無責任賛歌
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2005年09月23日(金) |
次回公演、始動・・・かな?/DVD『トニー滝谷』 |
三連休の第一日。 まとまって台本を書けるのが今日明日くらいしかないので、ひたすらパソコンに向かう。いつもなら、現実に芝居を打てるまではタイトルも中身も伏せておくのだが、今回はいささか勝手が違う。何たってp.p.p.劇団メンバーが殆ど出演しないという、前代未聞な事態に陥っているのだ。 全くみんながみんな「裏方しかしたくない」なんて劇団があるものか、というよりはよくここまでこんな劇団が持ってたもんだと思うのだが、やる気のなさをいちいちあげつらったって仕方がないのである。「ショー・マスト・ゴー・オン」であって、一度立てた企画をそんなに簡単に流すわけにはいかない。だいたい製作のしげ自体、やる気があるのかないのか分からず、いつものごとく頼りない限りであるのは、キャスト募集を本気でやってる気配がないからだ。知り合いに声かける程度で人がそんなに集まってたまるか。 しようがないので、執筆中の脚本の一端はここでご紹介することにしたい。ご興味のある方は男女を問わず、私なり、劇団ホームページなりにご連絡を入れていただけると嬉しいのである。
タイトルは『デモクラシーの拾弐人』(仮題)。 レジナルド・ローズの戯曲『十二人の怒れる男』はご存知の方も多いだろうが、日本では馴染みのない「陪審員劇」の傑作である。これを日本に持ってきたのが筒井康隆の『十二人の浮かれる男』や三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』であり、つまり和風「陪審員もの」は一つのジャンルとして成り立っていると言っていい。 これを大正デモクラシーの時代を舞台として、博多・中洲にある明治時代の建造物を残した「赤煉瓦文学館」をそのまま劇場として利用して芝居を打とう、という発想をしげが思いついたのが企画の始まりなのである。 舞台美術に関しては何しろ「本物」である。これくらい臨場感のある舞台はない。あとは台本の出来とキャスト次第、ということなのだが、いかんせん、p.p.p.の連中が殆どびびっちゃったおかげで、未だにキャストが全員決まらない。このままでは私まで出演しなければならない事態に陥りそうな気配なのだ。 もちろん台本ではこの基本設定以外にも様々な「仕掛け」を施している。現段階ではさすがにそこまで公開するわけにはいかないのだが、上手く仕上がればこれはもう間違いなく面白くなると断言できる。しかし、役者が集まらなければ全ては机上の空論に過ぎなくなるのだ。 福岡近辺にお住まいの方で、芝居に興味があって、土・日に比較的自由に動けて、来年三月ごろに暇を持て余している方なら、男女・年齢・経験を問わず誰でも結構です。一緒に舞台を作りましょう。 脚本は鋭意執筆中です(笑)。
台本ばかり根を詰めて書いていると、やはり息切れがしてくるので、時々ネットで先日の舞台、『イッセー尾形とフツーの人々』の感想を探してみる。 新宮版は評判が悪いものが多い。「所詮はシロウトの演技」との感想が目に付く。 それに反して、小倉版は意外なくらいに評判がよい。「シロウトとは思えない」なんて望外な好評すらあるほどである。 同じようにシロウト参加のワークショップであるのに、この差はいったい何なのだろうか? 一つヒントになるのは、小倉ワークショップに、新宮の人たちが参加して、ちょっとしたスケッチを演じて見せた時のことが参考になると思う。四日目、公演直前のことであるが、既に舞台装置が設置されて、最後のツメの演技が披露されていたときのことである。新宮での経験がきっかけになってお芝居に「目覚めた」のだろう、中年のお二人が小倉でも、と舞台に上がって「会話」を始めたのだが、これが全然面白くなかったのである。 それまで、私たちは森田さんから「会話をするな」と厳命されていた。「会話をすれば途端に芝居が安っぽくなる」と。「日常、親子が、夫婦が相手の言葉をちゃんと聞いてるかい?」そう仰って、「受け答えをするな、関係ないことを喋れ」と言われ続けていたのである。おかげで、「問題のあるカップル」は、女が「お金返して」と言い続けるのに対して、男の方は「今日さ、婆ちゃんちに行ったんだけどさ」と無関係な話を延々とし続けることになっていたのである。ここで「火曜日には返すから」なんて言っちゃ、そこには「何もなくなる」と森田さんは仰るのだ。「関係ない話をし続けるから、お客さんは二人の間に『何か』を感じるんだよ、想像するんだよ」と仰っていたのである。 新宮の二人の会話は、まさに「何にもない」会話だった。小倉で指示していたのとは違って、新宮では「会話」を許可していたのだろうか? 森田さんは、恐らくはワークショップを開いた街ごとに演出を変えている。新宮では「会話を行っても演劇が成り立つ」と判断したのかもしれない。となれば、小倉では「会話を成立させられない」と考えたということなのだろうか。小倉近辺の人間は常に心に隠し事やわだかまりを持ち、他人の言葉を聞かず、自己主張ばかりをし、その癖自分の気持ちを察してほしいと甘えているヤツラばかりだと考えたということなのだろうか。 仮にそうだとしても、出来上がった芝居は、小倉の方が断然面白かったと私は思う。飛び入りの新宮のお二人さんは、「小倉の芝居には合わないから」ということで、結局出演はできなかった。やり取りの間はよかったけれども、会話がどう発展して行くのか、「その先を見たい」という気にはさせられなかった。小倉では、芝居の上手な人であっても会話は禁止されていた。許されていたのは「相手に切り込む」ことだけである。シロウトの芝居が少しでも見るに耐えるものになっていたとすれば、森田さんが新宮と小倉とでは演出を変えたことに理由があるように思う。
そんなことを考えていたら、過去のワークショップ関係の日記も説明不足で言葉足らずな部分が多いように感じられて、いろいろ付け足すことになった。 アップした直後に読まれた方は、何行かずつではあるけれども、加筆した部分がありますのでオヒマがあればご参照ください
しげがマトモな食事を作らないので、だんだん気分が落ち込んでくる。スーパーで「エビマヨネーズの素」があったので、「これを買おうか?」と聞いたら、しげは「作ってくれると?」と目をきらきら輝かせて即答した。 私は別段、「家事は女がするもの」なんて考えちゃいないが、何か美味しい料理を食べようかと考えた時に、「私に作ってもらえるもの」と思い込むしげのその根性が嫌いだ。こいつには相手に「美味しいものを食べさせてあげたい」という心遣いが根っから欠けているのである。 私もせっかくの食材をインリン・オブ・ジョイトイのように無駄にしてほしくはないから、結局は「ああいいよ」とこたえることになるのだが、こういうことを引き受けていくと、うちの家事は全て私がしなければならなくなるのである。冗談じゃなくて、体調崩して仕事休むこともあるんだから、料理と洗濯と食事は必ず毎日してくれ。もう何十回その約束をしたか分からないが、約束した直後から、その約束は反古にされ続けているのである。 だから、身が持たないんだってば。
