無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年10月06日(月) 追加日記5/『名探偵コナン スーパーイヤー2時間スペシャル/集められた名探偵! 工藤新一vs怪盗キッド』ほか

 早く帰宅するつもりが、居残って職場のパソコンのミスの処理を頼まれる。
 何とかやっつけたけれど、専門外の仕事である。頼んできたのは例によって例のあのひとなのであるが、そんなに頼りにされても困るんだって。ああ、胃が痛い。


 帰宅して、『名探偵コナン スーパーイヤー2時間スペシャル/集められた名探偵! 工藤新一vs怪盗キッド』。2部構成の2時間スペシャルで、前半第1部は『まじっく快斗/ブラックスター編』だったそうだが、居残りのため見られず。
 第2部は、原作でも評判が高かったらしい怪盗キッドとコナン、日本の有名探偵達が対決する「黄昏の館」編。以前やってたような気がしてたが、調べてみたらやっぱり再放送だった。本放送は2年前で私も見逃してたから、見られたこと自体は嬉しいのだけれど、一見豪華なようでいて、やっぱりそう面白いエピソードではない。名探偵をたくさん登場させているように見えて、キャラクター造形が薄っぺらいから、知的興奮もないしドラマとしてもまるで盛りあがらないのである。千間降代はミス・ジェーン・マープル(アガサ・クリスティー作)、槍田郁美はジョン・ソーンダイク博士(オースチン・フリーマン作。なんで女になっとんねん)、大上祝善はネロ・ウルフ(レックス・スタウト作)、茂木遥史はハンフリー・ボガード(って探偵じゃないじゃん。確かにサム・スペードやフィリップ・マーロウを演じてるけど)のそれぞれモジリだけれども、どいつもこいつも元ネタを知らなきゃ全然名探偵っぽい行動をしない。頭数だけ揃えてもねえ。それと声優さんで犯人がわかるようなキャスティングはどうかと思うぞ。


 高橋留美子劇場、今週から『人魚』シリーズ。第1話は『人魚は笑わない』だったが、まあ、絵の調和は取れているものの、演出がどうもありきたり。原作発表から、随分時間が経っているのだから、新しいファンを掴むためにももちっと斬新な演出が必要じゃないかと思うんだけどな、深夜アニメを見ようってのはかなりなオタクじゃなきゃそうそういないと思うし。


 ネットを散策してたら、しげが、人サマの掲示板で暴れているのを見付ける。全くしげときたら、いろいろとネタを提供してくれることである。
 この件についてはもう触れる気もなかったが、表にこんな形で出された以上は、私たちのことを心配してくれる人たちもいるので、差し障りのない程度に事情を簡単に書いておく。ただもう具体的な名前は出さない。出さないと勝手にこれは「あの人たち」のことだろうと見当違いの憶測をされることもあるので、本当は出したほうがいいのだが、「あの人たち」にまたウラでいかがわしいことをされても迷惑なので、分かる人にだけは分かるように書いておくのである。
 結論を言えば、我々夫婦はある人たちから卑劣なダマしを食らったのである。ただそれはそれでその人たちと縁を切ればそれですむ話なので、私はそれですませるつもりだったのだが、しげはどうにも業腹だったらしい。
 けれど、勝負をしかけたところで何の益にもならないことは歴然としている。もともと「勝ち負け」の問題ではない。二枚舌を使いたい人間には使わせておけばいいではないか。未だにあの人たちの嘘八百に騙されている人たちもいる様であるが、だからと言って、誰が誰をどう騙しているかなど、いちいちその人たちにご注進する義理も感じてはいないのだろう。だったら構うな。それであの人たちは幸せなのであるから。


 マンガ、CLAMP『ツバサ』1巻(角川書店)
 絵柄がまた変わったなあ、と思っての衝動買い。『×××ホリック』とのリンクコミックであるが、異世界ものも食傷気味だし、さて、これがヒットするものかどうか。

2002年10月06日(日) 再見、東京/『ガンダムSEED』第1話ほか
2001年10月06日(土) 新番……第何弾だよ/『星のカービィ』第1回/『ヒカルの碁』(ほったゆみ・小畑健)14巻ほか
2000年10月06日(金) 詳しくはコメディフォーラムを見てね


2003年10月05日(日) 追加日記4/『映画に毛が3本!』(黒田硫黄)ほか

 アニメ『鉄腕アトム』、いよいよ青騎士登場。それに合わせてオープニングも変わったけれど、なんかチラチラして見難い。悪役四天王がアセチレン・ランプ、ハム・エッグ、七色いんこ、スカンク草井ってのは、原作を相当改変することを予告してるみたいで、あまり嬉しくない。話変えても面白くならないってこと、これまでの流れで見えちゃったしなあ。プルグ伯爵出ないんじゃなあ。

 今日の練習は、参加者が少ないので中止とのこと。
 先に出かけてたしげを追っかけて、バス停までは出かけてたのだが、しげから連絡があって「来んでいいよ」と来た。なんかそれじゃせっかく出ただけの甲斐がないので、スーパーに寄って食料の買い込み。
 スパゲティにウィンナーを混ぜただけで、しげはホクホク顔あるが、普通に和食を作っても、和食嫌いのしげは全然食ってはくれないから、あまりうれしかないのである。


 エドワード・ゴーリー『うろんな客 ポストカード』(河出書房新社・924円)。
 ポストカードだけれども、オリジナル版の絵は全て収録されている。載ってないのは柴田元幸氏の訳だけ。原文はゴーリーらしく韻を踏んだ楽しいものだけれど、それを柴田さんは「風強く 客もなきはず 冬の夜 ベルは鳴れども 人影皆無。ふと見れば 壺の上にぞ 何か立つ 珍奇な姿に 一家仰天。」てな感じの短歌形式で訳していた。なかなか面白い趣向だけれど、訳が分かり難くなってしまっているのが難点のように思える。でも、日本語訳したときに韻を踏ませることはほぼ不可能に近いことを承知の上でこういう試みをしたこと自体には敬意を表したい。他の作品の柴田さんの訳は、カッコつけが多くて意味が取りにくく、今一つな印象が強いが、これはそのカッコつけがよい方向に作用していて一番面白い。「doubtful」を「うろんな」と訳しているのも上手い。私が最初に出会ったゴーリー作品がこれだったが、他の翻訳作だったらそれほどファンにはなっていなかったかもしれない。
 以下に拙訳をご紹介するが、韻はやっぱりうまく踏めなかった。

The Doubtful Guest by Edward Gorey
「うろんな客」エドワード・ゴーリー
1 When they answered the bell on that wild winter night, There was no one expected−and no one in sight.
 それはその年の冬のこと、激しい嵐の夜だというのに玄関の呼び鈴が鳴ったものだから、家族は表に出ていった。けれどもみんな、思いもよらなかった。――まさかそこに誰もいないとは。
2 Then they saw something standing on top of an urn, Whose peculiar appearanse gave them quite a turn.
 振り返ると、ツボの上に何だか生き物っぽいものがちょこんと立っていた。そいつの見てくれがあんまり奇天烈だったものだから、家族はすっかり肝をつぶしてしまった。
3 All at once it leapt down and ran into the hall, Where it chose to remain with its nose to the wall.
 そいつは、やにわに飛び降りると、大広間にパタパタと駆け込んで行った。そこでそいつは、壁に鼻をぐいと押しつけたまま、てんで動かなくなっちまった。
4 It was seemingly deaf to whatever they said, So at last they stopped screaming, and went off to bed.
 そいつは、家族がどんなに声をかけても、うわべはまるで耳が聞こえないってフリをしていた。だもんで、とうとう家族は叫び飽きて、もう寝ちまおうってことになった。
5 It joined them at breakfast and presently ate All the syrup and toast and a part of a plate.
 そいつは、朝食になったらちゃっかり家族に混じって、アッという間にシロップを塗ったトーストを全部と、皿を何枚かぺろりと平らげちまった。
6 It wrenched off the horn from the new gramophone, And could not be persuaded to leave it alone.
 そいつは、新品の蓄音機の拡声器をしゃにむにもぎ取ったかと思うと、どんなに返すように説得しようと聞き入れようとしなかった。
7 It betrayed a great liking for peering up flues, And for peeling the soles of its white canvas shoes.
 そいつは、煙突の中を下からじっと見上げるのが大好きだったみたいで、もう一つの趣味は、自分の履いてた白いズックの靴底を剥がすことだった。
8 At times it would tear out whole chapters from books, Or put roomfuls of pictures askew on their hooks.
 たまにそいつは、本のページを全部びりびり破いていた。またある時は、部屋中の絵を全部、フックに斜めに引っ掛けてたものだった。
9 Every sunday it brooded and lay on the floor, Inconveniently close to the drawing-room door.
 日曜日になるとそいつは決まって落ちこんで床に寝転んだ。おかげで応接間のドアが開かなくなって、とんだ迷惑。
10  Now and then it would vanish for hours from the scene, But alas, be discovered inside a tureen.
 時々そいつは、何時間も姿を消していたんだけれど、嘆かわしや、見つかったのはキャセロール鍋の中だった。
11 It was subject to fits of bewildering wrath, During which it would hide all the towels from the bath.
そいつは、突発的な激情に取り憑かれてイカレちまったのか、ずっと風呂場のタオルを全部隠しちゃったこともあった。
12 In the night through the house it would aimlessly creep, In spite of the fact of its being asleep.
夜ともなるとそいつは屋敷の中をあてもなくフラフラと徘徊した。眠っているのはハッキリしてたんだけれど。
13 It would carry off objects of which it grew fond, And protect them by dropping them into the pond.
そいつは、自分の気に入ったものを勝手に持ち出しては池の中に落として保管してる気になっていた。
14 It came seventeen years ago -- and to this day It has shown no intention of going away.
それから17年が経った。――で、今日ただ今、そいつがどこかに出て行っちまったかというと ―― 実はまだここにいるのです。

