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夢の図書館新館

お天気猫や

-- 2005年03月31日(木) --

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『魔法使いとリリス』

原題は『The Shape-Changer's Wife』とあるように、 姿を変える魔法が大きな意味をもって語られる。 邦題の「魔法使い」とは、どちらの方なのかと最初迷ったが、 少し読めば謎はとけた。 金髪で社交的な若い魔法使い、善良なるオーブリイのほうだ。 そして、「リリス」は、老魔法使いグライレンドンの若く美しい、 風変わりな妻。

野心に動かされたオーブリイは、姿を変える魔法を学ぶため、 はるばると、風評かんばしくないグライレンドンの館を訪ね、 滞在することになる。評判どおりの男だった。 しじゅう留守をしているグライレンドンのほかの住人は、 感情のない妻のリリス、 家事が下手な召使いのアラクネ、下男の大男オリオン。

ヒロインに悪魔めいた「リリス」という名を選んだのだから (名付けたのは老魔法使いであるが)、 そこには簡単に解けない謎があるはずで、 後半は謎が徐々に明らかにされ、結末に向けて、 謎の答を知るだけでなく理解することに主題が移る。 しかも、この知的で静謐な物語の著者はアメリカ人で、 「シン」(sinn だがsinに通じる)というのだから、 デビュー作としても巧妙だ。

男女がお互いを理解することがいかに・・・というのも このシンボリックなファンタジーのテーマだろう。 男女の異質さと、相手によって与えられる変化を、 侵犯と見るか、学びととらえるか。 人はどこまでも、生まれたままの望みと方向に正しく導かれて 生きてゆかねばならないのだろうか? そういう風に生きてゆける人もいるだろうけれど、 ほとんどの人は、変化を受け入れ、そこになじむ。

ロマンティック、と呼ぶにはもの悲しいけれど、 これは三角関係のドラマでもある。 『オペラ座の怪人』しかり、やがて壊れるトライアングル。

「魔法を学ぶ」という目的からは、オーブリイに同情しつつも、 やがてその体験が魔法使いとしての彼の後半生を決定づけるだろう ことを思い、それで良かったのだとも納得したり。 つまり、彼の二人目の師匠が、冷血非情なグライレンドンであり、 人格者で技術も比類なき賢者、シリットではなかったこと。

などと言いながら、肝心のリリスとオーブリイの純愛 ロマンスについて、ちっとも言及しないではないか、と 言われそうだが、それはどうぞ読んで味わってほしい。 リリスの緑の瞳に魅了されながら。(マーズ)

※ウィリアム・クロフォード賞受賞。


『魔法使いとリリス』著者:シャロン・シン / 訳:中野善夫 / 出版社:ハヤカワ文庫2003

2004年03月31日(水) ☆春はロマンスの季節?
2003年03月31日(月) 「南の国へおもちゃの旅」

お天気猫や

-- 2005年03月29日(火) --

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『第九軍団のワシ』

サトクリフの代表作ともいえる、ローマン・ブリテン三部作の一冊。

やっと、この世界に入ったという感じである。 舞台は、秩序と合理性を重んじるローマ帝国に占領されている 辺境の地ブリテン島。 ドルイド僧に導かれるケルト人の価値観とは相容れない、 民族どうしのあつれき。 さらにケルト以前からの土着の民族もそこに暮らしている。 ヨーロッパ西端の島は、湿気を帯びて美しい。 後に海運で世界の覇権を握る大英帝国も、いまだ未開の地と呼ばれ、 ローマ人たちに支配されていた時代。 そんな文化の違いが、武器に彫られた文様にも託して描かれている。

しかし、サトクリフは歌う。 文化は溶け合いにくいものでも、人間対人間の間には、 特別な交流が生まれ得るのだと。

物語の主人公、マーカスは20歳そこそこの前途洋々たるローマ人兵士。 故郷エトルリアへの思いを抱えながら、将来はエジプトで指揮を執りたいと 夢見ている。 ブリテン島で父と同じ百人隊長として任務に就くが、 抵抗する氏族と戦った傷がもとで、 職業軍人としての人生から、あっけなく退くことになる。

失意のマーカスが、なぜかブリテンに居着いている独身の叔父のもとに 身を寄せ、奴隷にされていた氏族の若者エスカや、 ブリテン人の少女コティア、愛犬となる狼の子と出会うたび、 彼自身の存在感が増してゆく。 マーカス本人はどちらかといえば鏡のようで、 誰かの炎を映して輝くかのようだ。 しかし、ローマ人で公平な性格の彼を主人公にすることで、 ローマ人とブリテン人、当時のカオス的な人種の交流を、 歴史にうとい私たちですらも、客観的に読むことができる。 願わくば、これほど男世界の物語に徹せず、 コティアや他の女性たちにも、もう少し活躍してほしいと 思ってしまうが。

それにしても、ローマの文化でブリテン人の熱狂したものが コロセウムでの闘技だったとは、意外だった。 肌の色もちがう、言葉もちがう人間たちが、 ブリテンという「妖精の気配」に満ちた緑の島で暮らすうち、 混ざり合いながら次の世代をつくってゆく。 そしていずれ、現在のイギリスへとつながってゆくのだ。 サトクリフのような名作家たちを生み出した文化へと。