一日ゆっくり過ごして、映画を見たり本を読んだり。と言っても外出する余裕はないので映画はもっぱらケーブルテレビ。感想は全部書いてる余裕がないので簡単に。 CS日本映画専門チャンネルで映画『帝銀事件 死刑囚』。 平沢貞通役の信欣三は好きな役者さんで、どの映画でもあまりに自然な演技をされるものだから『砂の器』で言語学者を演じていた時には本職の人を連れてきたんじゃないかと思ったくらいである。この映画でも、裁判で「警察に自白を強要された」と証言するあたりが、淡々と悲壮感が感じられない喋り方をするものだから、かえって「裁判的」でリアルなんである。 続けて『社長道中記』『続社長道中記』。社長シリーズでも、こんな風に正続編になっているものは多いが、でもやっぱり筋立ての区別は付かないのである(笑)。これも見たことがあるのかないのか分からない。数年後にはやっぱり見たことがあるのかないのか分からなくなっているだろう。 『ドラえもん』、主題歌が変わるとか言ってたけど、まだ女子十二楽坊のままだった。 続けて『クレヨンしんちゃん』を流し見。もう感想書く余裕がない(笑)。
DVD『トニー滝谷』。 見に行きたくて行き損ねた映画は多いが、これはもう本当に劇場に見に行きたかった。昨日の日記では「トニー滝谷って名前はトニー谷から取ったんだろう」なんて書いたが、パンフレットによれば、原作者の村上春樹がハワイで見たTシャツに本当に「TONY TAKITANI」というロゴが書いてあったそうである。
あまり面白みのない無機質的なイラストを描く中年男のトニー滝谷が、若い女性に恋をして結婚する。ところが彼女はいい奥さんではあったが、買い物依存症で、連日のようにブランド物の衣服を買わなければ気がすまない性格だった。「少し買い物を控えないか」とトニーに言われた翌日、彼女は交通事故で死ぬ。 寂しさを紛らわそうと、トニーは一人の女性を秘書に雇い、彼女に「制服として妻の服を着てくれないか」と頼む。しかし彼女は、妻の遺した膨大な服を前に泣き崩れてしまう。 その後、トニーは父を失い、そして再び孤独になった。 これは、それだけの物語である。
この映画の魅力は、特典ディスクの方で市川準監督やトニー役のイッセー尾形さんが詳らかに語っているので、何かを付け加えるのは蛇足でしかないのだが、原作の現実の中に潜む歪んだ人間の心理が、市川監督の静謐な語りで、リアルとも非リアルとも断定しがたい奇妙な味を醸し出し、一種心理ホラーのような様相すら生み出していると思う。 「トニー滝谷の本名は、本当にトニー滝谷と言った」。 ナレーションがナレーションとしてのみ語られるのであれば、それはただ映像に付けられた「解説」でしかない。ところがそのナレーションはしばしば唐突に、登場人物たちの口を借りて語られる。演劇ではよく行われる手法であるが、映画でこれを行うと、それまでリアルであった映像が途端に一つの「象徴画」と化すのだ。 「象徴」とは即ち、映画の中だけだった物語が、我々観客の心の中に投げ出される瞬間である。我々はそれが「セリフ」ではないことを知っている。本当に人間は、脈絡もなく「ナレーションを語る」ことなどはないからだ。だからそのとき、その「セリフならざるセリフ」の意味が何なのかを考えざるをえない。そして、全ての言葉の陰に、人間が宿命的に持っている「孤独」があることに気づくのである。 人はみな、孤独から孤独に帰るだけだ。映画の中のイッセーさんは、本当に爽やかで幸せな表情と、暗く沈鬱な表情との間を揺らめき続けるが、その表情すらも一つの「象徴」として、我々の心に問い掛けを続けている。あなたは本当の孤独に耐えることができるのですか? と。 文学と映画の、一つの美しい結合がここにはある。
読んだ本、夏目房之介『おじさん入門』(イースト・プレス)。 このエッセイ集を読むまで全然知らなかったのだが、夏目房之介さんは昨年、離婚されていたのだった。三十年連れ添った相方との「熟年離婚」というやつだが、どんなに平穏に見える家庭であっても、そこには当人たちにとっては他人には計り知れない悩みや苦労があるわけで、それをそんな決まりきった陳腐な惹句で括られてしまうことを思うと、何とも悲しくて仕方がない。 離婚の理由についてはあまり詳しくは書かれていないのだが、それこそ詮索したところで仕方のないことだろう。そういうことは後世の「夏目房之介研究家」がやってくれることで、フツーの読者をそれを待つか、あるいは待たなくったっていいのである。。夏目さんは短く「僕の不実や互いのあつれき」と書くだけであるが、それで充分だろう。 タイトルの『おじさん入門』というのは、そんな出来事も含めて、「人生を知ろうよ」ってことなんだと思う。そのためには自分がどれだけものを知らなかったのかを知ろうとしなきゃならない。つか、自分に「分かってること」なんて殆どないってことに気が付かなきゃならないのだ。 夏目さんは、長年、奥さんが「料理が好き」なんだと思い込んでいた。それが、別れる少し前に、奥さんから「義務感だけで作っていた」と告白されることになる。けれど、奥さんはそのことに気付いても、ずっと料理を作り続けたのである。それがなぜかは奥さんにも夏目さんにも言葉では説明できない。それが「人生の機微」というやつだと夏目さんは言う。 人は確かに、人生(自分のも他人のも)に対して釈然としないものを感じることは多いし、納得できる理由を求めようとはする。けれど答えなんて得られるわけではないのだ。得られたと思えたとしても、客観的にはただの錯覚であることも多い。人と人とが、親子が、恋人同士が、友達同士が、仲間が、なぜお互いに付きあっていられるかは、常に「理屈を越えたところ」にその理由があるのである。逆にそこに理由を求めようとすれば、かえって間柄が崩壊してしまうこともある。「こいつのことなら俺が一番よく分かっている」、そんな風に「理解」してしまった時から、崩壊は始まると言っていいだろう。
本の感想からちょっと離れて。 私としげはよく離婚話をする。離婚を言い出すのはいつもしげだ。 「離婚しようか」 「いいよ、離婚届持っておいで」 「で、次の日結婚しよう」 「だったら書類のムダじゃんか」 多分、私もしげも、この時「離婚しよう」と言いあっている時は本気でそう思って口にしているのだ。別れたあと、二人がどんな気持ちになるか、それもリアルに想像して、それでも「別れた方がいいかもしれない」と考えてそう言う。 一緒にいても辛いばかりで、けれども別れたらどんなに寂しいか分からない。理屈の天秤でどちらがいいのか測れることではない。だからとりあえず私としげは一緒にいるのだろう。 先は見えないけれど、お楽しみである。 QUE SERA SERA。
