浅間日記

2004年04月16日(金) 記憶の花

この辺りの人は、満開の桜に執着しない。
次から次へ、花が咲き乱れていくからだ。
彩の鮮やかなところでは、桃、木蓮、ボケ、芝桜、蒲公英、躑躅。
そして地味ではあるが心和ませる菫、姫踊子草、フグリ達。
山あいでは、山桜がぽつぽつと点景を添えている。

日射量が全国トップクラスで多いというこの土地では、
花達は、それはそれは鮮やかに開花する。赤い花はきちんと赤く、
桃色のそれは、遺伝子に織り込まれた設計に過不足なく、
正しく桃色に発色する。

「日本人が忘れっぽい気風なのは、四季の変化があるからだ」という話は、
忘れっぽいのは愚かしい特性だという意味を言下に含ませて、
よく言われることである。

春の柔らかな日差しと咲き乱れる花のなかに居て、
ああそれは仕方がないことだ、と観念する。
モノトーンの氷の世界からこの色彩溢れる世界への移行は、
同じ人間に別の感性や思考をもたせる力がある。

この溢れる太陽の光の前で、人間の意志や記憶などささやかなものだ。
太陽神に挑んで焼かれるイカロスじゃないかぎり、
春には春の考え、冬には冬の心構え、秋には秋の思い、
夏には夏の意志という順応方法が存在しても仕方なかろう。

そして少し弁解しておくと、
日本人というのは、出来事を忘れているのではなくて、
考えを一度封印しているだけなのだと思う。

そもそも人間は、課題が深刻で根本的であるほど、
長く考え、思い続けることに精神が耐えられない。

僧侶や哲学者のような、考え続けることが使命である人ならまだしも、
普通の人が日常生活を維持しながら考え続けるには、
休息と思考とのバランスが必要である。

またそうした休息は、よりよい思考のためにも必要である。
筋肉トレーニングがそうであるように。

おそらく、
同じ季節が巡って来た時、季節の空気や色や匂いとともに
一年前、十年前、五十年前の出来事を記憶の納戸から引き出し、
虫干しするように検証するのだ。
夏の時期にだけ、戦争や原爆や平和のことを考えていた(過去形であるが)のも、
きっとそういった理由なのだと思う。

そのような四季のリズムと共に生きることを許されない現代社会で
人々が何かを思いつめたり心を病んだりするのは、
誰が悪いとか劣っているということではなく、
これはもう仕方がないことなのだ。

何世代かかけて、新しい休息と思考のリズムを作っていくしかないのである。


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