 最後はつげ義春の『李さん一家』である。まあねえ、誰でもこう訳したくなるだろうけれど、私もその衝動に逆らえませんでした(^_^;)。
 「うろんな客」は「子供」のアナロジーだとか。イメージは5歳くらいか? でも17年が経てば22歳くらいになってるだろう。それでもまだスネカジリってのは、親もなかなか大変なことである。でもこういう「解釈」はあまり面白いものではない。それよりも、読者の誰もが恐らくはこういう「うろんな客」に関わっていることだろうことを想起して、微苦笑されればよろしかろうと思う。


 黒田硫黄『映画に毛が3本!』(講談社・1260円)。
 タイトルは「毛が三本足りない」という意味か、はたまた『オバQ』からか(『オバQ』が絶版なのもそのせいじゃあるまいな)。マンガ家、黒田硫黄氏が『ヤングマガジンアッパーズ』に現在も連載中の映画批評マンガコラムを集めたもので、たった1ページしかないのにその映画のエッセンスを見事に伝えていて、最近の映画批評本の中では群を抜いて面白い。
 私はプロの映画評ってのは基本的にあまり信頼しないのだが(しがらみだの何だので不当に誉めてるものが多いから)、黒田さんの視点は意外と言っては失礼だが、該博な知識に支えられていて、それが静かな筆致の中に結構キツイヒトコトになって表れていて、「読ませてくれる」のである。もちろん、私と見方が必ずしも一致するものばかりではないが、それは「映画に何を見るか」の視点の違いに過ぎないので、腹立たしくはならないのだ。半可通のエセ批評とはワケが違うのである。いくつか印象に残ったものをご紹介する。
 『仮面の男』の20対4の乱闘シーンについて、「マキノ映画なら200対4とかだろうに」とサラリと書いてるけど、これが書ける人ってあまりいないんだよなあ。最近の若い映画オタクがウスくなってるからって、これくらいのセリフが吐けないようじゃ、ファン同士で、会話自体が成り立たないのである。ただ、「どのマキノ?」とかワザと聞いたりする人もいるけど、そういうのはイヤラシイのでご注意。硫黄氏のヒトコト批評「本作の教訓」は、「兄弟は仲良く。」で、これも笑えた。三銃士ものって印象があれだけ希薄な三銃士映画もなかったものなあ(マイケル・ヨーク主演の『三銃士』を見た後でコレを見ると、すげえ違和感覚えると思う)。
 ミリタリーオタクであることを公表しながら、『プライベート・ライアン』について、「何の感想も抱けない。完全に圧倒されてるから感動」とかエラい皮肉をぶちまけてくれているのも善哉(このとき、硫黄氏が杉浦しげる手をしているところもポイントね)。オタクの映画評というのはかくありたいものである。「本作の教訓」は、「本当に本当に本当に、戦争が好きなんだなスピルバーグは。」(^o^)。
 高畑勲の『ホーホケキョ となりの山田くん』を誉めてる人というのを滅多に知らないが、実は私もまた硫黄さん同様、「ケ・セラ・セラ」のシーンで泣いた口だf(^^;)(唐沢俊一さんは「高畑勲は原恵一のツメの垢を煎じて飲め」とまで言ってたなあ)。硫黄さんは本作を「これが映画だ」とまで言い切る。「これみよがしの情熱よりも、かくされた人生の秘密を見るものの心に打ちこむ」とも。それがまさしく高畑勲の描きたかったものであろう。硫黄さんの批評は正鵠を射ている。高畑勲、以って瞑すべしか。「本作の教訓」は「映画は見るまでわかんない。」見てもわかんなかった人は多いと思うけど。この映画の不幸は、「いしいひさいち原作である必要がない」という点に尽きると思う。『うる星やつら』における『ビューティフル・ドリーマー』みたいなもんか。
 硫黄さんのバランス感覚がいいな、と思うのは、『アイアン・ジャイアント』評にも現れている。ホガース少年がアイアン・ジャイアントに「君はスーパーマンになれ」と語るのを「洗脳」と断定し、「ゴーマン」と批判しながら、しかしそれがアメリカの「文化」(ご承知の通り、スーパーマンは“Truth, Justice and the American Way”のために戦っているのである)であることを認めて、我々日本人がその文化を失ってしまっていることを指摘するのだ。善悪の判断は別として、そういったアメリカの「美しさ」を評価するのは、硫黄さんが「文化」の本質を理解している証拠だろう(日本人にも文化がないとは思わないけれども、殆ど無意識化してるから、それを意識化させる作業がすごく難しいのである。一歩間違うと右翼と勘違いされるしね)。「本作の教訓」は「I Love スーパーマン」。
 硫黄さんが唯一苦しそうだったのは、『千と千尋の神隠し』。宮崎駿に『茄子』のオビを書いてもらったという恩義がある。一旦は「この面白さがわかる奴は本物だ」と看板を立てるのだけれど、それをすぐ片付ける(^o^)。でもそのあと「名前を奪われるイミがわからない」「千尋が両親についてどう思ってるのか知りたかった」「千尋がどんな子かわからないのでいまいち好きになれない」「仕事についてもっとやってほしかった」「千尋は他人の善意によっかかってるだけにも見える」と、批判が連発。結論は「イミわかんないけど面白そうに見せる」というどっちつかずなもので、硫黄さん自身も現在のコメントで「揚げ足取りでまずかった」と反省している。イミわかればつまんなくなると思うけどな(^o^)。だから批評に私情は禁物なんである。
 しげもいつの間にかこの本を読んでいたが、数ある映画批評本の中で(と言っても大して読んじゃいないだろうが)、これが一番読みやすくて納得が行くと言う。『ボウリング・フォー・コロンバイン』評で、「マイケル・ムーアがヘストンの家に銃撃被害者の写真を置いていくのは単なるいやがらせ」と書いてるのにえらく共感していた。硫黄さんもいかにも「偽善」嫌いな感じだから、そこがビビッと来るのかもしれん(^o^)。

2002年10月05日(土) 東京曼陀羅/「ミステリー文学資料館」ほか
2001年10月05日(金) 新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか
2000年10月05日(木) ちょっと浮気(?!)とSFJAPANと/『荒野のコーマス屋敷』(シルヴィア・ウォー)ほか


2003年10月04日(土) 追加日記3/『少年名探偵 虹北恭助の冒険 高校編』(はやみねかおる・やまさきもへじ)

