無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年03月31日(木) お勤め最後の日。内容は特にない/能楽座福岡公演『能狂言』

 最後の出勤、と言ってもたいしてすることがない。
 女の子何人かとお喋りをするが、「せっかくお話できるようになったのに」と残念がられる。でも顔はそんなに寂しそうではない。しげとも知り合いの子なので、何かの折にまた会う約束をする。「しげさんと会うとコケたらはたかれるから怖い」とか言ってたが、確かに何もないところでコケることにかけては、天下一品な子であった。
 同僚何人かと挨拶をして別れるが、玄関を出がけにトンガリさんとすれ違ってしまった。相変わらず目がイッていて不気味である。当然、挨拶はナシであるが、この人ともう関わらなくてすむかと思うと、こんなに心が軽くなることはない。


 大濠公園能楽堂にて、能楽座福岡公演『能狂言』。
 なんかむっちゃストレートなタイトルである。まあわかりやすいっちゃ分かりやすいけどな。演目は、梅若六郎・大槻文蔵による福岡初上演の能『泰山木(たいさんぼく)』、野村万作・萬斎親子による親子による狂言『川上』、梅若六郎・観世榮夫による能『竹』。
 桟敷自由席なので、開演の一時間前に入場する。舞台から間に指定席を挟んでかなり距離があるが、一応、ほぼ真正面の席に座れた。もっとも開演後にのこのこ入ってくるおばさんだの家族連れが多くて、やたら視界を遮られたが。
 歌舞伎も能も好きで、時間と財布に余裕があるならもっとあれこれ見てみたいのだが、1万2万は当たり前なんて料金では、ビンボー人は諦めるよりほかはない。ところが今回の公演は、これだけの一流の演者を集めていながら、わずか二千円(実はツテがあったのでさらに安かった)。どうしてこんなに安く公演できたのか、協賛がやたら入ったおかげなのか、事情はよく分からないのだが、こりゃもう見るっきゃないと何週間も前からウキウキして待っていたのだ。
 お客さんはたいていが能好きの老夫婦、という感じで、中には若い女性や親子連れもいるけれども、普通のカップルなんてのはあまり多くない。隣に座っていた女性二人連れも、ちらちら聞こえてくる話によると、萬斎さんの『間違いの狂言』(シェイクスピアの『間違いの悲劇』の翻案)を見て、興味を持ったものらしい。あれは異端で、今日のは普通の狂言だから、感じがかなり違うと思うんだが、つまんないとか思われやしないかなあと心配になる。他人のこと心配したってしょうがないんだけど、つい、ねえ。
 歌舞伎や能を古臭いもの、あるいは小難しいものだと考えて敬遠しがちな若い人もたくさんいるだろうが(いやもう私と同年輩でもそんなこと言うやつがいて悲しいのだが)、確かに詞章は古文だし謳い方も聞き取りにくかろうとは思うが、演者の仕草でどういう話なのか、見当はつくものである。それにたいていの能公演では詳細な解説や謡曲そのものがパンフレットとして配布されることも多いので、初心者でも鑑賞にたいした苦労は要らない。狂言はさらに解説要らずで、小学校の芸術鑑賞で狂言を見た経験のある人も多いと思う。
 ただ、能を楽しむためには、「微妙な仕草」を注意深く見ることが要求されるので、漫然とテレビを見るのに慣れたような人にとっては面白く感じられないかもしれない。それに、下手な演者がやると退屈なものにしかならない能も多い。「能ってよくわかんない」と仰る方にもお勧めなのは「薪能」(たきぎのう)で、これは篝火の下で夜間に行われる能である。本来はこれが能の普通の上演形式であった。揺らめく火に照らされた能面が、動かないはずなのにさまざまな表情を見せて一種凄絶ですらある。機会があったらぜひ見てみてくださいな。

 で、こんな前置きばかりダラダラ書くから日記が無駄に長くなる(苦笑)。
 『泰山木』はもともと世阿弥の作。現在は金剛流の『泰山府君』としてしか残されていなかったものを、観世流の地謡の形式で復元したもの。散りゆく花の延命の儀式の最中に花を手折った天女を、泰山府君が諌める話。
 「泰山府君」とは人間の寿命を司る山神であるが、名前の通り、ルーツは中国である。伝説によれば吉備真備によって賀茂家、続いて安倍家に伝えられ、陰陽道の祖神として祀られるようになったという。普通、「たいさんふくん」と読むが、舞台では「たいざんぶくん」と発音されていた。通常、二項対立で描かれることの多い天女と人間という関係の中に、裁定者としての泰山府君という「神」が介入してくる図式が面白い。ここでは天女も人間と等しく、花の美しさに惑わされて一枝盗んでいく。「花折」は能狂言の重要なモチーフの一つであるが、たいてい犯人は世俗の数寄者であるのが、ここでは天女。天女も魅了されるほどの花の美しさ、という逆説的な表現でもあろのだろう。
 「羽衣」でもそうだが、天女は決して至高の存在ではない。自身の煩悩に惑わされている点では怨霊に一脈通じてさえいる。天女が至高の存在でないのと同様、天上もまた地上を統べる万能の空間ではない。泰山府君の「天井にてこそ栄華の桜」との言葉とは裏腹に、手折られた花の命を永らえさせる力とてないのである(これはつまり天女の邪な心故にであろう)。しおれた花を持って泰山府君に声もなく差し出す天女の嘆き。もはやそれはただの「女」の姿である。
 能が多く現世ならざるものを扱うのは、現代人がファンタジーを好む感覚に通じるものがある。日常と非日常の交錯、異界の住人はマンガや小説中にゴロゴロしている。しかも「人間臭い」ところまで同じだ。『ああっ女神さまっ』の原点として楽しめば、能の世界も面白く鑑賞できまいか。……ってこんなこといつたら真面目な能のファンから怒られちゃうかなあ。

 狂言『川上』はもちろん万作・萬斎親子の絶妙な芸で客席の笑いを取っていたのだけれども、物語自体、みょうちくりんなものである。めくらの夫が川上地蔵の霊験で目が見えるようになる。ところが地蔵は夫に「妻とは悪縁だから別れよ」と告げる。妻がそんなムチャクチャなことを言う地蔵がどうして仏なものかと夫をなじるので、夫はつい「分かった、別れない」と答えてしまう。途端に夫の目は元通りのめくらに。
 昔の人が信心深かった、というのはまあ半分は本当で半分は嘘だろう。現代人も結構たくさんの人が占いだのシューキョーだのに引っかかっちゃってるのを見れば、人間のメンタリティなんて時代が進歩しようがたいして変わりゃしないのだということがよく分かる。昔の人にだって、現代人に通じる合理的精神の持ち主はいたわけで、人間を勝手気ままに幸せにしたり不幸せにしたり、そんなもんが「神だ仏だと言えるか」と憤慨していた人は当然いたのだ。手を取り合って橋掛かりを歩いていく夫婦の姿を見ながら、『川上』はまさしく「信仰の否定」の物語なのだなあと感嘆した。であって、しかもそれは「たとえ仏に本当に神通力があろうとも、そんなものは拒絶する」という強い意志がそこにあるのである。
 『竹』を見てるときはかなり体調が悪くなっていたので、印象が薄い。萩原朔太郎の詩を謡曲に仕立てたということだが、どういう趣向がよく分からなかった。やっぱ能波田一様が万全のときでないと集中しては見られんわ。

 観劇中に小さな余震が二度ほど。体感では震度1くらいか。しげが後で「揺れた?」と聞いてきたので「もちろん揺れたとも」と答える。別に威張っていうこたない。
 もうそろそろ余震も終わるんじゃないかと思ってたところにこれだから、断層野郎も相当しつこいのである。公演が中止にならなかったのが不幸中の幸い。

2004年03月31日(水) 人の噂は何十年。
2003年03月31日(月) メモ日記
2001年03月31日(土) 藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか


2005年03月30日(水) 地震話はこのへんでオワリ/映画『ニューヨークの王様』

 しつこいくらいに福岡県西方沖地震関連のニュースを取り上げていますが、こりゃもう前にも書いたとおり、地震直後からネット上の日記などを見回ってみて、「被災者である福岡市民自身が『たいしたことない』と感じてる状況じゃ、あっという間に風化しちゃうなあ」と思ったからでして。そりゃ人の意識の変遷なんてものは止めようもないものなんでしょうが、なんかその「忘れ方」があまりにも能天気なもんでねえ。

 地震も火事も台風も水害も「なんちゃない(=何ほどのことでもない)」ってのが福岡人・博多人気質であって、ちょっとやそっとの不幸なんざ平気の平左、逆境に負けない打たれ強さを持っているのだ、と、好意的に解釈できないわけではない。しかし、市民も行政もそう思って「オワリ」なら、今後の災害対策なんてマトモに立つはずがないのだ。「何事も前向きに考える」ことは別に問題ないが、だからと言って何についても「無自覚で無神経」であっていいわけではない。
 何日か前の日記ではかなり悲観的に、どうせ市民の防災意識なんて上がりゃしないだろう、と予測したのだったが、早くもそのことが証明されてしまった。
 昨日までに読売新聞が福岡市民に対して行った地震についてのアンケートによると(サンプルは150人)、「地震発生後も何の対策も取っていない」と回答した人が45.3%にも上っている。
 その理由をさらに質問したところ、曰く、
 「もう地震は起きないと思う(44.1%)」
 「何をしたらいいのか分からない(17.6%)」
 「被害がなかった(11.8%)」
 「これからやろうと思う(10.3%)」
 「必要性感じない(4.4%)」
 「とりあえず避難所に行けばいい(4.4%)」。
 というテイタラクである。
 「なんだ? この危機意識のなさは? 本当にこれが被災地の人の感想か?」と疑問に思われた他地方の人も多かろう。このアンケート、決して地震の被害の少なかった郊外で取っているわけではない。今もなお危険地帯だと言っていい、警固断層、宇美断層のある福岡市東区、博多区、中央区、早良区、西区で行っているのである。言わば、目の前に倒壊しかけたビルのある前で質問した結果がこれなのだ。
 多分、他地方の人から「嘘つけ」と言われることを承知の上で「真実」を語らせていただくが、福岡・博多の人間のポジティブシンキング・前向き思考は、マンガのキャラクター並にファンタジック・非現実的なのである。さながら金田一蓮十郎の『チキンパーティー』の「トリさん」のように無意味に明るく、映画『ブルース・ブラザース』で、ブルース兄弟がロケットランチャー食らって瓦礫の下に沈んだにもかかわらず、何事もなかったかのように立ち上がってくるようなもので、どんな災害が来ても「今、何かあった?」ってなものである。
 これは比喩でもなんでもない。地震直後にこれを地震だと認識できなかった人はアンケート結果では21.3%に上り、福岡人の鈍感ぶりを示している(予め言っとくが、いくら福岡で地震が少ないといっても皆無なわけではなく、気がつかなかったというのは相当な鈍感なのである)。
 じゃあ、何だと思ったかというと、これがまあ、なんと言うか、コメントに困るような回答が多々寄せられているのである。……ちょっと代表的なものを羅列してみよう。
 「外で車がぶつかったと思った」
 「家に車が突っ込んだ」
 「飛行機が墜落した」
 まあ、この辺はまだ、「何かの事故だ」と判断したということで、錯覚こそしているが危機意識があったと言えなくもないが、問題はこれからである。
 「人がたくさん走っていると思った」
 どれだけの人が走ったら地面がそんなに揺れるのだ。マラソン大会どころの話じゃないぞ。誰か「トリビアの種」に送って実験してもらってくれ。仮にそうだったとして、そんなに大量の人間がなぜ走ってるのかも謎である。
 「誰かに後ろから押された」
 揺れてるのが自分だけならそうだろうけど、周囲は見えてなかったのか? この人、家の中にいたのか外にいたのか。外ならまだしも、家の中でいきなり人を突き飛ばされるって、誰がやったのだ。
 「2階で弟が暴れ出した」
 あんたの弟は何者だ。デビルマンか。
 こんなふうに答えた人、別にお年寄りでボケてるわけではなくて、二十代の女性だったりするのである。もうこうなってくると、笑いの対象にしかならない(新聞記者は明らかにここで「笑い」を取りにいっているが、冷静かつ客観的であるはずの新聞記事ですら「オチ」に使われてしまう福岡人っていったい……)。いや、それどころか、ネットで地震当日に日記を散策してみたと書いたが、その中には「いつ地震があったんですか?」と書いていた「福岡市民」が、本当に何人もいたのである。
 無謀を無謀と自覚してないやつ、一般的な常識とあまりにも乖離しているやつ、そもそも鈍感で何も考えてないやつ、やっぱりどう贔屓目に見てもただの「ばか」なのだが、その「ばか」が大量にいれば、そっちのほうが博多では「常識人」になるのである。
 博多弁では、こういう人たちのことを「おおまん」とか「おおまんたくり」とか言うのだが(古い人は擬人化して「大野万太郎」とか「大野万次郎」などとも言う)、何事も大雑把で適当、けれどそれを欠点だと責めるのではなく、「あん人はおおまんやけん、しょんなかたい」と許してしまうのが博多人気質なのである(ちなみに「おおまんさん」がさらに度を越してしょっちゅうぼーっとして心ここにあらずな状態になると、「夢野久作さんのごたる」と呼ばれることになります。幻想作家の夢野久作はここから名前を取ったのですね。この名前は俳優の嶋田久作にも受け継がれています)。ある意味、そういう「非常識人」のほうが多ければ、細かいことで人と人が衝突することもなく、トラブルが起きにくいとも言えるのだが、普通の人間がそこに混じれば逆にイライラさせられることも多かろう。なんたって、仕事が全然進まない、ということもしょっちゅうなのである。
 先ほども書いたとおり、こういう博多人の鈍感さも、ちょっとした困難にぶち当たっても全然めげないんだなあ、と好意的に見ることもできないではないのだが、「おおまん」ぶりが、実際の行政にまで蔓延してしまっていては、許せる範囲にも限度がある、と言わざるを得ないのである。福岡という都市の一大欠点は、そういった公的な仕事まで何度司直の手を煩わせても改善される気配がない、という点にあるのだ。「日本のゴッサム・シティ」と言われても、確かに反論できない面があるのである。
 細かい仕事、きちんと積み上げなければならない仕事まで「うだんしか(=鬱陶しい)」「しろしか(=面倒くさい)」「せからしか(=うるさい)」と言って放棄する癖が、福岡人・博多人の多くにある。公金横領とかカラ出張とか、警察、教育庁ほか、官公庁の不正がやたら摘発されるのも、「これくらいよかろうもん」といういい加減さが身に染み付いているのだ。警察の仕事も穴だらけで(警察関係者に反論はさせんぞ。ホモオタさんからストーカーされるのを私ゃ警察から「どうにもできませんねえ」と言われているのだ)、ちょっと悪知恵を働かせれば、博多でなら完全犯罪はいくらでも可能なんじゃないかとすら思える。
 いや、昔ながらの博多人、商売人や職人は、ここまで「自分のことについて」面倒くさがってはいなかったはずなのだが。自分の好きな仕事には熱中するが、他人からの命令は極力嫌うという反骨的な博多人の気質を考えると、もしかして「サラリーマン」くらい合わない仕事はないんじゃないか、だから自然に仕事がいい加減になってくるのではなかろうか。案外この憶測、当たっているかもしれない。仕事しながら愚痴言う人、うちの職場にもやたらいるんだわ(私はこの日記では散々職場の悪口言っとりますが、実際の職場では黙々と与えられた仕事をこなしとります)。
 なんか福岡人・博多人がいかにダメかを縷々語っているようではあるが、もちろん、回答の中には「防災用品の充実」「家具止め」「高い場所のものを低いところに置く」「タンスの側から寝所を移した」「外出前にガスの元栓を確認する」と、対策を取るようになった人もいるのである。しかし、逆に「この程度のこともしてなかったのか」と考えると、やはり福岡人はあきれた連中なんだな、と捉えることもできてしまう。どうしてそこまで安楽でいられるかと問われれば、「だって福岡の人間ってそうだから」と答えるしかない。夜郎自大というか、「根拠のない自信」が博多人の心の根底にあるのである。
 そう考えると、私は先祖代々の博多っ子ではあるが、通常の「おおまん」な博多人からはいささか“離れて”いる面がなくもない(それでも他県人から見ればかなりいい加減に見えるだろうが)。我が家でも、本の増加から高いところにも物を置かざるを得ない状況になっていたのだが、この夏に、部屋を大改造して対策を取ろうと、しげと相談していた矢先だったのだ。決して「地震なんて来るわきゃない」とのんびり構えていたわけではない。
 危急を覚えて対策を取ろうとしなかったのは、私が悲観主義的かつ運命主義的な人間で、「建物が倒壊するほどの大地震が起これば、どうせ死ぬしかない。生き残れたとしてもそれは運だ」と考えていたからである。別の意味で(人生そのものに対して)「おおまん」であったと言えようか。私よりも、もともと広島人であるはずのしげの能天気ぶりのほうが現代の博多人の気質に近いかもしれない。
 福岡人の目を覚まさせてやるためには、近いうちにもう一度デカイのが来て、それこそ万単位の人が死傷し住居をなくさなければダメじゃないかとも思うが、もちろんそんなことを本気で望んでいるわけではない。地震が来なけりゃ来ないで、福岡人の大半はいつまでも夢を見ていられるのである。そういう人たちはほっといて、せめて行政に携わってる人たちだけは起きててほしいものなんだけどねえ。


 しげも私も、体調は昨日よりは回復。
仕事帰りに博多みやげ物センターによって買い物をする程度には動き回れるようになった。けれどせっかく買った「だご汁」を作る元気はなくて、帰宅するなりしばらくは惰眠をむさぼる。明日は能を見に行くというのに、回復できるんだろうか。


 BS2で、映画『ニューヨークの王様』。
 チャップリン最後の主演作だけれども、公開当時の一般的な評価は他の作品に比べてかなり低かった。アメリカでは「反米的」と評されて(反米映画だから当然なのだが)配給拒否までされたので、酷評も当然だとは思うが、チャップリン大絶賛の日本でまで不評だったというのはどういうわけかなあとちょっと疑問に思う。アメリカのコマーシャリズム、赤狩りに対する批判が直接的過ぎて今ひとつ笑いに繋がらない、ということなのかもしれないが、日本もまた商業主義の道を歩んでいたわけで、それを揶揄されるのは気に入らなかったということもあるのだろう。
 小林信彦も「冒頭の『現代人の小さな悩みの一つに革命がある』というテロップも意味不明だ」とかなり手厳しくこき下ろしていたが、亡命した王族が共産主義者と間違われるというおよそありえない状況を描いた本作が、「民主主義」「自由主義」の名の下に行われる圧政に対する明確な批判として製作されたことは明らかなので、「革命」とは単にシャドフ王の亡命の原因となったそれだけを指しているわけではあるまい。「革命熱」は世界各国に吹き荒れ、王政を次々と廃止させていったが、その結果、人民が本当に自由になったか、そのあたりを「小さく」皮肉っているのである。もともとチャップリンが「立憲君主国」であるイギリスからの移民であったことを忘れてはなるまいし、本作はアメリカ追放後、イギリスで撮影されているのである。もちろん小林さんはそんなことは分かった上であえて「意味不明」といっていたのだろうから、よっぽど本作が嫌いだったようだ。しかし、その後のアメリカの傍若無人な歴史を考えたとき、ストレートすぎる批判も笑えないギャグも必要だったのかもしれないとも思えてくる。
 放送ではメイキングでジム・ジャームッシュが本作を絶賛する様子が紹介されていた。製作後50年が経過しているが、再評価はこれからなのかもしれない。


