無責任賛歌
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2001年04月26日(木) |
イシャはどこだ!/映画『黒蜥蜴』(1962年・大映)ほか |
朝になったら少しは具合もよくなってるかと思ったが、相変わらず眩暈が激しい。 寝汗はかいているが熱はないし、頭痛もしないので、風邪ではなさそうだ。 要するに自律神経失調症の類かと思って、ともかくも医者に行く。 診断は一言、「風邪ですね」。 眩暈と立ちくらみと吐き気と寒気しかしないのに? 「寝汗をかいてるってことは熱が出てるってことなんですよ」 ともかく医者にそう言われた以上は納得するしかない。栄養剤の注射をしてもらい、薬をもらう。心なしか、注射のおかげで気分が回復したような。
病院の待合に、大塚製薬発行の『OTSUKA漫画ヘルシ−文庫』というのがあったので、何気なく手にとってみると、この作者のラインナップが凄い。 ほんの小さな冊子なのに、横山隆一・前川しんすけ・二階堂正宏・浜田貫太郎・秋竜山・小山賢太郎・赤塚不二夫・あべさより・石ノ森章太郎・ヒサクニヒコと言った、錚々たる面々がズラリと並んでいるのである。でもなんだかいかにも大家の手遊びと言った感が強く、ほとんどマンガ的に面白いと言うほどのものではなかった。 唯一笑えたのが二階堂正宏の『生命の誕生』。だいたい、健康シリーズでなんで「生命の誕生」か、という気がするのだが、その生命の誕生を探るために、ビッグバン直後の宇宙へ「どこでも四畳半」で飛んで行く、というのが無茶苦茶だ。で、主人公の男の子の名前が「無茶雄」。……確信犯だな、こりゃ。 ほかにも『ぞうのはなはなぜながい』という絵本があって、この絵を『コロポックル物語』シリーズの村上勉が描いている。何気なく手に取ってみると、これが表紙には書いてなかったが、あの『ジャングルブック』のラドヤード・キプリング原作の童話であることに気付き驚いた。 さらにはその中に『クジラはなぜクジラになったか』という話が収録されていて、これの原作者が『アイアン・ジャイアント』のテッド・ヒューズ。 うひゃあ、なんだかさりげないところでとんでもないものを見つけてしまったぞ。ストーリーも結構ぶっ飛んでいて、クジラはもともと神様の畑に生えていた野菜だったそうである。あまりにでかいその野菜のせいで、ほかの野菜を育てられなくなってホトホト困り果てた神様、仕方なく動物たちにクジラを運んでもらって海に捨てた。クジラは塩を吹いてなんとか小さくなり、もう一度畑に戻りたいと今も塩を吹いているのです、というもの。 ……オチは『李さん一家』か『ヨダカの星』か。なんにせよなかなかの珍品である。 出版社等が判れば、と、あとでネットを検索してみたが、この本に全くヒットしない。……もしかして、結構な希覯本? もういっぺん病気になって(おいおい)、医者に行ってタイトルと出版社、確かめてこようかなあ。
仕事は今日から少し楽になる。 明日一日働けば三連休だし、ちったあ養生できようというもの。 何人かの同僚から「大丈夫でしたか?」と心配されるが、去年はこんなふうに気遣ってもらったことって、なかったなあ。この程度のことなのに、なんだか妙にうれしくなってしまう。 カラダはツライが、こうなると俄然働かねばなあ、という気になる。やっぱり去年の上司は人を使う術を知らぬやつだったのだとつくづく思うな。
帰宅してLD『黒蜥蜴』を見る。 個人ホームページを立ち上げるために、資料として以前買っていたのをやっと全編通して鑑賞。 珍品と聞いてはいたが、確かに凄い。エアチェックした『黒蜥蜴』、ウチには美輪明宏、小川真由美、岩下志麻版がそれぞれあるのだが、「踊る」黒蜥蜴ってのはこの京マチ子版だけだろう。 誰だ、『黒蜥蜴』をミュージカルにしちまおう、なんて考えたのは(^_^;)。 監督の井上梅次、言わずと知れた『嵐を呼ぶ男』の監督さんで、和製ミュージカルならお手の物であろうが、どうも違う気がする。思うに、こんな素っ頓狂な発想は、脚色の三島由紀夫以外にないのではないか。なにしろ、自分の戯曲にはもともと無かったミュージカル用の作詞まで手がけているのである。 ホームページには乱歩の原作、三島由紀夫の戯曲、新藤兼人の脚本の三つを比較して分析したものを載せようと考えているのだが、さて、完成はいつになることやら。 名探偵明智小五郎役は大木実、『恐怖奇形人間』でも明智を演じているが、どうしてこう「珍品」の明智ばかり演じているのか。
マンガ、半村良原案・田辺節雄作画『続戦国自衛隊』3巻読む。 アメリカ軍をタイムスリップさせ、自衛隊を壊滅させたのはいいアイデアだろう。まともに戦闘すれば侍が自衛隊に勝てるわきゃないんだから、このネタのポイントは、「いかに自衛隊を弱くするか」にかかっているのだ。 そして、この巻でようやく、この世界がパラレルワールドの日本であり、本来の歴史とは関係ない、という設定が出された。 これでもう、怖いもんなしである。歴史が変わるか変わらぬか、あと1巻程度で終わりだろうから、うまいオチをつけてもらいたいものだ。
「ハラ減った、ラーメンでも作って」と女房に頼んだら、「ハンバーグ」を作ってきた。 さて、これはサービスなのか反抗なのか?
