無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年11月02日(土) トイレはなが〜いお友達/映画『ザ・リング』/DVD『北京原人の逆襲』

 公開初日の『ザ・リング』(日本版の『リング』とは「ザ」がつくことで区別するらしい。パンフの表紙は英語で『THE RING』)を見に行く。
 どこでも上映してるので、さて、どこで見ようか迷ったのだが、初日でも空いてそうなところと言えば、粕屋のワーナーマイカル福岡東しかない。
 シネコンであるにもかかわらず、どうして客が来ないかと言うと、これが福岡の中心から離れてて、福岡空港の向こう側にあるからなのだね。博多・福岡在住の人間はキャナルシティや天神、百道に行くし、南の方の人間は同じワーナーマイカルでも大野城のほうに行く。空港を迂回して行くならトリアス久山の方が近い。場所的に粕屋の人間以外になんのメリットもない、というところなのだ。……あの、粕屋って未だに「市」に昇格できないくらい人口少ないんスけど、そこによくシネコンおっ立てる気になりましたね。地価安いからだってのはわかるけど(面積もだだっ広いけどもとはタンボだったに違いない)。
 実際、いつでも閑古鳥が鳴いているので、いつ潰れてもおかしくない気がしてるのだが、映画を見ようと思ったらこんなに空いてて回りを気にせずに鑑賞できる映画館はめったにない。予想通り、封切り初日だというのに客は十数人。……キャナルシティなどは二館上映までしてるのにねえ。
 ホントに大丈夫か(・・;)。

 『ザ・リング』、見た感想は随分本家の『リング』に敬意を払ってるなあ、といった印象。なにしろほんのさりげないシーン、父親と息子が雨の中、出会って見つめあってすれ違うシーン、そんなところまで再現しているのだから。
 もっとも高山竜司に当たるその父親ノア(マーティン・ヘンダーソン)は日本版の真田広之が演じたような超能力者という設定ではない。ごく普通の人間だから、その血が子供に遺伝して息子が貞子との交流を果たしたようには描かれていない。アチラでは子供は自然に異界との交流を果たす、というように見られているのだろうなあ。
 なぜ両親が離婚したかという設定、日本版ではなんとなくこの血の濃すぎる親子の関係が密接になるのを恐れて、といった印象があったのだが、アメリカ版ではただ単にこの息子を父親が恐れたためのように見える。そう推測すると、これは貞子とその親との関係と二重写しになって、ちょっと面白い趣向ではある。具体的に描かれてるわけじゃないからこれは私の勝手な妄想なのだが。
 理由が描かれないといえば、貞子にあたるサマラ(ダヴェイ・チェイス)がなぜ両親に憎まれ、井戸に落とされたかもいまいちハッキリしない(もちろんわざとハッキリさせてないのだろうが)。
 サマラが生まれてから、その村の馬がやたら死んだらしいことがわかるが、それとサマラの誕生との因果関係があるのかないのか、あるとしてもそれが何をきっかけにして村人たちに認識されたのかがよく解らない。観客に対しては、その村に船で行く途中に、母親のレイチェル(ナオミ・ワッツ)が運搬中の馬に触れようとしたら、突然馬が狂い出して海に飛び込んで死ぬという描写で暗示されるだけだ。……でもだからどうして馬が死ぬんだよう。サマラ、馬にウラミでもあるのか?
 日本版にあったかつての超能力実験を幻視するシーンもカットされてるから、どちらかというとサマラ自身に問題があるというより、村人たちの旧弊な偏見の方にもともとの問題があるように思える。サマラを殺すのも父親ではなく母親に変更。このサマラを演じている少女がいかにも儚げで哀れだ。呪いの怖さよりも先に、「もっと呪っていいよ」と同情したくなる。ホラー映画としてはこれはマイナスポイントかもしれないが。だから井戸の中からサマラが生前のままの姿で浮かびあがってきたときの哀れさも弥増すのである。
 原典版とリメイク版のどちらが上だったか、というのはそれぞれに長所短所があり、あまり問題にしなくてもいいように思う。松島菜々子とナオミ・ワッツのどっちが好みか、くらいの違いでもあったりするし(^o^)。ただ、死者の顔やサマラの呪いの顔をリック・ベイカーがゴテゴテと作りあげてるのはいただけなかった。アンタその顔、『ゴーストバスターズ2』の大魔王ビーゴと同じじゃん(^_^;)。日本版みたく「目」だけにしといてくれたほうがずっと怖かったと思うけど、それじゃベイカーの働きどころがなかったのかもね。