 漏れ聞いたところによれば、東京都特別区給与広報の発表で、公務員の平均年収が約700万円(平均年齢 40歳)なんだそうな。
 この不況の中、まだそんなに貰っているのかと正直オドロキである。下世話な話はあまりしたくないが(今更)、私の年収より○百万も多いんだよ(○は「2」以上(T∇T))。ウチんとこ、もう実質5年も昇給してないんだよなあ(私の業績が悪いからということではなく、全社員がそうなのである。ボーナスも今年からまたまた削減。これを「ジリ貧」と言わずして何と言おう)。
 一般サラリーマンの平均年収は、年々下がり続けている。厚労省の調査によれば、1997年のサラリーマンの平均年収は613万円だったのが、昨年は576万円になっている。一年あたり、およそ八万円ずつ落ちこんでいった計算になる。その調子で今年も下降線を辿るなら、景気は回復していると言われつつも実際には周囲でそんな兆候のまるで見られぬ今年は、恐らく560万とちょっとの額にまで下がってしまうことだろう。ここまで公務員との給与の差が開いていると、絶対アイツら、ウラで何かやってるよな、と邪推したくはなる。
 バブルのころは一般サラリーマンにとっても700万なんて、屁でもない額だったと思う。40代で年収1千万、2千万なんてのは普通に聞いていたし、私もいつかはそんな風に余裕のある生活ができるかと何となく夢見てもいた。酒もタバコもやらないし、ちょっとばかし本やDVDにゼニ注ぎこんでも(ちょっとか?)、まとまった貯金がある程度は作れようと計算していたのである。結果は全く、とんだ取らぬタヌキであった。
 安月給を嘆いたところで、実際客が減ってんだから仕方がないし、私は上見て暮らすのも下見て暮らすのも性に合わない。楽じゃないって言ってもローンに追われたり夜逃げするほどではなし、誰かを羨んだりするのはただのヒガミで、不遜というものだ。
 ……とりあえず今度の冬のボーナスはあまり使わずに取っておくことにしよう(^_^;)。


 今日から始まった“実写版”『美少女戦士セーラームーン』。ちゃんと早起きして見る(^o^)。
 昔、アニメが始まった時にはもうそのぶっ飛んだセンスにのけぞっちゃったものだが(と言うより、最初は『スケバン刑事』ファンタジー版にしか見えなかった)、こいつがギャグではなく大マジメであることにまたビックラこいて、更には慣れた(^_^;)。で、今回の実写版であるが、アニメが終了した後も、ミュージカル版が定期的に公演され続けていてCMなどを何度となく目にしていたこともあって、金髪だの青髪だのってカツラにも、あんなコスチュームじゃかえって動きにくいんじゃないかって点にも、今や全く違和感を感じなくなっている自分がテレビの前にいたのである。
 脚本は、平成『サイボーグ009』ヨミ編の小林靖子。原作の味を損なわない程度の適度なアレンジは『セーラー』についても如何なく発揮されていて、ルナが猫のヌイグルミ、という設定などは実写とアニメの架け橋としてはなかなかうまい発想である。もっともこれが小林さんの発案なのかどうかはわからないが。

 ある日、中学2年生の月野うさぎ(沢井美優)は、登校中に、額に三日月マークのある猫のヌイグルミがどこからともなく落ちてきたのを見つける。うさぎは不思議に思うが、その場はそのまま通り過ぎてしまう。しかしその夜、そのヌイグルミはうさぎの枕元に現れて「ルナ(声・藩恵子)」と名乗った。ルナは、うさぎが実は月のプリンセスを守る戦士「セーラームーン」で、悪の組織「ダーク・キングダム」と戦う使命があるのだと伝える。
 そしてダークキングダムの女王、クイン・ベリル(杉本彩)は、配下の一人・ジェダイト(増尾遵)を地上に送りこみ、新作ジュエリー発表会の会場に集まる人々からエナジーを奪い取ろうとしていた。ジェダイトが操る妖魔は、その発表会の主宰者で、うさぎの親友・大阪なる(河辺千恵子)の母親(渡辺典子)に取り憑き、体を乗っ取った。凶暴化し、なるに襲いかかるお母さん。
 月の戦士であることに目覚めたうさぎは、会場へ向かい、ルナから渡された携帯アイテムでセーラームーンにメイクアップ(変身)。見事に妖魔を倒し、なるとお母さんを救う。ところが油断したうさぎにジェダイトが襲いかかる。そこに突然颯爽と現れて彼女を助けたのは、謎の人物、タキシード仮面(渋江譲二)だった……。

 原作の方でもアニメの方でも、セーラー戦士中、一番人気は亜美ちゃんだったから、月野うさぎを演じることは、役者としてはちょっと損なのである。役柄を考えてみても、ドジだしワガママだしそのくせ実はヒロインで守ってもらえるし、憧れるファンもいる反面、「何であの程度の子が?」なんて反感持つファンも多い。更に、実体を持ってると、もともと「月野うさぎ」というキャラクターのファンですら「うさぎちゃんのイメージと違う!」なんて、気持ちはわからんでもないが、明らかに自我肥大かつ成長不全な文句をつけるヤツも出てくる可能性がある。下手すりゃ一昔前の悠木奈江みたく、「四面楚歌」って感じにもなりかねないので、あまりひど過ぎる演技になってなきゃいいけど、とか勝手に心配していた。
 実際に見たところ、演技経験はあまりないようだが(まだ15歳だし、グラビアアイドルから始めてるみたいだから当然か)、ともかく元気なのがいい。さほど臭みがないので、これならあまり嫌われずにすむのではないか。
 ゲストが渡辺典子だったり(ついにお母さん役を演じるようになったんだなあ)、桜田春菜先生役が大寶智子だったり、脇をベテランでしっかり固めてるあたり、ちゃんと若いヒロインたちを育てていこうという姿勢は基本的にありはすると思うのである。つーか、東映、今までが自分とこのヒロインを大事にしなさ過ぎてるからなあ。もう少しヒロインが引き立つ脚本家だったらとか、もちっと魅力的に撮れよ監督とか、スタッフの力不足によるところが大きいんだけど、最近は随分改善されてきてるから期待したいんだけどね。弱肉強食の世界ったって、ちゃんとエサやりゃ共食いする必要もないんだから、ハタチ過ぎるころまでに「演技のできる」女優さんたちに育てなさいよ、ぜひ。


 CS日本映画専門チャンネルで、『A』を見る。
 監督は『放送禁止歌』の著者でもある森達也。
 例のオウム真理教事件のドキュメンタリーだけれど、事件関係者が殆ど逮捕されたあとなものだから、危険な雰囲気が殆どない。むしろオウムを糾弾しようとする市井の人々の方がヒステリックで狂気じみて見える。
 実際、オウムの「狂気」などは人間なら誰にでも介在するもので、躍起になって否定するのはおかしいのである。事件当時、やたら「理解不能」を口走る識者は数多かったが、シンパシーを少しでも感じたら糾弾の矛先がすかさず自分に向くことを恐れて保身を図ったとしか思えない。山崎哲みたいに犯罪自体を擁護するように聞こえる言質を弄するつもりはないが、私は事件の真相が一枚一枚剥がされるたびに、「この程度の犯罪だったのか」という印象が強くなっていて、世間が騒然とするほどの大事件とは思えなくなってしまっている。
 いや、大事件は大事件なのだが、犯人たちが自分たちのやってることの重大さに気づいてない、ひどく発育不全なメンタリティしか持ってないってことに対して、「幼稚な犯罪」と呼びたいのである。事件当時も空気清浄機に「コスモクリーナー」って名付けてた時点で、「こいつらただのバカだ」としか思えなくなっちゃったからなあ。
 つまり、世間がオウムを叩いてしまうのは、自分の中から消えることのない「幼児性」を刺激されてしまうからで、理性のタガが外れりゃ、普通の人だって規模は小さいにしてもオウム的な犯罪はやってしまうものなのだ。それを認めたくないから叩く。みんなで叩けばそれは「正義」となる。どんなにヒステリックに叫ぼうと、誰もそれを止めなくなる。これって、まんまイジメが横行する心理構造の一つ(イジメてる方はそれが「正義」と信じこんでいる)に当てはまってるのだけれど、どう思いますかね。言っとくが、この「イジメ」の心理は事実として相手が罪を犯しているかいないかってこととは関係ないのだよ。関東大震災の時の朝鮮人虐殺の心理もこれと同じなんだから。
 だいたい識者も何か事件が起こるたびに「前代未聞」「理解不能」「空想と現実の区別がつかない」と常套句を繰り返すが、これだけ事件が頻発していて、未だに犯罪者の心理についてそんな浅いことしか言えないのなら、オウムなみにただのバカとなじられても仕方なかろう。想像力が欠如してる人間に評論家とか心理学者なんかやらせとくなよ。
 このドキュメンタリーは、オウムに密着取材していながら、その周辺の「普通の人々」の内包する狂気をも反作用的に描出することに成功している。それはつまり「私たち」もまた「狂っている」という「事実」の指摘だ。狂気から脱却してコミュニケーションを行うためにはまずその事実を認めたところから始めるしかないんだけれど、世の中みんな「狂気」の中に閉じこもっていたい人ばかりだからねえ。これからも何か事件が起きるたびに、人は「信じられない」とか「あんな残虐なヤツと自分は違う」とか、「自分だけ」の妄想の中に「みんなで」入りこんで安心するのだろう。そうして「共同幻想」はあたかも事実である歌のように培われ、流布していく。でもそれって「幼稚な犯罪」を擁護し、育てていることと同じなんだけどね。


