浅間日記

2008年06月30日(月)

手仕事は、無理をすると必ず失敗する。
そういう訳で、えいやと漬けた梅をダメにしてしまった。
白いカビが浮いているビンの前で、がっくりと肩を落とす。

かといって今年はもう梅干をやらないというのも気がおさまらないので、
再チャレンジすることにした。

漬け樽を焼酎で入念に消毒し、
梅は買ってきてすぐの状態のいいうちに処理する。

基本に忠実に、初心に帰って、丁寧に工程をこなす。
目に付く場所において、しょっちゅう状態を観察する。
さらに、今度は頼むよと、心の中で梅に念を送る。

2007年06月30日(土) アブダカタブラ
2006年06月30日(金) 果肉か仁か
2004年06月30日(水) 流通の話



2008年06月27日(金) 裁かれざるを得ない状況の重さ

数日前のこと。ラジオで一瞬耳にしたニュースなので、詳細は定かでない。

長野県内で、裁判員制度の理解と普及のために、
関係者が動物に扮した寸劇形式で講座を行った、というニュース。

寸劇のストーリーは、ほぼ「かちかち山」で、畑の作物を荒らし、ばあさんを傷つけた狸の罪をどう裁くか、というお題だそうである。



一瞬耳を疑った。動物に扮するだって?
意味が全く理解できない。

非常識という言い回しを私は好まないが、
裁判員を、被告人を、法治国家であることを、あまりに馬鹿にしている。



私達が裁く−裁くことを強制される−対象は、狸などではない。
人である。
私が、ある人を存在させていてよいかどうか、判断するのである。



罪を犯した、またはその疑いをかけられた人というのは、人間社会の淵に立たされている。
法律の生贄としてその自意識は虚ろであり、なすすべもない。

この、裁かれざるを得ない状況の重さ、人工的に作り出す暗闇こそが、
罪を裁くことに他ならないのだと思う。

それがなければ、死刑覚悟の犯罪がきっと増えるだろう。

動物に扮して阿呆な寸劇をしたところで、
裁かれざるを得ない状況の重さは、その欠片も伝わらない。
それどころか、逆効果である。法治はその重みを失う。



改めて思う。
「かちかち山」で普及しなければ国民が理解できない制度など、やめるべきだ。

あまりに未成熟な社会で、人が人を裁くことの危うさを問う。

2007年06月27日(水) 兎を追う男
2006年06月27日(火) 
2005年06月27日(月) 睡眠の話
2004年06月27日(日) berry berry and berry



2008年06月24日(火) その他のメニュー

何事もなく日々が過ぎている。
本日も、ただただ赤ん坊を撫で、寝顔を眺めている。

今日は洗濯もしないことにした。
掃除も明日でよいだろう。

「今日やらないこと」を決めてしまうと、その他のメニューの中から何か一つは必ずできる。
それも、わりと満足な出来で完遂することができるし、よい一日になる。

それが、赤ん坊との暮らしである。

仕事も、そんなもんじゃないかという気もする。
ひょっとしたら、ダイヤモンド社の雑誌か何かに、書いてあるかもしれない。

2004年06月24日(木) お世継ぎを!その2



2008年06月22日(日) 人生の長さ

信州の四季折々はすっかり自分のものになってしまい、
今はとりたてて言及することもない。
昨年と同じように樹木は青く茂り、花は彩を添え、
鳥は歌い、春ゼミは森の中で静かな喧騒を続ける。

繰り返される自然のリズム、緩やかな変化、万物の気配の中に身をおいていると、
自分の人生の残された時間がどれぐらいか、なんとなく見えてくる。

それだけの時間はしっかり生きなければいけないし、
その地点にぴったりと着地できることこそが、安心であり幸福なのだと思う。


この残された時間の感覚でさえ、日々の生き様によって常に変化する。

長生きしたければ長生きするように毎日を生きればよいし、
フツウでよければフツウになるように生きればいいのである。

わかっているのは、ただそれが−天命が−在るということだけである。


2006年06月22日(木) 
2005年06月22日(水) 表敬訪問



2008年06月21日(土) 世界経絡

ドル安と中東産油国というタイトルの記事。

原油の取引というのは、原則的に米ドルで行われている。
だから、ドルが暴落すると、利益が目減りする。
もう少しいうと、既にあるドル資産も目減りする。

この目減り分を、原油価格の上昇にのせているそうである。
そして、ドルが暴落した原因は、
今更言うまでもなく、サブプライムローン問題の影響である。

こうしたドルとのしがらみを絶つために、複数通貨のバスケットと自国通貨の関係を一定にしているクウェートのような産油国も現れた。
最大の産油国であるサウジアラビアは、対ドル固定レートを採用している。

