仕事を休み、東奔西走。 夏のお楽しみの、色々な仕込だ。 人と会い、段取りを付け、工程を組む。
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子どもの虐待に関する調査。
虐待をする母親を形容するに、何故か「馬鹿な」となるのは、 そういう非人道的な行為をするのは無知で無教養だからに違いない、 という理解なのだろうか。 そうであれば、知的で教養がなければ母親にはなれないのだろうか。
虐待とか少子化を評価できるほどに、 今の社会は出産育児のメカニズムについて情報を共有できていない。 そんな中で虐待防止法なんか存在していいのか、 実はちょっと問題に感じている。
暴力は暴力として、子どもも大人も老人も、 また他人も家族も関係なく予防が図られ、 罪は罰せられなければいけないと思う。
少年法もそうであるが、犯罪自体に変な冠をつけるから 話がややこしくなるのだ。
WHOによる「出産科学技術についての勧告」という ヨーロッパ・アメリカ地域事務局が作成した勧告がある。
産む女性が満たされ、安らかになるための配慮や、 親子関係で最も重要な最初の出会いである出産に 配慮すべきことが書かれている。
例えば「健康な赤ちゃんは母親の元にいなければならない。 健康な赤ちゃんの観察のために母親と離れる正当な理由はない」など。
WHOの西太平洋地域に属する日本には効力がない。また強制力もない。 この勧告を満たしていると認定された病院・医院は、日本で30に満たない。 求める女性は多い。そして残念ながら認めない医療関係者も多い。
しかし、幸福な産後感と、育児への自信や愛情との関係は、 国の研究機関でも追跡調査が行われ始めている。
普通に社会に暮らす大人は忙しくてこういうことに考えが及ばないし、 科学的な知見や政策にあまり関心もないけれど、 虐待という事件の悲惨さは理解できるので、とりあえず 首謀者である母親を「無知で無教養な」という安易なカテゴリに納めて安心したいのだろう。 でもそれでは、スケープゴートというものだ。
誕生とは、どういう現象なのか。 親子とは、一体どういうつながりなのか。 そして、親が子どもを殺すということは一体どういうことなのか。 少し勇気がいるが、悲惨な事件の向こうにあるものに対峙する必要があるのだと思う。
この世の全ての人が誰かの子どもとして存在しており、 また同時に親であるかもしれないのだから、 誕生学とは一考に価するテーマなのである。
可哀想なのは、 恐怖と苦しみの中で短い生涯を遂げた子どもだけではない。 現代の鬼子母神は、自分の子どもと知りつつこれを喰らって 涙を流すのである。
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