無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年11月28日(月) ミクシィの穴/映画『奇談(キダン)』

 ミクシィ内でも、巧妙な手口のスパムメールや迷惑広告、詐欺的商法が広がりつつある、という話をヨナさんの日記を読んで知る。具体的には、以下のような手法だそうだ。

〉簡単なプログラムを組んで不特定多数のミクシィ会員の「自己サイトエリア」に足跡をつけまくったり、特定のコミュニティ(特定のテーマを語り合う掲示板、グループのようなもの)のメンバーリストを抽出してそのメンバーに片っ端から「マイミクシィ」登録をしてほしいというメールを送りつけ(中略)、多くの「足跡」「プロフィール」を経由したユーザーは、そのプロフィールに書かれてあるURLを参照し、広告なり勧誘なりのページに誘導されてしまう。
   
 「足あと」というのは、ミクシィの特徴であるアクセス解析のことである。通常のアクセス解析は、経由してきたURLは表示されても、必ずしも誰が覗きに来たかまでは分からないものだが、ミクシィの場合は、会員の名前もアクセスしてきた時間もちゃんと表示される。だから、「足あと」に見も知らぬ人の名前があれば、「この人はどういう繋がりで、なぜ私のところにやってきたのだろう?」と、足あとを辿って相手のページに行くことはごく自然な流れだということだ。
 私はミクシィに参加してはいても、その「足あとさん」のページに載っているURLをクリックしたことはないので、今のところ、危ないサイトに誘導されたことはない。とりあえず詐欺には遭わずにすんでいる。しかし、それは単なる僥倖に過ぎないかもしれない。たいていの詐欺事件の場合、特に振り込め詐欺などについては、私は「なんでこんな単純な手に引っかかるのだ」と多少高飛車なモノイイをしてしまうのだが、今回はそれも言いにくい。実際、これは、「SNSであるミクシィ内だからこそ、被害を受ける可能性が大きくなる」点で、詐欺野郎の方が我々よりも一枚上手だなあと思うからだ。
 普通のホームページ等と違って、ミクシィ内では「足あと」を残すことに誰も違和感を感じていない。私などには平気で見も知らぬ人のところに足あとを付けまくる人間の方が常識を忘れてしまっていると思うのだが、紹介でしか会員になれないというシステムが、自然と「ミクシィ同士の連帯感」みたいなものを作り上げていて、警戒心が薄らいでいるように見えるのである。トモダチのトモダチのトモダチはみなトモダチだっていう幻想。世間一般ではそんなのは殆ど絵空事でしかないのだが、ミクシィ内ではそれはまだ「有効」だと信じられていたようなのだ。しかし、SNSとて所詮は「現実」である。中には、カネ繋がりでトモダチになったやつだって、いておかしくはない。幻想を持っている人間ほど、現実の人間関係に疲れてミクシィに「癒し」を求めて参加した人間ほど、この手の詐欺に引っかかりやすいように思う。そしてそういう人々は、かなりの数、ミクシィ内に存在しているのではないか。
 無作為に同内容のメールが何百通と送られているような状況があればそれを速やかに察知し、排除するようなプログラムをミクシィが開発すればこの騒動はいったんは休止するだろう。けれどもこういうネット詐欺の手口は、緒戦は取り締まる側と取り締まられる側とのイタチごっこに終始する。きっと、また新しく巧妙な詐欺の手口が生み出されることは火を見るよりも明らかなのだ。結局は、「個人での防衛」を考えるしかなくなる。一番効果的なのは「ネットから遠ざかる」ことだろうが、これができるユーザーが果たしてどれだけいるものか。
 これは決して冗談で言っているのではなく、「今はハマッていても、いつでも自分は止められる」という「見極め」がないと、人間はそのモノに取り憑かれて、陥った「穴」から抜け出せなくなるのだ。いわゆる「妄執」に取り憑かれる、というやつである。オタクはそういう点で明らかに精神的なビョーキなんだね。
 「ミクシィ内の情報だって、結構外にだだ漏れ」ということは、ミクシィ日記を始めてから感じていたことだ。「足あと」を参照すると、しょっちゅう覗きにくる見知らぬ人がいて、かなり気持ちが悪い。一度ミクシィ日記でそのことを漏らしたら、「気にしなくても大丈夫ですよ」というコメントをたくさん頂いた。確かに私のマイミクシィに登録してくださっている方々は、そんな怪しいやつとの付き合いはないようであるが、ガードが甘いなあという気はどうしてもしてしまう。日記をミクシィ内に全公開している人もいるのじゃないかな?
 今のところ私は「友達の友達まで公開」という形をとってはいるが、更に「友達まで」に限定しなければならなくなるかもしれない、と感じている。トモダチのトモダチの中には、どうやら私と面識のある方もいらっしゃるようなのだが、何を恥ずかしがっているのか、私の日記を覗きには来るのだが、「自分ごときがおこがましくて」とかで、マイミクシィ登録を申し込めないでいるようなのである。でもただ覗いてるだけって、ミクシィ内ならともかく、一般社会なら一種のストーカー行為だから(笑)。マイミク登録したいならさっさとしちゃいなさい。ってこっちの日記は見てないか。見ない方がいいかもしんない。


 父からまた「年末で仕事辞めるぞ」との電話。
 「もう疲れてしもうた。姉ちゃんと気持ちよう仕事がでけんごとなったったい」
それはもう何度も聞いたので、正直、私は、「どっちでもいいよ」という感想である。だもんで、「店は潰すんね。それとも姉ちゃんだけ辞めさせてお父さんだけ仕事続けるんね」と聞いてみたら、「それが迷いようとたい。顔剃りはもうしきらんもんなあ。髪つむだけの店でもよかて、昔からのお客さんが言うてくれようけんなあ」と未練タラタラなのである。
 「何でこげんことになったとか分からん。俺が姉ちゃんに何か要らんこと言うたとかもしれんばってん、それが全然思い出せんとたい」と言うのだが、つい何ヶ月か前、父は、中身は明かさなかったが、「姉ちゃんに要らんこと言うた」とはっきり言っていたのである。要するに、父がボケたことが父と姉の確執の一番の原因だろう。姉も融通を利かせられるタイプではないので、ボケ始めた父をうまくあしらえなかったのだろう。カタストロフィは必然だったということか。
 「お前には言うだけ言うとかないかんと思うたけんな」と言って父は電話を切ったが、言われたところで私には何の手も打ちようがない。多分、私が何を言っても、それが父にとって都合のよくないことであれば、父は数日でサッパリとそのことを忘れてしまうのだ。そのうち父は私の存在自体、忘れてしまうだろう。緩慢な別離が進行しているのである。


 しげのダウナー、ようやく回復の兆し。仕事も「辞めたい辞めたい」と言っていたのが、「前ほどには辛くなくなった」そうだ。
 「こないだイッセーさんの芝居を見て、ホッとしたんよ」としげは言う。
 「どういうこと?」
 「ワークショップに参加したころからおかしくなってたんだけど、イッセーさんの舞台見てたら、『ああ、自分はこっち側にいていいんだ』って思えるようになって」
 「それは、『舞台に立たなくていい』って思えたってこと?」
 「そうかな」
 「つまり、イッセーさんと一緒に舞台に立つことがプレッシャーになってたわけだ」
 「うん」
 「でも、それは逆に言えば、自分が傲慢になってたってことだよ。イッセーさんに対抗しなきゃなんないなんて、下手な『プロ意識』を持ってたってことなんだから。……できるわけないじゃん!」
 「そうだけど……」
 「俺は、森田さんが『シロウトって凄いよ。イッセーさんに絡んじゃうんだから』と仰ってたのを聞いて、ホッとしたんだよ。『ああ、自分はシロウトだから、何やってもいいんだ』って開き直れてさ。うまく芝居ができなくったっていいんだよ。ヘタに『うまく立ち回らないと』なんて思うから失敗するんだよ」
 「うん……」
 結局、生活も含めて、しげは全般的に、「完璧でないとダメだ」と思い込むクセがあり、これが自分を追いつめてしまっているのだ。おかげで「どうせできないんだったら最初からやらなきゃいい」で、引きこもって何もしなくなってしまうのである。そういう自己暗示が、「舞台に立たなくていい」と思ったことで、少し解けたのだろう。「仕事自体がイヤ」と言っていた状態からは何とか脱却したようだ。
しげはともかくマイナス暗示にかかりやすい。その暗示は偶然解ける場合もあるが、殆どの場合、その「洗脳」は簡単には解けないし、しげ自身、心にブロックを掛けていっかな解こうとしない。天の声のように、洗脳解除が自然にやってくるのを待つのはいつになるか見当も付かず、その間、しげに振り回されることになる周囲にとっては、この状態は大迷惑なのである。何とかセルフコントロールできるようになってほしいのだが、昔からの「甘えんぼ」体質が抜け切れないので、いつまでも同じ失敗を繰り返す。
 私がしげに「仕事続けないなら出ていけ」と厳命したのは、いささかす厳しすぎるように思われる方もいらっしゃるだろうが、際限なく甘える人間に対して、表面上の優しさだけで付き合ってなど行けないのである。でも、暗示が解けて気が楽になったら、またしげの家事は適当になってきたんだよなあ。頼むからもうちょっと脳みそのシワを増やしてほしいよ、全く。


 仕事を終えて、キャナルシティへ、久しぶりに映画を見に行く。
 「ラーメンスタジアム」の沖縄ラーメン「通堂」で、「黒こがしおとこ味ラーメン」。なんだか凄いネーミングだが、こってりとんこつ味である。何を「焦がし」てるんだかはよく分からないが、スープ自体、油をそのままズルッと飲み込むような感触があるので、好みはかなり分かれるだろうと思われる。しげは「旨塩おんな味ラーメン」を注文、男でもあっさり味好きの人はこっちの方を選んだ方がよさそうだ。ちょうどサービス中で替え玉がタダだというので、二人揃って注文。あとでしげが「体重が増えてなくてホッとした」と言ってたが、だったら替え玉を頼まなきゃいいのである。庶民は「タダ」には弱いねえ。

 キャナルシティのシネマコンプレックス、先月から「AMC」が「ユナイテッド・シネマ」に買収されたために、「ユナイテット・シネマ キャナルシティ13」と名前が変わっている。内装も看板などが変更されているが、駐車場の無料割引が、これまでの2時間から3時間に延長されたのはありがたかった。たいていの映画が2時間を越えているので、これまではどうしてもアシが出ていたのである。
 更に配給の系列が変わったので、福岡には来ないと思っていた『奇談』や『銀河ヒッチハイク・ガイド』も急遽公開が決定した。今日はまず、『奇談』の鑑賞である。
 『新世紀エヴァンゲリオン』をご覧になったことがある方なら、使徒が倒されたあと、十字架状の光芒が立つのをご記憶されていると思うが、あのイメージのオリジナルが、諸星大二郎のマンガ『生命の木』のラストシーンである。庵野秀明監督が魅せられて流用したように、煎じ詰めれば、この作品のキモは、そのラストシーンを見るためだけにあると言ってもいい。問題は、さて、そこに至るまでの展開をどう持っていくか、という点にある。何しろ原作は30ページほどの短編だから、長編映像化にあたっては、かなりの力量が要求されるのだ。
 脚本も兼ねた小松隆志監督の演出、これは決して下手ではない。原作の主人公を男性から女性に変更し、かつて少女のころに物語の舞台となる「隠れキリシタン」の村で神隠しにあったとし、その時の記憶を取り戻すために再び村を訪れる、というのは充分に必然性のある設定になっている。主人公の佐伯里美を演じた藤澤恵麻、切実な表情を作るのがうまく、物語をよく牽引してくれている。しかし如何せん、原作に忠実に映像化されたラストシーンのインパクトが強いだけに、この「必然性のある設定」が「ありふれた設定」に見えてしまうことも事実だ。
 村で偶然出会った稗田礼二郎(阿部寛)と行動をともにするのだが、見覚えのある教会を訪ねたり、村の老婆の証言を聞きに行ったりはするのだが、肝心の「はなれ」にはなかなか出向こうとはせず、モタモタした印象を受けてしまう。善ず(やべけんじ/声・三ツ矢雄二!)の死以外には事件らしい事件も起こらないので、「地味」な感じは拭えない。もうちょっと何とかならなかったのか、ともったいなく感じていまうのだ。原作では敬虔な信徒であるあまり、事件の隠蔽工作に走った神父(清水紘治)も、映画では右往左往するばかりでいてもいなくてもいい存在になっている。これは明らかに脚色上のミスではないか。
 ノベライズ版を読んだときに危惧していた「おらと一緒にぱらいそさ行くだ!」のセリフの変更(「行くんだ!」と標準語化)もやっぱりあった。これなどは何のための変更なのか、脚本の意図がまるで分からない。
 『生命の木』の映像化としては、かなり不満も残るのだが、見所もないわけではない。オリジナルキャラである神隠しの少女・静江(ちすん)の美しさは息を呑むほどであったし(だからこそ、活躍しないのがまたもったいないのだが)、重太(神戸浩)、洗礼のヨハネ(白木みのる)は、これ以上はないというほどの適役である。批判はあろうが、少なくとも、前作『妖怪ハンター ヒルコ』より仕上がりの後味感はよい。諸星大二郎ファンなら、一応は見ておく必要のある映画だろう。
これがきっかけになって、『海竜祭の夜』や『死人返り』とかも映画化されてほしいんだけれど、ヒットしてないみたいだから無理だろうなあ。今回も私たち夫婦のほかはお客さん、一人しかいなかったものなあ(涙)。ジャパニーズ・ホラーもかなり頭打ちなのである。

 帰宅して、DVD『機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者』を見る。
 改めて、情報量の多い物語を難解に描くのではなく、観客の想像力をうまく喚起させるように編集している演出の妙に感嘆する。これを「難しい」とか「退屈」とか「テレビシリーズを見てないと分からない」とか言ってる連中は、「映画を読む力」を無くしてるんだろうな。

 今日、読んだ本、ササキバラ・ゴウ編『「戦時下」のおたく』(角川書店)。
  賛同する点、多し。
 マンガ、諸星大二郎『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』(講談社)。
  稗田シリーズとしてはイマイチの出来。
 マンガ、現代洋子『社長DEジャンケン隊』1巻(小学館)。
  野田義治社長は巨乳だけの人ではなかったのだな(笑)。

 もう本の感想はこの程度しか書けないけど、ごカンベン。

2004年11月28日(日) 「地雷」がいっぱい(^_^;)
2002年11月28日(木) 再爆走ぁ新をとっては/『恋愛出世絵巻 えん×むす』1巻(瀬口たかひろ)/『ウルトラマン画報』上巻
2001年11月28日(水) ひと月早いぞ誕生日/DVD『キカイダー01』第1巻/『マジンカイザー』2巻ほか
2000年11月28日(火) 〆切はゴムのように延びる(^o^)/『蟲師』1巻(漆原友紀)ほか


2005年11月27日(日) さりげなく復活。

 かなり更新が滞ってきたので、もう途中をすっ飛ばして、今日の分から書く。この間、会津若松に旅行したりまた九国に行ったりといろいろあったのだが、気が向いたら書くね。これまでの例だと書けないままで終わるパターンが殆どなんだが。
 でも、この間、「ミクシィ日記」と「はてな日記」は休まず継続しているのだ。あっちは、ホラ、短く書くこと可能だから(こっちしか読んでない人には事情はよくわかんないでしょうがすみません)。
 やっぱり、三つ並行の更新はキツイよ。……って、自分でそうなっちゃう事態を招いてるんだけど、どうしてそうなっちゃったのか、自分でもよく分かってないのである。まあ、ともかく、行けるとこまでは行こう。


 昨日行った、九州国立博物館で買ってきた『針聞書』(安土桃山時代の医学書)に出てくる「蟲」グッズ。シールになっている20匹ほどの想像上の「蟲」たちの、そのユーモラスなフォルムを眺めていると、ムカシの人たちは「病気」とどんなつき合い方をしてたのかなあと想像が広がっていく。
 この「妖怪たち」のデザインの面白さは、言葉ではとても説明できないものなの で、ぜひ九州国立博物館においで頂きたい。ホームページで一部の「蟲」たちは紹介されているので、妖怪マニアの方はぜひご一読を請うものである。
 http://www.kyuhaku.com/pr/collection/collection_info01_02.html



 『仮面ライダー響鬼』四十一之巻 「目醒める師弟」。
 ついに明日夢君(ついでに桐矢君も)がヒビキさんの弟子入りに……って、でもあきらちゃんがもしかしてこの回でリタイア? どどどどうして!? 秋山奈々ちゃんがいてこそのヒビキではなかったのか!?(←妄想) 脚本家交代の問題なんて些細な問題だ、奈々ちゃん降板の方がずっと大問題じゃないか!(←我田引水)。いや、これも脚本家が井上敏樹に代わったせいでそうなったのか、だとしたらオレは井上敏樹を許さんぞ!(←逆恨み) アンチ井上敏樹の諸君、俺が悪かった。やっぱり『響鬼』の脚本家は大石真司でなければならなかったのだ。(←変節)奈々ちゃんカムバーック! ミ・アモーレ!(←処置なし)
 とまあ、わざと狂乱してお見せしたが、要するに「30話問題」で怒り狂っていたヤツらの真似をしてみたらこうなった(笑)。『特撮エース』を見てたら、とり・みきさんやはぬまあんさんもかなりイタい反応を示されていたが、結局は、「自分の気に入らない展開になったことで怒ってる」程度の、レベルの低い反感に過ぎないのである。
 でも、あきらちゃん目当てで見てたことは事実だから、楽しみが一つ減ったことは事実なんだよなあ(苦笑)。……で、あきらの鬼としての名前は付けられないままか。今までの健闘を讃えて、「名誉称号」を与えるとか、そういうことしてほしいよなあ。


