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『きょうは、にぎやかですねぇ』 と、従業員に話し掛けながら、いかにもうれしそうに フロアを回っていた初老のフロア責任者のことを思い出した。 そこはホテルでこそなかったが、銀座の老舗専門店で、 "オランダの女王が来日しているから"、といった話題が、 商品にからんで従業員に通達される店であった。 『にぎやか』というのは、客が多いのではなく、 よく売れているということである。
ホテルにとって、たとえ、 本書で「ザ・ホテル」と呼ばれる ロンドンの老舗クラリッジスのような 国家元首やVIPが常客の最高級ホテルであっても、 ビジネスとしての成功は、名声にもとるわけではない。
ザ・ホテルのように、世界一のブランド力を 掲げたホテルであっても(その世界的地位について本書では ごく控えめにしか触れられていないが)、 過去の遺産にしがみつくだけではなく、 改善すべきところは改善し、収益をあげねばならない。 『競争相手に勝ちつづけなければならない』と 総支配人をして言わしめるのが、ホテルビジネスである。 そのために、日々、客よりも多いザ・ホテルの従業員すべてに たゆみない闘いが繰りひろげられ、進歩が要求される。 この本が求めたのは、その闘いのエッセンスでもある。
私はこういう、実録ものが好きな部類だ。 とうてい取材不可能とも思われるクラリッジスのような ホテルに5ヶ月間も滞在し、取材しながら執筆したという J・ロビンソンは、『マネー・ロンダリング』などの ベストセラーでも知られるアメリカ人作家。
彼の想像力による脚色は多少あるとしても、 ホテルの仕事にたずさわる人々を、まるで顔が浮かぶほどに 描き上げ、しかも私情や予断をはさまず、 ユーモラスに、語りすぎることなく、 どこか淡々と語り尽くしてゆく。 韓国の大統領一行に始まり、 大団円の、アラブ元首による史上類を見ないほど豪華な 女王陛下への答礼晩餐会でしめくくった腕前に、 何度もにっこりさせられた。 ※余談だが、ファンタジーものなどで女王が出てくる場面を 書く前に、この本を読んでおくといいかもしれない。
ジェフリー・ロビンソンをこの本の総支配人とするなら、 「ザ・ホテル」の総支配人は仏人のフランソワ・トゥザーン。 彼を筆頭に、国籍も多彩な人々が、英国的な伝統を 守りながら新しいホテルを築いている。 それこそ、まさに今の英国の姿ではないかと思ったりもする。 それは、あの社会の独特のムードのなかで、人種を問わず 自然に踏襲されていくマナーにも似ている。
トゥザーンは総支配人であるから、 ザ・ホテル内で起こるすべてに通じていることが要求される。 トゥザーンが魅力的でなければ、すべては始まらない。 ロビンソンがどのような経緯からこの執筆を思い立ったのかは 知る由もないが、おそらくトゥザーンを知ってから、 その背後に抱えられたザ・ホテルの裏側に興味をもったのでは ないだろうかと思う。 彼を知ったそのとき、本書の完成された姿も 見えていたにちがいない。
そしてこれは私の憶測なのだが、 朝5時に「シュレッデド・エッグ」なる、シェフも知らなかった アメリカの卵料理を所望し、それが部屋に運ばれてきたとき、 『これができるホテルは、たぶん世界でもここだけだね』(本文より) と相好を崩した名前のないアメリカ人客こそ、 作家本人だったのでは。
本書にはきら星のごときVIPが実名で登場するが、 ザ・ホテルの常客として、 英国人のロマンス作家、バーバラ・カートランドが 紹介されていたのも感慨深かった。 デームの称号を受けていた彼女は、ザ・ホテルのレストランに 毎週水曜日、予約があろうとなかろうと、最前列の最上席の ひとつを割り当てられていたという。 時移り、今その席に座るのは誰だろうか?
私がザ・ホテルの客になることはないだろう。 けれども、もしも人生が二度あれば、 英語をしっかり覚えてザ・ホテルに下っ端で入り、 上へとたたきあげてゆく、 そんな夢を見るのは楽しいかぎり。 かつて、銀座の老舗で働いた一年間を思い出しながら。 (マーズ)
『ザ・ホテル』 著者:ジェフリー・ロビンソン / 訳:春日倫子 / 出版社:文春文庫
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管理者:お天気猫や
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