浅間日記

2006年04月27日(木) 天国はいらない、故郷をくれ

お腹が痛いといって、Aは家にいる。

仕方がなく、観たかった写真展へ、一緒に連れて行く。
チェルノブイリ原発事故の後も、放射能に汚染された故郷に住み続ける、
ベラルーシ共和国のドゥヂチ村、ブジシチェ村の人々を撮影したもの。


難しい写真展だ。
ベラルーシの人々の、大地とともに生きる姿。
ベラルーシの人々の、原発事故という被災の、大変な経験。
この両方についてバランスよく所感をもつことが難しいのだ。

農村や、大地とともに生きるという感覚は、
自分で畑や山林を所有し、かつそこで暮らし、
畑や山林で生計をたてたことがない私には、正直わかりにくい。

豊かで素晴らしい、と口にするのは簡単だが、
その前に「多分本質は理解できないけど」と断りを入れるのが、
その人たちへの礼儀である気がする。

度々、避難勧告にやってくる役人に向って、
「天国は要らない、故郷をくれ」という、ある詩人の詩をそらんじるという、
男性の写真。

大地と共に淡々と日々を送る彼らの姿は、
原爆投下後の広島を描いた「黒い雨」を思い出させる。

本当に、私には大変に難しい。
何とも思いが至らない。

2004年04月27日(火) よい子馬鹿



2006年04月26日(水) 不可知を受け入れよ

山の学校で、数年前の冬山研修中に起きた遭難事故の判決日。

Hは、たまたま用事があって講師を引き受けなかった、そういう研修である。



判決を知ったHの落胆は、正直ちょっと鬱陶しいほどなので、
仕方がないから、言い分を聴く。要点は2点。

この判決文では、指導者に100%安全な登山が要求されている。
それは、これからは登山指導など誰もできないことを意味する。

安全性100%の登山を前提とするこの判決は、世界中の多くの優れたトップクライマーが共有する、登山本来の意味から大きく逸脱している。

そんなことを、静かに力を込めて、話してくれた。



安全が100%確保された状態で山に登るのは、もはや登山ではない。
それは低山ハイク、ピクニックの類である。

アルピニズムというのは、数%の不可知を受け入れる覚悟をもちながら、
なおかつそうした予測不可能な局面でも、生きて高みを目指すための対応をすることが、本質なのだ。

登山のガイドブックに書いてあるマニュアルどおりに登る。
団体ツアーに参加して、行列の後をついて登る。
登山店の店員がすすめる山道具を使えば、安全に登れる。

そんな、安全を他人に委ねた認識の元で、どれだけの遭難事故が起きたか。
ほとんどのケースは、気象条件や体力体調、道迷いなど、突発的な変化に対する対応能力の欠如が原因なんである。

そのことは逆に、「登山には突発的な出来事はない」と思って入山している人が多いことを表す。
遭難など絶対にないと思い込んでいるから、山岳保険にも入らない。



そして、本当は、登山だけではない。

人間は、明日起きることは、基本的に不可知なのである。

何もかもが「明日のことはわかりません」では心元ないし、社会が継続してゆかないから、
人は、契約や制度みたいな「先の見通し」をたてるツールを発明した。

「見通し」に慣れてくると、現代人は次第に不可知であることを忌み嫌い、
否定し、何よりも受け入れる体力を無くしてしまった。

そして社会は、その見通しに長けている人が優れた人ということになり、「想定の範囲内」は小利口な科白だという価値観が存在する。
第一、人間の発明したツールの最たるものである「金目」の出来事が、
「想定の範囲内」なのは、馬鹿らしくなるほど当たり前のことである。



人々はすっかり不可知に対する耐性を失ってしまったが、
それは実のところ何も変わらず、人工的な価値観のすぐ側に横たわっているのだ。

さらに言うと、この国の私達は、
「何があっても、自分は立ち向かえる」という力強い気持ちと実力、そして
「そういうこともあるだろう」という冷静な気持ち、
これを備え不可知を受け入れることなしには、この閉塞的な社会から抜け出せないところにまできている。

