浅間日記

2012年08月28日(火) 制御がきかなくなるほど肥大化したシステム

作家のミヒャエル・エンデの命日である。
一昨日の地方紙に出ていた。

代表作の「モモ」には時間泥棒が登場するが、
時間泥棒は、利益が出るから時間を銀行に預けなさい、
とそそのかすのである。

つまりエンデは、人々が人間らしさを損なう一端に、金融システムというものがありますよ、と警告しているのだ。

金融システムの破綻もまだ将来の出来事であった当時に、そう言っている。



没後17年を経て、私は思う。

人間らしさを損なうのは、「金融」システムではない。
金融の仕組みは、元々はきっと悪いことではない。

制御がきかなくなるほど肥大化したシステムにこそ注意が必要なのだ。

それは金融だけでなくあらゆる分野に適用され、
あらゆる国や人々に影響を及ぼす。

初めはとてもよいものに見える。
人間が豊かで利口になった気分がする。
経済効果もある。

だから、よくよく注意が必要だ。

繰り返すが、それはあらゆる分野で発生し、
ボーダーラインを超えた場合の
「人間らしい生き方を損なう」、という結末だけ共通している。

2008年08月28日(木) 人にものを説くときは
2006年08月28日(月) 自壊する母子家庭
2004年08月28日(土) 勝って嬉しい花いちもんめ



2012年08月26日(日) 経験と日常

Aの舞台の中日。
楽屋口で待つ。

開口一番、豪勢な食事をしたい、などという。
舞台がはねた際の、心境なのだろう。

興奮さめやらず日常にもどりたくない気分のAには可哀想であるが、
日常の波は容赦なく押し寄せてくるのだ。

かくしてAは、帰宅して、納豆ご飯と味噌汁を食べ、赤ん坊をなでて、
カーテンコールから2時間後には、嘆息しながら勉強机で粛々と宿題をするのであった。


こうした日常にもどれることをありがたく思ったほうがいいよ、と苦笑しながら言う。
戻れる日常をもたない人もいるだろうからね、と。

2010年08月26日(木) 
2006年08月26日(土) パッション



2012年08月23日(木) どちらも捨てがたく、なおざりにできない

つやつやに光ったピーマン、茄子、トマトが台所に並ぶ。

茄子は、万に一つの無駄がないということは周知の事実であるが、
ひとたび収穫すると、宵越ししたものはとたんに味が落ちる。
そうだから、是が非でもこの夕食にこのツヤツヤを胃袋まで運ばねばならなない。



かくして、夕陽が差し込む台所で、鼻歌まじりにガス台の前に立つ。

炒め物は高温が定石である。特に茄子は勢いが大切だ。

十分に煙の上がったフライパンにごま油を入れると香ばしい匂いに期待が高まる。
換気扇をつけて、いざ茄子を!というその時。

傍らのラジオから、「次はマーラー交響曲5番 第4楽章 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 指揮はレオナルドバーンスタインです」などと言うではないか!

私はカラヤンの指揮するのしか聴いたことがない。
そして、この曲は、今日みたいな見事な夕陽を見ながら聴くのが、最も美しいと、そう思っている。

聴きたい。じっと耳を傾けたい。
バーンスタインは、ウィーンフィルは、この繊細で美しい曲を、
どのように味付けするのだろうか。

しかし今、フライパンに茄子を投じれば、煮え立った油と茄子が爆竹のように暴れまくることになる。
その爆音の中で聴くことは、コンサートホールへ街宣車で乗り込むようなものだ。

調理を中断するか?
いや、ガスを止めて聴き入ってしまっては、夕食の時間に間に合わない。

美味い茄子か、マーラーか。
どちらも捨てがたいし、どちらも決してなおざりにできぬ。

何とかならないのか?
迷っている間にも、フライパンはさあどうぞとばかりに煙を上げ、ラジオから静かに曲は始まる。

煮物にすればよかった。
くつくつとおとなしく鍋で湯だってもらればよかった。
あるいは全く無音の、焼き茄子という手もあった。

マーボーナスの調理とマーラーは、あまりにも相性が悪い。
数日前の出来事である。

2010年08月23日(月) 現代戒老録その2
2007年08月23日(木) 
2006年08月23日(水) 安全と冷静
2005年08月23日(火) 



2012年08月22日(水)

