと称する阪神チームからも「飛びこみは止めてくれ」と勧告されてて、あえてやってんだから反論の余地はねーよ。
 それともガキみたいに言うか? 「聞いてませんでした」って。
 こういう時期の大阪には行きたくない、と言うか、阪神ファンがどこにいるかわからないから、街中自体に行きたくないと思う。巻き添え食らって何かの被害に会う危険が全くないとは言いきれないんだから。今、ノボせ上がってる連中は、自分たちを危険人物(ただのバカとか既知外ではない)と見てる人間も結構いるってことを少しは自覚して、ちょっとアタマを冷やしてほしい。マジで。
 いち野球チームの優勝に留まらず、阪神V経済効果は全国規模で6355億円に昇る、というUFJ総合研究所の試算もあるようだが、この手の数字が当たったかどうか検証されたって話は聞かないから、まあ怪しいもんである。景気のいい話だけ聞かされて、実際の効果はそこそこで、企業努力自体を忘れで産業がジリ貧になるとこだって出ると思うけどね。
 よく分からんのだけど、UFJ総研は、主要なファン層である10代半ばから50代半ばの人口の約2割、約1500万人が阪神ファンと想定して試算したそうだけど、そんなにファンがいるのか? いや、前のサッカーのワールドカップの時だって、別にサッカーファンでもなさそうな人もいっぱい熱狂してたみたいだから、にわか阪神ファンってのも増えてるだろうとは思うけれど、それにしても甘く見積もってんじゃないかという気はどうしてもしてしまう。
 飲食費や関連グッズ、優勝セールなどの1848億円の直接需要に、関連産業の活発化による波及効果も計算に入れてるとのことだけれど、「波及」って、どこにどう波及するんだか。
 結構優勝してるのに、全然経営状況が改善されず、毎年身売り話の出るダイエーホークスを見てると、所詮野球チームの優勝に過ぎないし、何かが変わるってわけでもないんじゃない? って気がしてくるんだけれどもねえ。
 一応、18年ぶりの優勝って「怨念」がみんなにあるみたいだから、少しは効果が上がるのかもしれないけれど、そんな気色の悪いモノに頼らないとどうにも経済が上向かない状況だってんなら、やっぱり気分的には憂鬱を感じてしまうのである。

 まあこういう阪神ファンを敵に回すような発言をすること自体、マジで危険なのだろうね。念のためにホントに何のゴマカシもなく言っとくけど、私は巨人ファンでもないよ。熱狂するのはいいけど、どこかに冷静な自分を持ってないと人の命に関わることだってあるって言いたいだけなんだからね。
 でもこの程度の発言も、HNじゃあるけれど、やっぱ匿名でなきゃモノが言えないのである。この国に渦巻いてる情念の凄まじさってのは、ホントに恐ろしいよなあ。


 朝、CS日本映画専門チャンネルで映画『南の島に雪が降る』を見る。ちょうどしげも起きてきたので、一緒に見る形に。名のみ知れど、これも機会がなくて見逃していた一本だった。勝手に白黒映画だと思い込んでいたが海の青と木々の緑も鮮やかな総天然色映画。
 古くは『人情紙風船』から、代表作『七人の侍』や『大番』シリーズで活躍した名優、加東大介が、敗戦の色濃い中、従軍地のマノクワリで兵隊の慰問のために劇団を結成して芝居公演を打った実話をもとに書かれたドキュメンタリーを、自身の主演で映像化したもの。
 監督は一時期『パレットナイフの殺人』『蝶々失踪事件』ほか、ミステリの佳作を多数作った久松静児。時代ものから文芸ものまで手がける職人監督である。脚本は『若大将』シリーズの笠原良三。東宝としては手堅い人を加東さんのために用意してくれたというところか。
 解説がなぎら健壱さんなのだけれど、凄いキャストが揃ってると語る通り、当時の東宝映画の名優、喜劇人が勢ぞろいという雰囲気である。
 伴淳三郎・有島一郎・西村晃・渥美清・桂小金治・森繁久彌・三木のり平・フランキー堺・小林桂樹といった人たちがそれぞれに「一芸」を披露してくれるのだから、これが面白くならないわけがない。
 ところが、なぎらさんは「フランキーさんのピアノのシーンは長すぎて映画を壊してる」と言い切っちゃうんだから手厳しい。それ言ったらマルクス兄弟映画のチコの一本指ピアノも、ハーポのハープシーンもムダって言われそうなんだけど。
 個人的に嬉しいのは有島一郎の篠崎曹長が披露してくれる博多にわか。にわか面付けていきなり演じ始めるけど、何の説明もないあたり、昔は博多にわかも全国区的な知名度を持ってたんだろうなあ。今はねえ、博多の人でも、若い人になるとナマの博多にわかは見たことないって言う人、増えてるんだよね。
 知ってる人は多いと思うが、この篠崎曹長のモデル、小林よしのりのお爺ちゃんである。『戦争論』のどれだったかにそのエピソードが載ってたんで、興味ある人は探して読んでみてみることをオススメする。思想がどうのじゃなくて一エピソードして面白いんでね。有島一郎に自分を演じてもらえて、ご本人もきっと嬉しかっただろうな。
 しげがラスト近くで風呂に入って、結末は見なかった。なんだもったいない、と思っていたら、上がってきて、「ねえ、みんな死んだ?」と聞いてきた。
 「死んでるわけないやん! 加東さん、戦後まで生きてたろ!?」
 「じゃあ、何人生き残ったと?」
 「3千人生き残ってるよ!」
 どうも戦時中、島にいた人は全員玉砕したとか思ってたようなのである。やっぱ「知識として」戦争のことはもっと詳しく、学校で教えたほうがいいよなあ。


 昼どきは、ずっとビル爆発のニュース見てたけど、細かい情報は明日にならないとわかんないだろうから感想は明日の日記に。
 しかし休日だけでなく、平日にこうしてリアルタイムでニュース見られる生活ができる人はうらやましいよなあ。


 先週だったか、某掲示板に福岡関連の書き込みがあって、なんか間違ってること書いてるなあ、と思ったのだが、今度は「天神は福岡だ」とかなんとか、適当なことが書かれている。しかも同じ人だから、この人は本当に福岡・博多のことを何も知らないらしい。
 いや、それだけなら間違いとは言えないのだ。地域的に那珂川の西側に「今の」天神地区があって、間には「福博出会い橋」なんてのまでがかかってるから。ただ、その人が「あんなとこ(天神)と博多を一緒にするな」と博多の人間が思ってる、と書いてるところが大間違いなのである。
 前にも書いたが、もともと「福岡」という地域は博多にはなかったのである。黒田氏が居城を構えた時に地名を移殖した(実を言うと、その時点では博多の海岸線はもっと南にあって、今の天神地区はほほ全部が海だった。従って、厳密に言えば天神は福岡でも博多でもない)。「博多湾」という言い方からして、全体が博多だった、ということに気づいてもよさそうなものなのだが。「博多」の語源の一つに、「羽形」=「鳥が羽を広げている形」という説もある(俗説だけど)。つまり今の福岡地区も含めて、もともとは全部が、「博多」であったわけ。
 「天神」はもちろん、太宰府天満宮の菅原道真を祭神としているので、「福岡」よりも歴史は古い。道真公が一時、今泉に立ち寄って、それから大宰府に移られたので、そこに「水鏡天満宮」(つまりそこが当時の海岸線だったのである)を建てたのがその始まり。もともと博多の神様なのだから、「あんなとこ」なんて博多んもんが思うはずがない。
 問題なのはそこからで、ここでまた黒田氏が出てくるのだが、福岡城を築いた時に、その鬼門である現在の位置に天満宮を移した。つまりは、「神様は福岡の武士だけ守ってくれりゃいいんで、博多の人間はどうとでもなれ」という措置なんである。武士の、博多の町人に対する差別意識が、こういうところに表れていたということだね。それでも博多の人間の天神さまに対する信仰が変わるわけではないから、「天神は博多」という言い方も間違いとは言えないのである。
 というわけだから、福岡にだって、もともとの博多の人間はいる。単純に地域だけで分けられるものでもない。博多の人間が嫌うのは、おエライさんに媚びへつらって、「福岡」人の意識で「博多」を差別的に見るやつらなんである。
 こないだはくだくだしく説明したくないからと、こういう細かいところまでは書かなかったけど、その土地のことをよく知りもしないのに知ったかぶって、博多の人間が差別的な意識を持ってるかのように真逆のデタラメを書くってのはどういう心理なのか。どうもこの人、単純にモノを知らないだけではなくて、底意地の悪さというか、下劣な悪意すら持って博多のことを見てるんじゃないかという気もしてくる。少なくとも、他人を見下したいという傲慢な気持ちがなけりゃ、こういうことは書けない。
 無知なこと自体は恥でもなんでもない。しかし「無知のままでいい」と開き直ったり、無知を指摘されることを逆恨みするような態度は、ただ醜いだけではなかろうか。

 その人がここを読んでる可能性もあるので、ハッキリ書いときましょう。
 あなたの行動に対して怒ってもいないし、見下してもいないし、何か反省を求めたいとか思ってるわけでもないです。もし私がそう思っているとお考えでしたら、それはただの妄想です。
 もちろんあなたが、今後もデタラメを書き散らしても、あなたにとっては自分の感覚がデタラメだとは思ってないんでしょうから、別に構いはしませんし、訂正を求めもしません。「真実」は人の数ほどあります。あなたの言うことを信じる人間がいても、それはそれで仕方がありません。ですから、そちらの掲示板に訂正の書き込みをするようなマネもしません。
 ただ、あなたの言葉を真実と思わない人間も、圧倒的多数でいます。私の言は私だけの思いこみではありません。それは博多の歴史を少しでも調べてみれば分かることです。かと言って、調べろなんて押しつけもしませんし、それを「正しい」と強弁する気持ちもありません。
 私はここで勝手に「分析」と「訂正」をしてるだけなんで、こちらに悪意がないことはご理解いただけると思います。


 マンガ、山科けいすけ『C級さらりーまん講座 付和雷同編』(小学館/ビッグコミックススペシャル・872円)。
 この本自体はもう何ヶ月も前に出てて、買ってたんだけど、しげが本棚の奥に隠してたんで見つけるのに手間取った。だからどこにでも本を持ってくなよって。
 6巻を最後に巻数が書かれなくなったのでわかりにくいのだが、これが8巻。旧巻を増刷するのを避けてるのか、すぐ絶版にできるための措置なのか、ファンとしてはちょっと嬉しくないことではある。どこにも旧巻の案内が載ってないんだものな。
 連載作品を全部収録してなくて、セレクトしてるとは思うのだけれど、そのおかげで内容は濃くなっている。ただ、新キャラの男山課長、顔がゴツイから周囲から男らしく思われてるけど実は小心者っての、『黒イせぇるすまん』の「たのもしい顔」のネタとかぶってるよなあ。いや、「顔のわりに小心」っての、ほかのマンガにもよく出てくる設定だから、今更パクリだとは思わないけれど、「サラリーマンもの」でそれやっちゃうととどうしても類似性が気になるんで。喪黒福造に「ドーン!」ってやってもらったらどうだとか思っちゃうんだよね。
 ビルにガソリン撒こうとする左遷された平社員のマンガがあったけど、まあ何というシンクロニシティ(^_^;)。

2001年09月16日(日) オタクの輪ッ!……古い(^_^;)/『(週)少年アカツカ/おまわりさんを追いかけろ!号』(赤塚不二夫)ほか
2000年09月16日(土) 電波とスケルトンと二人乗りと/アニメ『バットマン マスク・オブ・ファンタズム』


2003年09月15日(月) 西手新九郎は「心の遊び」に留めておこうね/『アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(安彦良和)

 ここ数日で訃報が伝えられた外国の有名人、ジョン・リッター(俳優。『ノース』など見たことある映画も何本かあるみたいだけど記憶にない)ジョニー・キャッシュ(カントリー歌手。『刑事コロンボ/白鳥の歌』の犯人、トニー・ブラウン役も演じていた)、ジュールズ・エンゲル(アニメ作家。『ローンレンジャー』が代表作)、ジャック・スマイト(映画監督。『動く標的』など)と、イニシャルが全員J。よくある偶然ではあろうが、「次にまたJの人が?」とつい思ってしまうのが心のさもしいことである。
 昔、「アメリカの大統領は、当選年が20年置きの者は事故にあうか暗殺されて任期を全うできない」というジンクス(つか俗説)があって(リンカーンは1860年、ケネディは1960年の当選)、それを初めて聞いた時には、素直に「そういう『呪い』ってあるんだなあ」とか思っていた。恥ずかしいことに、1980年にレーガンが当選した時も、「ああ、この人、途中で事故か暗殺にあっちゃうんだ」、とか半ば信じていたのである。レーガンは暗殺未遂にこそあったが(この犯人もこの俗説を信じてたのではないかな)、無事任期を終了した。そこでようやく「ただの偶然」という言葉が私の脳に浮かんできたのであるが、世間でのこの「運命の偶然」を信じたがる傾向は、「暗殺“未遂”も可」という方向にスライドしてきているようである(~ー~;)。これなら2000年当選のブッシュさんも、任期満了できても、例の9.11を挙げて「暗殺未遂」と強弁できるわけだ。人の命を弄びたがる心理というのは、不謹慎の謗りをかわすかのごとく、こういう「軽い」形で現れるものなのだね。
 こういう「偶然」をいろいろ挙げていったら、「トリビア」がまたひとつできそうではあるな。もっとも限りなく「でっちあげ」に近いトリビアではあるが。


 しげとよしひと嬢、今朝は6時半に朝帰り。打ち上げからそのままカラオケに雪崩れこんで朝まで歌っていたのである。そこまでの体力は私にはもうない。大台とか言ってるが二人とも全然若いよ。
 今日仕事があることを考えれば、打ち上げに行かなかったのは正解だったろう。


 本日は休日出勤、アキレス腱を切った上司も「今日は用事のあった人も多いだろうにねえ」と愚痴をこぼすが、台風のせいでの出勤振替だから仕方がない。
 それより困っちゃうのが、今日がしげの誕生日だということだ。祝日が誕生日というのは、学生のころには友達から忘れられてしまうという弊害があるが、家庭を持てば一緒にゆっくり過ごせるというメリットの方が大きい。入籍を大晦日にしたのも、まさかこんな日にまで出勤を強要する会社もそうはなかろうと考えたのだが、現実は全く違っていたので、全く日本人のワーカホリックもここに極まってるなと感じたものだった。
 よっぽど仕事を休もうかと思ったが、そうもいかない。事情を上司に話すと「家庭の危機ですねえ」と言われた。いやマジでな(-_-;)。しかも仕事が長引いて、早く帰宅できるはずが結局残業。七時過ぎに帰ってみると、しげはよしひと嬢を送って出かけていた。全くのすれ違いの誕生日である。このままだと今年の年末もいったいどうなることやら。


 マンガ、安彦良和・NHK「文明の道」プロジェクト『COMIC Version NHKスペシャル文明の道1 アレクサンドロス 〜世界帝国への夢〜』(NHK出版・1680円)。
 安彦さんの『ジャンヌ』『イエス』に続く歴史ファンタジーの第3弾。もっとも『ナムジ』や『蚤の王』なんかも含めたらもっと数は増えるから、もうこのシリーズは『ガンダム』で語られることの多い安彦さんの、もう一方のライフワークと言っていいだろう。
 もとになったNHKの番組の方は見てないのだけれど、ドキュメンタリーとは言え、後世の人間の「解釈」が入る以上、歴史は所詮「物語」である。まるのままの虚構だとまで断言する気はないが、こうして「マンガ化」された「歴史」を見ていると、真実とか事実とか人間は本当は必要としていないのだなあ、とつくづく思う。
 以前、故池田満寿夫が「写楽」の正体を歌舞伎役者・中村此蔵だと推理した時に、故吉行淳之介が「真実がどうあろうと、私の『写楽』はこれで決まり」と断言したが、「歴史認識」とかたいそうなことを言う人は多いが、結局はそういうものである。その点、歴史を物語として綴ろうとしている『戦争論』の小林よしのりの基本姿勢には賛成している。ただその内容には賛同していない。そこで語られている「物語」が杜撰で面白くないからだ(『戦争論』は全シリーズ読んだけど、感想を書かないのはそういうワケ)。
 アレクサンドロスと言うかアレキサンダーと言うか歴山と言うかイスカンダル(^o^)については、以前、なんだかなあ、な、角川アニメがありましたが、その伝で行けば実像とどんなに違っていても、安彦さんの描く彼は実に「面白い」。
 たった1巻であるために、最大の敵であるペルシャ王ダレイオス三世との対決のドラマがいささか薄く感じられるキライはあるが、夢多き少年が疑心暗鬼に躍らせられ、かつての忠臣を粛清していく暴君と化していく過程は、安彦さんの「王もまた人間」という視点がハッキリしていて、安彦さんの「歴史家」としての思想基盤もここにあるのだろうと察せられる。
 それを象徴しているのが、やはりその粛清の対象者となった従軍歴史家、カッリステネスであろう。安彦さんはこの人物に随分思い入れがあるようで、そのキャラクターデザインもどこか安彦さんの自画像に似ている。
 哲学者アリストテレスの甥にして、アレクサンドロスにとってのホメロス(もちろん『イリアス』『オデュッセイア』の作者ですね)たらんとするカッリステネスは、堂々と「見てきたようなウソを書く」と断言し、アレクサンドロスを美化した「歴史」を書き、「アレクサンドロスの名声は後世にボクの書いた歴史として伝えられるはずサ」と嘯く。しかしその彼が、途中でアレクサンドロスの歴史を書くことをやめてしまうのだ。 
 物語は常にそれを支えるテーマたる「思想」を必要とする。わかりやすいのは日本軍における「大東亜共栄圏」であろう。あれを単純に「幻想」と呼ぶのは簡単であるが、適切なことではない。そう断定してしまえば、人間の思考は全て「幻想」にすぎないとしか言えなくなる。アレクサンドロスの「東征」には、初め「蛮族ペルシャの侵略を打倒するギリシャの聖なる戦い」という「思想」があった。しかし、エクバタナの地をダレイオスが逃亡し、コリントス同盟が解散されても、アレクサンドロスは執拗なペルシャへの「報復」を続けた。そしてその時点でカッリステネスは「歴史」を書くことを止めたのである。
 ダレイオスをついに倒したアレクサンドロスは、その後継者としての地位を喧伝するためにペルシャ式の礼拝を自分に行うよう、家臣たちに求めた。それを唯一拒絶したのがカッリステネスである。既にそのとき、忠臣たちの粛清は始まっており、自らもまた処刑されることを彼は覚悟していただろう。アレクサンドロスはペルシャ式儀礼を行うことを廃止したが、カッリステネスは「王暗殺計画」の嫌疑をかけられ、逮捕され、行軍の最中に衰弱死する。
 彼は最後に、この物語のもう一人の語り手、後のトラキア王リュシマコスにこう語る。「アレクサンドロス。思っていたよりも不可解な男だったが、所詮人間だ。あれもいずれ死ぬ。だが歴史を作った。それは間違いない。すべて書き残すつもりだったが手に余った。残念だ」。
 このセリフはもちろん、安彦さんの「創作」だろう。そういう思想でカッリステネスがアレクサンドロスの歴史を描いていたとは限らない。しかし、「所詮人間」と言うその脆弱さ、「歴史を作った」「手に余る」ほどの強靭さと壮大さ、その二律背反した性質こそが、人の持つ「謎」の本質であり、だから我々は人と歴史とに「夢」を抱いて行けるのだろう。
 安彦さんの思想自体には充分に「真実」と「普遍性」があると思う。虚構と真実とは決して相反するものではなく、人間の、歴史の、表裏一体となったアニメーションうちわの両面のようなものだ。死者は常に「神」に祭り上げられる。しかしカッリステネスの跡を継いでアレクサンドロスの偉業を語り継ぐリュシマコスもまた断言するのだ。
 「あの人は決して神ではなかった。人間だ! たとえ半分といえども神なんかではなかった! 欠点の多い、大酒呑みの、自惚れやで傷つきやすい、愛情が豊かで酷薄な、誇り高い、そして誰よりも勇敢な、マケドニア生まれのよい青年だった!」
 このセリフもまた安彦さんの創作だろう。しかし、これが虚構であるか真実であるかはどうでもいいのだ。安彦さんがどういうアレクサンドロスを語りたいのか、そしてそれを我々読者がどう受け取るのか。歴史ものを読むポイントは、実はそこにしかない。