 庶民は「パニック」が好きである。
 建築疑惑事件が起きれば、うちのマンションは大丈夫だろうかと、姉歯事務所の設計でもないのにあたふたするし、政治家は政治家で、そのパニックを更に煽るように「大問題」とぶち上げる。
 鳥インフルエンザ流行のおかげで、製薬業界にもまた「パニック」が起きている。
 インフルエンザに効果的な治療薬として、タミフル(一般名オセルタミビル)の需要が増えているようであるが、インターネットによる個人輸入代行では、本来の薬価の10倍近い、1箱(10カプセル)につき3万円もの高額で取引されるケースも出ているそうである。去年まではほとんど注文はなく、8000円(それでも通常の病院で処方してもらうなら、ひと箱3000円程度だ)で販売していたというから、いったいこの高騰の様子は何なんだ、という感じである。思い出しませんか、オイルショック時のトイレットペーパー騒動を(あれはそんなでもなかったという説が今は有力であるが)。
 今月に入って新型インフルエンザに関する報道が増えて、国がタミフルの備蓄を強化する計画を発表すると、途端に注文が殺到し始めたというから、「自分たちだけ助かりたい」という庶民の「バーゲンセール現象」は、ここでもしっかり発動しているのである。
 ……だからそんなにインフルエンザが怖いのなら、予防接種をなぜ受けないかね。第一、タミフルだって、A型、B型インフルエンザのノイラミニダーゼにのみ効くので、A型、B型インフルエンザ以外のインフルエンザには全く無効なのである。更には、効くのは発症後二日以内と限られている。
 庶民が「パニック」になっていると判断できるのは、そんなことにも気がつかなくなっているからだ。
 ついでながら、アメリカでは、タミフルの特許を所有しているギリアド・サイエンシズ社の株が急騰中で、その大株主の一人であるラムズフェルド国防長官は、どうやら短期間で資産を100万ドル以上も増やしたらしい。穿った見方ではあるが、この「タミフルブーム」にも、「仕掛け人」がいたのではないかというきな臭い感じがやたらする。
 こういうパニックがなかなか収まらないのは、こんなふうに「タミフル買ったって意味ないよ」ってことを具体的に証拠をあげて見せても、「でも、その証拠もデマだったらどうするのか」という、「自分の根拠のない不安の方を行動原理にしてしまう」傾向が、日本人のメンタリティとして定着してしまっているからではないのかといいう気がして仕方がない。不安を煽られると、日本人はともかく「もしかしたら」という固定観念を排除できなくなってしまうのだ。それを排除するためには「別に死んでもいいじゃん」くらいの開き直りが必要になるのだが、庶民にはそれはちょいと難しいことである。あーもう、糞庶民は勝手に好きなだけ散財して、薬屋さんを儲けさせときなさいな。
 医学系トンデモ本の流行にも、「パニック好き」な日本人の国民性が如実に現れているように思う。「ハレー彗星飛来時のゴム買占め」騒動の昔から、日本人は少しもメンタリティが成長してないのね。


 あまりにこの日記の更新が遅れているので、「読んだ本の感想を書いてったらキリがないから題名だけでいいんじゃない?」とグータロウ君から言われた。
 ミクシィを始めて思ったのは、殆どの読者の方が名も告げない「通りすがりさん」であるこちらの日記よりも、お客さんが限られていも「顔が見える」ミクシィの方が、自然に日記書きの中心にならざるを得ない、ということである。
 感想をもう書かないとまでは言わないが、確かに、読んだ本を全部書いていったら、時間がいくらあっても足りないので、これからはそうしようと思う。

2004年11月27日(土) お客が来ても樽の中。
2002年11月27日(水) 再爆走/鬼が笑っちゃってひきつけ起こして寝る話/『燃えよペン』(島本和彦)ほか
2001年11月27日(火) 癒されたいの?(-_-;)/DVD『ウルトラQ』6・7巻/『ギャラクシー・クエスト』
2000年11月27日(月) 活字の本が読み進まない/『カスミ伝△(さんかく)』1巻(唐沢なをき)ほか


2005年11月09日(水) ミクシィ狂想曲/『ユート』3巻(ほったゆみ・河野慶/3巻)

 ミクシィ日記、順調に更新。
 当初は三日にいっぺん書けるだろうかと思っていたのだが、本職明かして書くのがこんなにラクだとは思わなかった(笑)。もちろん、職種を明かしてるだけで、職場の名前や住所は隠したままだし、本当にヤバい話は書かないでいるのだが、それでも一日の半分は職場にいるわけだから、ネタには全く困らないのである。
コミュニティにはどこにどうやって参加したらいいものか見当が付かなかったので、しばらく空白のままであったのだが、「イッセー尾形とフツーの人々」でご一緒したじり子さんの紹介で、「イッセー尾形」のコミュニティに参加した。初めてなので、すごく恥ずかしいのである(笑)。
 こんなふうに書くと、この日記を読んでる人で、ミクシィに参加している人には、探せば私の職業がなんであるかはバレてしまうわけであるが、ネットのセキュリティなどは、結局はそこに集う人間の良識に期待するしかない。何度も書いている通り、こっちの「無責任」日記は別人格で書いているのであって、言わば役者が役を演じているようなものである。そこに突っ込むような野暮はしないでほしいなあと願うしかないんだね。
 ミクシィがだんだん楽しくなって来ているので、しげはやっぱり「パソコンに夢中やね」と寂しそうなのであるが、もちろん現実逃避してしげのことを忘れているわけではない。コメントも付け易いし、しげにももっと積極的に参加してほしいと考えているくらいなので、あまりヤキモチは焼かないでほしいのである。
 しげは私の日記を読むためだけにミクシィに参加しているので、コミュニティに参加する気もないようであるが、近藤芳正さんやダン・エイクロイドのコミュニティとかもあるし、20人くらいしか参加者がいないので、参加すりゃいいと思う。私も一緒に入っていいのに。

 昨日、東京のあやめさんから「天文手帳2006」が届いたので、早速カバンに入れて携行。まだ今年の手帳が残っているので、私のカバンには今、二冊の天文手帳が入っている。実は先日の「イッセー尾形とフツーの人々」の舞台に出るに当たって、この天文手帳を持っていたことが偶然にもものすごく役に立った。世の中にはこんな奇遇もあるものなのだと感動しているのである。
 あやめさんがいらっしゃる東京には足を向けては寝られないのだが、今のところこちらからお返しをする余裕がちょっと無い(苦笑)。全く非礼なことこの上ないのである。
 

 先日亡くなった本田美奈子.さんの告別式の様子をテレビで見る。
 南野陽子が、亡くなる直前に本田さんに面会したということで、「あんなに人は苦しむものかと思った」とコメントしているのを聞くだに、胸が痛んで仕方がない。
 神は残酷だ。


 先週あたりから再放送の始まった『まんが日本昔ばなし』、今日はよくぞこれを再放送できたなという「こぶとりじいさん」。
 と言っても今やこぶを取ることくらい手術で簡単にできるので、巷にこぶのある人を見かけなくなったから、サベツだの何だのと騒ぎ立てるヤカラもいないのだろう。
 
 続けて『愛のエプロン』、今日はコーヒーゼリーにシュークリームのお菓子対決。
 先週、「特エプ」を取れなくて「引退」勧告された磯野貴理子は、今度は賞味役で出演。どうせこんなことだろうと思ったよ(笑)。うまく調理できなかった時の言い訳がうるさいけれど、本質的には料理上手な人なので、『愛エプ』に磯野さんはなくてはならないキャラだと思う。できればもう一度(つか何度でも)特エプに挑戦してほしいんだが。
 出演者のみなさん、コーヒーゼリーは何とかなったものの、シュークリームを作れた人はただの一人もいなかった。多岐川祐美も、味はともかく、形はぺしゃんこで膨らんでなく、ただのクレープなのである。お菓子作りは女性は日頃からいろいろやっていて得意なんじゃないかと思っていたのだけれど、そうでもない、ということなのだろうか。
 「はてな」日記で下村嬢とコメントのやり取りをして、しげが以前作った「牛乳にレモンを混ぜただけヨーグルト」を紹介する。下村嬢は「佐藤を入れれば」と言ってくれたが、レモンと牛乳の割合が半々なので、その程度でどうにかなるとは思えない。
 しげがお菓子作りをした経験と言えば、毎年のバレンタインチョコ作りくらいのものだが、これもまあ、毎回「実物大パラソルチョコ」とか恐ろしいものを作ってくれるから、しげに「たまにはデザートにお菓子も作ってよ」なんて言う勇気はなかなか出ないのである。


 ドラマ『相棒』第5話 「悪魔の囁き」。
 先週からの続きの後編、自殺したシリアルキラー・村木重雄(小日向文世)の跡を継いで津人を犯したのは誰か、という展開だけれども、前編を見ていて「犯人がこいつだったら面白くないなあ」と思っていたやつが犯人だったので、ちょっと残念だった。
 ミステリ初心者がよくやる失敗だけれども、意外な犯人を作ろうとするあまり、動機や展開に不自然さが生まれてしまうのである。
 今回は、ダミーとなる犯人を魅力的に描いてしまったおかげで、真犯人が「小粒」に見えてしまったのだね。即ち、村木がもっと犯罪を続けたいと思うのならば、「あんな脆弱なやつ」を後継者に選ぶはずがないのである。
 でもそれはミステリに対してかなり厳しい見方もしているわけで、例えば高木彬光の『刺青殺人事件』も真犯人はダミーの犯人よりもまるで人間的魅力に欠けていた。今回の後半のストーリーは、かなり『刺青殺人事件』に影響を受けている様子があるが、悪い点まで真似てしまった感がある。
 とは言え、このダークな雰囲気作りは、『相棒』シリーズの中でも見応えがある一編である。村木が呟く「ウィン・パティオ」という謎の呪文、これがラストシーンまでその雰囲気を持続させるのに効果を上げている。アップを多用した画面作りも実にいい。、
 重要なキャラクターとなった精神科医・内田美咲(奥貫薫)にはぜひ再登場してもらいたい。実際、こんなにひたむきな瞳で「悪の魅力」を語られたら、こいつが魔性の女だと分かっていても、男は惹かれちゃうよ(笑)。


 マンガ、ほったゆみ原作・河野慶漫画『ユート』3巻(完結/集英社)。
 これだけ面白いマンガの人気投票が低くて打ち切りってんだから、やっぱりジャンプシステムはオカシイと思ってしまうのだが、逆に「打ち切られた」という現象から、「この作品が『面白くない』と今の読者に判断された原因は何か」ということも考えないといけないと思うのである。
 まず、ストーリー・設定においての問題点はなかったかどうか。スピードスケートというスポーツが珍しくて、読者に馴染みがなかった、という点は多少はあるかもしれないが、本質的な問題ではないと思う。ほったさんの前作『ヒカルの碁』だって、碁の打ち方の全く分からない読者にまで浸透していったのだ。要は演出次第である。
 それよりも主人公がスピードスケートが特に盛んなわけでもない東京に引っ越してきたという当初の設定が、性急な読者には「物語の停滞」と映ったのではないだろうか。ユートの前には「スピードスケート(ロング)」ができないかもしれない逆境が次から次へと襲い掛かってくる。東京という「スケート不毛の地」(まさかこの設定が東京人の反発を買ったわけでもあるまい)でのショートの練習しかできない状況、父親の反対、監督の功名心、など、私などはその「リアルさ」に息を呑んでしまうのだが、まあ『ワンピース』などに比べればこれが「地味」と受け取られても仕方がないかとも思う。
 以前の日記にも描いたかと思うが、絵に華がなかったことも大きいと思う。今巻、最初の設定画が紹介されているのだが、やや年齢を高めに描かれたキャラクターたち、こちらの方が今の絵柄よりずっと魅力的なのである。実際の作画に入ってからは、年齢を下げたことで、キャラクターの表情が単調になってしまった感がある。こういうキャラクターの深みを表現しなければならないドラマの場合、河野さんの絵はあっさりし過ぎていたのではないだろうか。
 けれど正直な話、アンケート結果が低かったのは「組織票に負けただけ」という気がしてならない。最終話、これからの展開の名場面を列挙した『超光速ガルビオン』のような終わり方を見るにつけ、どこか他誌でもいいから続きを書いてくれたら、と思う。そのときこそ、『ユート』の真価が世に問われることになると思うのだが。

2004年11月09日(火) 『笑の大学』余燼/映画『80デイズ』
2002年11月09日(土) 探偵って卑下しなきゃならない商売なのかね/映画『トリック 劇場版』
2001年11月09日(金) いちまんななせんえんの幸福/『GUN BLAZE WEST』2・3巻(和月伸宏)ほか
2000年11月09日(木) だって猿なんだもん/『グーグーだって猫である』(大島弓子)ほか


2005年11月08日(火) コメとライスは別のもの/『アキバ署! AKIHABARA POLLICE-STATION』01(瀬尾浩史)

 しげが「今度の米、パサパサやろ」と言う。
 確かに、これまでの米はかなりモチモチとしていて、水の加減を間違えるとべちゃべちゃになってしまっていた。弁当に詰めてもらうと、昼時になってフタを開けようとすると、水分が蒸発して収縮したせいだろう、押しても引いてもビクともしないくらいであったのだが、最近は比較的開けやすくなっていた。味は確かにさほど甘くなく、「これは米です」と主張しているだけという感じがする。
 「中国の米なんで安かったんよ」と言うので、ああ、舌に合わないのはそのせいか、と思ったが、同時に「安全性は大丈夫かなあ」と思ってしまったのは、やはり中国に対する不信感をかなり刷り込まれているのである。
 コメの自由化は結局、他国の文化への偏見を増大させただけのように思う。日本のコメにだって美味いコメ不味いコメはあるが、これ以下はちょっとという下限が作られてしまっている。稗と粟だけ食ってた昔を思い出せったって、そんな時代を知ってる人間が絶滅してしまってるんだから、そんなのはただの精神論にしかなっていない。贅沢だと言われようが、日本人は日本のコメしか食わないのである。
 だから、中国米を好んで食べる日本人がいれば、逆に偏見の目で見られることもあると思う。そういう偏見はよくないと言われても、どの国にも固有の文化はあって、それ自体は悪でも何でもないのだが、そこにやはり「壁」は存在しているのだから、その壁を無理やり壊そうとすれば、何らかの諍いが起きるのは必然なのである。
 「変えていったほうがいいしきたり」と「触れちゃいけねえしきたり」とを識別することはなかなか困難なことだけれども、自給自足の面から考えても、日本のコメ文化を簡単に壊しちゃいけないよな、と思うのである。
 とりあえず次から中国米はもういいや。


 『1リットルの涙』第五話。
 亜也(沢尻エリカ)の病気のことが、ついに妹や弟にも明かされる。伝えるのがちょっと遅すぎたんじゃないかと思うが、家族に真実を伝えるものかどうか逡巡している両親の心の葛藤を描いているようでいて、実は単にドラマ展開の都合で、ここまで「引いて」ただけってのが見えるから、どうにも胸糞が悪い。
 亜也に身障者手帳を取らせるかどうかで一悶着あるのも、どうにも薄っぺらい。母親の潮香(薬師丸ひろ子)に向かって、父親の瑞生(陣内孝則)が「国の世話にはならねえ」「娘にレッテルを貼りたいのか」と言って激高するのはいかにもわざとらしく、「作りすぎ」である。仮に内心、そのように思っていたとしても、娘の病状が日一日と悪くなっていく様子を見ていながら、父親としてなおもそのように体裁に拘るようなことがありえるのかどうか。陣内孝則をキャスティングした時点で間違いだという考え方もあるかもしれんが(笑)。
 脚本家はもちろん「善意」からこのドラマを書いているのだろう。しかし善意の作品というのは往々にして押し付けがましく、説教臭くなりがちである。あるいはその説教の青臭さゆえに時には「お笑い」と化してしまう場合もある。
 薬師丸ひろ子が身障者手帳の理念を「すべての身体障害者は自ら進んでその障害を克服し、その有する能力を活用することにより、社会経済活動に参加できるように努めなければならない」と説明するシーンなどは、感動的なシーンであるにもかかわらず、「そんなセリフを暗唱できるお前は何者か」という不自然さの方に笑ってしまうのである。


 『鬼嫁日記』に『タモリのジャポニカロゴス』を見た後、録画しておいた、『ドラマコンプレックス』版の『理由』を見る。寺田農をレポーターにして、報道ニュース番組仕立てにしたのは面白い編集だったが、オリジナル版を見ていない人には「そっちの方を見てよ」と言いたくなる仕上がりである。基本的に大林宣彦監督って、自分の「思い付き」に振り回されるタイプの人で、自分の演出の効果までは考えずに撮ってる人だから、あまり「巨匠」なんて呼んじゃいけないと思うのである。


