ベラルーシを舞台にしたドキュメンタリー。 平地林が続く場面で、深い森を抜けると僕の村がある、というナレーション。
彼の地ではこれが深い森なのか、と嘆息。 おそらく、長野県民は皆そう思うだろう。
平らな深い森というのは、どうも実感がもてない。
私にとって森が深まるというのは、谷の狭まりと尾根筋の高まり、 そういう地形の変化とセットでなければ不自然なんである。
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日本の地面は、大陸のように−地質年代が古い広い土地、といってもいい−揺るぎないものではない。 赤ん坊か子どものようなものである。
つい最近のマグマや、つい最近の火山灰が固まったものがほとんどだから、 不安定なドロドロやジャリジャリやボロボロでできている。 その上構造線が網の目のように走っていて、始終ギシギシ動く。 雨が沢山降って、土砂は始終移動する。 武田信玄には悪いが「動かざること山の如し」など、大間違いである。
海底をみればこれまた、マントルダイナミクスの渦中にあり、 地殻の火に極めて近い場所にある。
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この国の私達は、実はそういう気配の中にいる。
海の底から富士山のてっぺんまで、諸行無常であることや、 噴火や地震の天変地異を、痛いほど知っている。
そして間違いなく、自然のその狂気のエネルギーを、民族性に内在させている。 私はそう思う。
そして同時に、そういう精神性を制御する智慧を備えている。 それは郷土文化や、自然物に対する素朴な信仰や、人と人が交わす礼節などに、ちりばめられている。
2005年05月16日(月) フリーランス時短
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