浅間日記

2007年05月31日(木)

慣れない、というよりも分不相応な仕事。

這えば立て、立てば歩めとばかりに課題を出しては叱咤激励して下さる
先輩諸氏へ感謝しつつも、踏み出す一歩の何と重たいことか。

できない・わからない・やりたくないの三大消極姿勢で臨んでいたら、
とつぜん、ボタボタと大きな音で屋根を鳴らして、にわか雨。

突然の嵐に、これ幸いとブレイクする。

水の塊が天からざあざあ落ちてくるのを番茶をすすりながら眺め、
小一時間あまり、窓際で恍惚の人となる。

無心でいるうちに何かがリセットされたのだろう。
根拠も自信もないままに、それじゃやるか、という
前向きな気持ちを確認して、PCに向かう。

2006年05月31日(水) 学び舎の目標管理
2005年05月31日(火) 飴のエルドラド
2004年05月31日(月) 自給自足



2007年05月30日(水) 沈黙の春量販店

「化学薬品フェア」とでも銘打ちたくなるような、殺虫剤の陳列棚。
使用上の注意事項が警戒色で書かれているスプレー缶やボトルが、
秋葉原のPCみたいに大量に積み上げられ、売られている。

駆除の対象が害虫だけでないのが、昨今の傾向。
クモの巣、アリ、雑草、地衣類に至るまで、薬剤散布の対象に特定されている。

何が「ガーデニングの必須アイテム」だよと、謳い文句にケチをつける。
私はあの、「プシュー」というスプレー缶の音が好きではないんである。
だから、家の中や周りにいて欲しくない生きものは、よほどでない限り
「挟んで捨てろ」と物理的に駆除する方針なんである。



好きでないことのついでに、店舗にある薬品の総量を眺めて思う。
たぶんこれは、化学物質による土壌汚染や水質汚濁の、
明らかにされていない汚染ルートの一つである。

下水などで回収されない開放系の環境で使用されているのだから、
地域にはきっと、相当量の化学物質が−使用者の自覚がないままに−拡散し、蓄積している。
それも、農地や果樹園などではなく、地域の日常生活圏内で。

だから、この手の量販店がある地域の住民は、虫や草のことなんかよりも、
自分の身体、特に脳みそへの影響を心配したほうがいい。

もう少し言うと、積極的な使用を喚起させるような広告も控えるべきだ。

2006年05月30日(火) 
2005年05月30日(月) 単細胞生物化
2004年05月30日(日) 言葉のない世界



2007年05月27日(日) お受験母

TOEICを受けに。

難しいぜえ、とHが言う。

一緒にしてくれるなよと、はなをならす。
Hの言語センスのなさは、もはや彼の属性と言っていい。
それが何語であるかなど、はるかに超越している。そういう男なのである。

Aに試験とは何か訊ねられ、それなりに説明すると、
私が何かのチャレンジをしに行く、という主旨だけはどうにか理解して、
おかあさん頑張ってね、などという。

見送りながら、ひどい点だったら笑ってやるぞと、Hが意地悪を言う。

2006年05月27日(土) 
2005年05月27日(金) 梅涼
2004年05月27日(木) 適正表示



2007年05月26日(土)

土曜だというのに、冷蔵庫みたいに冷えひえの大会議室へカンヅメにされる。

山手線の若者は、なんだか代がわりした感がある。
小奇麗で、無表情で、IDとパスワードがないと入れない。

こわくなったので、はやく帰ろうと急ぎ足。

2006年05月26日(金) 文を盗む
2005年05月26日(木) 修繕日
2004年05月26日(水) 学校の話



2007年05月25日(金)

慈雨。素敵な言葉である。

本日上京。
新緑の緑を色濃く濡らす山をうしろに、家を出る。

しばらくまた、色々ある。
今度は前より上手にできるかもしれない。

自分の中に、一つひとつ何かを積み重ねていくことは、
沢山ある希望や喜びのうちの一種類だ。

だから、引き継いでいかれるものはできるだけ引き継いだ方がいい。
これはもう大したことはないなどと、無下に捨てないほうがいい。

2006年05月25日(木) 滋養電池
2005年05月25日(水) 迎合文
2004年05月25日(火) 謝意



2007年05月23日(水)