 『TBSテレビ50周年 あなたも歌わずにはいられない!! 昭和〜平成にっぽん歌謡50年全史』を謳わずにはいられなくなりながら見る。
 私の歌謡曲追っかけ歴史は80年代半ばまででストップしているが、逆にそれまでの主要か結う曲はほとんど歌えてしまうのが自分でも驚きであった。およそ柄ではない世良公則とツイストの『あんたのバラード』とか、もんた&ブラザーズ『Dancing All Night』までフルで歌えてしまうのだから(上手い下手は別)、ムカシの人間がどれだけ「歌は世に連れ世は歌に連れ」な生活を送っていたかが実感できるのである。もちろん山口百恵もピンク・レディーも堀ちえみも。松坂慶子の『愛の水中花』なんて、思いっきり切なげに歌えちゃうのだ。いや、そのケがあるわけではなくて、ヒット曲というものは老若男女を問わず歌えていた時代が、80年ごろまでには確実に続いていたのである。今思い返すに、ヒット曲が一部のマニアのものになっていく分岐点は、やはりアイドル全盛の時代、松田聖子、中森明菜あたりのヒットを経てからであった。あのころ父が松田聖子の歌を聞きながらしょっちゅう「どこがいいのかさっぱり分からん」とボヤいていたのを思い出す。
 いくらミリオンセラーが出るようになっても、若い人の間だけで流行っていて、オヤジやオバハンはまるで知らない曲なんてのは、本当の意味でのヒット曲とは言えない。そういった意味でのヒット曲は、今や壊滅していると言っていい。世代間のギャップが激しさを増しているのは、「共通の歌を知らない」点も大きいのではないか。いや、オジサンやオバサンはね、その気になれば、あゆだろうがモー娘。だろうがいい曲だと思えば歌えるんだよ。そういうのも「気持ち悪くなかった」時代に生きてたんだから。
 だからしげに「やっぱり『ザ・ベストテン』は復活しなきゃダメだ」と熱弁を振るったのだが、どうも今ひとつピンと来ないようである。一つの曲が世代間を越えて流行るためにはやはり媒体というものが必要で、それは『ミュージックステーション』のようなただの歌番組ではダメなのだ、『ザ・ベストテン』の「視聴者投票によるベストテン選出」が、どれだけ歌手と視聴者の距離を卑近にしてくれたことか(好きな歌手でもヒットしてないと出演できないという弊害はあったが)。
 あれだけのエネルギーを費やした歌番組はもう作れない、というのが悲しい。それは、一つの歌が一つの時代を象徴することなどなくなってしまったことをも意味するからである。

 『BSアニメ夜話』、今晩は『新造人間キャシャーン』であったが、タツノコ作品にはあまり思い入れがないので(でも全部見てたけど)、話を聞いていても「ふーん、そう」ってなもの。アメコミ調のバタ臭いキャラクターデザインだと、女の子が全然かわいく感じられないんだよねえ。まあまあ好きだったのが『タイムボカン』シリーズくらいなもので。そういえば最近タツノコはどんなアニメ作ってるんだ?


 四月公開予定のシリーズ第13作、『映画クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』に、波田陽区と坂井真紀がゲスト声優として出演とか。波田陽区は怪獣役ということだけれど、エフェクトかけずにそのまんまの声でやれそうだってことでの起用だろうか。
 だいたいどの劇場アニメでも、こういう歌手とかタレント、普通の役者をゲストに呼んだ場合、ちょっとじゃまっけと言うか、はっきり言えばなんでこんなど下手糞なやつを使わなきゃなんないんだよ、という印象が強くて、腹が立つことが多い。もちろん、ちゃんとした「役者」として呼ばれた場合は別なのだけれども、客寄せパンダなのだなあというのがミエミエなのはもう、映画自体を抹殺したくなることもあるのである。誰とは言わんが、政治家兼作家の弟が出演して、それがそいつの映画での遺作になっちまったってやつとかな(笑)。
 『クレヨンしんちゃん』もしょっちゅうゲスト声優が出演する。小宮悦子とか雛形あき子とかIZAMとかコサキンとか遠峯ありさ(笑)とか。しかし『クレしん』がすごいのは、そんなタレント声優でも、ちゃんと役者として演技できる人はきちんと優遇して使い、ど下手なやつは、まさに色物として“いじる”ことである。『戦国大合戦』の雨上がり決死隊などは、ちゃんと役者として膨大な量の台詞をこなしていたが、宮迫博之のその後の役者としての活躍を見れば、原恵一監督の先見の明は大絶賛されてしかるべきだろう。
 新作映画の監督は、四代目で今回が初監督のムトウユージ氏。勝手な予測だが、波田陽区は色物で、坂井真紀は役者として起用したと見た。いつも“いじる”側の波田さんが、どんなふうにいじられるのかが今から楽しみである。もちろん前売り券はとうに買っておりますとも(笑)。

2004年03月30日(火) ポエムは人生を語る。
2003年03月30日(日) メモ日記
2001年03月30日(金) シラフでも酔える夜/『怪奇探偵小説傑作選2 横溝正史集/面影双紙』


2005年03月29日(火) 再び地が震える日/『BSアニメ夜話/クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』

 福岡県西方沖地震発生後そろそろ10日が経とうとしているが、九電記念体育館では今なお玄海島の人々が避難生活を送っている。一時的な避難にしてはこの10日ってのはちょっと長すぎるのではないか、疲労で病気になる人も増えるのではないか、と思っていたら、案の上、住民の間で風邪やインフルエンザが流行り始めたらしい。28日夕までに、風邪や体調不良を含めて12人が市内各地の病院に入院したとのこと。市や診療所が「見舞いに訪れた人が感染を広げる恐れもある」として、見舞いを控えるよう呼び掛けているということだが、みんなで集まっていても孤独だと言える島民の人たちに、見舞い客すらシャットアウトする事態を招いたというのは、これも行政の不手際ではないのか。
 だいたい地震に限らず、福岡の防災対策が不備だらけなのはもう何度も指摘されていたはずだ。それなのに、県も市も何の対策も取ってきてはいなかったのである。ここ5年の間に二度も市内が水害に見舞われ、死者も出したというのに、市の防災担当者は「今後の対策は?」の質問に対して堂々と「何もできません」と言ってのけた。この無能ぶりはいったいなんだ。何が百万都市だアジアの玄関口だ。ただの田舎者の集まりではないか。確かに、福岡がもう開発の限界に来ており、河川の整備や避難のための土地施設の確保もできない、という事情は分かる。しかし、そこを何とかしなければならないのが「行政」というものだろう。つか、それができないのなら公務員はただの給料泥棒の集団でしかないではないか。被災状況によっては救急病院や民間施設も利用できるようにしておくとか、「被災者を体育館に閉じ込め」なんて状況は、本来なら回避できたはずなのである。
 もうはっきり言っちゃうけど、人口に対する福岡の病院の数ってのがそもそも少なすぎるんである。総合病院の類は通常時でも待ち時間が二時間は当たり前なんだから。けが人が運ばれた病院は千鳥橋病院と原三信病院の二箇所に集中していたが、つまりはこの二つ以外にたいした病院がないということなのである。少子化だなんだといいながら、福岡への人口流入は未だに増え続けている。こないだの町内会でも「小学校を増設しないと子供を区域外にやらなければならない」なんて議案があったくらいだ。本来、博多・天神区域にあと二、三軒は総合病院があってしかるべきではないのか。でなきゃ人口の郊外への分散化を図るくらいの措置を取らないと、もう福岡・博多はパンク状態であろう。

 ここんとこ地震のことばかり日記に書いてきたけど、スマトラ沖でまた地震に津波。日本人の犠牲者もかなり出たらしい。危ないとわかっていて、また観光に出かけた人もいたということである。「まさかまた地震が来ることはないだろう」と誰もが思う。それが「油断」だ。しかしその油断を責めることなどできはしない。それがやりきれない。


 夕べカメの水槽を掃除するときに、玄武をつかまえたときに小指を噛まれてしまった。いつもは背後から捕まえるのでそんな目に遭うことはなかったのだが、目がかすんでいたのでつい持ち間違えたのである。そういうときでも竜宮はおとなしく首を引っ込めているのだが、玄武のほうを持ってしまったのも運が悪かった。あわてて引っ張れば肉を食いちぎられるのは分かっているので、水の中にしばらく漬けていたら、一分ほどで口を離した。それでも傷口はずきずき傷むので、絆創膏を貼っていたのだが、亀の毒でも回ったのだろうか、今朝になって、熱発して寝込んでしまった。
 いや、ホントはしげの風邪が移っただけだろうが、タイミングが合ってしまったので、亀にやられたような気分になったのである。でもまあ亀を飼ってるみなさんには充分注意していただきたいが、どんなに可愛くても、亀に人の心は通じないので、感情移入しすぎるのは禁物なのである。だいたい私としげの個体認識だってできちゃいないだろうからな。
 転勤のため仕事が全くなくなってるので、欠勤しても迷惑かけずにすむのが不幸中の幸いである。一日泥のように眠っていたので、あの眠り女のしげから「よく寝たね」と言われてしまった。ホントに昼間、10時間以上寝ていたのである。


 それでも夕方には目が覚めて、テレビを漫然と見る。CSで『ちびまる子ちゃん 私の好きな歌』など。
 なにかのバラエティ番組で、細木数子が和田アキ子や出川哲郎になんか説教してるのを見てたら、しげから「何で細木数子とか見てるん?」と驚かれた。別にテレビを点けたらかかってただけのことで、意味があるわけではない。なんか、私が世をはかなんで占いに走ったかのように思われたらしい。んなわけあるかい。

 夜11時から、、昨日に引き続き、NHKBS−2『BSアニメ夜話』。今夜は待ってましたの「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」。ある意味、『クレヨンしんちゃん』、特に劇場版を好きか嫌いかで、アニメファン、オタクの「派閥分け」ができる指標でもある。嫌いな人、興味がない人は私の日記なんか見ないでよろしい。そういう人たちにとっては私の文章は不快なだけであろう。
 『クレヨンしんちゃん』に限らず、テレビアニメシリーズの劇場版が製作されたときに、元のシリーズと比べてまるで趣の違った作品に仕上がることはままあって、それがすごい傑作になってたときには、かなり物議を巻き起こすことになる。
例えば、本番中でも指摘されていた『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督)、あるいは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守監督)、近作では『ONE PIECE THE MOVIE 〜オマツリ男爵と秘密の島〜』(細田守監督)などが挙げられるだろうが、おそらくそういった「テレビシリーズとの乖離」において最も激しいのがこの『オトナ帝国』だったのではないかと思う。
 もちろん私に限らず、『クレヨンしんちゃん』の劇場版シリーズに初めから注目していたアニメファンはたくさんいたわけで、「『クレヨンしんちゃん』はすごいよ!」とコトあるごとに力説していたのだが、まあまともに相手にされることはほとんどなかった。だから逆に、『オトナ帝国』で初めて『クレヨンしんちゃん』の魅力を知りました、なんて言ってる人間を、私はマトモなアニメファンとは認めないのである。
 しかし、長年の「クレしん」ファンであった身であっても、『オトナ帝国』の異端ぶりには度肝を抜かれた。そのへんの事情を語りだすときりがないので、私の昔の日記とか読み返してください。
 いったいこれが誉め言葉になるかどうかは分からないが、番組中でも国生さゆりが言っていたように、「『クレヨンしんちゃん』なのに泣ける」という異常事態が、映画を見たイイ年をした大人の間で蔓延していったのである。
 番組中で、岡田斗司夫、唐沢俊一両氏は、露骨に「この映画について一番深く分かっているのは自分だ。自分だけがしゃべりたい、他人にはしゃべらせたくない」ような態度でいたが、もはや「古狸」の域に達しつつある両氏にまでそういう大人気ない自我肥大の態度を取らせてしまうほどに、この映画には「オタク第一世代」の魂を直撃する要素がてんこ盛りであったのである。
 いやねえ、我ながら困ったもんだと思うのは、立川志らくさんの言に対して、岡田さんが「違うな、違うな」と突っ込んでるのに対しても、「それも違うな」と突っ込み入れたくなってしまうことである。岡田さん、唐沢さんが指摘する言葉を聞くたびに、「それは見方が甘い」とか「それだけじゃない」とか思ってしまうのだが、たかが一時間の番組で「オトナ帝国」の魅力を説明しきれるはずもなく、パネラーの皆さんもそれぞれに「語りつくせていない」感が当然あるはずなのに、そんなふうに思ってしまうのは、やはり自我肥大を起こしてしまっているのである。そういう文句のつけ方は自身の傲慢に無自覚なただの難癖でしかない。
 「自分が最良の理解者」(文学の分野では特に太宰治ファンの女性にこの傾向が強いので、「ダザイ現象」と呼んでいる。SF界では一時期そういうのは「ゲンマ」って言ってたな)という思い込みを持つことは、自分がただのファンではなくて客観的な批評者たろうとするのであれば最も避けなければならない基本事項なのだが、『オトナ帝国』にハマッた人々は、これが『エヴァンゲリオン』のような社会現象を生むにまでは“至らなかった”だけに、かえって思い入れの度を強くしているように思う。
 だもんで、「オトナ帝国」ファンは、志らく師匠が「この映画を本当に見てもらいたいと思ったら、国生さんのような普通の人が勧めるのが一番いい」と仰ってたのを肝に銘じていたほうがいいだろう。一人よがりなオタクの言なんて、世間一般にはなんの波及力もないのである。……でも言いたくなるのがビョーキなんだけどねえ。

2004年03月29日(月) また訃報。立て続けだとちょっとツライ。
2003年03月29日(土) メモ日記
2001年03月29日(木) 血の収穫/ドラマ『六番目の小夜子』ほか


2005年03月28日(月) 気持ち悪い話(笑)/『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』(稲葉振一郎)

 しげの病状、さらに悪化。
 ともかく「気持ち悪い」を繰り返すばかりで、食事も喉に通らない。ともかく医者に行くように言い置いて、今日は職場へはタクシーで。
しげは結局、病院で点滴を打ってもらったようである。これまでさして健康面では特に悪いところのなかったしげだが、検査の結果では肝機能が悪くなっていたそうだ。
 しげも酒は全くやらないので、これはもう「肉」のせいだろう。これで「肉しか食わない」生活がどれだけ体によくないかいくらバカなしげでも理解したとは思うが、でもだからといって抑制が利くような性格ではない。つか、我慢がストレスに直結するもんで、食わないでいれば食わないで心と体のバランスを崩すのである。……どうしようもないじゃん。
 食事も喉に通らないので、しげはウィダーインゼリーでの食事。私は自分でスパゲティを作ったら、「油の匂いが気持ち悪い」と言われた。そこまで油使ってないのに、かなりひどい状況なのである。


 夜、NHK『BSアニメ夜話』「新世紀エヴァンゲリオン」。
 冒頭で「10年経ったら冷静に討論できるのではないか」という視聴者からのメールが紹介されていたが、滝本竜彦を呼んだ時点でそりゃ無理だったんじゃないか(苦笑)。編集でかなり“見られる”レベルにしてはいたが、かなり会場の雰囲気は重かったのではないかと想像される。
 『エヴァ』にどっぷりハマッてしまって、心ここにあらずになってしまった人というのは、私もホモオタさんという実例を身近に知っているので、滝本さんの言動を見ていると、なんだか暗い気分になる。一歩間違ったら自分もああなりかねないと思うと、ああいうのめりこみ型、思い込み型の人を笑い飛ばせないんだわ。岡田斗司夫さんも唐沢俊一さんも、実にしゃべりにくそうであった。
 肝心の論争も、説明のための説明に堕している部分が多々あって、例えば「『エヴァ』は『文学』でありまた『エンタテインメント』であり」といった言葉の使い方についてはかなり乱暴で、文学研究者から見ればあまりに無知な言に聞こえてしまうと思われる。じゃあ『文学』って言葉をどう定義してるんだよ、と突っ込まれかねないのだが、これは視聴者のレベルを想定しての故意の用語なんだろうね。視聴者をバカにしているようだが、まあホントにバカなのでこれは仕方がないのである。結局ここでは、「文学」とは「なんか難しいことを作者が内省してるもの」、「エンタテインメント」とは「お客さんを喜ばせるもの」と、単純に作り手のベクトルが内外のどっちに向いてるかという点でのみ解釈すればよいようになっているのだが、本来「アニメで文学をやるというのはどういうことなのか」まで、もうちょっと突っ込んでしゃべってくれないと、あまり意味のある話にはならないのである。
 宮村優子の「気持ち悪い」エピソードは前にも雑誌で読んだことはあるが、より詳しくて楽しかった。いや、よくぞ放送したものである。すごいぞNHK。


 稲葉振一郎『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』。
 「どうせ藤原のことだからこれは買って読んでるだろう」という声がどこかから聞こえてきそうだが、そりゃ買うよ。買わいでか。
 いやね、最近読んだ本の感想、全然書いてないから(だから書き出したら止まらないのである)、これも書くのどうしようか迷ったんだけれど、やっぱりSFファンにはビッグ・ネームである長谷川裕一が、一般のマンガファンには今ひとつ知られていない、というのが悲しくて仕方がないからだ。
 長谷川裕一が「スペース・オペラ」「タイム・トラベル」といったSFの古典的モチーフを大河ロマンとして描いて来た唯一無二のマンガ家である、という作者の主張には、「ほかにもいなかったかな?」と思いはするが、長谷川裕一のマンガ作品がどのように生み出されてきたか、そのルーツとなる文化背景としてのSF作品、それこそ海外日本を問わず、小説、映画、マンガの歴史をたどりつつ詳述していく姿勢は好ましい。文化を無視した単独の作品論、作家論というものはただの個人的感想にしかならないからである。
 『スター・ウォーズ』が『スペース・オペラ』と言いつつも、実は宇宙を舞台にした御伽噺でしかなくなっていることはもはや明確な事実であるが、長谷川裕一の『マップス』は「寓話」となる寸前で「SF」として成立していると作者は主張する。そんなのどっちでもいいじゃないか、という反論はあろうが、その違いは、長谷川裕一マンガの魅力はSF性にこそあり、と信じている読者にとっては重要だろう。「神とは何か」というSFのテーマをただの「寓話」として終わらせるか、科学的可能性としての「未来」として受け取るかは、そのベクトルが全く違う。
 種々雑多な宇宙人が登場する銀河世界など、現在ではほとんど荒唐無稽な域の物語であるし、私は別に「寓話」でかまわんと思う。人間であれビメイダー(人工生命)であれ、自意識(心)を持った存在が、そのアイデンティティーを「心があること」に求めるというのは、循環論法であり、証明不能な「コギト・エルゴ・スム」の哲学の課題でしかない。しかし、現代では「SF」は「寓話」としてしか語りえないのではないか。科学もまた本質的には哲学であり神学の範疇にあるのであろう、というのが私の現在のSF観である。
 もちろん私は稲葉氏の論が間違っていると言いたいわけではなく、長谷川裕一作品が、「SFマンガ」を考察したい人のための格好のテキストである、という作者の基本的姿勢は多くの人に共感を持って受け止めてもらいたいと思うのである。

