浅間日記

2009年03月26日(木)

車、新幹線を乗り継いで北関東をギコギコ横断し、帰宅。
Hに留守の状況を聞き、労をねぎらいあう。

明日は、先にでかけたAを追いかけて、上京しなければならない。

2007年03月26日(月) 谷と谷底
2006年03月26日(日) 生と死のはしご
2005年03月26日(土) 深夜仲間



2009年03月24日(火) 勝負するイチローの技

西松建設の巨額献金事件で小沢一郎民主党代表の公設秘書が起訴された件に関連して、小沢一郎の緊急記者会見。



普通の政治家なら、続投しないような正念場である。
記者会見ならば、ご迷惑をおかけしてすみません、退場します、というコメントを予想している。

ところが、野球のニュース目当てに国民がテレビにかじりつくタイミングをねらって記者会見を開いた上、「国民のみなさんの負けるながんばれと言う声」「私が犯罪をおかしたような悔しい思い」ときた。

結果的に、イチロー、否、一郎選手は、報道番組での変な解説を通さず、直接国民に向かって長々と政治演説することに成功したのである。

まったく大したものである。
策士もここまでくれば、芸術的である。



村上春樹氏のスピーチ「卵と壁」を思い出す。彼は、それがどんなに悪人でも、卵−個人−として存在する側に立つ、と言った。

小沢一郎氏は、どぶ板選挙を通して、優れた作家と同じぐらい個人としての国民感情をよくよく理解している。
作家と違うのは、そのことを利用する点である。



自分の今置かれた状況を冷静に分析し、検察と個人という対立の構図を明確にすることで、勝負する個人というパフォーマンスを抜群に発揮し、本来的には決してクリーンなイメージでないにもかかわらず、妙に正々堂々と見えてしまうのである。

2007年03月24日(土) 治癒のショートカット
2006年03月24日(金) ビーフとストーブその2
2004年03月24日(水) 年度末公道占有



2009年03月23日(月)

太平洋沿岸にて仕事。
4日間におよぶ出張を組んだのは時期尚早であったと後悔している。

乳児の母というのは24時間以上子どもと離れていられないことを実感する。
それは肉体的にもそうであり、同時に精神的にもそうである。

ただ単に「子供が可哀相」という、意地悪な姑が口にしそうなことならば、
私の悪知恵で何とでも言い訳ができる。

だが、衝動的にわいて出る、本来は一つであるべきものが分かれている違和感は、ごまかすことができない動物的な苦しさをもたらす。

あの子も同じ違和感の中にいると思うと、なおさら辛い。


早く帰りたい。

2008年03月23日(日) 奉納精神
2006年03月23日(木) 春の門前に子鬼
2005年03月23日(水) 自分アーカイブ
2004年03月23日(火) 頼むから静かにしてくれ



2009年03月20日(金)

第60回日本放送協会放送文化賞の授賞式が行われた、というニュース。
受賞の対象は、放送事業の発展に寄与し、放送文化の向上に貢献があった方々である。

経済評論家の内橋克人さんと、皆川達夫さんの受賞が嬉しい。
放送を通じてお世話になっているという実感があるからだ。

皆川さんが放送文化賞だってさ!と、
そのニュースをHが私に伝えることも、面白い。

2005年03月20日(日) 洋風佃煮



2009年03月15日(日) 日の丸オラトリオ

合唱団に入ったAは、いきなりメサイヤのハレルヤコーラスなど歌っている。

中学生や高校生のはじっこに混ぜてもらい、ほとんど口パクなのである。
歌詞は怪しく自己流に変化し、意味不明な呪文と化している。
苦痛じゃないのかねと思うが、それなりにやっている。



オラトリオは実際、たいしたものである。
宗教と権力が、がっちり組み合わさり、
最高のメロディに最高の称え文句がセットされている。

なにしろ、king of kingsがforever and everなのだ。

しみじみ歌詞の世界に浸っていると、Aが意味を教えろという。
これはヨーロッパの神様を称える歌で、世界中から偉大な人が100人集まったとして、その中であなたがずっと一番偉大ですと言っている、と返す。

