無責任賛歌
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2002年11月04日(月) |
勲章って文学賞じゃないでしょ?/舞台『父歸る』(見てないけど)/『鉄人』1・2巻(矢作俊彦・落合尚之) |
岡田斗司夫さんのサイト「OTAKING SPACEPORT」の巻頭言で、作家の筒井康隆氏が紫綬褒賞を受けることになったということを知って驚く。 筒井作品との出会いは私と同世代の人間ならばたいていがそうであろうが、永井豪画の絵本『三丁目が戦争です』である。小学生同士のケンカがエスカレートして全面戦争が始まるというトンデモナイ話で、いや、これはトラウマになった。NHK『タイムトラベラー』も当然リアルタイムで見ているし、大学生のころは、それこそ七瀬シリーズの新作が出るのを楽しみにしていたし、舞台『三月ウサギ』の公演を見に行ったり『虚人たち』のサイン会に出かけたり、もちろん全集も買い(途中で挫折したが)、映画『時をかける少女』を見て「原田知世はいい!」と叫び、映画『スタア』だって「つまんねえだろうな」と思いながらもしっかり見に行った。御三家の中では一番好きだった作家さんである。 そのアイデア、諧謔、皮肉、冗談、ナンセンス、ブラックユーモア、エロチシズム、グロテスク、スカトロ、もちろんSF性にすっかり魅了されていた。直木賞には縁がなかったが、泉鏡花賞のほうが筒井さんにはふさわしいよな、と思っていた。少なくとも『ベトナム観光公社』とか『農協月へ行く』とか『宇宙衛生博覧会』とか読んでいたら、まずもって勲章なんてものとはもっとも縁遠い人だと思うのは当然であろう。それが紫綬褒賞。意外、という言葉以外のものが見つからない。。
ネットで筒井さんのコメントを見つけたが、ご本人は結構喜んでいるようである。 「お行儀がいい作品を書いたつもりはないが…。長いこと労働してきたことへの、ご褒美かな。うれしいとか名誉とかいうより、どこか冗談っぽいな、という面白さを感じますね」 ちょっと皮肉が入ってはいるが、どうせ斜に構えるのなら「自分の作品読んでるのかね?」くらいのことは言ってほしいものだ。叙勲の選考委員たちが読んでいたとしたら、まず間違いなく落としているはずだからである。勲章なんて文春漫画賞と同じで、別に取ったからと言って、おめでたくもなんともない。「ご褒美」なんて言葉は使ってほしくなかったなあ、というのが正直な感想である。
岡田斗司夫さんの巻頭言は更に激烈である。
筒井康隆氏が紫綬褒章に決まったそうです。 僕が尊敬していたのは反骨の作家・筒井だったので、もちろん国家からの勲章なんか断ってくれるはず、と思いたいのですが、まぁ無理でしょう。 正直、80年代からこっちの氏の創作はいきづまり気味だと思うし、特に演劇出演などに関しての自画自賛ぶりには辟易しています。 絶筆したままだったら『天才』のまま終われただろうになぁ。
岡田さんと違って、私は、筒井さんのことを「反骨」などという陳腐な表現で語れる程度の作家ではないと思うし、かと言って「天才」と言うほど持ち上げる必要もない、とは思うが、言わんとする気持ちは分る。筒井さんならこういう「事件」に対して何かリアクションを取ってくれるんじゃないか、と期待するのは、かつてのファンならば等しく思う「願い」であろうから。誰も筒井さんに『わかもとの知恵』を書いてほしい、なんて望んじゃいないし、ましてや速水剛三を演じてほしいなんて思っちゃいないのである。 今でも新作が出れば一応筒井さんの本は買っている。『エンガッツィオ司令塔』、途中まで読んだがつまらなくなって寝た。『敵』、買ったあとで『純文学』と気付いて数ページで読めなくなった。『蛇眼蝶』、文章が野坂昭如のヘタなパロディみたいでつまらなかった。『私のグランパ』、『愛のひだりがわ』、書き出し読んだだけでまだ全然読んでいない。 ……私にも昔ほどの貪るような読書「欲」がなくなったのはわかるが、こうして並べてみると、確かに近年の筒井さんの作品がつまらなくなってるのが分るのである。それでも「名声」自体は、二十年前より今のほうが「一般的には」上がってるのだろう。宮崎駿とかでもそうだけど、どうして世間は「つまらなくなってから」その人に飛びついていくかね。本気で面白いものを探そうって気がないんだろうけどさ。 『グランパ』は映画になるそうだし、やっぱ読んどくべきなのかなあ。
