浅間日記

2005年04月25日(月) 都市の影

東大阪市の公園で4歳の子どもを殴り重傷を負わせた17歳の少年は、
生命がつきる様を見たかったのらしい。

どうしようもなくひどい出来事であり、
同時にその動機はあまりに素朴すぎる。

法的には言うまでもなく相応の重罪であるだろう。
その一方で、このことは犯罪とすら言えない稚拙なものだとも感じる。
幼い子どもが、手にした花や虫を握りつぶして
その感触を確かめているような、未成熟な行為だ。



命をいじくってどうなるか確かめたいという「遊び」は存在する。
昔の人なら、カエルの腹に爆竹を入れたとか、
結構残虐な遊びを子どものころにしている。
そこまでいかなくても、いたずらに花や葉をむしったり、
アリの行列を踏み潰したりするのも同じ遊びである。
もう少し言うと、クローン技術などの生命科学だって、
所詮その延長にあると私は思っている。



17歳の少年の「命の遊び」は、何故ヒトでなければいけなかったのか。
そこに命を感じる存在がヒトだけだったからではないかと、私は推察する。

都市というものは、人間に機能的な空間として編み出された最大の発明品だ。
環境を整理整頓し、自然の未知数の危険や不便不快を解決し、社会基盤を整えるわけである。
これがないと人間社会は成立しないか、社会経済構造の質が低下することは間違いない。
しかしその一方で、ヒトしか生命体が存在しない都市空間には、独特の閉塞感がある。
その閉塞感が、ヒトがヒトの命をもて遊ぶ、という行為に至らしめている。ありふれた論旨かもしれないが、やはりそう思ってしまう。



殺しても殺しても湧いてくる害虫の駆除とか、
間引きが必要なスギやヒノキを切り倒すとか、
一雨降ればまたもとどおりの畑の雑草抜きとか、
そういうことをやっていれば、
そうそうヒトの命を奪うなどということは思いつかなくなる。

都市生活に閉塞感を感じる10代へ、5月の連休にお勧めのアクティビティである。
気楽に言っているようだけれど、真剣である。
さもないと、こういう事件はまた雨後の筍のように発生するからだ。

2004年04月25日(日) 


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