 マンガ、瀬尾浩史『アキバ署! AKIHABARA POLLICE-STATION』01(講談社)。
 警察官の凸凹コンビもの……と言ったらもうそれだけで食傷気味なほどにドラマでもマンガでもありふれている設定なのだけれど、タイトルにある通り、舞台を秋葉原にしている点がまず凡百の「コンビもの」と一線を画している。電脳とオタクの街を舞台にして、どんな犯罪が生まれ、どんな警官が必要とされるのか、それをシミュレーションしたのが本作、というわけだ。なるほど、日本でそういう「街の特殊性」を活用して刑事ドラマが作れるとしたら、魔界都市(笑)新宿を除けば、秋葉原に如くはないかもしれない。
 もちろん、秋葉原を舞台にするからには、作者は「電脳とオタク」に詳しくなければならないし、更にはそれを「電脳とオタクに詳しくない人々にも面白く伝える技術」にも長けていなければならないわけだが、その困難な条件を軽々とクリアしていることに舌を巻いた。
 そのためには、主人公がどれだけ魅力的であるかがポイントになってくるのだが、この二人のキャラクターの設定が見事に秋葉原という街にマッチして機能しているのである。
 方やMIT出身で情報通信局技術対策課の“元”ホープ、キャリア技官のメガネっ娘警部補・久遠あまね。
 方やヤンキー崩れ、機動隊崩れで未だに秋葉原のバンチョー(笑)という、ハイテクはからきしアウトのアナログ刑事・伊武一弥。
 物語は、「外神田警察署」に、「ハイテク犯罪相談室」が新設され、そこにあまねが「飛ばされて」赴任するところから始まる。あまねの「現場教育係」としてコンビを組まされたのが伊武なのだが、コンピューターなんて全く扱えず、「IT」を「DDT」とか「ライチー」とか言い間違える自分がどうして配属されたのか、その理由が本人には全く分からない。もちろんそこには、キャリアであるあまねが場末の警察署なんぞにトバされてきた「相応の事情」ってやつが大きく関わって来ているわけである。署長が伊武に告げる一言がイイ。「彼女を暴走させるな」。
 即ちあまねのスキルがハンパじゃないってことなんだね。一歩間違えれば、というよりもこれはもう「ハイテク版必殺!」と称してよいほどにあまねの性格は「目には目を、ハイテク犯罪にはハイテク犯罪を」って思想の持ち主なのである。まあ実際、現実の犯罪は警察の手に負えないほどに複雑化、ハイテク化が進んでいるわけで、それに対応しようってことになれば、あまねのようなスキルと「正義感」の持ち主にしてみれば、「非合法行為」に走るのも当然ってことになるのである。
キレイゴトが言いたいそこのキミ、あまねのこのセリフをちょっとじっくりと考えていただきたい。Hムービーをネット公開されてしまった女子高生のために、そのファイルをデリートするためのウイルスをばら撒いた後で、あまねは伊武に向かってこう叫ぶのである。
 「ニュースはあっという間にネットに浸透しますヨ。どうなると思います? それこそ何十万、何百万っていうユーザーが、あのムービーをダウンロードし始めるんです。それを警察が防げますか? 数十万件の令状を取ってムービーを回収しますか? そんなの無理じゃないですか!? セキュリティホールだらけなんですヨ、この国の法(コード)も! 社会(システム)も! それを使う人間も!! そんなのにただヤミクモに従うだけじゃ、救えないじゃないですか! 目の前にいる、たった一人の女の子の心だって」
 現実にこんな被害に遭っている女性は多分たくさんいるだろう。犯人を逮捕したところで、一度撒き散らされた画像が回収できるわけではない。逆に警察がおおっぴらに動くことで、そういった画像を「宣伝」してしまうことになりかねないのが「IT革命」とやらを経た日本の現状なのだ。
 警察や国が無力であることは「本当に」こう考える人々が必要になってくるということである。あまり他人事と笑ってられない事件をこのマンガは扱っているのである。
 もちろん、あまねの「暴走」にも問題は多々あるわけで、そこでコンビの伊武さんの存在が重要となってくるわけだが、普通のキャラクターならば、あまねの前記のセリフに言い返すことができなくて、警察の、自分の無力さにショボンとしてしまうところである。ところがこいつはそんな殊勝な刑事ではない。あまねに向かってニヤッと笑い、「ようやく聞けたな、お前さんの本音が」と、これまでの「挑発」が、あまねの人格を見抜くための「引っかけ」であり、あまねが自分と本気で組める相手かどうかを確認するための「手段を選ばない」罠であったことを明かす。「なんかやる時は、俺も共犯にしろ……つってんだよ」いやあ、青二才には絶対に言えないセリフだ。
 こういう「食えない」やつが、アタマはいいけど直情径行、猪突猛進なあまねみたいなやつの押さえ役としては最適なのである。これが古典的な「コンビドラマ」のセオリーってやつなのだね。だからハイテクに詳しくない読者にもこの物語が面白く読めるようになっているのである。
 惜しむらくは、絵柄に華がないことであるが、2巻、3巻と続いていくうちにそのへんは改善されてくんじゃないかな。「最近面白いマンガが少ない」とお嘆きのあなた、それは単にあなたのマンガアンテナが壊れてるだけかもよ。

2004年11月08日(月) 最後のお小遣い/映画『笑の大学』
2002年11月08日(金) ウチもベストカップルだと言われることはあるが(-_-;)/『アフター0 著者再編集版』7・8巻(岡崎二郎)
2001年11月08日(木) エロに偏見はありません/『伊賀の影丸 邪鬼秘帳の巻(上)』(横山光輝)
2000年11月08日(水) チンジャオロースって漢字変換できねー/『家出のすすめ』(寺山修司)


2005年11月07日(月) 年老いていく実感/『営業ものがたり』(西原理恵子)

 しげから「医者に行かんでいいの?」と言われていた右手の痺れ、ようやく収まる。
 痺れが取れるのに金曜から丸三日掛かったから、やはり尋常ではないのだが、父も退院したばかり、しげもブルーが続いている状況では、入院なんかできゃしないのである。
 ミクシィに入ったんで、そっちの日記とか書かなきゃならないということもあるし。そっちがメインの理由になってるんじゃないのか(笑)。
 あちこちのコミュニティをちょこちょこと覗いてはいるのだが、さて、どこかに入るべきかどうか、逡巡している。「べき」とかそんな大層なことを考える必要もないだろうとは思うのだけれど、発言のレベルを考えるとねえ、最初に覗いちゃったのが『仮面ライダー響鬼』の批判コミュだったりしたからねえ(笑)。
 ちとばかし、臆病になっているのである。


 仕事中にしげからメールが入る。
 「具合が悪いから、今日行くのやめた」。
 最初は目的語がなかったので、何のことかよく分からなかった。ああ、母の法事&伯父の叙勲祝いのことかと、ちょっとして気がついたが、今朝まではそんなそぶりも見せてはいなかったので、いったいどうしたんだとメールを返してみたところ、  「下痢がひどい」との返事。
 「昨日飲んだファンタオレンジが悪かったのかも」なんて言うのだが、そんなファンタから訴えられかねないようなことを堂々と(汗)。
 多分これもまた、ストレスがカラダに来ちゃった、ということなのだろう。私がいなくて、しげ一人を親戚の中に放り込むのはちょっとキツイかとは思ったのだが、これくらいは耐え切れてくれないと本気で困るのである。
 母の通夜に、私としげは出ていない。親戚の陰口にしげが耐え切れなくなったからだ。そのときは父に客の応対を任せることができたが、父が亡くなれば、喪主は私である。しげが親戚の応対に耐えられるかどうか、極めて心許ない。と言うか、私は本気で父が亡くなっても葬式を出すまいかとすら考えているのだ。
 もちろん、親戚一同がそんなワガママを許すはずもないので、いかに「簡略化するか」が現実的な判断なのだが。以前、区役所に葬儀屋を紹介して貰えれば、かなりコンパクトにしてくれると聞いたことがあるのだが、本当だろうか。

 「具合が悪いなら迎えにも来れないか?」と問い合わせたら、「それは大丈夫」と返事。
 そう言いながら、帰宅した途端に、しげは薬を飲んで横になって寝込んでしまった。心とからだのバランスが完全に崩れてしまった感じだが、直後に父から電話が掛かってきて困った。
 「具合はどげんや?」
 「どうもこうも寝とるよ」
 「大丈夫や? 医者に行かんで」
 「今日はもう病院、閉まっとうやん。明日も具合が悪いようやったら、病院連れてくよ」
 「そげんせいや」
 一応そう言って電話を切ったが、まあストレスが消えれば腹の調子も元に戻るだろうから、医者に行くほどのことはなかろうとは思う。けれども、恐らくはこういうことがこれからも頻繁に起きることも予想はつく。どこかで踏ん張って、目の前の壁に立ち向かって貰わなければ困るのだが、有効な方法がいつまで経っても見つからない。他人から見ればたいしてプレッシャーでもないことを、無理やり自分の中でプレッシャーに仕立て上げているのだなあと、その過程は見えるのだが、それを改めるためにどうしたらいいのかが分からないのである。
 やっぱり部屋の中にずっと閉じこもってるのがよくないのだろうと、仕事に就くようにせっついているのだが、「自分は仕事が出来ない」とまた勝手に思い込んでいる。思い込むことで仕事に就くまいとしている。これじゃいつまで経っても悪循環の堂々巡りだ。
 私もかなり疲れが溜まってきていて、睡眠時間をたっぷり取っても、やはり寝たりなくて、朝が特に億劫である。目がはれぼったくて、コンタクトレンズがどうにも午前中は目に乗らない。以前、入院した時と、「疲れ具合」が似通ってきているのだが、しげがこれ以上、足を引っ張るようなら、本当にしげのことを忘れるしかないかなと思い始めているのである。これは別にしげと離婚するとか、そういうことではないのだが、しげのことを考えるのを止めるということだ。

 コンタクトをするようになって、自分の素顔を久しぶりにまともに見るようになった。目の下のクマがかなり激しい。疲れた土気色の、何か病気を持っていそうな中年というよりは初老の男の顔がそこにある。髪はもう1/3が白髪だ。明らかに実年齢より10歳は老けている。
 父の葬式くらいはちゃんと仕切って死ねたらなあと、そんなことを考えている。


 マンガ、西原理恵子『営業ものがたり』(小学館)。
 前作『女の子ものがたり』が、いつのまにか「サイバラさんをもっとメジャーにして売り出そう」キャンペーンの『営業ものがたり』にシフト。
 充分、儲かってるはずだけどなあ、でも『まあじゃんほうろうき』のころから本来手に入ったはずのお金がなぜか他人のところに行ってしまうのをセキララに見せられているからなあ、つか、そんなのまでマンガにしちゃうから、ワラワラとタカリが寄ってくるんだと思うけどなあ、そう言えばサイバラさん、ア○ウェ○にも入ってたはずだけど、あれもダメだったんだろうなあ。
 「未だに自分の単行本が『に』の棚にある。」と世間に認知されてないことを嘆かれているが、マンガの世間への浸透度なんて、マンガ家やマンガファンが思っているほど広くも深くもないのである。手塚治虫が国民栄誉賞取れない国だから。秋本治も「未だに『こちら葛飾区亀有交番』とか言われる」と憤慨しているのだから。
 かく言う私も、マンガに詳しいなどとはとても言えない。ミクシィのプロフィールで、「好きなマンガ」を100挙げようとして、ある事実に愕然としたのだ。ベスト100を選ぶに当たって、自分で、「連載中の作品を除いて、完読している作品のみを挙げる」と決めて選び始めたのだが、ふと気がつくと、その基準で行くなら、自分には「赤塚不二夫や藤子・F・不二雄は殆どの作品が選べない」ことに気が付いたのである。
 『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『レッツらゴン』、全て、途中までしか読んでいない。『オバケのQ太郎』に『ドラえもん』も同様だ。これらの作品は、完全版がなかなか出なかった、という事情があるが、それにしても博捜して読むまでのことはしなかったのだから、「好きなマンガ」と堂々と言うわけにはいかない。しかし、『ドラえもん』ファンと口にするもので、てんとう虫コミックスないしは藤子不二雄ランド版で『ドラえもん』を全巻揃えている人間は何割かしかいないのではあるまいか。長谷川町子の『サザエさん』を完読している人は、この日本には数%しかいないと思う(文庫全集は完全版ではない)。
 話が逸れたが、まだまだサイバラさんは恵まれてる方だと思うので、ちょっとくらい発行部数で倉田真由美に抜かれたからって、ヒネなくていいと思うのである(ポーズだけだと思うけど)。

 で、今回のメインはオビにもある通り、「サイバラ版『PLUTO』」である、『うつくしいのはら』。「プルートは私でもよかったんじゃないのお」の冗談発言から駒が出ちゃって、現実になっちゃった企画であるが、「ロボットが描けません」と泣きを入れるサイバラさんがいじらしい。もちろん、サイバラさんなりにロボットを描くことも可能だと思うのだが、サイバラさん流の韜晦で言うなら、「勝ち組の勝ち土俵にあがって勝負するほど、こっちもあたま悪くはないわよ」である。もちろんこれは、「勝ち組の勝ち土俵に上がったって勝てるのだが、それは浦沢直樹に敬意を表してやらない」ということだ。
 「サイバラに『PLUTO』が描けるかよ」と「本気で」思っているやつがいたら、そいつはマンガというものが全く分かっていない。
 そうして、土俵からリングアウトして(土俵アウトと言うべきか)描かれたのが、オビに「サイバラ、生涯の最高傑作」と書かれた『うつくしいのはら』である。アトムもプルートゥも出てこないが、これは間違いなく、西原理恵子にしか描き得ない、『PLUTO』であり、『火の鳥』なのだ。
 
 少女は毎日、教会に行く。教会に行って、字を習う。字を習えば、働けるようになるからだ。働いて、家族が一緒に暮らしていけるようになるからだ。
 あるとき、少女は、野原で兵隊の死骸を見る。少女は死んだ兵隊と会話をする。どこから来たの? 家族はいるの? 何でこんなことをしてるの?
 死体は語る。「家族を食べさせたかった」。 それは少女の願いと同じものだった。
 少女は大人になる。大人になって、子供が生まれる。少女は子供に語りかける。
 「あなたは、あのときの兵隊さんでしょ? 私にはわかっているの」……。

 物語はまだ終わらない。終わらない物語が示される。それは一つの輪廻の輪であり、だからこそこれが『火の鳥』にオマージュを捧げた物語であることは見当がつくし、『鉄腕アトム』もまた『火の鳥』の一エピソードになるはずのものであったとすれば、まさしく本作は『アトム』と『火の鳥』のミッシング・リンクを繋ぐ機能を有していると言えるのである。西原理恵子もまた、「手塚治虫の子」であったことを示す貴重な作品だ。
 本短編集には『ぼくんち』の番外編も収録されている。乱雑マンガの合間に時折発表されるサイバラさんの抒情マンガに、「あざとさ」を感じる読者もいるようだが、西原さんの精神的基盤がどこにあるかを考えた時、その「あざとさ」を単に「泣かせるための技巧」と言ってのみ裁断できないことははっきりしているのではなかろうか。
 少なくとも西原さんは、自分の過去を顧みて、その底辺の生活をモデルにしたマンガを描きながらも、自分が本当に「不幸」だと思ったことは一度もないはずだ。「お涙頂戴」で『ぼくんち』や『ゆんぼくん』を描いてきたことはない、と思う(ご本人に質問したら、韜晦して「あれは『お涙頂戴よ』と仰るかもしれないが)。

 読者がこの『うつくしいのはら』をテクニックとしてしか読めないのであれば、そちらの方が「不幸」なことであると思う。
 アトムはロボットである。ロボットであるアトムは、「いつになったら、ロボット同士、争わずにすむ未来が来るんでしょうか」と慨嘆した。これはもちろんロボットにはある寓意が込められているのであって、人間の中にも人間に奉仕することを運命付けられている「人間」がいるということを示唆している。言わずもがなであろうが、それが「兵士」なのだ。
 世界の歴史上、「兵士」が存在しなかった時代はない。人間の生が繰り返されることと、争いの歴史は等価であった。だからアトムは「いつになったら」と口にするしかなかった。永遠の逡巡が、『地上最大のロボット』の裏テーマとしてある。西原さんはそこに着目したのだ。そして、手塚治虫を語る場合にもう一つ、見逃せないモチーフをそこに付け加えた。
 西原さんの「兵士」は語る。
 「ぼくたちはいつになったら、字をおぼえて、商売をして、人にものをもらわずに、生きていけるの?」
 この疑問は誰に向かって投げかけられているか。「母」にである。運命とは何であるか、人間の宿命とは何であるか、答えは、いつの時代でも、常に、母によって語られるのである。
 もうこれ以上、説明する必要はないだろう。『うつくしいのはら』は、西原理恵子によるマンガで描かれた「手塚治虫論」なのである。

2004年11月07日(日) 一面のボブ・サップ/永井豪『天空之狗』1巻
2002年11月07日(木) 吉野作造と鞍馬天狗/『トリック・ザ・コミック』(堤幸彦・蒔田光治・林誠人・西川淳)/『トラマガ』vol.2ほか
2001年11月07日(水) 暗号解読/アニメ『ヒカルの碁』第五局/「西原理恵子のご託宣ポストカード」ほか
2000年11月07日(火) 昔の映画も見よう……/『笑わない数学者』(森博嗣)


2005年11月06日(日) さよなら本田美奈子.さん/『あたしンち』11巻(けらえいこ)