マンガ、森永あい『僕と彼女の×××(ペケ3つ)』3巻(MagGARDEN)。 連続ムービードラマが10月から劇場公開だそうな。 『転校生(オレがあいつであいつがオレで)』ほか、数多く作られてきた、「男女入れ替わりもの」の中ではこのマンガが一番カゲキなギャグを展開してるんじゃないかと思うが(いや、直接的にやらしー描写はないけどね、なんか登場人物たちの心の揺れ具合が何ともね)、実写化しちゃうとギャグがギャグとして機能するかどうか、ちょっと心配。桃井さんの役は『妖怪大戦争』の川姫の高橋真唯。女っぽい男と男っぽい女の入れ替わり劇だから、大半は「女らしく」演じてりゃいいんだけど、キモは本当は乱暴者な地の性格を演じきれるかどうかにかかってるんで、果たしてフトモモ見せる程度の演技力で演じきれるものかどうか。 っつっても、福岡まで映画が来てくれないことには、見ることだってできないんだけれどもね。 マンガの方は今巻でついに入れ替わりの事実が千本木にバレて、菜々子(中身はあきら)の貞操が危機に合うというヤバイ展開。まあ、身体がオンナなら、心はオトコでも平気なのかという、なかなか難しい問題がここには提示されているわけであるが、心が女でも身体はオトコなやつを相手にしたくはないのがノーマルなオトコだとするなら、これはまあギリギリセーフなのかとも思えるのである。でも、仮に私の女房の身体の中に親友の男の心が入ったら、やっぱりナニはできないがなあ。どうしたってナカミがよがる様子を想像しちゃうし。 この手の入れ替わりモノは最後には元に戻るのがセオリーなんだけれども、このマンガばかりはそうならないような雰囲気もあるので、ハラハラして目が離せない。原作が完結しなけりゃ、映画の方だって元には戻らない理屈なんで、さあ果たしてどんなラストを迎えるのか、興味津々である。
二ノ宮知子『のだめカンターピレ』13巻(講談社)。 よしひとさんちで見せてもらってたのをようやく購入。パリ編は番外編みたいな扱いかと思っていたのだけれども、千秋ものだめもちゃんとパリに馴染んできていて、二人の仲もどうやら進展しそうな気配である。ラブコメだったのかこのマンガ(笑)。 二ノ宮さんが折り返しのソデ書きに「今回とっても好きなキャラがいます」と書いているが、さて誰だろうか。素直に考えると千秋が常任指揮者になることになったルー・マルレ・オケのコンサートマスターで、横暴・傲慢を絵に描いたようなトマ・シモン氏じゃないかと思えるのだが、多分、そんな素直なキャラじゃないんだろうな。 となると、千秋をワナにはめたとも言えるデプリースト音楽監督か、「会員なんか辞めてやる!」のロランのおばあちゃんか、「チェレスタは千秋が弾くってどう?」のテオあたりが候補かなとも思うが、私は十中八九、「留学生のニッサン・トヨタ(仮名)」くんだと思う(笑)。あ、これ、分かんない人のために一応書いとけば、マルレ・オケがどんなところか偵察するために千秋やった変装だからね。 ともかく、連続するトラブルのおかげで、逆に千秋とのだめの初共演が見られそうな気配である。次巻に期待。
2004年09月23日(木) クレーマーになんかなりたかないが。/『暗号名はBF』3巻 2003年09月23日(火) お盛んな大阪/映画『總篇 佐々木小次郎』/『Q.E.D. 証明終了』16巻(加藤元浩)/『魁!! クロマティ高校』7巻(野中英次)ほか 2002年09月23日(月) なんだかいろいろ/『一番湯のカナタ』1巻(椎名高志)/DVD『ハレのちグゥ デラックス』第2巻/舞台『天神薪能』ほか 2001年09月23日(日) 行間を読んでね/映画『ラッシュアワー2』&『ファイナルファンタジー』 2000年09月23日(土) 昼寝とDVD三昧の一日/映画『スリーピー・ホロウ』ほか
2005年09月22日(木) |
何かを得た後で/『怪盗紳士ルパン』(モーリス・ルブラン) |
『イッセー尾形とフツーの人々』出演の興奮、未だ覚めやらぬ毎日を過ごしているところに、ワークショップ参加者の方から「今度『打ち上げ』をやりますので参加しませんか?」のお誘いメールがある。 みなさん、あれだけ森田さん、イッセーさんにダメ出しされていたというのに、懲りてないんだなあと、もちろんこれは嬉しく感じている。 「ともかく舞台に立ちなさい。それを経験することが大事なんだよ」と森田さんは繰り返し仰っていた。もちろん、出演者のそれぞれの演技には上手下手はあるし、見栄えのする人、見栄えのしない人、様々である。けれどもそんな違いを一切モノともせず、これまで演技経験など殆どない人々が果敢に舞台に挑戦していた。シロウトの怖いもの知らずと言われればそれまでだが、森田さんたちと一緒に付いて来たこのワークショップの企画者の方が、二日目の反省会の席で「みなさんが舞台に立っているということ自体がものすごいことです」と仰っていたことが、今も耳に残っている。ともかく他の会場と違って、今回ほど舞台が「形にならず」、森田さんが悪戦苦闘した舞台もなかったということである。「キャストのナマ声による効果音」のアイデアも、森田監督の苦肉の策だった。 私なんぞは容姿には全く自信がないし、キャラクターとしての華もないと思っているので、公演が終わったあとでも、皆さんの足を引っ張っちゃってたろうなあと忸怩たる思いを感じている。けれどもそれは一緒に出演したフツーの人々みなさんが抱いていることだろう。前のスケッチの出演者が素晴らしい演技を見せる。その後では誰もが臆するのが当然だろう。いや、あのイッセーさんと同じ舞台に立って、そのイッセーさんに平然とツッコミを入れる我々というのはいったいナニモノなのだろうか。シロウトという立場を越えた「何か」がそこにあったとしか私には思えない。 森田さんは「一人一人が責任を引き受けて舞台に立ったことが素晴らしいことだったんだよ」と仰っていたが、多分、出演者はそんな「責任重大」というプレッシャーすら考えずに(というよりは忘れて)、あの舞台に立ったのだ。だって立たなきゃなんないんだもん、仕方がないだろう(笑)。 恐らく、この「北九州編」の人たちは、同じ舞台を共有した仲間というよりは、森田さんたちと、そしてお客さんを相手に戦った「戦友」のような感覚を持ったのではなかろうか。
そういう次第だから、お誘いにはぜひとも乗りたかったのだが、当日は既に仕事関係の出張の予定が入ってしまっていた。集まりは夜ということだったから、当日のスケジュール次第では参加できる可能性もないわけではなかったのだが、何しろ北九州まで出張って行かねばならないのである。確約はとてもできないので、涙を飲んでお断りのメールを送った。残念無念である。
