東大阪市の公園で4歳の子どもを殴り重傷を負わせた17歳の少年は、 生命がつきる様を見たかったのらしい。
どうしようもなくひどい出来事であり、 同時にその動機はあまりに素朴すぎる。
法的には言うまでもなく相応の重罪であるだろう。 その一方で、このことは犯罪とすら言えない稚拙なものだとも感じる。 幼い子どもが、手にした花や虫を握りつぶして その感触を確かめているような、未成熟な行為だ。
*
命をいじくってどうなるか確かめたいという「遊び」は存在する。 昔の人なら、カエルの腹に爆竹を入れたとか、 結構残虐な遊びを子どものころにしている。 そこまでいかなくても、いたずらに花や葉をむしったり、 アリの行列を踏み潰したりするのも同じ遊びである。 もう少し言うと、クローン技術などの生命科学だって、 所詮その延長にあると私は思っている。
*
17歳の少年の「命の遊び」は、何故ヒトでなければいけなかったのか。 そこに命を感じる存在がヒトだけだったからではないかと、私は推察する。
都市というものは、人間に機能的な空間として編み出された最大の発明品だ。 環境を整理整頓し、自然の未知数の危険や不便不快を解決し、社会基盤を整えるわけである。 これがないと人間社会は成立しないか、社会経済構造の質が低下することは間違いない。 しかしその一方で、ヒトしか生命体が存在しない都市空間には、独特の閉塞感がある。 その閉塞感が、ヒトがヒトの命をもて遊ぶ、という行為に至らしめている。ありふれた論旨かもしれないが、やはりそう思ってしまう。
*
殺しても殺しても湧いてくる害虫の駆除とか、 間引きが必要なスギやヒノキを切り倒すとか、 一雨降ればまたもとどおりの畑の雑草抜きとか、 そういうことをやっていれば、 そうそうヒトの命を奪うなどということは思いつかなくなる。
都市生活に閉塞感を感じる10代へ、5月の連休にお勧めのアクティビティである。 気楽に言っているようだけれど、真剣である。 さもないと、こういう事件はまた雨後の筍のように発生するからだ。
2004年04月25日(日)
|