 歌手で女優の本田美奈子.さんが、急性骨髄性白血病で死去。享年38。
 「はてな」日記にも追悼の言葉は書いたが、読み返してみるとかなり感情に流されている。実際、きっと病気を克服して復帰すると信じていただけに、ネットで記事の見出しを見た時には、本気で取り乱してしまったのだ。
 感情が先走ると、細かい誤謬にまで目くじらを立てるようになる。たいていのニュースが、本田さんの名前の最後に「.(ドット)」を付けることを忘れている。「ドットを付けると画数が31画になり、開運のために変えました。いつでも歌手として人として女性として輝いていたいのでドットを付けました」という趣旨で、昨年11月に改名しているのだが、個人のプログなどではそのことに気付かずにドット無しで記事を引用している人も多い。それでもファンかよと腹を立てたり、逆に全然開運になってないじゃないか、占いなんて何の役に立つかと恨めしく思ったり、ともかく常軌を逸してしまっていた。
 本田さんがこの世にもういないのだ、もうあの歌声を聞くことはできないのだ、いつかは生の舞台を見に行きたいと思っていたのにと思うと、胸が塞がれ、同じ病気になっても渡辺謙のように見事復活を遂げた人もいるというのに、どうして本田さんがこんな悲しい目に合わなければならないのか、医者はいったい何をやっていたのだ、怒りのぶつけどころがなくやりきれなく、思考はどんどん後ろ向きになっていく。
 そうして少しだけ落ち着いてくると、ああ、私は本当に本田さんの歌声が好きだったのだと、そのことだけが意識されるようになる。

 多分、あれは『ザ・ベストテン』に本田美奈子.が初めて出演した時のことだから、20年も前のことになる。嬉しさもあったのだろうが、ともかくハイテンションで、司会の久米弘が声をかけてもまるで無視をして、テレビカメラの恐らくはファンに対してのつもりではあろうが、「ヤッホー」と手を振り、勝手に喋って、久米弘も黒柳徹子もいささか当惑していた。他のテレビに出演した時にも概ねそんな調子だったから、一般的な印象は決してよかったとは言えない。デビュー直後であるにもかかわらず、当時のアイドルにありがちな「ぶりっ子」なところがなく、よく言えば個性的だが、しかしそれを快く思わない人たちには「生意気で傍若無人」と捉えられていたのだ。それが「本田美奈子」という「現象」だったのである。
 松田聖子などもファンの好き嫌いが極端に分かれるアイドルであったが、「天下を取った」アイドルにはそういう毀誉褒貶がつきまとう。そろそろ一般化してきた「ヤンキー」が本田美奈子の主要なファン層であったこともあって、その若さに似合わぬ歌唱力に惹かれてはいても、一般の音楽ファンが「本田美奈子が好き」とは言いにくい雰囲気も当時はあった。『1986年のマリリン』にしろ、『Oneway Generation』にしろ、ちょっと突っ張った、若さが先走りしている印象があって、こういう闇雲さは一時的に若い層の共感は得るけれども、「ホンモノ」ではないのでじきに飽きられる、今付いているファン層はアテにはならないのだが、と危惧をしていた。その予測は悲しいことに当たってしまうことになる。

 あとになってこんなことを言うと、ウソだろうと疑われてしまうのだが、私は本田美奈子.はロックなどに拘らず、いずれミュージカル俳優か何か、ともかく舞台や演技の方にシフトしていけば成功するのではないかと踏んでいた。と言ってもたいした根拠があったわけではなくて、「この人は歌は実際にうまいんだし、この人の見た目のビジュアルだけに惹かれてるような今のファン層はいずれ離れていくだろう、このままただのアイドルで終わるにはもったいない」と思っていただけのことである。

 主演映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が大コケして人気が下火になっていたころ、本田さんは写真家の秋山庄太郎にポートレートを撮影されている。『昭和の美女』に収録されたその写真は、それまでの「アイドル」の顔ではなく、生意気さもツッパった険しさもなく、正面を優しく潤んだ目で見つめた「女優」の顔であった。「本田美奈子嫌い」を標榜していた知り合いにその写真を見せたところ、彼は最初それが誰か気がつかず、「これ誰?」と言い、私が「本田美奈子だよ」と言うと、「うそ!」と叫んで目を丸くし、「本田美奈子にこんな表情ができたのか!」と感嘆した。
 もちろん、ミュージカル女優となって以後の本田美奈子.を知る人には、彼女がそういう表情を作ることができるのも自明のことになっているが、当時はそれくらい彼女へのマイナスイメージは固定化していたのである。しかし、そのころの本田さんの心の中には、アイドルを脱皮して新しい道を切り開こうとする意欲が既に沸々と湧いていたのだろう。
 そんな本田さんの「新しい顔」を捉えた秋山庄太郎だが、本田さんを撮影したことなど数年できれいサッパリ忘れてしまっているのだから、人と人との係わり合いとは不可思議なもので、言葉では何とも評しようがない。

 「転機」を迎えた後の本田さんの軌跡については、既にあちこちで語られ始めている。しかし、かつて彼女を襲ったバッシングの嵐については、もう古いファンしか知らなくなりつつある。掌を返すように去っていったアイドル時代のファンたちを、本田さんがどう感じていたかは分からない。悲しんでいたかもしれないし、全て過去のことと忘れてしまったかもしれない。
 ミュージカル女優になって、さらにはクラシックの世界に挑戦し、その歌の世界を着実に広げていったことは、本田さんにとってはその都度「再生」する思いで行ってきたことではないだろうか。本田さんの歌声を、私は結局一度もナマで聞くことができなかった。今はCDを聞き返し、録画した舞台中継を見返すのみである。多分、今も、この世ではないどこかで本田さんが歌を歌い続けていることを祈りながら。
 

 実相時昭雄監督が、読売新聞に「病気とつきあう」と題したエッセイを掲載している。
 内臓疾患があるとのことだが、「付き合う」とはつまり「病院に掛からない」ということで、どうやら放置しているらしいのだ。ムカシの人はなぜか医者嫌いの傾向があるけれど、それは多分、長く生きれば生きた分だけ、「医者の無能」に遭遇する率が高くなるからだろう。
 けど「医者嫌いも困ったもんだな」程度では済まされない。実相寺さんは昨日の『乱歩地獄』の完成披露の席にも「体調不良」で欠席したというのである。実相寺さんの周囲におられる方々も恐らくは「医者にかかりなさいよ」と説得しているんじゃないかと思うが、素直に聞いているかどうかは分からない。これまでの実相寺さんの自分の体を省みないご行状はもはや「伝説」となっているので、それが簡単に改まるとも思えないのだ。
 ファンとしては、まだ何本でも映画を作ってほしいと思っているので、少しは自重してほしいと願ってはいるのだが、それももう無理なのだろうか。


 ミクシィに入ると、自分の日記を覗きに誰が来たのか、「足あと」の欄をクリックすると分かる仕組みになっている。これまでの日記もアクセス解析はあって、どこから飛んできたかは分かるものの、誰が来たかまでは特定できなかったので、これが「会員制」ってことなんだなあと感心する。
 しかし、入会したばかりの人間の日記なのに、いったいどういう興味があったものか、全く見知らぬ人も結構覗きに来ているのである。トモダチ探したい人がいっぱいいるということなのかな(笑)。
 旧知のヨナさん、あやめさんもミクシィ登録していると連絡があったので、早速マイミクシィに登録させていただいた。これで、昨日の日記に書いたように、トモダチがいなくてすぐに退会させられる事態にはならずにすみそうである(笑)。


 マンガ、吉崎観音『ケロロ軍曹』11巻(角川書店)。
 まあ、ちょっくら飽きが来てるところではあるのですが(苦笑)。
前巻から引いた「決戦、ケロロ小隊24時」編も、あっさり過ぎるくらいに決着が付いて、また、まったりした「オバケのQ太郎SF風味」みたいな展開に戻っちゃった。
 新キャラの月神散世(つきがみちるよ。かぐや姫かワーウルフかい)、冬樹に恋する桃華のライバルなわけだが、イカニモなメガネっ娘キャラで、11巻も経ってわざわざ出さなきゃならないキャラでもないんじゃないかという気はするが、これもまた「終わりどころを逸した」マンガの一つなんで、あまり文句を付けるのも酷というものだろう。
 劇場映画は見に行くかどうかはまたせ分からない。『ゾロリ』と併映ってのはなかなかオイシイカップリングだし、子供向けじゃん、と思っていた映画が、劇場版になった途端に出来がグンとよくなるのは『クレヨンしんちゃん』とか『デジモン』などで証明済みだから、ちょっと期待はしてるんだが。


 マンガ、けらえいこ『あたしンち』11巻(メディアファクトリー)。
 表紙はユズヒコ。と、これで家族四人、めでたく表紙を飾ったわけであるが、次はまた母さんに戻るのであろうか。
 家族の日常マンガで、まったりマンガで、『サザエさん』から風刺部分を抜いた実に毒のない、およそオタクがファンに付くマンガでは全くないのであるが、こういうマンガが日本のマンガシーンの裾野にあって、マンガ読者を支えているのであるから、単に好きなマンガだけを読んでいたいというだけでなくて、もちっとマンガ文化のありよう全体について考えていきたいと考えている人たちにとっては決して無視はできないマンガなのである。
 まったりマンガと書きはしたが、けらさんのキャラクター造形力、これは尋常でないくらいに優れている。タチバナ家の人々はもちろん、名もなきサブキャラのディテールに至るまでけらさんの人間観察眼は細かく行き届いて描写されており、一人一人が実に個性的である。マンガの持っている「カリカチュア」の特性を最大級に生かしていて、それでいて読者にリアルさを感じさせるという、とてつもなく優れた技術の上にこのマンガは成立しているのである。練達の技、と言っていい。
 例えば、ユズヒコのクラスで、『いつでも泣ける』(笑)というベストセラー本が流行っていて、みんなが読んで泣いている、というエピソード。ところが川島さんは読んでも泣けない。ユズヒコのことを好きだけれども言い出せないくらいに気弱な川島さんだから、周りに付和雷同して「すごいいい本!」と賛同してしまう。でもクラスの中でもマイペースな石田さんは、読んでも「泣けなかった」とあっさり言ってしまう。リアルだと言うのは、この子が、「自分だけは見方が違うぞ」という特権意識で「泣けない」と主張するのではなく、全く自然にそう口にするところである。さらには、ユズヒコが「えーっ? これって犬じゃなくて飼い主が死ぬんだ!?」と大勘違いをしてのける。おかげでみんな涙が引いてしまうのだが、「キャラクター造形力が凄い」というのは、こういうちょっと暢気なユズヒコが、実はクラスの中でも「密かにモテている」ということで、しかもその事実にユズヒコ本人は全く気が付いていないという点なのである。無精ひげが生えると姉のみかんから「ハムスターみたい」と言われてしまうようなちょっと冴えないご面相であるのだが、だからこそ、女の子からはモテているのだ。
 『電車男』がブームになったおかげで、全国のモテナイくんはモテるための手段を模索するようになったようであるが、一番モテるタイプの男の子というのは、実はユズヒコのような心に焦りのない、暢気なようでいて実は一本芯の通っている「男」ではないだろうか。まだ恋に目覚めていないというのも、高校生の時点ではポイント高し。
 逆に「思考ただもれ男」の藤野はモテないのである(笑)。いるよ、こういうやつ。
 ついでに言えば、男の子から普通にモテるタイプは藤野さんで、マニア受けは石田さんである。川島さんはずっとユズヒコに片思いであるが、残念ながら態度が中途半端なのでモテない。やっぱり自分で一人「立っている」女性が、憧れの対象となるのですよ。
 何か、マンガ評というより、「恋愛分析」みたいになってしまったが、一つ一つのエピソードについて、読み込んでいくほどに「テーマ」が生じて、思考があちこちに派生していくのが、このマンガの描写力が優れていることの何よりの証拠なのである。

2004年11月06日(土) マイケル・ムーアの遠吠え/時雨沢恵一『キノの旅次
2002年11月06日(水) あのころ/『コミック1970』
2001年11月06日(火) 10年ぶりのスプラッタ/『西原理恵子の人生一年生』(西原理恵子)ほか
2000年11月06日(月) 別に国際化したいわけでもなし/『大人の国イギリスと子どもの国日本』(マークス寿子)


2005年11月05日(土) オタク用語の基礎知識2006/『唐沢なをきの幻獣事典』(唐沢なをき)

 昨晩、うっかり風呂場でウツラウツラ、浴槽のヘリに寄りかかって、右手を下にして眠ってしまった。そのまま数時間、空が白んでくるころになって目が覚めたのだが、風邪こそ引かなかったものの、手が痺れて、肩のやや下あたりから指先まで、感覚がなくなっていた。
 父もこんな感じだったのかなあと不謹慎なことを暢気に考えていたのだが、今日がたまたま休日だったからいいようなものの、平日だったら仕事にならないところだったのである。
 風呂場で眠るのだけは冗談ではなくヤバイことになりかねないので、最近は気をつけていたのだけれども、ちょっと油断した。おかげでパソコンを打つ指も感覚がなくて、スピードが上がらない。


 『ウルトラマンマックス』第19話「扉より来たる者」(空間移動宇宙人ターラ星人/戦神ギルファス登場)。
 考古学者のオザキ博士役で森次晃嗣さんがゲスト出演。
 ってことでかつてのモロボシ・ダンに敬意を表して、よくある「解説役」だけの キャラクターには留まらず、かなり重要な役どころを与えられている。メガネを取り出してウルトラ・アイのようにかけてみせる、なんてのはちょっとしたご愛嬌だが(森次さんのアドリブだそうな)、瞬間記憶能力を駆使して異次元の扉を開くパズルを完成させたり、トミオカ長官役の黒部進さんと旧交を温めるシーンがあったりと、往年のファンを喜ばせてくれるシークエンスがあちこちに盛り込まれているのだ。
 しかし、いくつかのシーンはそれがドラマの内容と直接の関わりがないために、若いファンが見ると「このシーンにはどういう意味があるの?」と首を捻ってしまうことにもなりかねないわけで、どうせなら扉の向こうにまでオザキ博士も同行して(自分の発掘調査に関することなのだから、そうしてもおかしくはない)、敵を倒すきっかけをDASHやマックスに与える、という展開にしてもよかったと思う。
 どうも未だに「三池崇史ショック」の影響で、ついキビシメに番組を見てしまうが、そこそこの出来をキープしてはいるんだよね。熱くなりすぎないように気をつけよう(笑)。


 さて、今年も「現代用語の基礎知識2006」(自由国民社)が発刊されたが、昨年の新語として、「はてなダイアリーキーワード」から選んだ105語が掲載されているということである。

>「ツンデレ」「萌え属性」といったオタク用語や、「テラワロス」など2ちゃんねる用語、「ささやき戦術」など耳慣れないものまで、選ばれた言葉は多彩だ。

 ということであるが、掲載されているオタク用語、私は殆ど使っていないのである。もう私は「萌え」って使う人間とは人種が違うというか、そっちがオタクなら私はオタクじゃないし、私がオタクならあっちはオタクと認めないと、二者の間にはマリアナ海溝より深い溝があると思ってるから。
 別に、ジャーゴンそのものがいけないというつもりはないのである。昔からオタクは仲間意識を高めるためっつーか、平たく言えば「気取ってたい」ためにこの手の言葉をやたら開発してきている。それが逆に「オタク」と揶揄される原因の一つにもなってしまったわけだが。
 こういう「新語」は自然発生的に生まれるのが常であるが、昨今のオタク業界での新語発生率はいささか尋常ではない。ちょっと引っかかりがあれば喜び勇んでジャーゴンを作り出そうとするような、意図的なところが見受けられるのである。まあ、あれだよ、『仮面ライダー響鬼』のシナリオライターが代わった途端に、過去の作品群と照らし合わせて、「こいつならラストをこんなふうにメチャクチャにするだろう」と「最終回予想」をしちゃうような鬱陶しさと言うかね。譬えが分かりにくいか。
 ジャーゴンを次々と作り出すことを仲間意識を深めるためと言えば聞こえはいいが、意図的に作られたそれはむしろ「その言葉を使えない人間を村八分にする」意図のほうが強い。要するに隠語であり、符牒であり、排他主義である。だから、世間一般にその言葉が浸透していくと、「その言葉の使い方は違う!」などと息巻くことになるのである。「萌え」とかもう一般語になったと言っていいくらいだから、その概念はもうかなり曖昧になっているのである。せいぜい「オタク的な好きになり方」としか説明のしようがないが、じゃあその「オタク的」というのがどういうものかと問われれば、明確に説明できる人間はいないだろう。
 「ツンデレ」ってのもこないだ初めて聞いたような気がするが、もう一般化していて、入ったばかりのミクシィの下村嬢の紹介文に、「萌えキャラ」とか「姉・ツンデレ属性あり」とか書いてあったのには大笑いした。いや、笑っちゃ悪いかもしれないが、少なくとも私は、そういう「萌え」とか「姉」とか「妹」とか「ツンデレ」とかは、あくまでアニメキャラ、特撮キャラなど、二次元ないしはフィクションの世界に限定されるもので、ナマミの人間に適用される言葉だとはついぞ思ってもみなかったのである。
 つまりそれだけ、言葉の囲い込むカテゴリーが広がっているのだ。それが「一般化して行く」ことの特徴でもある。となると私にとっての「萌えキャラ」はしげということになるのだろうか(笑)。しかし、二次元キャラと同一視される生身の人間は、どんな気持ちになるんだろう。あまりいい気持ちはしないのではないかと思うが、そういう感覚も若いオタクたちの間ではもしかしたら薄らいでしまっているのかもしれない。
 まだ私が何を言いたいのかピンと来ない人もいるかも知れないが、こういうジャーゴンの多出は、「オヤジ化」の第一歩でもあるということである。宴席で、つまんない駄洒落を飛ばして、場は白けてるのにその空気に気づきもしないで、それを受け入れることを強要する傲慢さ、「俺の勺が飲めないのか?」と酒臭い息を吹きかける下品さと共通の感覚が、だんだんと若いオタクをも席巻しつつあるのだ。
 以前はオタクはサベツされてたから(笑)、一般人の前でそんなジャーゴンを口にすることもなかったのだが、最近は堂々としていて恥を知らない。別に知らなくったってかまわないのだが、『電車男』ブームと言い、自分たちがいかにも社会に認知されたかのように錯覚して、押し付けがましい態度を取るのはどうしたものかと思うのである。
 『フラワー・オブ・ライフ』2巻(byよしながふみ)に曰く、「なんでもあなたたちの言葉で説明しないでちょうだい!」(笑)
 あなたは「もう私のことを愛してないの?」と言われる代わりに「私にはもう『萌え』を感じないの?」と言われたいかね。言われたいならもうあなたは重症だ。


