無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年11月03日(日) 妻にはナイショ(^_^;)/映画『OUT』/『プリティフェイス』1巻(叶恭弘)ほか

 朝っぱらからネットの散策。いかにも文化の日らしい朝である。
 しげ、寝床から起きて来た途端、いきなり「○○(私の本名である)のばかあ!」と言って絡んでくる。
 どうしたのかと聞いたら、私が浮気した夢を見たそうな。
 「しかも○○までしたんよ!」
 なんだその伏字は、ハッキリ言ってみろ。自慢じゃないが、結婚する前も後もそんな楽しい目にあったことはないぞ(マジで自慢にならんな)。全く、どうしてこいつは自分の見た夢のことで私を責めるかなあ。
 「だって、アンタがそんな気起こしてるから、夢にも見るんやん」
 ムチャクチャなリクツである。
 だったら、私がゴジラのことを考えたらゴジラの夢を見るのか。いっぺんバナナワニ園というところに行ってみたいと思ったらそこに出かける夢を見るのか。「スーパーカリフラジリスティックイクスピアリドーシャス」と言ったら夢の中で舌を噛むのか。
 ……でも実はしげのことを責められないのだなあ。
 なんと今朝、私はホントに夢の中で浮気をしていたからである。
 もっとも、浮気とは言っても、相手は昔の同級生である(という設定だが目覚めて思い返したら全然知らない顔であった。ちょっと若いころの三井ゆりに似てたか)。久しぶりに会ったのでデートでもしよう、と街を歩いていて、ふと振り返ると、しげが電信柱の陰からジッとこちらを睨み付けているのであった(^o^)。えいくそ、そんなに自分の夫のことが信じられないならいっそのこと、○○○○○○○○○○○○○○○○○、というところで目が覚めてしまった。うーん、惜しい(^_^;)。
 まあ、そんだけの夢なんだけど、シンクロニシティというか、なんともビックリな附合である。あいつにも「女のカン」があったのだなあ。
 もちろん、そんな夢見たとはオクビにも出さなかったが、この日記読んだらまたしげに責められそうだな。
 というわけで、今書いたことは全部ウソです。浮気の夢なんて見てませんってば。いやホント(^o^)。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

 もちろん思う相手は妻ですよ♪


 公開2週間だというのに、もう半日上映しかしてない『OUT』をキャナルシティまで見に行く。
 桐野夏生の原作は未読、純粋に物語の設定のみに興味を持って見たいなあ、と思っていたのだが、いざ見終わってみたら、ちょっと考えこんでしまった。
 いや、悪い映画ではないのだ。ただ、この映画面白いから見て御覧、と奨めるにはよほど人を選ばねばならんよなあ、と思うのである。
 まずこの映画を「なに映画」と言って紹介するか。ここから実は苦しんでしまう。ミステリー、あるいは犯罪モノ……それはそうなのだが、どうもしっくり来ない。平凡な主婦たちがほんのちょっとしたきっかけから「死体」を「処分」する仕事を請け負って行く羽目になる。その発想は面白いのだが、もしこれがミステリーとしての面白さを追及するならば、そこに何らかの知的トリックをしかけねばならないはずである。
 ところが主婦たちは単純に「死体をバラバラにして遺棄する」というごくありふれた方法しか発想しない。これじゃすぐに足がついちゃうし、仲間が4人もいれば誰かがドジを踏むだろうということも簡単に想像がつく。そいつがどいつかってのもキャストを見ればバレバレである(^_^;)。
 ならば、そのアホンダラを抱えつつも、窮地をいかに回避するか、という点にドラマが展開するかというとそうもならない。犯行がバレそうになった主婦連は、ある者は自首し、ある者は逃亡するだけなんである。
 ……となると、これは「知的好奇心」を満足させてくれるドラマではないのだなあ、と判断せざるを得ない。主人公たちは平凡な人々だし、事件に巻き込まれたのだって不可効力みたいなものだし、状況をいかに回避するかってことにもたいして頭使わないし……ということはこれ、「ドタバタ」なんだな(~_~;)。