厳しい残暑。

内陸部の、特にその中の盆地の暑さというのは過酷である。
それは、この信州においても例外ではない。

太陽の光はほとんど暴力的である。
熱射、という表現がぴたりとくる。

長袖を一枚もって、車で裏の亜高山帯へ逃げようか。
きっともう、秋の山野草が咲きはじめている頃だろう。

2011年08月22日(月) 
2005年08月22日(月) 無名で何が悪い
2004年08月22日(日) fado for climber



2012年08月20日(月) 情報依存社会 その2

滝を登ったY君の出来事は、Hも私も胸を痛める出来事であった。

同時によくわかったことは、インターネットのコミュニティの在り様だ。

私達は幸い、相当の精度で事実とそれに伴う状況の進行を知ることができていた。

そうだから、掲示板にアレコレ罵詈雑言を書き立てたり、自分のHPやツイッターでしたり顔で意見する人達は本当のことを何も知らないこと、

そして、そんな事実と異なる情報を元に人間の集団がいかに怒りの感情を増幅させていくのか、

そんなことを、よく知ることができた。



インターネットのコミュニティは、人間の感情を増幅させる装置だ。
そのように機能する場合がある。非常に頻繁に。

人の世の出来事というのは、0か1かであらわせるようなものではない。
その複雑さは、ネットを通じて不特定多数の人に伝えることはできないし、
そうする必要もない。



怨念のようなエネルギーは、まるでイナゴの大群のように
一つのお題を食い荒らし、丸坊主になった段階でまた次のお題に移っていく。


2010年08月20日(金) 現代戒老録
2009年08月20日(木) 台所ですることは
2007年08月20日(月) 未来は過去になる
2006年08月20日(日) 急速冷凍、急速解凍
2005年08月20日(土) 何者かになりたい症候群 政治編
2004年08月20日(金) 「うちの社長は駄目社長」と客に言う社員



2012年08月19日(日)

サイトウキネンフェスティバル。
恒例の夏のお楽しみである。
もっとも、メインコンサートのチケットはとうてい手に入らないが。

例年と違うのは、Aがささやかながら公演に参加する、ということだ。
演目によっては、子どもの合唱団員が募集されるのである。

かくして、この夏はにわかステージママとして、
送迎と食事の用意と体調管理に明け暮れている。

とにもかくにも初日を終えて、やれやれの一日。

2009年08月19日(水) 存在感のない投票用紙
2006年08月19日(土) テンカウントをダウンして待つ
2004年08月19日(木) 教育クライシス



2012年08月18日(土)

オリンピックももう終わった。

開催中、この世界的熱狂の意味は何か、と色々考えた。
その手掛かりは「都市で開催されること」にある。

オリンピックを招致するのは国ではない。都市である。
そうだから、これは「都市礼賛」の祭りなのだ。

都市というのは、人工的に整備された空間、施設、システムである。
人間もその一部として存在する。

こうしたものを信じ続け、維持していくための装置として、
オリンピックがある。

だから、スポーツを通じて、
人間によって人間の運動機能がどこまで高められるか、
そうしたことが評価される。

2005年08月18日(木) 



2012年08月13日(月) 情報依存社会

信仰の滝を登ったY君の、その後の小さな記事。

このことは、私とHの心をずいぶんと痛めた出来事だった。
同時に、ネットのコミュニケーションについて色々とわかった出来事でもあった。

ネット依存症という表現はすでに生まれているけれど、むしろ
情報依存症と言った方が適切ではないか、と思うのだ。

我々は、いったい、情報を多く持つ方が、持たない方よりも賢く、スマートで、
物事が上手くいくと、いつから思うようになったのだろう。

*

就職情報は、一部上場企業へ就職希望者を殺到させ、
一流企業は就職難、中小企業や町工場は人材不足、といったアンバランスを生み出した。

結婚情報によって、生涯の伴侶選びは「物件探し」に成り果てた。
もっと良い人があるのではないかという未練が結論を先延ばしにし、
自分の人生に他者を受け入れるという覚悟と決意も消えうせた。

不動産情報は、いとも簡単に人を土地の結びつきから引き離し、
その土地はどういう土地であるかは、坪単価と日当りと利便性だけで語られるようになった。
土地に誰も責任をもたなくなった結果、コミュニティは脆弱になった。



情報は、人間が人間の都合で切り取った、物事の一片に過ぎない。
もちろんそれは、何かの判断に役立つことはある。

けれども、物事の判断や感情の在り様において最も拠り所にするべきなのは、自分自身の直接的な経験であるべきで、
例え百万件のデータベースを前にしても、私達は自分でたどりついた唯一つの解に、自信と誇りをわすれてはならないと思うのだ。

2007年08月13日(月) 夏記録1:Who are you?
2006年08月13日(日) 見解



2012年08月07日(火)

赤子を連れて、上京。
明日、明後日は、一日中、母子分離である。

まったく気が向かない。
しかし、飯の種にしている資格を維持するためにはどうしても行かねばならない。

震災後の東京で、
−というよりは次の震災の前の東京でと言ったほうがいいかもしれない−、
乳飲み子と離れ離れになるのが恐ろしいのだ。

2007年08月07日(火) 抑制する思い・鈍化する気持ち
2006年08月07日(月) 夏の山みち



2012年08月01日(水) セロ弾きのゴーシュ

長岡輝子の朗読による、「セロ弾きのゴーシュ」は、秀逸である。
賢治の故郷の言葉である東北弁の語り口が、物語と声を一体的なものにし、自分で読むよりもはるかに、この名作のデティールを味わうことができる。