 「今日は一日、家におってよ」としげ。
 「何で?」と私。
 「言うとったやん! ガス工事の人が来るって!」
 「ああ、そうやったっけ。で、いつ来るん?」
 「午前中やろうけど」
 まあ、確かに午前は午前だったが、12時ギリギリ、こちらが待ちくたびれて、昼寝をしていた最中に、ピンポーンと玄関のインターホンが鳴った。
 マンションの改装に伴って、ガスの工事とか玄関のペンキ塗りとか、給湯器の付け替えとかやらなきゃならないので、都合のいい日を教えてください、ということだったのだが、面倒くさいので今日一日で全部やっちゃってください、と頼んでいたのである。でもこういうときの工事の人というのは、こないだベランダから声をかけてきたこともそうだったが、無礼な人が多い。
 「ガスの工事をするんで、いったんブレーカーを落としてもらえませんか」
 「部屋を全部ですか? それはちょっと困るんですけど」
 「じゃあ、ガスのところだけでいいです」
 「ガスのところってどこでしょう?」
 「知りませんよ。台所か玄関か、そのへんじゃじゃないんですか」
 確かにここは私の家ではあるが、電気の配線がどこにどう繋がってるかなんてことまでは知らないのである。だいたい工事の人は同じ間取りの他の部屋だって回っているのだから、どのブレーカーを落とせばいいのかくらい、知っているはずだ。どうしていきなりそんな横柄な口を利かれなきゃならないのか、理解に苦しむ。
 そうして一息ついたなあと思ったら、また「ピンポーン」。
 今度は、ドアのペンキ塗りの人が、「ドアを外しまーす。開けっ放しになりますがすみませーん」。謝ってくれるのはいいのだが、わざわざインターホンで知らせなくても、玄関は目と鼻の先で、声をかけるだけですむのである。何か、最初に声をかけるときは、必ずインターホン越しで話しをしなければならないというマニュアルでもあるのだろうか。ペンキを塗った後も、やっぱりインターホンで「乾くまで、風邪を通すんでまだ開けときまーす」 と説明してくれたぞ。それともこれはこの人のクセか。
 あれやこれやで、一通り工事が終わったのが夕方ちょっと前。最後は給湯器のリモコンを新しいのに設置してもらったのだが、これが今までは75度まで熱くすることができたのに、新しいのは50度までしか上がらない仕組みになっている。何か熱くしすぎるといけないことになったのかどうか知らないが、何となく損したような気分にさせられたことである。


 入ったばかりで、まだ全然勝手の分からない「ミクシィ」であるが、とりあえず自己紹介くらいは充実させようと、プロフィールの欄に好きな映画、好きなマンガなどをアップすることにする。こちらの『無責任賛歌』や、はてな日記の方にもプロフィールは付けているので、差別化を図るために、思い切ってそれぞれベスト100を選んでみることにする。
 ところがこれが、書いても書いても終わらない。ベスト100なんて思い出せるのかと思っていたのだが、ふと気がついたら150を軽く突破していて、まだまだ思いつく映画やマンガは目白押しなのである。これじゃあさすがに書きすぎだ、と思って、今度は絞る作業に取り掛かったのだが、こ血らの方が全然辛い作業だった。
 まず洋画であるが、もう誰でもが知っているような名作、アカデミー賞を取っているような映画はわざわざ「私の」自己紹介で書くこともなかろうと、『風と共に去りぬ』とか『アマデウス』とか『普通の人々』とかは真っ先に外した。
 特撮の古典をズラズラト並べるのも偏りがあるように思ったので、『キング・コング』だけを残して『ロスト・ワールド』やら『原子怪獣現る』やらも外した。A級B級を問わず、入れたかったSFも多いのだが、これもキリがないし、SFファンなら「見ていて当然」のものばかりが並んでしまい、これも個性的なものにはならないのである。だから『禁断の惑星』も『ミクロの決死圏』も『決死圏SOS宇宙船』も『未来惑星ザルドス』も『猿の惑星』も『ウエストワールド』も全部外しているのである。でも、『スター・ウォーズ』や『スター・トレック』シリーズや『マトリックス』シリーズなどは最初から眼中にない(笑)。でもベスト108まで選んで『惑星ソラリス』を入れ忘れていることに気がついたのは痛恨だった。そのうちどれかと差し替えるかもしれない。
 コメディでは、『がんばれ!ベアーズ』や『フロント・ページ』、『おかしな二人』、『グレートレース』など、ジャック・レモンとウォルター・マッソーに偏り過ぎるのはどうかと、これも外した。『フォレスト・ガンプ 一期一会』は随分迷って外したのだが、この映画で私が好きなのが主役のトム・ハンクスではなくて、脇役のゲイリー・シニーズだからである。
 こんなことを語っていたらキリがない。邦画もいくらでも出そうな勢いであったが、これも20作ほど削った。日本映画は特にシリーズものが多いので、選ぶのは結局その中のどれかになるのである。マンガはどうにも削れずに118くらいまで広げた。
 で、更にミステリー、SF小説、純文学、アニメーションなどでもベスト100を選ぼうかと考えたのだが、肝心の紹介欄が三つしかなくて、これ以上は受け付けられないのであった。つか、それだけ書いたら、もう疲れた。
 ミクシィに入ってない人は、私のこのプロフィールも見られないわけだが、掲示板に「招待状送るよ」と書いといたのに、まる一日経っても劇団員の誰からも「招待状ちょうだい」という連絡がなかった。「別に興味ない。見なくていいもん」ということなのだろう。多分そういうヤツラなんじゃないかなと思ってはいたのだが、やっぱりそうだったか、くそう。
 どうしてお誘い告知までしたかと言うと、「お友だち同志のコミュニティ」ということだから、お友だちが退会してマイミクシィの相手がいなくなっちゃったら、自分も即、退会しなければならなくなるわけだね。極端な話、下村嬢が私を誘った直後に「私はもう辞めますから」と言って退会しちゃったら、私は入会した途端に辞めなければいけなくなるわけである(笑)。
 せっかく入ったんだから、少しは長く続けていたいと思うのである。身内はもうアテになんないから、身内以外の人(でも全く未知の人は不可)、ご興味があればよろしく(笑)。


 マンガ、西義之『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』3巻(集英社)。
 今巻の新キャラは、カリスマ魔具師の黒鳥理緒(リオ)姉さまと、弟子の我孫子優(ビコ)。名前はあびる優っぽいけど、本当にそこから取ったのかも知れない。まだ3巻なのに女の子キャラの増員ということは、一応ヒロインの菜々の人気がイマイチ、ということなのかな。巨乳以外にあまり特徴がないし、「魔監獄編」では出番も少なくなってるし。
 その「魔監獄編」になると、せっかくの「魔法律」という設定があまり生かされなくなっていて、単純な魔物退治ものになっているのは残念なのだが、ジャンプマンガはどうしても単純明快な方向に進んで行かざるを得ないのかね。『行列の出来る法律相談所』みたいに、裁判官や執行人の間で「魔法律解釈」の差が生まれて激論する、みたいな展開になるんじゃないかと一巻のころは思っていたんだけれど。子供にはそういうのが難しいと判断されたのか、単に作者が奇を衒って「魔法律」と言葉にしてみただけで、結局は魔物退治のアイテムとしか「魔法律」を設定してはいなかったのか。どっちにしろ、もう少し「深み」のある作品にしてもらいたいものである。ムヒョのキャラクター自体は結構お気に入りなもんでね。


 マンガ、鹿島潤原作・石黒正数作画『アガペ』3巻(メディアファクトリー)。
 なぜヒロインのはるかが「神の愛」を持つに至ったかの過去がチラッと紹介されるのだが、どうしても浦沢直樹の『MONSTER』か、田島昭宇の『多重人格探偵サイコ』を見ているような既視感に襲われてしまうのである。どこぞの施設の生き残りだの、過去のトラウマがどうだの、そろそろ別の手を考えられないものかねえ。ヒロインの親友が殺されちゃうのも、『ハレンチ学園』や『キューティーハニー』以来の定番だ。「果たして人間に『博愛』などという行為が可能なのか」ということを真剣に表現しようってんなら、あまり出来合いの展開に流されるようなストーリーは使わないで、もっと苦吟すべきだと思うんだけどねえ。


 マンガ、唐沢なをき『唐沢なをきの幻獣事典』(講談社)。
 タイトルはホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』に拠っているが、今回、マンガで紹介されている幻獣たちは、雪男(イェティ)、ネッシー、ツチノコ、モケーレ・ムベンベ、オゴポゴ、チュパカブラ、野人(イエレン)、ジャージーデビル、モノ・グランデ、オリバーくん、河童、ヨーウイ、チャンプ、カエル男、モラーグ、スカイフィッシュ、チペクウエ、ヒバゴン、ヤギ男、モスマンと言ったUMA(未確認動物)である(オリバーくんはちょっと違うが)。これらの動物は、存在が確認されてないだけであって、厳密な意味での幻獣ではない。幻獣とはあくまで完全に架空の、ユニコーンとかア・バオア・クーとかオドラデクとか八俣大蛇と言った想像上のケモノたちのことである。
 まあ、語呂がいいんでタイトルにしただけで、知っててわざとやってるんだろうから、そのヘンの細かいところは気にしない気にしない。オビでちゃんと「UMAが来た!」と補足説明してくれてるから。
 毎回、UMA研究者の天野磁石先生(なぜか最終話では「山本磁石」先生になっているが、気にしない気にしない)とその助手さちこちゃんが、世界のUMAを探索し、格闘勝負を挑むという(笑)、唐沢ギャグ炸裂のシリーズである。表紙でこそマジメにUMAたちの想像画をリアルに描いているが、本編に登場する実際のUMAたちは、愛くるしかったり不細工だったりするが、たいてい人語を喋り理解し、顔も普通の人間(ただしオタク臭い)で、磁石先生にバックドロップをかけられたりすると、かわいそうに思えるくらいなのである。
 こういうギャグマンガを解説しようったって、解説のしようがないのだが、毎回のオープニングで、さちこちゃんの「〜な時代に迷信なんてナンセンスだわ」と口にする「〜」の部分が毎回変わって、しかもどんどん科学的事項から離れて無意味になっていくルーティーンギャグが秀逸。例を挙げれば、「伊良部がタイガースに入団しようかという時代に」「タトゥーの東京ドーム公演がガラガラになる時代に」「いかりや長介の追悼番組が高視聴率を取る時代に」「読売新聞のコボちゃんが毎日カラーで印刷される時代に」「ドラえもんの声優が全員変わる時代に」などだ。いたなあ、タトゥー。今もいるけど。
 案内人が毎回同じ顔なのは押井守の『とどのつまり…』でもやってたギャグだなあ……と思っていたら、オチがアレだったので、その「ひっくり返し」方にも大笑い。ともかく、一ページに詰め込んでるギャグの数が半端じゃなくてしかもそれがヒットしまくりなので、とても全部は紹介しきれないのである。
 一番、ツボにハマったギャグは、「マジ岡弘、(ちょん)」。いやもう、この『水スペ』のパロディ、番組のファンの方はぜひとも現物に当たってニヤニヤしてください。
 唐沢さんもマンガ家生活21周年(くらい)になるそうだが、別にペーソスや風刺に流れたわけでもないのに、一番「消えたマンガ家」になりやすいと言われるナンセンス、スラップスティックなギャグ力が衰えていないのは、稀有と言えよう。こう言っちゃ何だが、これまで長期連載もなければ大人気を博したわけでもなく、アニメ化ドラマ化とも縁がなく、目立たず、コツコツ、細々とマンガを描き続けて来ていることが、息切れしないでいられる秘訣なのかもしれない。
 同時発売の『電脳炎』6集ももちろん購入したが、今月は更に『さちことねこさま』3巻、『漫画家超残酷物語』も発売予定である。『がんばれみどりちゃん』も出たばかりだし、もしかしてついに唐沢なをきの時代が来るのだろうか!?
 いや、来たら来たで息切れしちゃうんだろうから、やっぱり今までどおり、小さなことからコツコツと(笑)。

2004年11月05日(金) 灯台下暗しと大正デモクラシーって似てるね(c.きたろう)/『キム・ポッシブル:タイムトラベル』
2002年11月05日(火) バラエティに芸はない/『ガンダムエーススペシャル』/『カラダで感じる源氏物語』(大塚ひかり)
2001年11月05日(月) 行かなかった博覧祭/『陽だまりの樹』1〜7巻(手塚治虫)ほか
2000年11月05日(日) 「小鹿のバンビは」って歌は日本版だけ/アニメ『バンビ』ほか


2005年11月04日(金) ミクシィ・デビュー!/映画『ブラザーズ・グリム』

 WOWOWで深夜0時ちょうどから新番組アニメ『かりん』第1話「あふれちゃって 恥ずかしい」。
 何かもう、サブタイトルが既にアレだけれども、Hアニメではナイ。「あふれる」のは「増血鬼」であるかりんの血液が、鼻血ブーするからであって、別の液ではないの。って、見ようによってはHアニメか(笑)。
 J.C.STAFF制作だから、作画も演出もそんなに悪い出来ではないのだけれど、アニメ化に際して原作から一歩も踏み出てはいないなあという恨みはある。かりんがいくら顔を赤らめても、原作の「斜線」が醸し出す淫靡な雰囲気にはかなわない……ってやっぱりこれってHアニメなのか?(笑)
 これは多分NGだろうなあと思っていた、興奮するとかりんの瞳がお○こマークになってしまうというのはやっぱり普通の瞳に変更(考えてみれば原作は凄いマンガだ)。鼻血ブーは一応、赤い色のままだったけれども(アニメによっては残酷だということで色を灰色などに変えられてしまうのである)、吹き出したら「紅い花」になってしまったのは、思わず「つげ義春かい!」と突っ込んでしまった。眠れや。
 声優さんは総じてアニメアニメし過ぎているようで、かえって今ひとつ乗れないのだけれども、これは上手い声優自体が払底しているから、致し方がないところだろう。とりあえず次回以降も見続けて見る予定。


 昨晩、下村嬢からメールがあった。
 今度うちに遊びに来ると言ってたので、その話かと思ったら、「ミクシィに入りませんか?」というお誘いであった。
 ミクシィのことを知らない人ももう少なかろうが、会員制の秘密SMクラブである。うそ。でもちょっとだけ合ってる面もあるかも知れない(笑)。だいたい、「会員制」ってものくらい胡散臭いものはない。
 トップページには、

> mixi(ミクシィ)は、これまでの友人関係を更に素敵なものへと導き、新しい交流も生み出す日本初のコミュニティエンターテイメント・ソーシャルネットワーキングサイトです。

 とあるが、この「ソーシャルネットワーキングサイト(SNS)」というのを「はてな」検索すると、

> 「人同士のつながり」を電子化するサービス。自己情報のコントロールや出会い系といった目的を掲げ、各社がサービスを始めている。暗に「つながりをもちたくない人を排除する」という意図も持つ(「orkut八分」参照)。

 とあって、やっぱり胡散臭い(笑)。普通に個々人でホームページを開設したり、一般にサイトを公開してコメント付け放題にしていたら、どれだけ「荒らし」が来るか分からないから、こういうコミュニティが増えていくのも自明の現象ではあるが、では会員制にしたからと言って、安心できるとは限らないのである。
 以前、誘われて入ったことのあるネットサークルでは、主宰者の方がちょっと心を病まれた方だったので個々の発言についていちいち難癖を付けられることも多く、そんなに迷惑だと仰るのなら身を引きましょうと退会したのであるが、そのあと、私がそのサークルのURLを2ちゃんねるに貼ったという根も葉もないウワサを流されたのである。私のこの日記のアドレスも当然のごとく一緒に貼られて、いかにも首謀者であるような書き方すらされてしまったが、私は自分が犯人ではないことを知っている。誰がそんな真似をしたかと言えば、私のホームページのURLを閲覧可能だったのは、そのサークルの誰かしかいないので、その主宰者さんを「裏切った」のは、そのサークルに参加していていかにも仲間でござい、という顔をしていた誰かであることは間違いないのである。
 そのサークルの人たちの何人かとは面識もあったし、実際に私という人間を見てもらっていれば、そういうヒレツなマネは大っ嫌いだということは理解してもらえるんじゃないかと思っていたのだが、結局はそれは私の認識が甘かったのであった。
 人は人の心など見通せることなどできはしないし、ウソをつくことも何の罪悪感もなく、平気でする。一つ一つの証言をつき合わせて行くうちに、誰がどんなウソをついたのかは見えてきたのだが、そのころにはもう、そのサークルにはすっかり興味がなくなってしまっていた。それからしばらくして、2ちゃんねるで叩かれまくったそのサークルは、閉鎖に追い込まれてしまうことになる。
 主宰者の方は可愛そうではあったが、信頼していた仲間の中に実はヒレツな裏切り者がいるとは最後まで気付かず、私や他の何人かの無関係な人たちを疑っていられたことは、知らぬが仏でかえって幸せだったのかもしれない。「会員制」のサークルやコミュニティというものは、何か一度トラブルが起きれば、閉鎖された関係であるがゆえに、逆にお互いの疑心暗鬼を起こして身を滅ぼしたりすることもあるのである。

