2004年04月02日(金) |
現代人に「ウサギと亀」は創れるか |
隣に住む家主のマダムK −親愛の情を込めてこっそりこう呼んでいる− は、気さくな女性で、時々訪れると茶飲み話に誘ってくれる。
もっぱら畑仕事に追われる話や、諸々の世間話を聞かされるのだが、 時々目撃する野生動物(地方都市といっても森に囲まれたこの辺りでは、 まれに猿とかイノシシ、ハクビシン、の類が出没する)に話が及ぶと、 「今日どこそこで○○と行き会った」と表現する。
マダムKだけでなく、この辺りのお年寄りはみなそう言う。 そして何をしていたとかどんな風だったかということを、 とてもよく見て話すのである。
「伊那谷の動物たち」という本には、半世紀前の南アルプス山麓で、 村の猟師や村人達が動物達と深くかかわりながら生活している様が 書いてある。
人間と動物達は、殺したり殺されたり、騙しあいをしたり、 子育てを学んだり食べ物を共有して、一緒に生活している。
「産後の肥立ちが悪い女性には、猿の胎児を焼いて食べさせた」と書かれた 次のタイトルで、「猿の温情熱い子育て」について書かれていたりする そのふり幅に、現代都市生活者の私は驚かされる。
前出の、マダムKの「行き会う」という言葉の中には、 そうした動物との豊かな交流の名残を感じるので、 この言い回しを初めて聞いた時には、 軽い感動をおぼえ、すっかり気に入ってしまった。
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絶滅の危機に瀕しているトンボを救おうとか、その類の自然保護論に どうも心から賛同できないのは、人間が高見から見下ろす(又は下から仰ぎ見る)ような姿勢だ。 同じ理由で、昨今流行の環境教育もちょっとアレルギーがある。
何故自然を大切にしなければならないか、生物多様性が重要なのか。 もうそろそろ、その理由に「人間の心の豊かさや心の安定に欠かせないから」ということを現実的な問題として入れて欲しいと思うのだ。
ペットブームやアニマルセラピーなどの現象から、 本質的な部分について、もう一歩掘り下げるとよいと思うのだ。
というようなことを考えていた矢先、 「自然環境共生技術フォーラム」という団体の理事をつとめる 鷲谷いずみ氏が、ニューズレターにこのような巻頭言を寄せていた。
「日本列島に住む人々は太古の昔から、その自然の移ろいやすさをよく理解していたようだ。しかし、人々は、そこに諸行無常だけをみていたのではない。常に同じ場所が瀬であり淵であることはなくとも、川には常に瀬と淵の繰り返しがある。狭い範囲で見ると変化が大きくとも広い視野で見れば一定である。また、一見無常のようでも、変化のあり方が有常であれば、人々は自然に信頼を寄せ、それに頼って暮らしを立て、また心のよりどころにすることもできる。…略」
また氏は同文の中で、花とその花粉を運ぶ昆虫との関係など、互いに他を必要とする関係を「共生的生物間相互作用」といい、失われたそれを取り戻すことで、豊かな生態系を蘇らせたい、と述べている。
半世紀前の山村と同じようにとはいかないまでも、 人と動物の共生的生物間相互作用も、 いつか取り戻すことができたら、と思う。
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変則的な生活のせいで、 すっかり寝起きの機嫌が悪くなったAを、 ここのところ毎朝、毛布にくるんでオモテに出る。
這い出てきた春先の虫を見てなぐさめられ、 ホトトギスの鳴き声で気持ちを立て直す。 十分もしてAはすっかり元気になり、朝食の食卓へ向かう。
大人の家族がもう1人いるぐらい、助かっている。
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