じゃあアジアの神様が怒るね、とAが言う。
まあそこが難しいとこだね、としか応えられないが、実際そうだから仕方がない。



数日後のこと。

Aが、自分は国歌を習ってきたと報告する。おそらく卒業式の練習であろう。
そして、先生が、国歌を歌うことに反対の人もいると話した、と付け加える。

私は食卓で箸を運ぶ手を止めて、Hもちょっと難しい顔をする。

国歌とは自分がこれまで歌ってきた素朴な歌とは異質なものであると、
言葉を尽くさずとも、親の反応で気付いたようだ。

それでも「ちよにやちよに」という言葉が気に入ったようで、フレーズを繰り返しながら、意味を聞く。
ああそれはforever and everだよ、と教える。



そうか、日本の国歌は一種のオラトリオであったかと、言った口で感心する。
king of kingsがforever and everなのである。

以来、頭の中で、あの「ちよにやちよに」というフレーズと「forever and ever」というコーラスが重なって流れてきて、これがまたぴったりくるので止まらなくなっている。

2007年03月15日(木) 水盗っ人
2006年03月15日(水) よれよれ申告
2004年03月15日(月) Mayor! Mayor!



2009年03月12日(木) 日本人にとって仕事とは何か

国道陥没の危険性を確かめる国土交通省発注業務で、OBが多数天下る財団法人「道路保全技術センター」のずさんな業務実態が明らかになった。
12日に開かれた参院予算委員会で、民主党の大久保勉委員もセンターのずさんさに触れ「国は天下り先のセンターに発注し、センターは多くの利益を上げているだけだ」と糾弾した、というニュース。


件の参議院予算委員会を、私もラジオ中継で聴いていた。

あまりにも熱弁をふるうので、この人はフェアネスを求めているのか、それとも、「この業界に割り込んで儲けたい何者か」の利便を求めているのかわからないなあと思いながら、ぼんやり聴いていた。

質疑はやがて、入札参加条件に資格要件を付すことに及び、議員が「結局それは天下りしか参加できない仕組みなんでしょう」と言って切り捨てたところでいよいよ、それは違うんじゃないかな、と強く思った。
同時に、これに反論しない国土交通省の役人にも、はがゆい思いがした。

なぜ、エンジニアのプライドを堂々と-さぐられた腹の痛みに耐えてでも-言ってくださらないのですか、という気持ち。



仕事をその内容に応じて引き受けられる者とそうでないものを仕分けるのは当然のことである。
資格であれ経験年数であれセンスであれ、人はそのための指標を用いるものである。

医師免許は不要、結局あれは医大関係者しか参入できない仕組みなんでしょう、と思うだろうか。

あるいは、病気を治してもらう病院選びで、見積をとるだろうか。



頼まれて引き受ける、これが日本人の仕事のやり方の原点である。
頼む方は受け入れてもらえる感謝があり、引き受ける方は役に立てる喜びがある。

仕事を通じてお互いの信頼を深めるられる喜びや、この分野は自分が支えるというプライドが、日本人を勤勉にし、技術の積み重ねを生んできたのである。仕事は信用第一であり、人と人が誠意をつくして永くつながることは、商売の上で正しいことだった。

プロジェクトXというTV番組があれほど人々の心をつかんだのは、それがどこかの企業の大儲けの話ではなくて、仕事に人生をかける人々の心根が映し出されているからだったはずである。

そして政治家という仕事こそ−本来は−、あなたにお願いしたいという一票に支えられ、仕事の使命感を金に換えることなどできない、というもののはずである。



私は決して、ある特定の人達だけが特定の利益を約束されることをよいと思っているわけではない。

けれども、仕事から「継続する使命」という魂を抜いて、その場限りの損得勘定だけに換算したのなら、この国の技術を生み出す土壌は損なわれ、新しい芽生えに輝きはないだろう。