2004年04月26日(月) ほどほどの喜び



2006年04月25日(火) 家なき鯉

不要になった鯉のぼりを地域から集めたら、こんな沢山になりました、というニュース。
木曽のある村で、600匹にもなる鯉幟が、河川を横断して風に泳いでいる。

こんな「集団鯉のぼり」は、全国のあちこちの市町村で風物詩となっている。



家で揚げられない鯉のぼりは、やはり寂しい。

人気のない村の、青空の下で泳ぐ600匹もの鯉達は、まるで、
故郷をすてて都会へ出て行った子どものようではないか。



親である大人がどんどん減っているのだから、
子どもの成長を祝ってイソイソと鯉のぼりを揚げるという作業も、
もう大人共通の理解ではなくなるのかもしれない。

しかし、風薫る5月の爽やかな季節に、自分の子どもの成長を喜べるという人生は、
私は絶対に、何ものにも代えがたく豊かで幸せだと思う。

2005年04月25日(月) 都市の影
2004年04月25日(日) 



2006年04月24日(月) コンセンサス

居間に散らかった絵本やおもちゃを片付けるのは親の役目である、
ただし、次の誕生日以降は、自分で片付けなければゴミ箱に直行である。

そんな風に1年前の誕生日からAに申し渡しておいた。

だからここのところのAは、捨てられたら大変とばかり、
火を消してまわるサイみたいに、服も絵本も、
自分の陣地へとりあえず突っ込んでいる。

これが、いつまで続く緊張感か分からないけれど、
とにかく、放置物は捨てるという非情なルールについては、
完全に合意が形成されている。



そういうわけで、平成13年に施行されたPSE法、もとい電気用品安全法の、
今頃になっての大騒動や、その言い分に慌てて対応する
特別承認制度だの検査機器の無償貸し出しの情報をみるにつけ、
経済産業省に勝ったな、と、ほくそ笑むのである。

霞ヶ関や虎ノ門だけが日本ではない。
人が全国津々浦々に住んでいて、皆で生活しているのだから、
ルールというのは、その開始前によく話し合っておくことが大事だ。



2006年04月23日(日) 花のワルツ

回復。桜も梅もコブシもボケもタンポポもレンギョウも、
冬に花芽をつけたものは、みな満開である。



お楽しみにとっておいた、バレエ「くるみ割り人形」のDVD。
マリインスキー劇場バレエ−キーロフ・バレエの方が通りがよいか−、
マーシャ役は、ラリッサ・レジュニナというレニングラード生まれのプリマ。

序曲のところから、もうワクワクである。
この曲はこんな場面で踊られるのか、と思いながら鑑賞。

スペインの踊り、アラビアの踊り、中国の踊り、ロシアの踊り。
そして、本当にほんとうに可愛らしい、あし笛の踊り。

こんなに楽しいエンターテイメントが、あるだろうか。
衣装も、舞台も、音楽も、舞踊も、心を躍らせるためだけにある。
Aと二人、うっとりしながら鑑賞する。



くるみ割り人形はクリスマスの物語だけれど、
花のワルツから終わりのワルツまで続く情景は、春の喜びに満ちている。

寒いロシアの国もやはり、この土地みたいに春が待ち遠しく、
光と色彩は、それは大層な喜びなのだろう。

その喜びをあんな芸術作品として表現できるなんて、
芸術家というのは羨ましいものである。

もちろん、それを鑑賞する私も、至福には違いないのだけれど。

2005年04月23日(土) 親業セーフ
2004年04月23日(金) 検分上手な話



2006年04月22日(土) 情報と衆愚

養生中である。

共謀罪への反対集会についての記事。

そもそも、悪巧みは政治家のお家芸ではないか。
自らの首を絞めるような法律をつくって、大丈夫なのか。

冗談はさておいて、
こんな重大な出来事が、文化面でしかとりあげられていないのは何故なのか。

今回だけではない。
国民の人生や生活の質に関わる問題は、
−その中に金目の問題が含まれていないとみるやいなや−
いつだって文化面や家庭欄なんである。
このことに、私は大いに不満なんである。