仕事帰り、夕食は「パピヨンプラザ」の「ロイヤルホスト」で。 ロイヤルの会員になっている関係で、ちょうどしげの誕生祝いの20%割引ハガキが届いていたので、ちょっと遅れはしたが、バースデイ・パーティーである。こういうとき、「海の見えるレストラン」とか「ホテルのラウンジ」とかを予約できずにファミレスで誤魔化しちゃうところが庶民である。 でもファミレスファミレスって言うけどさ、昭和30年代はデパートのレストランだって大衆にとっては「月に一度の大贅沢」だったんだからね。あの当時にロイヤルホストが存在していたら、間違いなく「高級レストラン」だと認識されてたに違いないんである。いや、今だって、「ロイヤルで食事するのは月に一度程度」って家庭は結構あると思うんだが。 なんでこんなこと言ってるかっていうとさ、私がしげに「ちょうどバースデイ・パーティーになってよかったね」って言ったら、「これが?」って不満そうな顔をしたからなのだ。だからこいつは貧乏な生活が長かったくせに、なんで「足るを知る」ってことが感得できないかね。しげの一番イヤなところは、我慢することを「苦痛」としか捉えられないところである。カウンセラーの先生が「いいところは誉めてあげてください」と仰ることが理解できないわけではないのだが、メシ奢ってもらって「ありがとう」の一言も言えないやつのどこをどう誉めりゃいいのか。 「家事するから仕事辞めてもいい?」と、これまで何度騙されたか分からんセリフをまた信じてやって、それでまた家事しなくなったから仕方なく外食の日々を送っているのである。しかもその食事を作っていた時期だって、自分は自分の作ったオカズを食わずに、コンビニ弁当ばかり食っていた。そのせいでしげはこの数ヶ月で激太りしてしまっている。運動したって追っつきゃしないのだ。 こうなるとまた給料を渡すのを止めなきゃならなくなるが、そこまで追いつめないと仕事も家事もしないと言うのもこれまでの繰り返しである。せっかくの誕生祝いの席で、しげの「未成長」をまた確認しなきゃ何ないというのは、何とも寂しいことである。
「ヤマダ電器」でナマDVDをまとめ買い。 もう一つ、映画館で見損なっていたDVD『トニー滝谷』も出たばかりだったので購入。特別版で、メイキングと感得、キャストのインタビュー付きの二枚組。 原作者の村上春樹はこの奇妙な主人公の名前をまず間違いなく「トニー谷」から取ったと思しいが、そのあたりについてきちんと論考した(あるいは村上春樹にインタビューした)文章って、あるんだろうか。文芸批評が死んじゃってるのも、“庶民なら誰でも気付く”そういう着目点をあえて無視するスノビズムにあったと思うんだけどね。
帰宅して『電車男』の最終回を見る。 今にして思えば、映画版や舞台版が「電車男」役にイケメン俳優を配役したのは正解だったかな、と思う。別にいちいち「元ネタ」とやらを詮索しないまでも、これは「美女と野獣」バターンのドラマの現代化なのであり、だから「君はあの美女に比べると醜いけれども本当はいいヤツなんだよ」と言ってあげられる要素が「野獣」側にないと、そもそも成立しない物語なのである。で、主役がイケメンであれば、たとえアキバ系のファッションに身を包んでいようが、女の子たちは「素材はいいんだから、勇気とファッションだけ何とかすりゃいいじゃん」と感情移入しやすいというわけなのだね。 だから、テレビ版が伊藤淳史を主役に持ってきたというのは、これは女の子ファンよりも男の子ファンの方をターゲットにすることの方を選んだんだろうなと思っていたのだが(伊東美咲をエルメスにってのも、今なら中谷美紀よりもオタクな男どもには「萌え度」が高いだろうという製作の判断があったからじゃないかな)、まあまあ女の子ファンも付いてはいたようである。でもそうなると「伊藤淳史でもいいのなら」と勘違いするキモオタ男が増えそうで、幻想に惑わされた鬱陶しい連中がまたまた蔓延しそうな気もして何かいやだ。 主人公が主人公らしくなくて、ネットの住人たちの方が実は物語を牽引・誘導していく主役である、という構図は面白くはあったが、つまりはそういう「手助け」がなければ主人公が一人では行動できないおよそドラマの主人公としては不向きなタイプであったことは事実なのである。だから通常の「感動のシステム」を考えた場合、たいした努力もしていない、やたらウジウジする腑抜けたやつを中心に据えたドラマに感動できるってのは通常ならありえないわけで、この程度の「努力のハードルの低い物語」に涙できる連中がいるってことは、それだけみんなが「楽に生きて、でも優しくはしてほしい」なんて甘え腐った考え方を基本に置いてるからじゅないかという気がしてならないのである。 つか、私の身の回りでは感動してるやつについぞお目にかかってはいないのだが、どこかにいるのか? 『電車男』に涙したなん情けないやつ。 まあこの「電車男」が実在するのかしないのかという「真贋論争」には興味がないが、この物語の流れが「作りものっぽい」のは事実で、それを言えば『セカチュー』も『イマアイ』も、「こんな安っぽいドラマで涙できるなんて、今の若手連中は何てオキラクになってしまったんだ」って点では『電車男』と話は共通している。せめてさあ、「オタクがなぜ気持ち悪いのか、けれどそのことを自覚しつつもなぜこのオタクに惹かれてしまうのか」という視点がなきゃ、ドラマとしては成立しないんじゃないかと思うが、結局映画版もテレビ版も、そこんとこには突っ込まなかったからね。しずかちゃんがのび太のことをなぜ好きになるのか分からないように(笑)、「エルメスは天然だからオタクでも平気」とでも考えない限り納得ができないのである。 だからそのへんのキモオタ諸君、「自分にもいつかはエルメスみたいな人が」なんて幻想は絶対に抱かないようにね。君は一生、女性と縁はありません。そう覚悟しなさいよ。そこからしか実は道は開けてはいかないんだから。
読んだ本、モーリス・ルブラン『怪盗紳士ルパン』(ハヤカワ文庫)。 映画『ルパン』の公開に合わせた新訳である。しかもハヤカワミステリ文庫初収録。30代、40代のルパンファンの多くは、ポプラ社版の南洋一郎訳『怪盗ルパン全集』でこのシリーズに親しんでいたと思うが、正直な話、あのシリーズはモーリス・ルブランの原作に依拠した「翻案」と言った方がよくて、のちに偕成社から出された完訳シリーズと比べると、まるで別物というしかないものだった。 ポプラ社版の中には、ボアロー&ナルスジャックによる続編シリーズや、南洋一郎が勝手に書いた『ピラミッドの秘密』なんてのまであって、そのくせ、ルブラン最後の長編『ルパン最後の事件(アルセーヌ・ルパンの数十億)』は収録されていないという、ルパンを知らない若いファンにその世界を味わってもらうには甚だ不出来な代物であった。じゃあ偕成社版の方がいいかと言うと、へんに装丁に凝ったものだから、いささか「かさばる」印象があるのである。新潮文庫は既に訳が古臭くなってしまっているし、やはり全シリーズを収録してはいない。文庫で入手しやすいシリーズが出ないものかなと思い続けていたのだが、ようやくハヤカワが重い腰を上げてくれたというわけだ。 『ルパン』シリーズの真髄を味わうには、同時発売の『カリオストロ伯爵夫人』よりも、こちらの最初期の短編週の方が初心者には適当だと思う。今回読み直してみて、そのトリックが後の他作家によってパクリにパクられているにもかかわらず、叙述の妙によって、いささかも古びていないことに驚いたのである。 ああ、トリックバラすことになるので書けないんだけれども、この「ルパン」シリーズも、トリックとして優れているのは、作品中のルパンが仕掛けるトリックの方じゃなくて、モーリス・ルブランの「筆」なんだよなあ。それを忘れて中身だけパクっても、「ルパン」シリーズの真髄は決して味わえないんである。