 確かにユーモラスなシーンがないわけではない。けれど、それにしてはこの映画のツクリ方はひたすら「地味」だ。それは原田美枝子、西田尚美、室井滋、倍賞美津子というキャスティングにも表れている。演技派の方を集めたってことなんだろうけど、はっきり言って華がない。『模倣犯』の中居正広、木村佳乃がよかったとは全く思わないが、『OUT』のキャスティングに比べれば遥かに華がある。原田美枝子の「旬」は『鳴門秘帖』で終わっているので(おいおい)、主役に持って来るのはちょっとなあ、とどうしても思ってしまうのだ。役柄的にも倍賞美都子とキャラが被ってしまっているのは痛い。この二人、息があってはいるのだが、演技の質がそっくりなので、インパクトが相殺されてしまっているのだ。かと言って大竹しのぶを持ってくると『黒い家』の再現になっちゃうし、もっと地味になっちゃうしなあ(^_^;)。
 ここに、日本映画の役者の層の薄さが露呈してしまっている。30代後半から40代前半で主役を張れる人ってのがいなくなってるのだね。だいたい「演技派」という言葉は日本においては「スター性のない」人に与えられてる呼称に過ぎないんで、実際にそう呼ばれてる人の演技が上手いかどうかってことになると、疑問符がつく場合が多い。いや、ヘタとまでは言わないが、感嘆するほど上手くもないんだよ、みんな。

 しかも更に困ったことには、どうやらカントクさんはこれを「ドタバタ」として作るつもりはなかったらしいのだ(-_-;)。じゃあマジメに作ってるかというと、そういうのとも微妙に違うから、さてどう言ったらいいものか。
 倍賞美津子演ずる吾妻“師匠”ヨシエが100円貯金をしている。いつか北海道に行って、オーロラを見るのが自分の夢だ、と原田美枝子の香取雅子に語る。しかしその夢をヨシエは果たせなくなる。物語のラスト、雅子は師匠の代わりにオーロラを見に、北海道に行くのだ。
 ヒッチハイクでトラックに乗った雅子は、女の運転手(吉田日出子!)に「どこに行くんだい?」と問いかけられて、「オーロラを……」と答える。
 「そりゃでっかい夢だ!」と大笑する女運転手。そしてトラツクの行く手には「ホントに」オーロラが広がっているのだ。
 なにが痛いって、これが全く「ギャグ」ではないということなんだよなあ。脚本家、これから先の雅子に何か希望があるとでも思ってんのかね? 確かに直接人を手にかけているわけではないが、雅子は死体損壊、遺棄の犯罪者なんだけどねえ。
 どうもこの物語、「日常に縛られて耐え忍んでる女は、罪を犯してでもそこから脱出していいんだよ」なんて「女の甘え」を肯定してるような描写がそこかしこに散見しててイヤラシイんだよなあ。平凡がそんなにイヤか。家庭が崩壊したのだって、「ホントの私はもっと素敵で、アンタたちの日常につきあってやってるだけなのよ」って自分の高慢ちきな態度が原因だとは思わんのか。いや、マジな話、この雅子って女、シンデレラ症候群を未だに引きずってるんだわ。だからって、どうして選りに選って、香川照之に引っかかるかな(^o^)(原作じゃ間寛平のほうにも引っかかってるらしい)。
 しかもオーロラまで出すなんて、明らかに監督は、そういう女に「媚びた」演出してるしなあ。

 映画を見終わってのしげとの会話。
 「地味だったなあ、オマエは面白かったか?」
 「つまんなくはないけど、面白いってほどじゃ……」
 「だよなあ。よかったのはせいぜい小木さんかなあ。いや、あのトシで『万引き』しちゃうんだもんねえ」
 「あ、あれは面白かった」
 「でも女房が原田美枝子だったら万引きしたくもなるよなあ。情けない亭主やらせたら小木さんは上手いねえ。『模倣犯』も似たような役だったじゃん」
 「オレ、実は小木さん好きっちゃ」
 小木さんというのは小木政光氏のことである。リストラされて妻からもバカにされてると感じてて、つい万引きしちゃうという役。脇にばかり目が行ってしまうのは我々夫婦の悪いクセではあるのだが、実際、この人の情けなさぶりが一番リアルで上手かったんだから仕方がない(^_^;)。 