サトクリフは、この作品をとりわけ愛していたという。 かつての時代、北方で行方不明になった第九軍団の存在と、 彼らの守護神であったワシが、はるか南の地で発掘されたという事実から サトクリフはこの物語を呼び起こした。 彼ら3人の主な登場人物は、まさに啓示のごとく降り立ったのだとか。 他の作品では、ときに計算しながら動かす創造物たちが、 ここでは、自分の足で動き回ったらしい。

英国で出版されたのは『指輪物語』と同じ1954年。 それを思うと、聖なる、と言っても良いほどの一致に打たれる。

亡き父の軍団だった第九軍団、地上から忽然と 消えてしまった幻の軍団の真実と、ローマ兵士達の守り神だった 黄金のワシを奪還するため、マーカスとエスカは北方へ、 ローマの守りが崩れている地へ、旅に出ることを宣言する。 ちょうど、フロドが従者を連れて、指輪を捨てる旅に赴くように。 妖精王の御前会議の場で、誇らしくも手を挙げたように。

そしてまたゲドの話題を持ち出さずにはおれないが、 マーカスの逃亡を助けてくれた霧、この物語のあちこちで 時の狭間を埋めるかのような白い霧は、 かのゲドが少年のころ、初めて使った大いなる魔法の象徴でもあった。

だから、考えずにはいられない。 もしも、サトクリフが彼らを、いや、彼らがサトクリフの 胸に飛び降りてこなかったなら、世界はどんな姿に なっていたものだろうか、と。 あの指輪にまつわる物語もなく、大魔法使いの人間的な姿をも 知ることのない世界には、住めそうにないから。

マーカスの旅をともに終えて、彼が選んだ人生を誇りに思う。 「良い狩りだった」と満足のため息をついて。 (マーズ)


『第九軍団のワシ』著者:ローズマリ・サトクリフ / 絵:C・ウォルター・ホッジズ / 訳:猪熊葉子 / 出版社:岩波書店1972

2004年03月29日(月) 『夜明けのフーガ』
2003年03月29日(土) 「いちばん美しいクモの巣」
2002年03月29日(金) 『グリーン・ノウのお客さま』
2001年03月29日(木) 『妖都』 

お天気猫や

-- 2005年03月25日(金) --

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『初恋の騎士』

バーバラ・カートランドのヒストリカル・ロマンス。

ロンドンで住み込みの家庭教師をしている貧しいドルーシラは、 実のいとこである幼なじみの侯爵、ヴァルドと再会し、 突然結婚することになってしまう。 というのも、プレイボーイのヴァルドが、 ドルーシラの勤め先である公爵の奥方とのいざこざで 他に窮地を脱する方法がなかったからだ。

ドルーシラは両親を亡くして無一文になった貴族の娘、 ヴァルドは若い青年貴族。それにしても、二人とも若い。 苦労をしすぎているドルーシラのほうも、いつものヒロインとは 少し違っているが、ヴァルドの幼さはどうだろう、と ずっと違和感を感じながら読んでいたが、 ほとんど終わりに近づいて、やっと納得。

シンデレラ以上の境遇の差を経験するドルーシラだが、 そのことで有頂天になるほど愚かでもないし、 最初からヴァルドに期待するほど盲目でもない。

おたがいに相手への思いに気づかぬまま、王子主宰の結婚式(!)を あげた二人は、誤解を重ねつつ、ヴァルドの領地である「リンチェ」へ やってくる。ここは、かつて二人が幼い日を過ごした思い出の 地でもあった。 ヴァルドにもドルーシラにも、これまでの生活で「敵」がいて、 二人はお互いを知り合うことと同時に、その敵とも戦わねばならない。

とりわけ、カートランドのヒロインらしく、 ドルーシラの戦い方は映像的にも美しい。 だからよけいに、ヴァルドはどうしたのだ、と思わされていたのだが、 それはたぶん、リンダ・ハワードの主人公を連想している私が悪い(笑)

公爵とか侯爵とか王族という社交界の舞台は、 他のカートランド作品に比しても、華やかさを極めている。 そして、そのことで明暗の対比がきわだつ作品でもある。 (マーズ)


『初恋の騎士』著者:バーバラ・カートランド / 訳:麻野真由美 / 出版社:サンリオ1989

2004年03月25日(木) ロザムンド・ピルチャー(1)
2003年03月25日(火) 「木馬のぼうけん旅行」

お天気猫や

-- 2005年03月22日(火) --

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『英国 魔女と妖精をめぐる旅』

そこにいるはずの「気配」を予感させる英国紀行。

著者は、妖精の井村君江・妖怪の水木しげるという、 まさしくそれぞれの分野における女王と王からの 祝福とともに、この旅を物語る。

タイトルにもある「魔女」や「妖精」を紹介するために、 巻頭で、英国の妖精と日本の妖怪の差異について、 両氏からの見解や資料をふまえた論考が示され、 単なる出たとこ勝負の撮影旅行とは趣を異にしている。

そういうことを頭に入れたうえで、 ゆく先々で歓迎の虹がかかったという英国・スコットランドの 不思議を、ともに旅する。 果ては巻末の「英国の魔女・妖精・ファンタジーの歴史」年表も ちらちらと見ながら、丘陵をさまよう。

「レイライン」(光の直線路)のことはどこかで聞いたことがあったが、 こうして紹介されると非常にリアルだ。 フランスの「モン・サン・ミッシェル」と、イギリスの西端にある 「セント・マイケルズ・マウント」の酷似。 さらに、キリスト教によって光の天使聖ミカエルとなった ギリシャ神話の太陽神アポロンがまつられたデルフォイまでが 一直線のレイラインで結ばれており、その途上に ストーンヘンジなどさまざまな遺跡が点在しているという。