マンガ、とり・みき『クルクルくりん』1巻(ハヤカワ文庫)。 ハヤカワ文庫のSFマンガ復刊シリーズ、『るんるんカンパニー』より先にこっちが出た。まあ、売れ線考えたら当然そうなるのかもしれないけれど、そのワリには表紙の描き下ろしくりんが全然可愛くないのはどうしたものかね。 まあ、私が『くりん』を買うのもこれで三度目なわけで、その三種類を全部比較できることにもなるのだが、基本的に原稿自体は2度目の刊行のときに「あまりにも下手な絵を描き直した」ものを踏襲している。どうやら「3度目の描き直し」はやらなかったようだ。これ、やりだすと際限がなくなっちゃうからね。同時に2度目のときにやった「現代だと分からなくなっているギャグ解説」はすべて削除して新作イラストに変更。これも解説したこと自体がもう次の世代には分からなくなるという悪循環に陥るので止めたんだろう。若い人にはもう分かんないところは勝手に想像しちゃってください、ということである。これもキリがないしね。 だいたい、最初のコミックス化のときに、とりさんは「ある大学で学生たちに話を聞いたら、ネタが分からないものがあると言われた」と書いているのである。ちなみに、その大学というのは私が在学していた大学のことで、その「学生たち」の中には私もいた(笑)。 実はそのとき、この『クルクルくりん』についても私はとりさんに質問をしていて、「どうして『くりん』のドラマは岩井小百合を主演にしたのか」、その理由についても聞きだしているのであるが、もう今更そんなドラマがあったことも覚えている人は少なかろうから、詳述はしない。つか、ビデオテープも残ってないんじゃないのかな。「ポッピン・ショッキン・ドッキン、クルクルマジカルレイディー、私はー、ウワサのー、パラレルガールー♪」って主題歌と高田純次のジェームス吉田だけは好きだったんだが(この番組あたりから高田純次は売り出していったのだよ)。 まあ、今の若い人によく分からないネタはあろうが、SFコメディマンガとしてこれだけ面白いマンガもそうはない。理想の女性型アンドロイドを作るために、あらゆる女性の性格パターンをインプットされたコンピュータが、爆発事故で破壊されそうになった自らのデータを「転送」する先として選んだのが、生身の人間だった「くりん」の脳だった、というのは、とりさんが卑下するほどハードSFファンに嫌われるような設定ではなかったと思うぞ。
赤塚不二夫『おそ松くん』22巻(完結/竹書房文庫)。 「完全版シリーズ」と謳っていながら、少年キング版『おそ松くん』90話のうち、わずか14話しか収録していない。何か理由があるのかな。もう1巻余計に出しても売れないだろうと判断されたとか。一応、この最終巻にあの名作『チビ太の金庫破り』が収録されているおかげでいかにも最終巻って雰囲気というか味わいはあるのだが。 いやね、赤塚さん、『おそ松くん』の最後あたりはかなり「投げて」描いてるので、これが入っていると入っていないとでは、印象としてはかなり落差が生まれてしまうのだ。だって、最終回なんて、イヤミが赤塚不二夫のケツに踏まれて、「もうマンガには出てやらないざんす!」と怒っちゃったんで連載も終わり、なんていい加減なラストなんである。 もっとも、赤塚不二夫のギャグマンガの最終回はほとんど全て尻切れトンボなんだけどね。『天才バカボン』なんて、最後に水戸黄門が出てきて「コウモンが出てきたらこのマンガもオシマイなのだ」というつまんないシャレで終わりなのである。 巻末収録のオマケマンガ、『オハゲのKK太郎』は藤子不二雄との合作(Qちゃんしか出てこないから、作画には藤本さんしか携わっていないだろう)。Qちゃんとチビ太が「どっちが偉いか」を競うだけの他愛ない話で、特に取り立てて面白いマンガでもない。珍しさだけのものだけど、ファンには「へええ」ってことになるんだろう。セリフと絵がうまく合ってないコマがあるのは合作のための不手際なのか、編集が後でセリフを改定でもしたのか。今となっては誰に確かめようもないことである。
2004年09月22日(水) イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻 2003年09月22日(月) 記録の魅力/『ロケットマン』6巻(加藤元浩) 2002年09月22日(日) 変なビデオは買いません/映画『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』ほか 2001年09月22日(土) 気がついたら食ってばかり/映画『カウボーイビバップ 天国の扉』 2000年09月22日(金) 徳間ラッパ逝く……/ドラマ『ケイゾクFANTOM 特別編』ほか
2005年09月21日(水) |
古希の憂鬱/『昭和の東京 平成の東京』(小林信彦) |
博多駅の「紀伊国屋」と「GAMERS」で本を買い込む。 先週までずっと森田雄三さんとイッセー尾形さんのワークショップ&公演で、本を読む余裕があまりなかったので、いつもより多めに買うことになった。 『のだめカンタービレ』の新刊13巻などは、よしひと嬢のお宅で読ませていただいていたのだが、やはり自分で買って持っていないと落ち着かないのである。これは首尾よく入手できたのだが、同じく、よしひと嬢宅で読んで極悪非道冥府魔道なオタクの実像を活写して思いっきり笑わせてもらったよしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』2巻の方は、どうやら売り切れてしまっていたようでどこにも見当たらない。 よしながさんのマンガは、基本的には腐女子仕様だから、東京の高岡書店あたりなら大人気だろうけれども、福岡のようなオタクがオタクとして確立してない田舎ではそんなに売れ行きがいいとも思えない。多分、もともと入荷部数が少なかったのだろう。つかさー、「GAMERS」の店員、「もともと取り扱っておりません」なんて言いやがったぞ。オタクのメッカとしての自覚はないのか(別にメッカにならなくてもいいが)。やっぱりこの手のマンガは「とらのあな」に行かなきゃダメなのかね(注・今回はBLモノではありません。匂いはちょっとあるが)。 十年ほど前に比べれは、大型書店が増えて本は手に入りやすくなったが、反面、近所の小さな個人経営の本屋が潰れていって、売れ残りの本をそこで探すことができなくなったのはかなり痛手なのである。前にも日記に書いたかもしれんが、貸し本屋時代からの付き合いのあった近所の本屋が消えたのは本当に悲しかった。コンビニじゃダメなんだよう。
