ツイッターが大流行している。つぶやくのだそうである。
手を変え品を変え、ネットサービスは行く。 ブログも結構、掲示板も結構である。
しかしこのツイッターというのは、どうも嫌だなあと思う。 どこのアメリカ人が命名したのかしらないが、「つぶやき」という和名が、まったくよくない。
つぶやきというのは、対象者不在の言葉なのである。 何万人もの人が、対象不在のまま不特定多数へつぶやいていると思うと、気持ちが悪くて仕方がない。
一言メッセージとか、もうどうしようもなく何の工夫もないような名前の方がまだましだ。
2007年04月20日(金) 2006年04月20日(木) 20年前の理不尽、現在の理不尽 2005年04月20日(水) クールダウン 2004年04月20日(火) 現代鬼子母神
2010年04月19日(月) |
あなたの言うことはまったく事実だと思うが、別に何とも思わない |
日帰り上京。 年度のはじめというのは、何かと参集する機会が多いのである。
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講演会と懇親会という二部構成の集まり。 カナダ人ジャーナリストの、なんだか変な話。 メモをとってはいけないという制限付きである。
密談じゃあるまいし、そんな講演会があるか。 招へいした事務局を不思議に思う。
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米国では6000近いパテントが安全保障の名目でつぶされて、そのために環境技術は半世紀遅れたとか、
世界の人口を減らすため、洗剤や化粧品や食糧へ故意に生殖毒となる物質を混入させているとか、
資本を国内留保する政策をとった歴代の総理大臣はみな抹殺されたとか、
何の客観的なデータも明らかにされないまま、びっくりするような話が延々と続く。怪しいんである。 場所が違ったら、身を乗り出して耳を傾ける人もいるだろうけれど、 申し訳ないが、今ここはそうした人間の集いではないんです、と言いたくなる。
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世界のしくみが大きく変わろうとしていることも、 陰で得をして笑っている誰かがいることも、 現代人の心身はもう細胞レベルでどこかおかしいということも、 その結果、社会が継続できなくなるほどの重大な影響が生じていることも、 そんなこと、ジャーナリストじゃなくたって、わかっている。
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自分が喧伝して世の中を変えていかないと、というのは、 ジャーナリストのモチベーションの一つなのだろう。
けれども、伝えたい事実が大きければ大きいほど、それに対する自分の意思とセットでアウトプットされなければ、 ただ衝撃的事実によって人々にストレスを与えるだけなのである。
2007年04月19日(木) 2006年04月19日(水) 2004年04月19日(月) 駄考の日
小雪が舞っている。
花冷え、という言葉さえもう相応しくないようなこの時期の、寒さである。 風邪で寒気のする身体を丸めながら、慰めにラジオをつけ、PCに向かう。
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ラジオから「浜松の楽器博物館が・・・」と聞こえて手を止めた。 館長による施設の紹介がされている。
楽器博物館は、もう一度訪れたいと思いながら実現できずにいる、目標未達成の場所だ。
楽器メーカー城下町としての誇りが凝縮されたようなこの施設にはものすごい数の古今東西の楽器が展示されていて、中でもピアノなどは、素人の私にはまったく違いのわからないものが50台ぐらいあるから、たまげてしまった。
その他にも、日本や、アフリカやアジアなどの民族楽器も素晴らしい装飾とともに欧州の楽器に決して引けをとらない。
こうした世界中の楽器を間近にみながら総合すると、道具を使う生き物である人類の最大の福音は、楽器を作れることではないか、というやや大仰な気持ちにさえなるのだ。
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仕事の手を止めてHPを覗きにいくと、最近のイベントでは展示してある楽器を使ったコンサートが年に数回行われているらしい。ダイジェスト版をネットでも見ることができるが、とても楽しそうだ。
ああ、浜松市民になりたい。
2007年04月16日(月) 尊厳 2006年04月16日(日) 包帯クラブのOB活動 2005年04月16日(土) 男シンデレラ 2004年04月16日(金) 記憶の花
2010年04月13日(火) |
投資する者が口をはさむことは |
映画監督をしている夢を見て、覚めた。
たぶん、ゴッドファーザーをフランシスコッポラの解説版で見たせいだろう。
メイキングなどというのは蛇足でしかない悪趣味なものだと思っているが、映像と同時進行で説明されれば、相当に興味深く、無視できないものである。
特に、第1作で、監督の妹、母親、そして当時赤ん坊だった娘まで登場させているのには、驚いたものである。ファミリーの物語は家内労働によって作られた、というわけである。
また、キャスティングや予算について配給会社と相当もめながら制作した苦労話などは、うらみつらみと言ってもいいような口調で語っている。
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古今東西、あらゆる分野において、投資する者が口をはさむことはきっと、 本質を追求したいクリエーターを悩ませ、苛立たせたことだろう。 メディチ家だって、きっとそうだったろうとおもう。
けれども、嘆き節に始終せず、厭世的にならず、上手に適応しながら自己実現してゆく、その折り合いの積み重ねが、結局のところ、後世に引き継がれる芸術文化遺産だったりするのかもしれない。
私たちは、自分が生れ落ちた時代背景を与条件として生きるしかないのだ。
2009年04月13日(月) シェア 2006年04月13日(木) ニュースと文脈 2005年04月13日(水) 花ざかり 2004年04月13日(火) 阪神ファンじゃないのに道頓堀に飛び込んだ人