アーサー王の生地とされるティンタージェル城。 スカイ島の、妖精と結婚した城主の物語。 マン島のフェアリー・ブリッジでは、妖精に挨拶をして渡る。

イギリスには三度も行きながら、いまだ訪れたことのない 世界の謎めいた奥行きに、ため息をつく。

書き下ろしということで、『ハリー・ポッター』と 『ロード・オブ・ザ・リング』の舞台についても ページを割いている。

ファンタジーに限らず、トマス・ハーディやロザムンド・ピルチャーの 舞台も紹介されていて、興味深かった。 (ピルチャーは『シェルシーカーズ』を引用) 巻末には旅のインフォメーションも充実しているし、 参考文献のリストも60冊以上にのぼっている。 趣味の通じる方なら、これ一冊持って英国を堪能できるだろう。

気配に満ちたあの国に、今度訪ねたときは どこまで入り込めるだろうか。 いったい何度、あの国を歩けるだろうか。 (マーズ)


『英国 魔女と妖精をめぐる旅』著者:新美康明 / 監修:井村君江 / 出版社:智恵の森文庫(光文社)2004

お天気猫や

-- 2005年03月16日(水) --

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『猫にかまけて』その3

暑い夏も祈っているうちに過ぎてゆき、 とうとう、9月1日になった。 いよいよである。気合いが入る。

その1日、私は出先から午後早く戻ってきた。 少し用事をしてから、またトンボ帰りする予定だった。 とりあえず路上に車を停め、家まで数メートル歩いたところ、 小学生の下校集団と行き会った。 見れば彼らの足下に、白いものがいる。

子犬である。 その集団に近所の男の子がいて、あいさつをした。 どうしたのかと問うと、捨て犬だという。 見れば、生後2ヶ月弱といったところ。 全身白で、ひょろひょろしていること、このうえない。 男の子は、子犬を抱き上げると、私に手渡した。 そして「お願いします」と頭を下げた。 「まあ、何とかするから」と答えて、 がさがさした毛の子犬を抱えた私は、庭に入った。

困ったなあ、と思う。 犬を飼うつもりはぜんぜんなかった。 中学のころ飼って以来、犬はいなかったし、 何と言ったって、これから、チータの転生を捜そうと しているところなのだし。

ちょうど食べ残したお弁当を持っていたので、 ごはんを見せると、目にもとまらぬ早さで食べた。 そして、すぐにごろんと横になった。もう眠っている。 栄養失調の極みなのだろう。お腹だけが丸い。

不気味な顔の犬よと大騒ぎしている親を残し、また仕事へ戻る。 やたらと耳が長く突き出た子犬は出て行こうとせず、 しないばかりか、早くも誰かがやってくると、 一人前に番犬の声でうなっている。

結局その日のうちに、もう、子犬を飼う決心をしていた。 親は何とか説得した。もともと猫よりは犬のほうが 受け入れられやすい家なのだ。 子犬を託してくれた子は、父の幼なじみの孫でもあり、 まあ、あの子がそう言うならね、というあきらめもあった。 (その子も飼いたかったのだが、すでに犬がいた)

子犬はさいしょの数日、ぜんぜん庭から出ようとせず、 もうすんなりと、ここを家と決めたようだった。 まだ子犬だから、だれが主人ということはないが、 数ヶ月後には、私が主人となった。

名前を決めるのに思い悩んで、1ヶ月もかかった。 しかも、性別をまちがえていて、男の子と思い、 「ルーク」(ルカ)と決めて獣医さんにワクチンを打ちに行ったら、 女の子ですよ、と言われ、とっさに「ルー」となった。

私のなかでは、戸惑いもあった。 これでいいのだろうか、 猫はどうなるのだろう、という思いである。

ただ、ルーが家に来てから数日して、気づいたことがある。 あの、夏の間からときどき、胸に浮かんでいた言葉。
それは、
「白い子犬」
というメッセージだったのだ。

意味もわからなかったあの言葉が、現実になってやっと、 これはひょっとしたら、あの霊験あらたかなお宮とのご縁で 我がもと寄越されたのではないだろうか、と。

他の猫や犬と、まちがえようのない形で。 はいこれだよ大事にね、と手渡されたのだ、家の前で。 期日きっかり、9月になれば。なるやいなや。 これ以上に確実な方法があるだろうか?

そして、犬であること。 これも大きい。というのは、猫ならば、 今とちがって、外猫になる運命だったから。 またしても、なわばり争いに負けて、庭にいられなかった 可能性も強いし、どっちにしても家の中には入れないのだから、 かわいそうである。 それにくらべて犬は、犬小屋も作ってもらい、昼間は庭で 放し飼いという境遇である。 どちらに生まれたほうが条件が良いか、おのずと知れる。

そういうことなのだ、きっと。そう思えば納得である。 今はそうでもないけれど、幼いころのルーには、 どこか猫めいたところがあって、ハンター精神も旺盛だった。 「チータでしょ?猫だったからそうなんでしょ」 と問いかけたりしたものだ。 そういえば、かのお宮の伝説にある、白いうさぎに 似ていなくもない、耳長のルーである。

あれから7年にもなり、あいかわらずルーは元気だが、 いまでは高齢犬用の低カロリー食を愛用している。 チータの年齢をとっくに越えて、わが家の犬の最高寿命を 記録している。 その後、チットとチャイコが来て、部屋住みの初代猫になった。