唐沢俊一さんもようやく(と言っても、公開から1週間経ってないんだが)『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』をご覧になったようである。 感想を日記に書いただけでなく、唐沢さんにしては珍しく、オタアミ会議室の方にも書き込みをされて、ほぼ絶賛である。 正直言って、唐沢さんがどういう感想を抱かれるか、不安であったのだ。以前から唐沢さんの著書を拝読し、自分と似た感性を持っていらっしゃることを知り、共感も覚えていたのだが、似ているだけにかえって同族嫌悪的反発も起きる。 少しでも意見の違う部分があると、「いや、それは違うのではないか」と反駁したくなってしまうのである。もちろん、冷静になって考えれば、たいていはムキになる必要もない、少し視点を変えてみればそういう意見も有り得る、という程度の、許容範囲内のものに過ぎないのだが、なかなかそう落ちついて考えられるものでもない。 今回の唐沢さんのご意見の中でも、私は「この作品がカリスマとして、世のアニメマニアたちの常識をくつがえす力を持っていないのは、まさにその出来のよすぎるところに原因がある。ダイナミクスというのは、偏頗なものに宿るのだ。」というところで引っかかった。 考え方自体はまさしくその通りだと思うが、つい、「でもその『偏頗なもの』って、現実的にはたいていダイナミクスのカケラもなく、カリスマにすらなり得ないものが多いんじゃないでしょうかねえ」などと憎まれ口を叩きたくなってしまうのだ。 唐沢さんを毛嫌いする人間なら、更に「唐沢はアカデミズムを嫌うあまり、王動的な作品を否定している」と見当違いの難癖をつけてくるだろう。 もちろん、そんな行為に意味はない。これも唐沢俊一批判をする人間は全く気がついていないことなのだが、唐沢さんがアカデミズム自体を否定したことなどは実は一度もないのだ。 唐沢さんが批判していたのは、“従来の”アカデミズムが見逃し、取り落としているモノが世の中にあまりに多い、という点なのである。 実際に社会を構築し動かしているエネルギーは、「国語算数理科社会」のようなおベンキョウによって作られるものなどではなく、それ以外の得体の知れない様々な“ガジェット”の方にあるのではないか、と指摘しているのである。その論理の立て方自体は立派な「アカデミズム」である。 つまりは従来の知とは別の知の大系でモノを見ようとしているのであって、唐沢さんの「B級学」も、岡田斗司夫さんの「オタク学」も、それが「学」であり、アカデミズムであることは、しっかりタイトルで謳っているではないか。 私が憎まれ口を叩きたくなるのは、唐沢さんたちが、敵のそういった誤解をあえて引き出すために「B級」だの「オタク」だのといういかにも反発を買いそうな言葉を使って差別化を図っている点で、そんな言葉を使わなくても既に唐沢さんたちのやっている行為は「博物学」ないしは「考現学」の範疇で説明できるじゃないか、と言いたくなってしまうのである。 でもそんな大人しい言葉では、とても世間の関心を呼ぶものでないことは私も重々承知している。時には揶揄、時には皮肉、時にはハッタリと、様々な「演出」を試みねば、言葉は人の心に届かない。 真実が心に届くのではなく、たとえウソでも心に届いた言葉が真実となるのだ。 多分、『オトナ帝国の逆襲』についても、唐沢さんは冷静にその欠点をも見つつ、あえて「ベタ誉め」する方法を選んだのだろう。しかもそのやりくちが「この面白さ、若いお前らにはわかるまい、ザマーミロ」という挑発的なモノ(^_^;)。ううむ、私はさすがにそこまで思いきっては書けなんだ。やはりプロの方は辛辣である。 『キネ旬』などの夜郎自大な映画雑誌は、今年も『クレヨンしんちゃん』をほぼ無視するであろうが、このままあの傑作を埋もれさせていいわけはない。 宮崎駿がオタクたちのカルトからメジャーになったように、「原恵一」も21世紀を担うアニメ監督として、盛りたてていかねば、と、たかが一介の市井人は考えているのである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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