 伝えられるアレクサンドロスの臨終の言葉は、側近の「後継者は?」の問に答えた「クラティロス(最も強き者を)」である。この言葉が原因となり、ほぼ半世紀に渡る「ディアドコイ(後継者)戦争」が起こることになる。
 安彦さんの描くアレクサンドロスは、「夢が全てだった」と呟いて死ぬ。
 前者が真実で、後者がウソなのではない。どちらも「物語」なのだ。どちらの物語の方を我々がより面白いと感じるのか、「こんなのアレクサンドロスじゃない!」と憤る読者もいるだろうが、「物語」は常に虚実皮膜の境にあるという近松門左衛門の言葉を噛みしめてもらいたいと思う。

 そういやこのマンガ、あの「ゴルディアスの結び目」のエピソードも描いてないな(^o^)。

2001年09月15日(土) オタクなばーすでぃ/映画?『スペースカッタ2001』in「山口きらら博」ほか
2000年09月15日(金) ネパールとサウスパークとおだてブタと/『ブタもおだてりゃ木にのぼる』(笹川ひろし)ほか


2003年09月14日(日) タイトルを付ける元気もね〜や(;´_`;)。

 樋口真嗣監督の次回作が『終戦のローレライ』になるそうな。「モー娘。映画」で実写監督の実績があるとは言え、随分と大作を依頼されたなあという印象で、喜ばしいことである。
 もっとも原作の福井晴敏作品は未読で、どんな内容だかはよく知らないんだが。『亡国のイージス』も途中まで読んで放り出してるからなあ。さっさと日記の更新片付けて、溜まってる本や映画を見なきゃな。
 『ローレライ』の単行本の装丁をやってるのも実は樋口さんなのだが、デザインに凝り過ぎて大きなポカをやっちゃってるのが気になっている。背表紙のタイトル、普通は上の位置にあるのを奇を衒ってか一番下に三行分けにして書いてるんだけど、これ、図書館なんかだとラベルに隠れて見えなくなるんだよね。ラベルを貼る位置は規則で定められてるから、ズラして貼る訳にはいかない。
 まあ、自分が装丁した本が図書館に並ぶ可能性、ケロッと忘れてたんだろうなあ。こういうことしたの、樋口さんが初めてじゃなかったと思うから、出版社の編集者とかおエライさんとか先例を覚えてたら注意してあげときゃよかったのに。図書館によっては、「タイトルが分らないから」その上に「手書きで」タイトル書いたりすることがあるんだぞ。
 ちなみに私は古本屋で『世界ミステリ全集』及び『世界SF全集』を手に入れているのだが、これの背表紙には全部ワープロでタイトルと作家名のシールが“歪んで”貼られている。嗚呼(T∇T)。


 午前中は炎天下でお仕事、そのあとバスと地下鉄を乗り継いで天神のアクロスへ。一応名前だけ代表の自分の劇団の撮影班に駆り出されてるのである。

 演劇集団 P.P.Produceの公演もこれで五回目になるが(番外公演を入れれば六回目)、シロウトながら少しは進歩してるかというと、まあ、あまり進歩はしてないのである。
 劇団のみんな、回数を重ねるのは構いはしないんだけど、いったい何をやりたいんだかが全然見えてこない。いやね、実際、何だって構わないのよ。単純に「いろんな役柄になれるのが嬉しい」とか、「お客さんを笑わせたい」「泣かせたい」とかでもいいし、「スポットライト浴びたいの!」ってだけでもいい。私の好みではないが、ガッチガチの思想劇やって、メッセージを発したいってんでも構わないのだ。「オレたちが芝居やってるのはこのためだ!」ってのがなきゃあなあ。
 それがまあ、毎回面白いくらいに誰かが阿呆なトラブルを起こしてくれるんだよなあ。具体的なことは書けないけど、「何のためにここにいるんだ、芝居作る気ないなら出てけ」と怒鳴りたくなるような、こっちの胃がキリキリ痛むようなマネばかりさらしてくれるもんで、いい加減、こりゃこのまま付き合ってても自分のカラダが持ちゃしねえと思い切って、何回か前から、「やる気のないやつと組んだって仕方ねえ、もうオレは脚本でしか参加はしねえぞ」と宣言してケツをまくったのだ。
 いや、今回は「脚本も自分たちで作れよ」と、最初はそう言ったのである。ところが脚本書こうってやつが全然出て来ない。結局、依頼がこちらに来る。しかもやっぱり何がやりたいか、各人の意見がまとまらないまま、ネタだけがバラバラで提供された。しょうがないから、そのネタを全てぶちこんで、初稿だけは書いた。
 各メンバーの考えたネタを思い付くままに適当に繋げただけのシロモノで、まあ、そのまま舞台にかけられるものでは全然ない。無駄なセリフは多いわ、口調が変わっちまってる部分はあるわ、誰が誰のセリフなんだか、混乱して間違えている部分まである。何より話そのものに整合性がなく、ドラマツルギーを無視している。いつもはそこから推敲して、完成稿に仕上げていくのだが、今回は「あとは自分たちでなんとかせえ」と投げ渡した。少しは自分たちでアタマ使わないと、このままだとトンデモナイものになるぞ、ちゃんと使える脚本に仕立てなおせよと伝えて、手に余るようなら脚本差し戻せ、推敲するからとも言っておいた。
 私はそこで「期待」はしていたのだ。ここまで適当なモノを出しておけば、少しはみんなでアタマを捻ってなんとかするだろうと。
 一応、一度だけ手なおしは頼まれた。「意味がよく分らないから説明を加えてほしい」と。芝居は説明じゃない。それを加えたら更に台本が壊れるとは思ったが、それが総意ならば仕方がない。話をムリヤリ繋げてみれば、いくらなんでもかえってそれがジャマになることにみんな気が付くだろうと思ったのだ。ともかく「頼まれたこと以上の口出しはしない」と決めていたので、あとはみんなを信頼したのだ。
 ……まさか、まんまやるたあ思わなかった。
 なぜあのまま小屋にかけられると思ったのだ。舞台を撮影しながら、私は背中に5トンの重りが乗っかってるような気になってきた。
 脚本の解釈を間違えてるところがやたらあるのは仕方がない。脚本自体に乱れがあるのだから、まんまやれば解釈に乱れが出るのは当然だ。だけど、なぜキャラクターが「みな同じ」なのだ。なぜみんな同じセリフを喋り、同じ演技をするのだ。芝居をすることを「放棄」しなければそれはできないことだぞ。
 「期待」をしたことが間違っていたのだ。追いつめられれば、いくらなんでもみんな「出来る」と思っていたのはとんだ見込み違いだったのだ。
 今日聞いたが、頼まれた台本の手なおしも、みんなの「総意」などではなかったのである。誰かの言った意見を何の検証もせず、私にそのまま伝えただけだったのだ。その時点での演出は(今回のトラブルの最大のモノは、演出が3回変わったことだろう)、「何も考えていなかった」のである。
 お客さんのアンケートをあとで見たけど、あれでも誉めてくださった方のほうが多いのは不思議なくらいである。同情票なのだろうか。しかしあそこまでひどいものをお客さんに見せてしまった以上、いくら形だけの代表とは言え、責任を感じないではいられない。私の名前が「脚本」としてクレジットされている以上、出来あがったものに対するそれは、どうあろうと引き受けざるをえない。
 正直な話、私はもう彼らとの演劇作りに関わりたくはない。役者がどんなにヘタだって、私は怒りはしないのだ。私が大嫌いなのは、芝居を好きでもないくせに好きなフリをしている連中である。
 なあ、芝居で表現したいものなんて、ホントはないんだろう? 「自分」があるフリをしているだけだろう? もしあるというならそれを表現してみろよ。少なくとも私にはみんなが全く同じ顔にしか見えなかったぞ。

 もう一度だけ、連中につきあってみようと思う。ただし、彼らに「期待」しているからではない。「見切り」を付けてもなお、「演劇」というものが成立するものなのかどうか、試してみるためだ。少なくとも彼らは「やる気はある」と口では言っているのだ。だとしたら、私がどんな罵詈雑言を浴びせようと、「逃げ」はしないはずである。

 本日の公演情報を以下に記しておく。

 『rainbow flyer』
  日時・2003年 9月14日(日)
   開場 13:30  開演 14:00
   開場 17:30  開演 18:00
  場所・アクロス福岡円形ホール
  料金・入場無料(完全カンパ制)

  キャスト
   荒巻和子………勘 よしひと
   門倉美佐子……桜 穂稀
   森奈奈絵………嶋田 悠
   祖父江達朗……ラクーンドッグ(エコロジーな缶詰ワールド)

  スタッフ   
   脚 本…………藤原敬之
   演 出…………円谷きざし・鈴邑郁人・鴉丸 誠
   舞台監督………鴉丸 誠
   照 明…………其ノ他大勢・加藤八十六
   音 響…………其ノ他大勢・桜雅 充
   道 具…………鴉丸 誠
   衣 装…………鴉丸 誠
   メイク…………鴉丸 誠
   制 作…………嶋田 悠
   チラシ…………勘 よしひと
  あと、お手伝い人が3人。一人はラクーンさんの、あと二人は鴉丸嬢のお友達である。


 みんなはそのまま打ち上げ宴会に雪崩れて行ったが、私は明日の仕事があるので一足先に帰宅。就寝。

2001年09月14日(金) カリメンしげ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』1巻(森雅裕・有栖川るい)
2000年09月14日(木) 通院と残暑と誕生日プレゼントと/『世紀末アニメ熱論』(氷川竜介)ほか


2003年09月13日(土) 言論にはリスクが伴うということ/映画『羅生門』

 昨12日の朝、東京都江東区の東京港建材埠頭で、ルポライターの柏原蔵書(かしわばらくらがき/本名・染谷悟)さんが遺体となって発見された。本職はフリーカメラマンなのだが、東京・新宿の犯罪や風俗の実態を紹介した『歌舞伎町アンダーグラウンド』という著作もあり、最近は銃社会の取材を始めようともしていたとか。
 犯人が誰なのかはもちろんまだ調査中なのだが、著書の中に「本を書いたことで歌舞伎町を敵に回してしまったかもしれない」と記し、また、出版後は周囲に「命を狙われている」とも話していたというから、ウラのなんたらの報復措置だとも考えられる。
 いつぞやの『悪魔の詩』事件の時にも思ったことだけど、「表現の自由の保証」だのなんだと言いながら、その実、日本人の殆どがそんなものには関心がないんじゃないかと疑りたくなってんだよね、私ゃ。
 だってさあ、みんな普段はこの言葉を金科玉条みたいに口にしてるけどさあ(特に識者とやら)、それがなぜかって言うと、自分の意見を押しつけるための言い訳に使ってるだけなんだよねえ。それが証拠に、日頃この手の発言してるやつに限って、こういう事件が起こって何か言うかっていうと黙りこむんだよ。トバッチリがくるの、イヤなんかね。アンタラがまず真っ先に怒りを表明して然るべきなんでないの? と言いたいよ。
 そういう口の達者なヤツらって、いつも言い訳だけは用意してるんだよ。
 まだ捜査中の段階ではコメントできないとか(いつもは憶測だけでモノ言うことも多いくせにな)、今はまだ事情があって語るべき段階にないとか(で、あとで語ったってあまり聞かないなあ)、果ては「言論は無力だ」とか(なら最初から黙ってろ)。
 命が惜しいのは当然だろうから、沈黙するのが悪いとまでは言わない。けど、日頃は好き勝手放言しときながら、何かあったら逃げるってことは、そういう事態に自分が置かれるって可能性、考えてなかったってことだろ? 自分にだけは弾圧も攻撃も来ないと甘く見てたってことだよね? そこは突っ込まれたり批判されたりしても仕方ないんじゃないかね。
 私も見た本や映画の感想、こうして好き勝手書いて公開までしてるもんだから、たまに実作者の方から書いたことについて訂正や批判を求められることもある。そこで事実の誤認があれば訂正してるし、拠って立つ立場が違う場合はそれを説明もする。そういうことはないだろう、なんて高を括ってたりはしてない(よくこんなもんまで読んでるなあ、とは思うが)。たとえば『座頭市』について批判してる部分もあるけど、たけしが乱入してきたら謝る覚悟は持ってるぞ(謝るんじゃん)。
 世の「識者」のみなさん、この事件についてはもっと声を大にして真相究明を求めるキャンペーンくらい張ってもいいんじゃないのかね。なにかモノを言って狙われたら即アウト、なんてふざけた状況、許したいわけじゃないだろうに。それこそ自分たちの「死活問題」なんだから、いつも言ってる「法整備」だの何だの、主張すべきことは一杯あると思うんだけどね。


 朝、早起きしてしまったので、しげを誘ってガストで食事。
 最近ここのディスプレイで「二角どり」というゲームをするのが我々夫婦のマイブームである。1回50円で同じマークの麻雀パイをクリックしてめくって行く遊びなんだが、直接隣り合わせになってるか、空間で繋がってないとめくれないのである。
 朝もはよから画面を指でプイプイ押してる怪しい二人組というのも何なんだが、まあ、人に迷惑かけてるわけじゃなし。
 そのあと、合コンゲームをやって画面の中の女の子をナンパ。百円でやれる程度のゲームだからあっという間にキスまで行ってしまう。でもそれから先がない。ファミレスだからそれが限界だよなあ……ってそもそも恋愛シミュレーションゲームがあるだけでもヘンなんだが。
 

 いよいよ明日が公演本番なので、よしひと嬢、今日から二泊三日のお泊り。
 今度の脚本にはモチーフに黒澤明の『羅生門』を使っているのだが、よしひと嬢、未見とのことなので、本棚を猟ってビデオテープを引っ張り出す(DVDは山のどこかに沈んでて見つからなかった)。

 私も『羅生門』を初めて見たのは比較的遅かった。『七人の侍』も『用心棒』も『天国と地獄』も高校のころまでに見てはいたが、『羅生門』はテレビ放送を見逃すことも多く、初めて見たのは大学の終わりごろか、最初の職場に就職して間もないころだったと思う。それでももう20年近く昔のことだ。
 当時、天神の西通りに「キノ」という小さな名画座があって、そこで『ちゃんばらグラフイティー斬る!』『素浪人罷り通る』『羅生門』の三本立てで見たのが初見である。小さなスクリーンではあったが、スタンダードサイズのこの映画を見るには充分だった。三船敏郎の躍動、京マチ子の妖艶、それにも増して虚偽を語らねば脆弱な自己の心を守れぬ人間の愚かしさがかえって愛おしく思われた。
 それから何度この映画を見たか知れない。そのたびごとに新しい発見があるのだが、今、私の『羅生門』に対する評価は複雑なものになっている。それはやはり芥川龍之介の原作にない、黒澤明オリジナルの第四の結末に起因していることなのだが。
 この映画を広義のミステリーと解釈すれば、この結末に触れることはネタバレに属することなので喋りにくいのだが、少なくともそれまでの三人の語った相矛盾する物語、盗賊多襄丸が、真砂が、金沢武弘の霊が、なぜウソをつかねばならなかったのかをうまく説明している点では実によくできていると思う。
 ただ、「うまく説明ができている」からと言って、本当に彼らがそのような状況に立ち至ったためにウソをついたのだ、ということを証明することはできない。全ての被疑者がウソをついているなどという状況が非現実的である以上、納得のできる説明などは本来ありえないのである(たとえ現実にそのような状況がありえたとしても、信じがたい出来事であることには変わりがない)。
 芥川の原作はまさしく、「ありえない現実」をあえて具現化して見せたことによって、人間存在自体の虚構性を照射している点にその非凡さがあるのであり、これは本来、「寓話」の手法であって、映画に向く題材ではない。真相が分らないからこそ成立する物語に、第四の物語は本来蛇足なのである。
 もう一つ気になるのは、これが裁判劇というスタイルを取っているために、こんなに三人の証言が違っていたら、判決はどうなったのだろうと、そういうことが気になってしまうのである。これが第四の結末が示されていなければ、「これはまあ、寓話だから」ということでそんな瑣末なことは問題にしようとも思わなかったろうが、映画が一人一人の人物をリアルに追いかけてしまっているために、どうしてもそういった現実的な問題にまで注意が喚起されてしまうのである。
 じゃあ、『羅生門』はつまんない映画なのか、ベネチア映画祭グランプリは内実を伴わない形だけの賞に過ぎないのか、というと、そうではないから複雑なのである。

 『姿三四郎』も含めて、「わかりやすいエンタテインメント」も黒澤明は数多く作っているが、その本質的な部分においては、極めて観念的なものを持ってもいる。黒澤さんの場合、その思索部分についてまで「分りやすく」語ろうとするために、ともすれば映画が説教臭くなってしまうし、黒澤さん自身が「善の人」と錯覚されてしまいもする。
 『夢』の「水車のある村」なんか特にそんな感じでしたね。アンタ夢ん中でまで人に説教してんですかと。けれど、そういう「説教」の要素の少ない「日照り雨」や「桃畑」に比べて「水車のある村」がそんなに遜色のある作品かというと、決してそんなことはないのである。
 黒澤さんの説教は優しい。これを辛気臭いとか古臭いとか、煙たがったりするのはただの鈍感であろう。
 『羅生門』の最後、あの捨て子のエピソードで、杣売りの志村喬が口にする「俺のところには子供が六人居る。しかし、六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ」は最後の最後で「ウソ」をついた杣売りが口にするからこそ説得力があるのだ。黒澤明を単純な善悪二元論の人と見るのは見方が甘い。
 そう言えばゆうきまさみの『パトレイバー』のラストでバドを引き取ったブレディ警部もこれと似たようなセリフ言ってましたね。『羅生門』のファンだったって裏設定があるのかな。

 よしひと嬢、『羅生門』を見終わって「おもしろかったです」とは仰っていたが、『用心棒』や『七人の侍』のようなカタルシスはない映画だからなあ。今度は『野良犬』を見せることにしよう。

2001年09月13日(木) コロニー落としの報復は/『ヘブン』『ヘブン2』(遠藤淑子)ほか
2000年09月13日(水) シゲオと誕生プレゼントと009と/『遊びをせんとや生まれけむ』(石ノ森章太郎)


2003年09月12日(金) 誉められ下手な話/『ガウガウわー太』7巻(梅川和実)

