2009年04月07日(火) |
宿るべきところに宿り続けるもの |
万物が息を吹き返し、今年度の生命活動が始まった。 コブシが咲き、沈丁花が甘い香りをだたよわせ、 桜は三分咲きとなって、皆のお楽しみである。
信州の風土に身をゆだねてもう何年になるだろうか。 生命というのは宿るべきところに宿り続け、 移り変わるべきものは移り変わっていく。
赤ん坊は幼児になった。 Aは少年少女へ成長した。
ときおり、赤ん坊の頃のAを再びこの腕に抱きたいという衝動にかられる。 往時の写真などみて、かなわぬ思いをなぐさめる。
実際、我が子に宿っていた赤子や幼児の面差しを、 私は二度と再び、この子達の中に見ることはできないのである。
不可逆的なその変化は、もう二度と会えない別れの一種で、 私はそれに死別に近い感情を寄せる。
人の一生を微分解析してゆくと、接線の傾きは一生に一度きりのものであり、 人間関係とはそんな連続する小さな別離の中にあるのだなと思う。
人間の体細胞は二年で全て入れ替わるのだから、当然至極でしょうと、養老先生あたりに言われそうである。しかし、昨今の「科学的エビデンス付き哲学」は、私にはまったく不向きである。
体細胞など知る何百年も前から、私たちは諸行無常を「わかって」いた。
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全ての人と人が緩やかに変化し、同じ人には二度と会えない。
けれども見渡せば、この冬産まれた赤ん坊の中に、 桜の枝をもってよちよち歩きをする幼子の中に、 我が子から旅立っていった幼い魂は生きている。
嬉しいではないか。
2007年04月07日(土) ここには神様がいたほうがいい 2004年04月07日(水) 愚民ちゃん
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