裁判員制度、然り。
へんちくりんなイラストが添えられて、「どうやって仕事をやりくりするか」とか、瑣末なことばかり書かれていた。

産婦人科の医師が不足して子どもを産む場所がない、という問題も同じ。
「本日のばんごはん」とか、「福寿草が満開」とかの隣に配置されていた。

共謀罪みたいな無茶な法案についての記事を、連載小説なんかと
−連載小説はもちろん大切なのだけど−隣り合わせにする、編集者、否、
新聞社のセンス。



有権者にまともな情報を提供しないでおいて、
選挙時にはやたらと煽動的な選挙活動ばかりするのだから、
これで衆愚政治にならない訳がない。

国民をどんどん馬鹿にして、労働と消費だけの家畜にしてしまえば、
確かに、能力のない政治家でも仕事は勤まるかもしれない。

馬鹿馬鹿しい。

2004年04月22日(木) 覚悟と決意のトレーニング



2006年04月21日(金)

朝は小雪。
こうなると、もう我が身よりも、花満開の桜や梅が不憫である。

風邪の病ぐらいは、ゆっくり時間をかけて養生し治癒に至りたいものだが、
家族への後ろめたさから、仕方なく風邪薬を服用する。

頭がぼんやりしたまま、電話をとる。
今年の新しい仕事を、丁寧に礼を言って、ぼんやりと引き受ける。

残念だ。もう遊んでいられない。
しかし、そうと決まれば、出発の段取開始だ。

2005年04月21日(木) 魔法の鏡日記
2004年04月21日(水) 修繕・トマト・夜道



2006年04月20日(木) 20年前の理不尽、現在の理不尽

チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日だから、
今年はちょうど、20年目にあたる。

長野県のこの土地は、ある医療ボランティア基金のお膝元だから、
26日を待たずに、既にいくつかのイベントプログラムが始まっている。
写真展とか、講演会とか。新聞で特集も組まれている。



この原子力発電所事故は、
人為による、どうしようもない理不尽が、
ものすごく急激な形で人々を襲った出来事の一つだと思う。

現在の廃墟となった家の様子からは、慌しく生活を捨てて出て行った様子が、よくわかるんである。

何も悪いことをしていない市井の人や、
何も知らずにその場所で生を受けた事故後の子ども達が、
ものすごい苦しみの中で生きている。

誰かの意図や悪意のある事故ではなかったにせよ、
20年を経た現在になっても、事故の原因がきちんと解明されていないことや、
事故の時とほぼ同じシステムが通用していることは、何ともやりきれない。

2005年04月20日(水) クールダウン
2004年04月20日(火) 現代鬼子母神



2006年04月19日(水)

風邪を引いてダウン。

HはAと夜桜見物に出かけてしまったから、
私はありがたく、静かな家の中で、一人養生させてもらう。

2004年04月19日(月) 駄考の日



2006年04月18日(火) ショーの役割

耐震強度偽装事件に関連するニュース。

今回の騒動で絵札だった人が、次々に逮捕されたり、事情聴取されたりしている。

今でもよくわからないのが、昨年のあの、見世物みたいな証人喚問は、
今回の耐震強度偽装事件の解決に向けたプロセスで一体何の役割を果たしていたのか、ということだ。

捜査でもない。もちろん違法性を追求する作業でもない。
ワイドショーの視聴率に貢献するため?それなら納得がいく。



こういうことが生じるから、こうした政策をとるべきだ、
−乃至は、こうした政策は間違っている−という、
下にぶら下がる主張の、枕言葉として使われる、そういう気がする。