 本の内容からちょっと離れて、これは私の推理、というよりは勝手な憶測なのだが、石森章太郎が『サイボーグ009』を完結できなかったのは、長谷川裕一の存在があったからではないか、と想像しているのである。長谷川さんの『マップス』が連載されたのは『SFアニメディア』(後に『コミックNORA』と改題)の創刊号からだが、これには『009』最後の長編「時空間漂流民編」も同時連載されていた。
最初、編集部は、『009』完結編「神々との戦い編」の連載を依頼したという。それに対して石森さんは「まだ準備が整っていない」と断ったという。ではなぜ、「漂流民編」が終了した後、完結編に着手しなかったのか。『NORA』は長いこと「時空漂流民編」の権利を他社に渡さなかったし、当然その「席」を用意していたはずなのだが、結局、完結編は描かれることはなかった。
 これは、同誌に連載されていた『マップス』を石森さんが読んで、「しまった! 先を越された!」と思ったんじゃないかというのが、私の憶測なのである。
 「神々とは何か? 地球上に残るさまざまな不可解な遺跡、ピラミッドやモアイ像などなどの探索から人類発祥の謎を追い求め、その果てに『創造者』としての“神”とサイボーグ戦士たちが対峙する」というのが「神々との戦い編」の基本ラインになるはずだったことは今ではよく知られている。
 しかしそれは、「宇宙に残る伝承を辿って、この宇宙発祥の謎を追い求め、その果てに創造主たる“神”と対峙する」という『マップス』のストーリーラインとそっくりなのである。しかもスケールは長谷川さんのほうがはるかに大きい。結局は「専守防衛」で内へこもって終わりそうな『009』に対し、『マップス』は銀河障壁を越えようという、外へ外へと広がっていく物語だった。
 「009」をライフワークと任じ、自身の最高傑作であるのみならず、日本SFマンガの最高峰にしたいと望んでいたと思しい石森さんにとって、『マップス』ショックは相当なものだったのではないかと思う。『マップス』を超える作品を描かなければならない。しかしそのプレッシャーがどれだけ大きいものか、これは『マップス』を読まれた方ならばすぐにご理解いただけると思うのだが、日本におけるスペース冒険ファンタジー作品としては、『マップス』を超える作品は空前絶後なのである。最高傑作を超える最高傑作なんて、いくら石森章太郎でも無理というものである。
 石森さんは悩んで悩んで、結局、描けなかった。膨大なメモだけは残っているようだが、完結を約束された息子さんたちも、それを「傑作として」纏め上げることは不可能なのではないかと思う。残念なことではあるけれど。

 関係ないけど巻末の「長谷川裕一作品リスト」、『ハイスピード・ジェシー』が載ってないなあ。ああ、あれは双子の弟さんの「長谷川裕二」さんの作品だったか(笑)。

2004年03月28日(日) 夢の中では生きられない。
2003年03月28日(金) メモ日記
2001年03月28日(水) 悪役NO.1/映画『隠密剣士』/『名探偵コナン 科学トリックBOOK』ほか


2005年03月27日(日) オウムが来りて……何をする?/ドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』

 今んとこ一回も見逃してないぞ、の『仮面ライダー響鬼』九之巻「蠢く邪心」。
今回の妖怪(魔化魍)は「オオアリ」。ムシ系は一話で土蜘蛛が出てきてたからインパクトが薄いなあ、こいつでまた二話連続の話だったら間延びしちゃうなあ、と思っていたら、ヒビキにあっという間に倒されてしまった。
 あれれ? と思っていたら、メインの妖怪は,イブキが遭遇する別のやつなのであった。姑獲鳥(うぶめ)か大首か、これまでの「猛士」のデータでは判断がつかない(どうやら「おとろし」らしい。予告編を見る限りデザインはでかいサイだが)新妖怪。レギュラーが増えて、そろそろ新展開が必要じゃないかと思っていたところだったのだが、設定も構成も少しずつ複雑になってきている。
 その反面、明日夢がなかなか猛士V魔化魍のメインストーリーに絡んでこないのが気になる。いや、常識的に考えればただの高校生をそんな危険な運命に巻き込んでいくことは極力避けるのが普通なのだが、それじゃドラマにならないから(笑)。でも昭和ライダーシリーズの少年ライダー隊みたいになっちゃっても困るし。ここは明日夢がとんなふうにヒビキの弟子になっていくか、その展開を見ていきたいところである。多少の葛藤はあっても、多分そうなると思うんだけどな。
 知ってる人はもう多いと思うが、明日夢君を演じている栩原楽人(とちはららくと)くん、島本和彦原作の映画『逆境ナイン』にもライト山下役で出演している。映画は多分つまらないと思うが、藤岡弘、と楽人くん目当てで、オタク諸君は見に行くように。全国ロードショーは七月からだ! 福岡じゃ「シネリーブル」での公開だからいつになるかわかんないんだけどなっ(涙)。


 町内会の総会があって、来年からうちが組長の当番が来るというので出席。収支決算だのなんだの、こういうのは退屈なだけなんで、居眠りしないかと心配していたのだが(実際、殆ど退屈なのだが)、会長さんが“あること”を口にして、いきなり眠気がすっ飛んだ。
 「昨年から、オウムの道場が町内にできておりますが……」
 もちろんこの「オウム」というのは「オウム真理教(アーレフに改称)」の支部のことである。10年前の事件当時は博多駅前にあったのが、その宇土枝クー気裏に引っ越したまでの情報は聞き知っていたが、まさか自分とこの町内に来てたとは。
 会長さんの提案は、来年を期して町内からの退去を求める委員会を設立したらどうか、ということだったのだが、10年前ならばともかく、旧オウム真理教の罪を認め、ひたすら謝罪と賠償を行っている現在ではかなり難しいのではないか。
あえて他人事のように言っちゃうけれど、オウム真理教が麻原彰光の「ポア」の宗教概念に則って、再び無差別大量殺人を行う危険性があるかどうか、それは年々低下してきていると考えざるを得ないのではないか。もちろん、だからと言って、住民の不安が解消されるわけではない。未だに地下鉄サリン事件の実行犯の一部が逃走中である以上、在野の信者が彼らをかくまっていないと断定することはできない。しかしやはりそういった「不安」も、結局は漠然としたものだとして、今後犯罪を犯すという確たる証拠とは認められないのではないか、ということなのである。
 私も正直な話、今はオウムよりも地震のほうが怖い。いや、未だにややヒステリックな感じで、オウムをいかにせん、とコブシ振り上げ力説する会長さんのほうが怖い。まあ仕事だから町内会の連絡とかはするけれども、あまりこういう人のいる総会とかには出たくないもんである。


 帰宅して昼寝をしたら、変な夢を見た。しげが自分の日記にも書いていたが、「生きた雪ウサギ」を飼っている夢である。
 ウサギは二羽いて、名前はジャニスとケン。生きてはいるのだが、この二羽、雪ウサギだから動かない。でも生きてる限りは自分の見てないところでは動いてるんではないかと思って、ちょっと離れたところにジャニスを置いていたら、いつのまにかいなくなってしまった。「ジャニスー、ジャニスー」と声を掛けて探していたら目が覚めたという、特に面白くもない夢だった。
 けれどもどうやら、寝ぼけて夢の様子をうわごとで実況中継していたらしく、それがおかしかったのでしげは日記に書いたらしい。相変わらず意味不明な文章になっているので、注釈をしておきます。



 WOWOWドラマ『巷説百物語 孤者異(こわい)』。
 以前、『巷説』を『京極夏彦 怪』と題して四話ドラマ化したのもWOWOWだったけれども、そのときとはスタッフ、キャストを一新している。監督は酒井信行から堤幸彦へ、小股潜りの又市は田辺誠一から渡部篤郎へ、山猫廻しのおぎんは遠山景織子から小池栄子へ、考物の百介は佐野四郎から吹越満へ、事触れの治平は谷啓から大杉漣に交代。ストーリーも前作とのつながりはなく、百介は今回の事件で初めて又市たちと出会う設定になっている。
 意外に気が付かれていないようだが、『巷説』シリーズは立派な「本格探偵小説」である。不可解な謎は提示されているし、それを解き明かすためのヒント、伏線はちゃんとあるし、それが論理的に解かれもする。
 印象としては闇を扱いながらも華やかな印象のあった前シリーズに比べて、かなり暗く渋めのキャスティングになっていると思う。だからと言ってつまんなくなったかというとそうではなく、ミステリーとしてのツボはやや外しはいるものの、キャラクターの魅力がドラマのうねりは充分作っていると言えるだろう。
 又市については、最初の田辺誠一はあまりにさわやか過ぎて、「小股潜り」の名にふさわしくない印象だった。アニメ版は又市本人が妖怪であるかのようなキャラクターデザインで、面白くはあるけれども完全に原作とは別物になってしまっている。映画『嗤う伊右衛門』の香川照之は薄汚れた小悪党の雰囲気でかなりイメージに近い。渡部篤郎もかなり「胡散臭く」てよいのだが、もう一つ「軽み」があればもっとよかったと思う。だいたい悪党というものは、どこかにふざけたところがないと辛気臭くなってしまうものだからだ。アウトローで世をすねちゃいるけれども、どこか底抜けな明るさがあって、それでいて全く逆の闇もまた背負っていて……なかなかに微妙な演技力を要するのである。一昔前なら、こういう役どころは砂塚秀夫やジェリー藤尾あたりが受け持っていたものだったが、最近ではなかなか適役な俳優さんを探すのが難しい。竹中直人ならソツなくこなしそうだけれど、何でもかんでも竹中さん、というのもどうか。今回の渡部さんはこれまでの演技の流れでそのまま流した印象があって、やや物足りない。できればもう二、三回は又市を演じさせて、役を深めてもらえたらと思う。
 大杉漣の治平には文句なし。キャストを聞いたときに一番不安だったのが百介とおぎんだったのだが、意外や意外、この二人の「距離感」が実にいい具合なのである。
 ラストシーン、二人の間の「敷居」を示すおぎんに対して、それを乗り越えることができずに黙りこくる百介。おぎんは何事もなかったように去るが、そんな彼女に又市は「忘れ物は?」と問いかける。おぎんは笑って「いけすかねえやつだよ」と笑う。このときの小池栄子の表情がいい。何か一つ吹っ切れたような、それでいて切ないものを少しばかり残しているような、幼いようで艶っぽいような、不思議な微笑である。遠山景織子のおぎんも素敵ではあったが、原作のイメージには小池栄子のほうが近いのではないか。
 堤幸彦作品は『ケイゾク』がまあマシだった程度で、正直な話、これまでは惨憺たる出来のものが多かったのだが、それは主に脚本の粗雑さによるものだろう。今回もとても江戸時代人とは思えないような台詞は多々あったが(同心が「過去形で言うなっ!」なんて近代文法の知識があるのはいくらなんでもちょっとなあ)、一応、ドラマとしての密度は高い脚本を与えられて、初めて時代劇を演出したにもかかわらず、あまり破綻のない出来栄えに仕立てている。それなりに「粋な」脚本なら、その実力を充分に発揮できるのだろう。


 しげ、体調崩したまま。風邪引いた上に薬が合わなくて「気持ち悪い」を繰り返す。どうにかしてあげようにもどうしようもないので、明日は病院に行くように言明するくらいしかできないのである。

2004年03月27日(土) 作りゃいいってもんじゃない映画だってある。
2003年03月27日(木) メモ日記
2001年03月27日(火) 今日も伏字、明日も伏字/『トランジスタにヴィーナス』2巻(竹本泉)ほか


2005年03月26日(土) パーセントの疑問/舞台中継『ロミオとジュリエット』(蜷川幸雄演出版)

 遅く起きた朝は『ケロロ軍曹』第51話「ケロロ小隊 撤退!さらばペコポンよであります」。
 いかにも最終回っぽいタイトルだけれど、土曜朝10時の時間帯での放送が今週で終わりってことで、来週からは金曜夕方6時のゴールデンタイムに移行するのである。つまりそれだけケロロ人気が沸騰してるってことなんだろうけれど、人気番組でも時間帯が動くと急激に視聴率低下、ということもよくあることなので、宣伝にはいっそう力を入れてほしいものだ。
 ただねえ、原作にもあったこの「さよならだけどさよならじゃなかった」パターン、もうこれまでのマンガ、アニメで腐るほど見せられてきてはいるので、せっかく30分一話で丸々見せようっていうんだから、もう少し工夫してほしかったと思うのである。ただのお子様向けアニメにならそんな期待は持たないんだけれど、パターンを踏襲しつつもそこに新しい一手を投じてきた佐藤順一監督作品だからね。
かつて関わりのあった人たちとの記憶も消去、というパターンも「またかよ」だけれど、単に使い古されているネタだからだってだけじゃなくて、地球征服をしようとしてる宇宙人がいちいち記憶消去をしなきゃならない意味なんてない。原作の段階からこれ「ムリだよなあ」と思ってたんで、いっそのこと省いちゃってもよかったんじゃないか。
 あと小ネタで、最初に出てきたケロロ上司は、『ウルトラセブン』最終回一話前第48話「史上最大の侵略(前編)」のセブン上司のパロ。40代にはオタクでなくても常識のこういう説明も、若い人には必要になるのである。やれやれ。姿はぼやけているけれど、つまりこの上司、ケロロと同じ姿をしているのね。と考えると、これが「決戦!ケロロ小隊24時」の「新ケロロ軍曹」の伏線になってるのかも? いや、そもそも「隊長としての資質を持っている=ケロロの姿」と考えることもできるわけで、ケロロ自体が上司の、あるいはそのまた上司の……なんて考えると、「SFだなあ」と思ってニヤリとしたくなる。
 あ、それから今更だけど、原作の第50回小学館漫画賞児童向け部門受賞は嬉しかった。某社の漫画賞と違って、小学館は他社作品でも気前よく賞をくれるところが素晴らしいと思うのである。

 CSテレ朝チャンネルで『クレヨンしんちゃん』一挙放送。まったりしてたころのしんちゃんもいいなあ。


 実はまだ名称が確定していなくて、それが問題視されている「福岡県西方沖地震(仮称)」のニュース、新聞でもネットでもめぼしい情報はかなり減ってきていて、もう「山は越えた」という情報もあるのだが、その一方で、「マグニチュード7程度の地震が発生する確率が、これまでは今後30年間で0.4%だったのが、7%に上がった」という情報も流れている。
 と言っても、こんなふうに数字で表されたところで、これが確率的にどの程度の「起こりやすさ」を意味しているのか、私のようなシロウトにはよく分からない。降水確率の「50%」が、「降る確率が半々」という意味でないことはよく知られているし、10%なら傘を用意しておけというのは常識みたいなものだ。その伝で行くなら、この7%という数字も「かなりの確立で怒る」という意味に解釈しなければならないのではないか。けれどそういった具体的な説明は全くないのである。
 世の中、物事をやたらパーセントで表したがる人は多いが、これってシロウトに対しては、実は殆ど意味がないんじゃないかと私は思っている。たとえば30年で7%の発生率というのなら、428年中には100%地震が起こるということになるのか。そうではないだろう。だからこういう数字を出すときにはそれが「どういうことを表しているのか」を具体的に説明してくれるのでなければ、単に不安をあおることにしかならないのである。
 実際に山を越えたはずの余震、昨日も今日も治まる様子が見えない。ちょっとゆらっと来たな、と思ったら、しょっちゅうテレビにテロップが流れる。庶民にとっては地震は明日来るかもしれないし千年来ないかもしれない、それくらいの大きな振幅の確率でしか認識できない、不確定な出来事なのである。科学とやらが本当に進歩してるっていうのなら、無意味なパーセントなんか出してないで、もっと納得のできる予測を出してはいただけないものかね。


 しげが、「カトウが日記でわけのわからないことを書いてるんだけど、なんだか誰かに怒ってるみたい。オレにケンカ売ってるのかなあ?」と言う。
何のことだ、と件の日記を読んでみると、なるほど、わけの分からないことが書いてある。

 >以下、人格を疑われそうな文章を延々書き連ねてしまったので自ら削除。
 >公開の日記で書くようなことじゃないや。○○は絶対○○してるくせにしてないと言うからむかつくーとかそういうの。ほんと、ママンの腹の中からやり直した方がいいと思うぜ?そして一般道徳と正しい○○を身に着けてきたほうがいい。マジオススメ。

 内容をぼかしているからよく分からないというより、文脈が適当だから意味不明の文章になってしまっているのである。日記なんて勢いで書くものだから、誰しもそうなっちゃう部分があるのは仕方のないことではあるのだが、加藤君の場合、それがしょっちゅうなので、真面目に解読しようとすると、いささか苦労する。いっそのことしげのように、単語だけが羅列されてるような文章だったら、最初から解読不能なので諦めもするのだが、下手に意味のある文章が散見しているので、何のこっちゃいなとつい解読したくなってしまうのだ。
 誰かに怒ってるとも読めるが、自分に向かって「私は非常識だ」と言ってるようにも読めるところが難しい。仮にしげに対して怒ってるんだとしても、「そういうの」の指す内容が何か非常識なことなのか具体的に書かれていないから、結局は本人に伝わっていないのである。それじゃ意味ねえなあと思うが、伝えたいとは特に考えてもいないのかもしれない。
 これまでの加藤君の文章を読んでる限り、自分のことを棚に上げて些細な揚げ足取りをするという島本和彦的な芸風で書いてるところがあるし、「人格を疑われる」と書いてるところからも、「つまんないことで腹を立てている軟弱な小心者」をあえて演出しているように見える。それ自体は別に問題はないのだけれど、ただ、やりすぎちゃうと、以前、下村嬢の件で起こしたような舌禍事件を招くことにもなりかねない。あのとき加藤君は、こじれた話を収拾しようとしてかえって火に油を注ぐような失敗をやらかしていた。そういうおバカなところも、若気の至りでかわいらしくはあるのだが、かといって誉められる類のものでもない。
 加藤君、あれからそれほど時間が経ってるわけでもないから、そのこと考えてホドホドにしとくようにね。相手は下村嬢よりももっと面倒くさいしげだから。
 実際、しげは、こういう「遠まわしな当てこすり」をされると、気になって仕方がなくなる性格だ。「確かによく分からんなあ。でもどうせたいしたことじゃないだろうし、別にほっときゃいいんじゃない?」と言ったのだが、なんだかいつまでもイライラして落ち着かない。面倒くさいので、「よく分かんないなら、本人に『アレどういう意味?』って直接聞いてみりゃいいじゃん」と言ったら、鬱陶しそうに「メール送るとカトウはくどくて長いのくれるんだよ」と言う。説明はしてほしいが、くどいのはいやだって、そりゃ自分勝手ってものだろう。もっとも、日記で公開されてるものに対しては、自分も日記で対抗するのがスジ、と考えているようで、それはそれで納得できることではあるが。
 結局しげは、自分の日記に「誰に怒ってんの? もしもボクなら買うわよん! 違うならスルーして。」と書きこんだ。ケンカを売ってるくせに「スルーして」と「逃げ道」を用意しているところが、腰が引けててまるで花紀京か池乃めだかである。バトルやろうってのを止めようとはサラサラ思っちゃいないけど、行き当たりばったりで、建設的な論争に発展させようって予見がないなら、あまり要らんことはしないように。時間の無駄だ。