 北朝鮮の拉致事件で、一番洗脳度の強かった蓮池薫さんの気持ちが随分変わってきたらしい。その立役者であるのが兄である透さんなのだが、一連の事件で私が一番「キャラ立ってるな」と感じてるのがこの方だったりする。
 いや、オウム事件の件でもそうだが、一度かかった洗脳を解くというのは容易なことではない。特に「朝鮮の南北分断は日本のせい」とまで思いこんでいる(日本が荷担してることは否定しないが、一番の元凶は米ソの冷戦じゃないの?)薫さんの洗脳をいかに解いていったものか。透さんの談話によると、相当理詰めで薫さんを説き伏せていったらしいが、こりゃたいしたものである。私もノストラダムスを信じてる人とかユリ・ゲラーを信じてる人とか幽霊を信じてる人とか河童を信じてる人とか(いるのだよ、九州には)、いろんな人に出会ってきてるが、その信念を覆せたことは一度もなかった。覆そうと考えたこと自体なかったんだけれども。
 北朝鮮は薫さんたちの洗脳が解けるとは夢にも思っていなかったのではないかな。だからこそ今まで「生かして」来てたんだし、24年も経ってるんだから身も心も北朝鮮人になってると思い込んでいたのだろう。いや、私もそう思ってた。だからこそ日本に永住するのは厳しいのではないかと思っていたのだ。
 ところがどっこい、五人の洗脳があっさりと解けてきている。どうもこれは五人の方の「演技」ではないようだ。薫さんの場合、透さんの説得が効を奏したのは間違いなかろうが、もしかすると北朝鮮の洗脳技術というのも案外たいしたことがないのかもしれない。というか、自らの体制を過信しているために、単純な情報隠蔽のみで洗脳は事足りるとか考えてたのではないか。
 考えてみれば、「生きて帰って」来られたのが五人だけ、ということは、ほかの人たちは洗脳に引っかからなかったか、早々に解けたということでもあろう。それだけ、「事実」を見る目がしっかりしていたということだ。帰還された五人の方のことを、いささか単純な思考の方々、と言ったら聞こえは悪いが、実際、騙されやすく覚めやすい人たちなんだなあ、という印象は拭えない。もっとも、だからこそ命を永らえることができたわけだろうが。
 そう考えると、北朝鮮の、あるいはアジア諸国の「日本はあの侵略戦争を全く反省していない」って洗脳も、ことによると消すことができる日が来るかもしれないとちょっと期待したくなる。この言葉の一番の欺瞞は、どんなに「反省してます」と言っても、「してない」と相手が拒否してしまえば、反省してないことにされてしまうという点にあるのだが。なぜかこのことについては「日本人が反省してない証拠」を他国の人々は提示しなくていい、ということになってるようなのである。
 将来、北朝鮮が潰れて南北統一がなったとしても、さて、日本に対する敵愾心がそう簡単に消えるとは思えない。それこそ日本人の全てが「反省」しているわけではないことも事実だからだ。一部の連中の高慢をあげつらって、多数の礼節ある態度の日本人までも蔑むアジア諸国の人々の態度はたまったものではないが、愚かさは国の別を問わず、人間であることの必然でもある。やっぱ気長に見ていくしかしゃあねえってことなのかもね。


 マンガ、なかいま強『うっちゃれ五所瓦』3〜6巻(完結/小学館文庫・各670円)。
 デビューは『月刊ジャンプ』の『わたるがぴゅん!』だから、もともとは集英社系の人である。ちばプロ出身だから、初期の作風を見ると、確かにちばてつやの『おれは鉄兵』やちばあきおの『キャプテン』の影響を受けたと思しい画風や「間」が見受けられる。それが、別に『ジャンプ』をおん出たわけでもなく、小学館の『サンデー』に『五所瓦』の連載を始めた時はちょっとした「驚き」だったものだ。しかも「小学館漫画賞」も取っちゃうし。
 「『サンデー』にも『ジャンプマンガ』がほしかったのだろう」とはよく言われたことだが、確かに友情・努力・勝利のジャンプ三原則(^o^)を標榜したようなドラマ展開、ラブコメ全盛の1980年代に、しかもあだち充『タッチ』を擁したその牙城たる『サンデー』に、全く可愛い女の子が登場しない(描けないわけではないことは『わたるがぴゅん!』を読めばわかる)、それどころか殆どが「男の裸ばかり」という相撲マンガを連載したということは実に「異例」ではあった。
 しかし、ジャンプ的要素が横溢していても、私はやはりこれは「サンデーマンガだったなあ」と思ってしまうのである。それは何より、当時の単行本にして「10巻」という実に「適度な長さ」の印象によるものだ。なにしろ武蔵山高校の相撲部の戦いは地区大会しか描かれない。しかも団体戦のみで個人戦を五所瓦は棄権してしまうのだ。ドラマはまさしく「団体戦優勝」のゴールにのみを目指していて揺るぎもしない。半端な場繋ぎエピソードもなければ、敵役のインフレ(^o^)もない。最大のライバルは最初から最後まで田門一人。彼を「うっちゃる」ことのみにドラマは収束していくのである。人気があればダラダラ続き、なければムリヤリな展開での打ち切りが普通のジャンプ漫画とは全く印象が違う。一言で言えば「完成度」の差なのだ。ジャンプファンの方々には悪いが、ここ20年で完成度の高さを感じたジャンプマンガと言えば、『ヒカルの碁』第一部くらいしかない。
 『サンデー』のいいところは、たとえ人気がイマイチな漫画であっても、10週打ち切りなんて問答無用なことはしないところである。人気がなかったと思しいあだち充『いつも美空』、ゆうきまさみ『KUNIE』ですら5巻、1年は続けさせている。1巻しか単行本が出なかった連載なんて、殆どないのではないか。
 ジャンプマンガを一概に否定しようとは思わない。あれは基本的に「読み捨てマンガ」であるから、どんなに同じような展開、同じような連載が続こうと、構わないのだ。けれど、マンガに「ドラマ」を求める人間にとってはジャンプマンガはやっぱりつまらないのである。……昔はジャンブもここまでひどくなかったんだけどなあ。元凶はゆ○○○ごと車○○○なんだけどね。
 よく「スポーツマンガはマンガの王道」と言われるが、『五所瓦』は王道中の王道である。しばらく絶版だったのが文庫化されてこうして読める、これは実に嬉しい。
 小ネタだけれど、関西弁の外人、アントニオのいる和樽高校の選手の名前は吉本新喜劇の役者さんたちから取られている。花紀京、岡八郎、間寛平(4人目は不明。木村進か船場太郎だろうなあ)であるが、当時吉本は東京進出を果たしておらず、これは吉本ファンのみの密かな楽しみであった(よく見ると顔もちょっと似せてある)。