チータとルーのお礼参りは、いまだ済んでいない。 それが目下の悩みでもある。 (マーズ)


『猫にかまけて』著者:町田 康 / 出版社:講談社2004

2004年03月16日(火) 『しあわせいっぱい荘にやってきたワニ』
2002年03月16日(土) 「海は小魚でいっぱい」
2001年03月16日(金) ☆春休みのお知らせ

お天気猫や

-- 2005年03月14日(月) --

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『猫にかまけて』その2

いまでは大猫と中猫の2匹(本書によると2頭と呼んだほうが 猫に敬意を払えるのだが)に囲まれて暮らしている私も、 かつてはそんなことできないと思っていた。

家の中で猫を飼える状況は来ないと思っていたし、 猫アレルギーが治る見込みもなかった。

本書のハイライトとも言えるヘッケとナナの逸話に 琴線を弾かれたので、私の逸話もたどってみよう。

繰り返すが、猫にはほんとうに不思議な話があるものだ。 これは以前、猫やのどこかに、かいつまんで書いた話である。

ちなみにここから後の話は、本書とは関係がないので、 また変わり者が何を言うか、と興味を持った方だけどうぞ。

もういつのまにか10年も前になってしまったが、 うちに「チータ」というオスの仔猫が来た。拾われ子である。 いまの「チャイコ」(「茶い子」ともいう)と同じような 赤虎猫である。 ついでに言えば、拾われた場所もチャイコと近い。

拾われた時点でおそらく感染していたらしく、 3歳を待たずして猫白血病が発症し(2度目)、他界した。 あげく、これではあんまりだ、と思った。 町田さんではないけれど、当時私は、いまもって考えても ハードすぎる遠征の仕事を受けていて、日中ほとんど家に いられなかった。猫の最期をほとんど病院に任せてしまい、 数時間を看取るぐらいしかできなかった。 愚かにも、仕事にかまけていたのである。

その猫生の短かさに納得できなかった私は、 「チータ」であった魂を、猫として呼び戻そうとした。

逝ってしまった魂を、再びこの世界、この家に。 といっても私には反魂の奥義はそなわっていない。 ただただ、見えない世界に向けて祈るくらいしかできない。

チータが家に来た日は、9月下旬だった。 私は猫ぎらいの家人を謀るため、1日違いの祖母の命日を、 猫が来た日ということにしていた。 家人は妙にそこでほだされてしまい、それほどの反対は 聞かれず、チータはうちの猫になった。 ただし、座敷には上げてもらえない外猫として。 近所はそれなりに避難所が多いが、つらい思いをさせたと思う。

チータが逝ったのは、5月下旬。 転生の準備と猫の妊娠期間、生まれてからの月齢を計算して、 だいたい、9月のその頃ならば、 「つじつま」が合うのではないか、と考える。 すでにこのあたりで常態を逸しているが、それがペットロスの怖いところだ。 何がなんでも、呼び戻すことになっている。

そうこうするうち、7月だったか8月だったか、 書店で偶然のように手に取った絵本が、 サトクリフの『小犬のピピン』。 あの英国歴史小説の大御所が、死んだ愛犬の魂を再び 子犬に生まれ変わらせて自分のもとへ来られるようにする(した) という話を書いている。 もちろん、表向きはフィクションとしてである(では裏ではどうなのか?)。 目頭が熱くなりながらも、勝手に、 見えない世界からの励ましと受けとる。

『ピピン』の場合でも、私が一番不安だったことが 問題になっていた。誰でもそうだろうと思う。 つまり。 どうやって、生まれ変わりの子(とみなした子)を見つけるのか、 という問題である。 もし、ミスジャッジをしてしまったら? ピピンの場合は、遠くない場所で同じチワワ種に生まれ、ちゃんと 元の飼い主のところに戻ることができた。

しかし、チータはどうだろう。 ピピンみたいに賢くはないかもしれない。 わかりやすく、同じ柄の猫になってくるのだろうか。 それとも、別の方法で? こんなことはもちろん、いくら考えても答えは出ない。 ただ、9月ということをしっかりと心に決めていたので、 8月には某霊験あらたかなお宮へお参りまでして、 なにがしかの感触を得たような気分になる。 しかしとりあえず猫をもらう当てはなかったから、里親譲渡会の日程を調べ、 電話をしてみた。毎週やっているとのことで、 9月下旬になったら、そう、ちょうどまた祖母の命日が近くなるころ、 出かけることに決める。 理由は言わずと知れた、猫ぎらいの家人を謀るためである。 何度も同じ手にかかるか、とも思うが、同じことが2度あれば尋常でなく、 今度の新入りは、何かの使いとなるかもしれない。

そしてその8月、ふっと胸の内に浮かぶ言葉があったのだが、 深く考えもせず、笑い飛ばしていた。

→その3へつづく

(マーズ)


『猫にかまけて』著者:町田 康 / 出版社:講談社2004
『小犬のピピン』著者:ローズマリ・サトクリフ / 訳:猪熊葉子 / 岩波書店1995

2002年03月14日(木) 『指輪物語』(その4)