 昨日の深夜、WOWOで放送されていたシティボーイズミックス『NOTA 恙無き限界ワルツ』をDVD―Rに録画しといたものを朝から見返す。
 私としげが見に行ったとき、ちょうどWOWOWさんが入ってたのだけれど、どうも今回放送の分は別の日に収録されたもののようである。これ、私たちが見たときのはトチリが多くて失敗してたスケッチも多かったんで、改めて撮りなおしたんと違うかな。私たちが見たときの公演では、『首の皮一枚ショー』のところで、斉木さんが「そろそろ眠くなってるお客さーん」と呼びかけてたんだけど、放送分にはそれがない。放送されたのは北海道公演のやつかも。で、ナマで見たときより面白いんだわ(^_^;)。
 いつもは収録されてる舞台挨拶もなぜか今回は放送せず。実は私たちが見たときには、大竹まことさんが五月女ケイ子さんを名指しで「誰が連れてきたこいつ!」と怒ってたのである(きたろうさんである)。もしもほかの公演でも同じことを言ってたとしたら、WOWOWさんとしては放送しにくかろう(気にするこたないと思うけどな。五月女さん、ホントに悪いわけじゃないんだから)。
 放送後にきたろうさんと五月女さんとの対談があったが、そこできたろうさんが「公演中は、演技論の違いで大竹と本気でケンカしてた(あとで仲直りした)」とウラ話を披露。その衝突がだんだん舞台をコナレさせていったんじゃないか。シティボーイズの芝居は中日以降に限るのかも(^_^;)。


 チャットをのぞいてみたら、ちょうどグータロウ君が入室したばかりだった。彼はほぼ朝しか書きこみをしないので、私も休日にしか会えない(と言いつつ、休日の朝は私の方が寝てることも多い)。たまにこうして会えると嬉しいのだが、せっかく事前に教えておいた『NOTA』の録画、ケロッと忘れてたそうである。テレビガイドに印くらいつけとこうよ。
 私はこれ忘れるとしげから殺されるので、忘れるわけにはいかない(^_^;)。グータロウ君には「再放送無いかなあ」と聞かれたが、これが何とも言えない。WOWOWは舞台中継に関しては権利関係で問題でもあるのか、あまり再放送をしないのである。
 お喋りしている最中に、しげが仕事から戻ってくる。朝の6時半なので、グータロウ君、「まさに『すれ違い』生活なんだなぁ」と呆れている。
 しげ、何日か前にヘンなメールをグータロウ君に送ったらしく、「嫌われてないかなあ」と心配げ。どんな内容だったかは私は知らないが、日本語の不自由なしげのことだから、きっとデンパなメールに違いない。TPOの全く分らない文章だったろうなあ、送られたグータロウ君には全く申し訳ない(ちなみにしげは「TPO」を「Time」「People」「Object」の略だと思っていた。意味通じねーよ、それじゃ。しかも「Object」という単語は浮かばなくて「目的語」と言ってたし。正解は説明したが、多分もう忘れているだろう)。


 テレビを見ても新聞読んでも、台風14号は順調に接近中、と報道されてるけど、今朝の空模様はピーカンで、風もそよとも吹いてない。これでホンマに台風来るんかいな、と、夕方ボンヤリ職場の窓から空を眺めていたら、ピュウと一迅の風が吹いてきて、押し寄せるように雲が空を覆い始めた。
 台風が「やってくる」のを見たのは始めてである。外れた時の天気予報は腹立たしいから覚えているものだけれども、当たったときは殆ど印象に残らない。けど今日の台風は、「感動」(?)とともに長く記憶されることであろう。とか言ってるような出来事に限ってたいてい翌日には忘れてるんだな。
 同僚が、「嘉穂劇場に中村珠緒は来れるのかな」と心配していた(先日の水害で、復興のためのチャリティーが行われて、ゲストで来福する予定なのである)。

 曇り空でもすぐに大雨になるものでもなかろうと高を括って、少しだけ残業。ところがアテは見事に外れて、6時を回って職場から一歩外に出た途端に、ぶちまけるような大粒の雨に見舞われた。ちょうど帰りが一緒になった上司(例のアキレス腱を切って復帰したばかりの方である)が、傘も差さずにいたので、慌てて差し出す。
 「いや、怪我してるときはこういう親切が身に染みます」と仰るが、普通、こういう状況で傘を差し出さない人間もいないと思う(^_^;)。なんだかこの方、やたら私を買い被ってくれるので、かえって恐縮してしまうのである。
 乗り込んだバスの中でも、「藤原さんはすばらしいですよ、ご病気をされているのに前向きでいらっしゃって」となんだか妙に持ち上げられてしまう。こんなふうに誉められることくらい苦手なことはない。だって誉められてるのに怒ることなんてできはしないから、ひたすら恐縮し続けるしかないのだ。
 「私よりずっと苦しい思いをしながら闘病されてる方はたくさん見てますから、落ちこむようなおこがましいことはとてもとても」
 「いいや、できることじゃないですよ、滅多に。本当は苦しい思いをされたこともあるんでしょう?」
 「いやもう、そんなのは子供のころだけです。明日死んでるかも、と思いながら今日も生きてたら、だんだん落ちこむのにも疲れちゃいますから」
 実際、毎日痛みが続く、という類の病気ではないので、気持ちだけ落ちこんだって損するばかりなのだ。生来、呑気なほうなので、自分の病気や怪我のことも日頃は忘れてると言ったほうが正しいか。指が痛んで利かなくなってきてても、「まあ、そういうもんだろう」としか思わないのである。
 「とりあえず定年まではからだ持たせたいなあ、と思ってるだけですから。前向きがどうのって立派なもんじゃないんですよ、すみません」
 もう頭を下げて許しを乞うしかない。批判や悪口に対しては、反論もできれば身を交わすことだってできるけれど、称賛は一度捕まっちゃうと逃げられない。誉められてすぐに有頂天になれるタイプの人ならともかく、私は、自分が誉められるような類の人間でないことは重々承知しているから、誰のことを差して言ってるのかがピンと来なくて、うろたえるばかりなのである。
 上司は途中でバスを降りて別れたのだが、それからあとが道が大渋滞。結局、帰宅するまで2時間もかかってしまった。もう9時近くで、晩飯を作る時間の余裕もない。しかたなく買い置きのとろろ芋をすってメシにかけて食べるだけの簡単食事。まあ晩飯は本来この程度で充分ではあるんだろうが、なんだかやっぱり口淋しいのである。


 CSアニマックスで、今日から『ガドガード』が放映開始。
 製作はゴンゾで、脚本が會川昇氏。會川さんは、設定を作るのはうまいけれど、脚本を書かせるとしばしば暴走してしまうので、面白い作品になるかどうかは1話だけを見てもまだ未知数であるとしか言えない。主人公たちの「運び屋」って設定がうまく生かされたら楽しめる作品になりそうではある。作画はもうよくぞここまで動かしてるなってくらいに動いてはいる。テレビアニメかホントにこれって感じ。こんなの毎回作ってたらそりゃ落とす回も出てくるわな(^_^;)。


 マンガ、梅川和実『ガウガウわー太』7巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。
 緩やかにではあるけれど、今巻当たりから「第2部」の始まりって感じになった。太助のみさとセンパイへの告白は予想通り(と言っちゃ悪いけど)あえなく玉砕、けれどそれでも「獣医になる」決意は太助の心の中で揺るがないものとなっていた。主人公の成長がキチンと描かれるマンガってのは、やっぱり読んでて気持ちがいいね。
 マジメに自分の道を進もうとしている少年には自然と女の子も慕ってくるもので、後輩の遠藤まいはもう大胆にアプローチしてくるし、委員長の尾田島淳子はかわいいくらいにジェラシるし、なんかラブコメみたいになってきました。その分、いつもの動物話は希薄になってるんだけど、まあ動物マンガのカテゴリーから大きく外れたりはしないだろう。何たって、近頃この作品くらい、作者の「描きたいもの」に真摯かつ忠実に描かれている(ように見える)マンガも珍しいのてある。多少、編集部から、「もっと女の子の出番増やして人気取りに行きましょうよ」とか言われてたとしても、梅川さんは自分の意志をきっと貫いていかれると思うのである。
 新登場のシャム猫のチャム、これがどうやら犯罪に関連しているらしいワケありの猫。チャムの飼い主らしい女と、その相方の男はチャムを1日動物病院に預けている間に何やら怪しいことをしているようなのだが、今巻ではまだその犯罪の全貌が明らかになってはいない。作者は動物に関する事件についてはこれまでもキッチリと取材して描いてきているので、恐らくこの「動物のカルテを写真に撮って盗んで行く」この二人組の犯罪者についても、なにかモデルとなった事件があるのだろうと思われる。
 次巻予告ではその事件の謎に迫ろうとしたまいちゃんが拉致されてしまうらしいが、その、気絶して倒れてるまいちゃんの絵がなかなかキョーアクで(^_^;)。いやまあ、ちゃんと良心的な「動物マンガ」であり続けるだろうと信じてますよ、ホント。

2001年09月12日(水) 誰かあの飛行機に「テロチルス」と仇名をつけたやつはいないか(^_^;)/『あずまんが大王』3巻(あずまきよひこ)
2000年09月12日(火) 打ち身とワンピースの続きと/『ONE PIECE』6〜15巻(尾田栄一郎)


2003年09月11日(木) アニメの世界は広いんだぞ/『Heaven?―ご苦楽レストラン』6巻(完結/佐々木倫子)

 昨日のチャットでの『トリビア』話の続き。
 「波止場で船を舫う金具のことを何と言うか?(よく小林旭とかが足かけてたやつね)答えは『ボラード』」というやつだが、これは「日頃よく目にするけど意外と名前を知らないもの」ということでなかなか面白いトリビアシリーズになりそうだという話題であった。
 で、私が「カレールーを入れる容器の名前を何と言うか?」ってお題を出してみたのだが、博学なみなさんばかりなのに、意外にも名前を知らない方がおられた。答えは「ソースポット」である。でも、昨日はつい説明し損なったのであるが、ホントのことを言うと、私もその名前を知ったのはつい5、6年前のことだったのである。
 シティボーイズライブ『NOT FOUND』の中の『毛皮男たち』のスケッチで、中村有志が「カレールーの入れ物買いに行くんだけど、アレなんて言ったっけ?」と質問したら、大竹まことが「魔法のランプって言うんじゃないのか?」と答え、陰でいとうせいこうが「こんな人死ねばいいのに」と突っ込むというギャグがあったのである。
 で、結局「魔法のランプ」を何と言うのか芝居の中では答えが語られないまま、どうにも気になって、あっちこっちネットを探して、ようやく「ソースポット」という名前に行きついたのである。
 それまで私は勝手に「ルーカップ」と呼んでいた。ポットよりはカップのほうがイメージに合うよなあ、とは思うが、全くもって芸のない名付け方である。
 チャットで某さんは「『アラジンつぼ』と呼んでました」、とご披露されておられたが、どうせ間違えるなら、これくらいすっ飛んだ間違いをしたいものである。
 ついでだが、子供のころ、私の母方の祖母は、食器の「フォーク」のことを博多弁で「刺すと(刺すもの)」と呼んでいたので、私はてっきり「サスト」という名前の道具だと思いこんでいた。みなさん、こういう思い間違い、勘違いで覚えてたものってありませんか(^_^;)。


 9月8日の大地丙太郎氏の日記に、以下のような記述があった。

> 先日「アニ丼」でも言ったんだけど、機会があってアメリカで始ったばかりのシリーズアニメ「3Dスパーダーマン」を観た。
> すごい!
> 物凄い表現力と技。
> センス溢れる構成、音楽。
> ある意味映画「スパイダーマン」より面白い。すごい。(中略)
> 世界には俺たちシリーズアニメ作ってる者には想像もつかない個性あるテレビアニメーションは数多くあるのだ。
> 日本はアニメ大国だとか言って浮かれてる場合ではないぜ。
> 海外のコンベンションでちやほやされて浮かれている場合ではないない(俺じゃん)。
> アメリカを始めとした海外に市場が広がり「こいつぁいい商売になってきたぜ」などと言って闇雲におんなじようなモンばっかり作っている場合じゃないよもうホントに。完全に負けてるって。
> 落ち込むよ〜。アニメ雑誌見てみ。ま、きれいでかわいいかもしれんが個性ないぜ〜。元気もないぜ〜。どれもこれもみんな同じに見えるしさあ。
> ああ、こういうものやってるんだなあ、俺たち。

> 日本のアニメは確実に明日辺り突然本数が激減して不況が来るのだから、今のうちにもう一度自分の仕事を見つめ直しておかないと。
> 自分が作っているものは本当に面白いのかどうか。
> 自分が楽しみにしているアニメが本当に面白いのかどうか。
 
> という話をすると「いや、日本のアニメは素晴らしいよ……良いのもあるよ」と言われちゃうんだけど、それでももう一度見直してみない? 自分らの発想の貧困さ。


 はるか昔に宮崎駿が「セーラー服の美少女がマシンガン持って撃ちまくるようなアニメばかり作ってちゃダメなんです」とみんなが嫌がるような発言をしてたけれども、10年、20年経っても、日本のテレビアニメの状況は少しも変わっていない。未だに美少女とメカが横行している。それがイカンというわけじゃないが、そればかりと言うのはやっぱり異常なんじゃないか。「いい作品もあるよ」というのはつまり「ダメなやつのほうが圧倒的に多い」ってことだからね。
 でもこんな直截的なことを仰って、大地さん、大丈夫なんだろうか。以前にも類似の発言されてたことがあったが、アニメ業界の人から煙たがられてはいないだろうか。「忠言耳に逆らう」と言うが、言ってることがズバリ当たっているだけに、反発の大きさも想像されて、本気で心配なのである。
 誰とは言わんが、アノ原作者とか、アノ脚本家とか、アノアニメーターとか、アノ監督とか、「発想が貧困」な人って、いくらでも思いつくからねえ。そういう三文作家の中に、被害者意識の特に強い人がいたりしたら、この発言を見て、「こ、こ、これは、お、お、俺のことを言っているのだ、だ、だ、大地のやつめ、こんなに堂々と俺のことを揶揄しやがって馬鹿にしやがって、どうしてくれよう、このままですむと思うなよ、呪ってやる恨んでやる復讐してやる」とか思ってしまう可能性は充分あると思う。いや、多分、これは杞憂じゃない。
 なぜって、こういう僻み根性が身に染み付いてる人間は、決まって自分のことは棚に上げて、「そういうお前はどうなんだ、そんなにご立派な作品作ってるのか」と見当違いも甚だしい雑言を投げつけてくるものだからである。大地さんがどんなに凄い作品を作っていても関係はない。そんなの無視して「エラソウなヤツは叩く」という感情だけで動くのである。そのせいで、これまでも黒澤明や宮崎駿などは散々叩かれてきたのだ。中には真摯な批判もあったかもしれないが、殆どは前述した通りただの僻み。それが証拠に、クロサワもミヤザキも、現状に警鐘を発した途端に叩かれ出したのである。
 ……説教されるのが嫌いな気持ちが解らないわけじゃないが、ちょっと人としてみっともなくはないか。

 ちょっと落ちついて、大地さんが言ってることが間違っているのかどうかってことを考えてみればいい。それでもまだ「余計なお世話だ」としか思えないような作家や、嬉々として美少女恋愛シミュレーションばかり作り続けていられるような浅薄なアニメーターしかアニメ業界にはいないのなら、そりゃ自然に客は離れていくさ。
 創世記のテレビアニメが、メカと美少女だけで成り立ってたか?
 『鉄腕アトム』が、『鉄人28号』が、『エイトマン』が、『狼少年ケン』が、『少年忍者風のフジ丸』が、『ハッスルパンチ』が、『宇宙少年ソラン』が、『遊星少年パピィ』が、『宇宙エース』が、『レインボー戦隊ロビン』が、『サイボーグ009』が、『ハリスの旋風』が、『おそ松くん』が、『オバケのQ太郎』が、アニメ技術は今に比べてはるかに稚拙だったとしても、今のアニメより何倍も、何十倍も、子供たちに未来への夢と情熱と希望を与えられるだけのエネルギーを持っていたのではないか?
 まあ長々と書いちまったが、要は、「もっと面白いアニメ作ってくれ」というだけのことである。これだけのことがなぜかできないんだよね。 


 台風が接近しているせいで、急遽、今度の土曜日が休業になってしまった。
 その代わり、日曜に出勤しなければならない……って、その日は劇団の公演日ではありませんか。
 ……いきなりそんなこと決められてもなあ、ビデオ撮影頼まれてたんだけどな、と愚痴を言っても仕方がない。なんとか仕事をほかの人に頼めないものか、思案する。その結果はまた明日。
 

 晩メシは、韮とえのきだけと小ネギをこき混ぜて卵でとじたもの。途中までは調理もうまくいっていたのだが、ふと、醤油と間違えてメロンシロップを入れてしまったた(瓶の形が似ていたのである)。慌てて醤油を入れたが、果たしてうまく中和されたものか。
 そのまま食わないで捨てるわけにもいかなかったので、とりあえず一口。……うーん、甘いような辛いような、まあなんというか世にも不思議な味(^_^;)。二口、三口。……なんか甘ったるくて胸焼けがしてきました。
 結局半分くらい食べて捨てました。ああ、もったいない。


 夜のチャット、今日も盛況。鍋屋さんにヨナさん、昨日に引き続き、あぐにさんも来られる。昼間、グータロウくんが破李拳竜や『レ○ンピープ○』の話題を振っていたので、最初は鍋屋さんが随分ノリノリで『○モ○ピー○ル』について語っていらっしゃったのだが、あぐにさんが来られた途端に「この話題はやめましょう」と打ち切ったのには笑った。露悪的になるのは好きではないが、まだたいそうなことをお喋りしてたってわけではないので、変わり身、と言っては失礼だが、反応の早さが面白かったからである。


 マンガ、佐々木倫子『Heaven?―ご苦楽レストラン』6巻(完結/小学館/ビッグスピリッツコミックススペシャル・950円)。
 はあ、なるほど、こういう落ちになりましたか。
 「ロワン・ディシー」がああなっちゃって、それから伊賀君はああなっちゃうのね(どうなるかは現物を参照のこと)。
 ちょっと心にジンと来る終わり方と言えば言えるけれども、あまり「上手く」は感じられない。どこか「唐突」(伏線は張ってあったのだけれども)で、不自然な印象がしてしまう。いや、つまらないわけじゃない。充分面白いんだけれども、読者の大半は、別段このマンガに「時間経過」を求めていたわけではないんじゃないかな。
 傍若無人、自画自讃、直情径行、猪突猛進、私利私欲、唯我独尊、無軌道、無節操、無理無体、思いつくままにその困ったちゃんな性格を挙げてみても、黒須オーナーに腹を立てていた読者はただの一人もいないだろう。あのワガママ勝手ぶりに、胸の透くような一つの理想像すら見出していた人もいるんじゃなかろうか。
 そんな彼女だからこそ、『サザエさん』や『うる星やつら』のキャラクターたちと同様に、「永遠に続く理想郷」の住人であるほうがふさわしかったと思う。姿をはっきり見せていないとは言え、誰がおばあちゃんになったオーナーを見たいと思うだろうか?(おばあちゃんになっても、きっと凛々しいであろうとは思うが)
 『おたんこナース』のときには、全てをギャグで落とすことは、物語の舞台となる場所が場所なだけに難しかろうとは思ったが、今回はレストランである。悲しい終わり方をさせる必要がどこにあったのだろう。どうにも違和感を感じてしまうのはその点である。