 しばらく覗きに行ってなかったのだが、友人の話によると、作家の山本弘さんのホームページ「SF秘密基地」の、掲示板が閉鎖されてしまっていると聞いて、覗いてみたらその通りであった。トップページには「家庭の事情により」となっているが、友人の話によれば「『仮面ライダー響鬼』の『30話問題』(苦笑)で、荒らしがあったのが原因らしいよ」ということである。本当かどうかは分からないが、もう山本さんのところの掲示板が、荒らしの標的にされまくっていたのは事実である(常連さんがまた全く学習能力のない馬鹿揃いで、荒らしを無視できずに何度も応対して傷を広げていた)。
 山本さんの批判サイトも覗いてみたら、山本さんがミクシィで発言していた『仮面ライダー響鬼』に関するコメントがアップされていた。ミクシィとて万全ではない、という何よりの証明である。

 で、誘われて入るかどうか、三秒ほど迷ったが、この際、また「別テイスト」の日記を書いたりするのもいいかな、と思って招待状を受けることにした。率直に言って、「本職を明かして日記を書く」ことをやってみようと思ったのだ。
 今しがた、「ミクシィも万全ではない」と言っときながら、何でまた参加するのか、ということであるが、もともとこの「無責任賛歌」だって、別に職業や本名を是が非でも隠したいと思って始めたわけではないのである。人が、社会の中で生きる以上は、それぞれに「立場」というものがあるから、何かモノを言おうと思えば、どうしたってその「立場」はしがらみとなって自己を規制する。それを軽減してできるだけ自由になろうと思えば、ある程度の「匿名性」は必要になってくる。
 日記を続けるにはどうしてもその匿名性に依拠するしかないなと思ったのだが、と同時に問題が生じてきたのは、そうやって好き勝手にモノを書いていると、私のことを見知っている人がこの日記を読むと、この日記に書いていることの方が私の「ホンネ」であって、日常、私が口にしたり書いたりしていることは、「タテマエ」であるかのように錯覚されてしまうことだ。
 私の「立場」から自由になれば、こういうことも言える、という趣旨なので、別に私は自分の立場を放棄したいわけではない。そこを勘違いされると困るから、私は職場の人間にはこのホームページは教えてはいないのだが、どこから伝わったか、たまに職場の人間でこの日記に辿りつくやつがいる。すると「こんなことを書きおってケシクリカラン」と文句を付けてきたりするのである。名前も職場も明かしちゃいないのに、何を難癖を付けてくるのか、と言いたいのはこちらの方なのだが、馬鹿といくらやりあったところで仕方がないので、これまでにも日記を削除したと見せかけて、アドレスの変更を何度か行っているのである。
 この日記は、今も書いた通り、私の「ホンネ」ではない。「私」という一つのキャラクターを通して考えたことをレポートとして書き連ねていく「思考実験」のようなものである。全くの他人なら、そこのところをどう考えていただいてもかまわないのだが、知り合いが勘違いして私の文章に憤慨し、文句を言って来ても、実物の私にはどうしようもないのである(だから『無責任賛歌』なんだってば)。
 ミクシィには確かにセキュリティに不安はある。しかし、どんなに堅牢なシステムにだって穴はあるのだ。最終的には、その人が2ちゃんねる等に晒しあげられるかどうかは、ネット上でたまたま関わった人が執念深い性格であるとか、羊の皮をかぶった狼であったとか、不運だとしか言えないような偶然に左右されるものである。出会った人が相手を思いやる気持ちに長けているかどうか、それを無条件で信頼する以外にない。
 多分、ミクシィには、先述したヒレツな人たちもまた参加しているだろうから、どこかで接触する危険性もなくはないのだが、あれから時間も経っていることだし、こっちがあえて関わるようなそぶりを見せさえしなければ、日記に「突撃」されたりすることもなかろうと思う。要するにどうして私がそのサークルの人たちに恨まれたかと言うと、私の自由なモノイイが気に入らない、という非常に低劣な理由だったりするのだ。自分の不自由さは自分の責任だろうに、他人の自由さに嫉妬するというのは、いささか情けないのだが、人間なんてたいていそんなものである。

 ミクシィに入れば、これで私の日記は全部で三つになる。こんなに増やすつもりはなかったのだが、これもまた人の縁(えにし)というものであろう。「無責任」は、これまでと同じく、時事ネタから見た映画、読んだ本、中身を問わず気になったことを随時好き勝手に書いていく。
 「はてな」は、加入するきっかけになったイッセー尾形さんのワークショップでご一緒した仲間の方が、なぜか日記をプライベートモードにされてしまったので(嫌われるような書き込みをした覚えはないのだが)、何だか軒に上がったら梯子を外されてしまったような気分ではあるのだが、一応、しげが一番気に入っているようだし、「無責任」と違って「世の中を優しく見よう」という視点で書いているので(笑)、書くのに苦労はない。これも続けられる限り続けようと思っている。
 「ミクシィ」は、先述した通り、本職を明かして、その立場から見た出来事について書いていく予定だが、だからと言って、職場の名前や、仕事上でプライバシーを侵害するような内容を書き連ねていくつもりはない。こういう会員制のネットワークに入った途端に陰口を叩きたがる人もいると思われるが、職場への意見や批判なら、私は職場で堂々とやっているのである(まあ、言葉は柔らかめにしてますが)。「無責任」では遠回しでしか書けなかった、仕事上の「面白い話」がいろいろ紹介できればいいかと思う。

 この日記をご覧になっている常連さんの中で、自分もミクシィに興味がある、参加してみたい、私の日記を読んでみたい(笑)と仰る方もいらっしゃると思います。
 ご希望であれば、招待状をお送りいたしますが、基本的に私と面識があるか、何度かメールや掲示板等でやりとりをしたことがある方に限らせていただきます。ただ「ROMだけしてます」、という方は申し訳ありませんが、参加をご遠慮ください。一応、「友人を紹介するシステム」というルールは守らないとな、と思いますので。
 でも、そんなこと言いながら私が入っても友達が誰もできなかったりして、すぐに退会させられたりする可能性もなくはないのだがな(笑)。


 伯父の受勲についてだが、職場で、昨日のある新聞を見てみると、なんと伯父の写真がデカデカと載っていて驚いた。記事も三段組くらいで、伯父の経歴、受勲までの経過、談話など、かなり詳しく掲載されている。
 勲章ったって、四千人以上が貰えるのだから、めでたくはあるけれどもそれほど大騒ぎするほどのことでもなかろうとタカを括っていたのである。こんなに大々的に取り上げられるなんて、伯父はこの新聞社と何かコネでもあったんかいなと思って首を傾げていたのだが、次の瞬間、ああ、と気がついた。
 つまり、他の受勲者たちはみんな喜んで東京の受勲式に出かけていっているので、地元福岡に残っていたのは、勲章をいったんは辞退した伯父くらいしかいなかったのである。記事には「特にこの方に注目したい」みたいなおべんちゃらが書かれていたのだが、実態はそうに違いない。こういうのも「怪我の功名」と言っていいものかどうか。
 伯父はもともと優しげな顔立ちをしているのだが、写真に写っている伯父は、苦虫を潰したような、実につまらなそうな表情をしている。受勲を喜んでいる様子が少しもない。もちろん、全く喜んでいないからなのだが、これはカメラマンも困ってしまったのではなかろうか。
 帰宅したら父から今度の法事について電話があったので、「写真見たよ」と話をしたのだが、肝心の勲章が映っていなかったのはどうしてか聞いてみると、「まだ送られてきていない」ということだそうだ。これで「宮内庁まで取りにこい」とか言われた日には、また伯父は辞退するんじゃないかと思うが、連絡一つないとは、こういう仰々しいことであっても、お役所仕事はお役所仕事であることだ。


 夜、ダイヤモンドシティ福岡ルクルまで、映画『ブラザーズ・グリム』を見に行く。
 普通、「グリム兄弟」と言えば「グリム・ブラザーズ」と並べるのが普通だろうが、これをあえて逆にしているのがミソ。「チーム・アメリカ」と同じノリなわけだ。
 「グリム兄弟は実はゴースト・バスターズだった」、というテリー・ギリアム監督の発想が既にマトモではない。本来なら、ドイツを舞台にした物語で登場人物が英語を喋っているというアメリカ中心主義的な映画には反発しか覚えないのだが(ちょうど『SAYURI』の予告編が流れていたが、これがやっぱりすごくデタラメっぽいのである)、今回はデタラメファンタジーが目的だから、フランス訛りの英語だってドイツ訛りの英語だって全然問題なし。
 そもそもモンティ・パイソン・チームは、テレビシリーズでもフランス人に扮してその言葉をバカにするスケッチをたくさん作っていたし、エリック・アイドル主演の『ナンズ・オン・ザ・ラン』では、どう見てもイギリス人なアイドルが、自分がインド人だと思い込んでいたというムリヤリギャグだってやっていた。だから、どう見てもアメリカ人なマット・デイモンがドイツ人でも構わないし、弟を「ジェイク!」と呼んでも、「そうかあ、『ヤーコブ・グリム』は英語だと『ジェイク・グリム』になるのかあ」と感心すらしてしまうのである(ヴィルヘルム・グリムは当然、ウィル・グリムね)。

 ドイツ各地の民話を収集する傍ら、各地で跳梁跋扈する魔物、妖怪、化け物を退治して歩く、賞金稼ぎのグリム兄弟(マット・デイモン&ヒース・レジャー)。ところが魔物たちは予め兄弟が仕込んでおいた人形や仲間で、全ては金儲けのためのペテンだったのだ。村人たちには感謝され、女にはモテまくり、すっかり有頂天の兄弟だったが、彼らには子供のころに詐欺に合って、愛しい病身の妹を薬が買えずになくしてしまったという悲しい過去があった。
 しかし彼らのイカサマもついに将軍ドゥラトンブ(ジョナサン・プライス)にバレ、拷問好きの部下・カヴァルディ(ピーター・ストーメア)に逮捕されてしまう。兄弟は、命を救う代わりに、マルバデンの村で起きている少女連続失踪事件の解明を命じられる。てっきり自分たちと同じく、イカサマ野郎の仕業だろうとタカを括っていた兄弟だったが、村の猟師の娘、アンジェリカ(レナ・ヘディ)に案内されて森へと足を踏み入れた兄弟は、歩く大木や狼に襲われる。そこは、鏡の女王(モニカ・ベルッチ)が支配する、本物の魔の森だったのだ……!

 グリム童話のキャラクターたち、赤ずきんやヘンゼルとグレーテルが登場して魔物に襲われたり、カエルの王様にウィル・グリムがキスしたり、悪趣味な描写はあちこちにあるのだが、総じて見るとストーリーはそれほど捻りのない、ごく普通の「妖怪退治もの」であって、テリー・ギリアムにしては独が少ないなあ、これじゃティム・バートン並みだなあという印象である。
 もっとも、そう感じるのはこちらがモンティ・パイソン以来、ギリアム作品を殆ど見続けて来ているからで、今回初めてギリアム作品に出会った若い観客は、グロな描写と能天気なギャグとのギャップに呆気に取られてしまうかもしれない。ギリアム監督、来日記者会見では赤ずきんに扮した上戸彩に盛んにモーションをかけていたらしく、まあその無邪気っぷりは昔といささかも変わっていないのである。今回は題材がグリムなだけに、セオリーをあまり外すことができなかったものか。続編を暗示するラストもあくまで「定番」としての終わり方であって、必ずしも本当に続編を作るつもりはないように思う。
 キャラクターも、主役の二人が無個性なのが頂けない。マット・デイモンは、当初、折れた付け鼻をする予定だったそうだが、プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが、「客は俳優の顔を見に来るのだ」と反対して止めさせたそうだ。ギリアムはそれでヘソを曲げたと言われる。『ゴジラ』の田中友幸も、沢口靖子について似たようなことを言って、『ゴジラ(1984)』や『ゴジラvsビオランテ』をあんなテイタラクにしてくれていたが、洋の東西を問わず、映画を勘違いしたプロデューサーはいくらでもいるものである。
 主役が冴えない分、脇のキャラクターがかなり頑張ってくれてはいる。妖怪退治ものと来れば、「ねずみ男」キャラがどこかにいなければ収まらないものだが、今回その大任を担うのはカヴァルディ役のピーター・ストーメア。いささかはしゃぎすぎではあるが、いいところでグリム兄弟の足を引っ張ってくれるのである。
 画面作りも、「ギリアムにしては」平凡で、せいぜい鏡の女王の塔を俯瞰して森を捉えたカットや、「罅割れた鏡」に映りこむ女王の眼の演出などに往年の才気を感じる程度である。と言っても、ギリアム監督作品がこれで終わりなるわけもない。次回作はギリアム風『オズの魔法使』か『不思議の国のアリス』と言われるミッチ・カリン原作の『Tideland』。今回の『ブラザーズ・グリム』はこれの露払いだったのかな。

2004年11月04日(木) だから日記書く時間なんてないんだってば。
2002年11月04日(月) 勲章って文学賞じゃないでしょ?/舞台『父歸る』(見てないけど)/『鉄人』1・2巻(矢作俊彦・落合尚之)
2001年11月04日(日) デリケートにナビして/映画『紅い眼鏡』/アニメ『ターザン』/アニメ『サイボーグ009』第4話ほか
2000年11月04日(土) まさかあの人があんな人だなんて……


2005年11月03日(木) この程度のことならまだ自由にモノが言えるとは思うが/映画『タッチ』

 どうすっ転んでも、女性天皇は決定的だろうなと思ってたところに、とんだ横槍。
 しかもそれがよりにもよって皇族の中からの発言だから、これはちょっと厄介な事態になってしまう可能性も孕んでいる。
 「ヒゲの殿下」こと、三笠宮寛仁さまが、自分が会長を務める福祉団体「柏朋会」の会報にエッセイを寄せて、文中で「プライヴェート」と断った上で、「女性天皇」について疑問を表明したというのだが、その内容の紹介がね、ネットじゃね、かなり「省略」して紹介されているのだわ。ちなみに、読売新聞のネット配信記事はこうなっている。

> 寛仁さまはまず、「万世一系、一二五代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と強調。〈1〉皇籍離脱した元皇族の皇統復帰〈2〉女性皇族(内親王)に元皇族(男系)から養子を取れるようにし、その方に皇位継承権を与える〈3〉廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀(さいし)を元皇族に継承してもらい、宮家を再興する――などの方法を挙げられている。

 問題点を列挙すれば、まず、「神話の時代の初代・神武天皇から」と、「神話」という明らかに考古学的には信憑性に乏しい伝承を根拠としていることだね。「紀元は2600年」どころか、大和朝廷の成立はせいぜい4世紀ころまでしか遡れない、というのが定説だから、「厳然たる事実」でもなんでもない。
 皇族の一人としては神話だろうが伝説だろうが、それを根拠としなきゃならんというリクツは分かるんだが、「神話」が根拠になるなら、そもそも皇統の始まりは天照大神(アマテラスオオミカミ)にまで遡れるんだよね。国譲りを受けた瓊々杵尊(ニニギノミコト)は天照大神の「天孫」ってことになってんだから。天皇家、もともと女系じゃないの(もっとも、天照大神は男だという説を唱える人もあるが)。それにもしも邪馬台国が大和朝廷の前身だとしたら、この国は女王卑弥呼および壱与によって治められていたわけだ。まさしく日本は「事実」として「女系国家」だったってことになるんだよね。
 もう一つ、三笠宮様の根拠をどのネット配信でも三つまでしか紹介してないけど、実は四つ目があって、これが「『側室』を娶る」となってんだよね。うわあ、「皇太子に女を世話しろ」って主張する皇族。こんな意見は確かに「プライベート」だけに留めてもらいたいものだけれど、これがさあ、三笠宮様の更に次の発言、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません」と合わせて考えると、まるで自分が「天皇陛下や皇太子殿下の代わりに本心を代弁している」と主張しているように聞こえちゃうんだよね。つまり、「皇太子様が、雅子様以外に妃を欲しがってる」ってね。
 本当にそうか? あの、雅子様のためについ宮内庁批判とも取れる発言をしてしまった皇太子様が、他に側室がほしいと思っていると? 断言するが、そんなことは絶対に「ありえねー」ことだろう。
 もしもこの件について三笠宮様に「皇太子様自身が側室をほしがっているのか?」と問い質してみれば、「そんなことは言っていない」と否定するかもしれない。しかし否定をするのなら、最初からこんな馬鹿げたことを口にすべきではないのだ。皇太子様が別に側室のことなど考えていないのなら、これは三笠宮様のとんだ勇み足、いや、雅子様のご心中などを察するなら、人格を疑われても仕方のない発言である。
 これはもう、三笠宮様が勝手に妄想したことを垂れ流しただけだと考えざるをえない。一般には市販されない小雑誌に寄稿したものとは言え、こうして内容が出回ってしまうことは三笠宮様にだって予測がついたはずだ。ご自身、政治的発言ができないと分かってるんだったら、それこそ「沈黙」を守るくらいの自制心が、この方にはなかったのだろうか。なかったと判断するしかない。
 仮に、万が一、億が一、皇太子様が「側室」を欲しがっていたとしても、皇太子様が沈黙を守っているのに、それを勝手に代弁できる立場の者なんて、この世のどこにも存在しない。たとえそれが皇族であってもだ。

