日帰り上京。 会議というのは短くやるに越したことはないが、 それにしても10分というのはあまりに形式的にすぎないだろうか、という会議。
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小沢一郎と管直人の対決の構図を描く民主党は、 国民の視線をくぎ付けにしたい意図が見え見えである。
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若者のエネルギーは、何かから逃げるために放たれる。 顕在的であれ、潜在的であれ、その美しさは未来への逃避となって表れる。
年をとると、そうはいかない。 誰も追いかけたり、干渉してくれないからだ。
而して、年寄りのエネルギー−もはやそれは執着とよばれる−は、 誰かを引き寄せ、関心を集めるために使われる。
民主党の様は、私にはまったくそんな感じにみえる。
否、社会全体がそんなふうにみえる。
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個人が年をとるのならば、社会全体も高齢化の傾向を帯びる。 そのことに私たちは注意を払わねばならない。
社会全体に加齢臭が漂い、怒りっぽくなり、ミスが多くなり、 大事なことをすぐに忘れるようになる。
損得に敏感になり、ケチくさく、ひがみっぽくなり、常に自分が一番でなければ気が済まず、他人の評判に一喜一憂する。
いまや、自分の道をみつめて一心に生きるような初々しさや、 自分を上回るものに憧れたり、何かを大胆に大好きになったり、 矛盾や普遍性を自分のものとして熟考する姿は、社会に存在し得ない。 そう諦念すべきである。
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けれども年寄りというのは見苦しいだけではない。 それまでの実績によっては、未来にとって十分に尊いものになることもできる。 敬虔で、思慮深く、目下の者を思いやり、老人にしかできないまなざしで、未来へ目を向けることができる。
果たして私達のこの「高齢化社会」は、それが可能だろうか。 成熟という名の冠にふさわしい、知恵と経験を重ねてきただろうか。
2007年08月23日(木) 2006年08月23日(水) 安全と冷静 2005年08月23日(火)
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