 もしかしたら、佐々木さんは「反省」していたのかもしれない。最大のヒット作である『動物のお医者さん』は、極力動物の「死」を描かなかった。それは動物を題材にした作品としてはあまりに不自然ではあったが、「理想」を描くマンガとしては、必ずしも間違いとは言い切れない選択であったと思う。
 でも、あの作品がヒットしたために、とんだ大迷惑を被ったのがシベリアンハスキー犬である。チョビのかわいらしさ(?)に魅せられたファンで、ハスキー犬を飼う人が増えたのだ。けれど、飼育の難しいハスキー犬は、結局飼い主たちに持て余され、捨てられるという悲しい結末を迎えた。
 マンガと現実の区別がつかない人間は明らかにいるのである。その事実に佐々木さんは涙したのではなかろうか。
 現実には、全てのものに「終わり」は来る。終わらないものなどない。その「終わり」をちゃんと示さなければ、「永遠」の存在を信じ、誤った行為に走る人間が出てくることもあるのだ。佐々木さんはそう感じたのではないか。だからあのような乱暴な手段を使ってでも物語を終わらせてしまった。もしそうだとすると、あの終わり方はもっと悲しい。まるで『エヴァ』ではないか。

 もちろんこれはただの想像で、なにか根拠があるわけではないのだけれど、最近の連載、どこか佐々木さん「らしくない」部分があちこちに見受けられので、勝手な憶測をしてみたものである。できれば次の連載は「最後まで」楽しいお話にしてほしいと願っているのだけれども。

2001年09月11日(火) 地球が静止した夜/『ななか6/17』3巻(八神健)
2000年09月11日(月) ミステリとワンピースと/『ONE PIECE』1〜5巻(尾田栄一郎)


2003年09月10日(水) 祭りの終わり/『ヒカルの碁』23巻(完結/ほったゆみ・小畑健)

 「糖尿にはトロロがいいですよ」とヨナさんから教えて頂いてたので、コンビニで買ったトロロそばをいくつか、冷蔵庫の中に入れていたのだが、昨日冷蔵庫を覗いてみたら影も形もなくなっていた。
 小人さんが食べたりしない限り、犯人はしげに決まっているので、今朝送りの車の中で問い詰めてみたら、簡単に白状した。
 「なんで人の勝手に食うんだよ!」
 「二つあったから一つはオレのかと思って」
 「買い物にしょっちゅう行けないから朝と夜の分、両方買ってるんだよ。おかげで昨日は朝メシ抜きだったんだぞ。あれだけ勝手に食うなって言っただろうが」
 「だって腹減ってたもん」
 「腹減ってたならなんで自分で買って食わないんだよ」
 「お金ないもん」
 「一銭もないのか? 銀行には?」
 「銀行にはあるよ」
 「だったらなんで卸さない!」
 「卸したら減るやん!」
 ……世の中に「人でなし」なんて存在が本当にいるのかとお疑いの方、ここにいます。


 巡回していた某日記が突然閉鎖。
 前にも「しげとよしひと嬢がハマッている」と書いた、ちょっとキテる感じの日記だったけれど、最後の日記で「今まで書いてた内容は全部ウソでした」と告白。
 30代の独身の女性で、某アイドルにそっくりのかわいい系、床上手でゆきずりの男とのナニもとってもよかったわ〜んとか、同僚の馬鹿女ばかりが男にモテてどうして私には幸せが来ないのよ恨んでやる憎んでやる呪ってやるとか、ネットの読者に呼びかけてパートナーを募集したりとか、超アクロバットなことを書きまくっていたので、楽しみに読んでいたのだが、オチは随分あっさりしたものであった。
 しげが「これ、本物かなあ?」とか言ってたのを「いやあれは絶対本物だよ、本物以外のナニモノでもない、本物でなくてどうする」と面白がって断言していたので(もちろんホントは半信半疑であったのだが)、正体をバラシて消え去られてしまったのは、ちょっと残念である。もっと長く続けるか、消えるにしても何も言わないままのほうがユメを持ててよかったのになあ(^o^)。

 実際にこれだけネットが広大なら、ウソ日記の数は無数に存在しているだろう。というより、公開を前提としているWeb日記は、全て何らかのウソが含まれていると考えたほうが妥当だ。つか、虚実皮膜の境にあるというべきか。私のこの日記だって、しげに言わせれば「私の妄想の産物」ということになるのである(^_^;)。
 まあそんな空中楼閣のような日記の群れを巡回して見て回る行為も、かなり不健康なことだとは言えるが、地に足をつけた実生活ばかりに価値があるというものでもない。ウソをウソと知りつつ許容する、あるいはあえて自分を妄想の虜とする行為も、我々は意外に日常で行っている。結構みんな、自分が「裸の王様」であっても構わないと思ってるんですな。
 ただ、世の中には「あの王様、裸じゃんか」と無粋なことを言ってのけるガキンチョもいるわけで、自分が裸であったことに気づけば、王様だとて、恥ずかしがるくらいのことはする。間違っても、「裸だ」と指摘したガキンチョを糾弾したりはしない。王様のほうにだって王様としての矜持は無きゃマズイんだけれども、どうも最近の王様は自分が王様だってこと自体、忘れちゃってるような気がしてならんのですがねえ。
 なんか婉曲なこと言っとりますが、何のことを書いてんだかよくわかんない人は、もう気にせず無視しちゃってくださいませ。


 晩飯はコンビニで買ったなすの味噌あえに、買い置きのヒジキ。
 カロリーも高くなく、健康的ではあるが、腹がすぐに空いてしまうのが難点。
 ちびちびつまみながら『トリビアの泉』第30回放送分を見る。
 「新幹線で290円で乗れる区間がある」というの、「あれ? もしかしたら……」と思ったら、やっぱり「博多〜博多南」のことだった。地元では誰でも知ってることだけれど、やはり他地方の人にとってはトリビアになるのだなあ。タモリが嬉しそうに「これにはいい話があるんだよ」と語っていたのが印象的だった(地元の那珂川町の人のために、回送線を一般利用させてあげてるのである)。
 トリビアの種、今回はもの凄く役に立つ(^o^)トリビア。
 カップラーメンの長さを計ってグランプリを競うのである。結果、エースコックの丸鶏白湯ラーメンが73メートルで1位。同じ値段なら、これを買うのが一番量的にお得ってことか。
 でもこういうの、重さを計った方が早いし正確なんだが、種については誰も本気でトリビアになるとは思ってないからいいんだろうな(^o^)。


 夜のチャット盛況。あぐにさん、あやめさん、鍋屋さんに私。たった4人で盛況というのも何なんだが、ログの流れるスピードを考えると、話に付いて行くのにはこのあたりの人数が限界だ。
 久しぶりにあぐにさんが顔を出されたおかげか、話題も豊富。『座頭市』をあぐにさんもご覧になったそうで、「楽しんだ」と仰っていたのでホッとする。日記にも書いたが、あれは結構好き嫌いがハッキリ分かれると思うので、「キライ」と言われてしまったら、彼我の違いが何に起因するものか説明するのに骨が折れるのである(もちろん「キライ」という意見を否定するつもりはない)。
 『トリビア』の日はもうこれだけで話題が転がる。やっぱりみなさん、「なんでこんなものがトリビアになるんだ」と納得のいかないものが多いようだ。常識だとばかり思っていたものの「へぇ」度が高いと、自分が拠って立つところが揺らぐばかりでなく、他者との距離まで開くように感じてしまうのである。
 実際、「太宰治が芥川賞をほしがった」なんてのをトリビアにされてしまうと、「ああ、太宰について何か語ったって、そんなの大半の人には何のことやら分からないんだなあ」とそぞろ孤独感、寂寥感に襲われてしまうのである。

 「エッ、そんなことも知らないの?」という驚きを、こいつは無知な人間を馬鹿にしている、自分が優位に立とうとしているのだと決めつけて腹を立てる人がいるが、驚いてるほうにしてみれば、ただただ唖然としているばかりなのだ。別に優越感を持ってるわけじゃない。
 いいオトナが「1+1=2」が分からなかったら驚かれるでしょう。馬鹿にするどころか、なぜそんなことが有り得るのか、ひたすら謎に思うだけです。
 自分が馬鹿にされてるとすぐに僻む人間は、本心では自分が他人に対して優位に立ちたいと思っていて、それができなくてムカツクからこそ怒るのである。「馬鹿にされたからって簡単に怒るな」なんてリクツは「躾」の基本みたいなものだったんだがなあ。「躾」そのものがトリビアになってんですかね、もしかして。

 話は派生して、「イマドキの若いもんは『ナウシカ』だって見ていない」ってことから、「好きな宮崎駿作品は?」という話題に。最近は毀誉褒貶甚だしい宮崎さんだが、かつてはオタク界のエースであった。いや、今だって、全国の老若男女が勘違いして『千と千尋』を誉めちぎっていても、オタクは「別のところ」を見ているはずなのである。
 みなさんに聞いてみると、やはり『ルパン三世カリオストロの城』『名探偵ホームズ』『天空の城ラピュタ』など、冒険活劇的な作品に人気が集中している。エンタテインメントの本質がヒロイズムであることをかつて明確に打ち出していたのが宮崎さんであったのだ。
 また思いつきで恐縮だが、私の思う宮崎作品のベストテンを挙げてみる。もっとも、アニメーターとしての時期と、演出家としての時期と、その活躍は2種類に分かれているので、ベストテンも二通り示した。ジブリ作品しか知らない若いファンには、ぜひアニメーターとしての宮崎駿の実力も知ってほしい。

 宮崎駿監督作品
 1『名探偵ホームズ 青い紅玉の巻』
 2『ルパン三世(旧)11・13〜23話(TV)』(高畑勲と共同演出)
 3『ルパン三世(新)145話/死の翼アルバトロス(TV)』
 4『ジブリ実験劇場 On Your Mark』
 5『そらいろのたね』
 6『くじらとり』
 7『ルパン三世 カリオストロの城』
 8『未来少年コナン』
 9『紅の豚』
 10『魔女の宅急便』

 アニメーター作品
 1『長靴をはいた猫』原画
 2『空飛ぶゆうれい船』原画
 3『太陽の王子ホルスの大冒険』場面設計・原画
 4『赤毛のアン(TV)』レイアウト・画面構成(15話まで)
 5『パンダコパンダ』原案・脚本・画面設定・原画
 6『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』脚本・美術設定・画面構成・原画
 7『どうぶつ宝島』アイデア構成・原画
 8『アルプスの少女ハイジ(TV)』場面設定・画面構成
 9『ハッスルパンチ(TV)』原画
 10『ガリバーの宇宙旅行』原画・動画


 マンガ、ほったゆみ原作・小畑健漫画『ヒカルの碁』23巻(完結/集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 これで完結にするくらいなら、「佐為編」で終わっておけばキレイだったろうになあ、という思いは多くの人にあるだろうが、恐らくそれを読者以上に痛感されているのは作者のお二人だろう。そのことについては正直な話、余り突っ込みたくはない。「人気がある限りは続ける」というジャンプシステムに悲しいものを覚えるばかりだ。
 「雑誌だって営利事業なんだし、ファンの思いに答えてもいるんだから、連載を続けたっていいじゃないか」という意見もあろうが、現実にはファンはついてこなかったわけだから、こりゃ編集部に言い訳のできることではない。
 『ヒカルの碁』は『ドラゴンボール』とは違う。同じことを反復していても、途中から新しい客がつく類のマンガではない。「北斗杯編」だけ読んだってつまらない、1巻から通して読まなければ面白さが伝わらない種類のマンガだと、どうしてジャンプ編集部は気がつかなかったのだろうか。
 なんでも続けりゃいいってもんじゃないし、続けるのならば続けるだけのコンセプトがなきゃならない。中国、韓国勢という、新ライバルたちも出して、そういうものが生まれそうになった矢先に打ち切ってるんだから、ならどうしてあの時にキッパリと終わらせられなかったのか、と、どうしても思ってしまうのだ。
 こうなったら私は本気で続編を望む。決着のついていない勝負はいくらでも残っているのだ。アキラにだって最後、「これで終わりじゃない、終わりなどない」と言わせたのだ。何年後になろうと、必ず続編を書いてほしい。10年後のヒカルの成長ぶりを見ないで、どうしてこの物語を終われようか。
 佐為も誰かにとっ憑かせてでも、絶対に復活させなさい。ラストのコマは佐為の声じゃないか。あれをかつてヒカルが聞いた声、なんてことにしなくて、改めて「誰かが聞いた声」にしてでも続けてほしい。パラレルワールドでもいい。リメイクでもいい。『ヒカルの碁ZZ』でも『ヒカルの碁リローデッド』でもいい。こんなに悔しい終わり方をしたマンガもそうはないのだ。

2001年09月10日(月) 憎まれっ子世に……/『RED SHADOW 赤影』(加倉井ミサイル)ほか
2000年09月10日(日) 睡魔と戦いつつこれを書いてます/『星降り山荘の殺人』(倉知淳)


2003年09月09日(火) で、『CASSHERN』に樋口可南子はホログラフィーで出るのか?/『鉄腕バーディ』2巻(ゆうきまさみ)

 相変わらず「宇多田ヒカル夫」という呼び方のほうが通りがいい紀里谷和明監督(離婚しても「宇多田ヒカル元夫」と言われちゃうんだろうな)の実写版『CASSHERN』のキャストが発表された。
 主演は『金髪の草原』の伊勢谷友介(東鉄也/キャシャーン)。タッパはあるし、演技力もある人ではあるが、その演技力がかえってこういうコートームケイな話のジャマになりはすまいか。
 他のキャストも、意外と、と言っては失礼だが、まあまあの有名どころを揃えてはいる。
 麻生久美子(ルナ)は、もう特撮モノのヒロインの中心の一人と言っていいだろう。『赤影』も『魔界転生』も、この人のおかげで持ってる部分が多々ある。あのコスチュームが(デザインは変わると思うが)似合うかどうかはちょっと疑問だが。
 寺尾聰(東博士)、 樋口可南子(東ミドリ)、小日向文世(上月博士)の三人は特別出演という感じですかね。このあたりにベテランを揃えてるあたり、一応ちゃんとしたものを作ろうとしてるのかなという雰囲気は伺える。
 それに比べて不安要素が大きいのがライバル陣。
 宮迫博之(アクボーン)、 佐田真由美(サグレー)、要 潤(バラシン)、及川光博(内藤)、唐沢寿明(ブライ)。
 まあ、タツノコプロ作品はリアル路線の作品でもどこかセンスがダサくてお笑いの要素が強いのだが、実写でもそれ持ちこんだら相当ヘンテコなものになりゃしないだろうか。いやまあ、なったらなったで楽しめそうではあるんだが。
 前にも書いたが、私はもうなにが実写化されたって、文句付ける気はないのである。ただ、日本映画の企画の貧困さに嘆息するだけだ。


 ここんとこ外回りが多くなってるので、日焼けがだんだん濃くなっている。できるだけ日陰を歩くようにしているのだが、そうもいかない。いや、日焼け自体、キライなわけではないのだが、眼鏡をハメているものだからそのあとがクッキリ顔に出来るのだ。眼鏡取って顔洗う時がもうこれが大マヌケ。
 コンタクトにしたら? とはよく言われるが、それで視力が上がる訳でもなし、手入れがタイヘンになるだけなんだよねえ。


 くたびれながらも博多駅を回って、コミックスなど買い込み。
 マクドナルドで半熟卵バーガーを食べながら読む。

 マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディ』2巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。
 つとむのとーちゃんがうっかり風呂をのぞいてバーディのヌードを見ちゃうネタ、しっかりリメイク版でもやっちゃってるなー。リメイクの難しさというのは、どうしたって昔の作品と比べられてしまうことであって、作者本人は技術的に向上しているつもりであっても、既に読者の中にもイメージが出来あがっているものを破壊したとしか思われない場合が往々にしてある。
 『バーディ』の場合は、失礼ながら固まったたイメージが出来あがる前に連載が終わってしまったから、さほど「昔と違う!」と怒り出すファンもいないとは思うが、気のせいか青年誌になったってぇのに、昔の方がずっとヌードとかセクシーだったような。線がスッキリしちゃうと失われるものもあるってことだね。
 細かく見ていくと、バチルスが人間の記憶を取りこむたびにその人間の意識のせいで自分自身のアイデンティティを失っていく、とか、設定の変更があるのだけれど、余りストーリーに絡んできてはいない。前より着飾ってみたのはいいけれど、ちょっとムダが多いかなって印象。
 「スピリッツ計画」を追っているらしいジャーナリストの室戸圭介は、ちょっと『パトレイバー』の後藤隊長を彷彿とさせて面白くなりそうな気配ではあるけれど、ともかくゆうきさんはせっかく出したキャラを生かしきれずに終わることが多いから、少し心配になるのである。

2001年09月09日(日) 見え透いたウソにすがるココロは/DVD『ウルトラマンティガ THE FINAL ODESSEY』
2000年09月09日(土) なんでこんなにバカなのか


2003年09月08日(月) ボンちゃんって呼び名も懐かしい/ドラマ『血脈』/『×××HOLIC』1巻(CLAMP)

 鬱病で芸能活動を休止していた高島忠夫さんが元気に復帰宣言。
 お年がお年だけに自殺の危険もあったと思われる。以前、知り合いが実際に鬱病に罹っちゃったことがあるが、親や恋人がいかに説得しても、自室の隅に引きこもって、顔を上げようともしなかった。こちらができたことと言えば、医者に連れていくように奨めることだけ。それとても本人にとっては厄介者のように扱われていると思いこまれるのではないかと心配になった。激励の言葉がかえって本人を追いつめてしまうくらいに、心は繊細になってしまっているのだ。
 高島さんが人前に出られるようになるまで約5年。この間のご家族の苦悩は想像するに余りある。自分たちの方が鬱病になってしまう危険な状況だってあったのではないか。それを堪えた。今の政伸さんの笑顔は、心からの笑顔だろう。
 願わくは、この5年間の出来事を「ドラマにしよう」なんて安易なテレビ屋が現れませんように。


 『キネマ旬報』9月下旬号、タイムリーに『座頭市』特集である。
 監督インタビューで北野武が「市は何の愛情にも絡んでいない」と発言しているのを読んで、これも北野監督の「照れ」かな、と苦笑した。ともかく今回の座頭市は寡黙である。「感情を言葉にすることの恥ずかしさ」というのは感情表現の過多な人にはなかなか理解してもらえないのだが、市が殆ど口を利かずに過ごすのは、感情がないからではない。それを口にすればウソになってしまうからだ。
 「本当は市はとても優しい心の持ち主なんだよ」。
 ほら、ウソっぽいでしょう(^o^)。
 言葉が意志や感情を伝達できる最良の手段だなどと思いあがってはいけない。言葉は本人の意志の十分の一、ヘタをしたら殆ど伝えられないと言っても間違いではないのだ。何かを伝えようとすればするほど、言葉が上滑りになっていくという経験をした人は多いだろう。結局は言葉もひっくるめて、「その人」を許容する覚悟があるかどうかでしか心と心の絆は生まれないのである。
 じゃあ、ビートたけしが日頃あんなに饒舌なのはなぜなんだと文句をつけるワカランチンもいるだろうが、だから「照れ屋さん」は「韜晦」するんですよ。
 こういう説明も野暮の極みだし、仮にたけしさんがこの文を読んだとしたら苦笑するだけだろうが、言葉を丸のままストレートにしか受けとめられない連中が世の中に横行してるから。だもんでそういう連中にはまさしくストレートに「馬鹿」って言ってやるんですがね。もちろんこれとて意味は伝わらない(^_^;)。