 WOWOWで舞台中継『ロミオとジュリエット』。
 ロミオは藤原竜也、ジュリエットは鈴木杏、演出が蜷川幸雄という、実に意欲的かつHOT(死語)なキャスト・スタッフによる「ロミジュリ」である。福岡公演もチケットがあっという間に完売してしまい、私もプレオーダーの抽選に外れてしまって、ナマで見損なってしまっていた。
 蜷川さんの舞台にはほぼハズレがない。演劇誌に辛辣な批評が寄せられることもあるが、それは全て「蜷川幸雄にしては低調」という、期待ほどではなかったというレベルに留まっている。つまりは常に水準以上の作品だけを作り上げてきたということだ。しかし蜷川さんの凄さは、その舞台が常に「異端」であり、既成の舞台に対して「挑戦的」であるというその事実だ。
 古典であるシェイクスピアを現代の、しかも日本で、観客にリアルに感情移入させるというのはそう簡単ではない。シェイクスピアにはもちろん現代に通じるテーマ、普遍的な要素は当然あるのだけれども、それを「翻訳」や「言葉」が阻害している面がないわけではない。
 つまり、「ロミジュリ」で言えば、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」なんて台詞を、観客を笑わせられずに役者に言わせられるものなのか。爆笑とまではいかなくても、苦笑してしまうのではないか。
蜷川さんの演出は革新的であったと思う。どうしても笑っちゃうようなシーンならば、いっそのこと笑わせてしまえばいいのである。
 舞台は世界各国の人々の顔写真が何十枚と貼り付けられ、よく見ると三段に区切られてそれぞれが場面場面での舞台となる。バルコニーのシーンはもちろん最上段をバルコニーと見立ててジュリエットはそこに、ロミオは平舞台でジュリエットを見上げるという構図になる。最初は。
 舞台装置を簡略化し、「見立て」のみで演じることは決して珍しいことではないが、シェイクスピアでそれをやることは一歩間違えればただの手抜きに見えてしまうことがある。先日見た『R&J』は、見立てたい実が殆どない凡庸な舞台に終わっていた。ところが藤原竜也と鈴木杏のそれは、この舞台を最大限利用したと言っていい。舞台を“作りこんでいない”ために、自由自在に二のは走り回り、段を駆け上りよじ登り飛び降り、躍動するのだ。まさに初恋に有頂天になり傍若無人なほどに。これが客席に「爆笑」を生む。前述の「ロミオ、ロミオ」の台詞などは切ない語らいではなく感情の破裂である。それを聞いた瞬間のロミオの身もだえ。つまりこの二人、もう完全な「バカップル」として描かれているのである。
 なるほど確かにあの二人、本質的にはそうだよなあ。これもまた「バカには勝てない」物語なのである。面白い。


 昨日の夜八時くらいから寝ていたのだが、起きたのが今日の夜の八時。しげ、新記録樹立の24時間睡眠。睡眠薬変えたせいか? でも「気分悪い」を連発していたから、あまり合ってないのかもしれない。

2004年03月26日(金) トシの変わり目の大掃除。
2003年03月26日(水) メモ日記
2001年03月26日(月) アカデミーよりラズベリー/『幽霊暗殺者』(赤川次郎)/ほか


2005年03月25日(金) 愛知万博開幕/映画『カナリア』

 愛知万博(愛・地球博)が、今日から開幕。
 でもニュースはと言えば、テレビも新聞も、ライブドアVSフジテレビにソフトバンク・インベストメント(SBI)が参戦した話題とか、サッカー・ワールドカップの日本・イラン戦のほうをメインに報道している印象で、万博関連については今ひとつ影が薄い。
 まあ、35年ぶりの万博とは言っても、その間に沖縄海洋博とかつくば科学博とか「ミニ万博」はいくらでもあったわけで、正直な話、地域振興に利用しようってだけが目的の、中身の薄い博覧会には日本人は飽き飽きしてると思うのである(福岡の「よかトピア」とか「北九州博」を知ってる人が全国的にどれだけいるのか)。メインの展示が「冷凍マンモス」と言うのも弱い。大阪万博の「月の石」は「未来」の象徴だったけれども、「マンモス」じゃベクトルは過去に向いちゃってるもの。ロボットたちのダンスも今更そう珍しくもない。何より、今回は大阪万博の「太陽の塔」に匹敵するような象徴的なモニュメントがない。あの塔がもしなかったら、大阪万博の印象は180度違ったものになっていただろう。岡本太郎がいかに偉大であったかと言うのは、見た目は何なんだかよく分からない塔一つが切り取った空間が、万博会場すべての空間の「意味」を支配し、「何かよく分からないがとてつもなくすごいことが行われているのだ」という期待と驚愕とを我々に与えてくれたからだ。そういう「期待と驚愕」が、今回の愛知万博にどれだけあるか。
 一つの時代を共有する感覚というものがなければ、たとえ同時代に、同じ国に生き、同じ言葉を話していても、人と人との心は離れる。人間は所詮は主観でしかものを判断理解できないものではあるが、それでも多数の主観に共通項を見出すことができればそれは客観と呼ばれる。簡単に言えば、人がコンサートや芝居やイベントやスポーツの観戦にわざわざ足を運ぶのは、単に対象をナマで見たい、じかに触れたいと考えているからだけではない。そこにいる人々との「空気」の共有、一体感を求めるからである。「あのころはこういう時代だった」と誰もが同じように語れる共通概念がほしいのである。それは本質的に孤独である人間の精神が欲求する本能のようなものだと言っていい。
 しかしながら、戦後の“個人主義”の歴史の中で、我々日本人はそのような「共通概念」を徐々に見失っていくことになる。テレビの人気番組の視聴率が40%、50%を記録し、年末の紅白歌合戦に至っては80%を越えるという、「君もあなたも日本人」的な時代は過ぎ去った。せいぜい東京オリンピック、大阪万博の時代くらいまで、すなわち高度経済成長の時代くらいまでが、おおむね日本人が「同じ方向を目指していた」と言える時期ではなかったろうか。
 別に、過去を懐かしんでいるわけではない。一度細分化してしまったものを再び統合することなど困難極まりないことだし、またそうする意義もないと思う。個人の意志の意図的な統合は、全体主義を生みかねないからだ。しかし、バラバラになってしまったもの同士が、自らの個人主義を貫き存在意義を尊重すると同様に、他者の価値も理解し許容することができずに、それぞれに屹立しているだけ、という状態はやはり一つの不幸なのではないか。そういう現状だからこそ、「文化による国際交流」を図る万博の存在意義は確実にある、と言いたいのだが。
 私は代理戦争としてのスポーツに熱狂している人々を見ながら、その「闘争を無批判に許容する無自覚な態度」に対して常々苛立たしさを覚えている。「スポーツによる国際交流」なんて不可能なことは、各国のサポーターの「敵憎し」の態度を見れば明らかである。しかし、闘争本能をどこかで発散せねばならないのが人間の業であり、勝利による擬似支配もまた、孤独からのやむを得ざる脱却であることは、私も理解しないではないのだ。ただ、それが力道山対シャープ兄弟のプロレス中継を映し出す街頭テレビに人々が群がったころとたいしてかわりばえもしない未成熟な精神に基づく熱情であり、決して誉められた類のものではないこと、本来ニュースとは何をメインに報道すべきものなのか、マスコミがそれを見失ってしまっていることを、認識くらいはしてほしいと思うのである。
 予想していた通り、初日の客の出足も関係者の期待数には届かなかったようだ。会期中の半年の間には何とか大赤字にはならない程度に繁盛してほしいんだけど。


 ライブドアと言えば、中島みゆきやタモリ、倉本聰が、もしもニッポン放送がライブドアによる経営に乗り出した場合、出演を拒否する、と答申していたそうな。まあ歌手やタレントの世界だって「義理」のしがらみに支配されちゃいるんだいるんだろうから、それ自体はしょうがないかなあと思うんだが、これまでそんな「義理」とは縁のない言動を繰り返してきてた人が今更ニッポン放送に義理立てするってのもなんだか解せない。
 中島みゆきがずっと『紅白』出演拒否をしていたのは、紅白という存在と、自分の歌手活動との間に乗り越えられないほどの乖離があると感じていたからではなかったのか。ニッポン放送の経営者が変わったら、局のアイデンティティ、放送内容のカラーそのものが変わってしまうのだという確証でもあるのか。なんかそのへんに“ウラ”がありそうで、出演拒否した人たちのナマの声が聞きたいものなのだが、こういう場合、たいてい当事者は沈黙しちゃうんだよね。それがかえって“癒着”を連想させる胡散臭さを醸し出す結果になるんだけど、ホントのとこはどうなんでしょうかね。 


 午前中で、転勤のための残務整理はほぼ終了。
ということは、来週は一応出勤はするけれども、仕事は全くないということになる。本でも読んで暮らしてればいいわけで、これだけ体が空くのは今の職について初めてである。いや、これまでにも転勤は何度もあったんだけれど、転勤する直前まで引継ぎやら何やらで立て込むことが多かったんでねえ。

 午後から有給を取って、しげと買い物。
 とりあえず食事を「すき家」で。
 いつものようにメニューを凝視しながら、しげは「いかに肉をたくさん食えるか」と、牛丼の大盛りを注文しようか並盛りにしようか、目をキョトキョトさせている。肉はたくさん食べたいが、ご飯は少なめで充分なので、どちらにしようか迷っているのだ。さらに本音を言うなら、「豚丼」と「牛丼」の両方とも食べたいのである。でも豚丼と牛丼を両方食べれば当然食べ過ぎになる。口には出さないが、そんなことで悩んでいるのは一目瞭然であった。
 「……なあ、ミニ牛丼頼んで、豚皿頼んだら?」と言った途端、しげの顔がぱあっと輝いた。思わず「アンタ頭がいいね!」なんて言うのだが、そこまで肉が食えることが嬉しいのか。この日記もかなり長いこと書き続けているが、食事の話題になるといつも必ず「肉」「肉」「肉」である。もっと細やかな味を表現できるような、しっとりとしたようなまったりとしたような、要するに何が言いたいんだよ、ワケ分からん、と腹立たしくなるような食通ぶって気取ったいけ好かない文章も書いてみたいのだが、そういう機会はしげと一緒にいる限り、まず訪れそうにない。


 博多駅に回って、「紀伊国屋書店」で、吾妻ひでおの『失踪日記』を探すが、品切れ状態。ここんとこ何件も本屋を回って探してるんだけれども、一冊も見当たらない。既に初刷は売り切って二刷かかってるらしいが、それだけ売れてると言うよりは初刷の部数が少なかったのだろう(涙)。『ミステリーズ』9号や「SFジャパン」春号を入手する。
 「SFジャパン」は版型を単行本サイズに縮小されての新発行。今回は「SF大賞」特集で、受賞は押井守監督作のアニメ映画『イノセンス』。もっとも、選考評を読むと、たいていの選考委員が本作の完成度には不満があり、これまでの押井作品をひっくるめての「功労賞」としての意味合いで受賞を決定したとのことである。そういう受賞のさせ方についてはどうかと思いはするが、確かにSF界が押井守に対してきちんとした評価をしてこなかった点については大いに不明を恥じるべきであろう。一般的な判断に基づくならば『軌道警察パトレイバー』や『攻殻機動隊』のときに、私個人としては『うる星やつら』『御先祖様万々歳』の時点で大賞をとっていもおかしくないと思われるからである。だから、受賞自体はファンとして嬉しい。
 けれど選考委員の選評を読むだにつくづく、SFに対する見方の格差は人によって天と地ほどもあるなあと思う。「全体的に低調」「全体的に高水準」と、全く感想が逆だったりするが、どちらかが間違っているのではなく、SFについて「拠って立つ地点」が違うだけなのだ。「昔、SFというジャンルがあった」という表現も一時はやりはしたが、曲がりなりにも『SFジャパン』の刊行が続いている現状、「SF冬の時代」は過ぎて、ほんの少し春めいては来ていると思う。福井晴敏が“大”ブームを起こすくらいの勢いを示してくれればこれはもうハッキリ「春だ」と言えると思うんだれどもね。

 「メトロ書店」にも立ち寄るが、そこにも『失踪日記』はなし。入手するにはもうしばらくかかりそうである。
 横山光輝の『狼の星座』2巻を見かけて、ふと帯を見ると「1、2巻発売中」と書いてある。あれ? 2巻が出ていたのに気がつかなかったのかな? と思って、付近を探してみたがやはり2巻は見当たらない。不審に思って、店員さんに聞いてみたところ、「不適切な表現があったので、回収されました」とのこと。
 ああ、またか、と嘆いたのは私だけではあるまい。何がどう引っかかったのかは分からないが、新刊ならまだしも、かつて流通したものを再刊行しようとした途端に問題視すると言うのはそれこそ「歴史の改竄」ではないのか。しかも、この事実、新聞も雑誌も現時点では殆どのニュースが扱っていない。わずかにネット上の個人の日記などに紹介されているくらいだ。つまり明らかに「緘口令」が敷かれているのである。
 もう本作を読んだのは何十年も昔であるので、内容も細部は忘れてしまっている。どこがどう引っかかったのはよく分からないが、多分中国人に対する差別的な表現とか、そんなのであろう。しかし、そういう差別と戦う男の話なのであるから、そういう言葉が出てくるのは自然、というよりも「出さなければならないもの」である。でなければ差別がどれだけ悲惨か、その実態が分からない。それが差別のばらまきになるではないかとの主張は当たらない。だったら学校や会社で必ず同和教育とか人権学習なんてのをやってるのはどうなるのか。どんな言葉もバカにかかれば差別的に使用される。バカを想定して表現を自粛することは、結局バカを温存することにしかならないではないか。日本人はこんなバカの跳梁を許す歴史をいつまで続けていくつもりなのか。
 『狼の星座』2巻は表記を変えて再発売されるそうである。封印されなかっただけマシとは言えるが、こうなると私が持っていたオリジナル版『狼の星座』を紛失してしまったのは、返す返すも悔やみきれないことである。


 いつのまにか博多駅のゲームセンターの横に新しくできていた「A−ZONE」を覗いた後(覗いたただけですよ。コスプレやフィギュアには興味ないんで)、「シネリーブル博多駅」で、映画『カナリア』を見る。

 テロ事件を起こしたカルト教団「ニルヴァーナ」から保護された少年・岩瀬光一(石田法嗣)。初めは関西の児童相談所で妹の朝子(味野和明日架)と一緒にいたのだが、反抗的な態度が消えず、祖父の隆司(品川徹)から引き取りを拒否される。朝子を奪われた光一は、相談所を脱走し、とある廃校で運動靴とドライバーを手に入れ、妹を取り返すために祖父のいる東京に向かって走り始める。
 途中、光一は、ある男(池内万作)に手錠を掛けられ、危うい目に遭いかけていた少女・新名由希(谷村美月)を偶然助ける。光一を「ニルヴァーナの子」と見抜いた由希は、「恩返し」と称して光一とともに東京に向かって旅をすることを提案する……。

 「ニルヴァーナ」はもちろん「オウム真理教」をモデルとしているが、10年前日本中を震撼させたこの事件、若い人でもまだ記憶に残っていると思う。オタク的には、富野由悠季が彼らを「自分の子供たち」だと認識してショックを受け、長い間作品を作れなくなってしまったその原因として有名かもしれない(その程度のもんかいと否定しきれないのがオタクの怖いところである)。
 「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」自体は殆ど描写されない。塩田明彦監督の意図は、教団崩壊後も未だに「ニルヴァーナの子」であり続ける少年を通じて、「オウムとは何だったのか」を問うよりももっと普遍的に、「他者によって規定されている自分」から「自分自身が決定する自分の価値」を発見していくことを描こうとしたのだろうと思う。ただ、そうなると、別にオウムを題材にしなくてもいいじゃないか、という感じの作品になってしまうことは否めない。実際、物語の骨格は山中恒の児童文学『ぼくがぼくであること』にそっくりだ。
 ならばいっそのこと中途半端に「ニルヴァーナ」での生活の日々など描写せず、少年がとらわれている過去がどんなものかは暗示だけで済ませてしまったほうが映画としてはより効果的だったと思う。『黄泉がえり』のときもそうだったが、塩田監督、説明的な描写が多すぎてくどいのである。ラストの「これからどうするの?」「生きてく」という台詞の陳腐さはどうだろう。修行シーンやラストシーンをカットして、多少意味不明なところが出てきても全てを「象徴」として描いたほうが、ずっと面白い出来になったと思う。
 しかし、こういう「僕って何?」的な話ってホント増えたね。こういうのは本来は「物語以前」のネタで、思春期の少年にしか通用しない、オトナが今更見るような話じゃないんだが、同様のネタである『エヴァンゲリオン』や『もののけ姫』に大人まで殺到している現実は、それだけオトナと称する人々も実は未成熟だということなのだろう。そういう現象を確認する映画としては面白いけど、こういう「芸術以前」の三島由紀夫的な鬱陶しい映画はしげの好みには合わなかったらしく、見終わった後、すごく疲れ果てていた。
 世の中には地獄を見てきた子供なんていくらでもいるわけで、「オウムの子」だった事実なんて、たいしたことないよなあと見えちゃうのである。