Kちゃんより、2冊の写真集が届く。
ひとつは猿の親子のもので、もうひとつはハンセン病の記録。
それぞれ、「ユンデの悲しみ」と「ここに人間あり」というタイトル。

それぞれに胸をうつものである。
特にハンセン病の記録は、カメラマン大谷氏の集大成ではないだろうか。

いずれにしても、その瞬間を待つというスタイルで被写体に向き合うのは、
相当にタフな作業だと思う。

2006年05月23日(火) 大河への憧れ
2005年05月23日(月) 
2004年05月23日(日) 



2007年05月22日(火)

山の中。

猿は警戒して鳴き、カモシカは目と鼻の先まで近寄っても微動だにしない。



山林所有は複雑である。
境界はたいがい不明確で、地籍図は100年以上昔に引いた線をベースにしている。
所有者がわからない場合さえある。

地主の話によると、ここは隣の集落へ貸している山で、
江戸時代に交わした小作契約は現在も継続している。
年間いくらと決まった小作料が、集落へ入っているのらしい。

地主の説明に頷きながら、小作料だってさ!と心の中で思う。
白土三平の世界である。

2006年05月22日(月) 全天候型人生を迎える日
2005年05月22日(日) 金網デスマッチ
2004年05月22日(土) 個人主義



2007年05月21日(月) 賞与

思考中断、山で仕事。

山椒の芽、ワラビ、根曲がり竹、独活。
それから、可憐な山の花を、いくらか。

春の仕事は、かようにして賞与がつく。
山菜たるものは、やはり山採りに限る。
あくが強く、香りが強く、生命力があるものに。

春ゼミも、ちらほら鳴き始めて、
これ食べて今年も頑張ってけと、私を励ましている。

2005年05月21日(土) 
2004年05月21日(金) 抽選12万名様に裁判体験 その2



2007年05月17日(木) 苦を救う その2

昨日の続き。今日は雨音を聞きながら考える。

今私達は、苦しみに向き合うことではなく、
苦しみを無くすことが「救い」であると考えている。

そのことによって何かを得、そして何かを失っているけれど、
「救い」は失速することなく現代人のあらゆる苦しみに介入し続けている。

苦を救う技術はやがて、生老病死すべてにいきわたる。
生をちゃらにし、老をちゃらにし、病をちゃらにし、そして死をもちゃらにする。

そうして私達は、さらに多くのものを得、多くのものを失うだろう。

−あるいは、「私はここから先の苦しみは自分で向き合います」と、
途中下車する人が現れるかもしれない。もっとも、そのときに乗り降りの自由があればの話だけれど−



苦しみをちゃらにしてもらうことに慣れた私達は、たぶん、
「どうにもならないこと」が何なのかがよくわからなくなっている。

本当にどうにもならないことはあきらめきれず、
本当はどうにかしなければならないことを簡単にあきらめる。

安易になりゆきにまかせて、それ以上考えることを止めてしまう。
「そういうきまりになっています」と他人に強要する。

現代版の救いで失ったもののうちの一つは、これではないかと思う。


続けるかどうか思案中。

2006年05月17日(水) 罪にすることができる
2005年05月17日(火) 芯折れ鉛筆
2004年05月17日(月) サマワに降る雨



2007年05月16日(水) 苦を救う その1

音楽考は、もう少し続く。
そうとう脱線する長い話。



生きていくことは孤独で苦しい。
人生の「生老病死」は、逃れられない苦しみである。

「苦を救う」とは従来、その苦しみへの向き合い方や、
身の処し方を示唆するものであった。

苦を救うとは、苦しみを消滅させることではなかった。
少なくとも、それだけではなかった。

むしろ、「それは解決不能」と引導を渡すところから、
本当の救いが始まったのである。

だから、芸術の存在理由も明確だった。
苦しみは解決不能であるからこそ、それは魂に届く光を放つことができた。

一方、現代社会で「苦を救う」というのは、
その苦しみをちゃらにすることを意味する。

その結果、私達はいくらか−否、相当に−解放された。
リスクは減り、面倒はスルーすることができる。