 同じ号では『踊る大捜査線2』の評論家&読者を交えての批評も特集されているのだけれど、絶賛から完全否定まで、実に幅広い。
 こうも意見がかけ離れてしまうと、「その映画って面白いのかつまらないのかどっちなの?」と未見の方は迷われると思うが、見る人によって感想が違ってくるのは当然なので、「自分の目で確かめてごらんなさい」としか言えませんねえ。
 よく「主観の相違」と言ってこの意見の説明をしたがる人は多いが、じゃあその「主観」ってのは何? ってことが余り考えられていないから、説明のための言葉でなく、相手を拒絶する言葉にしか作用していないのはよろしくないと思う。
 もう少し具体的に言えば、「主観」ってのは一人一人の背負っている「文化」の違いなんであって、それが映画の「何に注目するか」という違いにまで発展するのである。その結果、感想が変わるのは当たり前の話。
 単純な例を挙げて説明するなら、日本人が洋画を見るとき、もしも吹き替えや字幕がなかったら、内容が掴めずにつまらなく感じるでしょう。でもそれは映画の出来が悪いからじゃないことは自明の理。じゃあ、外国語が分らない方が悪いのかって言うとそうでもなくて、そういう「文化」を持たないで生きてきたのだから、これは仕方がないことなのです。つまり一人一人の持っている「知識」や「教養」は常に偏在しているので、議論をする場合にはそれを確認した上でなければできないことなのである。
 議論で意見が衝突している状態というのは、お互いに自分の「見ているもの」を相手が「見ていず」、自分の「見ているもの」を相手に「見ろ」と強要している形になってるのだから、そりゃケンカになるのもムベなるかな。
 うちのしげは「ダン・エイクロイドが出演していればそれだけで傑作」と主張してますが、これはしげの中では絶対的な真理ですから、何をどう言ったってムダ(^_^;)。もちろん、世間一般に通用する意見でないってことは本人も百も承知。文句言ったって仕方ないんだけど、相手の見てるものが「ダン・エイクロイド」だけだったら、やっぱり「お前、そこだけ見るのはやめろよ」と言いたくはなりましょう。言ってはいないけど。
 『踊る2』を本気で面白いと思ってる人は、映画をこれまでたいして見たことがないか、見ていても漫然と眺めていただけの人である(評論家の佐藤忠男も誉めちぎっているが、あの人もそうなのか、と聞かれたら「そうだ」と答えよう)。もちろんそれが悪いことだと言うつもりはない。誰にだって「初心者」の時期はあるのだ。江戸川乱歩の通俗ものと同じで、最初の一冊は面白いが、何冊も読んで行くと「なんだ、全部同じじゃん」と思って飽きる(もっとも微妙な差異が面白くて全作読んじゃってますが)。私は『踊る2』については「これまでに見たことのある絵、展開」しか見えなかったので、「陳腐」としか言えなかったのだが、ドラマのセオリーを外してるわけではないから、「面白い」と感じる人もいて当然でしょう。私にとって「寄せ集めのガラクタ」にすぎないものが「大切な宝物」に見えたからと言って、それを間違いだというつもりはないし、言ったとしたらこんなに僭越なことはない。
 ただ、「もっと面白い映画はいくらでもあるのに、知識や教養がないとわかんないんだな」とは思う。これはただの事実の指摘なんで(まさか『踊る2』が世界映画史上ベストワンだと言う人はいますまい)、バカにしてものを言ってるわけじゃないんだから、『踊る2』のファンの人、怒っちゃいけません。と言ってもムダかもしれないが。
 山根貞男氏などは「どうしようもないシロモノで、無視するのが真っ当な対応」「「カビの生えた古い感性の安っぽいセンチメンタリズムと劣悪なご都合主義」「ひたすら観客への迎合でのみ成り立っている」と容赦がない。ここまで断言してくれると実に小気味よい限り。『踊る2』肯定派の人も、この程度の言葉を受け流せる余裕がなきゃ、それこそマトモな意見吐いても相手にされなくなるから、ご注意を。


 夜、TVQで佐藤愛子原作、中島丈博脚本、久世光彦演出『ドラマスペシャル 血脈 大正〜昭和大震災と戦争の時代・妻として、母として、家族を激しく愛し、憎んだある女優の一生』見る。
 原作の方はいつか読んでやろうと思いつつ、文庫化を待ってる最中。でもそれは作家研究の興味からなんで、ここに登場する人たちのことを殆ど知らないだろう若い人がこの物語にどんな興味を抱くんだろう、といささか気になる。佐藤紅緑なんか、ただの無軌道親父にしか見えないんじゃないか。「あの『ああ玉杯に花うけて』の佐藤紅緑が」と思うからそのイメージのギャップに驚いちゃうんだけどねえ。
 実は久世さんの演出は昔からわざとらしくてそう好きではない。今回も時代の変遷を表すのに回り舞台に佐藤家の家屋を乗せて回すというのをやってるけど、それは舞台の演出で、テレビでやってもつまんないよな、と思ってしまう。昔『真夜中のヒーロー』って番組でも裸の岸本加世子を檻に入れてぐるぐる回し、「ああ、落ちる」とか歌わせてたけど。なんでも回せばいいというものではないのである。
 キャストは佐藤シナに宮沢りえ、佐藤愛子に石田ゆり子、サトウハチローに勝村政信、佐藤紅緑に緒形拳という布陣。宮沢りえは若くしてもう痛々しげだから役柄に合ってると言えなくはないけれども、なんだかやっぱり芝居が軽い。歴史の点景をかいつまんで描くような手法も、ドラマが薄くなる危険を考えなかったのかと不満が残る。
 筒井康隆が島村抱月役で出てたけど、いくらなんでも太り過ぎてるんじゃないかな。


 マンガ、CLAMP『×××HOLIC 〜×××ホリック〜』1巻(講談社/ヤングマガジンコミックスデラックス・560円)。
 私の周囲にはCLAMP嫌いの人も多くて、この人(たち)の本はちょっと買いにくいのであるが、グループでマンガ描くというスタンスも面白いし、同じ名前のブランドでいろんな絵柄のマンガが楽しめるというのもいい売り方だと思うのである。今度の絵柄は『夢幻紳士』っぽくて好きだ。トーンを殆ど使わない黒と白のコントラストが美しく、ピアズリーの絵画を見ているようでもある。なにより侑子様のいかにもマダム〜なお美しさがもうたまりませんがな(^o^)。

 ここはどこか。店である。それも、ネガイがかなう、ミセ。女主人の名は壱原侑子(イチハラユウコ)。彼女に出来ることなら、なんでも願いはかなう。けれど、対価は払わなければならない。願いに見合っただけのもの、その人にとってタイセツなモノ、例えばそれが魂であっても。
 客は迷いこむようにこの店に現れる。しかしそれは「必然」。この世に偶然はなく、あるのは必然だけ。四月一日君尋(ワタヌキキミヒロ)がこの店に「呼ばれた」のも、それは必然であり、「縁」だったのだ。
 一人目のお客は小指が動かなくなってしまった女性。それはその人の持つ「クセ」のせい。自分で気付いて、自分で直そうと思えば治るもの。けれど彼女は最後まで……。
 二人目のお客はネットをやめたがっている女性。これも、自分でやめたいと思わなければやめられるものではない。きっかけは侑子が与えた。けれど彼女は……。
 そして彼女はこう呼ばれる。「次元の魔女」と。

 ホントに願いをかなえてやってるのかこの女、と毒づきたくなるキライもないではないが、考えてみれば、自分を見返ることなしに「願い」だけをかなえてもらいたがるというのも勝手なリクツではあるのだ。侑子さまはいかにも冷酷かつ悪辣な魔女風だし、マンガ表現としては新しいのだけれど、案外古風な信賞必罰の倫理観に基づいて描かれてるのだね。
 そして物語はCLAMPさんのもう一つの連載、『ツバサ』とリンクしていく。『レイアース』のもこなも出る(^o^)。なんか大盤振る舞いだけれど、『バイオレンスジャック』みたいになりゃしないかと若干心配(^_^;)。

2001年09月08日(土) 半年分の食い散らし/『あなたの身近な「困った人たち」の精神分析』(小此木啓吾)ほか
2000年09月08日(金) 這えば立て、立てば歩めの夫心/『ビーストテイル』(坂田靖子)ほか


2003年09月07日(日) 「時代劇の復興」というのはこういうのを指すのだ/映画『座頭市』ほか

 マンガ『ナニワ金融道』の作者で、エッセイストに転向していた青木雄二さんが、5日、肺がんのため死去。享年58。
 もちろん若すぎる死ではあるのだが、あまり長生きしそうにないイメージもありはした。とか言うと、おまえは青木雄二を読んでるのかと突っ込まれそうだが、『ナニワ金融道』だけはパラパラとではあるが読んでいるのである。何しろ“しげが”全巻買っているのだ(女房の趣味感覚は未だに私には掴みきれない)。
 これまで日記に感想を買いてこなかったのは、正直、マンガ自体、そんなに面白いとも思わなかったからなんだけれども、かと言ってじっくり読みこんでいたというわけでもないので、特に何かを語る必要性を感じなかったのである。
 絵が下手だというのは誰が見ても同じ感想を抱くだろうし、けれどもその下手な絵にこそ魅力があるというのも、わかりはする。下手だからこそ「表現力」はあるのだ。
 ただ、このあたりのことはマンガを読みなれてない人には説明がひどく難しい。なにしろ青木雄二自身が「絵が下手」と言われることに立腹していたそうだから、マンガのことなど何もわかっていないのである。何もわかっていない人が面白いマンガを描いてしまうというのも決して現実にありえないことではないので、まずそこから説明しなければならないし、その事実を踏まえた上でも、私はやはりあのマンガの押しつけがましさが性に合わなかくて評価しがたいと思っていたのだから、そこんとこを詳しく説明し始めたら、もうマンガ論一冊書く覚悟をしなければならなくなるのである。
 しかも「評価はしない」が、やっぱり「惜しい人をなくした」とは思うのである。マンガの歴史を記述しようと思う者ならば、青木雄二を避けて通ることは絶対にできないが、その作品の孤高なありようを見るとき、その立ち位置をどこに求めればいいのか、少なからず迷ってしまうと思うのである。


 第60回ベネチア国際映画祭が昨6日に閉幕、コンペティション部門に出品されていた北野武監督の『座頭市』が監督賞を受賞した。
 1952年の溝口健二監督『西鶴一代女』(これももう、見たことないって人多いんだろうなあ)以来、実に51年ぶりの快挙であるが、黒澤・小津・溝口以来、日本人監督で世界的な巨匠は生まれていないという風評はほぼ払拭されたと言っていいだろう。神格化する必要はないし、それなりの批判はして然るべきとは思うが、ミヤザキ・キタノの二人の名が日本映画を代表している事実は認めないと、ただの意固地としか思われまい。オタクでこの二人を嫌ってる人多いけどね。
 受賞日が故黒澤明監督の命日だったってのが出来過ぎの感があるが、そうした「偶然」も宣伝にひと役買ってくれると嬉しい。ともかくこれまでのたけし映画、あまりにも人に見られてないのだ。
 その話をしげにするとビックリされる。
 「たけしの映画って、そんなにヒットしてないと?」
 「してないよ。最高で九億かそこらだろう。評価は高いけど売れないって本人も愚痴ってたんだから。ヒットしてるとでも思ってたの?」
 「大ヒットとかでなくてもそれなりに人は入ってると思ってた」
 「たけしのファンと映画ファンは重なってないから。テレビでたけちゃんマン面白がって見てた奴が『その男、凶暴につき』見に行くと思う?」
 まあ、今の日本の映画ファンの大半は『タイタニック』や『アルマゲドン』程度に涙する浅薄なメンタリティしか持ってないから、『HANABI』の無言劇などには堪えられるはずもない。今度の『座頭市』は基本的にエンタテインメントだろうから(もちろんこれまでのたけし映画だって決してゲージツ映画ではなかったのだが)、入門編としては手頃だろう。
 「権威」ってものがないと、評価を与えない、自分の目でものを見る力を持てない有象無象がやたらいっぱいいるのはうるさくてかなわないのだが、これでようやくたけし映画を語れる状況が生まれてきたと言えるだろう。
 ただ、ここで昔ながらのたけしファンにヒトコト注意しときたいのは、一般のたけし映画ファンがある一定の層を作るまでは、『座頭市』について「本当のたけしはこの程度のもんじゃない」とか言い出さない方がいいよ、ということかな(^o^)。何の謂かはわかるね。


 夕べもよしひと嬢がお泊まりであったが、公演直前で朝の十時から夜の十時まで12時間ぶっ通しの練習、おかげでうちに来るなりヘロヘロである。シティボーイズの公演『パパ・センプリチータ』を見せてたのだが、2時間見切れず、途中でダウンしてしまった。
 で、今日も朝から練習である。
 こちらは呑気に今朝も『アバレンジャー』から『鉄腕アトム』までアニメ、特撮三昧なのだから、テメエだけ楽しやがってとか思われてるかもしれんが、脚本家は書くもの書いたらあとの仕事はないものなんで、恨まれてもどうにもしようがないのである。


 アニメ『鉄腕アトム』第22話「さよならプリンセス」。
 アトム版『ローマの休日』ですね。リノを主役にしたのは、カーヤの相手役がアトムだったら、また人間とロボットは愛し合えるのかという難解なテーマを扱わなきゃならなくなるからかな。アニメはここんとこ、どんどんウス味になってく感じだけれども、言い換えれば、原作の描写がどれだけ濃密だったかってことだよな。ロボットの妻と結婚して暗殺される金三角とか、子供向けアニメにしにくいんだろうけど、それやらなきゃアトムじゃないんだし。

 護衛の目を眩ませて、メトロシティに逃げこんだマユ−ラ王国の姫カーヤ(サファイヤっぽいけど髪形がちょっと違う)。彼女は、マユーラ王国の王位継承者の証しである「トゥーロンの徴(しるし)」を狙っているゼド(多宝丸)たちに追われていた。リノ、そしてアトムたちは、彼女をひょんなことから匿うことになり、自由な時間を過ごしたい彼女のために、変装をさせて町を案内することにする。けれどゼドたちの魔の手はすぐそこに迫っていた。

 まあこういう話は“演出で”ヒロインをいかに魅力的に見せるかってとこに命がかかってるんだけど、ちょっと普通の女の子として描き過ぎてないか。定番の話をやるならやるで押さえとかなきゃならない展開ってものがあるんだが(たとえば王女が市井に混じることで起きるカルチャーギャップな騒動とか)、なんか「筋をなぞってるだけ」って話が多すぎるんだよな。もうすぐ青騎士も登場するらしいってのに、こう腑抜けたエピソードが続くと、期待度がどんどん下がって来るんだけどなあ。
 カーヤの侍従ドンパは、パッと見たらヒゲオヤジに見えるんだけど、ヒゲが曲がってるからブタモ・マケルなのかも。せめてキャラデザインくらいは中途半端なものにしてほしくないよなあ。


 『笑っていいとも増刊号』に、小松政夫さんが出演、タモリといきなり「材木屋」のコントを披露してくれてたのを偶然見る。こういうのがあるから「サンデーモーニング」なんか見ちゃいられないのである。
 あとはまたひたすら日記書き。


 で、受賞記念と言うわけではないが、ワーナーマイカル福岡東で映画『座頭市』。しげはこの機を逃すとまたしばらく映画を見る時間がなくなっちゃうので、練習終わってくたびれてるからだをムリヤリ映画館まで運ぶ。私にはそれはもうムリだ。夜、映画を見ようと思ったら、前日からたっぷり睡眠を取っておかないととても持たないのである。

 さて、この映画の魅力をどう語ればいいものやら。これまでの北野武映画の最高傑作と呼ぶ人も多いとは思う(まあ私も何本か見てない北野作品もありますが、だいたい同じ評価)。
 けど素直に「面白かった」と語るのに抵抗があるのも事実。これまでの北野作品を見てきた人ならご理解頂けると思うが、北野監督には、映画、ドラマのセオリーをわざと外す癖がある。それはつまり手塚治虫のヒョウタンツギみたいなもんで、北野監督の「照れ」なのだが、時代劇のようにセオリーがガッチガチに固まってる分野でそれやると、多分昔ながらの時代劇ファンで「なんじゃこら?」って反応する人もいると思うんだよね。
 一例を挙げれば、座頭市の「金髪ほかの設定」なんかがそうだ。勝新太郎の座頭市にとらわれない映画を作るためには、これくらい思い切った手を使う必要があるが、旧来のファンが「噴飯もの」と怒ってもおかしくはない。
 金髪なら、眠狂四郎もそうだったじゃないか、と言い出す方もおられようが、あれには転びバテレンの息子、という設定がある。座頭市には本来、そんな設定は施しようがない。意外と知られてないが、原作の『座頭市物語』は、作者の子母沢寛が土地の人から聞いた実話をもとにして書いた小説なので、座頭市は実在人物なのである。アナタ、坂本竜馬が実は紅毛碧眼だった、とかいう小説を書いたら歴史家からフザケンナって言われちゃうでしょう。
 けれども、やたらハシゴ外されてるにも関わらず、この映画、決してつまんなくなってはいないのだ。ただ映してるだけに見えて、画面の持つ緊張感がただごとではないのはいつものたけし映画になってるんである。


 街道で一人、休んでいる金髪頭の座頭、市(ビートたけし)。近づいてきたヤクザは、子供に頼んで市の仕込杖をそっと奪う。市が丸腰になったと思い、刀を振りかざすヤクザたちだったが……。
 この冒頭のシーンで、もういきなり北野監督の「外し」が入る。
 市に襲いかかろうとしたヤクザの一人の抜き放った刀が、勢い余って隣にいた仲間を斬ってしまうのだ。
 私も時代劇を結構な数、見てきたつもりではあったが、こんなシーンを撮った監督をこれまでに見たことがない。第一、映画の流れを阻害するにも等しいこんなカットを挿入したら、普通は大バカの烙印を押される。
 けど、不思議なもので、このうっかり斬ってうっかり斬られたこの二人のワンカットが実にリアルでかつおかしいのだ。「流れが壊れているのに惹きつけられる」。
 北野武の映画を楽しめるか楽しめないか、観客は実はこの時点で「試されて」いるのである。こういう例を挙げていったらキリがないし、中にはネタバレに引っかかるものもあるので、ワケの分らないキャラだの、コマギレの編集だの、どんでん返しだの、あとの細かい「外し」は実際に映画館で見て、確かめていただきたい。
 監督の「照れ」を感じることができればこの映画、とても「かわいらしく」見られるはずである。

 その日、三組の旅人が、同じ宿場に入った。
 一人は座頭市。
 二組目は服部源之助(浅野忠信)と妻おしの(夏川結衣)。某藩の師範代であったが午前試合である浪人に打ちのめされ、脱藩してその男を追っている。
 三組目は旅芸者のおきぬ(大家由祐子)、おせい(橘大五郎)の姉妹。二人は、幼いころに自分たちの親を殺した盗賊に復讐するため、その行方を探し求めていた。
 そしてその宿場町は、ヤクザの銀蔵(岸部一徳)と分限家の扇屋(石倉三郎)に仕切られていたのだった。

 筋の紹介はごく一部に留めておきたい。ビートたけしは浅草時代に習い覚えた殺陣に工夫を加え、迫力のある映像を作りあげることに成功している。いやもう、痛そうな絵ですわ。σ(TεT;)
 遊び人新吉(ガダルカナル・タカ)の飄逸な味わいや、野菜屋のおうめ(大楠道代)のキモの座りっぷりもいい。
 CMでも目立っていた「ゲタタップ」だが、これを違和感なく構成した妙も見事だった。