北関東で仕事。
再びこの美しい田園地帯を訪れるチャンスに恵まれたのは、まったく幸せなことだ。
人は、何かの運命のように、風景の美しさに心がふるえるような思いをすることがある。
私の場合、この土地は間違いなくそうした場所なのだ。
2009年04月12日(日) 聴く阿呆 2006年04月12日(水) 2004年04月12日(月) マンガさん
芸術文化ウイーク、であった。
別に美術館めぐりやコンサートのはしごをしたわけではなく、 芸術家の奔放な様子を参照しながら、生きていくことについて少し違う角度から考えた、と言うことである。
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自分の物語から一歩も外へ出ない人がいれば、
自分の物語を一行ももてない人がいる。
この極端な運命のどちらか一つを背負わなければいけないとしたら、 激痛を伴うような生き方かもしれないけれど、私は前者をとると思う。 今の私の流行からいくと、名づけて「激辛草間彌生コース」である。
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自分の物語をもてないということは、無痛の人生であり、機械と一緒である。 たった一度の人生がそれでは面白くない。
2009年04月09日(木) 骨粗しょう症の街 2006年04月09日(日) 2005年04月09日(土) 不審者侵入 2004年04月09日(金) somebody laughing inside
数日前にみた草間彌生の変な映像が、頭にこびりついている。 彼女はNYで成功した現代アートの大御所といわれているが、私にはあまり理解できない。
* ピンクのおかっぱ頭、赤い水玉のワンピースといういでたちの草間彌生が、 対象物(人物)の全身へ、ピンクとか黄色の水玉シールをぺたぺたと貼り付けていく。 その周囲を、全身水玉のダンサーが輪になって踊っている。 貼付け作業を完了した草間彌生と、全身水玉にされた人物は、 手をつないでダンサーと一緒に踊っている。
というのが件の映像で、美術館の売店の端のTVに映されていた。 正直言って、奇妙奇天烈、奇奇怪怪、の部類である。
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これは多分、自分が社会の規範とか組織の要領にあわせて日頃活動している反動なのだろう、と自己分析した。
この国において、子どもは学校教育で、大人は仕事を通して、個性−自分の物語と言ってもいい−を失い、社会に標準化されていくのである。
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社会秩序によって完璧に標準化された人−というのがいればだが−を北極とすれば、 草間さんと言う人は間違いなく南極である。南緯何度などという曖昧な境地ではない。 だから私は、彼女の作品を心地よいとは思えないし、理解もしがたい。
ただ彼女の、「誰とも接点をもたないけれど、私の世界はこれ」という 極地からのかなり強烈な情報発信は、人の−私の−心を激しくゆさぶったのである。
私は「私の世界はこれ」と言わなくなってどれぐらいになるのだろう。
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人々に喜びと共感をもたらす芸術文化の曲がり角には、 他人と相容れることができない強烈な個性が膝を曲げて座っている。
芸術文化で最も大事な部分は、その存在なのではないかと思う。
2007年04月08日(日) 放棄狂 2006年04月08日(土) 2004年04月08日(木) 無言の圧力
思い立って突然に、幼馴染のKちゃんのところへ。
車と新幹線を乗り継いだ旅だけど、隣近所にいた頃のようにぷらっと出た。
幸せと困難が交互にやってくるような身の上話を聴く。 とにかく彼女に笑ってもらおうと、そればかり考える。
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誰も悪くないし、駄目じゃない。 それなのに、家族というのはガタが来る時がある。
心の病は、個人と社会の軋轢が起こす摩擦熱で、 家族という小舟は荒波に翻弄される。もちろん本人もその乗組員である。
そんな時こそ、子どもをかかえ、手に手をとりあって、 幸せを妨げるものから全力で逃げなければいけないのだが、 残念ながら初動体勢に少々遅れが出た。そんなところだ。
Kちゃんの手料理を家族と一緒に楽しみ、握手を交わして最終列車に乗る。
また来るから、いつでも会おうよと言葉にする。 誰も悪くないし、駄目じゃないからね、と念を押す。
2009年04月07日(火) 宿るべきところに宿り続けるもの 2007年04月07日(土) ここには神様がいたほうがいい 2004年04月07日(水) 愚民ちゃん
2010年04月05日(月) |
別れという名の出会い |
「…ともに暮らし学びあうことは愛のあるすばらしいことです。そして、離れていることには、きっと意味があるのでしょう。この経験が、見えない内側にある「しるし」を探すきっかけとなるかもしれません。別れの経験には、多くの深い気付きが隠されているかもしれません…」
定期的に送られてくる素敵なフリーペーパーの1ページに、こんなエッセイがあった。
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確かに縁を切り結んだ、という事実を浮かび上がらせるのが、別れである。 日常というのは、いちいちそんなことを考えたりしないからである。
そうだとすると、もう二度と会えない、という「別れの継続状態」は、一生共にいるということと同じようにも思えてくる。
大切にしている懐かしい人について、もう二度と会えないんだという気持ちを時々よび戻さずにいられないのは、まだ自分と共にいることを確認したいのかもしれない。
2009年04月05日(日) 国家の癖 2007年04月05日(木) ローソクと絵札 2006年04月05日(水) 時差ぼけ 2004年04月05日(月) 病名告知
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