 帰宅して、サッカーなんか見ずに、『3年B組金八先生 最終回スペシャル』を見る。桜中学のモデルになった学校も廃校になるし、脚本家の小山内美江子さんもシリーズ中盤で病気降板してしまったし、これがホントにホントの最終回になるのかもと思って見てみたただけで、いかに「史上最悪のB組」を演出し、覚醒剤ネタまで持ち込んでも、最後がご都合主義の感動で締めくくってしまうのはドラマである以上は仕方がない。
 この二十年、『金八』シリーズをどうしても好きになれなかったのは、金八が一見悩んでいるように見えて、実はまったく悩んでいないからである。結局はそれもドラマに結末つけなきゃならないためには金八に「答え」を語らせる必然から生まれた番組そのものが持っている矛盾であり、だから今回の最終回も、金八は決して教師を辞めないだろうと予測がついてしまうのである。どんなに悲惨な題材を持ってきても、所詮は予定調和、全然現実感がないんだわ。
 古いドラマだけれど、加山雄三の『高校教師』のほうがヒロインの生徒が事故死するわ、加山雄三は教師を辞めるわ、現実感がありましたわ。

2004年03月25日(木) 英語はニュアンスで読む。
2003年03月25日(火) メモ日記
2001年03月25日(日) ハカセ登場!/『カムナガラ』1・2巻(やまむらはじめ)ほか


2005年03月24日(木) 残務整理の日々/『チキンパーティー』2巻(金田一蓮十郎)

 朝から季節はずれの雪。つまりは「名残り雪」だけれども、あの歌もやっぱり3月を想定してるんだろうな。「東京で見る雪はこれが最後ねと」って言ってるが、つまり、「夢破れて恋にも破れて田舎に帰る」って情景なんだろう。歌詞だけ聴くと、どうにもセンチメンタルで気恥ずかしいくらいなんだが、十代二十代のころは、何であんなに一生懸命になつて歌ってたんだろう。まあやっぱ20代というのはどうしたって自分に酔っちゃう年頃なのであろう。


 今日は一日、職場で転勤の準備。
予定されていた会議も出なくていいということなので、不必要な書類などを整理する。机の奥に例のホモオタさんから職場に届いた手紙を仕舞い込んでいたのを見つけて、ああ、とため息をつく。つい何ヶ月か前に職場に届いたものが二通、どちらもワープロで「貴様のような変態の盗人の既知外は仕事を辞めろ」というもの。最初にホモオタさんに出会ったのが私が20代初めのころで、もう20年近く昔だ。よくもまあ、フラレた恨みを未だに持続させてるもんだと思うけど、やっぱそういうエネルギーを別んとこに注ぐことができてたら、道はいろいろ開けたと思うんだけれどもねえ。だからホモがノーマルに惚れるなってば。「同類は分かる」のがホモなんじゃないのか。
 今の支社に転勤してきたときも、ホモオタさんは「今度転勤してきた藤原ってやつは、変態の盗人の既知外ですよ」と中傷のメールを社員の全員に送りまくっていた。今度の私の転勤を知ったら、また同じことをやらかすことは見当がつく。何やってももうホモオタさんの正体は知れ渡っているから、私が本当に変態だなんて疑われることはなくて(多少マゾっけはあるかもしれんが)、ホモオタさんがハガキ代を損するだけなのだが、もうイカレてしまったアタマでは、自分の置かれている状況もまるで分からなくなってしまっているのであろう。
 実は日記を書いていなかった時期に、上司に勧められて、福岡法務局に相談に行ったことがある。けれど担当者は、「そんな様子なら、勧告しても効力はないでしょうねえ」と、つまりは「既知外は取り締まれない」という、これまで警察や弁護士に相談した時に聞かされてきた返事を繰り返しただけであった。2ちゃんねるの差別落書きを取り締まれないのと同様である。どうせそんなことだろうなと見当はついていたので、特に落胆もしなかったが、「だいたい、あなたのところの上司や、その人の上司は何をやってるんですか」と言われたのには苦笑した。何もやらないし何もできないから、警察に行け、法務局に行けとこちらばかりを動かしているのである。
 ホモだからと言ってオタクだからと言って既知外だからと言って、それが即、その人が世に害なす人間だということにはならない。しかし、ホモだったりオタクだったり既知外だったりする人間がストーカーに走れば、世間はああ、ホモだからオタクだから既知外だからストーカーになるのね、と短絡的に考える。そういう誤解を招きたくはないから、あまりホモオタさんのことは日記に書いてこなかったのだが、やっぱりそういう存在が「ああいう職業に就いていて放置されている」という現実があるってことも、もっと世間は知ってた方がいいと思うのである。……婉曲なモノイイで申し訳ないが、私の職業知ってる人にはご理解いただけますでしょう。


 午後、またちょっと余震。感じとしては震度2くらいか。
 ……って、後でニュース見たらホントに震度2であった。連日の地震のおかげで、だいたい今のが震度いくつくらいなのか分かるようになってしまっている。いやな後遺症だ。
 ニュースでは「山を越えた」とか言ってるが、感覚的には有感地震の回数はいっかな減っていない。しげはうちで大丈夫かなあ、でも鈍感なしげのことだから、どうせまたメールを送っても「地震? いつ?」とか言い出すかもなあと思って、今度は控えていたら、しげのほうからメールがあった。
 寝室で寝ていたら、地震で積み重ねていた本がまた落ちてきて、耳を直撃したそうである。それがまた、押井守・藤原カムイの『犬狼伝説』豪華版ボックス。こないだ『大漢和辞典』に埋もれて苦しんだくせに、何でそんなかさばるものを枕元に積み上げておいたかな。記憶力も学習能力もないやつは同じ失敗をいつまでも繰り返すものであるが、こんなに早く同じ落とし穴にはまるというのは、いくらなんでもバカ過ぎないか。


 トンガリさん関係の資料もまとめて、私の後任の同僚に手渡す。
 その際、これまでトンガリさんのしてきた横領のこととか、それをいろいろ補填して結果的には横領にならないように私が四苦八苦してきたこととか、伝えるべきかどうか迷ったが、結局は全部事細かに伝えた。
 と言うのが、その件について上司に相談したときに、こっそりと「実は転勤がなければ、来年も藤原さんにトンガリさんの担当をしてもらおうと思ってたんですよ」と教えてもらったからである。これまで私の進言を散々無視し、トンガリさんの暴走を放ったらかしにしておきながら、その私に泥をかぶれというつもりなのか、とさすがに腹が立ったので、もう後任の同僚には事情を全部知っておいてもらったほうがよかろう、と判断したのである。
 トンガリさんの代わりにしていた仕事、この一年間だけでファイルにした資料が5、6冊分にはなっていたのだが、それを何とか圧縮して2冊にまとめて説明する。説明しながら、自分でも「こんな大量の仕事を、オレ、真面目にやってたんだなあ。自分のでもないのになあ」と苦笑する。見返してみて、驚くくらいに手を抜いていないのである。オレってもっと、スチャラカでスーダラな社員じゃなかったのか。無責任な社会に対しては個人の無責任で対抗するしかないというのがモットーじゃなかったのか、と心の中で自問自答してみるが、考えてみれば問題社員を放置して転勤してしまう点では私もやっぱり無責任なのである。
 でももともとトンガリさんに対して責任持たなきゃならない義理なんてないんだからな。あとは野となれ山となれである。


 マンガ、金田一蓮十郎『チキンパーティー』2巻。
 他人事に首を突っ込みまくり、お節介なくせに役立たずでかえって事態を悪化させてしまうことも多いのに、ウルトラハイパーなポジティブシンキングで自分がどれだけメイワクな存在か自覚できない「トリさん」。いったんは開発者の「野村さん」に処分されかけたけれども、ヒロインの「毬央」の涙のとりなしで、本人(鳥)の気が付かないうちに命が助かる。もちろん後で毬央は死ぬほど後悔するのであるが(笑)。
 このトリさん、相手の事情を思いやってるようで実は自分の中の正義感に浸っているだけで、まるでいつぞやのイラクの人質三馬鹿大将みたいなやつで、もしも実際に傍にいられでもしたら鬱陶しくて堪らないだろうが、これがそのセリフのうざったさに相反して、それほど憎めないのである。たとえば「毒舌OL姉妹」の本音トークを聞いて、いつもなら説教垂れに怒鳴り込むところが躊躇してしまうあたりに、「ああ、つまりこいつは『青春の夢』に酔ってるんだなあ」と微笑ましく感じてしまうからである(もっとも、次の回ではついにキレて説教垂れてボコにされてしまうのだが)。みなさんの傍にもこんな感じの「余計なお世話焼き」がいるかもしれないが、こういう人たちが「世の中まちがっとる」と言いながら、報われもしないのに真面目に働いているからこそ、世の中が成り立ってもいるのである。あまり邪険にしないように哀れんであげていただきたい。「トリさん」も働いてはいないが、「ボランティア」は大好きなようである。……なんかホントに三馬鹿そっくりだな。
 それはそれとして、作品中でも「毒舌」と言われちゃってるこのOL姉妹であるが、でも会話の内容聞くと、そんなに毒があるとも思えないんだけどなあ。彼氏が彼女に妙に優しくして「荷物持ってあげるよ」なんて言うのを見て、「何を演出してんだろって思うよね。男って面白い」なんて、切れるほどのものかな? 別に普通の反応だと思うんだが。「優しい人が好き」とは、女の子に聞いた「アンケート」では常に上位にランクされる「いい男の条件」なのだが、この手のアンケートの回答がいかに当てにならないか、現実に「優しい男」というのはたいてい女性から見たらキモイのである(かと言って冷たい男が持てるわけでもないので誤解しないように)。マンガの中でも「何か一つ『これが好き』って言うと、次からそればかりプレゼントされる」となじられているが、これって、子供がいつまでも同じ嗜好だと思い込んでいる親と同じ感覚なのだね。つまり、「プレゼントされた経験」が、親との間でしかないから、その感覚で彼女にも同じプレゼントばかりしてしまうのだ。つか、精神的には子供のまんまなのである。彼女からうざったがられるのも当然と言えよう。
 「トリさん」は「夢がない」と嘆くが、実際、女性に過大な幻想を持ち過ぎてる男って多いんだよ。それって逆に女性を鋳型にはめて「モノ」扱いしてるのと同じなんで、自分は楽しいかもしれないが女性にとってはメイワク千万でしかない。夢を見たい気持ちは分かるけどさあ、求めても求められないものを追いかけたってしゃあないんだからさ、ホドホドにしとこうよと、ガストの「+e」で「完全女脳」と診断されてしまった私は思うのであった。


 地震からこっち、ずっと寝付けなくて、この四日の平均睡眠時間は一時間半ほど。
 さすがに疲れが溜まっていたのだろう、寝る前に日記を書こうと思ったが力が出ずに失神するように眠る。けど熟睡はできずに夜中に起きてしまい、テレビでタイトル忘れたが稲垣五郎がホストの番組で、青木さやかが「『僕のこと好き?』なんて聞く男は嫌い」なんて言ってるのを聞いて、うんうん、と頷いたりする。あの鬱陶しいキャラを嫌いな男性(あるいは女性)も多かろうとは思うが、女性はたいてい青木さやか的な要素を持っているものである(同姓から嫌われるのは同属嫌悪だろうね。自分の恥部見せられてるようで嫌になるのだろう)。
 これもまあ、女性に幻想を抱いている男性諸君にお伝えしておきたいことだが、女性はみんな青木さやかである。女性と付き合いたいと思えば、青木さやかと付き合うのだと思って覚悟しなければならない。それが嫌なら、いつかどこかで、自分を待ってくれてる眠れるプリンセスがいるのだと、見果てぬ夢を抱いたまま棺桶に入るしかない。
 その番組で佐藤江梨子が「最近、男に振られた」話をしていたが、こういう男くらい身の程知らずな者はあるまい。サトエリ振ったって、どうせ最後に捕まえる女は青木さやかのクローンなのだから、サトエリの中に自分の好きな部分を見つけだしゃいいのである。なんかホント、何様のつもりって男、増えたね。


 加藤君から、27日に予定していた劇団の会合、参加者が少なくて中止との連絡がメールで。
 私も急遽マンションの会合が入ってしまったので、残念ながら不参加となってしまったのだが、人数が少なくても会いたきゃ会えばよかろうに、何で中止にまでするのか、よう分からん。つか、生活時間帯の違う人間が多いんだから、全員揃ってなんてのはまず無理というものだ。何か話したいことがあるなら、たとえ二、三人でも集まれるときに集まったほうがいいと思うんだが。
 加藤君、スケジュールのきつい其ノ他君やらぶきっつあんに日にちを提案してもらったら、なんてことを書いてるものだから、そりゃ無理だろう、という内容の返事を送る。スケジュールがきついということは、全然、体が開かない場合もあるということにも繋がるわけで、下手をすればいつまで経っても会合が開けないということにもなりかねない。「自分の体が空かないせいで話が進まない」なんて事態になったとしたら、二人に責任やらプレッシャーやらを押し付けちゃうことになる。だから加藤君には「候補日を複数立てて、その中で一番人が集まれる日を選んだら?」と提案したのだが、すぐに返ってきた返事が、「それだと候補日も全部体を空けてなきゃならないから、かえってきつくないですか?」というものだった。
 いやはや、前々から加藤君は「いい人」だなあ、とは思っていたが、これには全く驚いた。会社の忘年会や大学のサークルの新歓コンパで、「いつがいい?」と希望日を募ることはよくあることだが、自分の希望日以外の日に決まって参加できなくなったからといって、いちいち恨みに思ってなどいられない。出られりゃよかった、出られなかったら申し訳ないで終わりである。それを、みんなのために決定日以外の日も体を空けておこう、なんて考えの持ち主に会ったのは初めてだ。いくら「いい人」と言っても、そりゃいくらなんでも気の使いすぎというものではなかろうか。例えば、彼女から「この日は都合が悪いから、別のこの日に会おうね」と言われて、「うん。でも念のため、君の都合の悪い日も体を空けとくよ」なんて答えるようなものである。気持ちは分からんでもないが、過ぎたるは及ばざるが如しである。こういうのって、逆に「何でそこまでするの?」と彼女にプレッシャーを与えていることにならんか。まあ、よっぽど心の広い女の子でない限り、たいていは引いちゃうと思う。
 あんまり悩むなと返事を送ったけれど、C−1君といい、加藤君といい、うちの劇団に集まる男どもって、なんでこう一歩余計なとこまで踏み出すかね。

2004年03月24日(水) せめて会議には出てよ。
2003年03月24日(月) メモ日記
2001年03月24日(土) 女の子が好き!/アニメ『フリクリ』6巻/『低俗霊DAYDREAM』1巻(奥瀬サキ・目黒三太)ほか


2005年03月23日(水) 心に残る余震/『新・吼えろペン』1巻(島本和彦)

 昨日あたりから降り続いていた雨、今日も名残のようにしとしとと。
 新聞で「こんな地震が来ると思っていたか」「地震保険など、事前に対策を取っていたか」なんてアンケートを福岡市民に対して取っていたが、答えは80パーセント以上が「何も対策していなかった」というもの。
 メディアの馬鹿さ加減がよく分かるのがこういう「アンケート」というやつで、意図としては恐らくは「天災に対する油断」を指摘したいのだろうけれど、残念ながら、こんな指摘は何の意味もない。一年経って、更にまた一年経ってと、繰り返し福岡市民に対して「何か地震対策を取っているか」と質問していけば結果は出ると思うのだが、来年は少しは「地震保険に入った」といった類の回答が増えるかもしれないが、それも年を重ねるにつれ、徐々に低下していくだろう。喉元過ぎれば何とやらであるが、掛け捨ての保険に入るなんてもったいない、「また地震が来るかも」と戦々恐々としながら日々を暮らすよりも、「もう地震は来ないだろう」という根拠のない思い込みに依存して、地震前と変わらない生活を送っていくことのほうが自然なのである。いや、地震後四日を経た今日、避難中の被災者を除けば、殆どの福岡市民が何事もなかったかのような顔をして普通の生活に戻っている。
 それがいけないとか、被災者の気持ちを考えろと言いたいのではない。マスコミの不穏な「煽り」に乗せられてビクビクして暮らすより、地震なんかどこ吹く風と鼻歌歌いながら毎日を過ごしていくほうがよっぽど健全だろう。私が不快に感じるのは、実態として、たくさんの“無事だった”福岡市民が、この地震を言わば一つの“イベント”として「楽しんでいた」くせに、とんでもない目に遭ったとでも言いたげにいかにもな「被害者面」をしていることなのである。
 私のうちの本の山を見たことのある人は、決まって「地震が来たらどうすると?」と聞いてくる。あんまり同じことを聞かれるもので、いい加減うんざりして、「地震なんてそうそう来ねえよ」と言い放ってしまうこともしばしばであったのだが、それを聞くと相手はこれも決まって、「いや、分からないよ」と答えるのであった。しかし、このとき、「地震なんて来ない」と言った私は実は地震保険に入っており(最近はやめた)、「油断するな」と言ってくれた御仁はまず保険には入っていなかったのである。
 私は昨日から今日にかけて、職場で何人かの同僚にわざと「これだけでかい地震があれば,もう当分福岡には地震は来ないでしょうねえ」と“振って”みた。それに対する彼らの返事はどうであったか。みんながみんな、狙い済ましたように「いや、分かりませんよ」と答えたのである。彼らが本気で地震の心配をしているとはとても思えない。賭けてもいいが、彼らの中でこれから地震保険に入ろうとするものは誰もいないに違いないのだ。彼らが地震で味わったのは「恐怖」ではない。恐怖だったら、こんな「他人事」なモノイイができるはずがない。みんな、あの地震が「楽しかった」のである。
 私は、あのとき、本当に「死ぬかも」と思った。自分が助かったと分かった後も、父が倒れた戸棚の下敷きになって血まみれになっているビジョンが脳裏に浮かんで離れなかった。電話がいくら掛けても通じなくて、父のマンションまで駆けつけようかとも思った。けれど父は休日にはたいてい外出していることを思い出して気持ちを落ち着け、もう一度電話を掛けてようやく通じた。実際に父は山口に旅行していて無事だった。
 自分が死の恐怖を感じたから言うのではないが、「ちょっとびっくりした」程度の人間が、あるいは楽しい“イベント”に遭遇できて「今の地震すごかったね!」と友達にメール送りまくってたような人間が、改めて「地震はどうでしたか?」と聞かれたときに、どうして簡単に「いやもう、恐ろしくて震えがとまりませんでした!」などと「地震の恐怖」をまことしやかに語れるのか、ということなのだ。もちろん、そこには“世間”を想定した“常識”が介在しているのだろう。家を無くし、避難生活をしている“本当の”被災者たちに対する配慮である。そういう方々のことを思えば、軽々しく「今の地震楽しかったね」とはなかなか言えるものではない。
 しかし、自分が死の恐怖を感じたからこそ言うのだが、「まさかこんな目に遭うとは」とか「福岡の安全神話が崩れた」とか、大仰に騒ぐ連中よりも、素直に「楽しかったね」と喜んでいる人間のほうが私はよっぽど“人間として”信頼できるのである。……いや、しげの場合はちょっと楽しみすぎだが。
 楽しんでるんなら楽しんでるって素直に言えや。バレバレの演技なんかされたって、こちとら嬉しくもなんともねえんだよ。
 地震や台風といった天災に限らない、人生の苦悩だの不安だの、病気や重症だのをことさらに訴えて他人の同情を図ろうとする類の人間は、ちょっと“つついて”やれば、実は自分の悲惨な境遇を「楽しんで」いることを露呈してしまう。本当に苦しんでいる人間は、自分の苦しみなどおくびにも出さないで笑っている。「苦しんでなどいられない」現実を否が応にも実感せざるを得ないからだ。
 あー、それでですね、私が病気のこととか地震のせいで不安神経症になってるとか書くのはですね、これ、皆さんに同情を求めているわけではなくて、単なる露悪趣味です。かえって心配をかけるから書くなとお叱りを受けそうですが、だからと言って日記に現在の心情を書かないで「隠しておく」なんてのは、それはそれでただのカッコつけだなと思うので、思ったことは何でもまんま書くようにしてるんです。いやもう、「全然心配なんかしてませんでした」と言ってくださるほうが私も気がラクですし、お見舞いなどもお返しとかがめんどくさいので要りません。私の書く文章をあまり真面目に受け取らないようにお願いいたします。