 天皇家に対して好意的な感情を抱いている国民が多いのは、その発言一つを取ってみても、自由が制限、あるいは剥奪された状態であるにもかかわらず、「象徴」としての立場を弁えて、礼節を守り続けていらっしゃる真摯さ、敬謙さによるものであろう。本心がどうかは分からないが、「皇室アルバム」で紹介される天皇家の皆様の一挙一動は、全て、日本人にとっての「理想の家族」のイメージとして機能しているのである。仮にあれが「虚構」であったとしても、その「虚構」を信じていたい国民はもう、大多数いるのである。
 うちの母親も生前、「天皇ご一家を批判する人もいるけど、殺伐とした世の中を見てると、ああいう人たちがいてくれてよかったって思えるんよ」と言っていた。三笠宮様は、「国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、二六六五年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論に迄発展するでしょう」と書かれているが、今まさにその天皇家の存続を危機に陥れようとしているのが自分の発言だということに、三笠宮様は気付かれていない。
 三笠宮様の不穏当な発言はこれが初めてではない。だいたい、三笠宮様は皇族ではいらっしゃるけれども、「ヒゲの殿下」と揶揄されてる通り、いささか自由奔放にモノを言い過ぎる傾向がある。いやしくも皇族としての立場を自覚しているのなら、散々その「失言」を咎められてきた過去を思い返してみて、もうちょっと気をつけてもらいたいものなんだけどねえ、全然、懲りてないんだろうねえ(若い人は知らないだろうが、昔、「皇族があのように髭を生やすのはいかがなものか」と批判を受けたのだけれど、無視して生やし続けているということがあったのである。別に生やしたっていいと思うけど、「伝統」に基づくのならば、天皇、皇太子よりも偉そうに見える髭を生やすのは確かに「いかがなものか」ってことになるわな)。正直、女性天皇が容認されて、この方の皇位継承権がずっと後ろに回ってくれることを希望しないではいられない。
 それにしても、どのニュースも、三笠宮様の発言を“意図的に”改変し、情報操作してることについてどう思っているのかね。でも「これはヤバい」と判断して、削除したという事実自体が、「男系天皇」に固執しなければならない根拠の薄さを露呈しているとも言えるのである。世論も、「三笠宮様の人となりをご存知の人が多ければ」今回の発言は自然とスルーされちゃうでしょう。


 政治的なことは書くまい書くまいとしながら、つい書きたくなってしまう出来事がちょこちょこと出始めている。政治も確かに絡んでいるけれど、天皇家の問題とかは、日本文化をどう考えるかって問題と密接に絡んでるから、やっぱりいろいろと考えちゃうのだね。
 靖国神社の問題もまたまた喧しくなってきたけれども、中国の唐家璇(セン)国務委員が、小泉首相の靖国参拝について、またまた抗議を示したとのニュース。「中曽根内閣当時の後藤田正晴官房長官が、アジアの感情を配慮し、首相、官房長官、外相は参拝しないことを約束した」という、つい数年前までは口にしたこともなかった「紳士協定」を主張したって言うんだけれども、中国の欺瞞はかなり日本人の間に浸透して来ているので、「ああ、また中国が嘘八百を」と冷静に状況を判断できるようになっている人も増えていると思うのである。これも、小泉首相が曲がりなりにも「靖国参拝」を続けている結果だ。
 政策に問題はあっても、小泉首相が「政治家」だなあと思うのは、まさしくこの参拝を継続することで、「靖国問題を風化させない」現象を作り出していることだ。中曽根首相の時のようにいったん中止してしまえば、それはたとえ中国の内政干渉を腹立たしく思っている国民の間であっても、いつの間にか忘れられてしまうだろう。
 小泉首相が参拝を続ける限り、中国は、韓国は、小泉首相を批判し、反日デモが起こり、日の丸や首相の肖像を焼き払ったり、日本料理屋が暴動で打ち壊されたりするのである。中国のバカっぷり、野蛮人ぶりが全世界に晒され続けるのだ。そして、いくら日本人の首相が参拝を続けようが、日本が全く右傾化することなく戦争を起こさず、世界平和に貢献することを続けて行けば、国内外の世論の趨勢が「どちらに傾くか」は自明のことだろう。中国だって、こんなことで日本に対して何らかの制裁措置とかができるはずもなく、せいぜい抗議を繰り返すか、会談を延期する程度のことしかできないのである。そこまで確実に読んでるよな、小泉首相は。でも、この程度の政治的手腕はちょっとでもアタマの働く人間ならできることで、即ちこれまでの首相がどれだけ無能であったかってことの逆証明になっちゃうんだけれども。


 朝から天神東宝で映画のハシゴ。
 一本目は『ステルス』で、実は大して興味はなかったのだけれども、職場の同僚から招待券をもらったので見に来たのである。
 ストーリーは、最新鋭の人工知能を乗っけたステルス機が暴走したけど、主人公の説得で何とか事態は収めました、けれどステルス開発を指示した上司はトラブルが露見するのを恐れて、主人公もろともステルスを……ってな話。三行で内容を要約できちゃったよ(笑)。
 SFとしてはあまりにも定番過ぎて、つまんないとまでは言わないまでも新味がない。この手のパターンのSFは、藤子・F・不二雄がもっと完成した形でマンガにしてるしなあ。今、どうして、こういう映画が作られなきゃならないのか、その意味が分からない。多分製作者は何も考えちゃいないのだろうが。ヒロインのねーちゃんはきれいだ。

 二本目は最終日に駆け込んだあだち充原作の『タッチ』。
 私はこの作品は柏葉英二郎あってこそ価値があると信じているので、彼のいない『タッチ』なんて、『タッチ』とは思えない。だから逆に、そういう思い入れは捨てて、普通の青春ドラマとして見てみると、そんなに悪い出来ではないな、とフツーに鑑賞することができはする。その点で一般的な評価も二分されるのではないかと思う。
 今更『タッチ』の筋を説明する必要もなかろうが、双子の兄弟が一人の女を取り合うが、弟が交通事故死したおかげで、残された兄が弟の亡霊に悩み苦しみ、けれど愛された女も兄を救うすべを知らずに悩み苦しむというドロドロの愛憎劇である。「違うぞ」と言いたいファンもいるだろうが、『タッチ』は本質的にそういう話だ。
 脚本と演出は、原作のそういう「濃い」部分を見事に見逃して、物語をきれいにきれいにまとめていく。だから、決勝戦のマウンドに立つ達也に、和也がダブって見えるシーンも、原作では和也に呪縛されるシーンとして描かれるのに(その呪縛から達也が解き放たれるために柏葉英二郎の存在が必要不可欠なのだ)、映画では達也に和也が力を貸したような、全く逆の解釈がなされている。物語を尺に収めなければならないための措置だとは言え、これはもう『タッチ』ではない。
 原作ファンとしては、こんなものは到底認められるものではないのだが、犬童一心監督のこれまでのフィルモグラフィーを見ていけば、まあきれいなお話がお好きなようだから、上っ面だけの擬似恋愛ドラマにしかならないことは充分予測ができたのである。だから上っ面だけの恋愛に憧れちゃうような若い女の子とかにはちょうどいいんじゃないかと思っていたら、映画館で隣に座っていた女の子がやっぱりグスグス泣いているのであった。ちなみにしげは「退屈」の一言。しげもスレた女になりやがったなあ。って、昔からだけど。
 役者に目を移せば、双子の俳優二人の演技はどうでもいいとして(笑)、問題は長澤まさみである。『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』や『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』に小美人の片割れとして出演しているから、それと認識してもいいはずなのに、『世界の中心で、愛をさけぶ』まで私は全く注目できていなかった。アイドルを見抜く目が衰えたか(笑)と思ったが、未だにこの子が売れてしまったのは何かの間違いではないかという気がして仕方がないのである。庶民的で可愛い子だとは思うが、正直、イメージは地味で化粧っ気もなく、華のある役者だとは言いがたい。けれど、コギャル(もう死語か?)的なアイドルが増えている中ではこの清純さが反作用的に輝いて見えているのではないか。
 ヒロインがヒロインとして輝くのは、観客が「惚れる」瞬間を作り出せるかどうか、そこに掛かっているのだが、そのためにはヒロインをある程度突き放して、少し「遠い存在」として描かなければならない。アイドルには憧れるための「適度な距離」というものがあり、あまり近すぎても困るのである。その点で行けば、長澤まさみのアップはこの映画の中ではいささか多すぎる。カメラが長澤まさみに惚れすぎているのである。これでは逆に観客は彼女に乗り切れない。
 今、ナマの南ちゃんを演じられるのは彼女くらいしかいないのかもしれないとは思う。新体操やってくれないのは痛恨の極みだが(創作ダンス踊るくらいで誤魔化してんじゃないよ)、小林信彦が「デビュー当時の香川京子に雰囲気が似ている」と評したのも分からないではない。けれども、長澤まさみは今が旬かな、言い換えれば、後は下り坂になっちまうんじゃないかと思ってしまうのは、もう『ロボコン』『セカチュー』それに『タッチ』と来れば、清純な役(というよりはクセのないヒロイン役)以外はやらせようがなくなっているからだ。同じような役柄ばかり演じていれば、早晩、「飽きられる」のは必然である。いずれ「大人の役者」になるための転機が来るとは思うが、これまでもアイドルが本格的な役者を目指した時に、極端な汚れ役を演じて脱皮に失敗、という例はそれこそ枚挙に暇がないのである。
 東宝シンデレラで今もちゃんと生き残ってるのは、沢口靖子くらいしかいない。彼女だって、一時期は「危なかった」。小高恵美は今どこに行ってるのか。コスモスの二人は細々ではあるがまだ頑張ってはいるらしい。長澤まさみも十年後には「細々」となっちまう危険はあるんだけど、ちゃんと育てる気が東宝にはあるのかねえ。


 帰宅した途端、いきなり父から電話がかかってくる。また食事の誘いじゃないだろうなと思ったが、そうではなかった。
 先日、伯父が保護司として勤続30年になろうという功績が認められて、勲章をもらう話が出ていたのに、辞退したと日記に書いたのだが、どうやら辞退は認めてもらえなかったらしい。新聞に、伯父の受勲の記事が載っているというのである。
 「結局、貰ったとね」
 「それがおいちゃんも貰ったこと知らんでからくさ、テレビは来るわ、新聞は取材に来るわで、それで初めて知って、びっくりしたげな」
 「なんて勲章?」
 「よう覚えとらん。おいちゃんもよう知らんとやないかいな」
 「ホント、欲が無かね。受勲式には行っとらんっちゃろ? 勲章は送ってきたとね」
 「そやろね。で、お祝いばすることになったけん、お前も少し包まんや」
 否やもないので、承諾して電話を切ったが、「勲章を辞退した人」の話はよく聞くけれども、「勲章を辞退したのに、知らないうちに勝手に押し付けられた人」の話は初めてである。思い出したが、亡くなった祖父もまた、本人が全く知らないうちに、福岡市の準文化功労者かなんだったかに選ばれていたのだった。勲章とか肩書きが勝手に向こうからやってきてるってのも、考えてみたらものすごい話である。世の中には欲深で、名誉とか肩書きに執着する人だっていっぱいいるっていうのにねえ。
 どこの誰が受勲者を選定しているのか知らないけれども、地元でうちの一家のことを陰ながら見てくれてる人たちがいるってことなのかもしれない。となると私もあまり悪いことはできないのである。いや、してないしてない(笑)。


 WOWOWで舞台中継『世界の中心で、愛をさけぶ』に『電車男』。感想は書いてたら長くなりそうなので省略。
 読んだ本の感想とかも書きたいんだけど、ともかく量が多くておっつかないのである。

2004年11月03日(水) 女になって出直せよ/『DEATH NOTE(デスノート)』4巻
2002年11月03日(日) 妻にはナイショ(^_^;)/映画『OUT』/『プリティフェイス』1巻(叶恭弘)ほか
2001年11月03日(土) 10000HIT!o(^▽^)o /映画『エボリューション』/『電脳なをさん4』(唐沢なをき)ほか
2000年11月03日(金) 文化の日スペシャル/映画『マン・オン・ザ・ムーン』ほか


2005年11月02日(水) いたたた、たたた/ドラマ『花より男子』1,2話/『ヒッカツ!』1巻(矢上裕)

 最近、気に入っているCM。
 日本生命の「二つあるといい」ってやつだけど、ホンモノのネコとネズミで『トムとジェリー』をやってくれてるんだね。一部CGは使ってるんだけれど、ネズミが壁の穴に逃げ込んで、その前でネコがネズミが出てくるのを待ってる姿勢が、もうトムさんそっくりで、尻尾振ってる後姿が可愛いの可愛くないのったら。
 って、アニメの方がネコの動きをトレースしてるんだけどねえ。


 「はてな日記」の方にも書いたのだが、朝目覚めて足を伸ばした途端に足が攣った。
 ちょっと痛いとかそんな程度ではなく、足を床に置こうと動かしただけで激痛が腰まで走る。こりゃ、本気で仕事に行ける状態じゃないと、職場に「1時間ほど遅刻します」と連絡を入れる。最初はしげに「動けないから、お前が職場に連絡してくれ」と頼んだのだけれど、しげは、携帯をかけたら私に押し付けてきた。まあそれでも構わないんだけれど、ちょっとくらいこちらの疲れを軽減させてやろうという気遣いがほしいものである。
 ようやく足が動かせるようになって、職場に向かう途中の道で、偶然、出張に向かう上司とすれ違った。挨拶を交わしただけですれ違ったが、そのとき、上司が「わかってるよ」という感じの視線を向けたのがちょっと気になった。上司にはうちの家庭の事情をいろいろと説明しているので、もしかしたら“必要以上に”こちらの状況を悪く受け取っているのかも知れない。今日のは、足が攣っただけなんだけど(苦笑)。


 急にまたサイトのアクセス数が増えたなあと思ったら、URLがいくつかの箇所にリンクされていたのだった。私はこうして日記を「公開」して誰にでも読めるようにしているので、もちろんどんなにリンクを貼られようが引用されようが、それが引用目的であれば何も文句はないという姿勢である。
 ただよう、その引用されてた部分がよう、やたら漢字の誤変換が多かったとこで、でもそういうのを私が訂正しようとしたら、しげが「卑怯者」って怒るんで(この理屈が分からない)、まあ、意味は何となく通りはするからいいか、と放置しといたのだ。まさかそこが引用されるとは。
 さすがにちょっとこれはなあと、文章には手をつけずに、何ヶ月か以前の日記を書き直したのだが、既に引用されちゃった部分は訂正のしようがないのである。やっぱり、書き損ないくらいは訂正させてほしいんだけどねえ。別に恥ずかしいからってことじゃなくて、単に間違いは訂正するのが当然だからである。


 夜中に、職場にコンタクトのレンズケースを忘れてしまっていたことに気がつく。
 もう取りに行くこともできない時間で、しかも明日は休日。これはもう、今日は寝ないで、コンタクトをつけたまま、明日朝一番で薬局に駆け込んでレンズケースと洗浄液を買うしかないと覚悟する。とんだことで徹夜しなくならなくなっちまったよ(汗)。


 ドラマ『花より男子』一話、二話。
 なんと再放送をしてくれたので、見逃してた一話を見られた。少女マンガの実写化って、昔は「マンガのキャラと人間とじゃイメージが違い過ぎ〜!」と文句付けられることが多かったんだけど、それがなくなってきたってのは、イケメンの若手俳優が増えたからってことなのかな。
 ドラマは良くも悪くも典型的な少女マンガなんで、つくし(井上麻央)がどんなにお金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんに反抗しても、最後はくじけて男の子に助けられちゃうのである。要するにやっぱりシンデレラ願望マンガ。夢なんて見るなよって言ったって夢見るしかないのが日本の女の子が置かれている不幸な現状なんだから、これ以上、文句を付けるのは控えておきましょ。
 でも(笑)、井上麻央は、こないだの『火垂るの墓』にも出演してたけど、ヒロインとしてはちょっと華がないんとちゃうかなあ。


 アニメ『蟲師』第二話「瞼の光」。
 一話に劣らぬ作画クォリティだが、やはりアニメーションにした途端に、マンガの持っていた、どこか世界そのものが頼りなげに見える描線の味わいは全く失われてしまっている。全く、誉めていいんだか貶していいんだが、判断に困るアニメーションだ。
 ギンコのセリフも、声質(高すぎ)、間(やや早過ぎる時多し)とイントネーション(「蟲」が時々「無視」っぽく聞こえる)など、どうもズレているように思えてならない。今ひとつ自然になりきれてない感じなんだよね。