お天気猫や

-- 2005年03月09日(水) --

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『猫にかまけて』その1

猫仲間の友人がすすめてくれた本。

読みながら自分がどんな表情をしているだろうと 思ってしまうような、猫たちの物語。 猫にかかわって生きている、人間の物語。

作家と猫は、縁深い、と思う。 著者の町田さんとは何の共通事項もない(ロック関係は別として 読むのは初めてなのだ)が、 お互いに(勝手ながら)、「世の中に悪猫はいない」と 思って生きているのは同じである。 どんないたずらをしようと、それは、誘発させた私たちのほうに 責任があることで、猫はただ、猫として生きているだけである。

読んでいると、めぐる思い出とともに、 なつかしい「彼ら」のぬくもりがよみがえってくる。 そもそも、彼らはなぜ、私たちよりも体温が少しばかり 高くてあったかいのだろうか? それは身体が小さいから、というだけなんだろうか? それとも、人間の子どもぐらいの体温をまねているのだろうか? どうして彼らは、人間を「おかあさん」とみなすのだろうか? 犬よりもずっと身近にいて生き残るために、無防備な赤ん坊を演じて いるのだろうか? もっと根本的に、どうして彼ら、特に子猫時代の彼らはあんなに 究極のかわいい姿をしているのだろうか?(人によってはそう思わないが) 本来ハンターである彼らは、そんな風にしなくても、 じゅうぶん生きて行けたはずなのに、 家のなかに入り、野生の半分を捨て、人とともに暮らす家猫たちは、 私たちをあたためなぐさめ力づけてくれ、 生きる姿を見せるだけで、私たちにいろんなことを さらさらと教えてくれるのだから。

タイトルは『猫にかまけて』となっていても、 読みすすむと、『仕事にかまけて』猫と遊んでやれなかった という、主の後悔も深いのだと知る。

前半に登場する猫たちは、ココアとゲンゾー。 どちらも貫禄たっぷりの、長生き家猫たちである。 彼らにほんろうされながら生活をともにする作家であり パンクロッカーでもある主は、時に、 「革服を着て黒田節を絶唱したくなる」(引用)のだった。

久しぶりに私の猫荒れした部屋を見た友人に、 「これはまずいでしょう。人間としてちょっと」と言われたのを思い出す。 言い訳としては、「まずいのは重々承知してるんだけど」と、 言い訳にもならない。柱は削れ、フスマはズタボロ、畳の見えているところは ひきちぎられ、段階を追って芯が見え、まるで構造見学用の見本みたいだ。 スピッツの歌ではないが、「ずっとまともじゃないってわかってた」(引用) というところか。

表紙の下半分をおおっているカラー刷りのカヴァーには、一見、 同猫かと見まがう美人和猫が一匹ずつ映っている。 本文を読むと、痛切にそうではないことがわかる。 どちらの子も、町田さんと暮らした(している)猫であるが、 表紙の猫が、「ヘッケ」で、裏表紙が「ナナ」(改名して「奈奈」となる)。 町田さんのもとにヘッケが先に来て、後からナナがやって来た。 顔の柄のほとんどと、女の子であることは同じ。 見分け方は、ナナの口まわりには、 薄黄色いコーヒー染みのような色が入っていること。 耳たぶの内側が、ヘッケは濃いピンク、ナナは白っぽいのは、 猫を飼っている人には周知だが、ヘッケが運動後、ナナが寝起き、 もしくはじっとしている時、という感じだろうか。 これが同じ色なら、さらに二匹は似てしまう。

しかし、猫にはほんとうに不思議な話があるものだ。 猫に親しんだ人で、そういう話をもっていない人はいないぐらい、 私たちの人生に関わる猫の往来には、 見えない世界とのつながりを感じさせられる。

いまでは大猫と中猫の二匹(本書によると二頭と呼んだほうが 猫に敬意を払えるのだが)に囲まれて暮らしている私も、 かつてはそんなことできないと思っていた。

→その2へつづく

(マーズ)


『猫にかまけて』著者:町田 康 / 出版社:講談社2004

2004年03月09日(火) ☆装いの苑。
2001年03月09日(金) ☆本を売る

お天気猫や

-- 2005年03月08日(火) --

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『太陽の戦士』

 今年になって『イルカの家』から入ったサトクリフの世界。地平線は まだまだ遠い。  しかも、7年前うちの犬が来る直前に読んだもう一冊が『小犬のピピン』という、 犬の転生を描いた絵本だったから、私は、いわゆる正統派のサトクリフ観とは 少しちがったイメージを、この歴史小説の名手について持つことになって しまった。 そして、サトクリフを仲間と思うようにもなったのだ。身勝手な仲間意識で。

リリアン・H・スミスは、著者『児童文学論』で英国の資産とも呼べる 歴史小説について、こう書いている。

「それは、ある意味では、歴史をしのぐほど、過去というものの意義と生彩を 味わわせてくれる。というのは、歴史上の事実には、いつもはっきり手につか みがたいもの、つまり、人間の思想や感情や、また歴史上には何の記録ものこ さなかった日かげの人びとにたいする時代の重みなどが、からみあっているも のだからである。」(引用)

 『太陽の戦士』は、青銅時代から鉄器時代へと移り変わろうとする前夜の イギリスを舞台に、狩猟をなりわいとする部族に生まれた少年ドレムの、 片腕が不自由という致命的なハンディを克服する姿を描いている。 ケルト民族やネイティブの民族が入り混じり、『第九軍団のワシ』や 『ともしびをかかげて』のようなローマン・ブリテンの代表作品とは、 少し趣を異にしている。けれど、過去の時代を描き、そこに生きる人間の姿を 深いまなざしで焼き付ける力は、『太陽の戦士』も『イルカの家』をも、 同じように輝かせる。一級の鍛冶師が鍛えあげた刃が、彼女のペンには 宿っているのだ。  