あきれるような事件であったから、個人として見解を持つのは当然としても、
事の全容が見えてから、ロジックに用いるのがフェアなんじゃないだろうか。

防衛庁が省に昇格する方向の防衛省昇格関連法案なども、
そういう理由で、どさくさに紛れて、という感がぬぐえない。

2005年04月18日(月) 死者を想え、次世代を想え
2004年04月18日(日) 不在



2006年04月17日(月) 魂込め

ラジオで、作家の目取真俊(めとるましゅん)氏が語っている。
朝食の後を片付け、テーブルを拭きながら、耳をかたむける。

珊瑚の浜辺を歩きながら、外部からの様々なインパクトによって、
自然も、暮らしもすっかり損なわれてしまったのが今の沖縄だ、と語る。

「…半日で一周できてしまう、小さな空間にも宇宙があり、
自分はそのことを確認したくて、物語を書いています。」


沖縄では−本島のことだと思うが−、
魂が落ちるということがあるのらしい。

子どもが元気を失くし塞ぎこむのはそのせいで、
そんな時大人は、「魂込(まぶいこめ)」をしてやるのである。
今でも一部の人たちには続いている風習なのらしい。

氏はその風習にまつわる物語を書き、
「魂込め」という作品に仕上げている。



目取氏のつむぎだすファンタジー世界が、奇を衒うばかりの作品と違うのは、
ある土地の歴史と生活と文化の上に、ちゃんと乗っかって創られているからなのだと思う。

そういうものでなければ、奥行きのある、腹持ちのよい物語にはならないのだろう。

2005年04月17日(日) 嫌だといっているというのに
2004年04月17日(土) 不必要な不祝儀



2006年04月16日(日) 包帯クラブのOB活動

天童荒太の「包帯クラブ」を読む。

少年少女が、つらい経験をした場所へ赴き、包帯を巻く。
両親が離婚する前に行った公園とか、
理不尽ばかりだった学校の校門とか。

世界にある暴力や貧困に比べれば、小さな傷だけれど、
そういうものでも、確実に少しずつ自分を損なっていく。
だから、きちんと向き合って、ケアしなければいけない、という訳だ。

「その場所」に真っ白な包帯を巻いてもらい
「もう大丈夫」と言われた当人は少し気持ちが楽になり、明日を生きることができる。
一緒に巻いた友人達は、つらい出来事を追体験し、痛みを共有する。

多分、子どもたちには必要とされる、救済の物語だろうなと思う。



でも、大人になった私は思う。
小さな傷があれば、小さな喜びもあるのだと。

魯迅は『絶望の虚妄なることはまさに希望と相同じい』と言っている。
むのたけじという人はそれを、『絶望が本当なら希望も本当』という風に考えている。
絶望が見える人間のその目には、希望も見えるはずであると。



だから、この包帯クラブの皆さんへ、問いかける。
どうせならば、嬉しかった場所へも何か巻いたらどうですか、と。

傷の手当てで手一杯だから、それどころじゃないよ、と答えが返ってきて、
じゃそれは、おばさんがいっちょ巻いてあげようかね、と思うんである。

2005年04月16日(土) 男シンデレラ
2004年04月16日(金) 記憶の花



2006年04月15日(土)

山の家。

明け方に雪が降っていたよ、と父。

まったく、本当に、今年はいつまでたっても寒さが抜けきらない。

仕方が無い。

外気というのは、エアコンディショナーで管理されているわけではないのだ。

どうしようもないことは、起こりうる。



水源が枯れたのは、この山の家の潮時を告げているのではないか。
うっすら、そう思っていた。

水道を引くかどうか議論したとき、
そのことを言うべきかどうか迷ったが、やめておいた。



2006年04月13日(木) ニュースと文脈

よれよれになって家路を辿る。
道行の伴に、ジョン・アーヴィングの「第四の手」。

「小さな悲しみをセンセーショナルに取り上げておいて、
その根底をなす文脈、世界の末期症状というべきものは隠したままである」

主人公のパトリックが、アメリカのテレビニュースを批判するくだり。
この言葉に前後して、センセーショナルなニュースの例が山ほどでてくる。

そうした味付けの濃い取材指示を、パトリックは片端から断り、
理解者を求めて、ニュース分析番組の提言を打診しはじめる。

「…さまざまな事情を織り込むのは手間がかかります。テレビで最大の効果をあげるのは手間のかからない話です。災害はセンセーショナルであるだけでなく、きわめて性急に発生し、とくにテレビでは性急であることが効果的なのです。もちろん、ここで効果というのは市場原理からの議論であって、ニュース報道のあるべき姿であるとは限りません。」



