国が正式に謝罪した。といっても第二次世界大戦の話ではない。 熊本で開かれた、水俣病の被害者を慰霊する追悼式でのことだ。 昨年10月の最高裁判決で国の責任が認定されて初の慰霊式で、 環境相が改めて謝罪したというもの。
公害問題といえば明治時代の足尾銅山鉱毒事件が有名である。 しかし日本で「環境」という概念を定着させたのは、やはり水俣病など高度成長期の公害問題だ。 環境汚染は明確な加害者と被害者が存在し、被害者は補償されなければならない、 という観点が盛り込まれた、水質汚濁防止法や大気汚染防止法、悪臭防止法などの法律が制定された。
公害問題が一段落した後、環境問題は少しの間、少なくとも直接的な健康問題から離れ、自然環境に焦点があてられた。 自然環境や自然景観は国民の健康と福祉に寄与する必要なものとして位置づけられ、 また絶滅危惧種に対する保護保全に関する法整備がすすんだ。
しかしそれもつかの間で、環境問題は再び人間の健康に焦点をあてなければならなくなった。 それもかなりシリアスに。グローバルに。
地球環境問題は、本当は健康という生易しいものではなくて、 人類の存続という重たい課題を背負っているのだが、 この問題で人類が決定的な最期を迎えるまでには、まだ時間がある。
それまでに化学物質の暴露や電磁波による影響などでじわりじわりと心身を侵され、 頻繁な生命の危険にさらされるだろうから、そういう点では健康といってもよいのかもしれない。
だから、公害問題に謝罪する環境相に私が目をこらしてみなければならないのは、 国の過ちのプロセスやその行方もさることながら、 環境汚染の被害というのはどういうことか、ヒトに何を及ぼすのか、 汚染物質に暴露した環境の復元にはどれほど時間がかかるか、 という事実なんだと思う。 水俣の人達は、国の責任が認定された安堵とともに、事件の風化を大変危惧している。
2004年05月01日(土)
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