 まるでその世界に身を置いてすべてを見、同じ食べものを食べ、音を聞く かのように、私たちはその世界に立っている。

 ドレムたちの社会のきびしさは、ほとんどしつけらしいことを受けない子どもも 多い日本の現状を思うと、無情にも思えるほどだが、そこに用意されている成長の ための儀式には、今の子どもたちが望んでも与えられない「ここにいる意味」が 込められているといえるだろう。

 サトクリフ自身、子どものころの病気が原因で、生涯車いすの生活を送った人で、 若い頃の目標は、ミニアチュールを描く、つまり細密肖像の画家になることだった という。そのハンディとの戦いは、主人公のドレムにもぞんぶんに与え られているが、こんな風な引きこまれる描写もあって、単なる自己の投影には 終わらない力量が、ひしひしと伝わる。

「太陽の神は、すぐれた歌の才能をだれよりもまず第一に目の見えない人間に 与えるものらしい――あたかも失った視力のかわりに、別種類の能力、別種類の 光りを与えるために、太陽の神が手をのばし、そのかがやく指さきで、そのような 人の目に触れたかのようだった。しかし、もし視力のあるものに歌の才能が 与えられた場合は、太陽神の指にふれられたことがあきらかになるとすぐに ――それはしばしばまだほんの小さい子どもであることが多いのだが―― もうひとつ別の視力をより強くするために、そのものは祭司たちによって 盲目にされるのだった。それがならわしだった。」(引用)

 ドレムたちを待っている試練は、命をかけた戦い。狼を倒して槍の使い手、 緋色の戦士(太陽の戦士)となれるのか、それとも羊飼いの部族に混じって 暮らしてゆくのか。少年は家を捨て、家族を捨てる覚悟をして、絶望を知るが、 人との出会いによって研ぎすまされ、磨かれる。

 ドレムに好意をもって仲間とみなしている家族のいない少女、ブライの姿にも、 サトクリフのなかの女性が顔を出している。そしてドレムの生来の傲慢さは、 やがてあのグウィンが人生をたどった魔法使い『ゲド』にうけつがれて いったのではないだろうかと思えて、しばしうっとりとしてしまうのである。 (マーズ)


『太陽の戦士』著者:ローズマリ・サトクリフ / 絵:チャールズ・キーピング / 訳:猪熊葉子 / 出版社:岩波書店1968

2004年03月08日(月) 『ジンは心を酔わせるの』
2002年03月08日(金) 『エマヌエル 愛の本』
2001年03月08日(木) 『ガラスの麒麟』

お天気猫や

-- 2005年03月07日(月) --

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『のっぽのサラ』

掌編のなかにひろがる、あたたかい息吹。 そのぬくもりは、薄い一冊の本に見えるが、 内に入ると、かけがえのない人の思い、そのもの。

大草原のまんなかで暮らすお母さんのいない一家。 お父さんが出した花嫁募集広告に、ひとりの女性が 応募して、「お試し」にやってくる。 姉のアンナと、弟のケイレブ、二人の子どもたちは 「のっぽでぶさいく」と自称するサラが、 この草原に落ち着いて、自分たちの家庭の太陽に なってくれることを願う。 海のそばのメイン州からきたサラは、海が恋しい。 残してきた身内や家も恋しい。 アンナやケイレブは、亡くなったお母さんが恋しい。 でも、それ以上に、この新しい家族を お互いに求めている。

サラのことばのはしばしをとらえ、 「そのうち」とか 「うちの」とかいった断片があらわれるたび、 二人の子どもはうれしさを共有する。 子どもはそんな風に、大人の言ったことばを 熱心な耳で聞いているのだなあと、あらためて思う。

髪を切ると、カールした金髪を鳥たちが 巣にできるよう、野原にまくサラ。 大工仕事が得意なサラ。 動物好きなサラ。 家族が忘れていた歌を歌ってくれる、サラ。

パトリシア・マクラクランは、あとがきに書いている。

わたしの母が幼いころ、ちょうどサラがアンナとケイレブの 家にやってきたように、新聞の広告をみて、花嫁さんが やってきて、いっしょに暮らすことになったのです。 母は、その花嫁さんを大好きになって、 わたしたちに、そのときのことを話してくれました。(引用)

続編の『草原のサラ』を先に読んでいるので、 はじめの物語を早く読みたいと思いながら、 やっと満足できた。 短編ながら、長編が多い「ニューベリー賞」を1986年に受賞した作品。 人の願いや思い、家族のつながり。 そうした根源的で、何がなくても生きるのに必要なことを見つめ、 真摯によりそうまなざしが、 「ここにはない何か」を物語っている。 (マーズ)

『草原のサラ』


『のっぽのサラ』著者:パトリシア・マクラクラン / 訳:金原瑞人 / 絵:中村悦子 / 出版社:福武書店1987

2003年03月07日(金) 「中国茶 風雅の裏側」
2002年03月07日(木) 『オーディンとのろわれた語り部』
2001年03月07日(水) 『一瞬の光のなかで』