 マンガ、はやみねかおる原作・やまさきもへじ漫画『少年名探偵 虹北恭助の冒険 高校編』(講談社/マガジンZKC DX・500円)。
 はやみねさんの『虹北商店街』シリーズのマンガ化だけれど、既に発表されている原作をそのままマンガにしたのではなく、ちゃんと小説版の続きになっていて、しかも今のところこれがシリーズの「完結編」的な趣きになっている(今後も新作長編が発表される予定だが、それはこの『高校編』よりも時間的には前に起こった出来事という設定)。
 小説は読むけどマンガは読まない、という人も(世の中にはそういう奇特な方もいるのである)、これだけは読まねばなるまい(もっともこのマンガもノベライゼーションされてるそうだが)。
 作画を担当したのは、当然、講談社ノベルス版のイラストも描いてるやまさきさん。挿絵の方ではさほど気にならなかったけれど、この人の絵、時々ことぶきつかさなみに歪むねえ(^_^;)。でもそのせいもあるのか、キャラクターがみんな小説版の三倍増しで色っぽくなってるね。小説版のときは小学生・中学生だからマンガ版より色っぽくても困ろうが。
 『虹北ミステリー商店街』『幽霊ストーカー』『江戸川乱歩賞と暗号』『人消し城伝説』『Good Night, And Have A Nice Dream』の6話を収録。
 どれもミステリとしてよりも、恭助の飄々としたキャラクターで読ませるエピソードが多い。彼は天才過ぎて(^o^)、ポアロや金田一耕助みたいにしょっちゅう推理を間違って読者を右往左往させてはくれないのである。だもんで、あまり「動き」がない。そこでヒロインの野村響子ちゃんがやたら事件に巻きこまれるというカワイソウな目に遭うのだけれど、今巻ではそれに加えて、自称・恭助のライバル(サーペントのナーガかい)沢田京太郎が程よく事件を香ばしくしてくれている。大金持ちで尊大、自意識過剰ってキャラはちょっとベタ過ぎって気はするけれども。
 フランス人、ミリリットル真衛門と妹の美恵留、どうやら次に上梓される「フランス編」で先に登場しているらしいけれど、真衛門はまんま『一休さん』の蜷川新右衛門的キャラクターである。ロリコンには激萌えであろう(^o^)美絵留も、響子と恋の鞘当てを演じるのは定番で、意外性がない。けれど、定番だからこそ、もっとじっくりといくつものエピソードを重ねて、ドラマに深みを持たせてほしかったと思う。たった1巻ではやっぱり物足りないのである。
 毎回、恭助と響子の淡い恋心がすれ違うようなってな展開はちょっと気恥ずかしいし、トリックはミステリとしても初歩的で、読み応えはあまりないけれど、動機不在、無意味な暗号、無理な殺人事件が毎回起こるような某ミステリマンガに比べりゃはるかにマシである。小学生に読ませるならこっちのほうがずっといいと思うが、はやみねさん、週刊誌連載用の原作までは書いてくれないだろうなあ。


 マンガ、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』6巻(講談社/講談社コミックスキス・410円)。
 もう6巻まで読んでると思ってて、読み返そうとふと手に取ってみたらまだ読んでなかった。最近こういうことが増えている。昔読んだ本を読み返したり映画を見たり、こうして日記をつけたりするのも、ある意味ボケとの戦いみたいなものだが、ムリに戦わずに自然にボケに任せるのもいいかとも思い、でもあまりボケすぎて老後あちこちに迷惑掛けるよりはその前にポックリいきたいとも思い、なんか複雑である。どっちにしろ人は望むとおりの死を迎えることはできないと誰ぞが言うとったがその通りであろう。

 6巻まで来て、のだめももう4年生。のほほんと続いているだけに見える(失礼)このマンガも、ちゃんと時間が経っていたのだねえ。
 物語展開自体は実は結構ハードなのである。その才能が少しずつ世間に知られ始め、注目されるようになる千秋真一。指揮者への夢は捨て切れず、しかし進学するのはピアノ科。海外留学も飛行機恐怖症のために不可能。千秋の実家の複雑な人間関係も明かされる。
 けれどやっぱり印象に残るのは登場するヘンな人々の群像。何と言っても新登場の音楽評論家、ポエム喋りの佐久間学の存在感が圧倒的だ。
 「この大海原のはるかポセイドンが司る黄金の島に眠った高貴なる芸術の至宝がきみに微笑みかけている ああなぜきみは漕ぎ出さんとしない? 今まさに神に愛された楽聖の航海は始まらんとしているのに……!」
 ……まあ、実際こういう文章を衒いもなく書ける人はいるわけである。もちろんそういう人には世間の偏見と立派に戦ってマイ・ウェイを突き進んで頂きたいのだが、頼むから私の近くには寄って来ないでほしいのである。「この詩、どう思いますか?」とか言って。
 いやまあ私の個人的な事情はどうでもいいのであるが、この詩を考えたの、作者の二ノ宮さんではなくて担当の編集さんだそうな。いい編集さんだなあ(^o^)。
 千秋とのだめが演奏するエドワード・エルガーの“sonata for Violin and Piano in E minor, Op82”、どんな曲か知らなかったので(と言ってもエルガーの曲って『威風堂々』くらいしか知らないが)、CD版『のだめカンタービレ』に収録されているかと思ってアマゾンコムで調べてみたが、残念ながら未収録とのこと。このCD、レビューでは「寄せ集め」とか貶されているけど、シロウトには寄せ集めの方がありがたいのである。なんたって何から聞きゃいいかわからないからね。

2002年10月04日(金) 前日の嵐/DVD『あずまんが大王【1年生】』/『HUNTER×HUNTER』15巻(冨樫義博)
2001年10月04日(木) 新番第3弾……いつまで続くのよ/『おとぎストーリー 天使のしっぽ』第1話ほか
2000年10月04日(水) 止まる息とふらつく自転車とドロドロと/『本気のしるし』1巻(星里もちる)ほか


2003年10月03日(金) 追加日記2/『二十面相の娘』1巻(小原愼司)ほか

 しげに誘われて、仕事帰りに箱崎の「ゆめタウン」まで。何を思い立ったか、しげが私に「抱き枕」を買ってくれると言うのである。
 しげは時々思い立ったように、こういう「プレゼント」を衝動買いするのだが、私の方は甚だ無愛想で、どんなに嬉しくても「ああ、いいねえ、これ」くらいの反応しかしない。別にトシを食ったからそうだというのではなくて、昔からそうなのである。
 「カバーはどれがいい?」としげに聞かれても、ビニールに包まれているのでは肌触りが解らないし、色合いだって好みはないので返事ができない。適当に「これがいいかな」と選ぶが、しげはいかにも「もっと喜んでくれてもいいのに」顔である。期待に答えられないのは申し訳ないが、これでも心の中ではすごく喜んでいるのである。男の照れというものをもう少し見抜いて頂きたいと思うのは期待のしすぎかもしれないが。

 そのあと、映画を見にキャナルシティに回る。開始までにはまだ時間があるので、福家書店で本を買い、スターバックスで時間を潰す。「高いわりに量が少ない」と叩かれることの多いスタバであるが、頻繁に利用しなけりゃ、ボラれる感も少ないんじゃなかろうか。スタバファンは世間に結構いるらしいけれど、ちょっとお洒落な感じがしていても、結局はチェーン店なんで、ブランド感がするほどではない。どうしてそんなにハマる人がいるのかよく分からんのである。


 映画は『28日後……』(“28 DAYS LATER”)。
 『ザ・ビーチ』のアレックス・ガーランド脚本、『トレインスポッティング』のダニー・ボイル監督によるSFパニック映画。