 しげも気がついたら『五所瓦』を読んでいたが、タイトルを勝手に『うっちゃれ屋根瓦』と呼んでいた。だから似てる言葉で勝手に代弁すんなって(-_-;)。


 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』1巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 ジャンブマンガくだらねーと言いつつ、しっかり買っちゃってるよ、こいつは。だって女の子の絵がかわいいんだもん……ってバカか(-_-;)。
 女の子が可愛いと言っても主人公の正体は実は男。交通事故で瀕死の状態に陥った高校生、乱堂政は片思いの相手の栗見理奈の写真を持っていたために、その顔に整形されてしまったのだ! しかも理奈には失踪中の双子の姉、由奈がいたために間違われる羽目に……。
 って、すげーご都合主義。いや、ここまで開き治ってると逆に文句はつけたくなくなるんだけどね。
 というか、これって今までありそうでなかなかなかった設定ではないかと思うのだ。事故にあって体を再生した時に女のカラダに……というのは今までにもいくらでもあった。最近では秋本治の『Mr.Clice』あたりが有名だが、個人的には安永航一郎の『県立地球防衛軍』でカーミ・サンチンが一回女にさせられた(けどしっかり女装して楽しんでた)のが好きだった。
 けれど、乱堂は顔だけ女で体は男のまま。これが完全に女になってしまうと実はマンガとしてはドラマを作りにくくなる。「TSF―Transsexual Fiction(Fantasy)」とか名前がついてるらしいが、即ち心は男なのにカラダは女という性のギャップにキャラが苦しむのが定番で、トイレはどうするのかフロはどうするのか生理を味わったら男はどう感じるのかとか、いちいち描写しなけりゃならない部分が多い。しかもこれって辛気臭いばかりで、作者によっぽど力量がなけりゃ、ドラマ的にはなかなか面白くできないのだ。『転校生』を見れば分る通り、「入れ代わりネタ」にしてキャラを比較して面白味を出すとか、工夫が必要になるのである。かと言って、『らんま1/2』や『天使な小生意気』みたいに主人公が女になってることに全然恥ずかしさを感じないのも不自然過ぎる(『勝手なやつら』以来、ずっと高橋留美子ファンであった私だが、『らんま』で彼女は「堕ちた」と思った)。
 乱堂は顔は確かに女に整形されてしまったが、正体を明かさないのはあくまで姉の由奈を思う理奈を安心させる「男」としての義侠心ゆえにである。カラダまで女になっているわけではないから、男としてのアイデンティティが揺らいでいるわけではない。女装はしていても、趣味なわけでも女子更衣室を覗くためでもないのだ(しょっちゅう鼻血出してるし(^o^))。その可愛い絵柄と裏腹に、なかなかどうして、正統派少年マンガのスピリットを持っているのである。
 でもやっぱり一番気に入ってるキャラは主治医の真鍋だったりする。こういうマンガにマッドサイエンティストはつきものですがな。もっとも、乱堂の顔を女にしたり人口バスト作ったり、サイエンティストというよりは、シュミの人なんだが(^o^)。……「真鍋」って名前、もしかして『県立地球防衛軍』の「真船」に影響受けてるんじゃないかな。
 でも心配なのは今後の展開だなあ。姉の由奈が「男」になって登場してくるなんてベッタベタな展開にならなきゃいいんだが……って今でもベタベタじゃあるんだけど、ともかくキャラがみんな可愛いから許す(* ̄∇ ̄*)。

2001年11月03日(土) 10000HIT!o(^▽^)o /映画『エボリューション』/『電脳なをさん4』(唐沢なをき)ほか
2000年11月03日(金) 文化の日スペシャル/映画『マン・オン・ザ・ムーン』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)