 地震関連のニュースで言えばもう一つ、「マリノアシティ福岡」に隣接し、世界第二位の高さを誇る「エバーグリーンマリノア」の大観覧車(高さ120メートル、直径112メートル)のゴンドラ2基(あるいはもっと)が、地震当時に誤作動して、乗客を乗せたままの状態で自動扉が開いちゃったそうだ。観覧車は数分間停止した後で動きだし、地上に着くまで約20分ほどかかったが、その間、乗客が非常連絡用のボタンで係員を呼び出し、「手動で扉が閉まらないのか」と聞いたところ、係員は「閉まりません。すいません」と言うばかりだったとか。何とも暢気な対応であるが、確かに手動で動かすことが不可能なら、「降りるまでがんばって落ちないように」としか言いようはないわな。アニメとかだとこういうぎりぎりの瀬戸際になった場合はたいてい「機械よりも人間の力」を優位に置く展開になるものだが、現実にはもう、機械は人間の力を拒む存在として確立してしまっているのである。つか、これだけ機械にかかわらずにはいられない時代、人間の力だけで出来ることって、なにがあるんだろうか?
 で、この乗客さんたちは地震保険に入るようになるだろうかね。


 しげの体調すぐれず、迎えには来れない。
バスで帰ったので、定時に退出しても帰宅は七時過ぎ。転勤になれば、交通機関を使っても六時台には帰れるだろう。四月からは少しは自分の時間が増えそうである。
 しげは最近、睡眠薬の量が増えていて、ちょっと危険な状態である。眠れないのは要するに心のバランスが崩れているからなんだが、結局は規定以上の量を飲んで眠りこけてしまっているので、眠れていないわけではない。それなら精神安定剤か抗鬱剤だけ飲んでりゃ、落ち着いて寝られそうなものなのだが、もうしげは「睡眠薬がないと眠れない」という思い込みに支配されてしまっている。でも神経科に通う以前から「眠れん眠れん」とうるさかったしげは、いったん眠ると12時間以上も眠りこけていた。だ・か・ら、後で眠れなくなるのであるのであって、睡眠を普通に六、七時間にとどめておれば、早く眠れるようになるのだ。
 今日の日記に、しげは「怒られた」と書いていたが、これは医者から「薬の飲みすぎ」を注意されたのである。つか、これでもう二度目か三度目。そりゃ、一週間分の薬を三日か四日で飲みきってしまえば叱られるのは当たり前だ。服用し始める前とその後とで、トータルな睡眠時間が結局は変わってないのなら、もう飲むだけ無駄なのは歴然としているから、睡眠薬はもう必要ないと思うんだけれど、注意したって私の目をかすめて飲まれちゃもう、どうしようもないのである。何でここまで意志が弱いかね。


 テレビで『愛のエプロン』、『相棒』最終回など。高橋由美子が二役を演じるが、片方は「元男」の役。性転換のことを今どきゃ「トランスジェンダー」って言うのな。意味は分かるが「性転換」って言葉をわざわざ英語にしなきゃならない必然性ってあるんだろうか。


 マンガ、島本和彦『新・吼えろペン』1巻。
なんかもう、島本和彦のライフワークになりつつある「炎尾燃(ホノオ・モユル)」シリーズ。いやあまさか「新」まで続くとは思ってなかった。一見、熱血、でも結構卑怯で軟弱なとこもあるという島本ヒーローを作者自身が演じているわけだから、これが面白くならないわけはない。作者がたとえどんなに「炎尾燃と島本和彦は別人です」と主張しても、読者は両者をイコールとして見て面白がっているのである。イコールじゃなきゃつまらないじゃないか(笑)。
 今回は殆どが『逆境ナイン』(作品中では『逆上ナイン』)映画化のエピソードなんだけれど、いったいどこからどこまでが本当で、どこから先が脚色なのかが気になって仕方がない。島本さんのホームページを見る限りでは、マンガに描かれているほどまで撮影現場に入り浸っていたわけではなさそうだが。映画の演出を変えたくて、原作マンガの結末自体を描き換えてしまうとか、エキストラ出演することになって「自分はヒーローの演技しか出来ん!」とゴネたりとか、こういうのはかな誇張が入っていると思うが、「藤岡弘、はアドリブで燃える台詞を言う」というのは一切誇張がないかもしれない。
 気になるのはサカキバラ・ゴウ役のココリコ田中直樹だけれども、日記では誉めているのに、マンガのほうには全く出番がない。もしかしたらこれがやっぱり映画のネックになってしまうのかも……。って、ロードショー、福岡まで来るんかいな。


 愛知万博(愛・地球博)がいよいよ3月25日に開幕。
 1970年の大阪万博が精神形成の根っこにある世代としては、こりゃぜひともいっぺんは行っときたい、できれば最低三日は滞在して隅々まで見て回りたいと思うんだけれど、大阪万博の大混雑も体験している身としては、土・日に行くのはイヤだなあ、といささか気後れもしてしまうのである。かと言って平日に休みを取るのはムチャクチャ難しい。比較的休みが取りやすいのは夏場の盆あたりだろうが、炎天下に広い会場を歩き回りゃあ死ぬ目に遭うだろうことも容易に予測が付く。気候的には秋口、閉会間際が一番いいように思うんだが、そんなに都合よく行くわきゃないのである。ああ、押井守総合演出の『めざめの方舟(はこぶね)』、ムチャクチャ興味があるんだが。
 しかし今回の愛知万博、大阪万博に比べるとどうもイマイチ盛り上がってないように思えてならない。分かりやすい例で言えば、万博のメインテーマだ。これが殆どと言っていいくらい、世間に浸透してないんじゃなかろうか。我々の世代で大阪万博のメインテーマ「人類の進歩と調和」を答えられない人間はまずいないのだが、愛知万博のテーマは?  と質問されて、すぐに答えが出てくる人は、今現在で日本人の何パーセントいるだろう。正解は「自然の叡智」。若い人だって、答えられない人、多いんじゃないか。つか、愛知万博自体に興味がないのかもしれない。
 愛知県は、開会前から「“自然の叡智”を謳う万博が自然を切り開いて会場設営するのは矛盾ではないか」という批判を浴びて、会場の規模を縮小せざるを得なかったというとんだ不手際を晒してしまっている。実際に客が目当てにしているのは「自然」でも「環境」でもなく、ロボットやらスタジオジブリの出店やら、自然とは何の関係もないものばかり(アニメーションという自然と最もかけ離れた技術によって表現される「環境保全」とやらがいかに偽善的であるか、ジブリ信者はもちっと自覚したらいかがか)。世界各国のメディアも、注目しているのは科学技術や未来を表現したパビリオンやイベントの煌びやかさなどで、「自然との共存」なんて見向きもしていない。表の顔と内実との乖離が激しすぎるのである。
 だいたいやねえ、企業宣伝と地域振興が目的の癖に、そこにむりやり「自然に優しい印」のふりかけをまぶして誤魔化して客に食わせてやろうというのは、場末の食堂のチキンライスと称したケチャップライスのようで、なんとも姑息でお寒いとは思わないかね? 愛知県は観客動員数に自信を持っているようだけれども、当てた褌が向こうから外れる危険性は充分あると思う。
 それでもこれだけのイベントならば、たとえ予測を下回ったとしてもかなりの客がウンカのごとく押しかけることは間違いなかろうから、できるだけ暇な時期を選んで行ってみたいのである。

2004年03月23日(火) だからって私はホモじゃないから。
2003年03月23日(日) メモ日記
2001年03月23日(金) ストレス解消!/映画『サトラレ』/『犬夜叉』20巻(高橋留美子)ほか


2005年03月22日(火) PTSD?/映画『鉄人28号』

 夕べのうちに細川嬢の無事も確認。次の芝居で一番頼りにしていると言っても過言ではないスタッフなので、胸をなでおろしている。
これでどうやら、身内や知り合いでケガした人は殆どいないようで一安心……。
と考えていて、ふと、親戚の安否を一切気にかけてなかったことに今になって気づいた。でも、私のことを金ヅルだとしか思ってない連中のことなんぞ、眼中にあるはずがないのである。少なくとも、たとえ血は繋がっていようとも、ハイエナかハゲタカみたいな親戚よりははるかに心配をしているのだから、加藤君、メールが遅れた程度のことでひがんだりしないように。


 目覚めて、心臓の音に驚く。「揺れ」に対してすっかり敏感になってしまっているので、ちょっとした眩暈や、静かに寝ているときの自分の心臓の音ですら、地震の予兆かと錯覚してしまうのである。ああ、これがPTSDというやつか、と思わず頷いてしまったが、てことはこの「不安感」、そんなに簡単に治らないんじゃないかと考えてまた不安になる。
 もともと「目覚めたときの心臓の鼓動」は、私にとっては何よりの「生の証」であった。
小学一年生の時に転落事故に遭い、頭蓋骨の複雑骨折を起こし、奇跡的に生還はしたものの、それ以降、私は今でもたまに目の前の風景を認識できなくなる後遺症に悩まされている。医者からは十年生きられる保証はないと言われ、十代のころは頭痛がするたびに自分は死ぬのではないかという恐怖に苛まれていた。だから、私にとって「眠り」とは「次の日に目覚めることはないのではないか、このまま眠るように死んでしまうのではないか」という恐怖と表裏一体の関係にあった。
それから三十年以上が経っているのだが、この恐怖感、決して薄らいでいるわけではない。眠るのは今でも怖いのだが、かといって眠らないでいるわけにはいかない。だから私は、寝るときはある意味「もう死んだって構わないや」と開き直って、“意図的に意識を消す”ようにしているのである。しげには「三秒で眠る男」と言われているが、私の寝付きがやたらいいのはそのせいなのだ。だいたい、自棄になってるんじゃなきゃ、どうして寝相が極端に悪い人間爆弾のしげの隣でのんびり寝てられるものか。
だからこれまでは、朝起きて、自分の心臓が動いていることを確認すると、「ああ、オレ、まだ生きてるんだなあ、生きててもいいんだろうなあ」と思ってホッとしていたのだが、地震の後はそれすらも安心の要素にならなくなってしまった。
目覚めたばかりの意識がまだ朦朧としている状態では、めまいや鼓動と、地震の区別がつかない。こういう不安感から開放される日が来るのだろうか。


 地震後初出勤。
 昨日のうちに職場は一応無事と、電話での確認はしていたのだが、実際にどんな状況だったかは足を踏み入れてみなければ分からない。
 休日出勤の同僚もかなりいたようで、いろいろ対応に追われていたようである。お手伝いができなくて申し訳ないが、やっぱり親との連絡の方が大事になるのが人情というものなので、カンベンしてもらいたい。
 水道管が破裂して、便所がいくつか使えなくなっていることを除けば中はそんなに乱れた様子はない……と思っていたら、私の机の上の書類ファイルなどが、連休前はブックエンドに立てかけられていたのが、今はぐちゃまらと平積みになっている。どうやら床に散乱していたのを、どなたかが重ねて置いて下さったものらしい。
ありがたい話ではあるが、すぐに必要な書類がどこに行ったか見つけられずにちょっと慌てた。

 転勤の内示が出ているので、残務整理でおおわらわ。
 その最中にまた「グラッ」と来る。しかも、今度は一度「ゆらっ」と来て、一呼吸置いてやや大きいのが「ぐらっ」と来たものだから、もしかしたらまた……とつい身構えてしまった。幸い揺れはそれだけで収まったが、余震にしてはかなり大きい。もしかしたらまたすぐに次のが来るかも、と思って腰が立たない。かと言って、物が落ちるほどではなかったにもかかわらず、すっかり臆病になってしまっているのである。
 慌ててしげに「無事か?」とメールを打ったが、返事は「何が?」と何のことか見当がつかない様子。「地震だよ!」とまた送ると、「小さかったよ?」と暢気な返事。
 何が小さいものか、このときの地震は後で報道されたところによると、「本震以降では最大の余震」だったのである。震度は福岡市西区・玄界島、福岡県前原市、志摩町、新宮町で震度4を観測。震源の深さ約10キロ、地震の規模はマグニチュード5・1。
 しげは本震のときには私以上の本の山崩れに遭って、身動きできなくなっていたというのに、生来の鈍感のせいか、うらやましいくらいに恐怖を感じていない。気象庁の観測によれば、20日以降の余震の累計はこの時点で147回。震度3以上の余震は8回も起きているのだが、しげはこのうちせいぜい二、三回しか感じていない。ニューロンがホントにどこかでハザードを起こしてるんじゃないかと勘ぐりたくなるくらいのニブさだ。
 こういう幸せな人間のそばにいると、どうしたって運命の不公平というものを実感せざるを得ない。ソクラテスは絶対運命論者であったと思うのである。


 夜、「ダイヤモンドシティ」で、しげはカルチャースクール「ボクシングエクササイズ」の見学。こないだまでの「太極拳」は「ぬるい」ので、こちらに切り替えるつもりだそうだ。その間、私は「フタバ図書」で本を物色。しげの見学が終わるまでフードコートで本を読む。
 横山光輝『狼の星座』1巻。
諸事情でこれまでずっと絶版だったものがようやく復刊。どうしてこれまで再刊されなかったのかは、連載時にこのマンガを読んでいた人には見当がつくことだろう。要するに「日本人馬賊」の伝記マンガなので、お隣さんの国情に配慮してたってことなんである。
主人公・大日向健作のモデルとなっている実在の小日向白朗、これは馬賊とは言っても流浪する自警団のようなもので、弱きを助け強気をくじく、中国民衆のために尽くした日本人の誇りのような人物である。
こういう人が実在していたというのも驚きだが、「中国人を助ける日本人」が少なからずいたという事実は、日本に対する敵視政策を続けるアチラさんにとっては極めて都合が悪いわけである。おそらく横山さん自身も生前はそのあたりを鑑みて、『狼の星座』の再刊は許してこなかったのだろうが、こんなふうに「作者が死なないと日の目を見ない」マンガがあるような状況は決して正常とは言えない。いや、作者が死んでもなお封印され続けているマンガがいかに多いことか。
たいていの人間が「人権擁護」の美名のもとに「人間の自由(表現の自由どころではない)」を圧殺していることに気づいていながら手をこまねいているのはどういうわけか。ネットの便所の落書き化が進むのはそれらの圧迫に対する反発も大きい。モラルの低下を嘆くのであれば、まずはメディアが「自主規制」などという下らない差別を撤廃し、圧力をかけてくる似非人権団体(たいていの人権団体が似非であるが)を黙殺するくらいの勇気を持たなきゃしょうがないんだが、どうせそんなことできっこないんだろうねえ。
それならもう私は、「ネット万歳、便所の落書き万歳、悪口陰口大歓迎」と唱えるしかないのである。社会がモラルを無くしているのに個人にモラルを求めるのは本末転倒というものだ。……てなことはもう40年以上前に青島幸男が言ってんですね。はい。


しげと待ち合わせて、「ワーナーマイカル福岡ルクル」で、映画『鉄人28号』。
予告編をご覧になっておられる方はお分かりの通り、鉄人もブラックオックスも、CGによって描かれていて、その出来はもう、アレである。しげが「……プレステ2?」と思わず口走ってしまったが、まあ、そんなもんだ。アングルに凝ってよ、タイミングに凝ってよ、音響に凝ってよ、なんとか「それらしく」見せようとがんばってるけどさ、どう贔屓目に見たって鉄人もオックスもその質感は「食玩」に、その動きは「ポリゴン」にしか見えんのよ。殴り合ったって、表面は全然傷も負わなきゃヘコミもしねえし(へこまないのは超合金だからだ!なんて言い訳ですむ問題ではない)、倒れても「重み」はねえしよう。視覚効果は『ゼイラム』の松本肇。ああ、この人はついにこういうところに行っちゃったのだねえ。
じゃあこの映画つまんないかというと、これが困ったことにすっげえ面白いんだよ(涙)。実写版『デビルマン』とどちらが下か、なんて、『鉄人』に対して失礼だ。比べ物にならないくらい『鉄人』のほうが映画としての完成度は高い。いや、製作者たちの人間としての底の浅さがそのまま弱点となっていた『ローレライ』よりもよっぽどエンタテインメントしているのである。
CGにさえ目をつぶれば、脚本は実にドラマツルギーのツボを押さえていて素晴らしい。金田正太郎の「成長」が、そのままドラマとなってカタルシスを生んでいるのである。辛気臭いままでいっかな前に進んで行かないアニメ版『鉄人』の今川泰宏監督は、脚本の斉藤ひろし・山田耕大両氏と監督の冨樫森氏の爪の垢を煎じて飲むがいい。人生の「苦悩」とは、そこで足踏みし、誰かの同情を引くために行うものではない。「前に進む」ためにあるのである。
CGにさえ目をつぶれば、キャスティングも実にドラマに有効に機能している。CMではなんかしょぼい感じに見えた正太郎役の池松壮亮くん、これがだんだんと「正太郎らしく」見えてくるのには感心。もっとも「ショタコン」の対象となるかどうかは関知しないが。原作の不乱拳博士に当たる宅見零児を演じる香川照之も、いかにもなマッドサイエンティストぶりを好演している。敷島博士を「立花真美」という美少女キャラに変更して蒼井優に演じさせたのは賛否が分かれると思うが、まあ、水辺での「好きよ」シーンがなければまだ許せたかと思う。……別に「淡い初恋」ドラマじゃねえんだから、アレは要らねえだろ。ああ、ハズカシ。
CGにさえ目をつぶれば……いや、ともかく見ていただいたほうが早いでしょう。ドラマ版『ジャイアントロボ』に対するオマージュをこういう形でハッキリと見せてくれたおかげで、『アイアン・ジャイアント』の何がダメだったかも見えてくると思います。
 ああ、あと、正太郎君の半ズボンにも目をつぶってください(笑)。