それどころか、これまでの技術で生み出されたものの維持でさえ、ずさんで困難なものになるだろう。



かように、仕事に対する精神的・文化的背景は、押し寄せる何者かによって今や大変にはかないが、引き継げる者が引き継いでいけば消えることはない、そう信じたい。

2005年03月12日(土) 人徳ミラーサイト
2004年03月12日(金) バスクチーズ



2009年03月10日(火) 「!」に関する管理能力

Aの顔に「!」が浮かぶと、もう大変である。
とりつかれたように即実行、即実現のはこびとなる。

ある時は、沢山のビンに花を生けて家中を埋め尽くし、
ある時は、椅子をかきあつめて何だかわからぬ空間をつくりあげ、
またある時は、何でもかんでもお店やごっこの商品にしては、すました顔で客になれという。

そうして自分で遊びを思いつくAに感心したり、相談にのるのは楽しい。

ただし、こちらに時間や余裕のないときは例外、迷惑千万である。
頼むから今はもう何も思いつかないでくれ!と叫ぶ。



夕食、風呂、着替えと家事進行が終了し、家族は寝てしまい、
私ももう寝ようと思いながら、やれやれ、と椅子に腰を下ろし番茶をすする。

テーブルの上には甘夏が山になっている。
生産者が「今季は豊作で美味」というのはまったくそのとおりだなどとぼんやり眺めているうちに、
どうしてもマーマレードの下準備をやりたくなってしまった。

やにわに寝巻きの上へエプロンを撒きつけ、皮をむき、細かく刻み水にさらす。
よしよしと悦に入ったところで、どういうわけか次はリンゴの皮をむき、刻んで煮る。

静まり返った森で、鳥の鳴き声がした。
気が付いたら深夜になっていた。



自分は床に入る直前だったのではないか。

子どもへの、今はそれをやっている場合ではないでしょう!とは、一体どの口が言うのか。

夜の台所で一人、なんだろうかこの止められない衝動は、と自分に問う。

2008年03月10日(月) Thank You
2006年03月10日(金) 
2005年03月10日(木) 完熟産業
2004年03月10日(水) 聖トーマス教会受難、そして光



2009年03月09日(月) 歩いて行く者

毎朝の通い道に出会う、足をひきずって歩く若い男性。

どこから来たのかしらないけれど、この人が歩いているところを目にする場所をつなげると、結構な距離を歩いているはずである。

私は運転上注意を払うべき歩行者として−、私は車の運転席からその人をみるのである。

雨の日も、雪の日も、毎日歩いている。

ある時は、こんなところを歩いて危ないなと思った。
ある時は、どこかへ通っている人かなとぼんやり思った。

いずれにしても、通り過ぎたらすぐに忘れてしまった。



彼の行き先は、通りの向こうにあるあの店かなと、ある時思い至った。
障害を持つ若者が、おやきなる郷土食品を製造販売している店である。



狭い生活道路で再びその男性に行き会い、後ろからゆっくり進む。

片足を引きずっているが、足取りは重くない。
早足で規則正しく道を行く。

移動手段として歩行する人の姿は美しい。
そして「行くために歩く」という動機は、シンプルで力強い。



なぜそんなことを思ったか。
それは、こんな理由である。

このあたりは車の移動ばかりである。

これでは健康に悪いということで、行政がウォーキングと称する歩行運動を強行に奨励した。。
だから、この街の田畑の周りの農道とか河川敷に行くと、首にタオルを巻きつけて軍手をはめた中高年者が、セカセカ腕をふってわき目もふらずに歩いて、否、歩かされているのである。