 『座頭市』、文句なく私のフェバリット時代劇に入っちゃったのだが、ついでだから、時代劇ベストテンも選んでみよう。もっともテンではとても収まり切れなくて、ベスト20になっちゃったけれど。
 これでもとても絞り切れていないことは、『七人の侍』や一連の『忠臣蔵』や、『鞍馬天狗』『旗本退屈男』『遠山の金さん』『銭形平次』『宮本武蔵』といったシリーズものが軒並み落ちていることからもご想像頂きたい。
 とても順位は付けられぬので、今回ばかりは時代順である。いちいちコメント付けてたらまた字数オーバーするのは目に見えているので省略、内容知りたい人は自分で調べてちょ。


1.『雄呂血』(阪東妻三郎主演/二川文太郎監督/阪東妻三郎プロ=マキノプロ=1925)
2.『右門一番手柄 南蛮幽霊』(嵐寛寿郎主演/橋本松男監督/東亜キネマ=1929)
3.『丹下左膳余話 百万両の壺』(大河内伝次郎主演/山中貞雄監督/日活=1935)
4.『赤西蠣太』(片岡千恵蔵主演/伊丹万作監督/千恵蔵プロ=日活=1936)
5.『人情紙風船』(河原崎長十郎主演/山中貞雄監督/P.C.L.=東宝=1937)
6.『蛇姫様』(長谷川一夫主演/衣笠貞之助監督/東宝=1940)
7.『虎の尾を踏む男達』(大河内伝次郎主演/黒澤明監督/東宝=1952<製作は1945>)
8.『雨月物語』(森雅之主演/溝口健二監督/大映=1953)
9.『血槍富士』(片岡千恵蔵/内田吐夢監督/東映=1955)
10.『東海道四谷怪談』(天知茂主演/中川信夫監督/新東宝=1959)
11.『座頭市物語』(勝新太郎主演/三隅研次監督/大映=1962)
12.『切腹』(仲代達矢主演/小林正樹監督/松竹=1962)
13.『十三人の刺客』(片岡千恵蔵主演/工藤栄一監督/東映=1963)
14.『眠狂四郎勝負』(市川雷蔵主演/三隅研次監督/大映=1964)
15.『十兵衛暗殺剣』(近衛十四郎主演/倉田準二監督/東映=1964) 
16.『五辧の椿』(岩下志麻主演/野村芳太郎監督/松竹=1964)
17.『怪談』(中村賀津雄ほか主演/小林正樹監督/文芸プロダクション=にんじんくらぶ=東宝=1965)
18.『大菩薩峠』(仲代達矢主演/岡本喜八監督/宝塚映画=東宝=1966)
19.『御法度』(ビートたけし主演/大島渚監督/松竹=角川書店=IMAGICA=BS朝日=衛星劇場=1999)
20.『座頭市』(ビートたけし主演/北野武監督/バンダイビュジュアル=TOKYO FM=電通=テレビ朝日=齋藤エンターテインメント=オフィス北野=松竹=2003)

番外『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』(矢島晶子主演/原恵一監督/シンエイ動画=ASATSU−DK=テレビ朝日=東宝=2002)

2001年09月07日(金) 夢の終わり/映画『王は踊る』ほか
2000年09月07日(木) 涙のリクエスト/『冷たい密室と博士たち』(森博嗣)ほか


2003年09月06日(土) 学校が守っているものは何か/『死神探偵と幽霊学園』第1巻(斎藤岬)

 終日、日記書き。書いても書いても追いつかないのはなぜだろう(-_-;)。いつも5、6行ですませようと思って書き始めるのだが、全然それで終わんないね。記憶を頼りに書くのはえらくしんどいので、そろそろちゃちゃっと片付けたいのだが、書き出すと止まらないってのも一種のビョーキかね。ただの自慰行為かもしれんが。


 今年4月23日、埼玉県所沢市のデリバリーヘルス(行ったことないのでどんなとこだかよく知りません)で働いていた高校3年生の少女を買春して逮捕されていた東京都立の高校教師、中谷芳典容疑者(43)のトンデモな授業内容が公開され、呆れた声が広がっている。
 体育教師である中谷容疑者は、授業は体育や保健体育を受け持っていたそうだが、卒業生の話によれば、「テスト直前の保健体育の授業で、『男子は女性器の絵を、女子は男性器の絵を書く問題を出す。配点が高いぞ』と予告し、本当にテストに出した」とのこと。
 断面図に名称を書かせる問題なば私も見たことはあるけれども、リアルに書かせたって機能を理解してるかどうか、判別はできんよなあ。テストとしては不適当……ってそういう問題じゃないか。
 その先生、試験のあとで特に「上手い絵」を皆に回して褒めたそうだが、女子の中には嫌な顔をして、気分を悪くしていた子もいたとか。
 ほかにも柔道の授業で、男同士で身体をすり合わせて踊るランバダを踊らせて通知表の点をつけたとか、なんだかもう話にならん感じだけれども、これまで一度も「生徒や父母からの苦情はなかった」んだと。
 これがまずもって信じられない。現代の教育のありように対して、疑問や不満を持っている人は多いと思う。文部科学省の教育方針は猫の目のように変わりまくるが、これ即ち、世間の批判に右往左往しているということでもある。ゆとり教育がどうの、学力低下がどうの、と学校に対する批判の声はやたら喧しいのに、こんなどこからどう見ても問題のある教師が何の苦情もなく放置されたままだったというのを信じろと?
 苦情はあったが握りつぶした。
 憶測だが、十中八九、それに間違いないと思うな。現実に法に引っかかる事件を犯さない限り、多少トンデモなことをやってのけても、世間体を気にする学校はそんな教師を守りつづけるのである。学校に届けても埒があかないなら警察に行ったらと思うかもしれないが、警察と学校がツルンでたらそれもムリだろうね。結局、自分の子供が教師にどう扱われようと、ひたすら堪えるしかない。そんなとこに子供を預けなきゃなんない親もいい面の皮である。
 「この門をくぐりし者、全ての希望を捨てよ」(ダンテ『神曲』地獄編、第三歌)。
 これを全国の学校に掲げるようにしたらどうか。


 アニメ『クレヨンしんちゃん』、見逃すことが多いんだけど今日はちゃんと見る。「四郎さんSOSだゾ/台風が来るゾ/武蔵野剣太 竜子の一途な恋」。
 台風の巻は、大型台風の接近に、家が壊れたりしないかと心配した野原一家が強風対策をする様子を怪獣映画か戦争映画か、といった、テロップの多用で見せる。オトナなおトモダチだけが喜びそうなネタじゃないかって気もしないでもないが、ノリがよくて笑える。しかしこのアニメもレベルがよく落ちないよなあ。


 マンガ、斎藤岬『死神探偵シリーズ2 死神探偵と幽霊学園』第1巻(幻冬舎/バーズコミックス・567円)。
 「死神」と仇名される探偵・鹿神考(ししがみ・こう)の活躍を描くシリーズ第2弾。と言いつつ、中身は続編ではなく彼の学生時代に時間を遡っての前日譚になっている。でもまだ高校生だってのに、もうたくさん掻事件に関わってるんだな鹿神。最初の事件は小学生のときってか。それもいつか描かれる時が来るのだろうか。
 今回の事件自体は、廃墟となった旧校舎にまつわる「呪い」と、実際に起きた殺人事件、というものだけれども、前巻同様、キャラの魅力で読ませる。ミステリの探偵というものは、たいていは性格破綻者で、明智小五郎にしろ金田一耕助にしろ、事件が起これば自分の脳髄を発揮できる絶好の機会とばかりに嬉々として振舞うものだが、もうずっと「死神」扱いされている鹿神は、できるだけ事件にかかわるまいとする。この「及び腰の探偵」という設定が物語の節目節目でユーモアを醸し出す効果を上げていて、殺伐とした物語の重さを少なからず緩和している。
 ユーモアという点で言えば、鹿神の恋人(このころは未満)の金子みちるの天然ぶりとかもなかなか楽しいのだが、いくら覆面かぶってるからって、間近にいる自分の父親に気付かないというのは将来が不安にならないのかね、鹿神クン(^o^)。
 事件のオカルト性と言い、キャラクター造形には都筑道夫の物部太郎シリーズが影響を与えているんじゃないかと思われるが、鹿神はあそこまでものぐさではない。みちるを庇おうとする男気もちゃんと見せている。女性には特に受けやすい作品ではないかな。

2001年09月06日(木) 裸という名の虚構/『アイドルが脱いだ理由(わけ)』(宝泉薫)ほか
2000年09月06日(水) 妖怪っぽい〜妖怪っぽい〜♪/『ブロックルハースト・グロープの謎の屋敷』(シルヴィア・ウォー)


2003年09月05日(金) 土の下には虫くらいいます/映画『からっ風野郎』/『地震列島』

 秋からのテレビアニメ新番、『魁! クロマティ高校』のスタッフ・キャストが発表されたけれど、これがまたムダに豪華っつーかなんつーか(^_^;)。
 あのパトレイバーのエヴァの攻殻の、Production I.Gが製作ってだけでもビックリしてたのに、監督に決まったのが『アキハバラ電脳組』『だぁ!だぁ!だぁ!』『ななか6/17』の桜井弘明さんである。はてさてこりゃいったい、どんなものになるんでしょうかね〜。
 だいたい『クロマティ』くらいアニメに不向きな題材もないと思うんである。ロボットの変形もなけりゃ(メカ沢がいるじゃん! なんて無粋な突っ込みはナシね)、萌え美少女だって出て来ない(前田のママが……やめようね)。イマドキのアニメファンの趣味嗜好に堂々とそっぽを向いてるんである。マンガ原作読んでりゃ分かると思うが「動き」だって殆どないに等しい。
 どちらかというと桜井さんが今まで監督してきた作品は、その「変形と美少女」系だったから、アニメとして魅せる要素のつかみにくいこの原作を、いったいどう料理するつもりなのか、気になるのであるが、もしかしたら「こういうの」を待ち望んでいたのかもしれない。ともかく「これまでにない作品を作る」ことに果敢に挑戦してきたI.Gなんだから、期待はしていいと思うのである。もっとも単なる資金稼ぎのために作るって可能性もなきにしもあらずなんだけど。儲かってはいない感じだからなあ(^_^;)。
 キャストは、神山高志に『サイボーグ009』『金色のガッシュベル!!』の櫻井孝宏。あとは省略するけど、メカ沢新一に若本規夫・内藤玲・かないみかと3人もキャスティングされてるのはどういうわけだ。原作でも声が時々変わってたりしてたっけ。


 昨4日、午前8時半ごろ、青森県弘前市の雑木林でアケビ採りをしていた熊沢慶三さん(68)の前に、突然、クマの親子が出現。母グマは熊沢さん目掛けて突進してきたが、熊沢さんは転んだ拍子に偶然巴投げをかけた格好になり、クマはそのまま坂下に転落、小熊ともども逃げて行ったとのこと。熊沢さんはがっしりした体格から仲間内では「クマ」の愛称で呼ばれていて、「クマさんがクマを投げ飛ばした」と大評判だとか。
 なんかこういうニュースを聞くと、どうして『ウィークエンダー』は終わってしまったんだと思うよなあ。桂朝丸(現ざこば)さんに「〜なわけだ」と早口で報告してもらってたらさぞ面白かったろうにねえ。
 このクマさん、柔道の経験はないけれど、クマ狩りの経験はあって、恐怖感はなかったらしい。インタビューで、「奥さんは気が気でなかったでしょ」の質問に、「2人暮らししてるけど、全然。帰宅して『クマと戦った』と言ったら、心配どころか思いっきり笑ってました」と答えてるけど、この奥さんも豪傑だよなあ。一歩間違えれば死んでたってのに、旦那さんを信じてたのか呑気なだけなのか。
 政治だの経済だのってニュースより、こういう日常の中のちょっとした非日常(クマに遭遇するのはちょっとしたじゃすまないことではあろうが)な出来事の方が興味を引くのは、どんなに我々の生活に密接に関係してくるものであっても所詮は遠くの出来事でしかない政治よりも、身近な非日常の方が現実を照射する力があるからである。
 「今の政治は狂っとるねえ」と愚痴ってはいてもどこがどう狂ってるのか、適切に説明できる庶民はそうはいない。それにいくら愚痴ったところで、何がどう変わるものでもない。言葉はただちに彼方へと雲散霧消するしかない。
 けれど、こういう庶民の絡んだ三面記事というものは、家庭でも立派な話のタネとなり、引いては生きる活力ともなりうる。
 「人間、どこでどんな目に合うかわからんなあ。クマに合っちゃう人もいるんだものなあ」
 「でもアンタはクマに合ってもビビって逃げて、追いつかれて食われちゃうよね、きっと」
 「そうはならないよ。抵抗した方がクマは逃げるんだってことわかったし、まあ何でも逃げてばかりじゃダメってことだな」。
 トリビアの効能もこういう点にあるんだろうな。


 今日は職場の草むしり。日当たりがいいのか、草の種の吹き溜まりにでもなってるのか、年に数回、総出で除草しないと、建物がマジで草に埋もれてしまうのである。まあ、OVAパトレイバーの第1話を思い出していただければイメージは掴めましょうか。
 草を引き抜いてると、そこから当然、ミミズだってオケラだって出てくるのだが、まあ女の子が悲鳴を上げること上げること。ムカデやクモは特に「刺される刺される」と逃げ惑っている。ムカデはともかく、このあたりのクモが刺すかあ?
 女の子の一人に「そんなに虫が嫌いかね」と聞いたら、「嫌いです!」と言って私をキッと睨んだ。いや何でそんな憎悪の目で私を見るか。私が虫をけしかけたわけじゃないぞ。
 「蟋蟀とかはかわいいでしょ。ほら、コロコロ鳴いてるし」
 「鳴いても虫です!」
 まあ、そりゃそうだ。
 「聞いてくださいよ、うちのおばあちゃんなんか、ゴキブリを足で踏んづけるんですよ!」
 そう言われても昔の女性はみんなそんなもんなんだがなあ。おかしなもんだよねー、女性解放のフェミニズムがどうのって声が大になればなるほど、現実の女性はどんどん男に甘えて弱くなっていくんだから。
 つか、今の女性、ホントに「土」から離れて暮らしてるんだね。汚いものは嫌いっていうの? それって誰にでもはっきりわかる偏見なんだけど、普通思っても口には出さないんだけど、そういう羞恥心も消え去っちゃったっていうのかね。
 こういう女性ばかり見てたら、映画としては面白くないけれども、農村に嫁ぐ女性を描く『おもひでぽろぽろ』を作りたくなる高畑勲の気持ちもわからないではない、と思ってしまうのである。


 CS日本映画専門チャンネルで増村保造監督・三島由紀夫主演の珍品『からっ風野郎』。
 珍品とは言ったが、それは主演が三島由紀夫だからと言うだけのことで、映画自体はごく普通のヤクザ映画である。昔見たときには三島由紀夫の超大根演技に呆然としちゃったもんだが、水野晴郎を知ってからはこれでも随分マシに見えてしまうのだから長生きはするものである。
 でもやっぱり酷いな、三島由紀夫。たとえて言えば、田中邦衛の口マネをする加山雄三なみに大根。増村保造にこってり絞られたとの話ではあるが、それでもこれが限界でしたか。だって「芝居してます」ってのがセリフからも仕草からも見え見えなのがねえ。どの映画評を見ても誉められてる例を見たことがないが、
 唯一凄みを感じさせたのがラストで死ぬシーンの表情なんだけれど(まあこれはネタバレさせても構うまい。こんなバカキャラが最後まで生きてるなんてことありえないから)、まるで本人の未来を暗示してるようだね。そう言えば『人斬り』でも『憂国』でも死ぬ役でしたね、三島さん。


 続けて『地震列島』。1980年製作のパニック映画だけれども、この時分にこの手の映画がやたら流行ってたのはなぜかってのを若い人に説明するのはなかなか難しい。
 1970年代中盤くらいから始まっていた、プログラムピクチュア製作から大作路線へ転換していく映画界の流れと、洋画では『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』、邦画では『日本沈没』に端を発したパニックもののヒットとが丁度あいまったから、くらいの分析しかできん。
 90年代よりも70年代後半の方が、よっぽど世紀末的雰囲気は強かったのである。この流れの中で『ノストラダムスの大予言』のヒットもあったわけなのですね。
 で、この『地震列島』、昔見た当初は、いい加減パニック映画にも飽き飽きしてたこともあって、ハッキリ言ってつまらなかった。
 主役の勝野洋、これが前途有望たる地質学者だったんだけれども、政府の防災対策が全く立てられていないことに業を煮やして、「関東を襲う大地震が30日以内に起こる」と世間に公表してパニックを起こそうとしたトンデモないヤツ。これで地震が来なけりゃただの風紀紊乱の犯罪者じゃん、とか思ったものだったが、映画はもちろん都合よく地震が来てくれるので、よかったね勝野さん、といったところなんである。地震の予兆にしっかり「動物が騒ぐ」ネタも挿入されていて、ホントに地震学者が監修しとんのかいな、と首を捻ったものだったが、まあ地震予知なんて所詮その程度のレベルなんだろうね。
 パニック映画定番の「大作感」もこのころにはすっかり薄れてきていて、キャスティングが相当苦しくなってきている。主役の勝野洋もそうだけれど、ヒロインが松尾佳代である。……いくらなんでもほかに誰かいなかったのかね。もう一人のヒロイン、多岐川裕美もこの手の映画にやたら出演していて食傷気味であった。確か思ったほどヒットしなかったのではないか。
 あと、子役で松田洋治くんが出演。

2001年09月05日(水) 中華幻想/『仙人の壷』(南伸坊)ほか
2000年09月05日(火) 日向ぼっこしてるヒマに本が読みたい/ムック『アニメスタイル』2号ほか


2003年09月04日(木) また誤読する人はいるかもしれないが/『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(口福倶楽部代表ヤマトモ)

 個人批判だと勘違いされても困るので、「某ホームページの某掲示板」と書いておくが、そこを覗いてみたら、なんかちょっと首を傾げたくなるような書きこみを見つけた。
 曰く、「博多の人間は福岡の人間をコバカにしている」。
 他地方の人にはそもそも関心外というか、何のことやら見当もつかないだろうが、福岡市は那珂川を境にして、東を博多、西を福岡と昔から分けて呼んでいる。もともと黒田氏が福岡に城を構えた際に、自国の「福岡」の地名を移殖したのが始まりである。それ以来、博多は商人、職人たちの町人の街となり、福岡は城下町、武士の街となった。廃藩置県後もその気風は受け継がれ、「博多っ子」とか「博多んもん」と矜持を持って言った場合には、福岡の人間は指さないのが普通である。
 あまりくだくだしい説明は避けるが、長い歴史の中で身分によって差別されてきたのは、博多の方なのである。市名を福岡市にするか博多市にするかで投票が行われ、一票差で福岡市と決定し、博多人が涙したことは地元では有名な話である。その代わり、国鉄が開通したときには駅名は博多駅とすることが定められた。区画整理で「博多区」が誕生したときには昔ながらの博多っ子の喜びはいかばかりであったか。これは単に地域の対立という謂いではなく、「差別撤廃」の凱歌であったのである。
 そういう歴史的知識があるなら、博多人が福岡人をコバカにすることなど有り得ないことは容易に想像がつこう。博多人には商人としての、職人としての誇りがあり、それが権力に対する「反骨」という気風をも生んでいるのだが、恐らく書きこみをした人は他地方の人で、博多人の矜持を尊大と勘違いしたものではなかろうか。
 まあ私もそうだが、博多の人間はお偉いさんに媚びる人間は大嫌いである。社会的なオトナの事情で、上の者の命令に従わねばならないこともありはするだろうが、心まで売り渡しているわけではないのだ。以上、「なんで博多の人はあんなに自分の土地に拘りを持ってるのかなあ」という疑問のある方のために説明しました。こういうのいちいち解説するのも博多人にとってはホントのとこ、恥ずかしいんだけどね。