明日が父の70の誕生日なので、仕事帰りに父を誘ってしげと三人で食事をする。 場所は近所の「かに甲羅」。近所にあるからと言って、しょっちゅう行きゃしない店である。かにの刺身にかにの天ぷら、かにの吸い物にかに釜飯と、かに尽くしである。膳のほかにかにのチリソースまで頼む。父が粗食で(酒は飲むが)自分は控えて私やしげに「どんどん食べり」と勧めるものだから、私もしげも充分以上に腹がくちた。これだから私もしげも痩せないのである。 父は誕生日を祝ってもらえて上機嫌なのだが、口を突いて出るのはまた姉の悪口である。今日も食事に誘われたのを、私らとの食事を口実に断ったとか。 姉に含むところのない私は「姉ちゃんも一緒に誘えばよかったのに」と言うが、父は頑として首を縦には振らない。年を取ると、こういうところだけはどんどん意固地になるのである。「姉ちゃんがつんだお客さんが、また俺につみ直してもらいに来るったい。おれがおらんごとなったら、店は続かんよ。それが姉ちゃんには分からんけん、困っとうったい」。 頑固親父が君臨して新しいお客さんを開拓できずにいたことも痛手だと思うんだけれども、何かもう、何を言っても通じない。姉ちゃん、いつまで持つかなあ。 で、喋ることはもう会うたびに同じことの繰り返しだ。「こないだ近所の敬老会から誘われて飲みに行ったったい。もう70やけんな」と、笑って言うのだが、その話を聞かされるのはもうこれで四度目なのであった。
久々に『トリビアの泉』を見る。と言っても偶然チャンネルが合っただけ。 番組が始まったころは腹を立てながらも毎週追いかけて見ていたものだったが、演出のつまんなさに閉口して、もう随分前から積極的に見ようって気がなくなってしまっているのだ。私も大概馬鹿馬鹿しいだけのギャグであっても嫌いにゃならないんだが、つまんないだけのギャグにはちょっと付いて行けないのである。 今回は『アルプスの少女ハイジ』ネタが二本続いて、アルムおじいさんの過去がどうのこうのという、ネタ自体もつまらないが、演出もわざとらしくて笑えないもの。ゲンナリして、もう何がどうつまらないか詳述するのもツラいくらいだ。そんな「常識」がなんで「へぇ」のネタになるのだ。 いや、ネタが薄いことを今更あげつらったところで仕方がない。スタジオで「へぇへぇ」と暢気にボタン押してる連中が『ハイジ』のアニメをまともに見たことがなければ、原作を読んだこともないやつらだということについても怒りはすまい。「常識」とか「素養」なんて言葉はとうにこの国では無意味に成り果ててしまっているからだ。 けれどそれでもどうにも情けないのは、「どうせ視聴者は馬鹿なんだからこの程度のネタと演出で充分」という番組作りを、たいていの視聴者が無批判に享受している現実である。知識とか素養ってのは、そのバックボーンに複雑に絡み合った膨大な大系があるもので、それを我々は普段は自覚してはいないけれども、日常のちょっとした場面で、ひょんなことからその繋がり合っているものがひょいと顔を出してくることがある。知識を売りものにするのなら、そういう部分にこそ着目しなきゃならないのだが、それが『トリビア』にはないのである。 既に巷では「へぇ」を口にすること自体、恥ずかしい行為に成り果ててしまっているんだけど、まだ続くんかね、これ。
今日読んだ本、小林信彦『昭和の東京 平成の東京』(ちくま文庫)。 1964年から2002年までの「東京」をキーワードにしたエッセイを集めた本の文庫化。 「東京」に思い入れがない(大学時代の四年間しか住んだことがない)地方人がこういう土着エッセイを読んで面白いかというと、これが実に面白いのである。 一つには、私が博多の「職人」の家に育ったということがあると思う。小林さんが活写する「東京の職人」像、「土着の人間は実にていねいな口調」というのは、「博多の職人」にもそのまま当てはまるのである。物腰の柔らかさが、東西を問わずの「職人」の共通項なのだろうかと思ってしまった。 「博多弁」と聞くと、江戸っ子の「べらんめえ」以上に乱暴で、始終喧嘩を売っているように聞こえる、というのが世間のイメージであるようだが、私の記憶する限り、祖父や祖母の使う博多弁は実にきれいなものであった。孫が遊びに来ても「よう来んしゃったね」と、必ず敬語を使う。子供に対しても敬語を使うことを忘れないのが博多の「職人」の文化だったのである。「よく」「長く」「若く」などの形容詞の連用形が古文よろしく拗音に変化して「よう」「なごう」「わこう」と柔らかくなるから、耳にも聞こえよい。差別的な物言いになるので控えるが、現実に「汚い博多弁」を使っているのは、一部地域の博多人なのである。 「下町人情」についても、東京と博多とでは共通点が多い。「人情」などと言うと、どうしたって我々は映画のイメージが優先してしまうから、東京の場合、それは中村錦之助の「一心太助」とか、渥美清の「寅さん」が脳裏に浮かんでしまう。けれど、もちろんそれが虚像に過ぎないことを、小林さんは自分の「実体験」から照射していく。「下町の人というのは、自分の感情をかくすものです」と書かれているが、「ああ、爺ちゃんも婆ちゃんもそんな感じだったよなあ」と納得してしまうのである。 小林さんの経験は小林さんの個人的な経験でしかなく、これをもって「下町」のイメージを規定してしまうのはどうか、という意見もあるとは思う。私の「博多っ子」のイメージだって、煎じ詰めれば「ウチの近所はそうだった」ということであって、普通のサラリーマンの家庭の博多っ子が私と同様の感覚を持っているとは考えにくい。けれど、「下町」が一般的なイメージとしても「職人と商人の町」であり、博多もまたかつては「そうであった」ことを考えると、その視点から街を見てきた小林さんの視点に一定の根拠があることは決して否定できることではないと思うのだ。 東京もこの50年の間に変貌し、博多もまた変わった。博多もまた「職人と商人の町」ではなくなった。私の博多人のイメージもまた過去の郷愁に彩られたものでしかなくなってしまっているが、だからと言って、「今の博多が正しい」と過去を何も知らない若造に抜け抜けと言わせておくほど、過去は歴史になっちゃいないのである。なくなったものを元に戻せと言いたいのではない。「一度お前たちが無くしてもう元に戻らないものは、こんなものだったんだよ」ということを知った上でないと、「自分もまたいつか何かを失う」事実を現代人が受け入れられなくなると思うのである。 その喪失感を覚悟することができなければ、人は簡単に「幻想の世界」にさまよい出てしまうことになるのだが、そういった事件、最近はやたら増えちゃいないかね。
マンガ、夏目義徳『クロザクロ』5巻(小学館)。 面白くなって来てるんでしょうか、このマンガ。表紙イラストは毎回凄くいいんだけど、本編のモノクロマンガになると、一気に絵に華がなくなっちゃうんだよね。 いや、話そのものも『寄生獣』の安易なパクリっぽくなってきて(ザクロがミギーなわけだな)、やっぱり「対決モノ」にシフトしていっちゃって、「乗っ取るもの」と「乗っ取られるもの」のコミュニケーションのズレの面白さがなくなってきてしまった。ザクロの真の姿が「青年」というのも興醒め。子供の姿だからこそ、その冷徹さが際立つのに。 なんだかだんだん『トガリ』の二の舞臭くなりつつあるように思えてならないんだけど。