しげは、今日は鴉丸嬢に誘われて、芝居の鑑賞。 何でも、もともとは鴉丸嬢のお母さんがお友達と行くはずだったのが急遽キャンセルになったのだとか。 帰宅してきたしげに「何見てきたん?」と聞いたら、「『父歸る』だよ」と答える。 「そりゃえらく古いのやったなあ、主演誰?」 「米倉斉加年さん」 「米倉さんか、そりゃ見たかったな。結構よくなかった?」 「うん、まあまあ」 俳優であり作家であり画家(御本人の弁によれば「絵師」とのこと)である米倉さんは、福岡市の出身である。役者としても私はNHKの『明智探偵事務所』の怪人二十面相などは大好きなのだが、描かれるイラストも大好きだ。以前から郷土に根差した活動をされていて、同郷の幻想作家である夢野久作の角川文庫版カバーを担当されているのも米倉さん。あのグロテスクだが繊細な画風に魅了されて『ドグラ・マグラ』を手に取られた方も多いのではないか。 古代における在日問題を扱った米倉さんの絵本、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞を受賞した『多毛留』は私のフェイバリット絵本の一つであるが、あれこそオトナのための絵本であろう(もちろん子供に読ませてもいいと私は思ってるが、躊躇するオトナも多かろうなあ)。
「で、芝居はどうだった?」 この質問にはちょっと注をつけねばならないところだ。別に筋を聞きたいわけではなくて、どんな演出だったかを聞きたかったのである。『父歸る』のストーリー自体はあまりにも有名である。たとえ実際にこの芝居を見たことがない人でも、これの影響を受けた作品にはどこかで必ず接しているはずだ。戯曲にとどまらず小説、映画、マンガ、アニメと、恐らくその数は百や二百じゃすまないだろう。一番影響を受けたのは言わずと知れた『男はつらいよ』シリーズ。あれはつまり「父帰る」ならぬ「兄帰る」なわけだ。……あ、あれだけで48本か。ヘタすりゃ模倣作、万を越すんじゃないかな。全く日本人マンネリが好きだよなあ(^_^;)。 人口に膾炙したという点では『金色夜叉』や『湯島の白梅(婦系図)』を越えてんじゃないかってくらいなんだから、もういちいち詳しい筋は書かない。ナカミを知りたい人は古本屋で文庫を探しなさい。 「○○(鴉丸嬢の本名)と一緒に笑ったよ」 「どして?」 「最後にオヤジが出てくやん」 「うん」 「芝居が終わって二人でおんなじこと考えてたんよ。『あのオヤジ、今頃川に飛びこんでんじゃないか』って」 ……まあ、確かに父親を追いかけるまでタイムラグがあるしなあ。家族会議してるヒマがあったらさっさと追いかけりゃいいのにってのはあるんだけど、それじゃドラマの泣かせどころがなくなる。 第一、あのオヤジは「寅さん」の原型である。寅さんが自殺するようなタマか。どんなに傷ついたって軽々しく「死ぬ死ぬ」なんて言わないのが庶民の矜持ってものだ。だからこそ家族も「万が一にも」と追いかけていけるわけで、本当に死ぬような情けないやつなら、勝手に死なせときゃいいのだ。 しかしこんな感想じゃ、芝居の演出が雑で感動が伝わらなかったのか、しげたちが鈍感で演技の機微に気付かなかったのか、判別がつかない。二人の性格からしてこういうベッタベタな人情モノにツッコミ入れたくなる気持ちも分らなくはないのだが、別に私ゃしげや鴉丸嬢の「願望」を聞きたいわけではないのだ。もちっと「誰にでも通じるコトバ」というものを考えてほしいものである。 「で、二本立てであともう一本あったんよ」 「何?」 「『二十二夜待ち』」 「それは見たことなかったなあ。作者誰だったっけ?」 「えーっと、木下か山下か……」 「ああ、木下順二か」 「いや、違う」 「じゃ誰?」 「木下か山下」 「それじゃわからん! ……もういいや、ネットで探す」 で、もちろん作者は木下順二だったのである。やっぱり、しげの記憶ってアテにならないんだよなあ。 ちょうど、米倉さんのホームページ「まさかね見世」にこの芝居の解説が載っていたので、読んでみる。
◆菊地寛作『父歸る』/出演◆佐々木良行、助川汎、若杉民、助川美穂、南風洋子、米倉斉加年 ◆木下順二作『二十二夜待ち』/出演◆上野日呂登、津田京子、内田潤一郎、助川汎、山梨光國、尾鼻隆、溝口貴子 演出:米倉斉加年 ◆日本近代古典の名作、菊地寛作『父歸る』は、簡素なつくりの中で見事に、日本人の家族を、家庭の原点をえぐっています。 木下順二民話劇は生きることの話であり、「今」の現代の話なのです。 本当の笑い涙、哀しみがそこにはある。それは現代が失ったものです。 この『父歸る』を歴史という時間の縦糸に、『二十二夜待ち』を現代社会のしくみの横糸にして、近代日本の成立から現代の日本へたどってみることは、とりもなおさず21世紀の世界への展望となるのではないでしょうか。
