2004年04月09日(金) |
somebody laughing inside |
早朝の新聞で事態を知る。 コーヒーをすすりながら、Hとアレコレ談義。
マスコミは、 混乱を極めることが分かりきっていた会議の、 議事録づくりばかり、上手になっている。
国という機関は、大量の人・モノ・金を動かしていて、 その重い足かせのために、民間では信じられないほどフットワークが重い。
なにしろ「考えを改める」ということが非常に不得意である。 一人一人の職員は間違ったことを認めていても、 組織として間違っていたと表明することを本当に嫌う。 これほどの大立ち回りであれば、なおさらなのだ。
小泉総理はそのうち、持論の「テロに屈しない」を押し通すため、 「自分で行ったんだから、つかまったら国の負担にならぬよう、自害せよ」と 言い出す可能性だって、十分考えられる。
いずれにしても、 国民には、戦争に巻き込まれない権利というのもあるはずだ。
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領地を侵略して植民地政策をとるという19世紀のスタイルは、 宗主国にはコストパフォーマンスが悪いので 今は「経済」というカードに切り替えられている。
いつのまにかこっそりやることができるし、 食いつぶす国の環境や教育、貧困の問題なんかに 関わらなくてすむからだ。
だからこれは、誰が誰に危害を加えているのか、 よほどよくウォッチングしていないとわからない。 彼らは「平和」とか「安全」とか「国家」「宗教」という名でもって、 周到に、入念に、化粧をほどこしている。
彼らによってひどく人生を損なわれている人も、 何が一体そうさせているのか、図ることが難しい。 もやもやとしたあきらめと、怒りと、悲しみだけが残る。
もうこんな馬鹿なことはやめにしようと思ったところで、 「セリ場」の存在をつかみ、「賭場」を閉鎖させなければ、 ゲームは終わらない。 とにかく、19世紀と同じ頭で平和を考えていてはだめなのだ。
この風で笑う、桶屋は誰だ。
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