 しげはいつものごとく私の手を握ったまま離さなかったのだが、困ったことに、終映間際、トイレに行きたくなってしまった。ちょうどサマラがナニし終わったころである。
 「……トイレ行きたいんだけど」
 無言で首をぶんぶんぶん、と横に振るしげ。
 「……ガマンできねえよ」
 哀願するように私を見るが、このあともう怖いシーンはないはずだ。映画館で大のオトナがチビってしまっては、しかもそれが『リング』を見たあとだとシャレにならん。ガマンにガマンを重ねたがもう限界。字幕が流れ出した途端、振り解くようにしてトイレに駆けこむ。ちょっと染みてたが、だだ漏れにはならずにすんだ。だから私ゃ手術の失敗で括約筋が緩んでるんだってば。

 パンフレット、中が袋とじになっているが、サマラ役のダヴェイ・チェイスの写真を映画を見る前には見ないでね、という趣旨らしい。1年もすれば顔写真が知れ渡ることになるのは解りきってるのだが、最初はこういう配慮が確かに必要だろう。それくらいこのサマラというキャラは映画本編を支えるキャラとして「立って」いるのである。いやもう、少女の怖さと可愛さを両方兼ね備えてる点では『野性の証明』のころの薬師丸ひろ子を凌駕してますね(例えがイマイチ適切でないが)。
 もしも『らせん』や『ループ』も作られるなら、早いとこ撮って、もう一回ダヴェイちゃんに出演してもらいたいところだけれど、ムリだろうなあ。


 帰宅して、昼寝をしたり、日記を書いたり。
 日記の方は、もう随分更新が遅れているのでいい加減爆走したいのだけれど、如何せん、カラダがついていかない。職場で睡眠が取れればいいのだが、今んと子仕事が全然楽にならないしな。
 なのにウワサによればまたもやボーナスがカットされるそうである。昇給も数年ストップしてて、こないだ久しぶりにいちまんえん上がったばかりだというのにまたかよ。一応給料は出てるんだし、クビになってないだけいいじゃん、と言われそうだが、まだなってないというだけの話だ(^_^;)。
 

 夜、エロの冒険者さん宅で、DVD『北京原人の逆襲』を見せてもらう。
 なんだか今日はやたらとトイレが近くて、何度かトイレに立ってしまったが、まあたいした見逃しはあるまい。
 アンジェリーナさんが来られていたが、エロさん宅に来られるのは初めてだとのこと。てっきり以前からAIQの溜まり場みたいになってると思い込んでいたのだがそうでもなかったのか。

 『北京原人の逆襲』(1978・香港=ショー・ブラザーズ)、原題は『猩猩王』、ありゃ「北京原人」って意訳なのか? と思ったら、本編中にちゃんと“Mighty Peking Man”のポスターが。こちらが米版のタイトルである。
 ジョン・ギラーミン版『キングコング』が公開されるのに合わせて、そのパチモン企画として作られたものの一本だが、香港製作だけあって、多分脚本家のクレジットは名ばかりであろう(っつーか、あったかどうか記憶にない)と思えるドラマ展開。もちろんこういうバカ映画において、「行きあたりばったり」というのは実にイイことである。でなきゃ、誰が「キング・コング」ものと「女ターザン」ものを合体させようなどと考えるものか(^o^)。
 パチモンであるにもかかわらずこれだけ「有名」だと、ストーリーやらなんやらはあちこちのサイトに詳しく紹介されているのだが、ちょっとは触れておかないと、ツッコミも入れられない。