「現代の話」と言っときながら「現代が失ったもの」と続けるのはコトバ的には矛盾してるが、要するにイエスタデイ・ワンスモアなわけだな(^o^)。これももしかしたら「オトナ帝国シンドローム」か? 舞台はもしかしたら夕日色に染められていたかもしれない。
なんだかよく分らないが、英語のメールが女名前で届いている。送り主はオランダ。 英語なんてどんと来いの私だが、もしもオランダ訛りがあったらいけないので、一応、niftyの翻訳ツールにかけてみたが、やっばりなんだかよくわからない(^_^;)。 私は黒人だとか独立運動がどうのとか言ってるが、でも用件は「金送れ」だ。「なんだ、新手のサギか」と、あっという間に興味が失せてしまったが、翻訳ツールってやつが、殆ど日本語変換の役には立たないということがよーっく分りました。特に連語が全く訳せていない。“Thanks, GOD BLESS YOU”を「はあなたを(ありがとう、神)祝福しますように」ってまるがっこもないのにへんな訳しかたしてるが、普通これって「ごきげんよう」とか「お元気で」って訳すじゃん。 中一レベルの訳もできない翻訳ツールがものの役に立つかいって(-_-;)。
LDで日本版『リング』を見返す。 こないだの日記で、雨の中、父親と息子が見つめ合うシーンまでソックリ、と書いたが、よく見ると立ち位置が逆。上手側が優位にあるという演劇理論から行けば、日本人とアメリカ人とでは親子のどちらにイニシアチブがあるかの判断が違う、ということになるのかな。まあただの偶然の可能性が高いと思うが。 中田秀夫監督がインタビューで「高山竜司を超能力者にしたのは、貞子の過去の説明を省略して尺を詰めるため」と発言していたのには苦笑。米版では尺を詰めるどころか「説明をしない」という形でテンポを作っていたが。どちらがいいかは好き好きだろうが、福来友吉教授&三船千鶴子事件を彷彿とさせる日本版『リング』の方がどこかあざとい印象がある。恐怖ってのはやはり「正体不明」なところにキモがあるので、この部分は米版のほうが上手い。 肝心の「リングビデオ」、米版に比べて至極あっさりとしていて短い。こんなもんだったかとちょっとビックリした。
晩飯はまためしや丼。 実はこないだから吉野家に行きたくて仕方なかったのが「牛丼しか食べられないじゃん」と欠食児童のしげは絶対寄ってくれないので、ここで牛鍋を注文する。やっぱ汁が美味いわ。 「つゆだく」とかいう言葉が流行ってるらしいが、これはすしネタの卵を「ギョク」とか呼んじゃう感覚なんだろうか。それとも吉野家の品書きに最初から書いてあるんだろうか。 こないだのAIQで「通ぶって『つゆだく』なんて術語(専門用語)を使う奴は嫌いだ」みたいな発言があったが、ほとんど術語だらけといってよいオタクの世界に足を突っ込んでる人の口からこういう発言が出ることが面白い。いや、閉鎖的で排他的と評価されやすいオタクの中にあって、AIQって実に常識的なオトナが集まってるんだなあ、と感心しているのである。まあメンバー全員が30代以上なのに「萌え〜」とか言ってたりしたら私も引くが(と言いつつ私自身がたまに使ったことがあるような)。 オタクが閉鎖的にならないためには他人が聞いて「何それ?」と引いちゃわないような言葉遣いも必要だろう。
マンガ、矢作俊彦原作・落合尚之作画『鉄人』1・2巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。 「矢作俊彦」という名前を、『マイク・ハマーへ伝言』などのハードボイルド小説の一人者として捉えるか、マンガ『気分はもう戦争』の原作者として捉えるかでその人のシュミがわかるってよく言われてたけけれど、カバーの折り返しを見たら、映画監督までやってた。『ギャンブラー』? 知らんぞそんなん。Vシネか?。 ミステリファンとは言っても、私の場合、好みは本格に限られてて、ハードボイルドは草分けであるダシェル・ハメット、レイモンド・チャンドラー数冊程度で止まってるので、矢作さんが影響を受けたと思しいミッキー・スピレーンは実は『裁くのは俺だ』が積読のまま。なんかイマイチ知的興奮を揺すぶられないんだよね(だから流行りの濱マイクシリーズにも特にハマってない)。 