よれよれになって家路を辿る。 道行の伴に、ジョン・アーヴィングの「第四の手」。
「小さな悲しみをセンセーショナルに取り上げておいて、 その根底をなす文脈、世界の末期症状というべきものは隠したままである」
主人公のパトリックが、アメリカのテレビニュースを批判するくだり。 この言葉に前後して、センセーショナルなニュースの例が山ほどでてくる。
そうした味付けの濃い取材指示を、パトリックは片端から断り、 理解者を求めて、ニュース分析番組の提言を打診しはじめる。
「…さまざまな事情を織り込むのは手間がかかります。テレビで最大の効果をあげるのは手間のかからない話です。災害はセンセーショナルであるだけでなく、きわめて性急に発生し、とくにテレビでは性急であることが効果的なのです。もちろん、ここで効果というのは市場原理からの議論であって、ニュース報道のあるべき姿であるとは限りません。」
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根底をなす文脈の欠落。 ニュースだけではない。
よほど気をつけないと、自分のまわりから文脈−自分だけの事情みたいなもの−が、溶脱していく。
気がつけば、シリアルナンバーで識別され、 番号以外に他の人とどう違うのか、自分自身に説明がつかなくなる。
あるいは、センセーショナルな出来事でないものは、 自分の身にあることとして認識することができなくなってしまう。
自分の物語は、決して手放さないよう、自分の手でしっかりと守っていかねばならない。
そして、そのためにしなくてはならない、まず一番のことは、 他の誰かの物語に、耳を傾けることなのだと思う。
2005年04月13日(水) 花ざかり 2004年04月13日(火) 阪神ファンじゃないのに道頓堀に飛び込んだ人
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