そうした理由で、改めて思うところを記す。



セロ弾きのゴーシュは、弱者救済の物語だ。
それも、弱い者が、自分よりもさらに弱い者を助けることによって、
生きる力を得ていく物語だ。

村はずれのこわれかけた水車小屋に、ゴーシュはたった一人で住んでいる。
そして、町の活動写真館の楽団、金星音楽団で、チェロを弾く係をしている。

ゴーシュの弾くチェロには、およそ表情というものが無い。
チェロもずいぶん古びていて、弦もいささかいかれている。

そうだから、楽団の演奏の足を引っ張って、練習の時には、楽長にこっぴどく叱られ、嫌味を言われる。

町の中には他に素人の楽団があり、自分の楽団が彼らの演奏と同じような評価を得ることは我慢ならないという楽長にとって、彼は厄介者なのだ。



孤独なゴーシュは、心がささくれ立っている。
夜更けにひとり、水車小屋でチェロを弾く。

そこへまぬけで慇懃無礼な猫がやってくる。
ゴーシュの畑のトマトを引っこ抜いて、土産ですと言い、
聴いてやるからトロイメライを引いてみろ、という。

ゴーシュのささくれだった心は、このまぬけで無礼な猫に腹を立て、
腹いせに意地悪をする。

インドの虎狩りという曲を大音響で弾き、猫の下でマッチを擦り、
猫は、舌を風車のようにぐるぐるまわして、ほうほうの体で出ていく。

ささくれ立った心を目の前で再確認したような後味の悪さのまま、彼は眠りに就く。



翌日の夜は、カッコーがやってくる。
この辺りから、物語はチェロのレッスンの様相を帯びてくる。
ただしそれは、主人公のゴーシュにはわからないほど、優しく密やかに、であるが。

ゴーシュの奏でるカッコーのメロディを、そういう風ではないと指摘し、
一万回弾けば一万回違うカッコーになるのだ、と説く。

初めはただ鳴くだけじゃないかと馬鹿にして笑っていたゴーシュも、
カッコーに乞われて繰り返し繰り返し弾くうちに、これはカッコーの言っていることの方が本当かもしれない、と思うようになる。

楽長から、およそ表情というものがない、と酷評されたゴーシュのメロディに、風がふきはじめたのだ。

けれども結局しまいには、もう一回、もう一回としつこく頼むカッコーに、ゴーシュはうるさい、鳥め!と激怒し、カッコーはガラス窓にひどく体をぶつけ、血まみれになって逃げ帰って行く。

猫や鳥は、ゴーシュよりも弱い立場なのだ。
ゴーシュを怒らせれば、ひどい目に会う。



自分より弱い者との関わりを通じて少しずつ心がほぐれてきたゴーシュは、次の夜には、来訪者を待つようになる。

もっとも、今度は相手にせず初めから追い払ってやろうという腹であるが。

今度の来訪者である子だぬきは、何と、ゴーシュさんはいい人だという。
「お父さんが、ゴーシュさんはいい人だから行って習えって言ったよ」、と。

楽団で厄介者扱いされ、水車小屋にたった一人で暮らす孤独なゴーシュは、いい人だ、と言われるのである。

ようしやってやろうじゃないか、とゴーシュは子だぬきに乞われるまま、太鼓の練習に付き合うのである。

ここで再び、チェロのレッスンである。
ゴーシュは小さい子だぬきから自分のテンポの足りないところを愛嬌たっぷりに指摘される。



おしまいの来訪者は、ねずみの親子である。

二匹の用向きといえば、聴いてやるから弾いてみろと言うのでもなく、レッスンをつけてくれというのでもなく、病を治してくれ、というものだ。

ゴーシュのチェロを聴いた動物達は、身体の不調が治るのだという評判をきいて、訪れたというわけである。

母親ねずみはゴーシュをセンセイ、と呼び、子ねずみの病を治してくれるように懇願する。

自分の音楽には−自分には−、他の弱者を救う力がある。
そのことが、ゴーシュにチェロを弾く−生きる−希望をもたらす。

治してやるぞ、弾いてやるぞと、ゴーシュは子ねずみをチェロの中に入れてやり、子ねずみを治すために一生懸命、祈りを込めて弾くのである。



かくして、ゴーシュのチェロは表情とテンポと祈りを得て、
コンサートでは聴衆や、ゴーシュを厄介者扱いしていた楽団員達をうならせることになる。


孤独でささくれ立った存在から、他者と不器用な関わりをもつことへ、
さらには他者を救い、役に立つ喜びに至るゴーシュの心の成長は、
自分より弱いものとともにある。

この物語には、ゴーシュの音楽的な技術向上と一体的に、そのことが美しく描かれている。

2007年08月01日(水) 左の意味
2006年08月01日(火) 
2005年08月01日(月) 情報公開
2004年08月01日(日) 水難事故多発


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