マンガ、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』10巻(小学館)。 話がちょっとモタモタしてきたかなあ。キャラクターが増えすぎて、うまくまとめられなくなってきてるような、全体的に印象が薄くなっちゃってる。だいたい、主役のバーディーがここんとこ失点続きで、カッコよくない。今巻でも、千明の奪還に完全に失敗してしまっている。ゴメスに預けといた方がなんぼかマシって、その通りじゃん。主人公なんだからさ、もうちょっとアタマ使った活躍させてほしいよなあ。 つとむの姉ちゃんのはづみがどうも獣人化計画に巻き込まれそうなんだけれども、これも前巻あたりから延々引いてて、ちょっと飽きが来ているのである。この姉ちゃんに魅力があれば、まだハラハラドキドキもしようってものなんだけれども、フツー過ぎて、緊迫感が出ないんだよね。総じて最近のゆうきさんの描くキャラはデザインはいいんだけれども、内面的には底が浅くてイマイチ立ってない。私ゃもう、このマンガはゴメスが好きで読み続けてるようなもんだ。オジサンがオジサンに萌えてどうするよ(苦笑)。
「萌え」で思い出したが、昨日、電車に乗っていたら、男子高校生一人と女子高校生二人が乗り込んできて、こんな会話をしていた。 女子1「あんたさあ、メイドカフェとか興味あるやろ。オタクやし」 男子「何それ? メイド……何?」 女子2「メイドカフェ。天神にあるっちゃろ? 行ってみたくない?」 男子「よう分からん」 女子1・2「(唱和して、両手を男子に向かってヒラヒラさせながら)萌え〜、萌え〜」 男の子は剣道の市内を持っていたから基本的にはスポーツ少年なのだろうが、こういう男の子にもオタク菌は蔓延しつつあるようである。 つか、電車の中で「オーレ、オーレ」みたいな口調で「萌え〜、萌え〜」とやらかす女子高生が存在するような時代になるとは、オジサンちょっとビックリしちゃったよ。
2004年09月21日(火) マーシーって愛称もなんか好きになれなかったが/DVD『Re:キューティーハニー』天の巻 2003年09月21日(日) 劇団の激談/『美女で野獣』3巻(イダタツヒコ)/『バジリスク 甲賀忍法帖』2巻(山田風太郎・せがわまさき) 2002年09月21日(土) 世界の王/『パラケルススの魔剣 アトランティスの遺産』(安田均・山本弘)/『パンゲアの娘 KUNIE』5巻(ゆうきまさみ) 2001年09月21日(金) 子供のころは本屋さんになりたかったのさ/『多重人格探偵サイコ』7巻(大塚英志・田島昭宇)ほか 2000年09月21日(木) 笑顔とブレゼントとオタアミと
2005年09月20日(火) |
森田さんとイッセーさんのワークショップ余燼/舞台『ドレッサー』 |
日記の更新はしないつもりだったけれども、いくつかの「出会い」があったので、簡単に。 昨日の今日だと言うのに、またまた仕事帰りにしげと「リバーウォーク北九州芸術劇場・大劇場」まで舞台『ドレッサー』を見に行く。舞台劇の映画化で、アルバート・フィニー主演で映画化もされたこともあるバックステージものだ。「リア王」を演じる座長役が平幹二朗、ドレッサー役が西村雅彦、「コーディリア」を演じる座長の妻役が松田美由紀。 平幹二朗の演技はまさに磐石なのだが、やっぱり西村雅彦が台詞を覚えて言うので手一杯のシロウト演技で見るに耐えない。平さん相手に緊張したのか、何をどう演技しているのかも自分では見えていない様子だ。完全に自分の役どころを間違えていると言っていい。おかげで戯曲の面白さ自体が半減してしまっているので、これはもう平さんの演技を楽しみに行くだけの意味しかなかろう。
客席に座っていたら、肩をポンと叩かれたので、誰かと思えば、昨日までワークショップでご一緒していた若い女性の方であった。オバサン声と言うか、ちびまる子ちゃん声のOLを演じられて、昨日の交流会では「こんな声を出したのは中学以来です」と仰っていた方である。 「昨日ははぐれてしまって一緒に写真を撮れなかったので、ぜひ」と頼まれて、観劇のあと、しげと私と、それぞれその方とツーショットで写真を撮る。ワークショップの間中、私は皆さんの足を引っ張っているなあと感じていたので、こんな風に声をかけていただけたことがとても嬉しい。 「もう公演はないのに、つい、『今度はこんなセリフを言ってやろう』とか考えてませんか?」と聞くと、「そうですね。また舞台に立ちたいです」と仰る。あれだけ森田雄三さんに怒鳴られまくったというのに、みんな「懲りて」いないのだ。演劇の魔力に取り憑かれたと言った方がいいだろうか。 「来年またお会いできたらいいですね」とお話しして別れる。実現するかどうか分からないけれども、あれは、参加者のみんながそんな風に思えるような、素敵な舞台だったのである。うちの劇団の舞台がそんな風にならないのは、やっぱり「たいして芝居に興味もないのにつきあいやらで参加している」連中ばっかりだからだろうな(涙)。
帰宅してネットを開いてみると、掲示板にやはり公演でしげと同じシーンに出演されていた方からの書き込みがあって、返事を書く。そんなことをしていたら、昨日までの興奮がまた心の中に蘇ってくる。職業も年齢も立場も全く異なる人々ばかりだったが、かけがえのない「出会い」がそこには生まれていたと思う。「何かを共有した」そういう「絆」のようなものがなければ、こうして声をかけてきては下さらないだろう。 森田さんやイッセーさんが、どシロウト相手に自らの寿命を確実に縮めているに違いない(苦笑)こんな企画を、なぜ続けているのか、実はずっと疑問であったのだが、その理由はまさにこのワークショップの「あとの出会い」にまで森田さんたちが目を届かせていたからなのではなかろうか。ともかくこの一週間で、森田さんの、イッセーさんの人間洞察力には圧倒されてきた。「演劇」にはそれが何より必要なのである。 私がワークショップで適当な知識を披露していた時(もちろん「そういう演技」をしていただけで、ウソをつこうとしてついていたわけではない)、回りの人たちはそれをみんな本気にしていたのに、森田さんだけは「デタラメもそれだけ続けば立派だよな」と笑って仰っていた。何という慧眼であろう。 昔、森田さんやイッセーさんのスタッフだったけれども、仲違いしてプロの評論家になられた方を私も知っているが、その方と森田さんが「合わなかった」のも、森田さんのワークショップを受けたあとでは充分に納得できるのである。森田さんから見れば、あの人は「かわいそうな人」でしかないだろう。底の浅さを知識で糊塗しようとしても、見抜く人には見抜かれてしまうものなのである。
2004年09月20日(月) 爆睡の一日/『名探偵コナン特別編』22巻 2003年09月20日(土) 優柔な憂愁/『よみきりもの』5巻(竹本泉) 2002年09月20日(金) ついに発売! アレとアレ(^o^)/映画『インソムニア』ほか 2001年09月20日(木) ま、映画さえ見られりゃいいんだけどね/『夜刀の神つかい』4巻(奥瀬サキ・志水アキ) 2000年09月20日(水) 頭痛と頭痛と頭痛と……/ムック『山下清のすべて』
2005年09月19日(月) |
自分が出演したから言うわけじゃないが/舞台『イッセー尾形とフツーの人々 北九州編』最終日 |