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究理事の立花亨という人は、
サウジアラビアが為替制度を見直したら、さらにドル安がすすむだろうと言っている。
産油国と米ドルは、からみついた蔦のように一体となっている。



投資家だけが原油価格をつりあげているのだと思っていたら、
どうもそうではないらしい。

米国で、誰かが住宅ローンを焦げ付かせると、
この極東の島国で暮らす私が、明日のパンに困るのである。

まったく、この因果関係は、管理可能な範囲を超えている。
つま先を刺激したら胃腸がよくなる、というぐらい不可解だ。

それとも、鍼灸師みたいに、世界経済のツボを熟知する人ならば、
押しどころがわかるのだろうか。

2006年06月21日(水) midsummer day
2005年06月21日(火) 大人はわかっちゃいけない



2008年06月20日(金) ひねもす水無月

仕事から解き放たれ、予算や工程や納期と無縁の日々。

実にすばらしいことである。
人々が社会活動している間、こっちはひねもす赤ん坊を撫でていればよい。
申し訳ないが、実にすばらしいことである。

さらに、嫁さんと子どもを里へ帰した亭主でさえ、
こうもやりたい放題ではないだろうというような、怠惰な生活。

衣類やオムツは、物干しから直接もぎとって替え、
食べ物はテーブルの上に四六時中出してあり、時々手でつまみ食いもする。
本や手紙や赤ん坊のための物は、全てワンムーブで手に届く場所に出しっぱなしとする。
これにAの描いた絵やHの山関係のやりっ放しが合わさって、
−それを定位置に戻すというサービスを私はもうしないので−
居間はぐちゃぐちゃである。


幼い我が子をひねもす抱いて暮らすのは、今生ではこれが最後になるだろう。
ふっくらした手足や頬や可愛い泣き声の、次はもうないだろう。

だから、この子が乳児でいる一分一秒が、私にはいとおしく、
まともな家事を放棄してでも、しっかり記憶に留めておきたいのである。

2004年06月20日(日) いい塩梅だ



2008年06月17日(火) 環境全体主義

日本経団連が、地球温暖化の原因となる温室効果ガス削減にむけて、エネルギー効率が高い家電製品、自動車への買い替え促進など家庭の省エネ徹底を求める提言を発表した。というニュース。
提言の中では「国民は省エネ型の生活様式に変革していく必要がある」などと指摘している。


またしても「国民」である。
そもそも私達は、商売人の寄り合いなどから、それがどんなものであれ、
自分のライフスタイルを変えるよう強要される覚えはない。

この提言では、家電の買い替えを促しているようだけれど、
それは、冷え込んだ国内需要を何とかするための詭弁であろう、
とも言いたくなる。



かようにして、洞爺湖サミットを目前に、環境問題への盛り上がりは尋常でない。
とりわけ、国民意識を高揚「させねばならない」という気配が濃厚である。

何か変だと思っていたけれど、件の経団連の提言に至り、
今や、はっきりおかしいと思っている。



それはなぜか。

よいことと信じて誰も疑うこともしないスローガンというのは、
それが何であれ、大変危険なことなのである。

私だって、物や資源を大事にする生活に異論はない。
しかしそのことは、道徳観とは切り離しておくべきだ。

違うというのならば、なぜ、環境に配慮した−ようにみえる−生活が、
「善」であるのか、誰か説明してほしい。
当然、「善とは何であるか」とセットでお願いしたい。



誰にかみついているのか自分でもわからないが、
そっちがそうならこっちも言わせてもらおうというつもりで書く。

この国の環境問題は、地球規模以前にやるべきことが山積みであり、
子孫の時代への影響以前に、今現在の私たちの生命を脅かしている。

江東区豊洲や茨城県の神栖市では、深刻な土壌汚染が未解決である。
神栖市では猛烈な油臭のなかで暮らしている人がいて、発生源も特定できていない。
住民の土地は不動産としての財産価値を失い、銀行から金も借りれない。