 ロンドン市内の病院のベッドで目覚めたジム(ギリアン・マーフィ)は、周囲に人間の影が全く見えなくなっていることに気がつく。彼は交通事故でひと月以上も昏睡状態に陥っていたのだ。フラフラと街に出たジムは、ロンドンの街全体から人の姿が消えていることに愕然とする。ジムの「ハロー!」の呼びかけに答えるのは谺だけ。
 人を求めて入りこんだ礼拝堂で、腐敗した死体の山を見てジムは驚愕するが、そこに現れた神父は、牙を剥き奇声を上げ、狂気に駆られたように彼に襲いかかってきた。間一髪でジムを助けたのは、マーク(ノア・ハントレー)とセリーナ(ナオミ・ハリス)。二人は研究所から伝染したウィルスが、人間を凶暴化したのだと説明する。
 三人はジムの生家に向かうが、彼の両親は来るべき未来を悲観して自殺していた。しかも襲いかかってきた「感染者」にマークが噛まれ、発狂する寸前にセリーナに殺されてしまう。
 落胆し、街をさ迷う二人は、高層アパートの上階で光が明滅しているのに気がつく。そこにはフランク(ブレンダン・グリーソン)とハナ(ミーガン・バーンズ)という親娘の生存者がいた。フランクは、ラジオから流れる自動録音が、マンチェスターに駐留している軍隊が「感染者」対策を発見したと繰り返していることを教える。
 四人はその放送に唯一の希望を見出し、フランクのタクシーに乗って一路マンチェスターを目指す。その先にどんな運命が待ち受けているかも知らず……。

 あまりネタバレさせるわけにはいかないけれど、これだけは突っ込んでおきたい。軍隊が放送を流してた理由が、「女を呼び寄せるため」というのはいくらなんでもトホホ過ぎるんちゃうか。セリーナはともかく、ハナなんてまだ10代前半だぞ。追いつめられた男はナニしか考えなくなるってのには説得力はあるのかもしれないけれど、ドラマのテンションは盛り下がりますがな。
 そのあたりの描写を除けば、映像もキッチリしているし、役者の演技もよく、特に欠点というものも見当たらないのだけれど、面白いという感想も浮かんで来ない。脚本家も『トリフィドの日』に影響を受けた、と語っている通り、SF作品を見慣れている眼には、アイデアがありふれていて引っかかるものがあまりないのである。取り残された集団の間で争いが起こるってパターンも、ゴールディングの『蝿の王』がトドメ刺してるしなあ。時期的に同趣の『ドラゴンヘッド』とかぶってるんで見比べてみたかったが、こちらの方はしげが全く興味を示さなかった。両作を見た人は、どんな感想を抱いたんだろうか。
 本編が終わってスタッフロールが流れたあと、「もう一つの28日後」として、第2の結末が示される。どちらでもお好きな方を、という趣向なのだろうが、これがまた二つともありふれている。40年前にこの映画を見てたら感動したかもしれないけれど、今更これはないよなあ、としか思えない。もっとも、小学校高学年くらいの子供に見せて、トラウマを持ってもらうのにはちょうどいいかもしれない。
 ミーガン・バーンズの凛とした少女らしさが本作の一番の魅力でしょうか(^_^;)。


 帰宅して、アニメ新番『巷説百物語』第1話「小豆とぎ」を見る。
 製作は『ルパン三世』のトムス・エンタテインメント。監督は『サイレントメビウス(TV版)』『ルパン三世 1$マネーウォーズ』『同 アルカトラズコネクション』の殿勝秀樹氏。期待していいのかどうか、見る前から微妙なセンだね(^_^;)。

 豪雨の中、峠を越えようとしていた考物(かんがえもの)の百介は、崖から滑り落ちそうになったところを一人の御行(おんぎょう)、又市に命を助けられる。その異形な風体に惹かれた百介は、又市のあとを追うが、更に強くなる雨足の中、その姿を見失ってしまう。
 百介は同じく道に迷っている僧、円海と連れになり、「備中屋」という看板を掲げた屋敷で雨宿りをする。そこには又市や、妖艶な女・おぎん、徳右衛門と名乗る商人が居合わせていた。徳右衛門は夜明かしのすさびにと、「備中屋」の因縁話、十年前に殺された丁稚が妖怪「小豆洗い」として化けて出る顛末を語り始めるが、百介は、話が進むに連れて円海の表情が次第に硬くなり、額にびっしりと汗が浮かび始めているのに気付いた……。

 原作は短編だけれども、まともに映像化すれば1時間はかかるものなので、30分に収めるのには到底ムリがある。しかも、原作ではあまり出番のなかった山岡百介を前面に出してきたものだから、本来の主役である円海の描写が浅くなり、ミステリーとしての要素が随分薄くなってしまったのは残念に思う。
 宮繁之氏によるキャラクターデザインは、心配していたほどに悪くはなかったが、宮野隆氏の美術がまるで江戸期の『画図百鬼夜行』などの妖怪画を彷彿とさせるほどの出来映えだったために、その上に乗せられていると、どうしても浮いて見えて、やっぱりアニメ絵だなあ、という印象を与えてしまっている。今更言っても仕方ないけれど、森野達弥さんじゃダメだったのかねえ。最初から視野に入ってなかったのか、イマドキあの水木しげる調の絵柄じゃ売れないという判断なのか、『鬼太郎』なんかとの差別化を図ったのか、そもそもアニメートする技術がトムスにはないということなのか。森野版の『巷説』アニメ版もスペシャルで一本作ってほしいと願ってるのは私だけじゃないと思う。
 又市の声は中尾隆聖氏。声作りにも力が入っていて熱演である。そのおかげでバイキンマンやフリーザを連想しこそしないのだけれど、やっぱり聞いた途端に中尾さんだとわかっちゃうのは如何ともし難い。おぎんの小林沙苗さんはまあまあってところか。


 マンガ、森永あい『山田一家ものがたり ゴージャス』(角川書店/アスカコミックスデラックス・903円)。
 超短編が五つしか収録されてない超薄型の単行本。で、なんでこの値段かって言うと、台湾でドラマ化されたDVDつきなのである。でもこのDVDの方はあまり見る気がしないんだなあ。
 マンガの方も、本編シリーズが終わって時間が随分経ってるので、誰が誰やら忘れてしまってました(^_^;)。あまり続ける意味はなかったんじゃないかって思うけどねえ。


 マンガ、小原愼司『二十面相の娘』1巻(メディアファクトリー・MFコミックス・540円)
 小原愼司って、『菫画報』の人だったんだね。気になってはいた人なんだけれど、本格的に読んだのはこれが初めて。
 正直な話、『金田一少年』やら何やら、安易な「子孫もの」には腹が立つのだけれども(『ルパン三世』だって原作ファンにしてみれば噴飯ものだろう)、これは何とちゃんと江戸川乱歩の遺族に許可を貰っているのである。実際に読んでみると、なかなか練られている。正統な続編とは言えないが、パスティーシュの一つとしては充分に好感が持てる。
 主人公は両親を無くした少女チコ。もともと怪人二十面相とは全く血の繋がりがない。遺産目当てでチコを引き取った後見人の伯父夫妻に毒殺されかけたところを、二十面相に救い出されて、そのまま二十面相の一味に加わり、「娘」を名乗るという設定。
 本当の父娘にしなかったところや、明智小五郎が“まだ”登場しないあたりは、作者が原作を心の底から好きで、尊重している姿勢が見てとれてよい。決して上手いとは言えない絵柄も、かえって物語に深みを与えているように思う。

2002年10月03日(木) 何が最悪?/アニメ『NARUTO ナルト』第1話/『愛人(あいするひと)』2巻(吉原由起)/『番外社員』(藤子不二雄A)
2001年10月03日(水) 新番2弾!/『X』第1話/『女刑事音道貴子 花散る頃の殺人』(乃南アサ)ほか
2000年10月03日(火) 博多はよか、よかァ/映画『博多ムービー ちんちろまい』ほか


2003年10月02日(木) 追加日記1/『サブカルチャー反戦論』(大塚英志)