四日間のワークショップ、三日間の公演と、一週間に渡る『イッセー尾形とフツーの人々』の日々が終わった。 この間のエピソードを綴っていけばそりゃもう面白いことの連続であるのだが、そんなん全部書ききれるはずがない。レポートを一日刻みで書くことなんか、私ゃもう放棄したぞ。それに、今回の公演は本名での参加なので、あまり具体的に書いちゃうと参加者の誰が私であるか、知人以外にもバレちゃうのである。だから詳しいことはそのうち詳しいレポートがアップされるであろう「イッセー尾形のホームページ」をご参照いただきたい。もしかして写真がアップされていても、「藤原敬之ってこいつかな」とか類推しないでいただけると助かります(笑)。 総括的に書くなら、今回のワークショップは、演劇を本格的に学ぼうという人のためのものではないにも関わらず、最も演劇的であったという点で刺激的だった。発声練習もなければ肉体訓練もない。森田さんは演技指導すらしない。参加者が「ここはこうすればいいんですか?」と聞けば「知らねえよ!」と怒鳴り、質問を禁止する。 あったのは、私たちの考えてきた演技に対して、森田さんが延々と発し続ける「面白くない!」「それは違う!」「受け答えをするな!」「喋り続けろ!」というダメ出しだけである。「こんな感情で演技してみて」なんて決して言わない。「こう動けば、観客はこう想像する」という指摘の意味を考えた役者だけが選抜されていく。参加者の中には、「これはいったい何のためのワークショップなのか?」と疑問を抱いたまま去って行った人もいた。森田さんは「それがフツーの人なの。残った人がヘンなの」と笑って仰っていたが、果たして本当にそうだろうか? 森田さんは、ドラマとは名ばかりで、ただの「説明」に堕しているテレビドラマが大嫌いだ。そんなものに関わりたくないからイッセー尾形さんとだけ組んで、これまで一人芝居を作ってきた。そこには「観客の想像力を信じよう」という確固たる信念がある。「こういうセリフを書かないと視聴者や観客は分からないだろう」なんて、人を馬鹿にした発想は取らない。観客をそのようにして「信じる」のならば、当然、役者に対してもそれが「要求される」のである。たとえシロウトであったとしてもだ。「想像力のない人間」に、役者は務まらない。いや、社会生活においてもそんな人間にどうして人間としての価値があると言えるだろう? 人間を信じるならば、人間の想像力も信じるしかないのだ。 だからこのワークショップは、単に演劇のためのワークショップには留まらなかった。舞台に立つという経験を経て、日常に帰り、「困難にぶち当たったとき、とっさの判断をいかにするか」、そのための訓練として機能していたのである。ダメ出しされ続けて、どうしていいやら分からなくなって、困ったところから初めて「芝居」が生まれる。「ただのアドリブじゃん」なんて軽く考えるのは適切ではない。人生はアドリブでしか成り立っていないと言ってもよい。人生とは劇場であり、まさにこの一週間は、「人生のシミュレーション」としての意味を持っていたのだと断言できる。 で、公演を終了して、自分に芝居ができたかどうかということになるとこれがまたはなはだ心許ないのであるが、少なくともシロウトの私たちに本気でぶつかってきて下さった森田さんに対して、ケツまくって逃げるようなマネはしなかったと思うのである。 全く、ケツまくってばかりのうちの劇団の連中にこそ、こういうワークショップが必要だと思うんだが、私程度の人間からも逃げてたんじゃ、どうしようもないんだよな。
今日は昨日より受けがよかった。昨日一昨日はガヤの一人でしかなかったが、今日はイッセーさんともちょっとだけ絡んでもらえた。これは嬉しかった。 私だけではなく、殆ど全てのキャストがネタを変え、果敢に最後の舞台を勤め上げようと挑戦を試みていた。 公演後に、ワークショップ見学者も含めた全キャストで、イッセーさん、森田さんとの交流会がロビーで行われたが、開口一番、森田さんが、「最後の舞台が一番手応えがあったでしょう。シロウトの演技でもお客さんは見てくれるんですよ」と仰ったのが印象的であった。三回公演は北九州編だけである。そして一回ごとにお客さんの反応が如実に違う。「次こそは」という思いが、出演者たちの「自由度」を増していったように思う。 一人一人の挨拶も、全部を紹介したいくらいにそういった思いが伝わってくる。イッセーさんが「心を病んでないのは詩吟のセンセイ(出演者のおばちゃん)一人だけだということが分かりました」と冗談めかして仰ったほどに、みんな、それぞれに問題を抱えている人ばかりだった。みんな、自分の「何かを変えたい」と思ってここに集まり、そして「自分を変えられるのは自分だけだ」ということに気付いて旅立っていくのだ。 私もこれまで演出家、役者さんのいくつものワークショップや講演に出席してきたが、こんな「身のある」ワークショプに参加できたことはこれまでにない。誇張ではなく、「至福の時間」が過ごせたと思う。 私としげの挨拶では(交流会まで、お互いの名前や立場を語ることは禁止されていたのである)、私の本職にドヨメキが起き、しげが「妻です」と言った途端にもっと大きな(多分今日一番の)ドヨメキが起きた。多分、たいていの人が「親子」だと思っていたのだろう。まあ、いいけどさ(苦笑)。
公演中はもう食事から何まで、よしひと嬢のお宅でお世話になった。本当に涙を流してしまい、みっともないところをお見せしてしまったことは真に申し訳ないと思っています。二日目、お母さんと一緒に見に来てくれて嬉しかったです。楽日に見に来てくれた下村嬢にも感謝。お会いできなくて申し訳ない。 そして、こんな零細サイトの日記なんて読んでないだろうけれども、公演で一緒に舞台に登った「仲間たち」一人一人に感謝を。心を病んでる人たちばかりだったけれども(笑)、そういう人たちが集まって、一つの「街」を作れたことそのものが素晴らしいと思います。そしてもちろん、イッセー尾形さん、森田雄三さん、スタッフの人たちに、心よりの愛を込めて。「イッセー尾形と共演したんだ」なんて人に言って得意になったりするような情けないマネだけはしないようにしようと決心しています。一月の公演も、絶対見に行きますので。
さて、そろそろ本気で次の芝居の脚本を書きあげないといけないので、来週アタマくらいまで日記を書くのを中断します。この三日間ほども、更新できないよって書いといたのに、150人以上、お客さんが来てくれてるんだけど、まあこれは殆ど通りすがりさんなんだろうな(笑)。全く、何のキーワードで来てるんだか。
2004年09月19日(日) 大掃除大パーティ/『かりん』2・3巻 2003年09月19日(金) 回想の妻/『にっちもさっちも 人生は五十一から』(小林信彦) 2002年09月19日(木) 騒ぎどころが違うぜ/『仮面ライダー龍騎 13RYDERS』/映画『恐怖の火星探検』/『ロケットマン』3巻(加藤元浩) 2001年09月19日(水) ヤンキーたちの好きな戦争/『日露戦争物語』1巻(江川達也)/『探偵学園Q』1巻(さとうふみや) 2000年09月19日(火) 塩浦さん、今度はご夫妻で遊びに来てね
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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