 マンガ、矢上裕『ヒッカツ!』1巻(メディアワークス)。
 前作の『Go West!』の出だしが突拍子もなくて無茶苦茶面白かったので、今度の新作はつまんなくはないけれど、うーん、もっとはじけてくれないかなーという印象。
 いや、もちろん、「必殺技」ならぬ「必活技」を編み出そうとする主人公、ショータのキャラクター、格闘技もののパロディキャラとしては充分面白いんだけれども、今は心ならずもただの破壊魔であっても、いつかは「必活拳」を発明しちゃうんだろうなあと先を予想しちゃうと、なんか今ひとつストーリーに乗り切れなくなってしまうのである。
 他のレギュラーキャラもなんかもうちょっと。押しかけ女房キャラのモモコも、詐欺師のカンジも、どこかで見たようなキャラで、新味にかける。ま、2巻以降の展開次第だなと思う。

2004年11月02日(火) 会議は怒る/アニメ『岩窟王』第1回
2002年11月02日(土) トイレはなが〜いお友達/映画『ザ・リング』/DVD『北京原人の逆襲』
2001年11月02日(金) スカートの下のお花畑/『HUNTER×HUNTER』13巻(冨樫義博)/『20世紀少年』7巻(浦沢直樹)ほか
2000年11月02日(木) 部屋片付けてたらあちこちから○○が……/『古館伊知郎トークブルース・お経』


2005年11月01日(火) いつか親を殺す日/ドラマ『火垂るの墓』/『光車よ、まわれ!』(天沢退二郎)

 月初めの映画の日なので、しげと「何か映画を見に行こうか?」と話をする。
 「いいね、行こう」と返事をもらったので、そのつもりで仕事をさくさく進める。
 11時ごろ、しげからメールが入る。予定では父の退院を手伝って、荷物をマンションまで運んだ頃合だったから、てっきりその報告だと思って開いてみると、全然、違っていた。
 「父ちゃんが、六時に迎えに来いって」
 何の迎えか、と、問い返すと、「ごはん」との返事。
 ああ、と思い出したのは、先日、退院が決まった時に、父から「退院祝いに飯でも食わんや」と誘われていたのだが、「退院したばかりで飲み食いとかしなさんな」と断ったことがあったのだった。断っていたのだけれど、断られて、はいそうです、と納得する父ではなかったということである。まあ、分かっちゃいたんだけど。
 しげに、またメールを送って、父はもう退院したのかを聞いてみる。
 もう別れて、父は天神に遊びに行ったそうな。それじゃあ直接、父に事情を聞くしかない、と、電話をかけてみる。
 「どげんしたとね。具合はいいとね」
 「具合は変わらんたい」
 「なら、無理せんと、今日はゆっくりしとったらどうね」
 「心配せんでよか。今も天神でご飯食べたとこや」
 「それでまた夜に外食じゃ、体によくなかろうもん」
 「いいと。俺はもう、先がないんやけん、好きにさせんや」
 「先がないんやなくて、先をなくしようっちゃろうもん。ばってん、止めたって止まらんもんね。お父さんは」
 結局、押し切られて食事をする約束をした。しげには今日の映画はチャラで、と連絡を入れる。どこに迎えに行けばいいのか父に聞き忘れていたので、しげに確認を取ると、「店」だと言う。あの親父は、退院直後にもう仕事をする気でいるのだ。なんでこう、あの世代というのは自分の命を削ってまで働こうって気になれるのかね。死にゃあそれでシマイだって感覚がないのか、つまらんヒロイズムに浸っているのか。多分、後者だろう。でなきゃ、感覚異常が起こった時にオタオタして病院に飛び込んだりはしていないはずである。喉元過ぎればだなあ、って、愚痴ったって、どうしようもないことではあるのだが。

 博多駅でしげと待ち合わせをして、店に向かう。
 父はもう準備万端整えていて、「どこで食おうか」と問いかけてくる。下手をしたら「焼肉」とか「しゃぶしゃぶ」とか言い出しかねないので、父のマンションの近所の、セルフサービス形式の食堂に行く。おかずが予めカウンターに並べられていて、自由にお盆に取っていけるので、カロリーの調節がしやすい。
 私があまりうるさく言うものだから、少しは自重したのか、父のおかずは一品だけ。あとはヒジキに味噌汁、漬物程度である。
 「ご飯も『小』にしたけん、文句はなかろうが」と威張って言うので、「でもおかずの魚は天ぷらやん」と言い返すと、「焼き魚の方がいいかいなと思ったばってん、俺は天ぷらが好きやけんな」と笑って言う。笑うなよ。

 久しぶりの「シャバ」なので、いつも以上に父は饒舌である。相変わらず姉の悪口ばかりで、「(世間に)人情がなくなった」を繰り返す。人情なんて、昔からなかったと思うが。なかったからこそ、我々日本人は、人から親切にされたときに「有り難い」と答えてきたのである。
 父も昔はそれほど「人情幻想」に捉われちゃいなかったように思うんだが、そういうものにすがりたくなってしまっているというのは、それだけ心が老化してしまっているということなのであろう。
 「昨日も、ひどい事件が起こっとったろうが」
 「ああ、高校生の女の子が、お母さんに毒盛ったってやつ」
 「信じられんな。子供が親を殺すとか」
 「親が子供を殺す場合もあるやん」
 「そうたい。世の中もうおかしゅうなっとるな」
 父は、昔、酔っ払って私を殺しかけたことがあることなど、とっくに忘れているのである。これは比喩でも私の妄想でもなくて、私の態度が生意気だという理由で(泥酔した親を前にして、小学生がいい顔ができるわけがない)、鉄製の盆で頭をめちゃくちゃ殴られたのだ。血まみれになった私を、母が間に入って助けてくれなかったら、本当に死んでいたかもしれない。当時の私には児童相談所に虐待の事実を報告して何とかしてもらうなんて知恵はなかったから、私はひたすら毎日を怯えて過ごすしかなかった。我慢が何とかできたのは、三十年くらい前までは、そんな目にあっても親には逆らえないと我慢している子供が私のほかにもいくらでもいて、それも「しつけ」の範囲内だと考えられていたからである。時代は本当に変わったよなあ、親が子供を虐待した程度のことがニュースになるんだから。
子供のころ、父からぶたれなかった日は一日もなかったくらいなので、私の父への親子の情愛などというものはとっくになくなっている。
 それでも今、父を見捨てないでいるのは、反発するには父があまりに年を取り過ぎてしまったせいだろう。ここにいる父はもう昔の父ではない。バットを振り回して逃げる私を追い回し、何度も殴りつけた父はもういないのである(これはしょっちゅうやってたので、さすがに父にも記憶は残っているらしく、こないだも姉に「そのくらい子供はしつけないといけない」と威張って言ってたそうだ)。恨みを忘れたわけではないが、恨める対象がいなければ諦めるしかないのである。

 その、母親にタリウムを飲ませたとかいう静岡県伊豆の女子高生も(容疑を否認し続けているそうだが)、母親になにかの恨みがあったのかなあ、と漠然と思う。ニュースを見ていると、「ブログに毒殺日記を付けていた」とか、「グレアム・ヤングのファンだった」とか報道されているから、単なる快楽殺人者だったのかもしれないが。
 逆説的なモノイイになってしまうが、恨みや憎しみがあった方が、人と人との関係は「人間らしい」ように思う。思いが報われないから人は人を憎むのである。つまりはそれだけ相手への思いが強いということだ。こう言っちゃなんだが、しげは私と結婚していなかったら、私のストーカーになっていただろう。ホモオタさんが未だに私に執着してストーカーになっているのは、私に相手にされなかったからである。善悪の問題は別として、その思いは人間のものとして理解がしやすい。
 毒殺未遂少女にとっても、その手段は、彼女なりの親へのアプローチだったのかもしれない。けれどもそれは、我々の常識では到底図り得ない領域のものである。どうせそのうち、「人権派」の弁護士やら識者やらが、「未成年の少女には更生の機会を」とか言い出すんだろうけれど、常識の埒外のメンタリティの犯罪者を、どのように更生させられるのか、その具体的な方法をきちんと提示してくれてる例って少ないよね。



 ドラマ『火垂るの墓』。
 高畑勲監督の傑作アニメーション、これを最初に見た時には、「これをどうしてアニメーションにしなきゃならないのか」という疑問を抱いたものだった。「こんなふうにリアルに描くんだったら、実写でいいじゃん」というのが理由である。
 けれど同時に「でも、もう戦争の惨禍や、当時の日本人らしさを描こうと思ったら、もう実写では再現不可能になっているのかもなあ」とも考えていた。
 結果は、本作が証明してくれた。もう、現代の日本人に太平洋戦争を描く映画を作ることは無理である。

 井上由美子の脚本のデタラメさはもう、いちいち突っ込んでいつたらキリがない。もともとの原作にも雑なところはあるんだが(野坂昭如は締め切りに追われて数時間で書き殴ったとかいう話である)、ひと様から預かった子を、それも海軍将校の子をあんなに虐待したら、隣組の中で非国民扱いされるのはオバサンの方だろう。戦時中の隣組は、民衆の相互監視の意味があったんだから。オバサンは、自分の子供を犠牲にしても預かった子の方を優遇しないと何を言われるか分からないのである。アニメの方はあそこまで苛められる前に引け目を感じた清太と節子が出ていったから、そう不自然でもなかったんだけどね。
 あのオバサン、自分の夫がいくら戦死したからって、特高に聞かれたら逮捕されかねない「軍人は国を守ってなんかいないわ。大切な人を死に追いやってるだけよ」なんてセリフを口にするのは、その時代の人間としてはどう考えてもおかしい。どうも脚本の井上由美子、思想的にかなり左がかってんじゃないかって匂いがプンプンするのである。
 オバサンが、盗みを働いた清太の引き取り人になっておきながら、再び「あなたに食べさせるものは何もないの。これが戦争なのよ」と言って突き放すに至っては、何をか言わんやだ。警官に保証人として指名されておきながらそれを反故にすることなど絶対にあり得ないことだし、「これが戦争だ」なんてセリフは、戦時中なら、戦争に批判的なアカしか言わない。庶民が言っていたのは「今は戦時なんだから」で、これも、「だからワガママ言わずに我慢して」と「協力し合う」ためのセリフであったのである。
 ここまでくれば、「歴史の捏造」と言ってもいい。この脚本家は明らかに思想的に偏っている。いや、偏っていたとしてもそれはその人の思想の自由だから文句をつけるわけにはいかないのだが、歴史的に現実には絶対にありえないセリフを書いて、視聴者を誘導しようというのは、戦時中の「大本営発表」と同じである。そのことに脚本家が気付いているのかいないのか。気付いていたとしたらこいつはとんでもない卑劣漢だし、意図的でないなら底抜けのバカである。

 でも脚本はねえ、バカに書かせなきゃまだ改定の余地があるんだが、どうにもならないのは、戦時中で食料もないのにふくよかなオバサン役の松嶋菜々子かな(笑)。芝居もなんでこの人はこう、気取るばかりで、リアルな演技ってものができないかね。『リング』と同じ演技を『火垂る』でやるなよ。


 唯一よかったのが、子役の二人で、特に佐々木麻緒ちゃんの演技にはもう舌を巻く。やっぱりこの子は日本のダコタ・ファニングだよ。
 単に、アニメ版の節子がそのまま抜け出てきたと錯覚するくらいに似ている、というだけではない。『ウルトラマンマックス/第三番惑星の奇跡』の時にも思ったことだが、この子はわずか六歳にして、直観的にスタニスラフスキー式の演技を体得しているのである。ラストなんて本当に死んだようにしか見えん。
 そう言えばこの子、『妖怪大戦争』でもスネコスリ役だったんだよな。あの映画は神木隆之介君、佐々木麻緒ちゃんという、日本に大天才子役の共演映画だったわけだ。

 でも、清太と節子のシーン、特に蛍を防空壕に放つあたりのシークエンスは、構図からカット割りまで殆どアニメ版の模倣なのだった。……実写にする意味ねえよ、この映画。
 えーっと、「はてな」の方では誉めてるような書き方をしましたが、あくまで麻緒ちゃんの演技についてだけです。あっちは基本的に「いいとこ探そう」というスタンスで書いてますから、こっちとはどうしても感想変わっちゃうんでね。



 天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(ブッキング)。
 西に『ナルニア国ものがたり』『指輪物語』があれば、東には『オレンジ党』シリーズありと、日本ファンタジー史上の金字塔と言ってもいい傑作シリーズの「露払い」である本作が、昨年、17年ぶりに復刊。いや、私、てっきりこの本は持っていると思っていたのだけれど、図書館で借りて読んだから買ってはいなかったのだということに気がついた。また絶版にならないうちに、他のシリーズも買わねばな。
 児童文学やファンタジーに詳しい人なら、今更本作の価値を説明する必要もないのだけれど、長らく絶版だったということは、そんな基本的な常識もすっかり失われているということである。
 本格ファンタジーの要素である、光と闇の対立、闇と戦うために集まった少年少女戦士たち、闇に打ち勝つための魔法のアイテム、少年たちを導く古代の伝承とその導師、そしてこの世界の成り立ちが明かされ、別れと出会いが示される感動のラスト。一見、西洋的と思われるこれらの要素を、見事に日本化し、舞台を異世界ばかりでなく、日常において展開してみせたのが、本作の特徴なのである。初刊行から32年の月日が流れているが、その価値はいささかも色あせてはいない。富士見ファンタジア文庫とか読んでファンタジーに触れた気になってる若い読者には、まずこの「原典」を読めよ、と言いたいのである。
 今回の復刊に際しては、なんと唐十郎がオビに推薦文を寄せている。対象読者である小学校高学年・中高生に「唐十郎」のネームが何の意味があるかとも思うのだが、「思春期の黙示録的行脚がここにある」というのは実に的確な批評だ。初刊当時、天沢氏は宮沢賢治研究家としては知られていたが、児童文学の書き手としては全くの新人で、その筋の専門家、評論家の視野には全くと言っていいほど入っていなかった。それが、どんどん版を重ねていくことになったのは、ひとえにその「思春期」の少年少女たちの心を本作と次に続く『オレンジ党』シリーズががっちりと捕まえたからである。

 小学五年生の川岡一郎は、ある雨の朝、クラスメートの何人かが、一瞬だけ「黒い、ぐっしょり濡れた化け物」に見えてしまって驚く。ところが一郎のその動揺を察したクラスメートたちは、次第に一郎をつけ狙うようになる。闇に引きこまれようとした一郎を救ったのは神秘的な美少女・戸ノ本龍子だった。彼女は、「闇」の正体が「水の悪魔」であることを告げ、共に立ち向かう仲間たちに一郎を引き合わせる。そして、敵を倒すためには、この町に隠されている三つの「光車」を探し出す必要があると言うのだ。古代の「地霊文字」が導くという「光車」は、いったいどこにあるのか。光車を狙う「第三の勢力」も登場し、戦いの中で、一郎たちは一人、また一人と仲間を失っていく……。

 我々が生きる上で必要不可欠な「水」が敵となる。
 鈴木光司の『仄暗い水の底から』の三十年近くも前に、既に「水」の恐怖を描いている点をまず高く評価したい。マンガでは水木しげるが『水神さまがやってきた』で、「生きている水」を発想しているが、小説で、しかも児童文学でそれを描いたのはこの『光車』が嚆矢ではなかろうか。雨の日は特に恐ろしい。外に出ればいつ何時、水に襲われるか分からない。
 蓮池に少女の死体が浮かんだ。それを食い止めることは誰にもできなかった。ひと思いに全員を殺せるのに、「水」は「光車」の仲間たちを「泳がす」。この「闇」の恐怖は、思春期の少年少女たちにとっては、いつか自分たちが出会うかもしれない「見えない敵」の寓意として心に留まる。
 唐さんが「黙示録的行脚」と呼ぶのはまさにこの部分あるだろう。善と悪との究極の戦いとしてこの「光車」を巡る戦いは認知され、少年たちの進むべき道を預言しているのである。
 一郎はこの戦いの終わりに、一人の少女を失う。しかし、もう一人の少女を手に入れる。自分を導いてくれたものを失い、新たにともに歩むべきものと出会ったのだ。それもまた『源氏物語』以来のファンタジーの伝統であり、「少年」が必ず通過しなければならないイニシエーションでもある。そして読者である少年少女たちもまた、いつか、あるいは今まさに、同じ経験をする、あるいはしていることに気がつくのだ。
 中高生の時に、この「ファンタジーの必読書」を読み損なった大きなお友達は、自分が辿ってきた「悲しい道」をもう一度思い出すつもりで本書を読まれてはいかがだろう。司修の版画、挿画も、この光と闇の世界を実に神秘的に描いていて最高である。

2004年11月01日(月) とりあえずの再開。でも本の感想まではとても(^_^;)。
2002年11月01日(金) そう言えば「丹」ってのも何だか知らない/舞台『空飛ぶ雲の上団五郎一座 アチャラカ再誕生』/『聞く猿』(ナンシー関)ほか
2001年11月01日(木) ヒミツな情報/アニメ『ナジカ電撃作戦』4話/『クラダルマ』5・6巻(柴田昌弘)
2000年11月01日(水) 夢で他の女と会うのも浮気なんて言うなよ/『文鳥』(夏目漱石)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)