こんなお粗末な、明らかに経済活動が原因の前近代的な「公害問題」が、
まだこの国にはうようよしているのである。

そしてもう一つ。
フェルシルトの不法投棄問題を起こした石原産業が、化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律によって年間30t以上製造する場合は国への届出が義務付けられている毒性の高い物質「ホスゲン」の大量製造を無届けで行っていたことが明らかになった。

企業の環境に対する不正も同様である。
環境問題は私たちには分かりにくく、面白くもない。
偽装の牛肉屋は廃業に追い込まれても、こうした企業は操業が許される。

さらに、もう一つ。
先日、三浦雄一郎氏のチョモランマ登頂がニュースとなっていた。
この登頂には、何億円もの金がかかっているのらしい。
「第三の極」とよばれるほどデリケートな環境であるヒマラヤで、
ドヤドヤと荷物を上げ、二酸化炭素を撒き散らし、キムチ鍋を食べたりステーキを食べたりしたのらしい。

ヒマラヤはピクニックの場所ではない。
自然へのインパクトを無視した登山をして、日本人の偉業みたいに言っている。



こういうことを棚上げにして、産業界が「国民の努力を」などと
いらぬ道徳観を押し付けるのは、全くフェアでないと思うのだ。

2007年06月17日(日) 
2006年06月17日(土) 人生最後のワーク
2004年06月17日(木) 珍プレー好プレー



2008年06月14日(土) 生きるのは僕だ

文芸春秋7月号の「国民皆保険が崩壊する日」という記事。
後期高齢者医療制度の、巧妙な仕組みについて取材している。

厚生労働省みたいに歴史の長い省庁を成分分析すると、様々な風土が検出される。
そして、どうも昨今は旧内務省的な成分の比率が高くなっているのではないか、という気がしてならない。



国民の健康維持は、国家の財政負担と考えられている。
国民はそういう厄介者だから、大きな負担になる前に、
強制的に腹囲を測ったり、血圧を測ったり国民の身体を管理しようとする。
あろうことか、予防的治療と称して投薬や手術さえ施そうとする。

余計なお世話である。
人は健康のみに生きるにあらず、である。

人の健康に関わる様々なバイタルデータや知見は、医学の専門領域の常識かもしれないが、
専門外の私達がそれにとらわれて生きていく義理は無い。
言うことを聞かないとペナルティーを課すなど論外であり、人権侵害である。



もちろんそれは、保険制度が非人道的なシステムになってよいということではない。
マイケル・ムーアの映画「シッコ」に出てくるアメリカのように、
病の人を冷たくあしらうような社会が、よいわけがない。

医療は、人々が困った時に手を差し伸べるから、仁術なのであり、
自分が困るから人々へ強制的に何かをしようというのは、
それは、映画「カッコーの巣の上で」のロボトミー手術と相違ない。



人はいかに生きるかである。制度なんかで脅したってだめだ。
生きるのは私だ。

2007年06月14日(木) 君臨すれども統治せず 日本版
2005年06月14日(火) 玉石NPO
2004年06月14日(月) 三菱ブランドの夏大根



2008年06月13日(金) NOBODY KNOWS

「誰でもよい誰か」への暴力のことで、マスコミは大賑わいである。

莫迦らしい、と一人ごつ。

政治家が国民の皆さんと言う場合のそれこそが、
誰でもよい誰かではないか。

誰でもよい誰かから税金を巻き上げ、
誰でもよい誰かへの支援を無理やり打ち切り、
誰でもよい誰かへ毒リンゴのような牛肉を喰わせ、
息も吸うなといわんばかりに生活を制限する。

人を困窮させ、制限し、自尊心を奪い、緩やかに生命を奪う。
彼らの心は少しも痛まない。
せいぜい、誰でもよい誰かが、我が政権のために負担があったと思うだけだ。

こういうことを、誰でも良い誰かへの暴力と言わずして、何というのだ。



国民が政治家にとって誰でも良い誰かでなくなる瞬間があることはある。
選挙期間中である。
腰をかがめ、目を見つめ、私にはあなたこそが必要です、などという。



投網にかけた誰でもよい誰かである魚群を効率よく捕らえるために、
存在を管理し、生活を管理し、身体を管理し、内心を管理するための
監視社会をつくりあげようとしている。



国民がセレブセレブと馬鹿のように騒ぎ、有名になることに対して貪欲になるのは
−たとえそれが「ワイドショーを独占」という稚拙な目標だとしても−
この、誰でも良い誰かという扱いから抜け出したいという願望なのである。