お天気猫や

-- 2005年03月05日(土) --

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☆『東京こどもクラブ』について

こちらの書評を読んで下さった方から、 『東京こどもクラブ』についての問い合わせがよくあります。

本の奥付をひっくり返してみても、 ここに書いてある以上には、何も分かりません。 時折、オークションサイトに出品されているようなので、 そちらをのぞいてみると、思わぬ再会があるかも知れませんね。

『東京こどもクラブ』については、 ほんとうにこれ以上のことはわからないので、 お答えのしようもありません。

何かの参考になることもあるかもしれませんので、 以前にメルマガに書いたことを転載します。(お天気猫や)


  

●レコードとお話好きの子ども

 

  昨年の12月にCD付きの「ふるさとの民話(全30巻)」の刊行が始まりました。一回目の配本「ゆきむすめ/かさじぞう(中部地方一)」を壇ふみさんの語りで聞いていますが、思った以上に、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。というのも、私は子どもの頃、レコード付きのお話を聞くのが大好きだったからです。

  毎月心待ちにしていたのが、「東京こどもクラブ」。レコードとテ  キスト(お話と歌詞の絵本で4穴の専用のバインダーに閉じるように  なっています)が、セットになって送られてきます。

  毎月郵便で届く「東京こどもクラブ」を赤い小さなレコードプレー  ヤーで、飽きることなく歌やお話を聞いていました。今思うと、共働  きで留守がちだった両親が、何とか子どもの寂しさの埋め合わせをし  ようとしていたのでしょう。そんな親の思いを知ってか知らずか、  レコードがぼろぼろにすり切れるまで聞いたものです。歌も楽しかっ  たけれど、レコードと一緒に送られてきたお話のテキストを読みなが  ら、まえだのおじさん(前田武彦さん)の素朴であたたかい語りを聞  くのが大好きでした。

 

●「東京こどもクラブ」とその仲間

 

  「東京こどもクラブ」というのは、一種のレコード付き絵本の頒布  会で、毎月、歌とお話の絵本と、絵本の歌とお話が収録されたレコー  ドが送られてきます。本の解説によると、「東京こどもクラブ」は、  幼児を対象とした視聴覚教育プログラムで、2-4才コースと5-7才コー  スがあり、それぞれ12ヶ月でコースが完了するようになっていました。

  うちには、5-7才コースが届いていましたが、祖母の住んでいる町に  引っ越した時に、やめてしまいました。レコードを聞かなくても、い  つでもお話を語ってくれて、楽しい歌を歌ってくれるおばあちゃんが  側にいるのですから。長いこと「東京こどもクラブ」のお世話になっ  ていたような記憶とは裏腹に、実際には、5回分しか持っていません。

  歌は、びんちゃん(楠トシエさん)、お話は、まえだのおじさん  (前田武彦さん)。絵本を開くと、「こぶとり」以外は、立原えりか  さんがお話の文章を書います。もちろん当時は、そんなことは知らな  かったのですが、今思うと、贅沢なことです。

  東京こどもクラブと似たようなレコードブックの頒布会は他にもあ  り、物置を探すと、「東京子どもクラブ」と一緒に「ドレミファブッ  ク」(世界文化社)と、レコード絵本<こどものくに>が出てきまし  た。やはり、「東京子どもクラブ」と同様に、良質で贅沢なものです。  いわさきちひろさん、武井武雄さん、鈴木義治さんの絵や、脚色が岸  田衿子さんだったり、おはなしに岸田今日子さん、樫山文恵さん、中  村メイ子さんと、子どもの本なのに手抜きのない、本物志向だったの  です。当時は、こういう良心的な知育系のレコード絵本が流行ってい  たのでしょうか。

       

●「東京こどもクラブ」はどこに?

 

  もちろん、現在は「東京こどもクラブ」も「ドレミファブック」も  絶版になっています。(※「ドレミファブック」は、CD付きの新版が  あるようです。)

  12月に「東京こどもクラブ」を書評に取り上げて以来、「東京こど  もクラブ」の情報を求めて、やってくる方が結構いるようです。メー  ルで問い合わせを受けたこともあります。同じ懐かしさを共有してい  るのだと思うと、不思議な気持ちです。「東京こどもクラブ」は、私  の宝物なので、もちろん手放すことはできませんが、オークションサ  イトでは、ときおり「東京こどもクラブ」や「ドレミファブック」が  出品されています。

  「東京こどもクラブ」はもう、思い出の中にしかないけれど、私に  とっては、CD付きの「ふるさとの民話」が、「東京こどもクラブ」の  大人版(子どもも勿論、楽しめます)のようで、とても楽しみです。  朗読も壇ふみさん、桂三枝さん、竹下景子さん、風間杜夫さん…と、  とても贅沢なのです。

  子供にとって、物語は、人の温もりとともに、両親や祖父母などの  肉声で聞くのが一番いいのでしょうが、「東京こどもクラブ」を経験  した私にとっては、「おはなし」がそばにある、ということが一番大  切なように思います。特に民話や昔話は、耳で聞くもの。耳から独特  のリズムを拾うものだと、そう思います。

  しかも、この「ふるさとの民話」を刊行した世界文化社が、「ドレ  ミファブック」の発行所だと知り、とても驚きました。いろいろな意  味で、「ふるさとの民話」は、子ども時代を追体験させてくれます。

                           