手間もかからない。リセットも可能。

私達には、覚悟と決意をすることや、
苦しみに向き合う知恵や体力が必要なくなった。

同時に、苦しみに向き合うことで身につけてきた
許す、受け入れる、待つという態度も、することが困難になった。

子どもを育てられないという現象は、
育児というものが如何に、
許す、受け入れる、待つという態度で構成されているかを皮肉にも示している。

熊本に設置された通称「赤ちゃんポスト」は、
−色々な考えがあるにせよ−
子どもを育てる苦しみをちゃらにできるもの−サービス−である。

現代版「苦しみを救う」挑戦は、かくして、
行きつくところまで行き着いたのである。

つづく。

2006年05月16日(火) 天変地異・狂気
2005年05月16日(月) フリーランス時短



2007年05月15日(火) 道徳ソングか情景か

昼下がり、ラジオから井上陽水の「5月の別れ」。
夢見るような素敵な言葉が、ポピュラーミュージックに仕立てられている。
いい曲だなと思いながら聴く。

不思議な言葉の組み合わせは、彫刻を鑑賞するように確認することができる。
そのシェイプを、テクスチャーを、丁寧になぞってみる。



これはきちんと調べていないから、間違っているかもしれないけど、
最近のポピュラーミュージックから、「情景」が消失している。
「心象風景」と言いかえてもいい。
そんな気がしている。
とりわけ、自然のうつろいや、細やかな描写は姿を消している。

その一方で、勇気とか希望とか信じるといった観念的な語句は、
ジャンルを問わず、多用されている。そんな気がする。

できれば、たまたま耳にするような音楽は、
直接的な表現がならぶ道徳ソングみたいなのよりも、
「5月の別れ」みたいな、一幅の絵がうかぶ言葉で綴られたものに出会いたいと思う。

2006年05月15日(月) マクマーフィの最期
2005年05月15日(日) 



2007年05月14日(月) 仕事放棄・子育て支援

今日も良い天気。

酒屋のおじさんも、八百屋のおばさんも、
セブンイレブンのバイトのにいちゃんも、
つばめの子育てを見守るようにして、
ここのところずっと、軒下から巣をのぞいている。

仕事をほったらかして親鳥の様子を眺めたり、
生まれたばかりの雛へ手を振ったりしている。

2006年05月14日(日) 当然とは何か
2005年05月14日(土) 慕情の日
2004年05月14日(金) 三倍速の一日



2007年05月12日(土) 5月の朝食

目が覚めたら、とっくにHは出かけていた。
ウグイスもひとしきり早朝のさえずりを終えた後のよう。

寝坊したAとふたり、そば粉のクレープと蕪のスープで朝食。




いちばん小さい人が、いちばん大きな楽器をもっていて、
いちばん大きな人が、いちばん小さな楽器をもっているね。

みると、Aが言うとおり。

興がのって行儀悪く食事中にテーブルを離れて踊りだしたけど、
まあいいや、少し多めにみよう。

そんな余裕がある、気分のいい爽やかな5月の朝食。

2006年05月12日(金) 
2005年05月12日(木) 



2007年05月08日(火)

ちょっとした会合。再び参集するメンバー。

TちゃんもJさんも、それぞれの理由から思うところがあって、
また、あの続きをやることにした。

そして私は、もう2年も頭の中で練りに練った企画を、
待ってましたとばかりに、テーブルの上へあげたというわけである。

やるよ!と声をかけてすすめることももちろんできたのだけど、
この機が熟するまで待ってよかった、と思いながら帰宅。

2006年05月08日(月) 教育騒乱
2005年05月08日(日) Ping9



2007年05月07日(月) 過酷なレッスン

「身体をめぐるレッスン」という本。
タイトルから想定されるようなカジュアルな本ではない。

人口調節のための生殖管理の歴史、
ニートとよばれる人を、その性根ではなく身体から分析した研究、
ハンセン病の歴史からみる日本の優生保護思想、
血液事業がなぜ献血になったのか、
人体や卵子や胚や胎児は、資源としてどう評価されているか、
そんなことが書いてある。