 昨日の日記に書き忘れてたことだけど、先月メールを送って来てくれた外国のお友達の数、なんと67人。先々月の三倍に増えている。
 うーん、何が原因だかは分からんけれど、それだけこの日記の注目度が高くなってるってことなんですかね。スパムメール送りつけられるようなレベルでの人気ですが(^_^;)。でも内容は相変わらず圧倒的に「あなたの○○○○○を○○○○○○○○せんか?」というものばかりなんだな。どうしてはるか海の向こうの人が、見も知らぬ私のナニの心配までしてくれるのか。世の中、親切な人がいっぱい増えてることである。

 日本人の見知らぬお友達からも、もちろんメールは来てるけれども、昨日来たのはこんなの。

 > ケイコです。ひさしぶりー憶えてる? 最近携帯変えたの。綺麗な写メ撮れたんで送ります。見てみてね。

 「写メ」ってなんだ? と迷ったが、これ、「syashin しゃしん」と打とうとして、「syashime しゃしめ」って打ち間違えたのだろうか? ちょっとムリがある気はするが(あとで「写メール」の省略形だと気がついた。ちょっと語感が悪過ぎやしないかなあ。それに「写メを撮る」なんて言い方もヘンだぞ)。
 「ケイコ」という名の知り合い自体はこれまでの人生を振り返ってみると(振り返るほどのものではないが)何10人といはする。小学校の担任の先生は三人いたけど、そのうち二人がケイコだった(^o^)。思い返せば「ケイコ」という名前の人間には結構縁があって、私の人生の節目節目になぜか「ケイコ」が現れることが多いのだが、これがたいていロクなことをしてくれないのである(-_-;)。私にゃ「ケイコの呪い」でもかかってるのか。
 一番私に縁の深かった「ケイコ」さんはもう鬼籍に入られている。もしそこで写真を撮ってくれてるんだったら、ぜひ見せてほしいとは思うのだが。
 今んとこ、馴れ馴れしく「ケイコです」と名前で呼び掛けてくる知り合いに心当たりは全くないので、メールは即刻削除。だいたい私は仲間内で「○○ちゃん」と名前で呼びあってる人に対しても、頑なに名字で呼んでしまう融通の利かないところがあるので、それを知ってりゃ、絶対名字でしかメールは送ってこないはずなのである(おかげで知り合い同士が結婚して名字が同じになってしまうことくらい困ることはない)。
 これに引っかかる人間ってのも広い世の中に結構な率でいるんだろうなあ。


 NHKBS−2で『イーストウッドの肖像』。
 もう誰もが知ってる有名な事実だが、クリント・イーストウッドの出世作『荒野の用心棒(“Per un pugno di dollari”=「ひと握りの金のために」) 』は黒澤明監督の『用心棒』の盗作である(後に東宝に権利金を支払って和解した)。このドキュメンタリー、いかに『荒野〜』が『用心棒』をバクッたかを、二作品の映像を交互に見せることで説明している。なんかこうハッキリと示しちゃうというのもちょっとイヤガラセに見えなくもないな。
 この盗作騒ぎを『用心棒』自体がダシェル・ハメットの『血の収穫』の影響を受けてるじゃないか、とトンチンカンな擁護をする向きがあるが、「インスパイアされた」というのと「盗作した」のとは違うのである。『用心棒』は『血の収穫』の換骨奪胎(しかし、黒澤明がハメットを読んでいたかどうかは疑わしい。少なくとも敵対する二者の間で第三者が利すると言うなら、原典は『漁夫の利』にまで遡れよう)であるが、『荒野の用心棒』は明らかに『用心棒』の盗作なんだから、ヘタな擁護はかえって『荒野』の価値を貶めてしまうというものである。だいたい、セルジオ・レオーネ監督もクリント・イーストウッドも、既に盗作を認めてるんだから、四の五の言わなくていいじゃないか。


 夜、しげが急に「博多ラーメンが食べたい」と言うので、ちょっと遠方ではあるが千代のラーメン屋まで出かける。
 7、8年ほど前にはこのラーメン屋にも足繁く通ってたものだったが、しばらくぶりに来てみると外見は同じであったが、中はすっかり改装されて、従業員の人も全く変わっていた。チケットを先に買うシステムになってたのも大きい。
 ラーメンの味自体は昔ほどコッテリしてなくて、ややあっさりぎみの醤油とんこつ。もう一昔前のように、表面に脂の膜が浮いてるようなとんこつラーメンを見かけることは少なくなった。味が向上してきたことはいいことなのだが、こうなると、あの臭くてギトギトしてた昔のとんこつラーメンもちょっと懐かしくなっちゃうから不思議なものである。気分が悪いときに食ったりしたら、マジで吐いてたりしてたんだが。


 帰宅して、しげと一緒にDVD『名探偵ポワロ』を見る。
 第9巻の『二重の罪』と『安いマンションの事件』の2本。しげからはいつも「一緒にDVD見てても、あんたすぐ寝るからキライ。オレは死体と一緒に映画見る趣味ないよ!」と怒られてるので、がんばって見る。
 どちらもミステリとしては定番過ぎるトリックでたいしたことはない。最初の10分でトリックを見破れる程度のものである。けれどこの2本、ポワロのキャラクターの面白さが特に目だって見られるもので、そうした興味で楽しんで見ることができる。
 『二重の罪“DOUBLE SIN”』、つまらぬ事件が続いて引退を決意するポワロ、ウィンダーミアまでヘイスティングスを誘って休暇に出かける。しかし、バス旅行の途中で知りあったメアリという女性が取り引きのために持っていた細密画が盗難に合う。ヘイスティングスはメアリに犯人を逮捕すると約束するが、意気消沈しているポワロは事件に興味を示そうとしない……。
 ヘイスティングスが自ら事件解決に奔走して失敗を繰り返すあたり、これで一気にヘイスティングスファンが増えたんじゃないかと思えるほどの大活躍ぶりである。デビッド・スーシェのポワロのそっくりさは充分に喧伝されてるけど、ヒュー・フレイザーのヘイスティングスもいかにもなワトソンぶりだと思う。「ようし、わかったぞ!」とポワロを置いてきぼりにして走り出すところなど、テレビの前の視聴者がみんなきっと「おいおいお前きっと勘違いしてるよ」と突っ込んでることだろう。
 ピーター・ユスティノフ主演版の『エッジウェア卿殺人事件』のヘイスティングス(ジョナサン・セシル)も味はあったが、ちょっとウッディ・アレンぽくってうらなりすぎである。フレイザーのヘイスは原作より人間味も増して、これ以上の適役はないという雰囲気だ。
 ゲンナリしていたポワロが、ジャップ警部の講演会をコッソリ覗いて、てっきり自分の悪口を言いまくっていると思いこんでいたのに、ベタボメされて急に元気を取り戻すのもかわいらしい。いやホントに無邪気な男たちである。
 『安いマンションの事件“THE ADVENTURE OF THE CHEAP FLAT”』、オープニングでボワロたちがアメリカ製のギャング映画を見るシーンがあるが、これが何の映画か分らない。主演俳優はジェームズ・キャグニーらしいのだが、キャグニー映画を全部見ているわけじゃないので、どれだかよくわからない。
 どっちにしろ、ポワロはギャング映画が大嫌いという設定を説明するためのダシに使われてるので、映画を貸し出した会社もあまりいい気はしなかったんじゃなかろうか(^o^)。