2003年1月

2002年03月05日(火) 『指輪物語』(その2)
2001年03月05日(月) 『黒祠の島』

お天気猫や

-- 2005年03月04日(金) --

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『冷酷な誘惑2 美しい標的』

先月読んで、まだ書いていなかった ハーレクインのリンダ、『流れ星に祈って』に続く、その後のお話。 といっても、前回の主人公たち、サラとロウムは終盤で登場するだけで、 こちらは、サラに振られた素敵なマックスが主人公。 そう、あの、全身全霊英国紳士でスキのない美男の マックスが、ついに人生のパートナーと出会うのだ。 リンダ得意のスピンアウト。

クレア・ウェストブルックが秘書をつとめる会社を 乗っ取るため、極秘の内部情報を引き出そうと 別人をよそおってクレアに「友達として」近づくマックス。 私たちにはバレバレなのだが、クレアはなかなか気づかず、 後半は裏切り行為に傷ついたクレアの心を 取り戻すため奮闘するマックスの正念場となる。

今回はいつになく、クレアとマックスそれぞれの家族も 細やかに描写されていて、なかなか興味深い。 美人の姉と社交的な母に幼い頃から引け目を感じて生きているクレア。 何があったというのではなく、性格の違いからとけこめない。 離婚も経験していて、女性としての人生にはかなり消極的。 しかし、クレアは、家族が本当にクレアを愛し心配していることを、 マックスとの付きあいによって実感してゆく。 マックスの家族についてはネタバレになるので、省略。

成長して家を出てからの家族との付きあいという、 やっかいでありながら切れない絆を、 クレアのように、パートナーとの出会いによって 変化させてゆけるのは、ある意味理想的かもしれない。

まあ、現実にはたいがい、逆の目に遭うのだけれど(笑) (マーズ)


『冷酷な誘惑2 美しい標的』リンダ・ハワード著 / 訳:岡 聖子 / ハーレクイン2004

2004年03月04日(木) 『宇宙の根っこにつながる瞑想法』
2003年03月04日(火) 「アカデミー賞−オスカーをめぐる26のエピソード」
2002年03月04日(月) 『指輪物語』(その1)

お天気猫や

-- 2005年03月01日(火) --

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☆ピーター・パンゲラン!その2「ネバーランド」

みなさんの中には、ピーターが 一ばん好きな人もいるでしょう。 ウェンディーが一ばん好きな人もいるでしょう。 でも、わたしは、おかあさんが、一ばん好きです。(引用)

と、サー・ジェームズ・バリは『ピーター・パン』で おおらかに告白している。

これに限らず、『ピーター・パン』は この、ものうげでやさしくてどこか頼りない、 ダーリング家のお母さんに捧げられているようなものだ。

なぜなんだろう。 数年前に読んで以来、ずっと不思議だった。 バリの人生についてはくわしくなかったし、 また、それほどくわしく知りたいわけでもなかったが。

ただ、気に掛かっていた。 その疑問は、『ネバーランド』の映画を見て、 ストンと納得できた、というのは言い過ぎだろうか。

ピーターのモデルになった子も含めて、 幼い子どもたちを抱えた貧しい未亡人と、売れっ子劇作家の出会い。 バリ自身の家庭は壊れてしまったけれど、 その一家を見守りつづけ、未亡人が病に倒れたあとも、 子どもたちの保護者でありつづけた。

映画でバリを主演したのは、ジョニー・デップ。 最後まで英国紳士にはとうとう見えなかったが、 定評あるコメディアンのセンスをしのぐほどの、 「静」の演技に感嘆した。 空想の場面で当たり役の海賊を熱演したり、 いつものデップらしさもあるのだが、基本は アクションのない演技がつづく。 お互いの気持ちを伝えあうわけでもなく、 ましてやそんなことが許される状況でもなく。 ただじっと愛する女性を、そばにいて見つめるまなざしが、 切なかった。

それは、ジプシー役で見せる、情熱を秘めたまなざしともちがう。 一方的ですらあるような、相手のすべてを受け入れる愛。 その想いが、はっきりと、動きのない演技から伝わる。

「あなたは疲れすぎている。休まなくては」 というようなことをシルヴィアに言っていたが、 どんな情熱的なことばより、それがしみこむあたり、 我が身が情けないのである。

ジョニー・デップも、いってみればピーター・パン的な 俳優である。その彼が見せた、大人の顔。 「大人」というのが結婚とか家庭を意味するものだけでは ないとわかっていても、ジョニー・デップがそのどちらをも 経験していると、わかっていても。

私がケンジントン公園のピーター・パン像をたずねたのは、 はじめてのロンドン旅行だった。 あの公園で、彼らは出会ったのだ。 養育係の犬、ナナのモデルを連れた小柄で少年のような劇作家と、 育ちざかりの子どもを抱え、生活に疲れた若い母親。

誰の心にもあるはずの「ネバーランド」。 大切な人が夢見る「ネバーランド」へ、ともに行きたいと願う。 そのチケットは、「幸せ」ではないのかもしれない。 それでも、ジョニーのまなざしは、何かをくれた。

胸のなかで、おとぎの島のロスト・ボーイズが叫んでいる。 皆インディアンの格好をして、火のそばで踊りながら。
「パンゲラン、ジョニー!パンゲラン!」

(マーズ)


映画「ネバーランド」 監督:マーク・フォースター / 主演:ジョニー・デップ、ケイト・ウィンスレット、フレディ・ハイモア / 2004アメリカ・イギリス

2003年03月01日(土) アカデミー賞 [作品賞]受賞リスト
2002年03月01日(金) 『ザ・ホテル』
2001年03月01日(木) 『ディズニー7つの法則』

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