 主人公のジョニー(ダニー・リー)、恋人を実の兄に寝取られて(恋人の部屋に来たらホントに兄貴と寝ているところに出くわすという、公開当時でも泣きたくなるくらい使い古されたシチュエーション)、ショックのあまりバーで飲んだくれてるところを、北京原人ショーで一山当てようという興行主に誘われて、そのまま、北京原人探しの一団に加わる。
 ……この「ショックのあまり」と「北京原人探し」の脈絡が私の脳内では全然つながらないのだが、一応これが後の展開の伏線になってはいる。
 「伏線」なんてものがあるなら、結構脚本は練られてるんじゃないの、と言われそうだが、ところがどっこい、そもそも表題の「北京原人」が、なぜキングコングであるのかがよくわからないのだ(もちろん本物の北京原人は巨大猿などではない)。ヒマラヤにいるのになぜ北京原人と呼称されているかはもっとわからない。冒頭のシーンでチベットの村を破壊するのだが、なぜ破壊してるのかも全然わからない。分らないが説明なんかは全くないので、見たまま納得するしかないのである。北京原人と今の中国人につながりがあるのかどうかは知らないが、もしそうだとしたら、今の中国人は古代人の超科学技術でミニサイズにでもさせられたのであろう。

 なぜか雪の殆どないヒマラヤを行軍する一行(^_^;)、興行主はジョニーをヒマラヤ奥地まで連れてきておきながら、あまりに行軍が厳しく、すぐにネをあげる(殆ど軽装で来てるからじゃないのか)。もっとも、厳しいと言っても、いかにも浅い川を象で渡ってたら、引いてた車が座礁するとかその程度。気のせいかもしれんが、なんとなくあの象、インド象じゃなくてアフリカ象に似てたような(^o^)。シェルパもなんとなくアフリカっぽいしなあ。ドラマ展開をアメリカのジャングルものに求めてるからそうなっちゃうんだろうなあ。
 トラに襲われたシェルパを無残にも射殺したりしておきながら、ついには「北京原人なんていないんだ!」と叫んで、シェルパともどもジョニーを置き去りにして逃げ出す興行主(ヒデエ)。何しに来たんだ。
 その直後にジョニーもトラに襲われるのだが、間一髪、彼を助けたのが女ターザン・サマンサ(エヴリン・クラフト)。もちろん金髪のグラマーである。子供のころ飛行機事故で墜落してそれ以来ジャングルで暮らしているので、英語はカタコトしか喋れない。けれどビキニのブラを付けてて後ろはホックで止めている(^o^)。トラさんは実はサマンサのお友達なのでした(トラを投げ飛ばすところは人形だけど、絡みの大半にモノホンのトラを使っている。スゴイぞサマンサ!)。

 サマンサの案内で北京原人とも出会うジョニーだが、なぜかすぐに香港に帰ろうとはせず、サマンサと愛欲の生活を送る(おいおい)。サマンサを育て愛していた北京原人は、当然嫉妬して「うお〜うお〜!」と叫ぶのだが、これもサマンサの望むことならと、父親の心境で肩を落として身を引く。……そこまでの知性があるならなぜ暴れてたんだ北京原人。
 ヘビにフトモモの奥を噛まれたサマンサが(そんなに油断しててよくジャングルで生活できてたな、こいつ)、オルガス……ああ、いや、苦しみの声をあげて身をくねらせているのをどうすることもできずに呆然としているジョニーの前に、この北京原人が薬草を摘んできてハラハラと落としてあげたりするのだよ。いい奴だぞ北京原人! しかも薬草学の知識まである! だからどうして暴れてたんだ!