人体の値段は頭の先からつまさきまで、既に見積もりされている。
そういうふうにしげしげと、みられている。
若い人が、容姿について値踏みされるように、
体液を、組織を、眼球をみられている。



自分の身体は自分のものだし、生殖に関する決定権は自分にあると、
そう正々堂々と認識するためには、
この身体は自分が使ってこそ意味がある−皆のために−と
命がけでアピールしなければならない時代だ。


生殖管理も、公衆衛生思想も、身体の資源化も、ここに書いてある実態は、
力なくメソメソと泣きたくなるぐらい、嫌な姿をしている。
どうすれば自分の言葉を出せるのか、今はまだ考えが及ばない。

ヒトの異常発生は、著しい。
貧困や飢餓や戦争を起こすぐらいなら、
必要以上増えないようにするのがよいというのが人口計画なのだそうである。
犬や猫みたいに、自己決定権のない生殖管理も、
戦争で人が殺しあうよりましなのだろうか。

わからない。まったく混乱している。
この本は、私にはあまりに過酷な「身体をめぐるレッスン」だ。

2006年05月07日(日) 男合宿
2005年05月07日(土) 悪の研究
2004年05月07日(金) 不機嫌スパイラル



2007年05月03日(木) ゼロトレランス男

無断拝借したHのカメラが、家の中で行方不明。

Hは、あんたが悪いのだからちゃんと探すように、との言葉だけ残し、
Aを連れてさっさとでかけてしまった。



ゼロトレランス男め、と悪態をついて、
薄暗い家の中に、一人居残り。

もちろん、やかましいのがいなくなりさえすれば、
それは5分で探しだすことができたけど、
Hの冷酷な仕打ちは、5分なんかで折り合いがつくものではない。

こんな災いの種は、1ダースでも買って家においておくべきだと思ったり、
人が負い目をもった時にだけ、−普段の無関心をやおらぬぎすて−
正論でコミットするというのは、あまり賢い感じがしないなとか、この不満を分析したりし、

彼らに追いつくべきか、それとも、
このままひとり縁側で鳥の声でも聴いてのんびりするか、
決めあぐねている。

2005年05月03日(火) 



2007年05月01日(火) 静かに耐える

鷲田清一「『待つ』ということ」。

「現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった。私たちは意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめた。偶然を待つ、自分を越えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ち受けるなど、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考察する。」

「臨床哲学の視点」とは一体何のことやら、と思いながらも、
タイトルと、そして裏表紙に書いてあったこんな文章に興味を誘われて読む。



「それではAとは一体なんだろうか・・・・Bであると考えられる」の繰り返しからなる、待つことに関する考察。

日記には書くべきことを書いたと見切りをつけた自分を、
大きな間違いと反省する。

私はただ、何か深い穴に通じている気配のある場所の、
その表面をなぞっただけ、否、眺めただけである。

掘り下げたものと場所を見つけただけの者では、
到達する地点がこんなに違うのか、ということを見せつけられた。
自分が手詰まりとしたその次の手を教えられた碁のようである。

哲学という専門分野の人は、こんなに執拗に、失礼ながら、
さして有益でもないことを考え続けられるものなのか?

思考の深さは、一体何の違いによるのか。
思考を継続しようという哲学的探究心みたいなものが、あるのだろうか。




自分が足を止めた地点へ、深い深い穴を掘り続ける。
そういう力を、鷲田氏の真似でも何ででも自分のものにしたい。
強く、そう思う。

時代の不条理に対して、自分を損なわず静かに耐える力というのは、
−そういうものが必要だとしたら−、
それは多分、暗い穴をひたすら堀りすすむような、深い思考で培われるに違いない。

2005年05月01日(日) 謝罪の先を見る
2004年05月01日(土) 


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