根底をなす文脈の欠落。
ニュースだけではない。

よほど気をつけないと、自分のまわりから文脈−自分だけの事情みたいなもの−が、溶脱していく。

気がつけば、シリアルナンバーで識別され、
番号以外に他の人とどう違うのか、自分自身に説明がつかなくなる。

あるいは、センセーショナルな出来事でないものは、
自分の身にあることとして認識することができなくなってしまう。

自分の物語は、決して手放さないよう、自分の手でしっかりと守っていかねばならない。

そして、そのためにしなくてはならない、まず一番のことは、
他の誰かの物語に、耳を傾けることなのだと思う。

2005年04月13日(水) 花ざかり
2004年04月13日(火) 阪神ファンじゃないのに道頓堀に飛び込んだ人



2006年04月12日(水)

本日は、都内某所で打ち合わせ。

夜の新橋赤坂界隈は、随分タクシーが増えている。
ドライバーは、ついこの間まで嘆き節ばかり吐いていたが、
もうすっかり横柄な態度をとり戻している。

景気の変動が人の心にもたらす影響は、不思議なものだと思う。
10年で変わるような風ひとつで、舞い上がりもすれば荒んだりする。
それも集団で。

市場経済の中でいつしか我々にしみついてしまう、
「お金がないということは不幸だ」という通念が、
正味の経済情勢以外にもたらす社会的影響は大きいなと思う。

2004年04月12日(月) マンガさん



2006年04月10日(月) TGF-βとの嫌な出会い

慢性疲労症候群なる症状について特集する、Newtonの記事。
活動量の低下がわかるアクティグラフなるものがあるのらしい。

これはどうも、自分のことではないだろうか。

仕事の効率が悪いのは怠けるからで、それは性根のせいと思っていたが、
思えばあのdullな感じは、性根などで片のつく管理可能なものではない。

この慢性疲労症候群なるトリツカレは、生活ストレスと感染症が原因で、
免疫物質TGF-βを大量放出することで起きるのだそうである。

自分の身体にぼんやりと起きている不具合と、
専門家が「病的症状」と定義したものが同じではないかという、
その推察が確実になっていく時の、気味悪さ。

トランプでババを引いた瞬間のような、この嫌な出会いは、初めてではないが。

2005年04月10日(日) 団塊の国
2004年04月10日(土) 



2006年04月09日(日)

HとAと3人で、岩場に行く。

Hのクライミングを下からビレイするのは久しぶり。
相変わらず嬉しそうに登るHを、Aは下からもじもじと眺めている。

あと4ヶ月でインドへ行ってしまって、今度は
帰ってくるかもわからないなあと思う。

そういう気持ちがあるのに止めもしない私は、
そのうちAからひどく責められることになるかもしれない。

2005年04月09日(土) 不審者侵入
2004年04月09日(金) somebody laughing inside



2006年04月08日(土)

明日は雪になるかもしれない、という予報。
せっかく咲いた春の花も、また試練である。

「詐欺だ!」と、白梅がふくれっ面。
「訴えるべきだ!」と、木蓮が叫ぶ。
「この損失は甚大である!」ソメイヨシノが怒りを顕にする。

「そんな人間みたいな言いようはやめなさいよ」と、
ヒメオドリコソウがたしなめる。

2004年04月08日(木) 無言の圧力



2006年04月05日(水) 時差ぼけ

家に戻る。

ほら梅が咲いた、だの、コブシが咲きそうだだのとHが言うが、
既に満開の桜を堪能しているので、どうにも受けつけが悪い。

これは、大変に残念なことである。

2004年04月05日(月) 病名告知



2006年04月04日(火) 金色のリボン

子産み間もない、Sちゃん宅を訪問。

私達は、親から生まれ、世代で生きていくのである。
だから同時代を共有する友達というのは、
親子の縦糸と同じぐらい、自分を支える大切な横糸と思っている。

その上、親や育ちを共にすることができる兄弟姉妹があったなら、
それは本当に力強く豊かで、素晴らしいことだと思う。

そんな風に思うのは、
Sちゃんの二人の子どもたちの間には、
間違いなく、二人だけの、金色のリボンができていて、
これは世界で一番綺麗なリボンだなあと思ったからなんである。