 で、そんな北京原人を香港に連れていけばスターになれるぞ、とサマンサをだまくらかして、大型船に乗せて(インド洋から東シナ海を回ったんだろうな。エラい遠回りや)香港に帰るジョニー。途中、嵐で岩に乗り上げた船を、北京原人が岩を押して助けてやるエピソードあり。普通、こういう巨猿ものは麻酔で眠らせるのだが、この北京原人はいい奴なので、鎖で縛りはしても、麻酔を打つ必要はないのだ。だったらやっぱりどうして暴れ……(-_-;)。
 興行主とも再会して、北京原人はトラック数台との綱引き勝負などのショーを演じさせられる。トラックの数、ほんの数えるほどしかないが、北京原人、意外と弱くて負けそうになる。このあたりの描写も、北京原人に同情してもらおうというニクイもの。

 さて、ここで冒頭の伏線、ジョニーを手ひどく振った女が、「お兄さんよりやっぱりあなたがいいわ!」とジョニーに復縁を迫る。これに乗ってキスしちゃうのだこの男。特撮の主人公で、これだけ卑劣な男がかつていただろうか(ー∇ー;)。もちろん、その現場をサマンサは見ちゃうのである。
 「私をだましたのネ!」と随分英語が流暢になったサマンサ(^o^)、部屋を飛び出し、檻に入れられた北京原人のところにやってきて「ジャングルに帰りたいわ……」と泣き崩れる。そこにやってきたのが件の興行主。「何泣いとんのや、慰めてやるよってに、わしの部屋に来んかい」と、ムリヤリサマンサを部屋に連れこんでレイプする。
 ……あ〜、伏線って、これ怪獣映画の伏線じゃないわ。昼メロの伏線だ。
 で、この興行主、バカなことに北京原人の目の前のホテルの一室で、窓空けたままサマンサを襲うのである。そら、北京原人怒るわ(^_^;)。
 鎖を引きちぎり、檻をぶち壊して、逃げ出した興行主を踏み殺し、香港の街を破壊しまくる北京原人。この香港の街、日本の有川貞昌の気の入ったミニチュアセットで、実に出来がイイ。『怪獣総進撃』の1.5倍はイイぞ。予算かけてんだろうなあ、こんな映画なのに。

 当然、最後はビルの上に登る北京原人。ヘリコプターで銃撃するもなかなか死なない。このへん、ギラーミン版「キングコング」より遥かにしぶとい。合流したジョニーとサマンサが北京原人にジャングルに帰るよう、説得を試みるが、軍隊はその間、攻撃をやめるとジョニーに約束しておきながら、ビルごと北京原人もジョニーもサマンサも爆弾で破壊しようとする。
 それに気付いたジョニー、爆弾を取り外そうとするが、時既に遅し、ビルは爆発され、北京原人は燃えながら地上に落下して死ぬ。かろうじて助かったジョニー、ヘリコプターの銃弾に倒れたサマンサを抱いて、夜の香港の街を見ながらいきなり終劇。
 ……え? 余韻は? 間がねー!
 まるでヒッチコックのような演出で(あの人も余韻を嫌ってあっさり終わらせることが多いのである)、原典版『キング・コング』の「野獣はいつも女に殺されるのさ」みたいな気の利いたセリフも、「あの北京原人が一匹だけとは思えない」的な文明警鐘のセリフも全くない。「別に見せるものは全部見せたんだから、これで終わってイイじゃん?」っていう製作者の発想が実にハッキリしてるのである。
 ……エンタテインメントに徹してるなあ(^o^)。

 「キング・コング」ものというのは、実は「怪獣映画」というよりは「美女と野獣」ものの恋愛映画の系列に連なる。ファム・ファタールによる男の悲劇なのであって、『ゴジラ』よりよっぽど『風と共に去りぬ』に近いのだ(もちろん、レット・バトラーがキング・コングだわな)。
 「怪獣映画」というのは、やはり日本の『ゴジラ』が作り出した概念であるのだ。怪獣は怪獣であって、恐竜でも巨大生物でもモンスターでもエイリアンでもない。「でも『怪獣』って、英語で『モンスター』って言うんでしょ?」と反論されそうだが、実は『ゴジラ』を「モンスター映画」というカテゴリーに入れることも適切ではないのだ。フランケンシュタインのモンスターには人間によってもたらされた「悲しみ」がある。しかし、ゴジラはもともと純粋な恐怖の象徴なのであって、人間的な何物をもそこには見出せなかった。ゴジラが暴れてても別に「ゴジラも水爆ですみかを追い出されて、ツラかったのよね」とか同情したりはしないのだ(『失われた世界』や『恐竜100万年』なども「秘境映画」「恐竜映画」のカテゴリーで考えるのが妥当である)。