2007年06月13日(水) 29 39 ver.1.2
2006年06月13日(火) 人生最後のアジテーション
2004年06月13日(日) テレビ市場開放



2008年06月11日(水) それを手放してはいけない

プレカリアートの憂愁、と題した辺見庸の記事。以下抜粋。

「これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそお
う世間。もともと貧窮し、こころが病むように社会をしつらえながら、貧乏
し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のせいのようにいう政治。
働く者たちの怒りや不満がその場その場できれいに分断、孤立化させられ、
いつのまにか雲散霧消してしまうまか不思議。そうした時代を、戦後とおな
じ分だけ老いた私がこれまでに見たことがあるのか、と問うのだ。云々」



私達の社会は、こころが病むようにしつらえられている。
私は真に、様々な事件に絡めて、このことを実感せずにはいられない。



気をつけたほうがいい。
家族、友人、知人。
当たり前のように自分を支えているいくばくかの関わりは、
いつ何時それを巧妙に奪われ、分断、孤立化されるかわからない。

気がつけば自分のまわりには、「誰でもよい誰か」しかいなくなっている。



確固たる良識は、案外たやすく引っくり返る。
信じられない残酷な行為を、いつ自分がやらないとは言えない。

何故ならば、私達は既に四六時中、残酷な行為の前例に晒され、
詳細な情報を与えられ、「それは庶民の中に起こり得ること」と刷り込まれている。

それは既に、政治家や宇宙飛行士の生き様よりも、
はるかに私達の近くに忍び寄っている。



もちろん、自分の確固たる良識を損なわずにいる方法はいくらでもある。

その一つは、自分のまわりの縁ある人を心配し、時には説教をくれ、
時には仕方ないかと黙って従い、時には不条理な怒りをぶつけ、
時には許し、大切に必要として生きていくことだ。

おそらく最もつきなみで、面倒くさく、今風に言えば「ウザい」ことだろう。
しかしながら、「こころが病むように社会をしつらえて」いる何ものかに
力強く立ち向かえるものはこれしかないのだ。
私はそう思う。

2004年06月11日(金) お世継ぎを!



2008年06月10日(火) 賞賛と悔しさ

今年、Hはまた、ヒマラヤへ出かけるんである。

このことについての、ちょっとした出来事。
予定していた山とそのルートが、つい最近登頂されてしまったんである。
−それも彼らが見込んでいた方法よりスマートな方法で−、

だから、Hは内心穏やかではないんである。



登山の成果というのは、まるで何かの研究成果のように競われる。
つまり、「その困難をクリアした最初であること」に評価が集まる。

藤原正彦氏がその著書の中で、証明されていない定理が、他の数学者によって先に解き明かされてしまった時の、なんとも言えない賞賛と悔しさの入り混じった感情について、著書の中でユーモラスに書いていた。

Hは、自分にはその気持ちが実によく分ると言っていた。
そして、今まさにその感情の渦中にいるのだろう。

そのことを私に指摘されたくないのか、
表向きは「寝取られたならそれでもよし」とでもいうような涼しい顔をして、
でもしかし、始終考え事をしているのである。

2007年06月10日(日) 争点以前
2005年06月10日(金) 時代の相場感
2004年06月10日(木) ヨン様か寅さんか



2008年06月07日(土) 弱肉強食か共生か

水上勉著「ブンナよ木から下りてこい」を読む。Aに読んでやるつもりで借りてきたもの。

読了し、ちょっと困ってしまう。
果たしてこの物語をAに読んでやってよいものだろうか。
もちろん、弱肉強食の理を無視した子どもだましの芝居よりはましだが、これはあまりに―作品が作られた時代ならともかくとして―今の時代には酷な話のように思われる。

毎日のように流される残忍な死のニュースは、少しずつ私達や子ども達の死生観を蝕んでいる。
―件の物語で、毎日のように仲間やが弱々しい悲鳴とともに鳶や蛇に連れ去られ、蛙のブンナが「いつか自分もそうなるに違いない」と思うように。

弱肉強食は確かに自然のひとつの側面かもしれないけれど、「食われなかった今日を生きる喜び」など、少なくとも人間社会では、あってはならない惨めな感情のように思う。

2007年06月07日(木) 曼荼羅と混沌
2004年06月07日(月) 生きていくことを妨げるメディアというもの


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