 掲示板のスレッドに、話の流れで李白の詩を訳してみたのだが、そのまま流しちゃうのももったいないのでここに記録しておく。正確さはあまり気にしないように。

> 悲歌行 李白

 悲来乎 悲来乎             (悲しやな、悲しやな)
 主人有酒且莫斟 聴我一曲悲来吟 (ご主人、酒はまだ酌いで下さるな、まずは我が『悲来吟』の一曲を聴かんことを)
 悲来不吟還不笑 天下無人知我心 (悲しみに歌わずまた笑うこともなければ、天下に我が心を知る者もない)
 君有数斗酒 我有三尺琴       (さあ、君に数斗の酒を酌ごう、私には三尺の琴があるから)
 琴鳴酒楽両相得 一杯不啻千鈞金 (我が琴に聞き惚れて酒を楽しめば、ほんの一杯の酒が千鈞の金にも勝るだろう)
 悲来乎 悲来乎             (悲しやな、悲しやな)
 天雖長 地雖久             (天も永遠か、地も久遠か)
 金玉満堂応不守,富貴百年能幾何 (されど金銀宝玉を満たす家は必衰し、百年の富貴を誇る盛者はいくばくもない)
 死生一度人皆有 孤猿坐啼墳上月 (死生は誰にも一度きり、ほら、猿が墓の上で月に向かって鳴いている)
 且須一尽杯中酒 悲来乎       (さあ、ともかくこの杯を呑み干してくれ、悲しやな)
 悲来乎,鳳皇不至河無図       (悲しやな、聖王出現の瑞兆たる鳳凰が現われることも、黄河の竜馬の背に現れた河図が見えることもない)
 微子去之箕子奴 漢帝不憶李将軍 楚王放却屈大夫 (微子は去り箕子は奴隷となり、漢の武帝は李広を忘れ、楚の襄王は屈原を放擲した)
 悲来乎 悲来乎             (悲しやな、悲しやな)  
 秦家李斯早追悔 虚名撥向身之外 (秦の李斯は後悔するに敏であったが、その虚名は既に身を滅ぼしていた)
 範子何曾愛五湖 功成名遂身自退 (范蠡はなぜ五湖を愛したか、功成り名を遂げ自ら身を引くことができた)
 剣是一夫用 書能知姓名        (剣なんて敵一人を斬ることしかできないし、書なんて姓名を書くことができれば充分だ)
 恵施不肯干萬乗 卜式未必窮一経 (恵施は魏の恵王に万乗の国を譲られたが断り、卜式は中郎にまで昇りつめたが経の一つも極めてはいなかった)
 還須黒頭取方伯 莫謾白首為儒生 (黒髪の艶やかなうちに諸侯の旗頭になりたいが、たいていは白髪頭の儒学者で終わるものよ)


 大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川文庫・540円)。
 『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』に続く、サブカルチャーシリーズ第3弾。
 全部読んでるということはやっぱり私は大塚さんのファンなのかな。大塚さん嫌いの大月隆寛はハッキリ好きではないんだけど、だからと言って大塚さんの意見に全面的に賛成というわけでもない。正直な話、大塚さんが振り挙げてるのは「蟷螂の斧」だという気はする。大塚さんの分析は鋭いけれども、政治はおろか世論一つ動かすには至るまい、という悲しい事実も感じないではいられないからである。
 2年前の9.11に始まる「戦争」は、まあ見事なくらいに全世界にテロと紛争の種をばら撒いてくれた。もちろんそれをやってくれちゃったのはブッシュさんであるわけだけれども、アメリカさんに守ってもらってる以上は戦争反対なんて言えないじゃないのよ、と「現実」主義を唱えてたみなさんは、今の「現実」をどうお考えかな。
 大塚さんが喝破したごとく、やや規模が大きいとは言え、アメリカ一国を狙ったただの「テロ」が「戦争」に拡大解釈されていった背景には、アメリカの政治理念がその建国以来、「映画」のような「物語」に依拠してきたという事実がある。つまり、あまりにも単純な「勧善懲悪」的「西部劇」の世界である。
 インディアンの虐殺も、広島・長崎の原爆投下も、アメリカにとっては「正義の戦争」だったんである。イラク戦争を肯定することはアメリカさんの「戦争の早期終結のために原爆投下は正当化される」という意見も受け入れるのが筋なんだけど、そこまで考えてモノ言ってる人、そう多くないね。
 けど、いくら小林よしのりさんみたく「作法としての反米」を標榜したところで、アメリカべったりの政治を日本が放棄できるわけもない。大塚さんはもっと率直に「この国は憲法前文や『九条』の理念を文字通りに受けとめ、愚直に生きる途がやはり本当はあったはずだ」と述べるが、それを「愚直」と自ら語ってしまうあたりに、現実としてこの国にそれを実行することは到底不可能であったことを露呈してしまっている。
 だからやっぱり大塚さんの主張はムダ骨で愚かでしかないんだが、小利口ぶって「現実主義」を口にする連中よりはよっぽど心地よい。「現実を語るほど、人は現実を認識できなくなる」というのは誰の言葉だったか。人間、あまり利口になるのも考えものである。

2002年10月02日(水) もうあのクニについて書くのはやめようかな/ドラマ『迷路荘の惨劇』/『よみきり▽もの』3巻(竹本泉)ほか
2001年10月02日(火) 新番組マラソン開始!/アニメ『FF:U ファイナルファンタジー:アンリミテッド』第1話「異界への旅」ほか
2000年10月02日(月) 出たものは全部食う、は貧乏人の躾か?/『名探偵は密航中』(若竹七海)


2003年10月01日(水) 別れの謂れ/『おそろしくて言えない』1巻(桑田乃梨子)

 10月になった。

 西原理恵子さんは「10月には戻ってくる」とご自分のホームページ『鳥頭の城』に書かれていたが、覗いてみると、「日々マンガ」が更新されている。
 内容は、別れた御夫君に向けて、「お酒をやめて帰って来て下さい」と呼びかけているもの。
 なんかもう、私はこういうのは読んでてダメである。涙が堰を切ったように流れ出して止まらない。見も知らぬ作家さんのことを思って泣くというのも我ながら思い込みの激しいことであるなあ、と思うが、得てしてファンとはそんなふうに勝手なものである。

 離婚の原因は酒か。
 他にもいろいろあったかもしれないが、それ以上は詮索しなくてもいいことだと思う。酒が一番の原因というだけで、私は納得してしまう。

 私の父親も酒飲みだった。もともとたいして飲めないくせに、酒量は相当なものがあった。アルコール中毒にこそならなかったが、年を取り、糖尿病になって、足先が痺れるようになった。もっと長生きすれば、いつかは足を切断しなければならない事態になるかもしれない。

 私は酒好きを必ずしも嫌いなわけではない。
 笑い上戸に泣き上戸、やたら陽気に振舞う人もいれば陰気に沈んで愚痴ばかり言う人もいるが、宴会の雰囲気は好きだし、ああ、ここには「人」がいるなあ、と思えて、飲めないこちらも楽しくなる。たまに絡まれたりするのも程度が酷いものじゃなければ、そう悪い気もしない。「私の酒が飲めないってえ?」なんて言いながら酔っぱらった女の人にしなだれかかられたりしたら、困るけどまあやっぱり嬉しいものである。もっともそんな経験はないんだが。

 でも、あえて「事実」を言えば、酒飲みの8割は人としては屑だ。
 酒に呑まれずにほろ酔い加減で自分を抑えられる人などわずかしかいない。
 日頃の鬱憤を酒に甘えて吐き出し、ついでにゲロも吐く。他人の幸福を妬み、根も葉もない噂話に下品な笑いを浮かべる。時には暴力も振るい、家族を恐怖に陥れる。それでいて世の中の全ての悲しみ、苦しみを自分一人が背負っているような顔をするのだ。自意識過剰も甚だしい。
 いったい、彼らは何を思いあがっているのか。

 子供の頃、酔っ払った父と母がケンカしている声を聞きながら、無理に眠ろうと布団の中に縮こまっていた時のことを、今でも夢に見ることがある。
 病気にかかる以前から、私は酒を殆ど飲まなかったが、理由はそんな父を見て育ってきたからだ。
 酔いつぶれて、鼾をかいて寝ている父を見て、こいつさっさと死んでくれないか、それとも眠っている隙に首を絞めて殺してやろうかと思ったことは何度もあった。

 では、私は父を嫌いであったか。
 嫌いだったろう。今でも人間として誇れる人だとは思っていない。
 憎んでいたのか。
 憎んでいたと思う。今でも、根本的なところで、相容れないものを感じることがある。
 親子の縁を切りたいことは何度もあったし、仮に今切ったとしても、恐らくたいした痛痒を感じることはないだろう。
 しかしそれでも思うのだ。
 この人に、一番近い人間は私だと。血ではなく、心が。

 酒に呑まれなければやりきれなかった、そのころの父。
 自分の望んだ通りの愛情など得られるはずもないと思い切れるには、人にはあまりにも長い、長すぎるほどの時間が必要だったと思う。
 そして、諦めがついたからと言って、心が平穏になるはずもない。
 酒にしか逃げられない人間はいるのだ。
 そんな彼らに、「他に心を慰める方法がないのか」と問いかけることほど、無意味なことはない。

 けれど、そんなことが母への横暴への言い訳なるはずもないことも事実だ。だから父もやはり屑だったと思う。

 父は糖尿が悪化して、一時期酒をピタリとやめた。それは母が死ぬ、ほんの半年前のことだった。
 遅すぎたと思う。
 そして、母が死んで父はまた酒を飲み始めた。死に急いでいるのだろうが、私は酒を止めろと父に言う気は全くない。そういう道を選んだのは父自身の意志だから。
 父は酒に逃げて、どうしようもない道を歩いていた。