 『北京原人の逆襲』は、ラスト近くまで全く怪獣映画のテイストを見せず、旧来の「美女と野獣もの」のドラマ展開に昼メロを混ぜつつ(^_^;)、冒頭とラストだけ「怪獣映画」の演出で挟むというメチャクチャな構成になっている。到底マトモな映画としては評価できないのだが、しかしちょっと待ってもらいたい。
 先ほど「コング」ものは恋愛映画であって怪獣映画ではない、と書いたが、その要素が全くないと言いたいわけではない。オリジナル版『キング・コング』にも、ただの恋愛映画なら不必要な、コングと恐竜の対決や、文明の利器たる飛行機と野性の象徴たるコングの対決を描いた「見世物」的要素はあるのだ。それがヒロインたちを助けるためのコングの「愛」による行為だったとしても、見てる観客はそんなリクツなどどうでもよく、ただスペクタクルが味わえればよかったのだ。その点、『キング・コング』は名作と言うよりやはり「怪作」「B級エンタテインメント」の名がふさわしいだろう。
 『北京原人』を全く飽きずに見られるのは、まさしくこれが「映画」以前の「見世物」テイストに満ちているからである。パチモンと評価されることが多いが、スペクタクルの要素を排しまくったギラーミン版の『キングコング』よりも、よっぽど『キング・コング』のリメイクになっているとは言えまいか。
 ハイ、みなさん、女のひとのはだか、好きですね〜。おチチやおシリが揺れるの、見たいですね〜。女の人のえっちな声、聞きたいですよね〜。
 街が破壊されるのも気持ちイイですよね〜。爆発、スカッとしますよね〜。
 こんな感覚で、我々はオリジナル版『キング・コング』も見ていたのではないか?(ヒロインのフェイ・レイのマニアが未だにいることがそれを証明している) 
 惜しむらくは、ラストで軍が北京原人を倒す手段として、爆弾なんてチンケなものでなく、メカ北京原人を出してこなかったことである。そこまで行けばエンタテインメントとして完璧だったのになあ(そうか?)。

 終映直後にぴんでんさんが来られるが、我々とアンジェリーナさんは先に辞去。ぴんでんさん、ガッカリされるが、「みなさん残らないと知ったら来ないだろうと思って黙ってたんだよ」と、エロさん、ヒドイことを言う(^_^;)。
 気分的には楽しい映画を二本も見て高揚感があったので、朝までカラオケでもよかったのだが、明日が早いので、断念。アンジェさんをご自宅近くまで車でお送りして帰宅する。夜のこととて、しげ、道に迷いかけたがなんとか無事にお送りすることができた。
 アンジェさん、しげの運転について何か文句を言うかなあ、と思ったが別になんということもなかった。日頃しげの車に乗ってるばかりで他人との比較ができにくいのだが(タクシーに比べるとトロイ)、多分もうヘタではないのだろう。重畳重畳。

 帰宅して今日のトイレの回数を数えてみたが、10回を越えてた。
 いくら糖尿だってなあ、そこまでガマンしきれないわけでもない日もあるのに、今日はどうしちゃったんだか。

2001年11月02日(金) スカートの下のお花畑/『HUNTER×HUNTER』13巻(冨樫義博)/『20世紀少年』7巻(浦沢直樹)ほか
2000年11月02日(木) 部屋片付けてたらあちこちから○○が……/『古館伊知郎トークブルース・お経』



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