2004年03月22日(月) エロだってアニメ。
2003年03月22日(土) メモ日記
2001年03月22日(木) DO YOU REMEMBER?/『梶原一騎伝』(斎藤貴男)ほか


2005年03月21日(月) 福岡・佐賀地震続報。泣いてたまるか(ToT)/ドラマ『青春の門 筑豊篇第一夜』

〔昨日の日記の続き〕
 ずっと地震のニュースばかりだったNHK、夕方五時過ぎにはさすがに大相撲中継に切り替わる。これだけはさすがに放送中止にできまいが、地震速報のテロップだけは流れ続けた。『名探偵ポワロとマープル』『義経』も同様。NHKに対して、もしかしたら痛いアニメファンから「画面に余計なテロップ入れるな!」とか苦情が来てるかもなと一瞬思うが、『ポワロとマープル』じゃそれはないか。ヒロインのグエンダの声が田中美里だったが、まあ悪くはない印象。

 父に博多に帰ってきたら連絡を入れてくれるように頼んでおいたのだが、九時を過ぎても全く音沙汰がない。しげがまた心配をし始めたので連絡を入れてみると、夕方帰着の予定が大渋滞に巻き込まれてバスが全く動かなかったそうだ。今ようやく博多駅に着いたというので、店で待ち合わせをして、車で迎えに行くことにする。
 店に到着してみると、父は仕事の準備をしていた。姉とはさっきようやく連絡が付いたとのこと。父もバスの中で身動きできずにイライラしていたものらしい。「山口の土産だ」と言って、ふぐの「かまぼこ」と「ちくわ」と、「イチゴ大福」をくれたのが状況にそぐわなくてなんだか暢気である。
 続いて父のマンションに回る。部屋の中はどんな惨状になっているかと気になっていたが、寝室のドアが落下物で開かなくなっていたり、居間のビデオが落ちていたり、台所にパックが散らばっていたり、洗面所のラックが倒れていたりしているが、一番心配していたワイングラスのコレクションは、いくつか傾いているものがありはしたものの、割れているものは見当たらなかった。ガラス戸の前に荷物を置いていたので、揺れで飛び出すようなことがなかったのだろう。ウイスキーの空ボトルが一瓶、床で割れていたくらいである。
 仏壇間では雪洞が倒れていて壁時計が落ちていたが、これも割れてはいない。父が「お母さんがあんまり部屋ば片付けんから、腹かいて(=怒って)地震起こしたんかな」なんて言ってるが、そんなことでこんな大地震を起こしたんだったら、母は菅原道真以上の大悪霊である。
 心配していたほどの被害ではなかったので、破片だけを片付けて、「びっくりドンキー」で三人で食事をする。「明日はゆっくりしいよ」と父に言い残して帰宅。10時を回っていたが、東京のグータロウ君のところに無事の連絡を入れる。彼も私の身を心配してメールを入れてくれていたようなのだが、夕方になるまで届かなかったのだ。その後、もう一度ネットで書き込み。

>親父がようやくバスハイクから帰ってきたので、店とマンションとに行って来ました。寝室がぐちゃまらになってましたが、一番心配していた店の鏡と、マンションのワイングラスコレクションはほぼ無事。マンションと言ってもどちらも一階だから、揺れもさほどひどくなくて済んだようです。
>簡単に片付けて、帰宅したらまた余震で山崩れが起きてました。
>しげも、あちこちに「切り傷ができてた」のに今しがた気づいたのですが、これは地震でパニックに陥って気が付いてなかったというより、日ごろの鈍感のせいでしょう(笑)。
>震度が一番ひどいところに住んでる烏丸嬢が一番心配でしたが、先ほどようやく連絡が付きました。ご家族揃って無事で、棚の上に置いてたのも軽いものばかりだったので、ケガはなくてすんだそうです。でもトイレが逆流したとかいう話だけれど、確かアパートの五階なのに、逆流って、大変なんじゃなかろうか。

 また慌てていたので、「烏丸嬢」なんて書いている。これは「鴉丸」が正しい。今日は全く誤植だらけで申し訳ない。「トイレが逆流した」というのはしげの誤情報で、単に貯水タンクが揺れてこぼれただけだそうである。しげはこういう緊急時ですら話を面白くすることしか考えていないから、始末に困る。
 「びっくりドンキー」で食事中のことだったが、父が突然「土地を買って三人で一緒に住まんや」と言い出した。思わず「そんなお金あるんね?」と聞いてしまったが、「それがないとたい」と言うのでズッコケる。「マンション売ってもたいして金にならんしなあ」と言ってため息をつくのだが、要するに父は「お前、金はないか」と私に持ちかけているのである。
 私自身は母が急死したとき、父に「一緒に住もうか」と持ちかけたことがあるので、親との同居にはなんら抵抗はないのだが、これまで「だらしない息子との同居はいやだ」と拒んできたのは父のほうなのに、どういう心境の変化か。別に地震のせいで急に気弱になったとも思えないので、これは年を取ってきて次第に「血は水よりも濃し」と思うようになっていたということなのだろう。
 しかしこういうときの返事が一番困るのである。ここで「金なんてない」と正直に言ったら、「一緒に住みたくないからそんなこと言ってるのだろう」と勘繰られかねない。「住んでもいいけど、ただしお金はそっち持ちでね」とはひどい息子であるが、それ以外に答えようはないのだ。
 しげは「一緒に住んで困るのは父ちゃんのほうやろ」と言うのだが、確かに「自分が迷惑をかけるのを前提で住んでくれ」という意識の持ち主と暮らすことくらい、大変なことはあるまい。


 ネットで劇団の連中の日記を見てみたが、ハカセ(穂稀嬢)、らぶきっつぁん(桜雅嬢)の消息は未だ知れず。電話を何度かかけたのだが全く通じない。劇団ホームページの掲示板には状況報告をするように書き込みしていたのだが、見ていないのかもしれない。地震から十時間経っても何の状況報告もないと、実際ちょっと心配になる。ハカセとか、もしもダーリンのとこにしけこんでたとしたら、震度のいっちゃん高いところなのである。
 加藤くんが「PP関連でメールくれたのは加藤さんだけだった」(この「加藤さん」は草野さんのこと)と書いてるのを見て、なんじゃいなと首をひねる。もちろん私もしげも加藤君には何度も電話をかけたりメール送ったりしてるのだが、全然不通だったのだ。よしひと嬢と連絡が付いたのもかなり遅くだったし、これだけの地震があれば連絡が付きにくくなるのもちょっと考えてみれば当然見当がつきそうなものなのだが。
 だからこそこちらは、長いこと更新してなかった自分の日記にも掲示板にも、早い段階で状況を書き込んでおいたし、劇団の掲示板にもみんなに向けて無事なら無事だと状況を知らせるように書き込みをしておいたのだが、どうも加藤君は自分が心配されているということの意味がよく分かっていないようだ。軽いユーモアのつもりかもしれないが、こういう事態の最中では、卑下はただの悪ふざけにしかならない。地震速報でアニメや特撮番組が潰れることを憤る腐女子とたいしてレベルが違わず、彼女たちを笑えないのである。
 そのあたりの感覚がイマイチないのが加藤君のおっちょこちょいなところで、本人は冷静なつもりでも、やはり浮き足立っているのだろう。

 寝る間際に、マラッカ海峡で海賊に拉致されていた韋駄天の乗組員が無事解放されたとのニュース。まあ、少しは明るいニュースと言えるか。身代金の話がどうなったのか、不透明ではあるけれども。
 全く今日は、一日でいろいろ波乱万丈なことであった。



〔これより3月21日の日記〕
 夕べは興奮していたのか「寝付けない」と言っていたしげ、朝っぱらからイビキをかいて寝ている。最近とみに顎の下に肉が付きつつあるので、その騒音は弥増す一方である。
 一夜明けて、テレビを点けてみると、昨日は放映されていなかった地震当時の映像がいくつか増えている。戦没者慰霊会の様子やら、昨日とは別の保育園の卒園式の様子やら。いつもいつも思ってることなんだけれど、こういう映像ってどうやって入手しているのかね。局のほうから「そちらに映像はありませんか?」って尋ねに行っているのだろうか。素材がそこまで必要なのかよと、これもいつもながらマスコミに対する不快感は晴れない。あとは九電記念体育館に避難している玄海島の人々の様子を紹介。これも一時避難でしかないわけで、先行きが見えない様子は見ていて胸が痛む。私はまだ運がいいほうだ。
 yahooの掲示板を覗いてみたが、「前日に地震雲を見た」だの「飼ってた動物が暴れていた」だの、お前ら江戸時代の人間か、と言いたくなるくらい非科学的な書き込みが跳梁している。断層が電磁波起こして電離層に影響を与えて変な形の雲を作るとか言ってるのだが、別に断層が生じなくても電磁波は空を飛びまくっているし、変な形の雲なんてしょっちゅう見かける。「地震雲」と称するものの形が一定していない以上は、地震と雲との間に明確な関連性はないと断定するのが常識的な判断というものだ。「動物が騒ぐ」に至っては何をか言わんやで、ケダモノはいつだって騒いでいる。うちの近所の犬は逆に昨日のんびり昼寝してたがこれはどうなるのかね。
 そんなのは何の科学的根拠もないことはとうの昔に証明されてるんだが、未だに平然とこういうデマを流している御仁が多いということは、ネット社会の情報伝達能力なんて、日常においては屁の役にも立ってない面も大きいということだ。結局、人は自分の信じたいことしか信じない。占いだの血液型などにかぶれる能天気な連中が途絶えないのもムベなるかなだ。


 ハカセ(穂稀嬢)から携帯のアドレス変更のメールが来たので、これで劇団の連中で消息が知れないのは、らぶやん(桜雅嬢)だけになった。けれどハカセが元気なら、らぶきっつぁんもきっと大丈夫だろうから(^o^)、多分、仲間うちで大きな被害にあった者はいなかったろうと思われる。暢気な彼女の性格からすると、無事ゆえに連絡する気も起こらなかったというところだろう。
 結局、地震で一番被害を受けたのはウチか。震度五弱の余震の危険はまだ数日は続きそうだと言うし、散乱した部屋を片付ける気にはまだなれない。台所を片付けようと足を踏み入れてみたら、サラダ油がこぼれていて、滑って転んだ。左肘を打って、ちょっとすりむいたくらいだが、これも一応二次災害と言えるか。
 しげの部屋に入るとき、割れた食器を踏んで足の裏をすりむいたが、これは食べた後で食器を片付けずに放っといたしげの仕業なので、天災ではなく人災である。しげのだらしなさがこういうときでも被害を増大させているのである。

 ニュースでは、地震の負傷者は七百人を越えたと伝えた(グータロウ君のお子さんが、この数字の中にしげも含まれているのかと心配していたようですが、病院にかかるほどの傷ではありません)。それでもこれは震度を考えると比較的被害が少なかったと言えるらしい。筑紫平野の岩盤は、かなり頑丈だったのである。
 それでも、中央区では倒壊の危険のある四階建てのビル付近から、住民が避難したというニュースを伝えている。映像を見ると、そこは支柱の二本が折れていて、なるほどピサの斜塔ほどではないが建物が傾いているのは見て取れるので、これは危ないとすぐに分かるのだが、ほかにも目に見えないところに亀裂やら破損やらが生じている建物も多いのではなかろうか。福岡・佐賀の住人は、これからはちょっとした“家鳴り”があってもそういう不安に苛まれる日々が来るのである。PTSDとはこういうものかと実感する人も多かろう。
 こうした災害時に、行政の対策の出遅れが指摘されるのは常であるが、はっきり言って大規模災害に際しての対応のノウハウなどあってなきがごとくであるということをこそ今回は実感した。
 「まさかこんな事態が起こるとは」と被災者が口々に言っているのは全て「嘘」で、一応考えてみたことがあるけれども、何一つ対応を取らないでいることで現実から目を逸らしていただけなのである。
 まさしく誰もが「現実よりも虚構」の中で生きているようなもので、極端に言えば、小松左京の『日本沈没』に描かれているように、どんなに事前に警告が行われようと、「なすすべもない」部分はどうしても生じるのだから、“初めから対策を放棄している”のである。そのくらい、人間は、あるいは日本人は、不慮の災害に対して事前に何かを想定することなど出来ない。「事故を考えまいとする文化」の中で育てられてきている以上、どんなに優秀な人材が行政に関わっていようと、結果としては不手際しか生じないようになっているのである。
 さびしい事実ではあるが、人生はやはり「運次第」だと諦観するよりほかはない。


 今日は国際会議場で阿佐ヶ谷スパイダースの舞台『悪魔の唄』の公演が行われる予定で、運良く前から二番目の席が取れていて楽しみにしていた。
 しげは昨日の今日なので、公演が無事行われるかどうか心配していたのだが、これは実際に出かけて見なければ状況がわかるものではない。気になるのは、会場が博多埠頭の近くで、地震、津波の影響を受けやすい場所であることだ。祈るような気持ちで会場に行ってみたのだが、会場の前で係員の方がメガホンを持って「公演は中止です」と怒鳴っていたので、ああ、と天を仰いだ。
 「会場が使用できない状態になった」という説明だが、具体的なことは分からない。会場前のアスファルトの道路を見ると、排水溝から溢れたと見られる「潮」の跡が白く乱れて広がっている。報道では「津波は来なかった」とのことであるが、実際にはある程度の波は来たのだろう。配線がイカレたか、天井から照明器具が落ちてきでもしたか。もしそうなら、『オペラ座の怪人』のまんまである。会場の向こうを救急車がぱーぽーぱーぽーと走っていく。まだ「何か」が起こっているのだろうか。
 会場の入り口ではチケットの払い戻しの手続きとともに、作・演出の長塚圭史さんほか三名の方が、お詫びを兼ねてであろう、急遽サイン会を開いていた。
 長塚さんは、役者としては以前『奇跡の人』であまり印象のない役を演じられていたが、演出家としては『ピローマン』などで素晴らしく濃密かつ緊張感溢れる舞台作りをされている。しかし、考えてみれば長塚さん、まだ20代なのである! 私自身、最近は自分がとみに頑固ジジイ化していると実感しているので、若い人で、しかもこの人は才能があると見込んでしまったというのは自分でも驚いている。
 長塚さんは、先日、第55回芸術選奨文部科学大臣新人賞演劇部門を『はたらくおとこ』『ピローマン』で受賞。また、第4回朝日舞台芸術賞でも舞台芸術賞を受賞している。サインを頂きながら、ちょっと緊張してしまったが、「『ピローマン』が素晴らしかったので楽しみにしていたのですが」「受賞おめでとうございます」と声をおかけすると、逆に「残念です」「とんでもないです」と頭を下げられた。頂いたサインを見ると、今しがた仰った「残念です」という言葉がそのまま書かれてある。多分、長塚さんも、何とか公演が出来ないものかと、ギリギリまで粘られたのだろう。しかし、もしも公演中にまた余震が来たらどうするか。お客さんのことを考えれば、中止もいたし方がない。こういう不慮の事故で公演が出来ない心境というのは痛いほどに感じるので、こちらも「残念です」というしかない。
 シアターチャンネルでの放送はあるようだが、DVD発売の予定はないとのこと。うち、シアターは入らないんだってば(泣)。


 「せっかく出てきたのにい。地震のやつめ」と愚痴りまくるしげを宥めながら、せめて食事でもと「バーミアン」で奮発してコース料理。と言ってもチェーン店のコースだから1500円しかしない(笑)。
 やけ食いして帰宅、そのままフテ寝。
 小一時間して起き、映画にでも行こうかとしげを誘うが、「いい、もう」と布団をかぶったまま。しげのショックを考えれば、これはもうどうしようもない。ちょうどよしひと嬢が日記に「ROSSO」のライブで博多に来たことが書いてあって、こちらは地震をものともせずに予定通り実行するとのことなので、しげの悔しさは弥増しているのである。


 ネットを見ていたら、中田秀夫監督のリメイク版『ザ・リング2』が、20日発表された週末の北米興行成績で、推定3600万ドル(約38億円)の1位に輝いたとのこと。もちろんこれは、昨年10月の清水崇監督の『THE JUON/呪怨』に続く、日本人監督としては史上2度目の快挙である。
 クロサワもたけしもゴジラも成し得なかったことを清水・中田の両監督は成し遂げたわけで、これはもっと喜んでいいことだと思うのだが、なんか日本人の反応は今一つ鈍い。
 私も基本的にはセオリーだけで作ってるようなハリウッド映画はつまらないと思っているし、『呪怨』については作品として本当に評価できるのかどうかという点では疑問を抱く部分もなくはないのだが、かと言って黙殺すべき映画だとも思わない。『ザ・リング2』についてもせめて「期待」くらいは持ってもいいのではないか。 


 竹島問題について、本日21日、韓国の俳優、ペ・ヨンジュンが自分のホームページで「韓国の領土であり、だからこそ理性的に対処すべきだ。私に与えられた役割は、領土に線を引く一言より、アジアの家族の、心と心の線をつなげていくことではないかと思う」という見解を述べたとか。
 何でまた「ヨン様」がわざわざそんなことを、と思っていたら、先日の新作映画の記者会見で、記者から竹島問題の立場を問われたけれどもそのときは回答を避けていたので、インターネットの掲示板などで批判を受けていたということである。一介の役者に政治的立場を明確にするよう求めるというのは、やっぱりあの国も所詮は自由のない「軍国主義」の国なんだねえと思わざるを得ない。日本も戦時中はこういう「非国民探し」が横行していたのである。
 結局、ぺさんは「竹島は韓国領」と言わざるを得なかったわけだが、韓国人ならそう主張することは別におかしなことでもない。それをあえてはっきり言わせようというのは、親日的な役者を苛めてやろうとする記者たちのいやらしさでしかあるまい。ぺさんは「だれの領土かという一言で実際に変わることは何か、真の解決のためにどんな役に立つのか、冷静に考える必要がある」と述べて、踏み絵を強要し、感情対立をエスカレートさせる現状に懸念を示したという。
 私は別に『冬ソナ』にもたいして関心は持っていなかったし(何回か見た程度)、日本人のおばさんたちがヨン様ヨン様とキャーキャー言ってるのを見ていても、好きにしてれば、としか思わなかったのだが、なんという「オトナ」な態度であることか。それこそ「冷静」に考えれば、竹島が日本領土か韓国領土かというのは、双方の言い分にそれぞれ根拠があることなので、日本人だろうと韓国人だろうと断定したモノイイはできないはずなのである。要は行政のサボリが根底にあるわけで、本気で「日韓友好」とやらを考えているのなら、別に深く関わる必要もない「庶民」が立場を明確にするよう強要させられるような事態は、はやいとこ解決してほしいものだと思う。