 CSアニマックスで9月1日から『ハイスクール!奇面組』が再放送されてるんだけど、コッソリ録画しているのをしげに見つかってしまった。
 「なんでそんなん録るん!?」と怒ってたけど、しげ、このマンガは好きだったはずなんだがなあ。
 いや、このマンガが原作もアニメも、そんなに面白いものではないということも承知してはいるのである。初期のものは特に、「個性を大事にしよう」とか日教組的スローガンを前面に押し出した長ゼリフがやたら多くて、ギャグマンガじゃないんかいこれは、と、いささか閉口しながら見ていたところがある。
 原作者の新沢基栄さんのそういったリクツっぽさは、ともすれば描かれるギャグそのものを無効化してしまう危うさをも内包していたのだが、にもかかわらず『奇面組』シリーズが今なお命脈を保っていられるのは、やはりあの「名前のダジャレ」に負うところが大きいと思う。上手いものもありはするが、たいていはムリヤリ作ったヒドイ出来のものばかりだ。けれどそこまでのものになると、その酷さにかえって笑ってしまうのである。
 主役の「一堂零」などはシャレとしては珠玉の出来であろう(もっとも、今はなき劇団「青い鳥」の共同ペンネーム「一堂令」のほうが先ではあるが)。でもインパクトの強さでいけば、「冷越豪」のほうが圧倒的にもの凄い。「レッツゴー」のシャレなら、普通は「烈津豪」とかしそうなものだろう、どうせそんな名字あってたまるかと突っ込まれる点では同じなんだから。でも、一瞬何のシャレだかわかんないこのデタラメさ。「これ何のシャレ?」というのが当時はよく話題になっていたものだ。
 それと私は、『奇面組』のアニメを全話見ているわけではないので、原作には登場するけれども、アニメではカットされたキャラがどれくらいいるものか、確認してみたいのである。もちろんその逆に、アニメオリジナルのキャラがいるものかどうかも気になっていた。今パッと思い出せるものはと言えば、五重塔対決のエピソード(映画にもなった)が、30分枠に合わせて三重塔に階数が減らされたために、怒裸権榎道と爺面七重吾がカットされていたのとか。まあ若木市猿をリーダーにしたのは正解だったとは思うが、やはり奇面組との五対五のキャラ対決を見たかったとも思うのである。
 「婦組」はアニメに登場したのかなあ。総勢10人で、当時のアイドルの名前をモジッていたのだけれど、これは映像にはできなかったかもしれない。懐かしがりやの人のために、10人の名前を列記しとこう。「子役締ひろ」「斎藤つか」「吉和原かしえ」「小河合なお」「松茂問代」「小今日泉子」「菜中森明」「堀地えみ」「知田原代」「雪中路まみ」。記憶だけで書いてるんで字は間違ってるかもしれない(^o^)。松田聖子を入れずに中島みゆきを持ってくる当たりが新沢さんの「拘り」だったのかも。


 口福倶楽部代表ヤマトモ『福岡口福案内 地元の美食家が自腹で調査』(南々社・1260円)。
 博多駅の紀伊國屋書店にやたら平積みしてあるんだ、この本。
 オビに「福岡初の個人による飲食点評価ガイド」とある通り、作者のヤマトモさん(お医者さんらしい)が自分の足で食べ歩いた店の味を五つ星で評価したもの。
 日本料理、フランス料理、イタリア料理、中国料理、餃子、各国料理、カレー、寿司、ふぐ料理、天ぷら、うなぎ、鍋料理、居酒屋、定食、家庭料理、焼肉料理、洋食、とんかつ、ステーキ、もつ鍋、ホルモン料理、お好み焼き、そば、うどん、ラーメン、中華そば、ちゃんぽん、ワインバー、バー、喫茶、ケーキ、甘味、屋台と、福岡の名店2500軒を回って、267軒を厳選(九州各県26軒と全国71軒の名店も掲載とあるけど出張のときに食べたのかな)している。
 とは言っても、これを全てヤマトモさんが調査したのではなく、ミニコミ誌の会員やWebの仲間の協力をも仰いだもののようである。それにしても滅法界な努力をされたものだ。
 「伝統の味」というものを否定はしないが、味覚は結局個人の感性であるから、作者たちの評価を絶対的に正しいものとは思わない。けれど、この本の方針は、<自腹・覆面・本音で採点>ということである。グルメ本の提灯記事なんぞに比べれば、ずっと参考になる。
 知っている店もいくつか散見するのだが、なにしろウチの妻は「ファミレスとファーストフード」でしかモノを食おうとしないやつなので(高級料理店はカネがもったいないと行きたがらないし、居酒屋や定食屋の類は大嫌いである)、なかなか行く機会がない。
 ラーメン屋は何とか知った店が載っていて、川端の「どさんこ」が四つ星だったのはうれしかった。福岡にも昔は札幌ラーメンの店がたくさんあったのだが、ブームが去ると同時にめっきり少なくなってしまった。ここはその数少ない名残の店なのだが、味噌に地元のものを二種合わせて使い、九州人好みの味(甘口)にしてある。もっとも、しげをここに連れて来ても、絶対に味噌ラーメンを注文しないのだけれど。
 ラーメン屋では「一風堂」も四つ星だったけれど、それほどかなあ、と思ってよく見たら、これは大名本店のみの評価(支店は星2.5)。ここでしか食べられない「かさね味」というのが美味いらしい。「スープは中庸で脂も浮いていて、臭くはないが好みは分かれるところだろう。自家製麺は少し縮れ気味の中麺で。博多ラーメンにしてはやや太めだが、シコシコのコシと小麦の素材感がすばらしい」とある。ここまで書かれると食べに行きたくなりますね。
 この本、福岡以外では売ってるのかなあ。売ってたとしてもそんなに部数は出てないようにも思うけど。興味のある方は、下記のサイトをご参照のこと。

 http://hw001.gate01.com/yamatomo/

 ついでに岩中祥史『博多学』も新潮文庫になりましたので、合わせてどうぞ(^o^)。

2001年09月04日(火) 虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修)
2000年09月04日(月) また一つ悪いウワサが……?/『マンガ夜話vol.9 陰陽師・ガラスの仮面』


2003年09月03日(水) 不明を恥じるハナシ/『ビートのディシプリン』SIDE2(上遠野浩平)

 今敏監督の『千年女優』、ドリームワークスの配給で、“Millennium Actress”と直訳のタイトルで9月12日から北米で公開される。
 公開自体はインディーズのようだから、たくさんの人が見るというわけにはいかないようだけど、どんな反響があるか、ある意味、『千と千尋の神隠し』以上に気になっているのである。
 なんでもアメリカのアニメ映画関係者の間では評価が非常に高く、『千と千尋の神隠し』に続いて、2年連続で日本アニメがアカデミー最優秀長編アニメ映画賞にノミネートされる可能性まで出てきたそうな。ライバルは『ファインディング・ニモ』ってことになるのかな。
 アカデミー賞というのは多分に会員の政治的姿勢が反映する賞なので、「去年は日本アニメが取ったから、今年は自国のアニメにしよう」という動きが出ておかしくない程度のものである。そういう事情を知ってると、別にアカデミー賞取ったって嬉しくもないよなあ、とか思ってしまうのだが、世間一般のイメージというものはまるで逆である。
 去年の『千と千尋』でも、「日本のアニメが世界に通用するようになった」と、ちょっとでもアニメの歴史をかじったことのある者にとってはひどくトンチンカンな批評が出たように、アカデミー賞が世界最高峰の賞であるかのように錯覚している人間は腐るほどいるのである。だからあれは基本的にアメリカ中心の賞で、ベネチアやカンヌみたいな国際映画祭じゃないでしょうが。何で「三大映画祭」なんて言い方するんかね。
 でも「錯覚」だろうとなんだろうと、評判は評判である。とりあえず作品が売れ、多くの人に見られないことには、評価だって付いてはこないのだ。『クレヨンしんちゃん』がオタク以外に評価されるまでに、いったい何年を費やしたか。
 『千年女優』を私は強く評価はしていないし、どこにどう欠点があるかは以前事細かに書いたこともあるのだが、それとても人が見ていないことには「ふーん」で終わってしまう。「アンタはここがこうイカンと書いたが、私はここがこうイイと思う」という批判だって、まずは作品を見てからでないと言えることではない。評判・実見のきっかけになるのなら、虚飾もまた可としなければなるまい。虚飾を暴くのは、見てもらってからでも遅くはない。
 ああ、でも未見の人にこの映画を見てもらうことを考えれば、もちっと誉めときゃよかったかなあ、ともチラッと思う。でも誉めるときには徹底的に誉めないと興味を惹いてもらえないし、貶すときにも適当にどっちつかずの批判をしちゃうと、「つまんないなら見ないでいいか」と読む人に思われてしまいかねないのである。「ここまで貶すんならかえって興味が湧いたぞ」と思わせるくらいゲキレツに書いた方がいいんだが、どうもそこまで作品を突き放して貶したくはないなあ、という心理がどうしても働いてしまうのだ。
 だから改めて書くけれど、『千年女優』は欠点だらけの作品で、それは決して瑕瑾とは言えない。でも、これは、日本映画がかつて取り上げたことのない題材を扱った作品であることに間違いはない。まずは見るべし。と、これだけは言っておこう。


 『トリビアの泉』第29回、ゲストには伊武雅刀と古手川祐子。これまでで一番華やかなゲストって気もするけど、まあこの番組ではたいした意味はない(^o^)。ああ、この人のツボはこれか、ってとこが分かる場合もあるけど、たいていは「あれ? そう言えばその人出てたよなあ?」という印象で終わることの方が多いし。
 たとえば、伊武さんの場合、「中華料理の回転テーブルは目黒区生まれ」ってネタには「20へぇ」で、「『こめかみ』は米を噛んだとき動くから」には「10へぇ」だったけど、そこまで注意して見てる視聴者ってあまりいないんじゃないかな。こちらは、役者さんはこれくらい知ってるから今更なネタだよなあ、とか思って見てるんだけど、画面に映るのは一瞬だから、そもそも注意のしようもないのである(古手川祐子も9へぇ、タモリは5へぇで、共に一番低い。MEGUMIにビビる大木はやっぱり17へぇも押してやがる)。どっちかと言うと目立つのはいつもかぶってる帽子のほうで、「こないだドラマに出たとき、伊武さん、ハゲてたよなあ、あれ、ハゲ隠しのために剃ってるんだろうなあ」とかなんとかって関心の方が強いんじゃないか(^o^)。
 
 今回、一番高い「90へぇ」を獲得したのは、「111111111×111111111=12345678987654321」というネタ。投稿者は12歳の女の子だけど、算数の参考書のコラムにでも載ってたものだろうか。数字遊びをしてるうちに自分で発見した可能性もあるなあ。私も昔やったから。
 秋山仁さんをわざわざゲストに、計算させてるけど、まああの人ならこういうの大好きだろうなあ。途中、計算を間違えてたのももしかしてわざとだったりして。
 オタクがすぐこの番組のネタを「濃い」「薄い」で判断するのはもうやめた方がいいと思ってるんだが(私は最初から薄いことはどうでもいいと繰り返し書いている)、そう思うのはこのネタなど、その判断基準ではどうにも図れないからなんだね。
 純粋論理の産物である数学としての見地から考えれば、この数字もまたただの結果でしかない。そこには何の思想的、教養的な意味も付与されてはいない。にもかかわらず、この「並びの美しさ」がいかにも意味を持っているように、なぜか我々の脳は錯覚させられてしまうのである。
 まあ、あれっすよ、ピラミッドの底辺だか高さだか、いろいろ掛けたり割ったりしたら円周率が出たとかなんとか、そういうのに「意味」を持たせたがる心理に共通してますかね。
 これ即ち、我々人間が、シミュラクラを喜ぶ感性の持ち主であることを証明しているのである。その点で、このネタこそが「トリビア」の一番の特徴を象徴していると言えるんじゃないかな。

 でも、ほかのネタは演出も含めて相変わらず低調。
 「種」なんか、「日本中で一日に切られている髪の毛の量はどれくらいか?」ってよう、そんなん、いくらサンプル取ったって、計れるわけがないじゃん(正確に、ということではなく概算もムリである)。青山だけ調べたって、曜日や、地域によって、客量の差がこれだけ激しい業界もないんだよ。それを全く計算に入れてないんじゃ、ハナっから話にならないのである。床屋の息子が言ってるんだから、これは絶対だ(^o^)。
 まあ、アホなことやってるなあ、で終わるだけなんだけど、こういうのは、本当にキチンと計算できた方が格段に面白いのに違いないのである。だって、本当に全国津々浦々、スタッフが歩き倒して調べたとしたら、「スゴイ!」とは思いませんか。そこまでやらないのならどんなに汗水垂らしても所詮はただの手抜きだし、「そんなんできるかあ!」と怒るんなら初めからやらなきゃいいのである。中途半端なのが一番みっともない。
 種も最近はたいしたのがないし、視聴率高いわりにネタの提供者は少ないのかなあ。

 チャットであやめさんが、「今回のネタも殆ど知ってた〜」とブー垂れておられたが、「動物園では逃げ出した動物の捕獲訓練を着ぐるみで行う」というネタ、どこで仕入れてたんだろう。VTRで流れてたの、何年か前の映像で、しかも全国どこででもしょっちゅうやってるわけではないって説明もあったのに(上野動物園と多摩動物園が一年置きにやってるそうである)。私ゃこのネタだけは今回初めて知ったんだがなあ、もしかしてあやめさん、見に行ったことあるのかな(^o^)。


 上遠野浩平『ビートのディシプリン』SIDE2(メディアワークス/電撃文庫・645円)。
 統和機構の合成人間ピート・ビートが受ける「ディシプリン(試練)」の第2章。今回は彼の封印された過去が回想形式で挿入され、現在の時間軸と交錯しながらストーリーが進められていく。
 ビートがかつて、モ・マーダーと協力して救い出した金髪の少女、ザ・ミンサー。彼女にどんな運命が待ち受けているかは、ごく最初の段階で見当がつく。にもかかわらず、というよりだからこそ、ビートの「苛酷な試練」が、運命的なものであることが全編をおおうムードとして流れる効果を作り出している。
 現在、ビートの抹殺を図ろうとするバーゲン・ワーゲンとの闘いは、「人間戦闘兵器」ダイアモンズのジィドの協力をもってしても苛酷を極めるが、なぜ彼がそこまで追いつめられなければならないのか、それは彼が失ってしまった記憶ゆえにであることを、我々読者は最後の最後で知ることになる。
 こういう構成を取らせたらホントに上手いんだよ、上遠野さん。
 でも気になるところが全くないわけでもない。第1巻で、確か、「ブギーポップは出さない」とか言ってなかったっけ。あくまで回想シーンでの出演だから整合性はちゃんとあるんだけど、ちょっとテコ入れかな? と思わないものでもない。「ウソつきだ!」とか言って怒るほどのことはないんだけど。
 それよか、霧間凪まで登場させたことのほうがやりすぎだったんじゃないか、とやや疑問に思う。なんとなれば、この作品が『ブギーポップ』の「外伝」としての位置しか占めないのであれば、結局彼女も「通りすがり」以上の役割は果たせないことが予測されてしまうからだ。いかにも統和機構の尻尾をつかんだ、みたいな登場のさせ方しても、最後が尻すぼみになったんじゃしょうがないしね。さて、出したはいいものの……という展開にならないことを切に祈るよ。

2001年09月03日(月) 変わるわよ♪ ……何がだよ/アニメ『こみっくパーティー』第1話ほか
2000年09月03日(日) 警察も役所/『ら抜きの殺意』(永井愛)ほか


2003年09月02日(火) 頼むから朝だけは送ってくれ/映画『大学の若大将』/『ハレグゥ』1巻&『アストロベリー』1巻(金田一蓮十郎)ほか

 昨日今日と、しげが朝になっても起きてこないので、タクシー代を巻き上げて通勤。タクシーがなかなか通りがからないんで、今日は遅刻ギリギリであった。朝になって、「今日はキツイから行かん」とか言われてもメイワクこの上ないのである。「だってオレも朝にならんとわからんし」とか言ってるけど、睡眠時間の取り方を予め考えてないから体調を崩すのである。寝つけないならクスリでもとも思うのだが、これはしげはとことんイヤだろうしなあ。第一今しげが私の役に立ってることってこれしかないんだから、それくらいは確実にやってくれないと、ホントにただのコバンザメなのである。コバンザメってのは比喩だけど、ホントに人が買っといた食料、勝手に食い散らかしたりするしな。(⌒ー⌒メ)ピクピク。
 罰金を取っても約束を守らないなら、さて次にはいったいどういう手を使えばいいものか。気分的には「何言ってもムダ」という諦めモードに入っちゃいるのだが、放置してても部屋がどんどん散らかるばかりなので、何とかしなきゃならんのである。
 洗濯だの食事だの、全部一人でやってんのにさ、その上甘え腐った女房の面倒まで見てやるような体力も余裕も、もうなくなってきてるんだよ。


 俳優、チャールズ・ブロンソンが8月30日、肺炎のため死去。享年81歳。
 日本ではあの口ヒゲで有名だが、1960年の映画『荒野の七人』ではまだヒゲを生やしてはいなかったので、ポスターにはヒゲが描き加えられたというのも有名なこぼれ話。看板に偽りアリではあったんだが。
 デビュー当時は本名のチャールズ・ブチンスキーで出演していたというのも豆知識。「マンダム」のコマーシャルのおかげばかりではなかろうが、決して美男子ではなく、寡黙で男臭いその風貌は、日本人には親しみ易かったと思う。あちらの俳優には珍しく、奥さんとの仲がよくて、スキャンダルの少ない人でもあった。
 この人の映画についても語り出したらキリがないのだが、一番好きだったのはアラン・ドロンと共演した『さらば友よ』であった。筋忘れてるからまた見返さないとイカンな。
 日本のファンに意外と知られていないのが、妻子を殺されて復讐を誓った男・ポール・カージィを演じた『狼よさらば』(1974)に始まる“DEATH WISH(死の願望)”シリーズ。この第1作のタイトル自体、『さらば友よ』と『狼の挽歌』というブロンソン二大ヒット作のツギハギであるのだが、続編の5作品とも全て原タイトルには「DEATH WISH」が付いているのに、なぜか日本の配給会社は全て「別作品」として売ってしまった。全タイトルを並べるとこうなる。
 『狼よさらば(1974/DEATH WISH)』
 『ロサンゼルス(1982/DEATH WISH 供法
 『スーパー・マグナム(1985/DEATH WISH 3)』
 『バトルガンM−16(1989/DEATH WISH 4: THE CRACKDOWN)』
 『DEATH WISH/キング・オブ・リベンジ<未>/<TVタイトル>狼よさらば・地獄のリベンジャー/デス・ウィッシュ5(1993/DEATH WISH V: THE FACE OF DEATH)』。
 2作目はちょうど大学のころにグータロウくんと一緒に見て、「意外と面白いじゃん」と話したっけなあ。これには奥さんのジル・アイアランドも出演していたんだが、やはり映画の中身は忘れてるのである。つまんないならともかく「面白かった」という記憶だけは残ってるのだから、人に奨めるときにこんなに困ることはない。結局3作目までは見たかもしれんが、これもウロオボエ。
 テレビドラマを除けば最後の『キング・オブ・リベンジ』がブロンソンの遺作である。70歳を越えてなおアクション映画に出演していたのだから、このシリーズにブロンソンがどれだけ力を注いでいたかが分かろうというものである。
 珍品と言われているのは、三船敏郎、アラン・ドロン、アーシュラ・アンドレスと共演した西部時代劇『レッド・サン』。盗まれた刀剣を追って、三船敏郎といがみあいつつも男の友情を結んでいくブロンソンは素直にカッコよかったと思う。