それでも『気分はもう戦争』は、80年代当時、マンガファンには「必読」ではあった。けれど、実はこれも私は斜め読みしかしていない。緊迫していく戦争の状況変化と、その中であくまで軽薄な自分たちの姿勢を崩さない若い主人公たちの行動とのギャップが、それが作者の描きたいことであるとわかってはいてもなんとなく「あざとく」感じられて好きになれなかったのである。今思えば「世の中には茶化していいことと悪いことがある」とかクソ真面目に考えていたのだね。石川喬司か(←蛇足の注。昔、筒井康隆が『ベトナム観光公社』を書いた時に、こう言って怒ったのである)。 それが、そのあと数年で「シリアスな状況のなかでこそフザケる」ギャグを飛ばしまくる押井守作品に狂喜することになっちゃったんだからねえ。私も心が広くなったものだ(ちなみにオビの推薦文は大友克洋と押井守。身内誉めか?)。
で、『鉄人』である。 マキシマムな世界の状況とミニマムな少年たちの日常を対比させつつドラマ展開させて行く手法は変わらないが、それが『気分』よりずっとダイナミックに読者に訴えかけるようになっているのは見事。 近未来の中国(2003年って、来年じゃん。えらい近くに設定したなあ)、「日中戦争当時の不発弾処理」の名目で作業中の母・冴子に呼ばれて、主人公の小学4年生・鳶尾翔は自分も中国に渡る。 そこで見た奇怪な白虹現象、地下街に隠された巨大な「鉄人」。ついうっかり鉄人に乗り込んだ翔は、コントロールできないままに長春の街を破壊していく。 「人を殺したかも」と怯える彼の前に現われる二人の人物、ロシア・マフィアに通じているらしい中国人の少女、虎姫(フーチー)と、忽然と幽霊のように現われた「行方不明」のはずの父・ダグラス。 誰がいつなんのために鉄人を作ったのか、何一つ状況が分らぬまま、翔はただ翻弄され続ける。 いやあ、面白い。これがかつてのロボットマンガの名作に依拠していることは明らかだけれど、実にうまく現代化されてる。「鉄人」がどうやら旧日本軍によって開発されたらしい設定や、そのデザインなんかはモロに「鉄人28号』からのイタダキだし、主人公がロボットをうまく操縦できなくて暴れてしまう展開は原作版『マジンガーZ』そのまんまである。なのに安易なパクリという印象がしないのは、中国国務院・人民解放軍、ロシアマフィア、日本外務省及び陸自と、それぞれの思惑が錯綜するリアルな背景を描いている点、それから、その混乱の中で、主人公が自らの意志を模索して行くという、マンガの王道をきちんと押さえているおかげだろう。2巻の段階でまだ翻弄されっぱなしだけどな(^o^)。 もっとも、翔の名字が「トビオ」で、持ってる犬ロボットの名前が「アトム」ってのはちょっとあざといけどね(^_^;)。 キャラ的に御贔屓なのは大阪弁を喋る中国人少女の虎姫だけれど、なんかこの子って『独立愚連隊』シリーズに出てくるような「馬賊のムスメ」っぽいんだよなあ。多分この想像は当たってると思う。だって2巻には「岡本喜市」ってそのまんまなキャラまで出てくるから(^o^)。これもちょっとアザトいか。
ただ、いささか弱いな、と感じるのは作画の落合さんである。ヘタじゃないし、原作の要求するレベルに一生懸命答えようとしているのは分るのだけれど、やや力不足の感は否めない。全般的にレイアウトがイマイチだし、リアルに描こうとして、かえってマンガとしての迫力に欠ける結果になっているのだ。 2巻130・131ページの見開きなんか「見せ所」なのに鉄人がエラい小っちゃい。そりゃ、「まだ遠方にいる」ってことで小さく描いたんだろうけれど、フォーカスかけて遠近感出せる実写の映画と違って、マンガは平面なんだから、小さく描いたら小さくしか見えないよ。マンガとしての「演出」がなんなのか、落合さん、まだ分っていないのだ。これから先、画力は上達していくだろうし、今の段階で評価を下すのはかわいそうだけれど、もう少し絵柄にも「華」を持たせられるようにした方がいいと思うなあ、こういうマンガの場合。
2001年11月04日(日) デリケートにナビして/映画『紅い眼鏡』/アニメ『ターザン』/アニメ『サイボーグ009』第4話ほか 2000年11月04日(土) まさかあの人があんな人だなんて……
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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