 父は、私が子供の頃、やたら酒を奨めていた。いろんな酒を買って来ては、「これならお前の口にも合おうや」と言って飲ませようとした。中には結構高価なワインやウイスキーなんかもあったように思う。長いこと封を切らずに取っていた「ナポレオン」が、父の書架には飾られていた。
 でも私は、どんな酒を奨められても、一滴たりとも飲もうとしなかった。
 父はいつか私と酒を汲みかわすようになりたいと思っていたのだろう。私も同じ気持ちだった。いつか父と酒が飲みたいと思っていたのだ。いや、今でもそう思っている。
 だけど、飲まなかったのだ。

 どうして父は、ごく普通に、たしなむ程度に酒が飲めなかったのだろう。
 父は、自分が晩酌を始めた途端に、母が私を別の部屋に避難させていたのをどう思っていたのだろうか。
 疑問形にすることはない。それはとうの昔に父にはわかっていたことだ。分かっていたから、どうしようもなかったのだ。
 今更悔やんでも詮無いことを思いながら、私は母が亡くなった今でも、父と酒を飲むことを拒み続けている。父と酒を汲みかわす日は、多分、来ない。
 しかし私も、酒こそ飲まなかったが、ふと気がつくと、父と同じような、やっぱりどうしようもない道に足を踏み入れていた。

 西原さんは、鴨志田さんが酒をやめて戻ってくる日が来ると、信じているのだろうか。
 もう再び元に戻ることはないのか、それともまた仲良く暮らせる日が来るのか。
 未来は多分、西原さんには見えていると思う。
 見えていてその上で、西原さんは鴨志田さんに「帰ってきて下さい」と願っているのだ。
 なぜこういう人が幸せになれないのだろう。



 仕事がちょっと長引いて、帰宅したのは9時直前、楽しみにしていた『SASUKE』はもう終わっていた。うーむ残念。スペシャル番組で飽きずに見られるのって、これのほかにはそうそうないんだけどなあ。

 CSファミリー劇場で『押繪と旅する男』。乱歩の映像化作品としては悪い方ではないが、原作の短編にオリジナルを付け加えた分だけ長尺になって、間延びした印象。
 これ、最初に見たのは福岡アジア映画祭のオープニング上映のときだったんだけど、何の故障があったのか、上映開始が1時間も遅れてしまったのだ。次に用事のあった私は、泣く泣く途中で映画館を出たのだったが、そのとき会場にはゲストで主演の故・浜村純さんもおいでだったのである。上映後はコメントなんかも語られたと思うのだが、せっかくのチャンスを逃してしまった。
 もちろんあとでテレビ放送があった時に最後まで見たが、情に流れすぎているのが乱歩の世界と相容れないという感覚は拭い切れなかった。単体の映画として見た場合にはそう悪くもないんだが。そう昔の映画でもないのに、浜村さんも、多々良純さんも、天本英世さんも、既にこの世にないのが淋しい。


 女房がバイトから早めに帰宅して来たので、遅い晩飯に空港通りの「めしや丼」に向かう。「ガスト」の「二画取り」はやっぱりもう飽きたようである。
 ここの彩り弁当はミニハンバーグに焼きサバ、野菜の煮付けにミニサラダ、デザートにパイナップルの角切り少々と、おかずの種類は多いが、量はさほど多くなく、私のお気に入りである。
 しげ、仕事明けで相当喉が乾いていたと見え、ドリンクバーもあるこの店に来たのだけれど、かなり疲れがからだに来ているらしく、なかなかメシが喉を通らない。そのくせ注文してるのがトンカツ定食とかコッテリしたヤツばかり、しかもご飯のオカワリまでするのである。真夜中にそんなもん食ってたら胃にもたれるに決まっているじゃないか。
 案の定、「気持ち悪い」とか言って泣き出すが、分かっいてて目先の欲に負けているやつに同情なんかしてやらないのである。


 マンガ、桑田乃梨子『おそろしくて言えない』1巻(白泉社文庫・630円)。
 えいくそ、新書版持ってるのに、「描きおろし・巻末特別ふろく『なかよしだもの』22ページ収録!!」の惹句を見て、つい買ってしまった。これだからムダに本棚から本が溢れ出ちまうのである。22ページと言っても殆どエッセイマンガみたいなものだから、わざわざ買うほどのこともないと冷静な理性はそうささやいているのだが、まあ理性の通りに行動することが正しいと決まってるわけでもなし(^o^)。

 紹介文を見ると、主人公の御堂維太郎のことを「最強のオカルティックハラスメント男」なんて書いてある。連載時の平成2年ごろにはもう「セクシャル・ハラスメント」という言葉が一般化してたんだなあ、とこういうところで確認できる。別にこんなところで確認しなくても『現代用語の基礎知識』のバックナンバーを調べた方がはやかろうが。
 更に数年後には例の宗教団体の事件があったせいでオカルトを利用したイヤガラセはシャレにならん自体になっちゃった。一時期この作品が全然店頭に見かけなくなってたの、そのせいじゃあるまいな(^_^;)。

 ともかく、復刊してくれたのが嬉しい一冊。
 悪霊・低級霊と波長が合いまくりで、あらゆる災難を引き寄せてしまうくせに霊感ゼロ、徹底的な現実主義者の高校生・新名皐月。
 怪我、病気、事故、失恋の不幸の連続の果てにようやく彼が相思相愛になった相手は、新名に霊的イヤガラセをすることに無上の喜びを覚える霊能力者・御堂維太郎の妹・維積であった。
 しかもこの維積ちゃん、兄の霊的教育の反作用で、バリバリの霊感少女で歪んだ性格の維積B(ブラック)と、抑圧された乙女心が表に表れるようになった維積W(ホワイト)の二つに人格が分裂していた。
 御堂と維積Bの二人にジャマされて、果たして新名と維積Wの恋は実るのか?

 コメディではあるけれど、桑田さんのマンガで恋の障碍となる条件はいつだってとんでもなくハードだ。これだって、「あなたは多重人格だとわかってる人を愛せますか?」って話である。後の『ほとんど以上絶対未満』じゃ、「女になってしまった親友を友人として遇せますか」なんてとこにまでモチーフが過激化していく。『だめっこどうぶつ』は「種の壁は越えられるか」ってことになるか(^.^)。
 言葉は悪いが、桑田さんは根にすごく暗いものを持ってる人だと思う。ドラマは人と人との葛藤を描くものではあるが、それにしても現実に置き換えたら(意外に現実にありえないことではない設定の話も多い)、登場人物たちにのしかかってきた問題の重圧はハンパなものではない。たいていの人間は、あんな環境に置かれたら、それに耐え切れなくなって、心が壊れてしまうのではないか。
 なのに、桑田さんのマンガのキャラクターはいつも前向きだ。御堂が新名をからかい、新名が御堂を拒絶し続ける様子ですら、「相容れない人間同士にも未来はある」と謳っているようである。
 「世の中、ツライことばっかだけど、でも生きてて悪いってほどでもないよ」。
 なんか言葉にはしてないけれど、そんな雰囲気が漂ってる感じがするのである。でもそれはこのマンガを最後まで読んでようやく、ああ、そうだったのか、と気付いたことなんだけどね。

 桑田さんのマンガの中でもこれは最初にして最大のヒット作で、CDドラマ化もされた。タイトルは『おそろしくて聴けない』(脚本・さらだたまこ)。でも多分もう絶版になってるだろうなあ。
 キャストは御堂維太郎に故・塩沢兼人、新名皐月に緑川光、御堂維積に宍戸留美、新名葉月にかないみかという布陣。塩沢さんはもう、御堂にピッタリとしか言いようがない好演だが、宍戸留美の二役ぶり(二重人格なのである)も意外にいい。ドラマ自体は、キャラクターの解説に留まっていて物足りない感が強いのが残念。

2002年10月01日(火) たかが賞金で金持ちにはなれない/アニメ『あずまんが大王』最終回/『西洋骨董洋菓子店』4巻(よしながふみ)
2001年10月01日(月) 貴公子の死/ドラマ『仮面ライダーアギトスペシャル』/『終着駅殺人事件』ほか
2000年10月01日(日) スランプと○○○の穴と香取慎吾と/映画『マルコヴィッチの穴』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)