その姿にずっと違和感を感じていた。
何しろ、歩く姿に「己の健康・己の長寿」という願望がにじみ出ていて、何だか怖いのである。醜い感じもする。



制度によって歩かされる人生など真っ平ごめんである。
制度によって生かされるということは、制度によって殺されるのと同義である。


私も、あの男性のように力強く歩くということがしてみたい。

どこへでも歩いて移動するというのは田舎では大変なことだけれど、
まずはやれる範囲からでも、試みてみたいのだ。

2005年03月09日(水) 60年前の子どもは
2004年03月09日(火) テハヌー



2009年03月05日(木) 黒に黒

小沢代表の公設第1秘書が、政治資金規正法違反容疑で逮捕され、連日、これに関連するニュースや解説。



報道では、激震がはしった、と決まり文句を繰り返しているけれど、
そうならば、国民はこれまで小沢氏をクリーンな政治家と思っていたのだろうか。

違うと思う。
彼が自民党時代に培った、その「黒い実績」を頼ってでも、自民党の一党独裁を何とかしたい、というのが民主党の、そしていささかでも民主党に関心を寄せるものの気持ちではないか。

激震というならばむしろ、−小沢氏が言うように−解散総選挙が見えてきたこの時期に、こんな捕り物騒ぎを起こすそのことが、激震である。



黒の上に黒を塗っても、人の認識に刺激はないのである。

けれどもいかんせん、マスコミ報道は、国民標準化装置である。
じきに皆「信じられないけしからん不祥事」と、そこばかりに目が行くようになるのかもしれない。

そしてその結果は、自民党の支持率があがるのではなく、投票率が下がるであろうことは、目に見えている。

2008年03月05日(水) 
2005年03月05日(土) 世界の常識、日米の非常識
2004年03月05日(金) 



2009年03月04日(水) 世界で一つだけの花

ラジオで、「世界で一つだけの花」。槇原何某のヒットナンバーである。
花屋の店先に並んだ色とりどりの花は、どれもそれぞれ違って美しいと歌っている。



花卉産業は、最もクローン増殖技術のすすんだ分野の一つである。
だから、花屋の店先に並んだ色とりどりの花は、極論をすると、どれも同じなのである。

ひょっとすると、日本中の花屋で、同じ個体が売られ、
「世界で一つだけの花」しか咲いていないのかもしれない。

「世界で一つだけの花」とは、何と恐ろしいことか。
件の歌に恨みはないが、ひとたびそう思うともうダメである。


そして、思いを馳せる。
世界で一つだけの花になろうとしたアメリカは脆弱性を露呈したが、
まだ世界中に残っている埋土種子を発芽させてはならないし、損なわれた個体は復元しなければいけない。
もちろん、この日本においてもそうである。


あるいは、よくわからないが、在るがままにしておけば時間が元にもどすのかもしれない。

2008年03月04日(火) 餃子に必要な年収は
2007年03月04日(日) 
2005年03月04日(金) 大人の時間
2004年03月04日(木) 国民給餌法



2009年03月03日(火) 更地渡しの時代に

毎朝通りかかるSさんの旧借家は、彼女達が出て行ってからずっとForRentになっていたのだが、先日から重機が入り始めて、あっという間に取り壊された。

屋敷を囲んでいるうっそうとしたケヤキの大木も、実をたわわにつけた柿も梅の木も、みんな切り倒された。
フキノトウや三つ葉で覆われていた小さな素敵な流れは破壊され、濁水が広がっている。

幹線道路沿いの目立つ場所だったから、あすこが無くなったねと認識する人は多い。

そして、新たに普請するのだろう、昨日は測量用の水糸が張られ、地鎮祭が行われていた。



言っちゃ悪いが、それだけかき混ぜておいて地鎮祭もないだろうという気持ち。

田園地域の屋敷が更地にされ、細切れにされて売り払われる様は、痛々しい。
残念ながらこのあたりでは度々目にする光景であり、おそらくこれからさらに増えるだろう。



件の屋敷跡は、夏頃にはきっと、ツーバイフォーの量販ハウスが窮屈に建って、小さな植栽が植えられたりするのだろう。
この植えた木が大きくなればいいね、などと話したりするのだろう。