 訃報が続く。といっても亡くなったのは半月ほど前。
 俳優の穂積隆信さんの長女で、『積木くずし』のモデルになった穂積由香里(本名・鈴木由香里)さんが、8月13日ごろ、心不全のため死去していたことが昨1日に判明。享年35。
 早すぎると言えばこんなに早い死もないけれど、やはり若いころの薬物が体を壊してたのかな。
 結局、積み木は崩れちゃったまま、という感じだけれど、非行ってのは、自分ではコントロールが利かなくなってる病気みたいなもんなんだなあ、と、昔、本を読んだときには思ったものだった。感情のコントロールが上手くできてる人間なんてのはそうはいないから、人間はみんな「非行」っていう名の病気に罹ってるようなものである。キレるのは子供ばかりとは限らない。
 穂積さんの場合、ずっと治らない病に罹ったままだったとしても、一瞬一瞬には小康状態だったこともあったのではないか。そういうことを、せめてもの「救い」だと考えることしか人にはできないものなのではないかとも思う。


 CS日本映画専門チャンネルで映画『大学の若大将』。
 若大将シリーズの記念すべき第1作だが、この手のやつはたいてい日曜の昼どきのテレビで漫然と見てることが多かったから、どれがどれやらわからなくなっているのである。
 この際、きちんと一作目から見とこうと思ったのだが、この1作目には記憶があった。水泳シーンもそうだが、冒頭、青大将・石山新次郎(田中邦衛)が若大将・田沼雄一(加山雄三)の代返を石脇教授(左卜全)にチクってるような細かいところも、見ると思い出す。
 ちょっとびっくりしたのは、その青大将の田中邦衛の名前が、タイトルロールでは随分あとに出ていること。当時は新人だったのだから、ということなんだろうが、アレだけ出ずっぱりなのになあ。同じ新人でも、加山雄三はいきなり主演デビューなわけだから(厳密には前年の『男対男』での準主役がデビュー)、上原謙の七光だよなあとどうしても思ってしまう。
 その上原謙も、見合い相手の父親、野村社長訳で出演。これが最初の共演作だけれど、あまり深くは関わらない。あまりこの二人って、「親子」ってイメージが強くないんだけれど、それってやっぱり上原さんの後添えの方のイメージが強いせいだろうか(^o^)。


 続けて映画『告白的女優論』。これもしばらくぶりの再見。
 吉田喜重監督によるATG作品で、この人のように思想的に映画を撮る人の作品は、たいてい頭でっかちなものになっていて、正直な話、好みではないのだが、これは舞台朗読劇的な構成に惹かれて見たので、まあ面白かった。好きな役者さんが結構多数出演しているのである。
 しかしまあ、3人の主役女優、朝丘ルリ子も岡田茉莉子も有馬稲子も、三人揃って映画の撮影中に大時代的な、感情大爆発な演技をするのは納得もするんだけれども、素に戻ったときに普通の仕草に戻るかというと、普段もやっぱりまんま「演技」なのである。まるで映画全体が女優は私生活においても女優であると主張しているようで、それはそれで「主張」としては理解するんだけれど、日常でこんな「私は女優!」みたいなセリフ回しをするような女が側にいたら、ちょっと引いちゃうのは確実であろう。そう思ってこの映画を見ると、やたら笑えるのである。
 朝丘ルリ子なんか、木村功演じる監督と、赤座美代子がシャワールームで絡んでるのを見て、「あそこには私がいるべきなんだわ!」なんて叫ぶんである。岡田茉莉子もそう言って吉田監督を口説いたのかな?(^o^) それにしてもこのころは赤座美代子も脱いでたんだなあ。
 ヌードと言えば、三国連太郎が太地喜和子と絡んでるのを見ると、ああそうかこのころはこの二人……と、昔見た時には知らなかった楽しみ方が味わえる。このころの太地喜和子はさほど肉感的でなく、オッパイも小振り。そこに惹かれたか三国め……って、陰気な楽しみですみません(^_^;)。でも映画の内幕ものってツクリしてりゃあ、そういう連想もしたくなるわな。
 ついでに言っときますが、主演のお三方は肝心なところは見せません。期待はしすぎないように。
 岡田茉莉子を診察する戸山博士役で、『奥様は魔女』のラリー・テイト役の声優、早野寿郎が顔出し出演。もちろんデビッド・ホワイトの顔はしていないけど、声が同じだからすぐわかる(^o^)。


 マンガ、金田一蓮十郎『ハレグゥ』1巻(スクウェア・エニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 『ジャングルはいつもハレのちグゥ』全10巻の、改めて1巻から始める意味が全くない第1巻。文庫化考えての措置だったりしてな。
 新キャラが何人か登場してるけど、そのせいなのかグゥの影が薄い。いかんなあ、ちゃんとグゥを出さなきゃ。新たに判明した事実ってのが、ロバートが日本人だったってこと。でもこれもそれが判明したからって意味はない。行き当たりばったりの展開で先が全く読めないが、アニメの続編製作も決定したようなので、とりあえずはめでたしだ(何がだ)。


 マンガ、金田一蓮十郎『アストロベリー』1巻(スクウェア・エニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 なんだか金田一さんオンバレードだね。まあ面白いマンガがたくさん読めるのはいいことである。
 あらすじは裏表紙に書いてあるのをそのまま引用しよう。

> 新しい商売を探しに地球にやってきた宇宙人ベティ。奴隷用に地球人を複製して一攫千金を狙うも、問題発生!! 奴隷に適した桜まこの性格をクローン2体にコピーしたはずが、それぞれ全く違う性格になってしまいました。その謎を解くため、まこを調べることにしたベティ! 人類の真理を求めるSF推理スペクタクル大巨編!!

 もちろん最後のSFなんたらはギャグである(^o^)。金田一さん初のラブコメ、という振れこみでご本人もそう謳ってはいるのだが、体質がギャグな人がラブコメやっても、やっぱりどこかヘンなギャグマンガになってしまうのであった(^o^)。
 まこの設定、AB型のおとめ座、フルーツパフェとくるみパンが好きで、趣味は絵本集めと料理、虫が少し苦手、とカバーめくった表紙に書いてあるけど、これがどうしてクローンにしちゃうとイケイケねーちゃん・バニラと心配症でイタイケな子供・チョコに分裂してしまうのか。
 そこまでの展開も充分ヘンなんだけど、まこを調査するベティ(外見はカッコいい美青年である)に至っては覗きに尾行、家宅侵入と、ほとんどストーカーである(^o^)。なのになんでベティにときめくかな、まこ。
 定番の「あっ、バンツ履くの忘れちゃった」ネタもしっかりあるのだけれど、女性作家でこれ描いたの、金田一さんが初めてではなかろうか。たかがラブコメと侮ってはいけないのである。

2001年09月02日(日) 風が痛いから?/『新天地無用! 魎皇鬼』1巻(奥田ひとし)ほか
2000年09月02日(土) 山本正之・あ・ごーごー


2003年09月01日(月) 「じゃないですか」って言ってる人が多いじゃないですか/映画『用心棒』/『呪恩2』(清水崇・MEIMU)ほか

 ひと月の集計、外人さんからのメールが先月は22通来てました。やっぱり平均一日一通ってとこですねえ。
 宣伝と詐欺は日常という道端に転がってるものなんで、別に迷惑だとは感じないんだけれど、下手なテッポも数撃ちゃ当たる式の、あまりアタマ使わないですむ方法ばかりが横行するのはもの淋しいんでねえ。犯罪ってのはもっと知恵を絞っていかに自分が摘発されずに(以下自粛)。


 COCO壱番屋の大盛りカレーの完食無料サービスが昨31日で終了。駆け込みで挑戦した連中、全国でどれだけいたかな。
 廃止の理由が、「店舗拡大に伴って大盛りカレーを食べきれず、失敗した際に処分される残飯が増加。冷夏によるコメ不足も懸念される中、『初めから食べ残しが出ることを予想したゲームは不適切』と判断した」とか。食べるのに失敗しても罰金は1400円だからなあ。話のタネにとかで、食べられないとわかってても挑戦してみたアホンダラも多かったんじゃないか。なんかホントにトッショリにはわかんないもんね、今の若い人たちの感覚。
 今でこそ、糖尿が悪化して暴食は控えている(そうか?)私ではあるが、大学のころまでは、そらもう食いに食っていた。高校の修学旅行なんか、腹が減るでしょう。旅館のメシは食い放題だから、ドンブリで七杯半オカワリしたこともあるのだ(友人に「食い過ぎだろう」と言われたので八杯目は半分で止めたがそれでも腹八分目であった)。なのにそのころはいくら食っても体重68キロを越えたことがなかったのだから、やはり若いということはあれやこれやとエネルギーを消費していたのだろうな。今はとてもそんな食い方できまっしぇん。
 でも、そんなに食うことに自信のあった昔でも、「食い放題」に挑戦したことだけはなかった。まあたいていの店の「挑戦者求む」が壱番屋のような甘いもんじゃなくて、アレの3倍はあろうかってレベルのものが多くて、さすがの私でもとても食い切れねえ、と判断したってこともあったが、食い残した時の残飯がもったいないのと、罰金払うのがともかくイヤだったって理由の方がホントは大きい。だってその失ったカネで、本が何冊買えたことかって考えたら……ねえ。
 言ってみりゃ、今の若い人って、その「残飯」と「罰金」については考えてないってことである(つか、番組製作者がってことか)。ある意味、羨ましくはあるけれど、そこにはどうにも越えられない深い溝が我々の世代との間にあることも感じてしまう。私がテレビの「大食いコンテスト」の類をあまり見ないのも、番組自体の面白さよりも、食いきれずに残る残飯を見るのが胸にやたら痛いからだ。
 何たって、昔の親がテレビの「俗悪番組」アンケートとかでドリフの番組を批判してたの、パイ投げなんかで「食べ物を粗末にする」ってのを理由に一番に上げてたからなあ。「子供が汚い言葉遣いを覚える」だけではなかったのよ。ウチの親なんかも、あのパイが食べ物じゃなくてパイ投げ用の特製品だって知るまでは、『8時だよ!全員集合』を毛嫌いしていたくらいだ(それでも「見るな」と私に強制しなかったのは偉かったと思う)。
 今や食い物は残してこそ可である。実際、外食で出されたものを全部食ってたら、一日のカロリー摂取量を軽くオーバーしてしまう。日本人全員が潜在的な糖尿病患者になってるのが実態なのだ(念のために言っとくけど、私ゃ遺伝で糖尿になってるので、暴食しなくても糖分を分解できないのである)。だから「もったいないから全部食べなさい」とも親は言えない。残したものを親が食べてやるのも躾としてはよくなかろうが、それもいたし方がないのである。
 外食を完全にやめて、全部家で料理を作ればいいじゃないか、とも簡単には言えない。共働きの家庭などでは、どうしても外食に頼る面もあるだろう。結局、「食い物なんて全部残さず食うもんじゃない」って感覚の方が常識的なのである。リクツではそうわかっちゃいるんだけど、どうにも納得のいかないものを感じてしまうのはいったいどうしたらいいものか。


 アキレス腱を切った上司、ご本人は今日から出勤と仰っていたが、やっぱり休み。そりゃ怪我して2週間しか経ってないんだからなあ。代理で仕事をするのは一向に構わないし、完治するまでゆっくり休んで頂きたいとも思うのだが、休んでるほうは出勤するつもりができなくなって、ヤキモキしていることだろう。
 こういう気分は、入院経験のある人じゃないとなかなか理解してもらえないのだが、入院が長引くにつれて、自分がどんどん役立たずのゴクツブシの、社会のお零れに預かってかろうじて生かしてもらっている寄生虫のように思われてくるのである。「ゆっくり休んでください」という慰労の言葉すら「お前なんかいらねえよ」と聞こえてしまうのだ。被害妄想だと頭じゃ理解できていても、一度生まれた妄想は止まるものでもない。
 これじゃ健康に悪いから、初めから入院しないほうがいい、とも言えるのだが、そうはいかない場合だってある。アキレス腱は自宅療養じゃ治らないものなあ。
 責任感のある人ほど、鬱に押しつぶされてしまうものなので、上司の苦悶も想像にあまりあるのだが、やっぱりこちらは「頑張って出て来てください」とは言えずに「ゆっくり休んでください」と言ってしまうのである。
 パターンとかセオリーとかに捕われない、心にちゃんと届く言葉を思いつけないものかと思うのだが、そうはなかなかいかないのがなあ。


 パターンと言えば、最近、耳障りな言葉に「〜じゃないですか」の連発が気になっている。言い回しとして間違っているというわけではないし、私も使うことはあるけれども、ほんの二言三言のセリフの中に3回も4回も繰り返されればイヤでも耳についてしまうのだ。
 「ほら、私って、外見とか気にしないヒトじゃないですか」
 知らねえよ、そんなの(-_-;)。
 ここまで押しつけがましくはなくても、自分が既知のもの、常識的なことと思っていることを、相手に同意を求める過程になしにサッサと話を進めようとする傲慢さにみんな馴れちゃってるってのはどういう神経なんだろう、と思う。
 「お箸の正しい持ち方知らない人って、増えてるじゃないですか」くらいの内容なら、さっきの「人じゃないですか」パターンほどの不快感はないけれど、でもやっぱり「相槌」を打たせる間すら省略しようとしている感じはしっかり残っている。
 自分の言いたいことを相手に確認してもらいたいなら、普通に「〜でしょう?」と聞いたり、「〜なんですよ」とハッキリ断定して話を進めればよい。それが言えなくなってるってのは、それだけ他人から突っ込まれることを拒否し、自分の身を守ることの方にばかり汲々としてしまっているということになりはしないか。
 こういう会話パターンも既に成立して(いるとされて)久しいが、これの何が困るって、こちらの異論を差し挟む余地を初めから阻んでいる、ということなんである。と言うか、異論を加えること自体があたかも絶対的な悪であるかのような雰囲気すら形作ってしまっている。そのパターンを壊して、「そりゃ違うよ」と言おうものなら、「話の腰を折らないでください!」と逆切れされてしまうのである。コミュニケーションを拒否して、初めから「オレ語り」したがってるのはお前じゃねえか、と私は言いたいのだが。自分の方が意見の押し付けを行っているのに、自分が押しつけられてるかのように錯覚するってのは、こちらにしてみれば何だかなあ、なのだが、もともと本人にその自覚がないから、いくら説明をしてみても相手は納得できないのである。こんなに自明で簡単な論理もなかろうと思うのだが、そう思わせないのが「パターン」の怖さだ。「通用しているものは正しい」という盲信なのだね。それ以上、「それはただの盲信で傲慢です」などと言おうものなら、相手は今度は自分がバカにされてるとしか思わなくなる。ああ鬱陶しい。
 会話なんて、しちめんどくさいものから逃げたくなる気持ちも分らないではないのだが、せめて自分から振った話題で初めから逃げばかり打つのはやめてほしいものだ。ホントにね、こんなパターンは誰が作ったんだ、ふざけんな、くらいのことは言っときたいのである。


 CS日本映画専門チャンネルで、黒澤明監督の三十郎シリーズ第一弾『用心棒』(1961)、もう何度見たかわかんないけど、放送されてるとやはり引き込まれる。
 ダシェル・ハメットの『血の収穫』に想を得ているとはよく言われているけれども、ヤクザとかギャングものの抗争劇だと、自然、孤高のヒーローの対抗手段としては、二つの組のつぶしあいを図るパターンになるんじゃないかね。現に本作の“一年前”に岡本喜八が撮った『暗黒街の対決』(1960)でも三船敏郎の“刑事”は、同じ手段で対立する暴力団を潰そうとするのである。
 黒澤エンタテインメントの傑作として評価は高いが、厳しい評価もある。佐藤忠男は「荒唐無稽なヒーローもの」とその現実逃避ぶりを批判していたし、故・田山力哉も「なんであれを誉める人がいるのか気が知れない」とボヤいていた。まあ思想的に語りすぎる佐藤さんの批評はともかくとしても、エンタテインメントにも理解を示していた田山さんも怒ってたってのは、盲信を避けるためにも耳を傾けといた方がいいと思う。確かに、説明過剰なセリフ、逆に説明不足な描写など、穴はやたらとあるんである。
 それでも全編に横溢した「余裕」が私は好きだ。実は私が一番好きなのは、もう一人の「用心棒」、本間先生(藤田進)が「昼逃げ」するシーンなんだけれども。あの爽やかな笑顔の楽しさがいいんだよね(^o^)。
 昔から気になってたことが一つあるんだけど、ラストで三十郎(三船敏郎)は、卯之助(仲代達矢)がもう銃を撃てないと分かった上で銃を渡したんだろうか。好意的に解釈すればそういうことになるんだろうけれど、もしかしたらそれも脚本の「穴」かもしれないのである。
 今度、岡本喜八の『座頭市と用心棒』がDVD化されるから、映画の「用心棒」シリーズで未DVD化なのは、あと稲垣浩監督の『待ち伏せ』だけになった。早いとこ出せよ、東宝。


 続けて映画『国際秘密警察 虎の牙』。もうこっちは簡単に書く。
 日本で007と言えば、どうしても宝田明か三橋達也ということになってしまうのかな、と、あまりこのシリーズには思い入れなかった。やっぱねえ、外国を舞台にしていながら国産臭さが漂ってるのがねえ。別に外国で起こった事件に、いくら国際秘密警察だからと言っても、日本人が出張る意味はないだろうとか思うんだけれど、なぜかこのシリーズの舞台になる外国(今回はアラバンダ共和国)には日本人風の顔の人間が多いので(^_^;)、三橋達也もさほど目立たずにすむのであった。そこが面白いと楽しめはするけど。
 ラストの北見次郎(三橋達也)とクリマ(中丸忠雄)の対決はカッコいいけどどこか横浜の裏路地のビルで撮ったんじゃないかという雰囲気が何とゆーか。ヒロインが白川由美ってのも、今回はちょっと「重い」。


 マンガ、清水崇原作・MEIMU漫画『呪恩2』(角川書店・630円)。
 映画のコミカライズだけれど、なんと映画の売りの一つである「時間軸の混乱」をちゃんと流れの通りに並べ替え。そして本筋に関係がなくて浮いていた千春のエピソードを完全カット。で、このほうが話がスッキリしてわかりやすく、面白くなってるのだなあ(^o^)。
 映画のコンセプトを一から壊しちゃうような改変だけれど、マンガ化した作家から殆ど「批判」に近いアレンジをされてるってこと、監督さんもよく考えた方がよかないかな。これ、映画とマンガのメディアの違いってことだけじゃない問題なんだけどね。

2001年09月01日(土) 加藤夏季補完計画(笑)/『スペオペ宙学』(永井豪)ほか
2000年09月01日(金) 食って寝るだけの毎日も今日まで/ドラマ『横溝正史シリーズ・本陣殺人事件』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)