 テレビで『青春の門 筑豊篇第一夜』。
原作読んだのも映画見たのもかなり昔なので、こんな話だったかいなと首を傾げながら見る。東宝版と東映版があるわけだが、吉永小百合ないしは松坂慶子、大竹しのぶないしは杉田かおるのエッチシーンしか覚えてないぞ(笑)。
 鈴木京香の熱演は光るが、全体的にはドラマのポイントが親子の情愛にあるのか朝鮮人問題にあるのか筑豊の人間の直情さを肯定的に見たいのか少年の性の目覚めにあるのか、それぞれ突っ込みが甘く、やや散漫な印象。映画の方も長ったらしかったけどね。
 ベストセラー小説の映画化と言ってる割りにはどちらのシリーズも途中で終わっちゃってるので、今回はぜひ最後まで続けていただいて、「で、『青春の門』って何の話なの?」ってとこをはっきりさせてほしいのだけれど。
それにしても今回のドラマ化、筑豊弁が板についてないレベルでは近年稀に見るほどにひどかったな(笑)。


 ああ、23時59分にまた震度3の地震。救急車もまた走ってる。
 部屋、全然片付けられないってば(泣)。

2004年03月21日(日) だらだらしてたんでたいした内容がない。
2003年03月21日(金) 何だかクレームがついたゾ/『ネコの王』4巻(小野敏洋)/DVD『プリンプリン物語 友永詔三の世界』
2001年03月21日(水) 『GQ』余燼/映画『アンブレイカブル』/『さすらいエマノン』(梶尾真治)ほか


2005年03月20日(日) じじじじじじじじ地震!(追加アリ)

 えーっと、サボってた分の日記を更新しようとがんばって書いてたところだったんですが、いきなり震度5〜6程度の地震が襲って、福岡市内はえらいことになっとります。とりあえず、崩れ落ちてきた本の山の間に埋もれはしましたが、しげも私もたいしたケガはありませんでしたので、無事のご報告だけしております。
 地震発生が10時50分ほど。それから一時間ほど経ちましたが、まだ余震は何度も続いています。津波警報は出たまま解除されません。電話回線がパンク状態なので、知り合いとの連絡も付きません。外は救急車が走り回っていて、ニュースだと電車も新幹線も止まっているそうです。掲示板やチャットのほうにも状況を書き込んでいきますので、その時も生きていたらお会いいたしましょう(笑)。



 しげが『鋼の錬金術師』のDVDをずいぶん見損なっていると言うので、夕べから27話あたりから一気に見る。と言っても、私はもうとうに見ているので、ウツラウツラしながら見ていた。
私は原作もアニメも別物としてどっちも面白いと思ってるのだが、しげはハッキリ原作派なので、特に原作との乖離が激しい3クール目以降は、全然面白くないらしい。「なんでみんなバカばっかなんだよ!」と怒っている。つまんないのを12話くらい続けて見たので、かなり気分を悪くしたらしくフテ寝してしまう。
だもんで、日曜朝の恒例、特撮・アニメ三昧は今日も一人で見ることに。『響鬼』だけは録画を忘れずにしげに後で見せねばならないので、それまでは私も眠るわけにはいかない。

 『仮面ライダー響鬼』八の巻「叫ぶ風」。
 前回に引き続いて、イブキの初活躍編。太鼓に続いてトランペットだから、打楽器、管楽器と来たわけで、この分だと次は鍵盤楽器か弦楽器か。でもピアノはちょっと持ち歩きに不便だからなあ。ギターならありえるねえ、渡り鳥かキカイダーかって感じで印象がダブっちゃうのはいささかヨワイけれども。
明日夢と、イブキの弟子のあきらとの葛藤がもう一つの今回のモチーフ。最初は対立ムードだったのが最後はちょっと“イイ感じ”になって、これがひとみとの三角関係に発展して行くのか行かないのか、ってあたりが、これからの展開のキモになってくような予感。
まあ、ラブコメの要素が入っても構わないくらい、今回のシリーズは“懐が深く”なってるんで、そういうのもアリだとは思うのだけれども、せっかく新機軸を打ち出して面白くなってきてるところなんだから、ありきたりの展開でドラマの足を引っ張るような悪い方向には行かないでほしいところである。
これから先、ドラマを構築していくにはやはり敵さんの存在をもっと強化していく必要があるわけで、単に似たような妖怪が登場してきて(「マカモウ」ってネーミングはいささか凝り過ぎだが)そいつらを散発的に倒していくだけじゃ、到底一年間の長丁場は持たせられまい。かと言って「ぬらりひょん」みたいな「妖怪大統領」的なキャラを出してくるとか、「実は妖怪こそが人類以前の先住民族」とか、未だにノンマルトな設定を持ち出してこられたりするのも、いい加減飽き飽きしているので、それこそ視聴者が予測できないような「新機軸」を打ち出してくれたら、と大きな願いを持ってしまうのである。そういう期待にも今度のスタッフは答えられるんじゃないかなと思いたいんだけどね。


 『二人はプリキュア マックスハート』を見た後、昨日買ってきたDVDを続けて見る。
一本目は『泣いてたまるか』第一巻。
これは例のディアゴスティーニのシリーズで、もとは昭和41年から43年にかけてテレビ放映された渥美清、青島幸男、中村嘉葎雄主演による一話完結式の人情コメディドラマシリーズである。今回は、そのうち、渥美清編だけを抜き出して27巻で発売しようという趣向。このドラマの何がすごいって、脚本家に野村芳太郎、山田洋次、森崎東、橋田寿賀子、橋本忍、木下恵介、家城巳代治、早坂暁、関沢新一、笠原良三、深作欣二、清水邦夫、佐藤純彌、山中恒(!)という、テレビ畑に留まらず映画会社も乗り越えた超党派の錚々たる面子が集まっていて、これが当時としてもかなりなビッグネームばかりだったことなのだ。
にもかかわらず、意外に見ていた人が少なくて、これが知る人ぞ知るシリーズになっているのは、当時の裏番組がNHK大河ドラマの『源義経』だったせいが大きいと思う。視聴率が10%半ばというのは、当時としては決して高い数字ではない。、客商売だったうちでも、多分ずっとチャンネルはNHKに合っていたはずで、私も『泣いてたまるか』は一本も見たことがないのである。そういうライバルに苦戦した番組ではあったが、二年半の長期に渡って続いたのは、やはり「渥美清」という役者の魅力をテレビ局も制作スタッフも買っていたからに他ならないだろう。全54話、渥美清が全て違うキャラを演じ分けるというとてつもないシリーズで、彼が決して「寅さんだけの役者でない」ことを知ることができる。つか、知れよみんな。いやホント、私は『寅さん』だけで渥美清を語る人とは、ファンであろうとなかろうと口を利きたくないくらいである。
第一巻は、第一話『ラッパの善さん』と第三話『ビフテキ子守唄』の二話を収録(収録順は必ずしも放映順ではない)。善さんが「戦時中のラッパ兵だった」というのは、昭和40年代だったら特に説明しなくても、戦時中、彼が新兵としてこき使われていたことを意味するのだとすぐに理解される設定であった。善さんは今はタクシー会社の下っ端、というキャラクターだけれども、この時代、学園ものの用務員さんなど、ドラマや映画にはやたら「元ラッパ兵」が登場していたのである。「戦中も戦後も一介の庶民」を象徴するのに「元ラッパ兵」の設定は適切であった。酔っ払って泣きながら、真夜中にラッパを吹き鳴らす迷惑至極な善さんに対して、視聴者が決して腹を立てることがないのはまさに「ラッパ兵」に対する同情と共感をこの時代の人々が持っていたことの証左であろう(このとき怒ったミスター珍に追いかけられて「身をかわす」渥美清の敏捷かつキレのいい体技を見よ!)。
脚本家はもう説明するのも野暮な、『張込み』以下の松本清張作品で有名な野村芳太郎、監督は『ウルトラQ』で『カネゴンの繭』『育てよカメ』『鳥を見た!』など、ファンタジー色豊かでありながら生活感とナンセンスも同時に表現するという稀有な作品群を残した中川晴之助。解説書には脚本家や監督のフィルモグラフィーなどが書かれていないが、これもきちんとフォローしてほしいところである。
昨年DVDボックスが出たばかりだが、いきなりこんな形で発売というのは、ボックスがあまり売れなかったということなのだろうか。だとしたらこんな残念なことはない。隔週刊だから、一月四千円弱でシリーズが揃えられるのである。かなりお得なお値段だと思うのだが。

 続けて居間で寝っ転がったまま、DVD『鉄人28号』を見ていたのだが、その最中に地震が来たのである。
 はじめ少しグラッとしたな、と思ったのが途端に強い縦揺れが来た。天井の蛍光灯が大きく揺れ、積み上げていた本の山が両脇から雪崩を起こして私の上に降ってくる。棚の上からはビデオや本が本棚から吐き出されるように飛び出してくる。その様子をしっかり目の当たりにしながら、揺れが激しくて立ち上がることもできない。動けはしないが、動けないと分かるとかえって肝は座るもので、「この程度の揺れで収まるなら、何とか命は助かるな」「これ以上揺れが激しくなってドンと来るようなら、もう諦めて死ぬしかないな」という境界線も見えてくる。だもんで、本やビデオ、CDの類の一部は、目の前をかすめて落ちてくるのだが、それをよける程度の心の余裕は生まれるのである。
 隣室でどだだだだと山崩れの音がして、しげの「きゃー」という悲鳴も聞こえるが、助けに行ける状況ではない。ケガをしていないことを祈るだけである。
 時間にすれば一分ほども経っていないだろうが、揺れが一段落したな、と思われるころ、隣室からしげの私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。続けて「助けて〜」という気の抜けた声も。その気の抜け具合から、とりあえず悲惨な状況になっていないことは分かったが、部屋の中は完全に足の踏み場をなくしている。私の体の上にもビデオと本の山が積み重なっていて、すぐには動けない。腹のところから足元にかけての本を脇にどけて、足を引き出してようやく立ち上がれる。隣室に行く道はCDがかなり落ちているので、これを踏まないように横に積み重ねていく。ほんの少しだけ隙間を作って、足を差し込み、隣室を覗いたら、やはりしげは本の布団を着て顔だけがその間に見えている。
 「何でオレ、こんな格好で寝とるとー? 横向いて寝てたはずなのに、上向いてこんな格好してるー」
 どうも地震が起こった瞬間はまだ寝ぼけていて、無意識のうちに崩れてくる山をよけながら、それでもよけきれずに山の中に埋まってしまったものらしい。「動けんー、重いー」と唸っているが、泣いてはいないのでひどいケガはしていないようだ。「今助けてやるからちょっと待て」と声をかけて、本をどけながらなんとかしげの頭の後ろに回る。それからさっき自分が抜け出したのと同じ要領でしげの体の上の本を脇にどけていく。「立てるか?」と聞くが、しげは「足に力が入らーん」と寝惚けた声で答える。睡眠薬もまだ効いているので、実際、足が痺れたままなのだろう。「足に力入れなくていい。ケツを引け。引き出してやるから」と言いながら、しげの体を上に引き上げる。尻でずずっ、ずずっと後ろにずりながら、ようやくしげも山の中から抜け出した。
 しげにもようやく地震でこんな目にあったのだということが自覚できたようだが、地震の被害がどうかということよりも、眠りを妨げられたことのほうが腹立ちの種であるようで、「寝た気がせん」「夜まで寝れんと?」とぶつくさと文句を言う。あまつさえ、「地震が『響鬼』のあとでよかったね。『響鬼』の最中だったら番組が中止になってたよね」なんてことを言う。その気持ちも分からんではないが、真っ先に心配あるいは安心することはそれじゃなかろう。しげは日頃は“痛い”オタク嫌いを標榜しているのだが、こういう非常識なところは痛いオタクそのものである。覗く気になれんが、あっちこっちのオタクサイト、しげと同じようなこと言いまくってんだろうなあ。

 外は救急車のサイレンが喧しいが、こちらはようやく落ち着いてきたので、一息ついてテレビを点けてみることにする。
地震発生は午前10時53分、マグニチュード7.0で、福岡での震度は5から6。津波注意報も発令されていた。天神での地震が起きた瞬間の映像ももう流れていたが、福ビルの被害が一番ひどく、窓ガラスが一斉に割れて街路に降り注いでいる。休日だし路上にいた人も結構いたはずで、破片を浴びてしまった人もいたのではなかろうか。
最もひどい被害を受けた地域はどうやら玄海島のようで、ヘリコプターからの映像では、崖崩れを起こし、全壊している家屋は一つや二つではない。未だ救助の手が差し伸べられている様子も見えず、死者が出てはいないか心配である。

連絡が通じない可能性もあるかと思いながら、父に携帯から電話を入れてみる。
予想通り、呼び出し音すら鳴らず、全くの不通。しげは「外に出てるのかなあ。天神とか行ってるかも」と落ち着かない様子だが、状況が分からないものをどうにかできるものでもない。最悪の場合、マンションで倒れてきた棚の下敷きになって気絶しているということだってありえなくはないが、慌てて父のマンションまで駆けつけていったところで、携帯が繋がらない現在、もしも別の場所にいたらかえって連絡が付かなくなる。少し時間を置いてもう一度連絡を取ってみるべきだろうと、とりあえず、ひと心地つけることにする。
ネットを開いてみると、こちらは書き込みができるようであったので、心配してホームページを覗いている人もあろうかと、命に別状はないことは書き込んでおく。

>うはあ、思いっきり来ました。地震。本棚崩れまくり、私もしげも、山の中に埋もれましたが、とりあえずかすり傷ですんでいます。どの部屋も足の踏み場がない常態ですが、片付けできるかどうか先が見えません。
>今現在、電話回線がパンク状態で知り合いと全く連絡が付かないので、知り合いの被害状況は分かりません。分かり次第、掲示板に書き込んでいきます。

 「状態」が「常態」になってる誤植はもう慌ててるんでお気になさらぬよう。
 チャットも開いてみたが、すぐに書き込み不可能になる。やっぱジャバチャット、ものの役に立たんわ。
 もう一度父に自宅電話から携帯に電話をかけてみると、今度は通じた。
「今どこ?」
「山口や」
「山口!? 何でそんなとこへ?」
「バスハイク。昨日、急に思い立って空きを探して行くことにしたと」
「じゃあ、地震のことは知らんとね」
「それは運転手さんから聞いた。お前んとこはどげんや?」
「本の山に埋もれたよ。この分だと店もマンションもひどいことになっとるんやないかな」
「それはしょんなかろう。ケガしとらんならよかたい」
「お父さんも外に出とってよかったね。じゃあ、地震は全然感じ取らんとね?」
「バスに乗っとっちゃもん。何が感じるもんか。お客さんに『地震はどげんでしたか』て聞かれたっちゃ、『知りまっしぇん』としか答えられんとたい」
しげと言い、父と言い、なんだか随分暢気だが、ともかく命に別状がなかったことは幸いであった。

知り合い連中とはほとんど連絡が付かない状態なので、とりあえず食料を調達しに出かけることにする。近所も食事どころの話ではないらしく、出前の寿司屋が走り回っている。逆にこういうときにはお店屋さんも大変だろうから休ませてあげたらどうかという気もするのだが。近所の「COCO一番屋」は、地震時には開店直前だったはずだが、電気を落として休業状態であった。
帰宅してみると、早速掲示板に書き込みがあったり、知り合いの何人かから何人か心配のメールが入っていた。履歴の時間を見ると、メールは地震直後に打たれていたのだが、やはりこちらに届くのに時間がかかっているのである。内容はもちろん、我々夫婦が「本棚の下敷きになってないか」、それを心配しているもの。誰も考えることは同じである。
特に加藤君のそれは、「藤原家の本棚は大丈夫ですか?!」というものだったが、これでは我々の安否より、本棚の安否を心配しているようである。加藤君もよっぽど慌てていたようだ。
以降の事情も、掲示板に書き込みをする。

>食料調達に外に出てきましたが、近所の店は臨時弊店のところが多い。
>でもセブンイレブンはあっという間に営業再開。根性あるなあ。ひっきりなしにお客さんが訪れて食料買い込んで行ってます。家の中が大変で大人が外に出られないらしく、カード持ったお子さんとかも来ている。
>私ら夫婦は何とか「けもの道」を作ったところで果てて昼寝。地震から五時間経ってるけれど、今もまだ余震が続いています。テレビを見ると、けが人が少なくとも福岡・佐賀で259人とか。住宅全壊が10棟、一部損壊が200棟以上。でも、鉄道バスの運転は何とか再開しつつある模様。
>劇団の連中の安否は、加藤君からメールがあったのみ、ほかの連中とは未だに携帯が不通なので分かりません。みんな大変な状況だろうけれど、無事なら劇団のホームページに早いとこ書き込みしてくれ。

 「閉店」がやっぱり「弊店」と誤植されているなあ(笑)。
 けが人はこの時点では200人台であったが、すぐに300人を越し、夜には400人を越すことになる。
 続けての掲示板書き込み。

>JRは六時過ぎに全面復旧。けれど死亡者はついに出た。75歳のおばあさんが倒れてきたブロック塀の下敷きになって亡くなったらしい。福岡で震度五以上の地震が観測されたのは、大正十二年に観測が始まって以来、初めてだということだ。つまりは「全く地震なんて起こったことがなかった」というのと同じことで、それくらい、福岡という土地は地震に縁がなかったのである(昔、上京したとき、東京はなんて地震が多い土地だと驚いた記憶がある)。
>津波は来なかったけれど、福岡タワーのある百道浜のあたりは、地面が液状化しているとか。落下物のある道も多く、復旧にはしばらくかかりそうだ。
>職場との連絡は通じず終い。何かあれば緊急連絡が入ることになってるのだが、連絡網自体途絶えてる可能性が高いからどうなってることか。まあ、誰かが駆けつけて対応してるとは思うけれども。
>よしひとさんとは電話が通じた。ご無事で何よりだが、なんと今日が誕生日だったそうで、10年前にも三月二十日に例の地下鉄サリン事件が起きていたとか。全く、狙い済ましているようで、お気の毒なことである。
>しげは今疲れ果てて寝ているが、寝ぼけて「そうなの?」とか意味不明なうわごとを言っている。まあしげが寝ぼけるのはいつものことなので、地震のせいではないかもしれないが。

 私も暢気に書き込みしているようであるが、この間もずっと余震は続いているのである。広島の友人に無事の連絡を入れたら、「新潟みたいに余震の後に本震がまた来る場合もあるから気をつけろよ」と言われる。しかし、本震がまた来ちゃったら、助かるか助からないかは本当に運でしかないのだ。もともと私は事故だの病気だの手術の失敗だので死にそうな目にあったことが何度となくあって、そのせいですっかり運命論者になっていたのだが、また「人生は運だけ」ってのを実感することになった。

2004年03月20日(土) 『座頭市』と『フイチンさん』と、長さんの死
2003年03月20日(木) ヨッパライがいたゾ/DVD『サイボーグ009 第2章 地上より永遠に2』/『帰ってきたウルトラマン』vol.6
2001年03月20日(火) オタクの花道/映画『ギャラクシー・クエスト』/『Q.E.D.』9巻(加藤元浩)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)