その家族は何も間違っていないし、新居で思い描く未来は幸福でなければいけない。

良くも悪くも、無関係なのである。
そのことの、何とせつないことか。



私達は学ばねばならない。
更地渡しでは、決して手に入らない時の重なりというものがある。

私たちには、かつて生きた者の形跡を必要とする時がある。
私たちの心を現世の孤独や不安から解き放つのは、そこにあった物語であり、
それを引き継いだ者が、本当のランドオーナーである。

そして、それは住まいに限った話ではない。

国土も、政権も、経済も、積み重ねをないがしろにした更地渡しでは決して手に入らないものがある。

2008年03月03日(月) 
2007年03月03日(土) 
2006年03月03日(金) ひとくぎり
2005年03月03日(木) 低俗の海へ
2004年03月03日(水) 寒の戻り



2009年03月02日(月) 卵の作家と、大統領の壁

イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が15日、作家の村上春樹さん(60)に贈られた。エルサレムで開かれた授賞式の記念講演で、村上さんはイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃に触れ、人間を壊れやすい卵に例えたうえで「私は卵の側に立つ」と述べ、軍事力に訴えるやり方を批判した、というニュース。



オバマ米大統領は24日夜(日本時間25日午前)、連邦議会の上下両院合同本会議で初の施政方針演説を行った。大統領は「我々は再建し、回復する」と強調し、米経済の再建に向けて国民に結束を呼びかけた。オバマ大統領は演説で、「米経済は弱体化し、自信も揺らいでいる。我々は困難で不安定な時代に生きている」と述べ、厳しい現状を率直に認めた。そのうえで、「米国は以前より強くなって現れる」「求められているのは、この国のため力を合わせ、直面する課題に大胆に立ち向かい、未来への責任をもう一度担うことだ」と結束を求めた、というニュース。



先月2月に、二つの対照的なスピーチが、世界中の人の耳目を集めた。

村上氏は、それを述べるには非常に不向きな場面で、その不向きであることを一人で背負いながら、「We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.」と、言い切った。

オバマ大統領は、満を持して用意された舞台で、皆の期待に応えるべく「We will rebuild, we will recover, and the United States of America will emerge stronger than before. 」と言った。



どちらが正しく、どちらが間違っているということではない。大統領は大統領のスピーチをして、作家は作家のスピーチをしたということだ。

大切なことは、作家が大統領のスピーチをせず、大統領が作家のスピーチをしないことである。

けれども、自分の心の中にどちらか一つだけ残すことができるとしたら、
私はやはり、村上春樹氏の話した内容を選ぶ。

2006年03月02日(木) 高村光太郎の後ろ道
2005年03月02日(水) 危険4点セット
2004年03月02日(火) 保育士による景気動向指数



2009年03月01日(日) 欠損という存在

共同通信の小山鉄郎氏が執筆している、「白川静漢字入門」なる連載記事。
白川静とは何ぞやというところからであったが、
面白いので毎回記事を切り抜いて冷蔵庫に貼ることにしている。



本日は「臣」という字である。おみ、と読む。

臣という字は、わざと潰した目を現しているのだそうである。
古代、君主に仕える者は視力をなくす事でその能力を得たのだそうである。

「賢」という字の中に臣がプラグインされているのは、
賢とは、何かを損なうことで獲得される特質であることを示している。



古代の人は、自分の目を潰す時、一体どんな気持ちだったのだろう。
能力獲得への希望か、あるいは視力への未練と不安か。
よくわからない。およそ理解できない。



ただし、このことは少しは解る。
全てを備えた者よりも、欠損をもつ者の方が発揮できる能力がある。

無ければ無いなりに何とかしようという働きは、
それを持たないものにしか生まれないからだ。

2007年03月01日(木) 
2005年03月01日(火) 転調力
2004年03月01日(月) 合併合戦


 < 過去   INDEX  未来 >


ipa [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加