2005年04月04日(月) 咲き遅れても咲く
2004年04月04日(日) 春の引き潮



2006年04月03日(月) テーブルマナー

都内某所で仕事。

でかけた先で偶然再会したNさんから、色々学ぶ。

私達を時に失望させるものは、
政策にしても法律にしても、日常の中においても「理念」の存在感がうすっぺらであることで、

ネクタイの本数が多い会議であればあるほど、
−ネクタイの本数が少ない会議には、理論の存在感が希薄、と書き添えるとしても−
議論のテーブルにそうした要素を持ち込むことは、嫌がられる。

そんな気がしている。

そうした日本にあっても、堂々とクールに、
理念の−それも欧州直輸入のやつを−
あるべき位置や正しい活用方法をテーブルにのせてくれるNさんに、
私は、ここだけの話、惚れ惚れしたんである。

2005年04月03日(日) 潜在職能
2004年04月03日(土) 第一声



2006年04月02日(日) 口を閉じ 友と離れよ そして踊れ

2003年に制作されたドキュメント映画「ベルリンフィルと子どもたち」。
もっとも、原題の「RYHTHM IS IT!」の方が、内容に忠実である。

「ベルリンフィルの音楽は、一部の人たちの贅沢品として存在したくはない。」
サイモン・ラトル氏はインタビューで言う。
「音楽にはもっと可能性がある。意味を持ち、人々の役にも立てる」とも。

一流 −否− 超一流の音楽をあなたの人生に伴うことは、ちっとも贅沢なことではない。
どうもサイモン氏が言うのはそういうことらしいが、
たとえ芸術監督直々にそう言われても、正直少々戸惑う。
その中にヨーロッパ以外の人間は含まれるのでしょうか、と質問したくなる。



その戸惑いを、映画の中の子どもたちは、仲間との薄ら笑いで表す。
一流の楽団と一緒に、聴いたこともない「春の祭典」を踊るなど、
社会の底辺に近いコミュニティで育ってきた自分達の過去と未来には
無関係であり、不相応なプロジェクトであると。

そういうところから、このドキュメンタリーは始まるのである。


振付師のロイスマンが、騒がしい子ども達に言う。
「お喋りをやめよう。踊りに必要なエネルギーが口から出ていってしまう。」
「友達と離れなさい。自分と向き合うことを恐れてはいけない。」
「ふざけて茶化しているのは、自分に自信がない証拠ですよ。」

大丈夫自信をもちなさい、と、ロイスマンの指導は続く。
仲間と息を合わせ、時に身体をあずけ、子ども達も変わっていく。

踊りというのは、自己表現の原始的な衝動であり、
自分の力で、自分の存在をかけがえなく大切に思うための、
極めて明確でシンプルな道筋なのだ。


そして、サイモン・ラトル氏の指揮。
子ども達を思い、踊りを見て、曲を仕上げていく。
一流のダンサーではなく、様々な背景をもつ子どもたちの、
その背丈や袖丈にぴったりと合うよう、一流の曲をあつらえていく。


自分の人生を一流にしたいと願うことは、全然間違っていない。
そしてそれは、どんなかたちであれ、そうすることができる。

2005年04月02日(土) 
2004年04月02日(金) 現代人に「ウサギと亀」は創れるか



2006年04月01日(土) すすめボート

Aを連れて、桜が満開の公園でボート遊び。
ボートこぎは得意中の得意、と自負している。

小さい池の中を、自由自在にすすむ。
オールは静かに水面をすくいとり、望む方へと舟を押し出す。

Aはすっかりご機嫌で舳先に座り、自作の歌など歌っては、
池の端で微笑む知らないおばあさんへ向かって、手を振ったりしてみせる。

足漕ぎの動きの悪いボート達も、スイスイとかわしてすすむ。
春の暖かいお休みの日の、ちょっとした腕自慢。

2005年04月01日(金) fool
2004年04月01日(木) 


 < 過去   INDEX  未来 >


ipa [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加